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2013/03/31

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 12

 あくれば三日、鎌倉へおもむくに、一坂をすぐれば里あり。こゝなむむつらの浦かととへば、それとこたふ。海士の子どもの遊をみて、

  四五むつらの浦のあまの子の あそふはしほのとをひかたかな

あまのすみかのあはれをみて、

  波あらすむつらの浦のあまの小屋 かこふとするもまはらなりけり

[やぶちゃん注:「四五」は「よついつつ」と訓じているか。
「一坂」この部分について、少年の日、この辺りに住んだことのある私の教え子から以下の消息を貰った。場所の同定とともに、とても私の琴線に触れるものであったが故に、ここに引用させて戴く。

   《引用開始》
彼が越えた『一坂』は、今の国道十六号線、瀬戸神社と六浦橋の間にあるほんの少し隆起した部分。まさに泥牛庵がある辺りが最も高いところでしょう。六浦小学校二年生の冬、初めてたった一人で、横浜駅東口の水泳教室への往復を成し遂げた時のことを思い出します。もう夜八時を回っていたはずです。勤め人たちの腰の間に挟まれながら、帰宅ラッシュの京急電車に揺られ、八景の駅から六浦橋の自宅までの道を辿る僕。遂に大人の仲間入りをしたような何かとても誇らしげな気分を、忘れることが出来ません。母に早く褒めてもらいたいと、背泳ぎの練習で疲れた足に勤め人の煙草臭い、くすんだ疲労を想像したりなどしながら、あの『一坂』を越えていったのでした……。
   《引用終了》
「むつらの浦」は六浦。
 ……さてもこの二首、しみじみとした、それでいてランドスケープを広角で切り捕った素晴らしい嘱目吟であるように思われる。「かこふ」は「圍(囲)ふ」で、海士(あま)の苫屋の侘び住まい……小屋を囲んではいるものの、それが榾や粗朶垣の、「まはら」(疎ら)なもので、寂しいその裏(うち)が寒々と覗いていることよ、と詠んでいるのであろうが、家として囲もうとするその土地自身が、既にして荒涼とした浜伝いの「まはら」(眞原)真菅原であるよ、という謂いも効かせるているものか。いづれの歌も沢庵の墨染の衣の後ろ姿が――見える――]

耳嚢 巻之六 鍛冶屋淸八が事 

 鍛冶屋淸八が事

 

 泉州堺のものにて、紀州家より何の譯にや二人扶持(ににんぶち)給りし由。其謂れを聞くに、何も御用も不勤(つとめざれ)ど、古今珍敷速足(めづらしきはやあし)にて、堺より江戸へ三日に來る(きた)由。近江の彦根へ三十六里の處、一晝夜に往返(わうへん)せしとかや。或時彦根の城下より木綿買出しに來りし者、堺にて急病にて果けるを、はやくしらせんと評議せる處、彼(かの)淸八今夜中にしらせんと請合(うけあひ)し故、飛脚賃として五兩渡しけるを受取(うけとり)、暮前(くれまへ)なりしが、夜食など給(たべ)て緩々(ゆるゆる)支度せるを、少しも早く出立(しゆつたつ)せよと側のもの催促しければ、明日は歸りて左右(さう)なすべし、何の急ぎ候事かあらんといひて、やがて出しが、彦根へ其明(そのあけ)の日つきて、暮時前、堺へ立(たち)歸りし由。文化元子年、五拾二歳にて今以(いまもつて)存在の由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。驚異の駿足の、ちょいと鯔背な実在した男の話(以下注を参照)である。

・「鍛冶屋淸八」最後に「文化元子年、五拾二歳にて」とあることから、彼の生年は宝暦三(一七五三)年であることが分かる。眠いさんの個人ブログ「眠い人の植民地日記」の「ある韋駄天走りの肖像」に本話を紹介されながら、出典は未詳ながら、清八のかなりの詳細を記されおられる。それによれば、彼の『本業は鍛冶屋だか足袋屋だか定かではない』とあり、何より重要なのが『後に江戸へ出て来て、高尾山信仰の信者となり、清八講の先達として、後に高尾山に宝篋印塔を建立し』ている点である。眠いさんによれば、この高尾山の宝篋印塔は、元々は後北条氏の第三代氏康が元亀元・永禄一三(一五七〇)年に奉納したものであったが、享保二(一七一七)年の大嵐で崩壊し、放置されていたものを、清八が寛政八(一七九六)年より浄財を募り、文化八(一八一一)年、先代のものより若干小振りながら、青銅製の立派な五重塔を再建したという。また、以下のような事実も記されている。『清八は長屋住まいだった』『が、まじないも良くし、これが大変流行って、高貴な方面からも信頼が篤かったと言い』、『謂わば、現代で言うスピリチュアルカウンセラー』みたような人物で、『まじないを頼む人で長屋はごった返し』たものの、『暮らし向きは至って質素で、衣服も身分相応のものを着てい』たとある。また彼は、『高尾山の秘仏開帳』『に奔走する傍ら、紀州徳川家へも足繁く通って』いたと、本話の事蹟ともクロスし、高尾山と密接な関係を持っていたらしい(詳細は眠いさんのブログをお読み頂きたい)紀州家にとって各種の『連絡役として』駿足の先達清八は『うってつけだったのかも知れ』ないと推測され、さらに、『宝篋印塔を建立する際の浄財を紀州家を通じて各大名家から募った可能性もあり』、『その宝篋印塔を復活させた際には、更に浄財を募って旧甲州街道沿いに新宿から高尾山までの間に』、三本の道標をも設置、現在もこの道標は八王子市に現存している、とある。眠いさんは最後に、『この八面六臂の活躍を見ていると、清八をネタに時代小説が一本書けそう』とおっしゃっている。まっこと、その通りの魅力的な人物である。――まだ、話は終わらない――私がこの眠いさんのブログを知ったのは、私が鎌倉地誌の電子テクスト化の中で、非常にお世話になったウェブサイト s_minaga 氏の「がらくた置場」(がらくたどころか至宝の山)の中にある、「成形層塔」(鋳造で制作された層塔)の頁のリンクであったのだが、そこには何と! 清八の、今はなき(戦時中の金属供出によって消失)その武蔵高尾山銅製五重塔の写真があるのである! それによれば、先にあったように八王子宿追分には清八の道標が残っているが、そこに平成十五年五月のクレジットを持つ八王子市教育委員会の説明番があって、そこには(改行を省略した)、この道標は文化八年に『江戸の清八という職人(足袋屋)が、高野山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てた道標の一つです。その後、昭和二十年八月二日の八王子空襲にで四つに折れ、一部は行方不明になってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館の屋外に展示されていました。このたび、地元要望を受け、この道標が復元され、当地に建設されました。二段目と四段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです』とあるそうである。s_minaga 氏は、この塔について、先にリンクしたのとは別な写真の傍らに写っている大人の人物から推して、塔の高さは十五~六尺(四・五~四・八メートル)、台座は七~八尺(二・一~二・四メートルの見当であろうか、と推定なさっておられる(こういう邂逅こそがネット世界の醍醐味である!)。清八さんは勿論、s_minagaさんも眠いさんも、みんな、ナイス・ガイだわ!

・「二人扶持」「扶持」は戦国時代からの名残で、主君から比較的下級の家士に対して支給された俸禄(手当)の単位。一人一日玄米五合を標準(一人扶持)とする。一年三六〇日で一石八斗、約五俵(単純な現在換算だと三〇〇キログラム)になる。月割りで毎月支給された。・「三十六里」約一四〇キロメートル強。地図上の直線距離でも彦根―堺間は一一〇キロメートルを超える。知らせることが目的であるから、彦根行を最スピードで踏破したと考えてよいから、「今夜中」という言葉、出立の雰囲気から考えても、だいたい6~9時間程度とすると、時速二三~一五キロメートルになる。自転車並みの速さである。

・「左右」あれこれの知らせ。手紙。便り。

・「文化元子年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鍛冶屋清八の事

 

 和泉国堺の者で、紀州家よりどういう訳からか、二人扶持の俸禄を給わっておる鍛冶屋清八と申す者がおる由。

 どうしてまた、鍛冶屋なんどが……と、知れる者に、その謂われを訊ねたところ……

「……いやぁ、その……正式な職分としては、これ、何の御用も勤めては御座らぬ。……されど、この男……古今にも珍しき駿足の持主で御座っての。……

……堺を出でてより――江戸へ――何と――僅か三日にて参る――と、申す。……

……堺から近江の彦根へ三十六里の行程……これを、この男……何と正味一昼夜で往復したとか……

……ある時、彦根の御城下より木綿買い出しに来て御座った男が、これ、堺にて急な病いのため、亡くなって御座った。……

……亡くなった者を知れる者ども、評議致いて、

「ともかくも……早(はよ)う在方へ知らせずんばなるまい……」

と評議一決致し、かの駿足の噂の高い清八を呼んで頼んでみたところ、

「――合点承知。――今夜中には先方へ知らせまひょ。」

と請け合って御座ったゆえ、飛脚賃として五両、これ、渡いた。……

……ところが、清八――「今夜中」と申したにも拘わらず――もう、その時には、かれこれ、日の暮れかかろうという時分で御座ったが、

「――一つ、腹ごしらえに、軽き夜食なんど、戴けまっか。」

などと申し、ゆっくらとそれを食べては、これまた、のんびりと支度致いておるによって、

「……さっさと……少しでも早(はよ)う、出なはれや!……」

と、流石に傍の者も焦れてしもうて、催促致いたところ、

「――明日、帰って首尾を述(のぶ)ればよろしかろ? 何の。急ぐことが、これある、かい。――」

と呟いて、

「――されば急かされたによって――」

と、申して、やっと出でた、と申す。……

――ところが……

――やがて彦根へは日の変わった未明に着き……

――その日の日暮れ前には……これ……平気な顔して堺へ帰って参った、と申す。……

……清八儀、文化元年子年、当年とって五十二歳……今以て、健在の由にて御座る。……」

藪野直史野人化一周年記念第二弾 北條九代記 HP版 起動

藪野直史野人化記念第二弾として、「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に「北條九代記」HP版を起動、まずは「序」及び「卷第一」を公開した。

藪野直史野人化一周年記念 丘淺次郎 生物學講話 HP版起動

野人化一周年記念として丘淺次郎「生物學講話」HP版を起動。まずは、「はしがき」及び「第一章 生物の生涯」を公開した。

文學の技巧 萩原朔太郎

       文學の技巧

 

 愛に於ける技巧とは、異性の趣味、氣質、性慾、氣まぐれ等をよく理解し、これに滿足を與へて悦ばすところの、聰明な知性を言ふのである。詩や文學に於ける技巧も、本質に於てこれと同じく、讀者を悦ばすところの「智慧」にすぎない。技巧のない愛はエゴイズムであり、無知の横暴なる壓制である。同時にまた、技巧のない文學も「惡」であり、讀者を惱ますところのエゴイズムである。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十六番目、先に示した「詩壇の不在證明表」の直後に配されたものである。……では朔太郎よ……「智慧」は忌わしきエゴイズムで――ない――か?]

木立の相 大手拓次

   木立の相

 

物語のおくに

ちひさな春の悔恨をうめたてて、

あをいあをい小蜂(こばち)の羽なりの狼煙(らうえん)をみまもり、

ふりしきる木立(こだち)の怪相ををがむ。

ふるひをののく心の肌にすひついて

その銀の牙(きば)をならし、

天地しんごんとしてとけるとき、

幻化の頌(じゆ)を誦す。

木立は紫金(しこん)の蛇をうみ、

おしせまる海浪まんまんとして胎盤のうへに芽(め)ぐむとき、

惡の寶冠はゆめをけちらして神を抱く。

ことばなく、こゑなく、陸(おか)に、海に、

ながれる存在の腹部は紅爛(こうらん)のよろこびをそだてて屈伸する。

 

[やぶちゃん注:現代思潮社刊現代詩人文庫「大手拓次詩集」では、「幻化の頌(じゆ)を誦す。」の「誦す」には「誦(しよう)す」とルビを振る。]

鬼城句集 春之部 蜷

蜷    砂川の蜷にしずかな日ざしかな
     [やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を
      崩した草書体表記である。]

一言芳談 一二九

   一二九

 

 同(おなじく)上人云、聖光上人は、談義の最中にも、日中(につちゆう)の時きたれる時は、一文一句をも誦(じゆ)しさして、やがて阿彌陀經をはじめ、禮讃(らいさん)念佛を行じましましき。同聞(どうもん)の聽衆も、心ならず、格別に禮讃をしき云々。

 

〇談義の最中にも、是を以て知るべし。學問は末(すゑ)にして行法は本(もと)なる事を。誠に後學の模範とするに足れり。學問を好みて、寢食をわするゝ人はあれども、行法を詮として、學問をさしおく人はなし。

 

[やぶちゃん注:本話は人によっては前話との論理矛盾を云々されるかも知れない。例えば、

――然阿良忠は「一二八」で「六時禮讃の次の念佛」をこそ誠心としたのではないか? それなのにここでは、公的行事としての教学法筵の真っ最中であっても、六時礼讃に決められらた時刻が来ると、聖光上人弁長は、突然それを中断なさって、「阿彌陀經を」誦経し「はじめ」、それが終わると心をこめて「念佛を行じましまし」て御座った――と良忠が六時礼讃に厳格に従った弁長を、如何にも心打たれる懐古しているがいるのは矛盾しているのではないか?――

といった批判である。しかし、そもそもが「六時礼讃」の「日中の時」とは「一二八」に示した通り、午~から未の刻(現在の午前十一時から午後三時頃)という幅の広い時間帯を示す。さすれば弁長は時間を厳格に守ったのではあるまい。それが自分に課したところの絶対的な「日中時の礼讃時間」であったとすれば、厳格を旨とする人間は、そこに他事を決して予定として入れないからである。寧ろ、この講義中断による、突然の高らかな「阿彌陀經」の誦経とそれに続く称名念仏は、弁長自身の内的欲求によって発露された、偶々に「日中時」の「談議の最中」の念仏である、と解する方が遙かに自然である。標註はこれを、既に語り尽くした感のある学問と行法の関係にスライドさせているが、少なくとも私はそのような比喩としてこの条を読まない。誠心の人の法悦(エクスタシー)は、そのまま直にその声を聴く人々の法悦になるというイコン画として読む方が遙かに本条の価値を高めるようにおもうのであるが、如何であろう?

