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2013/02/26

耳囊 卷之六 吝嗇翁迷心の事

 

 吝嗇翁迷心の事

 

 文化の元年四月の頃、赤城下(あかぎした)に翁ありしが、子もなく獨住(ひとりずまひ)にて、聊(いささか)の商ひをなして、聊の利を以てたつきを送りしが、あくまで嗇心(しよくしん)にて、朝夕の食事をも思ふ儘にせず、明暮(あけくれ)稼(かせぎ)て商ひせしが、聊風の心ちとて商ひにも不出(いでず)、あたりのもの尋問(たづねと)へば、心あしきと而已(のみ)こたへしに、或日朝近所の者尋しに、竈(かまど)の前に臥して死したりしを見出し、店内(たなうち)のもの呼(よび)集めて立入(たちいり)見しに、誠に天命を終りしや、疵(きず)痛(いたみ)とふもあらず、病死しけるに相違なきが、兩手にてひとつの財布を握り居(ゐる)を見れば、金銀を入置(いれおき)しと見えたり。兼(かね)てしわきものなれば、死に金(がね)とて貯へけるやと、是をとり改めんとするに、中々放れざれば、あたりの寺僧をまねきて、これを放さんと經など讀(よん)でとらんとすれども放さず。所役人(ところやくにん)も、彼(かれ)が精心の凝り候所(ところ)、聊の金に心殘りしならん、怖(おそろ)しとて、其儘に葬(はうむり)けると也。金(きん)ならば、拾兩にも不及(およばざる)程のやうに見へしと、其あたりの人かたりぬ。

 

□やぶちゃん注
○前項連関:自らの財産を惜しげもなく民草に分け与えた鈴木石橋に対し、真逆の守銭奴老人の「死ンデモ財布ヲ放シマセンデシタ」譚で連関。

・「文化の元年四月」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、三か月前の極めてホットなニュースである。

・「吝嗇翁」「りんしよくをう(りんしょくおう)」と読んで居よう。

・「赤城下」東京都新宿区赤城下町(グーグル・マップ・データ)として名が残り、新宿区の北東部に位置する。

・「とふもみえず」「とふ」は「等」であろう。正しい表記は「とう」である。

・「死に金」は自分が死んだときの費用として蓄えておく金の謂いであるが、結局、本話の最後では、死体がその全額を握ったまま手放さないから、握らせたままに葬っってしまう訳であるから、死に金の本来の謂いである、蓄えるばかりで活用されない金の意も響かせてくる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 守銭奴院吝嗇翁の死しても金への迷妄の消えざりし事

 

 文化の元年は四月の頃のことである。

 内藤新宿の先、赤城下町(あかぎしたまち)に一人の老人があった。

 子もおらず、独り暮らしにて、聊かの行商をなしては、聊かの利を得て生計(たつき)と致いて御座ったが、この老人、あくまで吝嗇(りんしょく)にて、朝夕の食事をもろくに致さず、日がな一日、商いに歩いては稼ぐことのみを、これ、生き甲斐に致いておるようで御座った。

 ところが、先だっての四月の、とある日のこと、

「……聊か……風邪の気味でのぅ……」

とて、商いにも出でずなったと申す。

 老人にしては珍しきことなれば、よほど調子の悪いことならんと、辺りの者二、三人も、尋ね問うてはみたものの、

「……気持ちが……悪い……」

とのみ答えるばかりにて御座ったと申す。

 さても数日後の朝方、やはり近所の者が覗いてみたところが、入口の脇の竈(かまど)の前に、突っ伏して死んで御座るのを見出だしによって、長屋うちの者を呼び集めて、中へと入って見たところ――これ、正真正銘、天寿を全うしたものか――取り立てて不審な外傷や圧迫痕なども、これ、なく――病死致いたに相違なく見えたと申す。

 ところが、その遺体、両手で一つの財布をしっかりと握り絞めておった。

 その握っておるものをようく、見てみると、金銀を入れ置いたものと見えた。

 かねてより、非常な吝(けち)と知られた老人で御座ったれば、その場にあった一人が、

「……己れの葬儀の死金(しにがね)としてでも、貯えて御座ったものかのう?……」

と、それを取って改めんとした。

――ところが……

……老人……

……遺体となっておりながら……

……これ……

……なかなか……

……財布を……

……放さぬ――

 さればこそ、と、何とのう、気味悪うなった長屋の衆が、近所の寺の僧を呼んで参り、これを放させようと、経なんどを誦してもろうたりしたものの……

……いっかな……

……放さぬ――

 さればとよ、と、不審なる死体の仕儀にて御座ったればこそ、かくかくの不思議これあり、とかの地の係りのお役人へも申し上げたところが、お役人も、

「……かの守銭奴の老人の……その執心の霊魂の……これ……凝り固まって御座ったところの成す技にてもあろう……聊かの金にさえ……心残りが生じたものか……実(げ)に怖ろしき……執念じゃのぅ!……」

とのことなればこそ、もう、金銀を握らせたそのままに、葬ったと申す。……

 

「……金(きん)ならば、そうさ、十両にも遙かに及ばざるほどの額のようにしか見へませなんだ。……」

とは、その辺りに住んで御座った御仁が、語った話で御座る。

 

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