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2013/02/25

耳嚢 巻之六 威德繼嗣を設る事

 威德繼嗣を設る事

 

 野州鹿沼在石橋村(かぬまざいいしばしむら)に、富農四郎兵衞といふものありて、質朴なるもの故、奇特の取計ひもありて、領主戸田家より名字(みやうじ)ゆるして鈴木四郎兵衞と名乘(なのり)、耕作の外、商ひなどして豐饒(ふねう)にくらしけるが、中年までも子といふものなく、妾(めかけ)を需(もとめ)て千計なせど其望を得ざれば、四郎兵衞つくづく思ふに、かく富(とみ)、また心に懸(かか)る事なけれど、百年の後、他人に金銀財寶讓らんも心ゆかざる事なり、とても他人え讓る事ならば、一人へ讓らんよりは多人數(たにんず)へわけ讓らんこそ、天道(てんだう)にもかなひなんと思ひたちて、野州の賤民よろしからぬ風俗ありて、妻懷胎なせば、出産の子惣領は育て、其餘は間引(まびく)とか、またもどすなど唱(となへ)、産家(うぶや)にて殺す事をなしぬ。これを救ひて生育なさんと、寛政の子年(ねどし)までに、四百人程を尋(たづね)搜して救ひしと也。其頃子なければ、少しのゆかりより養子なして、右養子は醫師を業(なりはひ)とせしが、不計(はからざる)に四郎兵衞も實子出産して、文化元年に十一歳になりける。彼(か)子を生育せざるの賤民を救ふ事は、懷胎を聞(きか)ば手當なし、出生すれば又手當なすといふ事、その雜費も夥しきを不厭(いとはず)して、思ひ立(たつ)どをりなしけるが、耕作に利を得、商賣に德ありて彌々富饒に暮し、當時其養子の住居とも三ケ所にて、何れも榮へける由。生(しやう)を好むの天意にもかなひけるや、書物抔を好み、聖堂へも出(いで)、林(はやし)祭主もしれるものゝ由。予が許へ來る元卓(げんたく)生(せい)のかたりける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:清心の感応譚から誠心の人徳譚で連関。

・「威德繼嗣を設る事」は「いとくけいしをまうくること」と読む。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「陰德繼嗣」となっており、こちらの方が主人公の施した慈善事業の内容を考える時には、より自然ではある。

・「野州鹿沼在石橋村」現在の栃木県鹿沼市石橋町。日光例幣使(れいへいし)街道(家康没後に東照宮に幣帛を奉献するための勅使である日光例幣使が通った道)沿いの村。

・「領主戸田家」宇都宮藩城主戸田家。安永三(一七七四)年からの初代藩主戸田忠寛(ただとお)に始まる。前半部の記載はこの忠寛の代のことと考えられ、「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、本話執筆当時(本文後半部の時)は忠寛の長男で文化六(一八〇九)年から就任した第二代藩主戸田忠翰(ただなか)の代であったと思われる。但し、主人公が亡くなった文化十二(一八一五)年(次注参照)当時は忠翰次男の第三代藩主忠延の時であった。

・「鈴木四郎兵衞」儒者鈴木石橋(せっきょう 宝暦四(一七五四)年~文化十二(一八一五)年)として知られた人物。下野国鹿沼の人で昌平黌に学び、帰郷して私塾麗沢之舎(れいたくのや)を開き、後、宇都宮藩儒生となった(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。岩波版長谷川氏注に『鹿沼宿本陣の家に生まれ』とあり、また底本の鈴木氏注に三村竹清氏の以下の注を引く(恣意的に正字化し、幾つかの語に読みを振った上、句読点も追加変更、後に簡単な注を附した)。『名は之德、字は澤民、号は石橋、老(おい)て閑翁といふ。天明の凶歉(きようけん)に方(あた)り、大(おほい)に救濟に盡(つく)す。最も三禮に精通し、深夜圖説の著あり、晩年、心を易理に潛め、周易象儀(しやうぎ)二十卷を著す。藩主、禮を厚うして城中に延(まね)き、講筵(かうえん)を開く。文化十二年二月六十二歳を以て沒す。蒲生君平(がまふくんぺい)は實に其門より出たり。』