「談義」仏法の因果の道理を説く法談、講筵。

「同聞の聽衆」法筵の場に教えを乞いに参っていた聴衆。

「心ならず」この場合は、不本意の意を含まない、意識しない、我知らず、の謂い。

「格別に禮讃をしき」格別なるまことの念仏を致いたの(と同じこと)である。]

2013/03/30

耳囊 卷之六 吐藥奇法の事

 

 吐藥奇法の事

 

 醫書にもあるや、藥店(やくてん)にも有之(これある)由。越前眞桑瓜(まくはうり)の蔕(へた)を飮(のま)すれば、早速吐(と)をなす事妙の由。是又一時人を救ふの助けと、聞(きき)しまゝ爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:民間療法及び植物の蔕の薬方、直連関。症状としてのしゃっくりと嘔吐も現象的には連関して見える。

 

・「越前眞桑瓜」スミレ目ウリ科キュウリ属メロンの変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa の、白色系品種の石川県原産のナシウリ(梨瓜:「中奥梨瓜」「加賀梨瓜」とも呼ばれ、果皮・果肉ともに白色のもの。)か。

 

・「早速吐をなす」催吐剤である。実際の漢方薬として現在も存在する。株式会社JAM のウェブサイト wellba の東洋医学・内科・理学診療科の松柏堂医院院長中村篤彦の筆になる「医食同源ア・ラ・カルト」内にある催吐作用と瀉下作用(「瀉下」は「しゃげ」と読む。下剤のように医学的に下痢を起こさせるものの効能を言う)に、『マクワウリの未熟果は苦く、その苦み成分:メロトキシンがとくに多いヘタは先述のように催吐作用や瀉下作用があります。単独で一物瓜蒂湯、納豆や小豆と合わせた瓜蒂散などがあります。乾燥した納豆と小豆の粉末、それにこの瓜蔕、なんだか想像しただけで吐きそうなクスリです』とある。「一物瓜蒂湯」は「いちもつかていとう」と読む。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 吐薬(とやく)の奇法の事 

 

 医書にも記されておるものか、薬屋にも普通に置かれておる由。

 

 越前国特産の真桑瓜の蔕(へた)を服用させると、即座に嘔吐が起こること、これ、絶妙の由。

 

 これもまた、危急の際に人を救う一助ともなろう存じ、聴いたままに、ここに記しおくことと致す。

一言芳談 一二八

   一二八

 

 然阿上人云、別時(べつじ)まではなくとも、六時禮讃(ろくじらいさん)の次(ついで)の念佛、心すまさむ時なんどは、別に用心して見佛の思ひに住すべし云々。

 

〇別時まではなくとも、念佛者に三種の行儀といふことあり。其内の別事といふは潔齋して念佛申す事なり。

〇見佛の思ひ、阿彌陀佛を見たてまつらんとおもふなり。

 

[やぶちゃん注:これは閾下ぎりぎりの「念仏」の非常に微妙な意識を述べているように思われる。私なりに訳す。

 

 然阿良忠上人曰く、「……ことさらに別時念仏なんどまで修しようとは、これ、せんでよろしい。……型の如くに決められ、義務とさるるところの、かの六時の礼讃(らいさん)の念仏なんどではない……ちょっとした瞬間に――ふっと阿彌陀仏を心に念ずるのが――これ、よろしい。……心を清らかにしたいと思う時なんどには、特に別して心をこめ、阿彌陀仏を観想する思いの中に住んでおれば、これ、よろしいのじゃ。……」。

 

「別時」別時念仏。別時念仏会。註にあるように、日常的な勤行(ごんぎょう)に対して、日時を定め、身体や心を精進潔斎して念仏行に励む意識を高めて、集中的に念仏を称え続けること。

「六時禮讃」「八十五」で既に注したが再注しておく。浄土教における念仏三昧行の一つ。善導の「往生礼讃偈」に基づいて一日を六つの時に分け、誦経・念仏・礼拝を行う。参照したウィキの「六時礼讃」によれば、六時とは(最後は凡その現在時刻)、

 1 日没(にちもつ) 申~酉の刻(午後 三時~午後 七時)

 2 初夜(しょや)  戌~亥の刻(午後 七時~午後十一時)

 3 中夜(ちゅうや)又は半夜(はんや)

            子~丑の刻(午後十一時~午前 三時)

 4 後夜(ごや)   寅~卯の刻(午前 三時~午前 五時)

 5 晨朝(じんじょう/しんちょう)

            辰~巳の刻(午前 五時~午前十一時)

 6 日中(にっちゅう)午~未の刻(午前十一時~午後 三時)

を指す。『天台声明を基にした美しい旋律が特徴で、後半になるにしたがい高音の節が荘厳さを増す。現代では浄土宗、時宗、浄土真宗が法要に盛んに用いる。親鸞の正信念仏偈は六時礼讃にヒントを得て作製されたといわれる』。浄土宗では建久三(一一九二)年に『法然上人が、大和前司親盛入道見仏の招きをうけて、後白河院の追善菩提のために、八坂の引導寺において別時念仏を修したが、これを浄土宗六時礼讃の始まりと』し、「徒然草」第二二七段や「愚管抄」の記述に『よれば、浄土宗の開祖法然の門弟である安楽坊遵西が礼讃に節を付けたと言われているが、当時は定まった節とか拍子がなかったらしい』。但し、この『遵西が指導する礼讃が大衆の支持を多く得たことから、既存仏教教団の反発を招き』、建永二(一二〇七)年、『後鳥羽上皇の女房たちが遵西達に感化されて出奔同然に出家した件等の罪で、遵西は斬首され、同年の法然らに対する承元の法難(建永の法難)を招く原因ともなった』とする。なお、故事成句の『「四六時中」の語源の一説に、「四時(早晨・午時・晡時・黄昏)と六時をあわせたもの」がある』とある「晡時(ほじ)」とは日暮れ時・申の刻(現在の午後四時頃)の意。なお、前に注した「八十五」は、この節を附けた美しい旋律を忌避すべきことを述べた内容である。再読あられたい。

「念佛者に三種の行儀」尋常行儀(日常の念仏。時や場所を定めずにありのままに念仏する行)と別時行儀(別時念仏)の他に、臨終行儀(臨終に際しての念仏行)を特に分けて三種とする。]

詩壇の不在證明表 萩原朔太郎

       詩壇の不在證明表

 不斷に詩を作り、絶えず作品を發表してゐることによつてのみ、詩人としての存在を保護されてゐるやうな詩人――それの休止と共に、すぐに名を忘られてしまふやうな詩人。――は、他の詩人たちに對しても、同じやうな勤勉力行を要求し、それによつて詩壇の不在證明表(アリバイ)を作る。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十五番目、先に示した「詩人の稱呼」の直後に配されたものである。――私は、今現在、生きているところの、こういう自称詩人を知っている/しか知らない――。]

香爐の秋 大手拓次

 香爐の秋

むらがる鳥よ、
むらがる木(こ)の葉(は)よ、
ふかく、こんとんと冥護(めいご)の谷底(たにそこ)へおちる。
あたまをあげよ、
さやさやとかける秋は いましも伸(の)びてきて、
おとろへた人人(ひとびと)のために
音(ね)をうつやうな香爐をたく。
ああ 凋滅(てうめつ)のまへにさきだつこゑは
無窮の美をおびて境界をこえ、
白い木馬にまたがつてこともなくゆきすぎる。

鬼城句集 春之部 帰雁

歸雁   日落ちて海山遠し歸る雁

     雁金の歸り盡して闇夜かな

2013/03/29

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 五 制裁と良心

本文を以って全二十章の内の第八章まで全テクスト化注釈作業が終了した。



     五 制裁と良心

Karasunosu


[「からす」の巣]

 束縛のないところでは束縛を破るものもなく、隨つて制裁を加へる必要も起こらぬが、鳥類・獸類の如き、各自勝手の慾情を具へたものが群集を造つて共同の生活をして居る處で、もし一匹のものが、自分一個の慾情のために全團體に不利益な行爲をした場合には、これに制裁を加へねばならぬ。團體生活をなす動物が全團體の利害を標準として自分一個の自由の一部を犧牲とするのはその個體の義務であるが、團體の一員として、團體生活より生ずる利益に與り得ることは、これに對する權利である。されば義務を盡さぬ者には制裁として、その權利を剝奪すれば宜しいのであるが、團體をなす動物では、自己の屬する團體以外のものは皆敵であるから、團體の一員たる權利を奪はれたものは、殘餘のものから敵として取扱はれ、衆寡敵せずして到底殺され終るを免れぬ。但し二個以上の團體が相對立して競爭している場合には、各團體ともにその内の員數の減ることは、戰鬪力を減少し大に忌むべきことであるから、單に折檻を加へて將來を誡めるだけで殺さずに置くことも常である。猿類には團體生活を營む種類が澤山あるが、各團體には力の強い經驗に富んだ雄が大將となつて全體を指揮し、常に一致の行動を取るやうになつて居る。大將の命に背いた者は嚴しく罰せられ、暫時はこれに懲りて全く温良な臣民となる。但し日數を經る間には、また前の刑罰を忘れて、大將の命に從はぬやうなことも生ずる。「からす」なども近處に巣を造るものの中に、隣から巣の材料を盜み來つたもののあることが知れると、多數集まつてその一疋の「からす」を責め、交る交る啄いて終に殺してしまふ。これはたゞ一例に過ぎぬが、共同の目的のために協力して働く動物の群集には、必ず何かこれに類することがある。鳥類・獸類ともにかゝる習性を有するものは頗る多いが、多數の個體が集まつて組合を造る場合には、その秩序安寧を保つためには何かの規約が行はれなければならず、隨つてこれを破るものは組合から制裁を受けねばならぬ。そして制裁の程度には輕重があり、殺されてしまふものもあれば、半殺し位で赦されるものもある。
 以上述べた所から考へて見るに、大部の道德書や複雜な法典を所持して居るものは、人間以外の動物には無論一種もないが、義務・權利・規約・制裁などの芽生えの如きものは種々の動物の郡集で既に見る所である。また善とか惡とか良心とか同情とかいふ言葉も、かやうな程度の社會には多少當て嵌らぬこともない。これらの關係は人間の如き大きな複雜な團體では種々の事情のために判然せぬやうになつて居るが、比較的小さな團體が幾つも相對して劇しく競爭している場合を想像すると最も明瞭に知れる。團體の一員である以上は、各團體は或は戰線に立つか或は後方勤務に從事するかいづれかに於て奮鬪し、團體の不利益になることは決してせぬやうに愼まねばならぬが、人間の社會で善と名づけることは、これを小さな團體で實行すれば皆戰鬪力を增すことのみである。また惡と名づけていることは皆戰鬪力を滅ずることばかりである。例へば同僚を殺すことは惡といふが、これは戰鬪力を減ずる。同僚の危險を救ふことは善というが、これは戰鬪力を增す。虛言は惡といふが、これは同僚を誤らせて戰鬪力を減ずる。正直は善といふがこれは同僚互に信じて戰鬪力を增す。一個體が命を捨てたために全團體が助ればこれは最上の善であり、一個體が誤つたために全團體が亡びればこれは極度の惡である。大きな團體では、自殺は各個體の勝手のやうに思はれるが、百疋からなる小團體では一疋が自殺すれば戰鬪力が明に百分の一だけ減ずるから、惡と名づけねばならぬであらう。小さな團體では各個體の行爲が全團體のために有利であつたか、有害であつたかが直に明に見えるから、善の賞められ惡の罰せられる理由も極めて明瞭に知られ、善の賞められずして隱れ、惡の罰せられずして免れる如きことは決してない。そして惡の必ず罰せられることを日頃知つて居れば、自分が偶々惡を犯したときには、罰の免るべからざることを恐れてなかなか平氣では居られぬ。これが即ち良心ともいふべきものであらう。小團體同志の間に生育競爭が劇しく行はれ、善を行ふ個體から成る團體は常に生存し、惡を行ふ個體から成る團體は亡び失せれば、終には各個體が生まれながらに善のみを行ふ團體が生じ、今日の蟻・蜜蜂の如くに善もなく惡もなく良心もなく制裁もなしに、すべての個體がたゞ自分の屬する團體のためのみに働くものとなるであらう。これに反して各團體が益々大きくなり、團體間の競爭よりも團體内の個體間の競爭のほうが劇しくなれば、善は必ずしも賞せられず、惡も必ずしも罰せられず、規約は破られ良心は萎靡して、單獨生活を營む動物の狀態に幾分か近づく免れぬであらう。
[やぶちゃん注:「萎靡」は「ゐび(いび)」と読み、なえてしおれること。衰えて活力を失い、衰退することを言う。]

 生物の生涯は食つて産んで死ぬのであるが、食つて産んで死なうとすれば絶えず敵と戰はねばならぬ。そして團體を形造ることは敵と戰ふに當つて、攻めるにも防ぐにも頗る有功な方法である。身體の互に連絡して居る群體では、全部が恰も單獨生活を營む一個體の如くに働くが、若干の離れた個體が一處に集まつて幾分か力を協せ不完全な社會を造り、共同の敵と戰ひながら食つて産んで死なうとすれば、そこに義務と權利とが生じ、是非と善惡との區別が出來、同情も良心も初めて現はれる。小團體の間に劇しい競爭の行はれることが長く續けば、各團體は益々團體生活に適する方向に進歩し、その内の各個體の神經系も次第に變化して、生れながらに義務と善と同情とを行はずには居られぬものとなるであらうが、人間などの如くに團體が大きくなつて、その間の勝負が急に片附かなくなると、この方向の進歩は無論止まつてしまひ、一旦發達し掛つた同情愛他の心は、再び個體各自の生存に必要な自己中心の慾情のために壓倒せられるやうにならざるを得ない。しかも意識に現はれる所は神經系の働の一小部分であつて、その根抵はすべて無意識の範圍内に隱れて居るから、今日の人間の所業には善もあれば惡もあり、同情もすれば殘酷なこともして、自分にも不思議に思はれる程に相矛盾したことが含まれるであらう。人類に於ける道德觀念は如何にして起り、如何なる經路を經て今日の狀態までに達したかは、素より大問題であつて、そのためには隨分大部な書物も出來て居る位であるから、無論本書の中に傍ら説き盡せるわけのものではない。それ故こゝには生物全體に就いて以上簡單に述べただけに止めて置く。

