一言芳談 八十九
八十九
下津(しもつ)村、慈阿彌陀佛云く、竹原聖(たけはらひじり)がよき也。遠山(とほやま)の紅葉(もみぢ)、野辺(のべ)の一樹(いちじゆ)などの樣に、人目にたつはあしきなり。
〇竹原聖、竹の林は人目たつまじければ、たゞ人知れぬといふ心なり。(句解)
〇人目にたつ、人のうやまひをうけて、自然(じねん)に名聞(みやうもん)になるなり。異をあらはして、衆(しゆ)をまどはすをいましめ給へり。古德も、狂(きやう)をあげ、實をかくせと教へられたり。
[やぶちゃん注:「下津村」旧和歌山県海草郡下津町、現在の海南市下津町。熊野古道の往来地。Ⅱの大橋氏の注に、下津浦『のある紀伊国浜南荘は、藤原摂関領であったが、久安二年(一一四六)高野山の金剛心院に修理料として寄進された』とある。
「慈阿彌陀」不詳。
「竹原聖」とは、本言説のパラドックスとして如何にも風流な響きを残す名ではないか。……私の亡き母は婚姻して「藪野聖子」となったが、母はしばしば幼少期と同じく「藪野聖」と自分でも書き、人もかく「せいちゃん」と呼んだ。しかれば母はその名も正しく藪野の聖=竹原の聖であったのであった――母の生涯は――まさに――竹林の藪の――在野にあって名を隠した理想の――聖テレジア(母の若き日の洗礼名)であったのであった……
「古德」昔の、徳を積んだ人。いにしえの聖(ひじり)。
「たゞ人知れぬといふ心なり」Ⅱの大橋氏注の引用では『たゞ知れぬと云心也』とあって「人」がない。
「狂をあげ」狂人のふりをすること。佯狂(ようきょう)である。]