●「凶歉」凶作。「歉」は穀物が実らない意。

●「三禮」天神・地祇・人鬼を祭る三つの儀式。

●「深夜圖説」不詳。

●「周易象儀」講談社「日本人名大辞典」には「周易象義」と表記。

●「蒲生君平」(明和五(一七六八)年~文化一〇(一八一三)年は、同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」の一人に数えられる儒学者・尊王論者・海防論者。下野国宇都宮新石町(現在の栃木県宇都宮市小幡)生。父は町人で油屋と農業を営んでいた。参照したウィキの「蒲生君平」には、昌平黌で学んだ鹿沼の儒学者鈴木石橋(二十九歳)の麗澤舎に入塾(十五歳)、『毎日鹿沼まで三里の道を往復する。黒川の氾濫で橋が流されても素裸になって渡河し、そのまま着物と下駄を頭の上に乗せて褌ひとつで鹿沼宿の中を塾まで歩いて狂人と笑われるなど生来の奇行ぶりを発揮したが、師・石橋は君平の人柄をこよなく愛した』と、本話の主人公石橋の愛弟子であったことが窺える。

・「産家」産屋であろう。出産の穢れを避けるために特別に設えた出産用の小屋や装置。先の遁世の夫婦笑談の事の「産籠」の私の注を参照されたい。

・「寛政の子年」寛政四(一七九二)年壬子(みずのえね)。

・「林祭主」林大学頭。「祭主」は学制の長官のこと。「卷之六」の執筆推定下限の文化元(一八〇四)年の頃は林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。

・「元卓」与住元卓。「卷之一 人の精力しるしある事」に初出する人物。根岸家の親類筋で出入りの町医師。根岸一番のニュース・ソースの一人である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 厳かなる人徳のあったによって嗣子(しし)を設けた事

 

 上野国鹿沼在石橋村に、富農の四郎兵衛と申す者があったが、性(せい)、至って質朴なる者であったゆえ、実にありがたきお取り計ひも御座って、領主戸田様より特に名字を許され、鈴木四郎兵衛と名乗って、田畑耕作の外、商いなんども致いて、豊かに暮して御座った。

 が、四郎兵衛、中年になっても子(こお)というものが、これ、ない。妾(めかけ)を求むるなど、いろいろと試みてはみたものの、遂に、これまで、望みを遂ぐることが出来ず御座った。

 されば、四郎兵衛、つくづく思うたには、

「……かくも富み、また、これと申し、心に掛かる心配事なんども、これ、なけれど、このままにては百年の後まで、血の繋がらぬ赤の他人の誰かに、これらの金銀財宝、皆、譲ってしまうという結果ともなると申すも……これ、何とのう、得心出来ぬことじゃ。……いや……所詮、誰ぞ一人の赤の他人へ譲ることとなるのであれば……ただ一人へ譲る結果とならんよりは、これ、多くの人々へ分け与えて譲るこそ、これ、天道(てんどう)にも適うことにて御座ろうぞ!」

と思い立ったと申す。

 さて、上野国の賤民の間には――これ、その困窮ゆえとは申せ――実によろしからざる忌わしき風俗が御座った。――例えば――妻が懐妊致いた折りには、出産した子(こお)の惣領は、これ、育てるものの――その余は――「間引き」とか――また――「もどす」――なんど唱え――その産家(うぶや)の内にて――こっそりと殺して――御座った。

 四郎兵衛。俄然、

「何としてもこれらの子(こお)を救うて生育なさん!」

と、寛政の子年(ねどし)までに――周辺の民草の生計(たつき)は勿論のこと――妊娠出産の噂や何やかやを――予め十二分に収集致し、また探索方も出だし探らして――実に四百人ほどの子(こお)をも――これ、尋ね捜し出だいては、救って御座ったと申す。

 なお、先にも述べた通り、四郎兵衛にはその頃、子がおらざれば、別に多少の由縁(ゆかり)の者より養子を成して御座った。その養子は医師を生業(なりわい)と致いて御座った由。

 ところが、何と――今まで如何にしても出来なんだ四郎兵衛に――如何なることか――実子が産まれて御座った[根岸注:因みに本記載時の文化元年にあっては、この子は当年とって十一歳になるという。後出元卓談。]。

 附言致しておくならば――かの養育致さざる賤民の子(こお)を救う際には、懐妊の噂を聴くや、走って行って懇ろに世話致し、出生すればまた、手厚く手当致すという仕儀にて、これ、その雑費も夥しくかかるをも厭わず、思う存分、湯水の如く用いては手厚く施して御座ったと申す。

 されども、自分持ちの耕作にても潤沢な利を得、また、別に営んで御座った商売にても、これまた順調な利益のあったによって、いよいよ富饒(ふにょう)に暮し、当時、自宅やその養子の住居など合わせて、三箇所も邸宅を所持致いて、そのどの屋敷も如何にも裕福なる様子にて御座った由。

 

「……生命(いのち)を好むところの天意にも適(かの)うておったからででも御座いましょうか。……この鈴木四郎兵衛なる御仁、書物を好み、何でも……かの湯島の聖堂へも出入り致いて……あの、林大学頭様御自身もご存知の方と承って御座る。……」

とは、私の元へ参る、例の医師元卓の語った話で御座る。

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