北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田合戦Ⅰ 御所焼亡〉

五月二日の申刻計(さるのこくばかり)に、和田左衞門尉義盛大將として、嫡子新左衞門尉常盛、同じき子息新兵衞尉朝盛入道實阿、三男朝夷(あさひな)三郎義秀、四男四郎左衞門尉義直、五男五郎兵衞尉義重、六男六郎兵衞義信、七男七郎秀盛、この外には土屋大學助(つちやのだいがくのすけ)義淸、古郡(ふるごほりの)左衞門尉保忠、澁谷次郎高重、中山四郎重政、同太郎行重、土肥(とひの)先次郎左衞門尉惟平、岡崎左衞門尉實忠〔眞田與一言芳談が子なり〕、梶原六郎朝景、同次景衡、同三郎影盛、同七郎景氏、大庭次郎景兼(かげかね)、深澤(ふかざはの)三郎景家、大方(おほかたの)五郎政直、同太郎遠政、鹽屋(しほやの)三郎惟守以下親類朋友百五十騎、郎從都合三百餘人、三手に分ちて押寄せたり。一手は雑草家の南門に至り、二手は相州義時の小町の西、北の両門を圍みたり。義時は豫てより、將軍の御陣、法華堂に伺候せらる。留主の侍(さぶらひ)五十餘人、出合ひて戰ひ、殘りなく討れたり。御家人等(ら)、御所の南に出でて戰ふに、兩方、矢を發(はな)つ事、雨の如く、鋒(きつさき)より火を出し、鐔元(つばもと)に血を滴(した)で、追(おう)つ捲(まく)りつ、半時計り攻(せめ)戦ふ。波多野(はだのゝ)中務丞忠綱、三浦左衞門尉義村、馳(はせ)加はりけれども、御家人等、叶はずして、散々に追靡(おひなび)けらる。御所の四面を取圍みて内に攻入らんとす。修理亮泰時、同次郎朝時、上總三郎義氏等、力を盡してふせぎけるを、朝夷三郎義秀、惣門を押破り、軍兵(ぐんぴやう)、込入(こみいり)て、火を掛けしかば、御所の棟々(むねむね)、一宇ものこらず燒失す。

 

[やぶちゃん注:〈和田合戦Ⅰ 御所焼亡〉

「吾妻鏡」巻二十一の建暦三(一二一三)年五月二日の条に基づく。建暦三年(一二一三)五月二日の条の前半を以下に示す。なお、しばしばお世話になっている、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の訳の脇に、非常に分かり易い合戦関連地図が掲げられている。是非、ご覧になられたい。

〇原文

二日壬寅。陰。筑後左衞門尉朝重。在義盛之近隣。而義盛館軍兵競集。見其粧。聞其音。備戎服。發使者。告事之由於前大膳大夫。于時件朝臣。賓客在座。杯酒方酣。亭主聞之。獨起座奔參御所。次三浦平六左衞門尉義村。同弟九郎右衞門尉胤義等。始者與義盛成一諾。可警固北門之由。乍書同心起請文。後者令改變之。兄弟各相議云。曩祖三浦平太郎爲繼。奉属八幡殿。征奥州武衡家衡以降。飽所啄其恩祿也。今就内親之勸。忽奉射累代主君者。定不可遁天譴者歟。早飜先非。可告申彼内儀之趣。及後悔。則參入相州御亭。申義盛已出軍之由。于時相州有圍碁會。雖聞此事。敢以無驚動之氣。心靜加目算之後。起座改折烏帽子於立烏帽子。裝束水干。參幕府給。而義盛與時兼。雖有謀合之疑。非今朝之事歟由。猶豫之間。於御所。敢無警衞之備。然而依兩客之告。尼御臺所幷御臺所等去營中出北御門。渡御鶴岳別當坊云々。申刻。和田左衞門尉義盛率伴黨。忽襲將軍幕下。謂件與力衆者。嫡男和田新左衞門尉常盛。同子息新兵衞尉朝盛入道。三男朝夷名三郎義秀。四男和田四郎左衞門尉義直。五男同五郎兵衞尉義重。六男同六郎兵衞尉義信。七男同七郎秀盛。此外。土屋大學助義淸。古郡左衞門尉保忠。澁谷次郎高重。〔横山權守時重聟。〕中山四郎重政。同太郎行重。土肥先次郎左衞門尉惟平。岡崎左衞門尉實忠。〔眞田與一義忠子。〕梶原六郎朝景。同次郎景衡。同三郎景盛。同七郎景氏。大庭小次郎景兼。深澤三郎景家。大方五郎政直。同太郎遠政。塩屋三郎惟守以下。或爲親戚。或爲朋友。去春以來結黨成群之輩也。皆起於東西。相分百五十軍勢於三手。先圍幕府南門幷相州御第〔小町上。〕西北兩門。相州雖被候幕府。留守壯士等有義勢各切夾板。以其隙爲矢石之路攻戰。義兵多以傷死。次廣元朝臣亭。酒客在座。未去砌。義盛大軍競到進門前。雖不知其名字。已發矢攻戰。其後凶徒到横大路。〔御所南西道也。〕於御所西南政所前。御家人等支之。合戰及數反也。波多野中務丞忠綱進先登。又三浦左衞門尉義村馳加之。酉剋。賊徒遂圍幕府四面。靡旗飛箭。相摸修理亮泰時。同次郎朝時。上総三郎義氏等防戰盡兵略。而朝夷名三郎義秀敗惣門。亂入南庭。攻撃所籠之御家人等。剩縱火於御所。郭内室屋。不殘一宇燒亡。(以下は次のパートに譲る)

〇やぶちゃんの書き下し文

二日壬寅。陰る。筑後左衞門尉朝重、義盛の近隣に在り。而るに義盛の館(たち)に軍兵競ひ集まる。其の粧ひを見、其の音を聞くに、戎服(じゆうふく)を備ふ。使者を發して、事の由を前大膳大夫に告ぐ。時に件の朝臣の賓客、座に在り。杯酒、方(まさ)に酣(たけな)はなり。亭の主、之を聞きて、獨り座を起ち、御所へ奔(はし)り參る。次いで、三浦平六左衞門尉義村・同九郎右衞門尉胤義等、始めは義盛と一諾を成し、北門を警固すべきの由、同心の起請文を書き乍ら、後には之を改變せしめ、 兄弟各々相議して云はく、

「曩祖(なうそ)三浦平太郎爲繼、八幡殿に属し奉り、奥州の武衡・家衡を征しより以降(このかた)、飽くまで其の恩祿を啄(ついば)む所なり。今、内親(ないしん)の勸めに就きて、忽ちに累代の主君を射奉らば、定めし天譴(てんけん)を遁(のが)るべからざる者か。早く先非を飜へし、彼の内儀の趣きを告げ申すべし。」

と、後悔に及ぶ。則ち、相州の御亭に參り入り、義盛、已に出軍の由を申す。時に相州、圍碁の會有り。此の事を聞くと雖も、敢へて以つて驚動の氣無し。心靜かに目算(もくさん)を加へるの後、座を起ち、折烏帽子を立烏帽子に改め、水干を裝束(さうぞ)して、幕府に參り給ふ。而るに義盛と時兼と、謀合の疑ひ有りと雖も、今朝(こんちやう)の事に非ざらんかの由、猶豫(いうよ)するの間、御所に於いて、敢へて警衞の備へ無し。然れども、兩客の告げに依つて、尼御臺所幷びに御臺所等、營中を去り、北御門を出でて、鶴岳別當坊へ渡御すと云々。

申の刻、和田左衞門尉義盛、伴黨(ばんたう)を率いて、忽ちに將軍幕下を襲ふ。件(くだん)の與力衆と謂ふは、嫡男和田新左衞門尉常盛・同子息新兵衞尉朝盛入道・三男朝夷名三郎義秀・四男和田四郎左衞門尉義直・五男同五郎兵衞尉義重・六男同六郎兵衞尉義信、・七男同七郎秀盛、此の外、土屋大學助義淸・古郡(ふるこほり)左衞門尉保忠・澁谷次郎高重〔横山權守時重が聟。〕・中山四郎重政・同太郎行重・土肥先次郎左衞門尉惟平・岡崎左衞門尉實忠 〔真田與一義忠が子。〕・梶原六郎朝景・同次郎景衡・同三郎景盛・同七郎景氏・大庭小次郎景兼・深澤三郎景家・大方(おほかた)五郎政直・同太郎遠政・塩屋三郎惟守以下、或ひは親戚として、或ひは朋友として、去ぬる春以來(このかた)、黨を結び群を成すの輩なり。皆、東西に於いて起ち、百五十の軍勢を三手に相ひ分ち、先づ幕府南門幷びに相州が御第(ごてい)〔小町の上(かみ)。〕西・北の兩門を圍む。相州、幕府に候ぜらると雖も、留守の壯士等、義勢(ぎせい)有り。各々夾板(はあみいた)を切り、其の隙を以つて矢石(しせき)の路(みち)と爲して攻め戰ひ、義兵、多く以つて傷死(しやうし)す。次いで廣元朝臣が亭、酒客、座に在り。未だ去ざる砌り、義盛が大軍、競ひ到りて門前に進む。其の名字を知らずと雖も、已に矢を發(はな)ちて攻め戰ふ。其の後、凶徒、横大路(よこおほぢ)〔御所の南西の道なり。〕に到る。御所の西南、政所前に於いて、御家人等、之を支へ、合戰、數反(すへん)に及ぶなり。波多野中務丞忠綱、先登に進む。又、三浦左衞門尉義村、之に馳せ加はる。酉の剋、賊徒、遂に幕府の四面を圍み、旗を靡(なび)かせ、箭(や)を飛ばす。相摸修理亮泰時・同次郎朝時・上総三郎義氏等、防ぎ戰ひ、兵略を盡す。而るに、朝夷名三郎義秀、惣門を敗り、南庭に亂れ入つて、籠る所の御家人等を攻撃す。 剩(あまつさ)へ、火を御所に縱(はな)ちて、郭内の室屋(しつをく)、一宇殘さず燒亡す。(以下は次のパートに譲る)

・「戎服」軍服。鎧。

・「前大膳大夫」大江広元。

・「八幡殿」源義家。

・「武衡・家衡」清原武衡と甥の家衡。後三年の役で義家に滅ぼされた。

・「内親」父方の親類。内戚。

・「天譴」天帝のとがめ。天罰。

・「内儀」内議。

・「目算」囲碁で対局中に相手と自分の地を計算すること。

・「時兼」横山党の横山時兼。武蔵七党の一つで、和田氏の与党。

・「夾板」門の袖に取り付けた板。

・「矢石の路」「矢石」は矢と弩(いしゆみ)の石で、矢狭間のこと。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 11

池のほとりに一木のかえであり。いにしへ爲相卿、

 

  いかにして此ひともとに時雨けん 山にさきたつ庭のもみち葉

 

とよみ給ひしより此木、時雨にもそめぬとて靑葉の紅葉と申ならはすよしかたりぬ。むかしのぬしに手向とて、

 

  世々にふるそのことのはのしくれより そめぬそ色はふかきもみち葉

 

 二日にも爰をさりがたくて、かなたこなた見めぐりて迫門の明神へ詣けるに、千歳の古木雲をしのぎ、囘岩宮をつゝみたる山のいきほひ、實に巨靈神の手を延ていづくよりか此山をうつしけむとあやしきばかり也。いかなる御神ぞと尋ければ、是は三島の大明神、本地大通智勝佛、伊豆と和一體也と神職こたへられける。

 

  まうてつるむかしをいまにおもひいつの みしまも同し神垣のうち

 

 法身妙應本無方  三島不阻一封疆

 

 山色涵波顯垂跡  朝陽出海是和光

 

[やぶちゃん注:書き下す。

 

 

 

 法身の妙應 本(もと) 無方

 

 三島 一封疆(きやう)を阻てず

 

 山色 波を涵(い)れ 垂跡(すいじやく)を顯はす

 

 朝陽 海を出づ 是れ 和光

 

 

 

「一封疆」は境界の謂い。]

 

 社の前へは島をつき出して辨才天を勸請し、島へは第一第二の橋あり。島のめぐり古木浦風になびき、よる波しづえをあらふ。一根淸淨なる時、六根ともにきよし。我人のかうべに神やどらざらめや。たのもしうぞおぼゆる。

 

  なみ風も心もなきぬ大海を さなから神のひろまへに見て

 

宿のあるじ船もよひしてみづから櫓をおして汀を出るに、秋も過行、野島こゝなれば、

 

  身の秋をおもひ合てあはれなり 野島の草の冬かれの色

 

夏鳥は名のみなり、時は冬のなかば、

 

  三冬にもふるしら雪のたまらぬは こや夏島の名にしきゆらむ

 

笠島にきて、

 

  笠島やきてとふ里のゆふしくれ ぬれぬ宿かす人しありやと

 

烏帽子島といへるは、とはでもそれとしるし。

 

  あさゆふに波よせきぬるゑほし島 奧よりあらきかさおりやこれ

 

箱崎といふあり、

 

  神のまもる西とひかしはかはれとも こゝもしるしの箱崎の松

 

[やぶちゃん注:この条、新編鎌倉志八」及び鎌倉卷之十一附録の六浦や金澤の各名所の項などを参照のこと。

 

「ひろまへ」広前。神前を敬っていう語。神の御前(具体に神社の前庭をも指す場合もある)。

 

「もよひ」舫ひ。船を杭などに繫ぎ止める動詞「舫(もや)ふ」の名詞形。

 

「三冬」は「さんとう」で、初冬・仲冬・晩冬の冬季三ヶ月。陰暦の十・十一・十二月を言う。この時、寛永一〇(一六三三)年十一月であった。

 

「名にし」の「し」は文節強調の副助詞。名なればこそ。]

 

 

耳嚢 巻之六 しやくり奇藥の事

 しやくり奇藥の事

 

