一言芳談 八十五
八十五
信澄房(しんてうばう)云、寂林寺にも、六時禮讚(ろくじらいさん)など誦(よ)みて、聽聞に人あつめなどせば、即ち所損(しよそん)たるにてあるべきなり。
〇寂林寺、いづくにあるかしらず。
〇所損、人あつまれば名聞もおこり、魔事もあるべし。
[やぶちゃん注:「信澄房(しんてうばう)」Ⅰは「しんちようばう」と振る。Ⅱ・Ⅲを採った。伝不詳。
「寂林寺」標註も示す通り、不詳。大橋氏はⅡの注で、『京都東山あたりにあった寺ではあるまいか』とする。
「六時禮讚」浄土教における法要・念仏三昧行の一つで、浄土宗第三祖唐の善導が記した「往生礼讃偈」に基づき、一日を六時に分けて誦経・念仏・礼拝を行うが、その際、それおぞれ六回、別々の独特の拍子や旋律を伴ったらしい。浄土宗では建久三(一一九二)年に法然が大和前司親盛入道見仏の招きを享け、後白河院追善菩提のために八坂の引導寺において別時念仏を修したが、それが六時礼讃の始まりとされるが、「徒然草」第二二七段には、
六時禮讚は、法然上人の弟子、安樂(あんらく)と言ひける僧、經文を集めて作りて、勤めにしけり。その後、太秦(うづまさ)の善觀房(ぜんくわんばう)といふ僧、節博士(ふしはかせ)を定めて、聲明(しやうみやう)になせり。一念の念佛の最初なり。後(のちの)嵯峨院の御代より始まれり。法事讚(ほうじさん)も、同じく善觀房、始めたるなり。
とあるが、「六時禮讚」を「安樂」なる僧が集経して作ったように書くのは誤り。「善觀房」不詳。「後嵯峨院の御代」第八十八代後嵯峨天皇(承久二(一二二〇)年~文永九(一二七二)年)の在位は仁治三(一二四二)年~寛元四(一二四六)年であるから、「六時礼讃」の発生は仁治三(一二四二)年ということになるが、後に示すように、この創始者である安楽坊遵西は建永二(一二〇七)年に、この礼讃によって宮女壊乱の罪を以って斬首されているのだから、兼好の記載は遅過ぎる。「法事讚」は同じく善導による法式の規定。阿弥陀経読誦に先立つ儀礼としての三宝の召請や懺悔の次第、十七段に分かたれた「阿弥陀経」本文とそれに附された各段の讃文の読誦唱和作法次第、読誦後の懺悔・歎仏呪願の儀礼などを記す。Ⅱの大橋氏注には、「法然上人行状絵図」第三十三には、「さだまれるふしなく、をのをの哀歎悲喜の音曲をなすさま、めづらしく、たうたかりけれ」とある、とされ、『現行の作曲は太秦の善観が譜付けしたものとされ、拍子は四拍子、六拍子』の二種があると記されておられる。主に参照したウィキの「六時礼讃」には(この記載も多く大橋俊雄氏の資料を元にしている、以下の引用等も同じ)、この「徒然草」の記載や「愚管抄」によれば、『浄土宗の開祖法然の門弟である安楽坊遵西が礼讃に節を付けたと言われているが、当時は定まった節とか拍子がなかったらしい』とする。また、ここで問題なのは、この遵西が指導した声明『礼讃が大衆の支持を多く得たことから、既存仏教教団の反発を招き』、建永二(一二〇七)年、『後鳥羽上皇の女房たちが遵西達に感化されて出奔同然に出家した件等の罪で、遵西は斬首され、同年の法然らに対する承元の法難(建永の法難)を招く原因ともなった』事実でもあろう。まさにこれはこの荘厳美麗なはずの声明が、後鳥羽上皇による専修念仏の停止(ちょうじ)・法然門弟四人の死罪、法然と親鸞ら高弟七人の流罪というとんでもない「所損」を引き出したことをこそ意味するのではないか? 私は少なくとも、この信澄房なる僧が、音楽的な耳に心地よい「六時礼讃」の旋律を。直観的に厭うたのだと読む。なお、それでも連綿と現在に伝わるそれは、天台声明を基にした美しい旋律で、後半になるに従い、高音の節が荘厳美麗さを増すもの、という。現代では浄土宗・時宗・浄土真宗が法要で盛んに用いており、また、親鸞の「正信念仏偈」は、この「六時礼讃」にヒントを得て作製された、ともある。信澄房がこの事実を知ったら、果たして、どう思うであろうか?
「所損(しよそん)」Ⅱは「しよぞん」、Ⅲは「ところそんじ」と振る。Ⅰに拠った。損をすること。損失。]
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