西東三鬼 拾遺(抄) 戰中作品 中年や焚火育つる顏しかめ
戰中作品
中年や焚火育つる顏しかめ
[やぶちゃん注:底本に『「俳愚伝9」に初出。正確な製作年不明』とある。「俳愚伝」は昭和三四(一九五九)年四月から翌年三月まで『俳句』に連載したもの。底本全集中では、この一句のみが戦中作品である。沢木欣一・鈴木六林男共著「新訂俳句シリーズ・人と作品13 西東三鬼」(桜楓社昭和五四(一九七九)年刊)からの孫引き(同書六八頁)であるが、「凡愚伝 9 弾圧家族」(『俳句』昭和三四(一九五九)年十二月号に、この句『を得た時、私の新しい出発の、内心の芽が発見できたように思われた。「中年感情」を基盤としようと私はつぶやいた。戦争は終つた。いつの間にか私は俳句を作り始めていた』とある。戦中(厳密には昭和一五(一九四〇)年八月から昭和二〇(一九四五)年末までの空白期)の沈黙について、前掲書には、『三鬼は神戸に来てから〈防空壕の中に、一本の蠟燭と数冊の俳書を置き〉〈蕉門の古句を読み〉ながら、執念をもやしていたのであろう。それは〈私は昭和十五年以来俳句をお上から封じられて作らなかったのですが、内心では作ったし、書いてもおきました〉』と記す。三鬼は昭和十五年八月三十一日の所謂、「京大俳句」事件によって検挙されたが(二ヶ月の留置後、起訴猶予)、その二年後の昭和十七年十二月、突如、東京の妻子を捨てて出奔、神戸へ移住した。出奔の理由は不明であるが、一説に「京大俳句」事件の累が親族(特に二人の実兄)に及ぶことを恐れたことを一因とするかともされる。ただ三鬼が終生、遂に最初の妻子の家庭へは戻らなかった。これは三鬼という男の一種複雑奇怪な対人関係――特に女性との――の方にこそ、三鬼出奔という闇はあったようには思われる。なお、私は三鬼没後十六年後に発生した噴飯物のスキャンダル、作家小堺昭三による『「京大俳句」事件三鬼スパイ説』(昭和五八(一九八三)年に数少ない死者の名誉回復裁判で三鬼遺族側が勝訴している)は、少なくとも、私のこの「三鬼句集」で語る価値など全くない妄説と考えている。興味のあられる方は、例えば個人ブログ「昭和・平成の俳句(現代はどう詠まれたか)」の『「(七)没後二十年後の裁判」 没後二十年後の裁判』などを参照されたい。]