 美濃の枝柿(えだがき)の蔕(へた)を水一盃(いつぱい)にて煎じ用ゆれば、即座にとまる事妙なり。予が許へ來る牧野雲玄病家(びやうか)に、老人にて久々煩ひ候(さふらふ)て、しやくり出、殊外(ことのほか)こまり候故、加減の藥を用ひ一旦止りけれど、兎角時々其(その)憂ひありしに、或日岩本家へ至り右の咄しをなしけるに、岩本の老人、氣逆(きぎやく)には、みの柿の蔕を洗(あらひ)し湯を用ひて度々奇功ある事を咄し、到來獻殘(けんざん)の蔕を貯置(たくはへおき)し由にて與へける故、早速煎じ用ひしに、立所(たちどころ)に止りぬとかたりし故、予も右柿蔕貯(たくはへ)の儀申付(まうしつけ)ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。本巻に特に多い民間医薬シリーズの一。「川口漢方薬局」の第44話 しゃっくりと柿の蔕、漢方の話に(改行を省略した)、『病院の紹介で、しゃっくりに柿の蔕が効くから漢方薬屋さんで買ってきてのみなさいと言われたという方が時々いらっしゃいます。通常のしゃっくりは、放置しておいても自然に治りますが、繰り返したりひどいしゃっくりが長時間続く場合は、日常の生活にも困りますのできちんと治療した方が良いです。西洋医学的には、脳、心臓、気管、食道、胃などの様々な病気が原因でしゃっくりが出るとされていて、制吐剤や抗けいれん剤などが効果があります。しかし、慢性疾患で他の薬物を使用していたりする場合、安全性の面からも良い方法ではない場合が多いのです。ですから、お医者さんも柿の蔕を勧めることが多いのです。柿の蔕だけを使用しても一定の効果がありますが、体質や症状を考慮しているわけではありませんから、根治は無理なことが多いですし、しゃっくり以外の症状が軽減されることも期待できません』とあって、何と現在でも正規の医師が公に勧めている事実が分かる。以下を読んでゆくと。調剤名は「柿蒂湯(していとう)」「丁香柿蒂湯(ちょうこうしていとう)」などと呼称していることが分かる。柿の蔕に丁香(クローブ)や生姜を配合するようである。

・「枝柿」吊るし柿。戦国の昔から美濃地方の名産品である。

・「牧野雲玄」不詳。ここまでの「耳嚢」には登場していない。名前とシチュエーションから医師に間違いないが、どうも、内科漢方系には弱そうだ。専門は外科医かも知れぬ。

・「岩本家」不詳。ここまでの「耳嚢」には岩本姓は登場していない。それにしてもかくも読者が知れることのように姓のみ出すというのは、当時のお武家としては、かなり有名な人物(「獻殘」という語を用いる以上は大名か旗本か)でなくてはなるまい。識者の御教授を乞うものである。

・「氣逆」しゃっくり。吃逆(きつぎゃく)。

・「獻殘」底本の鈴木氏注に、『武士または町人などが大名に献上した品物を、特定の商人(献残屋という)に払下げ、商人はまた献上用の品として売る、その品物を』いう、とある。謂わば、大名が受けた贈答品の内、不用のものや使いきれないで多量に残ったものをリサイクルするシステムである。但し、鈴木氏は続けて、『鰹節のように保存のきく品物が多い。なおこの文章は柿を献残といっているが単に到来品の意味であろう』と記しておられる。確かに、蔕をとってしまっては献残品には使い回せない。痒いところに手の届く納得の注である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 しゃくりの奇薬の事

 

 執拗(しゅうね)きしゃっくりの場合、美濃名産の吊るし柿の蔕(へた)一枚に対し、水一杯を加え、これを煎じ用いれば、即座に止まること絶妙で御座る。

 私の元へ参る牧野雲玄と申す医師、ある主治として御座ったさる病人――老人にて永患い致いて御座った者なるが――ある折りより、しゃっくりが出始め、これ、止まらずなったによって、殊の外、困って御座ったゆえ、一般に用いるところの薬を適宜、調剤致いては処方致いたところが、これ、一旦は止ったものの、その後も、しばしばぶり返して、これ、衰えた病人には辛き煩いの種で御座った。

 ところが、ある日、牧野殿、かの岩本家を訪ねた際、このしゃっくりの難儀の話しを致いたところ、岩本の御老人曰く、

「……御医者なる貴殿に申すもなんでは御座るが……気逆(きぎゃく)には、これ、美濃の吊るし柿の蔕を洗った湯(ゆう)を用いて、これ、度々、奇効の御座ったぞ。……」

と話した上、

「……そのため、他よりもろうた到来品の柿の蔕、これ、貯え置いて御座れば、少しお分け致そう。……」

とて、雲玄、頂戴致いて、早速に煎じて、かの老病人へ用いたところ……

 

「――いや! これ、たちどころに、執拗(しゅうね)きしゃっくり――これ、止まって御座った!。」

と雲玄殿が語って御座った。

 なれば、私もかの柿の蔕、これ、貯えおくの儀、家の者に申し付けておるので御座る。

一言芳談 一二七

   一二七

 

 法然上人御往生の後、三井寺の住心房に夢の中に、とはれても、阿彌陀佛はまたく風情(ふぜい)もなし。ただ申すなりと、上人こたへ給ひけり。

 

〇三井寺の住心房、寺法師にて往生の心ざしふかかりしゆゑ、夢の中に、法然上人にあひ奉りて、念佛の申し樣を問はれし時の御返事なり。

 

[やぶちゃん注:特異な夢記述のエピグラムである。所謂、聖書の預言者たちのような黙示録的夢幻の一句である。

「住心房」Ⅱの大橋氏注に、『天台の阿闍梨覚顕。右内弁葉室行隆の息にして信空の兄ともいう』とされ、「一枚起請文梗概聞書」下にも「三井寺の住心房と申す學生ひじり」と見える、とある。しかし、調べてみると、平安時代後期の公卿であった藤原季仲の子に園城寺阿闍梨覚顕の名を記す資料、また、現在の京都市上京区にある廬山寺(現在は天台宗系の圓浄宗単立寺院)を、寛元三(一二四五)年に現在の船岡山の麓で復興した人物として、法然上人に帰依した住心房覚瑜(かくゆ)なる僧名を見出せる。これらの一体誰がここで法然と夢に逢った人物なのであろう? 識者の御教授を乞うものである。

「とはれても」住心房が夢の中で極楽浄土に在る故法然上人に、「阿彌陀様のご様子はどのような感じで御座るか?」と問われても、の謂いである。

「風情」これは広義の気配、様子の謂いで、「風情もなし」で、これといって変わった特別なご様子も見受けられませぬ、の謂い。]

假面の上の草 大手拓次

 假面の上の草

そこをどいてゆけ。
あかい肉色の假面のうへに生えた雜草は
びよびよとしてあちらのはうへなびいてゐる。
毒鳥の嘴(くちばし)にほじられ、
髮をながくのばした怪異の托僧は こつねんとして姿をあらはした。
ぐるぐると身をうねらせる忍辱は
黑いながい舌をだして身ぶるひをする。
季節よ、人閒よ、
おまへたちは横にたふれろ、
あやしい火はばうばうともえて、わたしの進路にたちふさがる。
そこをどいてゆけ、
わたしは神のしろい手をもとめるのだ。

詩人の稱呼 萩原朔太郎

       詩人の稱呼

 

 詩人の稱呼は決定的である。なぜなら眞の天質的の詩人は、韻文以外の何を書いても、その文學の一切が皆必然的の詩になつてゐるから。反對に似而非の詩人は、韻文を書いてさへも、形體(フオルム)以外の意味に於ては、眞の詩になつてゐないから。――詩人と韻文作家との區別は、素因的に決定されてるものである。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十四番目、先に示した「詩人と詩作家」の直後に配されたものである。ここまで読んできてくれた私の稀有の親しい読者の数人は、私がこれらの引用で主に何を意識しているか、既にお分かりであろう。――芥川龍之介――である。朔太郎は畏友芥川龍之介のことを「詩を熱情してゐる小説家である。」「詩が、芥川君の藝術にあるとは思はれない。それは時に、最も氣の利いた詩的の表現、詩的構想をもつてゐる。だが無機物である。生命としての靈魂がない。」と公言して憚らなかった。その前後の頗る忘れ難い印象的な複数のシークエンスを我々は萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」の中に見出す。特にその「11」から「13」である(私は「13」の朔太郎と龍之介の最後のショットを確かに実見したという不思議な錯誤記憶さえあるのである)。リンク先は私の電子テクストである。]

鬼城句集 春之部 鶸

 

鶸    水あみてひらひら揚る川原鶸

 

     [やぶちゃん注:底本では「ひらひら」の後

      半は踊り字「〱」。]

2013/03/28

「エビングハウスの夢」と書く夢

四、五日前の夢。
夢の中にノートがある。
そこに僕は
「エビングハウスの夢」
と鉛筆で書く――

という、それだけの夢だったのだが、目覚めた直後、僕はこれは僕の好きな「性的倒錯」で知られた心理学者クラフト・エビングのアナグラムだろうと思い、放っておいたのである。
ところが、ふと、何か違和感があって、先程、調べてみたところが、エビングハウスなる心理学者が実在した。ドイツの心理学者で、子音・母音・子音から成る無意味な音節を記憶し、その再生率を調べ、「忘却曲線」という中・長期記憶に関わる忘却を表す曲線の提唱者であることを知った。
私の書斎には短期記憶や長期記憶に関わるジリアン・コーエンの著作や(巻頭にエビングハウスの英語名が記されていた)、二十代の頃に蒐集した記憶関連の論文類が幾つかあるから、その中で読んで知っていたのかも知れない――が、今やそれこそ完全に「忘却」している――名前だったのである。

何だか、それも不思議、また夢もただシンプルで不思議、であった。

僕の脳が僕の忘却――脳萎縮によるそれを――押し留めようとでも、したのであろうか?……

北條九代記 北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田義盛の嘆願と義憤そして謀叛の企て〉

 

和田左衞門尉義盛は、上總國伊北莊(いぎたのしやう)にありけるが、この事を聞きて急ぎ走參(はせさん)じ、御所に伺候して對面を遂げ奉る。今度、二人の子息等召誡(めしいまし)めらるゝ事を大に歎き申しければ、數年勲功の忠節に優(いう)じて、子息四郎義直、五郎義重が罪名(ざいみやう)を除きて、許し下されたり。羲盛、老後の眉目(びもく)、之に如(しか)ずと喜び奉りて、退出す。翌日、又、義盛、その一族九十八人を引卒して、御所の南庭に列坐し、迚(さても)の御恩に、囚人の内和田平太胤長を許し給はるべしと申す。平太は謀叛人の張本なれば、叶ふべからずとて、高手小手に縛搦(しばりから)め、一族共の坐したる前を引渡し、判官行村に仰せて、陸奥國岩瀨の郡(こほり)に流罪せらる。平太が家は荏柄(えがら)の天神の前にあり。御所の東の隣(となり)たるに依て、近習の侍、望み申す人多し。義盛、即ち五條局(でうのつぼね)とて、近く召使はるゝ女房に屬(しよく)して、言上しけるやう、「故右大將家の御時より、義盛が一族の所領の地としては、他人、更に住居すべからず。只今、闕所(けつしよ)に及ぶ條、是非なし。せめて彼が屋形(やかた)をば申(まうし)受け奉らん」と望み申す。實朝卿、御許容ありけるが、忽に變改(へんがい)して、相摸守義時に賜る。和田が代官久野谷(ひさのやの)彌次郎を追出し、行親、忠家、分(わけ)取りて移(うつり)住みけり。義盛、大に怒(いかつ)て曰く、「この屋形を申受けて少(すこし)の怨(うらみ)をも散ぜんと思ひし所に、忽に變改して義時に賜る事、重々以て口惜(くちをし)き事なり。此上は生きて世にありて何を面目とすべき。皆、北條が所屬なれば、思ひ知らせばべらんものを」とて、頓(やが)て叛逆を企てけり。和田新兵衞尉朝盛(とももり)は義盛が孫なり。將軍家の近習(きんじゆ)として等倫(とうりん)の寵恩、之に越(こゆ)る人なし。近比(このころ)、父祖一黨して怨(うらみ)を含み、出仕を留めて、叛逆を企てはべる。是に與すれば、君を射奉るの科(とが)あり。與せざれば、父祖の孝道に叛く事を思ひて、淨遍僧都に謁して、發心出家の身となり、實阿彌陀佛と名を付きて、京都に上りける所に、義盛、聞付けて、四郎左衞門尉義直を追手に遣はす[やぶちゃん注:「尉」は底本になく、不自然な一字空けになっている。脱字と判断して訂した。]。駿河國手越(てごし)にて追付き、引返しはべり。この事、隱(かくれ)なかりしかば、將軍家より宮内兵衞尉公氏(きんうぢ)を遣(つかは)し、樣々宥(なだ)め仰せらるれども、用ひず。

 

[やぶちゃん注:〈和田義盛の嘆願と義憤そして謀叛の企て〉

「吾妻鏡」巻二十一の建暦三(一二一三)年三月八日・九日・十七日・二十五日及び四月二日・十五日・十六日・十七日・十八日・二十七日等の条に基づくが、乱の勃発直前の、実朝幕府側と義盛との緊迫したやり取りのシークエンスは、何故か端折られている。個人的には、カタストロフへ向けての漸層的な昂まりの場面を筆者が省略したのは解せない。かなり面白いからである。特にその後半辺りは以下の「吾妻鏡」の引用で味わって戴きたい。まずは三月八日の条。

 

〇原文

八日己酉。天霽。鎌倉中兵起之由。風聞于諸國之間。遠近御家人群參。不知幾千万。和田左衞門尉義盛日來在上総國伊北庄。依此事馳參。今日參上御所。有御對面。以其次。且考累日勞功。且愁子息義直。義重等勘發事。仍今更有御感。不及被經沙汰。募父數度之勳功。被除彼兩息之罪名。義盛施老後之眉目。退出云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

八日己酉。天、霽る。鎌倉中に兵起るの由、諸國に風聞するの間、遠近(をちこち)の御家人の群參、幾千万といふことを知らず。和田左衞門尉義盛、日來(ひごろ)、上総國伊北庄(いきたのしやう)に在り。此の事に依つて馳せ參じ、今日御所へ參上し、御對面有り。其の次でを以つて、且つは累日(るいじつ)の勞功を考へ、且つは子息義直・義重等、勘發(かんぽつ)の事を愁ふ。仍つて、今、更に御感有りて、沙汰を經らるに及ばず、父が數度の勳功に募(つの)り、彼の兩息の罪名を除かる。義盛、老後の眉目(びもく)を施して、退出すと云々。

 

