一言芳談 九十八
九十八
宝幢院本願(ほうだうゐんのほんぐわん)云、むかしの上人は、一期(いちご)道心の有無を沙汰しき。次世(つぎのよ)の上人は法文を相談す。當世の上人は合戰物語(かせんものがたり)云々。
〇宝幢院本願、宝幢院は高野山にあり。本願上人は寛泉房(くわんせんばう)の事か。叡山の西塔をも宝幢院といふ。
〇沙汰、すなをあらひいだすがごとく、たがひにいふて、よく義理をつくるを、さたといふなり。
[やぶちゃん注:前段を補強するための同内容の再話。最後の「合戰物語云々」がスパイスとして利いている。
「宝幢院本願」Ⅱの大橋氏注に、諸資料の証左を掲げられた上で、『高野山宝幢院(現在は廃寺)を指すらしい』と推定され、『「本願」は中世の高野山では念仏行者を総称した語。高野山宝幢院の本願上人ということになるが、誰を指すか未詳』とされている。「標注」の「寛泉房」なり人物は、調べてみたところ、「法然上人行状絵図」の第四十八巻に、まさに高野山宝幢院の上人として登場することから、以上の大橋氏の推定の強力な証左の一つになる(大橋氏は同書の第九巻を揚げておられるが、こちらは示されておられない)。以下、ウィキの「空阿弥陀仏」の注5に載せる該当部分の説話を恣意的に正字化して孫引きしておく(但し、ここでは本願上人は話柄の主体者ではない)。
高野山寶幢院に、寛泉房といへるたとき上人ありき。彼舍弟、天王寺に住しけるが、あるとき天狗になやまさるゝ事ありけり。かの天狗は、天王寺第一の唱導、念佛勸進のひじり、東門の阿闍梨なりける。託していはく、われはこれ東門の阿闍梨なり。邪見をおこすゆへに、この異道に墮せり。われ在生の時おもひき。我はこれ智者なり。空阿彌陀佛は愚人なり。我手の小指をもて、なお彼人に比すべからずと。しかるに彼空阿彌陀佛は、如説に修行して、すでに輪廻をまぬかれて、はやく往生を得たり。我はこの邪見によりて、惡道に墮し、なを生死にとゞまる。後悔千萬、うらやましきことかぎりなしとてさめざめとぞなきける。
なお、ここに登場する「空阿彌陀仏」(くうあみだぶつ 久寿二(一一五五)年~安貞二(一二二八)年)は、引用元に『かつて延暦寺の僧であったが、比叡山を下りた後は京都に向かい、そこで法然上人に弟子入りして専修念仏に励むようになったとされる。修行生活に関しては清貧な態度を貫き、経典も読まずにひたすら称名念仏するのみであった。また、極楽の「七重宝樹の風の響き」や「八功徳池の波の音」を想像させるとして風鈴の音を愛していたことも有名で、あちこちの道場で人々から尊敬され』、『法然上人の死後も活動を積極的に行ったが、比叡山延暦寺が専修念仏停止の強訴を朝廷に起こしたことをきっかけに、』嘉禄三(一二二七)年七月に、隆寛・幸西の二人の僧とともに『流罪に処されることとなった(嘉禄の法難)』但し、『彼は、流罪先の薩摩へ赴く前に入滅したとされている』とある。『法性寺の空阿弥陀仏は法然上人から「源空は智徳をもて人を化するなを不足なり。法性寺の空阿彌陀佛は愚痴』『なれども、念佛の大先達としてあまねく化導ひろし。我もし人身うけば大愚痴の身となり、念佛勤行の人たらん」と常に評されていたとされる。法性寺の空阿弥陀仏の方も法然上人を仏として崇敬し、画家藤原信実に法然上人像を描かせ、その上人像を本尊として飾り、念仏を行っていた』ともある。なお、本「一言芳談」で多出する明遍は、同じく「空阿彌陀仏」の号を持つが別人で、両者を区別するに当たって、この空阿弥陀仏を指すに際し、「法性寺の空阿彌陀仏」と呼ぶ例が見られる、ともある。
「合戰物語(かせんものがたり)」ルビはⅢに拠った。Ⅰ・Ⅱにルビはなく、Ⅲでは御覧の通り促音「つ」が表記されていない。]

