さびしい人格 萩原朔太郎 (初出形)
――私は二十歳の頃――その人から――「あなたは……この詩なの……」――と言われたものだった――さうして――五十も半ばとなった老いさらばえた私は――「私は……今もこの詩なのだ……」――と独り呟くのである――
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さびしい人格
さびしい人格が私の友を呼ぶ
わが見知らぬ友よ、早くきたれ
ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐやう
なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさふ
遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居やう
しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居やう
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて
母にも父にも知らない孤兒の心をむすび合はそう
ありとあらゆる人間の生活の中で
おまへと私だけの生活について話し合はふ
まづしいたよりない、二人だけの秘密の生活について
ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。
わたしの胸は、かよはい病氣したおさな兒の胸のやうだ
わたしの心はおそれにふるえる、せつないせつない、熱情のうるみに燃えるやうだ
ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた
けはしい坂路をあほぎながら、虫けらのやうにあこがれて登つて行つた
山の絶頂に立つたとき、虫けらはさびしい淚をながした
あほげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれてゐた
自然はどこでも私を苦しくする
そして人情は私を陰欝にする
むしろ私はにぎやかな都會の公園を步きつかれて
とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ
ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ 都會の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙
またその建築の屋根をこえて、つばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ
よにもさびしい私の人格が
おほきな聲で見知らぬ友をよんで居る
わたしの卑屈な、不思議な人格が
鴉のやうなみすぼらしい樣子をして
人氣のない椅子の片隅にふるえて居る
[やぶちゃん注:『感情』第二年一月号 大正六(一九一七)年一月号。仮名遣の誤り及び一部の漢字の略字体表記は、総て、ママである。]