金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 杉本觀音
杉本觀音
金澤より、また鎌倉へもどる道に、基氏の屋敷跡、右の方に杉本(すぎもと)の觀音、大藏山(そうさん)といふ、坂東巡禮の第一番札所なり。こゝに滑(なめり)川あり。靑砥左衞門(あをとさへもん)の錢(ぜに)をおとせし古跡なり。また、杉本の東(ひがし)に淨妙寺(じやうめうじ)、鎌倉五山の内(うち)、禪宗の大寺(てら)也。稻荷山(とうかさん)といふ。こゝに直義(たゞよし)の木像あり。
〽狂 富(とみ)ならで
第一ばんの
すぎもとはあたり
札所(ふだしよ)のくわん
おんに
こそ
旅人
「儂(わし)は、この間、妻子(さいし)にわかれ、力(ちから)がおちて、いつそのこと坊主にならうと思つて、頭を半分そりかけたが、いやいや、坊主にならずとも、これなりで西國巡禮でもしよふと思つて出かけましたが、かはつたことには、とかく毎日ためして見るに、晝前(ひるまへ)はすること、なすこと、間がよくて、晝過ぎからは、どうも仕合(しあ)はせがわるいは、どうしたことだと、よくよくかんがへて見たら、その筈(はづ)のことがある。儂の頭(あたま)が、右の鬢先(びんさき)からそりおとして、半分坊主になりかゝつてやめたものだから、頭が半分しろく、半分くろいものだから、六曜(よう)の内の先勝日(せんしやうにち)といふものになつたからのことさ。なんと、ものはあらそわれぬものじやないかへ。」
「向かふへゆく年增(としま)の尻(しり)つきが、むつちりとして、どうか、鹽梅(あんばい)がよさそうだ。どふぞ、この順禮に御報謝(ほうしや)してくださるまいか。」
[やぶちゃん注:「基氏の屋敷」公方屋敷跡。浄妙寺東、明王院との間の現在の小字で芝野(しばの)の辺りを指すとされる。「新編鎌倉志卷之二」には、ここを足利尊氏の旧宅とし、子の基氏を始めとする関東管領が屋敷としたとする。
「杉本の觀音、大藏山(そうさん)といふ」「新編鎌倉志卷之二」には「大藏山(だいざうさん)」とルビし、現在も「だいぞうさん」と呼称しているものと思われる。
「靑砥左衞門の錢をおとせし古跡」現在、浄妙寺前の滑川(この辺りから上流は胡桃川と呼ぶ)の浄明寺三丁目に架かる橋を青砥橋と呼んで(地名は漢字表記が寺名とは異なる)、この辺りを青砥藤綱の屋敷跡と比定している。彼の有名な滑川を通って銭十文を落とし、従者に命じて銭五十文で松明を買って探させた逸話は、現在のもっと下流の東勝寺橋辺りとも言われるが、そもそも青砥藤綱自身の実在が怪しいので比定地はどこでもよいという気が私はしている。
「淨妙寺、鎌倉五山の内、禪宗の大寺也。稻荷山といふ」鶴岡氏は山号を「稻荷山」を「とうりさん」と判読されているが、正しく「とうか」と書いてあるように私には読める。癖のある崩しの「か」と「り」は実際、判読し難い。
「こゝに直義の木像あり」「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」「新編相模国風土記稿」総てに、開山塔(祖塔)である光明院に源(足利)直義像があるとするのであるが、現存しないと思われる。足利直義は浄妙寺境内の西北にあった延福寺(廃寺)に兄尊氏によって幽閉され、文和元・正平七年(一三五二)年に病死した(兄による毒殺ともされる)。直義の五輪塔と呼ばれるものが浄妙寺境内に現存する。
「六曜」正しい歴史的仮名遣は「ろくえう」。暦注のうち、先勝・友引・先負(せんぶ)・仏滅・大安・赤口(しゃっこう)の現在も使われている六種。古く中国で時刻の吉凶占いとされたが、十四世紀の鎌倉末から室町にかけて日本に伝来したとされ、その名称や解釈・順序も少しずつ変化し、日の吉凶占いとして取り入れられるようになった。
「先勝日」六曜の日の吉凶占いの一種。「先んずれば即ち勝つ」の意。万事、急ぐことが良いとされて、「午前中は吉、午後二時より六時までは凶」とされる。]