一言芳談 九十二
九十二
敬佛房(きやうぶつばう)云、遁世といふは、稠林(てうりん)に竹を引くがごとく、物にかかへられぬなり。
同人上洛の時、覺明房(かくめいばう)、證蓮房に語り申して云、むかしの後世者(ごせしや)の振舞(ふるまひ)と、今の後世者の風情(ふぜい)とはかはりて候ふなり。昔の聖どもの沙汰しあひて候ひしは、其人は後世を思ふ心のあるかなきかの體(てい)にてこそ候ひしが、今は學問し候ふべき器量などのあるを、後世者のさねと申しあひて候ふなり、云々。敬佛房の云、後世者のふりは、大にあらたまりにけるにこそ。
〇稠林に、行事鈔云、但以其心邪曲難可拔濟。如稠林曳曲木。故不得入佛法中。
資持記云、稠林曲木喩其難拔、稠即密也。
〇物に、物とは世上の是非得失の事なり。(句解)
〇上洛の時、高野山より京へのぼられしなり。
〇むかしの後世者(ごせしや)の振舞、むかしは道心の有無を沙汰し、今は學問の利鈍のみを論ずるなり。これ、本を忘れて末をきそふ。佛の御心にたがへる事なり。
〇後世者のさね、天性(てんせい)のその骨(こつ)を得たる人といふ義なり。當世(たうせい)の僧を見るに、師匠も親も道心をおこせとをしへず、同學の僧も名利(みやうり)をのぞむものばかりなれば、後世門の事はつやつやしらず。
[やぶちゃん注:Ⅰでは、二段が分離されて、順序を逆にし、「用心」の中に、十四条を挟んで入れられてある。
「稠林」稠林は樹がよく繁茂している林のことであるが、仏教では、世俗の煩わしい営みが林が茂るように多く盛んなさま、単に在家の生活のことを指す場合が多い。しばしば「塵労稠林」として、衆生や行者の正しい生活や修行を妨げる煩悩が多くあることを密林に喩えていう。この一文はそうした譬えを踏まえて、
――遁世とは、邪見煩悩に満ち満ちた毒虫と饐えた臭気とが入り混じる密林の中に、忽然と、香しい清風が吹き、月影彩香な閑かな竹林を現出させることだ、如何なる周囲のおぞましい対象に抱き抱えられてはいけない――俗臭紛々の俗世の中に清浄隠棲の結界を出現させてこそ、まことの遁世である――
と言っているのと私は読む。因みに、Ⅱの大橋氏の訳は『遁世とは、ちょうど繁茂している林の中で竹を引っぱり歩くようなもので、物に拘束されないことです。』であるが、浅学凡愚の私には、この訳、全く腑に落ちない。
「覺明房」覚明房長西(ちょうさい 元暦元(一一八四)年~文永三(一二六六)年)は法然晩年の直弟で、浄土宗九品寺流の祖。法然が廃捨した諸行についても本願の行に再採用した。伊予守藤原国明の子。建仁二(一二〇二)年に出家して法然の弟子となる。元久元(一二〇四)年の二十一歳の時、法然の「七箇条起請文」に署名している。建永2(一二〇七)年には流罪となった法然に従って讃岐へ赴き、建暦元(一二一一)年、法然とともに帰洛した(法然は翌年入寂)。その後、道元に会って長く禅を学ぶなど諸方に遊学、その教学の裾野は広かった。後も講経と著述に専心、宝治二(一二〇八)年に六十五歳で「総別二願抄」を撰し、弘長元(一二六一)年、七十八歳の折りには住していた洛北の九品寺に住して「観経疏」を講義している(以上は「浄土宗宗務庁」のHP内の「浄土宗大辞典」よりの引用からの孫引き。リンク連絡の要請明記があるのでリンクしない)。
「證蓮房」不詳。「一言法談」の伝本によっては「昇蓮房」ともする。Ⅱで大橋氏は、『伝不詳であるが、仁和寺に住した人で、のち明遍と乗願房の弟子になっているから、当時の一般的風潮からおして、真言から念仏門に転向した人と考えられる』と注されておられる。
「さね」「さね」は「實(実)」で、ある対象が発生する原初の場所、根本の意。
「行事鈔云……」以下を、Ⅰにある訓点を参考に書き下す。
「行事鈔」に云はく、「但し、以(おもんみ)るに其の心、邪曲にして拔濟(ばつさい)すべきこと難し。稠林に曲木を曳くがごとし。故に佛法中の入ることを得ず。」と。
「資持記」に云はく、「稠林曲木とは、其の拔き難きに喩(たと)ふ、稠は、即ち密なり。」と。
「行事鈔」唐代の南山律宗の祖である道宣(どうせん 五九六年~六六七年)の著わした「四分律刪繁補欠行事鈔」であろう。
「資持記」宋代の律僧元照(がんじょう 一〇四八年~一一一六年:南山律の允堪(いんたん)の起した会正(えしょう)派に対して資持派を立てた。)の著わした「四分律行事鈔資持記」であろう。]