・「伊北庄」上総国夷隅郡内に中世に作られた荘園伊隅荘(いすみのしょう)の一部。鎌倉時代には全体としての伊隅荘という総称は残ったものの、実際には分割支配されて伊北荘・伊南荘と称された。現在の研究では伊北荘の範囲は現在の夷隅郡西部の大多喜町及び旧夷隅町の一部に勝浦市北部を含んだ地域とされる。参照したウィキに「伊隅荘」によれば、初期の『荘園領主は鳥羽上皇により創建された金剛心院』で、『当荘の成立経緯は不明だが、旧夷隅郡がほとんどそのまま伊隅荘として立荘されたものと考えられる。治承年間には上総氏の支配下にあった。そして上総氏が滅亡した後は和田義盛が伊北荘を支配したが、和田合戦で北条方に敗れた後は三浦胤義がこの地を支配した。しかし、当荘が南北両荘に分割して支配されたことは南北朝時代に至っても変わらなかったことが覚園寺文書からわかっている』とある。なお、「いきた」という読みは、本来の荘園総称の「いすみ」という読み及び「北條九代記」の読みに合わせた私の判断であって、資料によっては「いほく」と読んでいる。

 

・「勘發」読みは「かんほつ」「かんぼつ」でもよい。過失を責めること。譴責。

 

・「眉目」面目。名誉。 

 

 翌九日の条。

 

〇原文

九日庚戌。晴。義盛〔著木蘭地水干葛袴。〕今日又參御所。引率一族九十八人。列座南庭。是可被厚免囚人胤長之由。依申請也。廣元朝臣爲申次。而彼胤長爲今度張本。殊廻計畧之旨。聞食之間。不能御許容。即自行親。忠家等之手。被召渡山城判官行村方。重可加禁遏之由。相州被傳御旨。此間。面縛胤長身。渡一族座前。行村令請取之。義盛之逆心職而由之云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

九日庚戌。晴る。義盛〔木蘭地(もくらんぢ)の水干、葛袴(くずばかま)を著す。〕、今日、又、御所に參ず。一族九十八人を引率し、南庭に列座す。是れ、囚人胤長を厚免せらるべきの由、申し請(う)くるに依つてなり。廣元朝臣、申し次ぎたり。而るに、彼の胤長、今度の張本として、殊に計略を廻らすの旨、聞こし食(め)すの間、御許容に能はず。即ち行親・忠家等が手より、山城判官行村の方へ召し渡され、重ねて禁遏(きんあつ)を加ふべしの由、相州、御旨を傳へらる。此の間、胤長の身を面縛(めんばく)し、一族の座の前を渡し、行村、之を請け取らしむ。義盛の逆心、職(しよく)として之れに由(よ)ると云々。

 

・「木蘭地」梅谷渋(うめやしぶ:染料の名。紅梅の根や樹皮を煎じた液。)に明礬(みょうばん)を媒染剤として混ぜて染めた狩衣・直垂(ひたたれ)などの地の染め色のこと。赤味のある黄色を帯びた茶色。「もくれんじ」「むくらんじ」とも読む。

 

・「葛袴」葛布(くずふ:クズの繊維を紡いだ糸で織った布。)で作った袴。狩袴をやや裾短かに仕立てて、括(くく)り緒(お)を附けたもの。

 

・「禁遏」本来は禁じてやめさせることであるが、ここは監禁することを言っている。

 

・「面縛」罪人を捕縛する際の捕縛方法に附けられた名称。両手を後ろ手に縛り上げて、顔面を前方に差し出させる縛り方をいう。

 

・「職として」「職」は「専ら」の意、連語で、「主として」「専ら」の意味で、「吾妻鏡」では、ある事件を引き起こすことになる原因の説明に多く用いられている。「もととして」と訓ずる説もある。

 

 結局、胤長は十七日の条で『和田平太胤長配流陸奥國岩瀨郡云々。』(和田平太胤長、陸奥國岩瀨郡へ配流すと云々。)とある。「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注では、『陸奥國岩瀬郡は、現福島県須賀川市のあたり。直接に繋がる資料証拠はないが、戦国初期に二階堂氏が須賀川に、結城氏は白河に、三浦の田村氏は三春にいた。田村氏は二階堂氏や結城氏と何度も争っている。三月九日の記事と合わせて思料すると、二階堂行村の領地が須賀川市(旧岩瀬郡)にあったと推測される』と記しておられる。三月九日の記事で胤長が預け替えとなった相手の山城判官行村とは二階堂行村で、この配流地は後の戦国の領地抗争史から見て、鎌倉時代には二階堂氏の所領であった可能性が高いという推理である。以下、「吾妻鏡」では、この次にある十九日の条で早くも、甲冑に身を固めた不審な五十余人の輩が義盛邸の辺りを徘徊、和田氏に組する武蔵七党の一つ、横山党連中であることが判明して、不穏な事態であることから御所で行われていた徹夜の庚申会(こうしんえ)が途中で中止されたり、二十日には流された胤長の六歳の娘が父の遠流の悲哀のために病み臥して危篤状態となり、何とかしようと、『而新兵衞尉朝盛其聞甚相似胤長。仍稱父歸來之由。訪到。少生聊擡頭。一瞬見之。遂閉眼云々。同夜火葬。母則遂素懷〔年廿七。〕西谷和泉阿闍梨爲戒師云々。』(而るに新兵衞尉朝盛、其の聞え、甚だ胤長に相ひ似る。仍つて父の歸り來るの由と稱し、訪(とぶら)ひ到る。少生、聊か擡頭して、一瞬、之を見て、遂に閉眼すと云々。同夜、火葬す。母、則ち素懷〔年廿七。〕を遂ぐ。西谷の和泉阿闍梨、戒師たりと云々。)といった、私なら何としても採り入れたいサイドの悲劇のシークエンスが描かれている。この和田朝盛(とももり:和田義盛の嫡孫)は実朝遺愛の側近で、「北條九代記」本文にも引かれている通り、この後の和田合戦直前の今一つのエピソードの主人公ともなる。

 

 次の同三月二十七日の条で荏柄天神前の旧胤長屋敷の問題がクロース・アップされる。

 

〇原文

廿五日丙寅。和田平太胤長屋地在荏柄前。依爲御所東隣。昵近之士面々頻望申之。而今日。左衞門尉義盛屬女房五條局。愁申云。自故將軍御時。一族領所收公之時。未被仰他人。彼地適有宿直祗候之便。可令拝領之歟云々。忽令達之。殊成喜悦之思云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

廿五日丙寅。和田平太胤長が屋地(やぢ)は、荏柄(えがら)の前に在り。依つて御所の東隣りたるに依つて、昵近(ぢつきん)の士、面々に頻りに之を望み申す。而るに今日、左衞門尉義盛、女房五條局に屬して、愁ひ申して云はく、

「故將軍の御時より、一族の領所を收公の時、未だ他人に仰せられず。彼の地は、適々(たまたま)宿直(とのゐ)の祗候(しこう)の便(びん)有り。之を拝領せしむべきか。」

と云々。

忽ち之を達せむ。殊に喜悦の思ひを成すと云々。

 

・「一族の領所を收公の時、未だ他人に仰せられず」中世に於いては一族連座が適応されない個別な罪状による個人の所領没収については同族にそれを還付するのが原則であったから、ここで義盛の旧胤長邸懇請、即座に行われた実朝によるその引き渡しの許諾、義盛の喜悦という部分は当然のことで、一見、やや事態にも明るい兆しが見えたかのように感じられるのだが……その一週間後、事態は思わぬ展開を見せることとなるのである。 

 

 翌月四月二日の条。

 

〇原文

二日癸酉。相州被拜領胤長荏柄前屋地。則分給于行親。忠家之間。追出前給人。和田左衞門尉義盛代官久野谷彌次郎各所卜居也。義盛雖含欝陶。論勝劣。已如虎鼠。仍再不能申子細云々。先日相率一類。參訴胤長事之時。敢無恩許沙汰。剩面縛其身。渡一族之眼前。被下判官。稱失列參之眉目。自彼日悉止出仕畢。其後。義盛給件屋地。聊欲慰怨念之處。不事問被替。逆心彌不止而起云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

二日癸酉。相州、胤長が荏柄の前の屋地(やぢ)を拜領せられ、則ち、行親・忠家に分ち給ふの間、前の給人(きふにん)、和田左衞門尉義盛が代官、久野谷彌次郎を追ひ出し、各々卜居(ぼくきよ)する所なり。義盛、欝陶(うつたう)を含むと雖も、勝劣を論ずれば、已に虎鼠(こそ)のごとし。仍つて再び子細を申すに能はずと云々。

先日、一類を相ひ率いて、胤長が事を參訴の時、敢へて恩許の沙汰無し。剩(あまつさ)へ其の身を面縛(めんばく)し、一族の眼前を渡し、判官に下さる。列參の眉目を失ふと稱し、彼の日より悉く出仕を止め畢んぬ。其の後、義盛、件(くだん)の屋地を給はり、聊か怨念を慰めんと欲するの處、事問はず、替へらる。逆心、彌々(いよいよ)止まずして起こると云々。

 

・「虎鼠のごとし」(訴論をしても相手が義時では)虎に鼠が挑むような勝ち目のないものであることを言う。まさに義時は確信犯でこの旧胤長邸の占拠を実行している(恐らくは実朝にさえも強圧的に還付の破棄を迫ったものと思われる。いや、寧ろ、巧妙に還付をさせた上で、巧妙な手管によって合法的奪取を仕組み、義盛を絶望と憤怒の底に叩き落とし、謀叛決起を起こさせる作戦であったと読んでもよかろう)。まさしく文字通り――義時は虎狼の心あり――である。 

 

 同四月十五日から「吾妻鏡」をそのまま十八日まで引く。父祖と実朝の板挟みとなった和田朝盛のエピソードである。

 

〇原文

十五日丙戌。和田新兵衞尉朝盛者。爲將軍家御寵愛。等倫敢不諍之。而近日父祖一黨含恨忘拜趨。朝盛同抛夙夜長番令蟄居。以其暇之隙。逢淨遍僧都。學出離生死之要道。讀經念佛之勤修未有怠。漸催發心。今夕已欲遂素懷。存年來餘波參御所。于時將軍家對朗月。於南面有和歌御會。女房數輩候其砌。朝盛參進。獻秀逸之間。御感及再往。又陳日來不事子細。公私互散蒙霧。快然之餘。縮載數ケ所地頭職於一紙。直給御下文。月及午。朝盛退出。不能歸宅。到淨蓮房草庵。忽除髪。號實阿彌陀佛。即差京都進發。郎等二人。小舎人童一人。共以出家云々。

十六日丁亥。朝盛出家事。郎從等走歸本所。告父祖等。此時乍驚。自閨中求出一通書狀。披覽之處。書載云。叛逆之企。於今者定難被默止歟。雖然。順一族不可奉射主君。又候御方不可敵于父祖。不如入無爲。免自他苦患云々。義盛聞此事。太忿怒。已雖爲法體。可追返之由。示付四郎左衞門尉義直。是朝盛者殊精兵也。依時軍勢之棟梁。義盛強惜之云々。仍義直揚鞭云々。

十七日戊子。於御所被供養八万四千基塔婆。莊嚴房爲導師云々。〕朝盛遁世事。今日達上聞。御戀慕無他。令刑部丞忠季訪父祖別涙給云々。

十八日己丑。義直相具朝盛入道。自駿河國手越驛馳歸。仍義盛遂對面。暫散鬱憤云々。又乍著黑衣。參幕府。依有恩喚也。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日丙戌。和田新兵衞尉朝盛は、將軍家の御寵愛たり。等倫(とうりん)、敢へて之を諍(あらそ)はず。而るに近日、父祖一黨、恨を含みて拜趨(はいすう)を忘れ、朝盛、同じく夙夜(しゆくや)の長番(ちやうばん)を抛(なげう)ち、蟄居せしめ、其の暇まの隙(ひま)を以つて、淨遍僧都に逢ひ、出離生死(しゆつりしゃうじ)の要道を學びて、讀經念佛の勤修(ごんじゆ)、未だ怠り有らず。漸くに發心(ほつしん)を催し、今夕、已に素懷を遂げんと欲す。年來(としごろ)の餘波(なごり)を存じ、御所へ參る。時に將軍家、朗月(らうげつ)に對し、南面に於いて和歌の御會有り。女房數輩、其の砌りに候ず。朝盛、參進し、秀逸を獻ずるの間、御感、再往に及ぶ。又、日來(ひごろ)不事の子細を陳(の)べ、公私互ひに蒙霧(もうむ)を散じて、快然たるの餘りに、數ケ所の地頭職を一紙に縮載して、直(ぢき)に御下文を(くだしぶみ)を給ふ。月、午(ご)に及び、朝盛、退出す。歸宅に能はず、淨蓮房の草庵に到り、忽ち髪を除(はら)ひて、實阿弥陀佛と號し、即ち、京都を差して進發す。郎等二人、小舎人童(こどねりわらは)一人、共に以て出家すと云々。

十六日丁亥。朝盛が出家の事、郎從等、本所へ走り歸りて、父祖等に告ぐ。此の時、驚きながら、閨中(けいちゆう)より一通の書狀を求め出だし、披覽するの處、書き載せて云はく、

「叛逆の企て、今に於いては定めて默止(もくし)せられ難からんか。然りと雖も、一族に順ひて主君を射奉るべからず。又、御方(みかた)に候じて父祖に敵するべからず。如(し)かじ、無爲に入りて、自他の苦患(くげん)を免れんには。」

と云々。

義盛、此の事を聞き、太だ忿怒(ふんぬ)し、

「已に法體(ほつてい)たりと雖も、追つて返すべし。」

の由、四郎左衞門尉義直に示し付く。是れ、朝盛は殊なる精兵(せいびやう)なり。時の軍勢の棟梁たるに依つて、義盛、強(あなが)ちに之を惜むと云々。

仍つて義直、鞭を揚ぐと云々。

十七日戊子。御所に於いて八万四千基の塔婆を供養せらる。莊嚴房、導師たりと云々。

朝盛が遁世の事、今日、上聞(じやうぶん)に達す。御戀慕、他(ほか)無し。刑部丞忠季をして父祖の別涙を訪(とぶら)はしめ給ふと云々。

十八日己丑。義直、朝盛入道を相ひ具し、駿河國手越(てごし)驛より馳せ歸る。仍つて義盛、對面を遂げ、暫く鬱憤を散ずと云々。

又、黑衣を著けながら、幕府に參ず。恩喚有るに依つてなり。

 

