北條九代記 尼御臺政子御鞠を見給ふ 付 判官知康酔狂
○尼御臺政子御鞠を見給ふ 付 判官知康酔狂
同十月下旬、鶴ヶ岡八幡宮の廻廊八足(やつあし)の門、造立供養あり。賴家卿は只、鞠足(きくそく)の遊興に心を蕩(とろか)し身を窶(やつ)し、紀内所行景を世にもてはやし給ふ事又更に類(たぐひ)なし。新玉(あらたま)の春立つ空に返へりて、建仁二年正月より御所の御鞠(まり)は愈(いよいよ)興じて盛(さかり)なり。同夏のころ、尼御臺所は賴家卿の御所に入り給ひ、仰出されけるやう、「紀内所行景とやらん、鞠藝(きくげい)上足(そく)の曲(きよく)を御覽ずべし」とありければ、此會は適(たまたま)千載の一遇たりとて、上下、興に入り給ふ。賴家卿を初(はじめ)て行景以下、此所(こゝ)を晴(はれ)と出(いで)立ち給ひ、日比(ひごろ)に替りて、今日は殊更、御鞠の色定(さだか)に員(かず)も上(あが)らせ給ひけり。日、既に暮れて、燈火を取り、酒宴に及び、白拍子微妙(みめう)とて、舞の上手を召(めし)寄せ、判官知康、鼓を打て舞(まは)せければ、満座、興に催され、數巡(すじゆん)、酒、既に酣(たけなは)なり。知康、銚子を取て、御前に進み、北條五郎時連(ときつら)に酒を勸め、酒狂の餘(あまり)に申しけるやう、「如何に、北條五郎は容儀美(うるは)しく進退閑雅(しとやか)に、諸人に勝れて見えたるに、實名(じつみやう)の甚だ下劣に聞えたり、時連の連の字は錢(ぜに)を貫く貫(つら)の義歟(か)。貫之は歌仙なり。その面影を羨む歟。列々椿(つらつらつばき)の列(つら)ならば、竝木(なみき)の椿を好む義なり。是も萬葉の言の葉なり。旁々(かたがた)以て心得難し。この名、然るべからず、將軍に申して改めらるべし」と笑ひけるを、尼御臺所聞給ひ、「知康、興じて申せし歟。甚だ奇怪の癡者(しれもの)なり。雜興(ざきよう)を申すも人にこそよるべけれ往昔(そのかみ)、木曾義仲が法佳寺殿を襲ひ奉りて、合戰を致しける時、月卿雲客(げつけいうんかく)、各々見苦しき恥に及びしも、その元は知康が所爲(しよゐ)なりてき。又、義經に一味して、關東を亡(ほろぼ)さんと謀(はかり)しを故賴朝卿深く憤り給ひて、解官追放せらるべき由奏聞を經られし者ぞかし。賴家卿、是等の非道あるを忘れて、親しく近づけらるゝ故に、かゝる事を云散(いひちら)しけり。偏(ひとへ)に右大將家亡後(ぼうご)の御本意(ほんい)に背(そむ)くにあらずや」と、御氣色、殊の外におはせしかば、知康深く恐れ奉り、暫く籠居して出でざりけり。昔、蜀の張奉(ちやうほう)と云ふ者、呉の國に使節として行(ゆき)到る。薛綜(せつそう)と云ふ者、出でてもてなすに、姓字(しやうじ)を以て嘲りて曰く、「犬あるときんば、獨(おほいぬ)たり、犬なきときんば、蜀(にはとり)なり。目を横にし、身を勾(かゞ)めて、蟲、其腹に入る」と云ひしに、張奉、更に對(こたふ)る事能はず、と云へり。蓋(けだし)、是、蜀の字を以て國主を嘲る心なり。呉蜀、爭ひ起りける事は、是等や基(もとゐ)となりにけん。戲謔の詞(ことば)は事に害ありと云へり。この故に、君子は假初(かりそめ)にも戲(たはぶれ)を以て人を嘲らず。知康が戲は誠に小人(せうじん)の行跡(かうせき)かなと心ある輩は彈指(つまはじき)して疎(うと)みけり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十七の建仁元(一二〇一)年十月二十七日、同二(一二〇二)年正月十日・十二日、六月二十五日・二十六日などに基づく。
「今日は殊更、御鞠の色定に員も上らせ給ひけり」普段から顰蹙を買ってばかりおられる頼家卿は、実母であらせられる尼御台様の前にていいところを見せ申し上げなさろうと、この日は殊更、御鞠の色もくっきりと艶やかなものを選ばれ、場庭に出でた行景も、殊の外、美事なる蹴鞠を披露したによって、その得点も普段では見られぬ完璧なもので御座った。
