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2013/02/19

一言芳談 九十

   九十

 

 法然上人の云、道心をば、ぬすみて發(おこ)したるがよきなり。

 

〇道心をばぬすみて、元曉(ぐわんげう)法師の持犯要記(ぢぼんえうき)にも内淨外染(ないじやうげせん)をほめられたり。古人眞實に道心ありしは、狂せるがごとくして、名利(みやうり)をいとひ、内行(ないぎやう)まことありけり。

 

[やぶちゃん注:「元曉」(六一七年~六八六年)「げんげう(げんぎょう)」とも読み、新羅(しらぎ)の華厳僧で新羅浄土教の先駆者。俗姓は薛、名は誓幢・新幢、新羅の押梁郡(現在の慶尚北道)に生まれ、興輪寺の法蔵に華厳を学び、六五〇年に渡唐を図るも、高句麗軍のために失敗、六六一年に再び試みたが、その途次、溜まり水を飲んだところがその溜まっていたものが人の頭蓋骨であったことを知った瞬間、「真理は遠くにあるものではない。枕元で甘く飲めた水が、起きた後に骸骨に溜まっていたことを知った時、気に障り吐きたくなった。だが、世の中への認識は心にこそある」と悟って帰った。その後は華厳学の研究に専念し、二四〇巻もの著作を成した。ある日、元曉が街で「誰許沒柯斧 我斫支天柱」という歌を歌った。誰も意味が分からなかったが、武烈王だけは意味が分かって未亡人だった瑤石宮の公主を嫁がせた。その後、元曉は「小姓居士」と名を変え、芸人が与えた瓠(ひさご)に華厳経の「一体無碍人」から採った「無碍」という名を付けて、それをぶら下げて行脚しては歌を作り、仏教を庶民に普及させた。弟子審祥が日本に華厳宗を伝えたため、東大寺を始めとする南都諸寺院で持て囃されるようになり、高山寺にある「華厳縁起」には元暁にまつわる様々な伝説が語られている、という(以上はウィキ元暁を参照したが、一部、表現を勝手に書き換えた箇所がある)。

「持犯要記」正しくは「菩薩戒本持犯要記」。

「内淨外染」本邦では激しい弾圧を受け続けた日蓮宗の不受不施派などに於いて、身心二元論的な信仰の在り方を述べるのに用いられているようである。即ち、非合法故に外見からの身体は他宗他派に染まっているので外染と言うも、内心は不受不施を堅く信じてやまない故に内浄という。管見した部分的な「菩薩戒本持犯要記」の記載の中には「内淨外染」なり文字列は見当たらなかったが、注の後半から見ても、ここは非常に広義な意で、他者や世間の外界と接する外見の身体は、現実に置かれているところの、よんどころない思想や教派や習俗に染まってしまって気違い染みているように振る舞いながら(まさに前段で私が言った「佯狂」である)、その実、内心は常に南無阿弥陀仏の教えを信じて透明に浄化して澄み渡っている、といった意味合いと思われる。

「内行」外に顕わさず、内に秘めて行ずること。]

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