・「和田新兵衞尉朝盛」(生没年不詳)彼は「朝盛は殊なる精兵」とあるように、父常盛とともに弓の名手であった。そのために以下に見るように祖父義盛が合戦の際の、不可欠の人物として連れ戻させたのであった。この直後の和田合戦では一族とともに戦い、一族は敗れたものの彼は生き延びている。恐らくは戦後に、寵愛していた実朝からの強い意向が働いたからと思われる。但し、承久三(一二二一)年の承久の乱の際には上皇方に組して参戦、乱後は逃亡するも嘉禄三(一二二七)年六月に捕縛されている。参照したウィキの「和田朝盛」によれば、その後の動向ははっきりしないものの、三浦半島の現在の三浦市初声(はつせ)町にある『高円坊に墓(朝盛塚)があり、その地名も朝盛の法名から取ったものと伝えられている』とあり、『また、江戸時代の『寛政重修諸家譜』の佐久間氏(三浦氏一族)の項の記述によれば、親族の佐久間家村の養子となり越後国奥山荘に逃れ、その後尾張国御器所に移り住んだと記述されている。
しかし、同時代の史料でそれを裏付けるものは見つかっていない』とする。何か、歴史の煙霧の中に静かに姿を消した、彼が愛しい気が、私にはするのである。

 

・「等倫、敢へて之を諍はず」同輩の仲間。ここは朝盛の寵愛が同輩が競うまでもなく、抜きんでていたことを語る。

 

・「拜趨」相手の所へ出向くことを遜って言う語。参上。

 

・「夙夜の長番」「夙夜」朝早く出仕し、夜遅くまで仕えることであるから、日参の永の近侍をいう。

 

・「朗月」朗らかな月、明るく澄み渡った月で、名月のこと。この日は陰暦十五日であるから、折しも満月である。

 

・「南面に於いて」君子南面すで、御所の公的な行事として、の意。

 

・「日來の不事の子細を陳じ」ここのところの不出仕のお詫びを申し上げ。

 

・「秀逸を獻ずるの間」優れた(恐らくは今の自分の置かれた微妙な立場を詠み込んだ)秀逸なる和歌を実朝卿に献じたによって。

 

・「公私互に蒙霧を散じ」「蒙霧」は「朦霧」とも書き、立ちこめる霧から転じて、心の晴れぬ様を言い、実朝と朝盛との間の互いの不審や疑念が雲散霧消し、の意。

 

・「快然」気分が晴れて、心地良くなるさま。

 

・「數ケ所の地頭職を一紙に縮載して」複数箇所の地頭職を朝盛に任ずる内容の下文を一枚の紙に略記して。

 

・「月、午に及び」満月の時であるから、まさに午前零時頃である。

 

・「閨中」朝盛の私室の寝所。

 

・「如かじ、無爲に入りて、自他の苦患を免れんには。」これ以外に、法は御座いませぬ……何もせず……そして……自分と主君と和田一族の……この曰く言い難き苦渋の苦界から出するためには。

 

・「父祖の別涙を訪はしめ給ふ」祖父和田義盛や父常盛の殊の外であろう無念の悲しみ(それは寧ろ実朝自身の思いであったと思われるが)を見舞わせなさった。

 

・「駿河國手越驛」現在の静岡県静岡市手越は安倍川の右岸に位置するが、中世の宿駅はもう少し北方の安陪川支流の藁科(わらしな)川右岸にあった。

 

ここに至っても、朝盛は墨染の衣で、実朝に律儀に謁見している。和田義盛もその謁見を許している。誰もが最早、諦めているところの始動したカタストロフの一齣の中、私はこの二人の謁見場面を映像に撮りたい欲望に駆られるのである。 

 

「この事、隱なかりしかば、將軍家より宮内兵衞尉公氏を遣し、樣々宥め仰せらるれども、用ひず」最後のこの一文部分は、「吾妻鏡」では詳細を極める。建暦三(一二一三)年四月二十七日の条を見て、本パートの終わりとしよう。

 

〇原文

廿七日戊寅[やぶちゃん注:これは「戊戌」の誤り。書き下し文では訂した。]。霽。宮内兵衞尉公氏爲將軍家御使。向和田左衞門尉宅。是義盛有用意事之由依聞食。被尋仰其實否之故也。而公氏入彼家之侍令案内。小時。義盛爲相逢御使。自寢殿來侍。飛越造合。〔無橋。〕其際烏帽子拔落于公氏之前。彼體似斬人首。公氏以爲。此人若彰叛逆之志者。可伏誅戮之表示也。然後。公氏述將命之趣。義盛申云。右大將家御時。勵隨分微功。然者抽賞頗軼涯分。而薨御之後。未歷二十年。頻懷陸沈之恨。條々愁訴。泣雖出微音。鶴望不達鷁。退恥運計也。更無謀叛企之云々。詞訖。保忠。義秀以下勇士等列座。調置兵具。仍令歸參。啓事由之間。相州參給。被召在鎌倉御家人等於御所。是義盛日來有謀叛之疑。事已決定歟。但未及著甲冑云々。晩景。又以刑部丞忠季爲御使。被遣義盛之許。可奉度世之由有其聞。殊所驚思食也。先止蜂起。退可奉待恩裁也云々。義盛報申云。於上全不存恨。相州所爲。傍若無人之間。爲尋承子細。可發向之由。近日若輩等潛以令群議歟。義盛度々雖諌之。一切不拘。已成同心訖。此上事力不及云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日戊戌。霽る。宮内兵衞尉公氏(きんうぢ)、將軍家の御使と爲し、和田左衞門尉が宅へ向ふ。是れ、義盛、用意の事有るの由、聞こし食(め)すに依つて、其の實否を尋ね仰せらるるが故なり。而して公氏、彼の家の侍(さぶらひ)へ入り案内せしむ。小時(しばらく)あつて、義盛、御使に相ひ逢はんが爲に、寢殿より侍へ來たり、造り合せ〔橋無し。〕を飛び越ゆ。其の際、烏帽子、公氏の前に拔け落つ。彼(か)の體、人の首を斬るに似たり。公氏、以爲(おもへ)らく、

『此の人、若し、叛逆の志を彰(あら)はさば、誅戮に伏すべきの表示なり。』

と。然る後、公氏、將命の趣きを述ぶ。義盛、申して云はく、

「右大將家の御時、隨分と微功を勵ます。然らば、抽賞(ちうしやう)、頗る涯分(がいぶん)に軼(す)ぐ。而るに薨御の後、未だ二十年を歷(へ)ずして、頻りに陸沈(りくちん)の恨みを懷く。條々の愁訴、泣きて微音を出すと雖も、鶴望(かくまう)、鷁(げき)に達せず。退きて運を恥づる計りなり。更に謀叛の企て、之れ無し。」

と云々。

詞、訖はりて、保忠・義秀以下の勇士等、座に列し、兵具を調へ置く。仍つて歸參せしめ、事の由を啓(まう)すの間、相州、參じ給ひ、在鎌倉の御家人等を御所へ召さる。

「是れ、義盛、日來(ひごろ)謀叛の疑ひ有り。事、已に決定するか。但し、未だ甲冑を著するに及ばず。」

と云々。

晩景、又、刑部丞忠季を以つて御使と爲し、義盛の許へ遣はさる。

「世を度(はか)り奉るべきの由、其の聞こえ有り。殊に驚き思し食(め)す所なり。先づ蜂起を止め、退きて恩裁を待ち奉るべきなり。」

と云々。

義盛、報(こた)へ申して云はく、

「上に於いては全く恨を存ぜず。相州が所爲、傍若無人の間、子細を尋ね承らんが爲、發向すべきの由、近日、若輩等、潛かに以つて群議せしむるか。義盛、度々、之を諫むると雖も、一切、拘らず。已に同心を成し訖んぬ。此の上は事、力に及ばず。」

と云々。

 

・「侍」武士の屋敷内で寝殿とは別棟になっている警護の武士の詰所。戸や建具などを設けていない板敷の建物で、武具一般が常備されていた。

 

・「抽賞、頗る涯分に軼ぐ」その際に受けた恩賞は、これ、すこぶる大きなもので御座って拙者の分際には過ぎたもので御座った。

 

・「頻りに陸沈の恨みを懷く」早くも何故か、一族滅亡せんかという恨みを懐くことと相い成って御座る。

 

・「鶴望、鷁に達せず」一匹の地上の誠心の鶴の望みの声も、天上界を雄飛する鷁(げき:中国古代の想像上の水鳥。白い大形の鳥で、風によく耐えて大空を飛ぶとされた。ここは実朝を指すのであろう。)には遂に届くことは御座らなんだ。

 

・「保忠」古郡保忠。古郡氏は先に登場した横山党の一族といわれる。

 

・「義秀」義盛の子にして和田一族の超人ハルク朝比奈義秀(安元二(一一七六)年~?)。

 

・「刑部丞忠季」一部の記載では藤原姓とする。

 

・「恩裁」原文では実は「恩義裁」とするのだが、衍字と考えられており、除去した。有り難い御裁きの謂い。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 10

 況かゝるまれなる果報に生れあひて、三棟四棟の殿づくり、軒に軒をならべ、さき草のさきざき川いやましにさかえむ世は、濱の眞砂を數々かぞへてもなをたらぬ祈は、いつの代も下より上をおしなべてうとからぬ心ながらも、いにしへのあとをみれば淺茅が露にやどる月はよなよなかはらず。何事もむかしは蓬がそまに引かへたるをおもふにも、殘るは名也。宮寺などいとなみしはかたばかりも世にとゞまりて、今の世まで是はたれ樣のはじめて草をむすびをき給ふ、是はたれ人のたへたるをかさねて取おこし給ひて今までかくなむと、所の者の口に殘りて傳へ申を、その代の人のかたみとぞみる。是をおもへばみづからの栖居はいかにもして、かたみを神社佛閣に殘さまほしき事也。此世にはあだながらも殘る名はくちずしてつたへ、後の世は佛果の緣とならん。しかるを時の人はかゝることばをかりそめにも聞てはかた腹いたき事にいひなせども、かしこき世々のきみいかばかり智惠ある人も信じきたりたる道なれば、くだりたる世のあさき智惠にては此法をそしりやぶりがたし。やぶるはやすく立るはかたし。やすきは道にとをし、道はいたりがたき物也。百日はかりていとなみし家もやぶるは一日の中にあり。何事もかゝる理とおもふべき事なり。此寺にきてみしますが笠の軒もおち、時雨も露もふりそふあり樣ながら、晨鐘夕梵の聲のみかつがつもたえぬばかりぞ、此法の今少殘りたるしるしとぞきゝし。

  山言金澤寺稱名  響谷晨鐘夕梵聲

  時去池蓮餘敗葉  院荒籬菊尚殘英

  挾楓松竹留秋見  聽雨芭蕉入夜鳴

  屋上峯兮廊下海  登臨終日隔人情

[やぶちゃん注:書き下す。

 

  山(さん) 金澤と言ふ 寺 稱名

  谷に響く晨鐘 夕梵(ゆふぼん)の聲

  時 去りて 池蓮 敗葉(はいえふ)を餘(のこ)し

  院 荒れて 籬菊(りきく) 尚ほ英(はな)を殘す

  楓(かへで)を挾む松竹 秋を留めて見

  雨を聽くの芭蕉 夜に入りて鳴(な)る

  屋上の峯 廊下の海

  登臨 終日 人情を隔つ

 

個人的にこの詩、頗る附きで好きである。]

一言芳談 一二六

   一二六

 

 聖光上人云、凡夫は歷緣對境(りやくえんたいきやう)の名利をば可發(おこすべき)なり。但し、往生の解行(げぎやう)につきては一向(いつかう)、眞實なるべし。

 

〇歷緣對境の名利、緣にふれ、境に對して、名聞利養なり。それはさのみ往生の障にあらず。

 

[やぶちゃん注:「歷緣對境」Ⅱの大橋氏注に、『原意は行住坐臥の縁にふれて、色声などの認識の対象に対することをいう』とある。現世の不可避の欲望を指していよう。

「可發なり」この「べき」は適当である。そうした現世に於いて、しがらみとしての名利に関心を持つのは構わない、必然的に仕方がないことだ、と言っているのである。

「解行」仏教の教理の理解と実践的な修行。

「一向、眞實なるべし」Ⅱで大橋氏は、『ひたすらまことの心でなくてはなりません』と訳す。往生決定だけは――誠心でなくてはならぬ/誠心である、と言っているのである。]

耳嚢 巻之六 物を尋るに心を盡すべき事

 

 

 物を尋るに心を盡すべき事

 

 二條御城内に、久敷(ひさしく)封を不切(きらざる)御藏ありて、いつの頃、何ものか申出しけん、此藏をひらくものは、亂心なすとて、彌(いよいよ)恐れおのゝきて數年打過(うちすぎ)しが、俊明院樣御賀の時、先格(せんかく)の日記、御城内にあるべきとて、番頭より糺有(ただしあり)し故、普(あまね)く搜し求れども其舊記さらになし。せん方なければ、其譯申答(まうしこたへ)んと評儀ありしに、石川左近將監(さこんのしやうげん)、大番士たりし時、彼(かの)平日不明(あけざる)御藏内をも不改(あらためず)しては決(けつし)て無之(これなし)とも難申(まうしがたし)と言(いひ)しを、誰ありて申(まうし)傳への偶言に怖れて、明(あく)べきといふものなし。されど右を搜し殘して、なきとも難申(まうしがた)ければ、衆評の上、戸前(とまへ)を明(あ)け燈(ともしび)など入(いれ)て搜しけれど何もなし。二階を可見(みるべし)とて、濕(しめ)りも籠りたる處故(ところゆゑ)、提燈(ちやうちん)など入れしに兩度迄消へければ、彌(いよいよ)濕氣の籠れるを悟りて、彌(いよいよ)燈火を增して、不消(きえざる)に至りて上りて見しに、御長持二棹(さほ)並べありし故、右御長持を開き改めしに、御代々の御賀の記、顯然ありしかば、やがて其御用を辨ぜりと、左近將監かたりぬ。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特に感じさせない。

 

・「尋る」標題のそれは「たづぬる」と訓じていよう。

 

・「俊明院樣御賀」「俊明院」は第十代将軍徳川家治(元文二(一七三七)年~天明六(一七八六)年)。岩波版長谷川氏注に『天明六年三月七日に五十の賀』とある(但し、ウィキの「徳川家治」によれば、家治の実際の誕生日は天明六年八月二十五日とする。この齟齬の意味は私には不詳)。