「白拍子微妙」(生没年未詳)は右兵衛尉藤原為成の娘であったが、建久年間に父為成が讒言のために京から奥州へ追放され、母は嘆きのあまり死去、七歳で孤児となった。建仁二(一二〇二)年三月に頼家が比企能員の邸で花見を催した際に召されて、頼家の前で舞を舞ったが、その席で微妙は、父の行方を捜すため、舞の修行を積んで東国へ赴いた事を涙ながらに頼家に訴えた。それを聞いた者は皆、涙して、早速に奥州へ使者を派遣する事が決められた(「吾妻鏡」建仁二年三月八日の条)。その一週間後、政子が将軍御所を訪れ、微妙の舞を鑑賞、その後、微妙は政子の邸に引き取られている(同三月十五日の条)。これは、頼朝と同じく漁色家であった頼家が微妙に手を出すのを未然に防ぐためと考えられる。このシークエンスはこの間にあって、同年八月五日には奥州へ派遣していた探索の使者が帰参、微妙の父が既に死去していた事実を告げられる。世を儚んだ微妙はその十日後、父の菩提を弔うために栄西の禅坊で出家を遂げ、法名を持蓮とした。政子は微妙を哀れみ、深沢の里の辺りに居所を与えている。この前後に起こった彼女に纏わるゴシップについては次の「白拍子微妙尼に成る 付 古郡保忠租逹房を打擲す」を参照のこと。
・「判官知康」平知康(生没年不詳)は貴族、壱岐守平知親の子。検非違使左衛門尉。鼓の名手であったことから鼓判官(つづみのほうがん)と呼ばれた。元は北面武士で後白河院の信任篤く、院の近臣となった。寿永二(一一八三)年七月に平家が都落ちをし、木曾義仲が入京すると、幾度か法皇方交渉役として義仲を訪れている。「平家物語」では、彼が義仲軍の軍兵の乱暴狼藉を鎮めるように義仲に要請したところ、義仲から「和殿(わどの)が鼓判官といふは萬(よろづ)の人に打たれたか張られたか」と尋ねられて面食らい、法皇に義仲討伐を進言したと記されている。知康は院御所の法住寺殿に兵を集め、公然と義仲に対決姿勢を示し、法皇方は義仲に洛外退去を要求、応じねば追討の宣旨を下すと通告した。怒った義仲は寿永二(一一八三)年十一月十九日、知康が防戦の指揮を執っていた法住寺殿を攻め、法皇方は完膚なきまでに敗れ、後白河院は義仲に捕らえられて幽閉、知康も解官された(法住寺合戦)。後、元暦二(一一八五)年に検非違使に復官し、在京中の源義経に接近するも、義経が頼朝と不和となって都落ちすると同時に、知康も再び解官されてしまう。翌元暦三(一一八六)年、その弁明のために鎌倉へ下向した際、第二代将軍頼家の蹴鞠相手として目を掛けられて留め置かれて側近となっていた。なお、その十七年後の建仁三(一二〇三)年に頼家が追放されて伊豆国修禅寺に幽閉されると、知康は帰洛した(以上はウィキの「平知康」を参照した)。履歴と言い、衒学的な発言や、そそこから彷彿としてくる厭らしい人品と言い、如何にも癖のある男である。生年は不詳ながら、この当時、有に四十代を遙かに越えていたと思われる。
・「北條五郎時連」北条時政三男で、北条政子や義時の異母弟であった鎌倉幕府初代連署として知られる北条時房(安元元(一一七五)年~延応二(一二四〇)年)の初名。名は既出であるが、注してこなかったので、ここで注す。文治五(一一八九)年、三浦義連を烏帽子親に元服し、時連と名乗る。同年、奥州合戦に従軍。建久一〇(一一九九)年に源頼朝が死去し、頼家が将軍に就任するとその側近として随従し、頼家が重用した比企能員の息子達とも気脈を通じていたが、比企氏討伐の折には兄義時と共に迅速な討伐を積極的に主張したことから、実は彼は北条氏一門のためのスパイとしての役割を果たしていたと推定されている。建仁二(一二〇二)年に時房と改名しており、以下に示す通り、「吾妻鏡」では、この話の一件によって頼家から改名を提言され改名したと載る。建仁三(一二〇三)年に比企能員の変によって頼家は追放されるが、時房はこれに連座せず、北条氏の一門として次第に重きをなすようになってゆく。承元四(一二一〇)年、政所別当に就任、建保七(一二一九)年の実朝暗殺の直後には上洛して朝廷と交渉を行った末、摂家将軍となる三寅(藤原頼経)を連れて鎌倉へ帰還、承久三(一二二一)年の承久の乱では泰時とともに東海道を進軍して上洛、泰時とともに京に留まって初代六波羅探題南方となっている。元仁元(一二二四)年に兄義時が死去すると、先に鎌倉へ帰還していた執権泰時の招聘を受けて帰鎌、泰時を補佐するために請われて同年に初代連署に就任している(以上はウィキの「北条時房」に拠った)。この当時は、満二十七歳であった。
