生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 序
第八章 團體生活
同種類の生物個體が多數相集まつて居ることは、餌を捕へるに當つても敵を防ぐに當つても頗る都合のよいことが多い。一疋づつでは到底かなはぬ相手に對しても、多數集まれば容易に勝つことが出來る。また非常に強い敵に攻められて惨々な目に遇うたとしても、多數に集まつて居ればその中の幾分かは必ず難を免れて生存し、後繼者を遺すことが出來る。特に生殖の目的に對しては、同種族のものが同處に多數集まつて居ることは極めて有利であつて、一疋づつが遠く相離れて居るのとは違ひ、すべてのものが殘らず手近い處に配偶者を見出して、盛に子を産むことが出來る。されば事情の許す限り、同種類の生物は同じ處に集まつて生活して居る方が、食ふにも産むにも遙に好都合であるに違ない。
抑々生物は親なしには決して生まれぬもの故、一生涯絶對に單獨といふものは一種たりともあるべからざる理窟で、少くとも親から生まれたときと、子を産んだときとは、同種類の生物が何疋か同じ處に接近して居るに違ない。特に多數の生物では、同時に生まれる子の數が相應に多いから、これらがそのまゝ留まつて生活すれば、已に一つの群集がそこに生ずる。そして相集まつて生活して居れば、上に述べた如き利益がある。かやうな次第で、同種類の生物が一處に集まつて生存することは自然の結果であるやうに思はれる。しかるに單獨の生活を送る生物も決して少くないのはなぜかといふと、これは生活難のために一家離散したのであつて、生存の必要上群集生活を思ひ切るやうに餘儀なくせられたものに限る。例へば陸上の食肉獸類には群棲するものは殆どない。これは獅子〔ライオン〕・虎などの如きものが一箇處に多數集まつて生活し、多數の牛や鹿を殺して食つたならば忽ち食物の缺乏を生じ、皆揃つて餓死せねばならぬからである。これに反し、草食獸類の方は餌が澤山にあるから、大群をなして生活して居ても、急に食物が皆無になる心配はない。昆蟲類などでも木の葉を食ふ毛蟲は枝一面に群集して居ることがあるが、蟲を捕へて食とする「かまきり」や「くも」類などは、一疋づつ離れて餌を求めて居る。尤も肉食するものでも、餌となる動物が多量に存する場合には、群棲しても差支はない。「をつとせい」・「あざらし」の類は肉食獸であるが、その餌となる魚類は極めて多量に産し、恰も陸上の牧草の如くであるから、數千も數萬も同一箇處を根據地に定めて生活して居る。詰まる所、生物が群棲するか單獨に暮らすかは、食物供給の量と關聯したことで、群棲しては到底食物を得られぬ種類の動物だけが、親子兄弟離れ離れになつて世を渡つて居るのである。
同じ種類の生物個體が、たゞ相集まつて居るだけでも生活に種々都合のよいことがあるが、もしも多數のものが同一の目的を達するために力を協せて相助けたならば、その效力は實に偉大なもので、大概の敵は恐れるに足らぬやうになる。各個體が食ふにも産むにも死ぬにも、すべて自己の屬する團體の維持生存を目的としたならば、その集まつた團體は、生存競爭に當つて、個體よりも一段上の單位となるから、攻めるにも防ぐにも勝つ見込みが頗る多い。かやうな團體を社會と名づける。實際動物界を見渡すと昆蟲類の中でも、蜂や蟻などの如き社會を造つて生活する種類は到る處に跋扈(ばつこ)し、場合によつては獅子〔ライオン〕や虎のやうな大獸をさへも苦めることがある。個體のたゞ集まつた群集と、全部一致して活動する社會との間には、順々の移り行きがあるが、同じく社會と名づけるものの中にも種々の階段があつて、その最も進んだものになると、個體間の關係が、猫や犬で普通に見る所とは全く違つて、殆ど一個體の體内に於ける器官と器官の關係の如くになつて居る。次に若干の例によつて、これらの關係を一通り述べて見よう。
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