 

・「先格」前例となる格式。前からのしきたりや以前からの決まり、先例、前例の謂いであるから、家治以前の、家治の父第九代将軍家重に限定せず、それよりも前の歴代将軍家の五十の賀の儀に関わる日記・記録の謂いであろう。

 

・「石川左近將監」石川忠房(宝暦五(一七五六)年~天保七(一八三六)年)。本巻の「英雄の人神威ある事」に既出であるが、再掲する。石川忠房は遠山景晋・中川忠英と共に文政年間の能吏として称えられた旗本。安永二(一七七三)年大番、天明八(一七八八)年大番組頭、寛政三(一七九一)年に目付に就任、寛政五(一七九三)年には通商を求めて来たロシア使節ラクスマンとの交渉役となり、幕府は彼に対して同じく目付の村上義礼とともに「宣諭使」という役職を与え、根室で滞在していたラクスマンを松前に呼び寄せて会談を行い、忠房は鎖国の国是の為、長崎以外では交易しないことを穏便に話して長崎入港の信牌(しんぱい:長崎への入港許可証。)を渡し、ロシアに漂流していた大黒屋光太夫と磯吉の身柄を引き受けている。寛政七(一七九五)年作事奉行となり、同年十二月に従五位下左近将監に叙任された。その後も勘定奉行・道中奉行・蝦夷地御用掛・西丸留守居役・小普請支配・勘定奉行・本丸御留守居役を歴任した辣腕である(以上はウィキの「石川忠房」を参照したが、一部の漢字の誤りを正した)。「將監」はもと、近衛府の判官(じょう)の職名。彼はウィキの記載によれば、明和元(一七六四)年八月に家督を継ぎ、安永二(一七七三)年十二月に大番、天明八(一七八八)年には大番組頭となっているから、天明六年当時の大番は正しい。但し、岩波版長谷川氏注に、『左近将監を称するのは寛政七』(一七九五)年から、とある。根岸より十九歳、年若である。【2014年7月15日追記】最近、フェイスブックで知り合った方が彼の子孫であられ、勘定奉行石川左近将監忠房のブログ」というブログを書いておられる。彼の事蹟や日常が髣髴としてくる内容で、必見! 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 物を尋ねる際には心を尽くすべき事 

 

 京都二条城の内に、久しく封を致いて御座って、所謂、「入らず御蔵」なるものが御座って――

 

――これ、何時の頃よりか――さても、何者が言い出したものか

 

『――この蔵を開く者は、乱心致す――』

 

とて、いよいよ、人々の恐れ戦き、数年、そのままにうち過ぎて御座ったと申す。

 

 ところが、俊明院家治樣の五十の御賀(おんが)の折り、先代将軍家の儀式に関わった日記などが、御城内にあるはずと、大番番頭(おおばんばんがしら)より糺しが御座ったによって、あまねく搜し求めてはみたものの、これ、そうした旧記、一向、見つからず御座ったと申す。

 

 仕方なく、

 

「……不明の由、お返事するしかあるまい。」

 

との評儀で一決して御座ったが、当時、大番役で御座った石川左近将監忠房殿は、

 

「……かの、普段『開かずの間と称して御座る御蔵の内をも改めずしては、これ、『御座らぬ』とも申し難きことで御座ろう。」

 

と申された。

 

 誰(たれ)とは申さず……かねてより言い伝えて御座ったところの……たまさかの開扉……これ……乱心……との噂に怖れ……開けましょう……と申す者は、これ、一人として御座らなんだと申す。

 

 されど、忠房殿、

 

「……かの蔵を搜し残しおいて――『御座らぬ』――とは申し難きことで御座る。」

 

と如何にも正しき疑義を申されたによって、再度、衆議の上、かの『開かずの蔵』の戸を開いて、燈(ともしび)なんども入れて、搜して御座ったと申す。

 

……されど、これ、扉内の部屋には、それらしきもの、何(なんに)も御座らなんだ。

 

 しかし、梯子段を見た忠房殿、

 

「――二階をも、これ、検分致いてみるべきで御座ろう。」

 

と申されたによって、蔵の二階をも探索致すこととなった。

 

……ところが、その二階、これ、取り分けて、ひどう、湿気の籠って御座って……提燈などを入れても……何度も――

 

――ふっ

 

と、消てしまう。……

 

 されど、

 

「――これはただ、余程に湿気が籠っておるゆえに違いない。」

 

と、忠房殿、これ、さらに多くの燈火なんどを、追加なさった。

 

「……もう、消えずなりましたが……」

 

と、配下の者が言うたによって、御自身、上って検分なさった……ところが――

 

――長持二棹(おんながもちふたさお)

 

これ、並べて御座ったによって、その長持を開き改められたところ……その内に――

 

――先代将軍家御代々の御賀(おんが)の記録

 

――これ

 

――確かに御座った由。…… 

 

「――されば、そのまま、当将軍家御用を完遂致すこと、これ、出来申した。」

 

とは、左近将監殿御自身、語られた話しで御座った。

詩人と詩作家 萩原朔太郎

       詩人と詩作家

 

 小説家にとつて、文學は職業であり、食ふための仕事でもある。だが詩人にとつて、文學は職業でなく、いかなる生計的の仕事でもない。なぜなら詩の使命は、文學をかかる俗事の上に、純粹な創作として、眞の表現を意志することにあるのだから。詩人は所謂「作家」ではない。詩人は三年に一度、もしくは十年に一度、一篇の薄い詩集を書けば好いのである。或は全く、一筋の本すら出さないで好いのである。絶えず不斷に勉強して、毎日詩を書くといふ如き人物は、そのビヂネス的な心がけからして、既に本質的の詩人ではない。生涯に一度、二篇の善い詩をかいた人は、詩精神を失はない限りに於て、死後迄も尚永遠の詩人である。數千篇の詩を作り、孜々として詩壇的に活躍し乍ら、眞の詩精神を持たないやうな「詩作家」が、いかに現代の詩壇に多いことぞ。詩を進歩せしめるものは詩人のみ。詩作家ではないのである。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十三番目、先に示した「醜は凡庸に優る」の直後に配されたものである。「孜孜」は「しし」と読み、熱心に努め励むさま。]

雪をのむ馬 大手拓次

   球形の鬼

 

 

 

 雪をのむ馬

 

自然をつくる大神(おほかみ)よ、

まちの巷(ちまた)をくらうする大氣のおほどかなる有樣、

めづらしい幽闇の景色をゑがいて、

その したしたとしたたる碧玉(サフイイル)のつれなさにしづみ、

ゆたかにも企畫をめぐらすものは、

これ このわたしといふ

靑白い幻の雪をのむ馬。

 

[やぶちゃん注:下線部は底本では傍点「ヽ」。最終行、「靑白い/幻の//雪をのむ馬」と詠む時、恐ろしいまでに私の琴線が倍音となって鳴り響く。]

ここより「球形の鬼」の章に入る。

鬼城句集 春之部 親雀

親雀   市に住で雀の親の小さゝよ

2013/03/27

醜は凡庸に優る 萩原朔太郎

僕はこのアフォリズムを偏愛する。何故かって? 「衛生週間の詩人たち」って、何だかとっても素敵な毒があって好きな台詞だしさ……何より……ここに並んでる作家たちが悉く皆、僕の好きな人々だからさ……



       醜は凡庸に優る

 ソクラテスの如き人物は、その醜貌の故にさへも、希臘人たる資格がないと、デカダン嫌ひのニイチエが言つてる。なぜなら醜貌は――ニイチエの思想によると――デカダンの肉體的表象であるからである。實際ニイチエの生きてゐた十九世紀は、時代の徴候であるデカダンスが、詩人の何倍にまで痛ましく表象されてゐた。酒精中毒と先天的の遺傳によつて、怪獸のやうに鼻の曲つたヹルレーヌ。阿片の常習と腦梅毒とによつて、畸型に顏の歪んだボードレエル。賭博と、癲癇と、ヒステリイと、あらゆる病的素因の變質者を代表した、あの幽鬼のやうな顏をしたドストイエフスキイ。十九世紀的なすべてのものは、まことにソクラテスと共に醜怪だつた。
 ところで現代は? 二十世紀の明朗性は、すべてのデカダン的のものを淸掃した。アメリカ・クリスチャンの病院的衞生思想は、すべての暗鬱な部屋を改造して、日當りの好いサナトリユームにし、黴臭い古雅な壁紙を引つぱがして、一面の白ペンキで塗つてしまつた。そして酒と阿片が禁じられ、戸外のスポーツやハイキングが獎勵された。アメリカ文化の二十世紀は、まことに世界の「衞生週間」を勵行した。そこで現代の詩人と文學者は、その容貌からして變つて來た。あのニイチエが身震ひした、ソクラテス的畸型の醜怪や、ヹルレーヌ的デカダンの表象は、もはや我々の地球に居なくなつた。二十世紀の詩人たちは、何れも輪廓が整つて居り、多少皆スポーツマン的の顏をして居る。でなければ、ジイドやヴアレリイのやうに、篤實な學者のやうな顏をしてゐる。しかしながらどこにもまた、ハイネやバイロンのやうな美貌の所有者――それの貴族的な上品さと優雅さとを、最高のギリシア的美貌で表象して居るやうな詩人――は現代にない。この衞生週間の詩人たちは、病院の模範看護人と同じやうに、-つの範疇的な顏をしてゐる。それは「美貌」でもなければ「醜貌」でもないところの、一つの「凡庸なもの」に過ぎない。如何に? ニイチエがそれを願つたらうか? 彼がもし生きてゐたら、むしろソクラテスの醜貌にさへも、希臘人の反語された美意識を認識したらう。即ちかう言ふだらう。デカダンさへも、尚現代よりはましであつた。醜は凡庸に遠く優ると。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十二番目、先に示した「文學者の悲哀」の直後に配されたものである。]

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 四 協力と束縛

……生物群体のその叙述は……もう、何かしみじみと哲学している……



     四 協力と束縛

 單獨に生活する動物では成功すれば自身だけが利益を得、失敗すれば自身だけが損害を蒙るのであるから、笑ひたいときに笑ひ、泣きたいときに泣くのも勝手であるが、多數相集まつて力を協せ敵に當る場合には大に趣が違ひ、常に全團體の利害を考へて、各自の擧動を加減しなければならぬ。笑ひたいときにも、もし自分の笑ふことが團體に取つて不利益ならば、笑はずに怺へて居なければならず、泣きたいときにも、若し自分の泣くことが團體のために不利益ならば、泣かずに忍ばねばならぬ。これが即ち所謂義務であつて、義務のために自由の一部を制限せられることは、團體生活を營む動物の免れぬ所である。しかし團體生活によつて生ずる生活上の利益は、この損失を償つてなほ餘りがあるから、種族全體の利害からいへば、個體の自由の制限せられることは頗る有望な方面に進み行くものと見做すことが出來る。「自由を與へよ。しからざれば死を與へよ。」との叫びは如何にも壯快に聞えるが、絶對の自由は團體生活をする動物には禁物であつて、もしこれを許したならば、團體は即座に分解して、敵なる團體と競爭することが出來なくなる。團體内の一部の者が暴威を振つて殘りの者を壓制するために、個體間に反抗の精神が盛になり、自分の屬する團體をも呪ふ如き者の生ずることは、その團體の生存上大に不利益であるから、かゝる場合に壓制者に對して自由を叫ぶもののあるのは當然であるが、團體生活をなす以上は、條件附の自由より外に許すことの出來ぬは論を待たぬ。
[やぶちゃん注:「怺へて」は「こらへて」と読む。]

 群體を造つて生活する動物でも、個體間にまだ分業の行はれぬ種類ならば、一疋づつに離しても生存が出來ぬこともないが、幾分でも分業が進んで、個體間に形狀や作用の相異なつたものの生じた場合には、これを別々に離しては到底完全な生活を營むことは出來ぬ。假に大工と仕立屋と百姓とが一箇所に住んで居ると考へれば、大工は三人分の家を建て、仕立屋は三人分の衣服を縫ひ、百姓は三人分の田を耕して、三人ともに安樂に暮せるが、これを一人づつに離したならば、大工も縫針を持たねばならず、仕立屋も肥桶を擔がねばならず、極めて不得手なことをも務めねばならぬであらうから、衣食住ともに頗る不自由なるを免れぬ。個体間に分業が行はれて居る動物を一疋づつに離したならば、いつでもこれと同樣な不便が生ずる。人間ならば誰も身體の形狀が同じであるから、大工が縫針を持ち、仕立屋が肥桶を擔ぐことも出來るが、群體を造る動物では、各個體の形狀・構造がその受け持ちの役目に應じて變化して居るものが多いから、一疋づつ離しては到底一日も生活が出來ぬであらう。例へば、「くだくらげ」の群體をばらばらに離したと假定すると、鐘形の個體は泳ぐだけで餓死し、葉形の個體は蔭に隱れるものがないから何の役にも立たず、物を食ふ個體は口を大きく開いて居ても餌をくれるものがなく、觸手は餌を捕へて收縮してもこれを持つて行く先がない。かやうな動物では種々の個體が集まつて、初めて完全な生活が出來るのであるから、個體は互に離れることが出來ぬ。そして他と離れることが出出來ぬといふことは既に大なる束縛である。
 蜜蜂や蟻の社會では個體の身體は相離れて居るが、各自分擔が定まて皆揃はねば完全な生活が出來ぬという點では、「くだくらげ」と同樣である。雌蜂・雄蜂だけでは卵を産むだけは出來ても、これを保護する巣も造れず、卵から孵化した幼蟲を養育することも出來ぬ。また働蜂だけでは子が生まれぬから一代限りで種族が斷絶する。働蟻の方でももこれと同樣であるが、メキシコ産の壺蟻の如きに至つては、一疋づつに離しては全く生存の意義がなくなる。されば蜂でも蟻でも、たゞ自己の屬する團體のためにのみ力を盡すやうに束縛せられて居るのである。但し、「くだくらげ」でも、蜂・蟻でも各個體は事實上かやうに束縛せられては居るが、これを人間社會で用ゐる普通の意味の束縛と名づくべきか否かは頗る疑はしい。なぜといふに、束縛といへば必ずその反對に自由のあることを豫想する。自由に動きたがるものに、制限を定めることが即ち束縛であるが、束縛せずともそれ以外のことを爲さぬものに對しては束縛といふ文字は當て嵌まらぬ。「くだくらげ」でも蜂・蟻でも長い年月の團體的競爭を經て、自然淘汰の結果今日の有樣までに達したのであるから、各個體の神經系は、たゞ團體のためにのみ力を盡す本能が現れるやうに發達して、生まれながらに團體に有利なことのみを行ふのである。蟻が終日働くのは怠けたい所を努めて働くのではなく、働かずに居られぬ性質を持つて生まれたから働くのである。蜂が敵を刺すのは、自己の屬する團體の危險を知り、大切な命をも捨てて掛るわけではなく、敵が來ればこれを刺さずには居られぬ性質を生まれながら具て居るからである。かやうな次第で、各個體は自身の役目だけを務める天性を持つて生まれ、相集つて團體を造つて居るのであるから、その務以外のことは特に禁ぜずとも行ふことはない。隨つて禁ぜられても少しも束縛とは感ぜぬ。恰も胃が呼吸を禁ぜられ肺が消化を禁ぜられても束縛とは名づけられぬのと同樣である。
 かやうに論じて見ると、團體生活のために個體の行動を束縛せられるのは、たゞ同一の目的のために力を協せて働く群集、もしくは低度の社會だけである。單獨生活を營む動物は何の束縛をも受けぬ。尤も魚が水より出られぬとか、蛙が海を渡れぬとかいふ如き、天然の束縛はむろんあるが、その他の束縛は少しもない。珊瑚や苔蟲の如き群體をなす動物では個體の身體が皆互に連絡し、全群體が恰も一疋の如くに生活して、各個體はたゞその一部分として働くから、これまた特に束縛と名づくべきことは起らぬ。また蟻や蜂の社會では、各個體の神經系がたゞ團體生活にのみ適するやうに發達し、身體は相離れて居ても生活上には各社會が全く完結して、恰も一個體の如くに働くから、大なる束縛が行はれて居ながら、何らの束縛ともならぬ。たゞ多くの鳥類・獸類の群集の如き場合には、各個體には個體を標準とした生存競爭に勝つべき性質が發達し、これが相集まつて力を協せんと務めて居るのであるから、各個體には自分を中心とした慾があり、他と力を協すには多少この慾を抑へねばならぬ。團體をなして生活するために各個體が行動を束縛せられるのはこのような類に限ることである。