「列々椿の列ならば」「並んで生い茂った椿の木」の「つら」という意味ならば。
「竝木の椿」如何にも平凡な何処にでもある、見どころのない椿の木。
「是も萬葉の言の葉なり」「万葉集」巻一の五四番歌、
大宝元年辛丑(しんちう)秋九月、太上天皇(おほきすめらみこと)の紀伊國に幸(いでま)しし時の歌
右の一首は坂門人足(さかとのひとたり)
巨勢山(こせやま)のつらつら椿つらつらに見つつ思(しの)はな巨勢の春野を
を指す。これは紀の牟婁(むろ)の湯(現在の白浜温泉)に持統天皇が御幸した際に、随行した坂門人足が詠んだもの。
●「大宝元年」は西暦七〇一年。
●「巨勢山」現在の奈良県西部御所(ごせ)市古瀬付近にある山。歌枕。
●「つらつら椿」白文の万葉仮名では「列〻椿 都良〻〻尒」とあり、講談社文庫版「万葉集」の中西進氏注によれば、『原文の字のごとく花の点々と葉間に咲く姿による名。本来「つば木」は「つら木」か。「つらつら」を「つばら」という。今のツバキとも山茶花ともいう。中国の椿は別物。』とあるが、ここでの知康は無論、今の椿の意で採っている。この「つら」の音の畳み掛けは、一種の言霊で、言祝ぎの謂いを持っているようである。
●「つらつらに」よく。つくづくと。
●「思はな」御幸は秋であるから巨勢山に連なり咲く椿のさまを想像して言祝いでいるのである。
「旁々以て心得難し」時連は美形であるのに、「連(つら)」という名は、あろうことか、銭を貫く「貫(つら)」の意……まあ、尤も、かの紀「貫」之は歌仙として有名なれば、貴族歌人のかの名声を羨んで、あやかろうとでも思うたものか……いやいや、それとも「つらつら椿」……かの「列(つら)」の意とならば……これまた、どうにも奇っ怪至極……平々凡々たる、見どころもなき椿を、敢えて好む……という意となる。……まあ、しかし、これもまた、「万葉集」の中にある和歌の言の葉では御座るが、の……さても武門の誉れの美青年が……やれ、銭緡(ぜにさし)だの……やれ、文弱歌仙貫之だの……やれ、凡なる椿が好きだの……やれ、「万葉集」だのと申すは……これ、どれもこれも心得難い、と言うのである。如何にも嫌味でペダンチックそのものである。
『……この名、然るべからず、將軍に申して改めらるべし」と笑ひけるを、尼御臺所聞給ひ、「知康、興じて申せし歟……』の部分、その宴席でのシークエンスとして臨場感のある描かれ方がなされているが、実際には、政子の台詞は、翌日に帰った政子の、自邸での場面になっている。筆者の、このカップリングは美事である。以下、「吾妻鏡」の建仁二(一二〇二)年六月二十五日と二十六日の二日間を続けて見よう。
〇原文
廿五日戊戌。陰。尼御臺所入御左金吾御所。是御鞠會雖爲連日事。依未覽行景已下上足也。此會適可爲千載一遇之間。上下入興。而夕立降。遺恨之處。即屬晴。然而樹下滂沱。尤爲其煩。爰壹岐判官知康解直垂帷等。取此水。時逸興也。人感之。申尅。被始御鞠。左金吾。伯耆少將。北條五郎。六位進。紀内。細野兵衛尉。稻木五郎。冨部五郎。比企彌四郎。大輔房源性。加賀房義印。各相替立。立員三百六十也。臨昏黒。事訖。於東北御所有勸盃。及數巡。召舞女微妙。有舞曲。知康候鼓役。酒客皆酣。知康進御前。取銚子勸酒於北條五郎時連。此間。酒狂之餘。知康云。北條五郎者。云容儀。云進退。可謂拔群處。實名太下劣也。時連之連字者。貫錢貨儀歟。貫之依爲哥仙。訪其芳躅歟。旁不可然。早可改名之由。將軍直可被仰之云々。全可改連字之旨。北條被諾申之。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿五日戊戌。陰(くも)る。尼御臺所、左金吾の御所へ入御す。是れ、御鞠の會連日の事たりと雖も、未だ行景已下の上足(じやうそく)を覽ざるに依つてなり。此の會、適(たまたま)千載一遇たるべきの間、上下、興に入る。而るに夕立降り、遺恨の處、即ち、晴れに屬す。然れども、樹下の滂沱(ぼうだ)、尤も其の煩ひたり。爰に壹岐判官(いきのほうがん)知康、直垂(ひたたれ)・帷(かたびら)等を解き、此の水を取る。時の逸興なり。人、之を感ず。申の尅、御鞠を始めらる。左金吾・伯耆少將・北條五郎・六位進(ろくいのしん)・紀内・細野兵衛尉・稻木五郎・冨部五郎・比企彌四郎・大輔房源性(たいふばうげんしやう)・加賀房義印(ぎいん)、各(おのおの)相ひ替りて立つ。立員(たちかず)三百六十なり。昏黑(こんこく)に臨みて、事(こと)訖んぬ。東北の御所に於いて勸盃(けんぱい)有り。數巡に及ぶ。舞女微妙を召し、舞曲有り。知康、鼓の役に候ず。酒客、皆、酣(たけなは)なり。知康、御前に進み、銚子を取り、酒を北條五郎時連に勸む。此の間、酒狂の餘りに、知康、云はく、
「北條五郎は、容儀と云ひ、進退と云ひ、拔群と謂ひつべき處、實名、太(はなは)だ下劣なり。時連の連の字は、錢貨を貫く儀か。貫之哥仙たるに依つて、其の芳躅(はうちよく)を訪(とぶら)ふか。旁(かたがた)然るべからず。早く改名すべきの由、將軍、直(ぢき)に之を仰せらるべし。」
と云々。
全く、連の字を改むべきの旨、北條、之を諾し申さる。
以下、語注を附す。
●「樹下の滂沱」蹴鞠をする場庭の木の下の水溜まり。諸本は「滂沱」を「滂池」とするが、誤字と採った。
●「爰に壹岐判官知康、直垂・帷等を解き、此の水を取る」知康は、着ていた直垂と帷子などを脱ぐと、それを水溜りに置き懸けて、その水を吸わせて取り除いたのである。
●「申の尅」午後四時頃。
●「伯耆少將」藤原清基。以下、幾人かを示す。「六位進」盛景。前皇后宮少進。詳細不詳。●「立員」蹴鞠の蹴り数であろうか。「たちかず」と訓示じたが、諸本は「立」を衍字と考えているらしい。
●「芳躅」の「躅」は足跡の意で、よい行跡のこと。古人の行跡や事跡を敬っていう語。
〇原文
廿六日己亥。陰。尼御臺所令還給。昨日儀。雖似有興。知康成獨歩之思。太奇恠也。伊豫守義仲襲法住寺殿。依致合戰。卿相雲客及恥辱。其根元。起於知康凶害也。又同意義經朝臣。欲亡關東之間。先人殊令憤給。可被解官追放之旨。被經奏聞訖。而今金吾忘彼先非。被免昵近。背亡者御本意之由。有御氣色云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿六日己亥。陰り。尼御臺所、還らしめ給ふ。
「昨日の儀、興有るに似たりと雖も、知康、獨歩の思を成し、太だ奇恠なり。伊豫守義仲、法住寺殿を襲ひ、合戰を致すに依つて、卿相雲客(けいしやううんかく)、恥辱に及ぶ。其の根元は、知康の凶害に於いて起こるなり。又、義經、朝臣に同意し、關東を亡ぼさんと欲するの間、先人、殊に憤らしめ給ひ、解官追放せらるべきの旨、奏聞を經(へ)られ訖んぬ。而るに今、金吾、彼(か)の先非を忘れ、昵近(ぢつきん)を免(ゆる)さる。亡者(まうじや)の御本意に背く。」
の由、御氣色有りと云々。
「昔、蜀の張奉と云ふ者、呉の國に使節として行到る。薛綜と云ふ者、出でてもてなすに……」以下の話は「三国志」の「呉志」の「第八 薛綜伝」に載る故事。但し、これには前段があり、その場で張奉が呉の尚書(皇帝への上奏を取り扱う役職)にあった人物の姓名を分解して意地悪い解釈をしてからかったのに反撃したのがこれで、「蜀」の字は「犬」(けものへん)が居ると「獨」――さるくいざる(猿食い猿:猿を食う猿の一種で常に独居し叫び声も一声という。他に「獨」には、子孫のない者などの意もあるから極めて不吉非礼である。)――であり、犬が居ないと「蜀」(とうまる:大型の鶏の一種。蜀鶏。また「蜀」の原義は毛虫や青虫でもある。)――である。「蜀」とは、「目」を邪まにも殊更に横にし、身を醜く「句(かが)」めて、その腹中には「虫」がさえ居ると答えた。答えに窮した張奉が「では呉とは何か」と問われると、「口」がなければ「天」になり、「口」があると「呉」で、万邦に君臨して天子の都である、と答えたという(以上は、個人サイト「極私的三國志」の「三國志 余話〇四」の「揶揄」や綿貫明恆氏の「文人閑居して文字に遊ぶ 第六回(1)」等の記載を参考にさせて戴いた)。]
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