北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈泉親衡の乱〉

 

      ○千葉介阿靜房安念を召捕る  謀叛人白状  和田義盛叛逆滅亡

 

[やぶちゃん注:本条はやや長いので、シークエンスごとに私の標題を附けた上で、数パートに分けて注を入れた。従って実際には文章は総て連続している。]

 

建暦三年十二月六日に改元あり。建保元年とぞ號しける。然るに、今年二月十五日、千葉介成胤が手に、一人の法師を召捕りて、相摸守にぞ參せける。是、叛逆(ほんぎやく)の中使(ちうし)なり。信濃國の住人、靑栗(あをぐり)七郎が弟阿靜房安念といふ者なり。諸方に廻りて、一味同心の輩を相語(かたら)ふ。運命の極(きはま)る所、天理に叶はざる故にやありけん、千葉介が家に入來り、かうかうと語りければ、成胤は當家忠直(ちうちよく)の道を守り、即ち召捕(めしとり)て參(まゐら)せたり。相摸守、軈(やが)て、山城判官行村に仰せて糺問し、金窪(かなくぼの)兵衞尉行親を相副へて聞かしめられたりければ、安念法師一々に白狀して、謀叛(むほん)の同類をさし申す。 一村(いちむらの)小次郎、籠山(こみやまの)次郎、宿屋(しゆくやの)次郎、上田原(うへだはらの)三父子、園田七郎、狩野(かのゝ)小太郎、澁河(しぶかはの)刑部六郎、磯野(いそのゝ)小三郎、栗澤(くりざはの)太郎父子、木曾、瀧口、奥田、臼井等(ら)、殊更、和田義盛が子息四郎義直、五郎義重、一族、是(これ)に與(くみ)す。張本百三十餘人、伴類(ばんるゐ)百人に及ぶといひければ、國々の守護人(しゆごにん)に仰せて、召進ずべしと下知せらる。この事の起(おこり)を尋ぬるに、泉(いづみの)小次郎親平と云ふもの、賴家卿の御子千壽丸とておはしけるを、大將に取立てて、北條家を亡(ほろぼ)さんと相謀り、安念法師に廻文(くわいぶん)を持たせて、潛(ひそか)に諸國の武士を語(かたら)ふに與力(よりき)同心、既に多し。親平は建橋(たてばし)といふ所に隱れ居(を)ると申しければ、工藤十郎を遣して召(めし)て參るべき由、仰せ付もる。工藤は家子郎從二十餘人を倶して建橋に行き向ひ、案内しければ、親平、異なる氣色(けしき)もなく工藤を呼入(よびい)れて首打落(うちおと)し、其間(そのあひだ)に親平が郎從三十餘人、打ちて出でつゝ、工藤が郎従、一人も殘らず打殺して、親平は行方なく落失(おちう)せけり。すはや、鎌倉に大事起りぬとて、上を下へ打返しければ、諸國の御家人等(ら)聞付け、次第に鎌倉に馳參(はせまゐ)る事、幾千萬とも數知らず。

 

[やぶちゃん注:〈泉親衡の乱〉

 

「吾妻鏡」巻二十一の建暦三(一二一三)年二月十五日・十六日、三月二日・八日等の条に基づく。当該の「吾妻鏡」の条を順に示す。まず、二月十五日の条。

 

〇原文

十五日丙戌。天霽。千葉介成胤生虜法師一人進相州。是叛逆之輩中使也。〔信濃國住人靑栗七郎弟。阿靜房安念云々。〕爲望合力之奉。向彼司馬甘繩家處。依存忠直。召進之云々。相州即被上啓此子細。如前大膳大夫有評議。被渡山城判官行村之方。可糺問其實否之旨被仰出。仍被相副金窪兵衞尉行親云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日丙戌。天、霽る。千葉介成胤、法師一人を生虜り、相州に進ず。是れ、叛逆の輩の中使なり。〔信濃國の住人靑栗七郎が弟、
阿靜房安念と云々。〕合力(かふりよく)の奉(うけたまは)りを望まんが爲、彼(か)の司馬が甘繩の家へ向ふ處に、忠直を存ずるに依つて、之を召し進ずと云々。

相州、即ち此の子細を上啓せらる。前(さき)の大膳大夫に如(したが)ひ、評議有りて、山城判官行村の方へ渡され、其の實否(じつぷ)を糺し問ふべきの旨、仰せ出ださる。仍つて、金窪兵衞尉行親を相ひ副へらると云々。

 

・「千葉介成胤」「和田義盛上總國司職を望む」に既注。

・「相州」北条義時。

・「靑栗七郎」後掲される泉親衡の郎党と思われるが不詳。しばしば御厄介になっている「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に、『長野県長野市に青木島町青木島も栗田もあるが不明』とある。

・「司馬」千葉成胤。「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に、『唐名で国史の次官を司馬という。千葉介は下総次官』とある。

・「前の大膳大夫」大江広元。

・「如(したが)ひ」諸注釈は「ごとき」と訓じているが、従わず、オリジナルに「従い」の意で読んだ。大方の御批判を俟つ。

・「山城判官行村」二階堂行村。

・「金窪兵衞尉行親」(生没年不詳)は得宗被官で、次の条で連名で和田義盛の甥和田胤長を預かっている安東忠家とともに、義時の側近。

 

 翌二月十六日の条。

〇原文

十六日丁亥。天晴。依安念法師白狀。謀叛輩於所々被生虜之。所謂。一村小次郎近村。〔信濃國住人。匠作被預之。〕籠山次郎。〔同國住人。高山小三郎重親預之。〕宿屋次郎。〔山上四郎時元預之。〕上田原平三父子三人。〔豊田太郎幹重預之。〕薗田七郎成朝。〔上條三郎時綱預之。〕狩野小太郎。〔結城左衞門尉朝光預之。〕和田四郎左衞門尉義直。〔伊東六郎祐長預之。〕和田六郎兵衞尉義重〔伊東八郎祐廣預之。〕澁河刑部六郎兼守。〔安達右衞門尉景盛預之。〕和田平太胤長。〔金窪兵衞尉行親。安東次郎忠家預之。〕礒野小三郎。〔小山左衞門尉朝政預之。〕此外白狀云。信濃國保科次郎。粟澤太郎父子。靑栗四郎。越後國木曾瀧口父子。下総國八田三郎。和田奥田太。同四郎。伊勢國金太郎。上総介八郎。甥臼井十郎。狩野又太郎等云々。凡張本百三十餘人。伴類及二百人云々。可召進其身之旨。被仰國々守護人等。朝政。行村。朝光。行親。忠家奉行之云々。此事被尋濫觴者。信濃國住人泉小次郎親平。去々年以後企謀逆。相語上件輩。以故左衞門督殿若君〔尾張中務丞養君。〕爲大將軍。欲奉度相州云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

十六日丁亥。天晴。安念法師の白狀に依つて、謀叛の輩、所々に於いて之を生虜らる。所謂、一村(いちむら)小次郎近村〔信濃國住人。匠作(しやうさく)、之を預からる。〕・籠山(こみやま)次郎〔同國住人。高山小三郎重親、之を預かる。〕・宿屋(やどや)次郎〔山上四郎時元、之を預かる。〕上田原平三父子三人〔豊田太郎幹重、之を預かる。〕・薗田(そのだ)七郎成朝〔上條(かみじやう)三郎時綱、之を預かる。〕・狩野(かの)小太郎〔結城左衞門尉朝光、之を預かる。〕・和田四郎左衞門尉義直〔伊東六郎祐長、之を預かる。〕・和田六郎兵衞尉義重〔伊東八郎祐廣、之を預かる。〕・澁河刑部六郎兼守〔安達右衞門尉景盛、之を預かる。〕・和田平太胤長〔金窪兵衞尉行親・安東次郎忠家、之を預かる。〕・礒野(いその)小三郎〔小山左衞門尉朝政、之を預る。〕、此の外、白狀に云はく、信濃國保科(ほしな)次郎・粟澤(あはさは)太郎父子・靑栗四郎・越後國木曾瀧口父子・下総國八田三郎・和田・奥田太(おくだた)・同四郎・伊勢國金太郎・上総介八郎・甥(をひ)臼井十郎・狩野(かの)又太郎等と云々。

凡そ張本百三十餘人、伴類二百人に及ぶと云々。

其の身を召し進ずべきの旨、國々の守護人等に仰せらる。朝政・行村・朝光・行親・忠家、之を奉行すと云々。

此の事、濫觴を尋ねらるれば、信濃國住人、泉小次郎親平、去々年(きよきよねん)より以後、謀逆を企て、上(かみ)の件(くだん)の輩と相ひ語らひ、故左衞門督殿の若君〔尾張中務丞(おはりなかつかさのじょう)が養君(やしなひぎみ)。〕を以つて大將軍と爲(な)し、相州を度(はか)り奉らんと欲すと云々。

 

・以上の人名の読みは私が諸資料から推定したもので、確実なものではないものも含まれているので注意されたい。各人の出身地等については、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に詳しいので参照されたい。

・「匠作」北条義時。修理職(しゅりしき)の唐名。義時はこの二年前の建暦元(一二一一)年に修理亮に補任している。

・「故左衞門督殿」源頼家。

・「泉小次郎親平」泉親衡(ちかひら 生没年不詳)。親平とも書く。泉氏は信濃国小県郡小泉庄(現在の長野県上田市)を本拠としたと言われ、源満仲の弟満快(みつよし)の曾孫信濃守為公(ためとも)の後裔と伝えられ、親衡は満快の十代孫に当たる。但し、この乱によって荒唐無稽な伝説が附与されたために実像ははっきりしない。参照したウィキの「泉親衡」によれば、『その際の奮闘ぶりにより後世大力の士として朝比奈義秀と並び称され、様々な伝説を産み、江戸時代には二代目福内鬼外(森島中良)が『泉親衡物語』と題した読本を著しているなどフィクションの世界で活躍した。一方、信濃国の民話に登場する泉小太郎と同一視され、竜の化身としたり犀を退治したという昔話の主人公にもなっている』とあり、『子孫は信濃国飯山を拠点とし、泉氏として栄えた』とある。私はこの人物、非常に怪しいと踏んでいる。この事件そのものが、和田一族を追い落とす結果を惹起させている以上、謀略以外の何ものでもない。この闇に消えた泉親衡なる男は、実は北条義時の息が掛かった間者ではなかったかと、つい、憶測したくなるのである。義時とは北条氏とは、そういう男であり、一族である、と私は思っている。

 なお、続く「吾妻鏡」の記載は、薗田成朝の上条時綱邸からの逃亡、彼が訪れた親しい僧の出家の慫慂、それに対する一国の国司となる望みを達せぬうちは出家などしないと喝破して行方知れずとなる一件(同二月十八日)が語られ、その話を聴いた実朝が成朝の志しに御感あって恩赦を命じたり(二十日)、安達景盛預りの澁河兼守が二十六日に処刑されると告げられて憂愁の中で十首の和歌を詠じて荏柄天神に奉納(二十五日)、その和歌を工藤祐高が御所に持参、それらを賞翫した実朝がやはり御感の余りに赦免する(二十六日)など、読んでいて、実に面白い。また、二十七日の条には大方の謀叛人は流罪で済まされた旨の記載がある。

 

 次に翌建暦三(一二一三)年三月の二日の条。

〇原文

二日癸夘。天晴。今度叛逆張本泉小次郎親平。隱居于違橋之由。依有其聞。遣工藤十郎被召處。親平無左右企合戰。殺戮工藤幷郎從數輩。則逐電之間。爲遮彼前途。鎌倉中騷動。然而遂以不知其行方云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

二日癸夘。天、晴る。今度の叛逆の張本(ちやうぼん)泉小次郎親平、違橋(すぢかへばし)に隱居の由、其の聞え有るに依つて、工藤十郎を遣はし召さるるの處、親平、左右(さう)無く合戰を企て、工藤幷びに郎從數輩を殺戮し、則ち、逐電するの間、彼の前途を遮(さいぎ)らんが爲に、鎌倉中、騷動す。然れども、遂に以つて其の行方を知らずと云々。

 

・「工藤十郎」不詳。ここ「北條九代記」では『工藤が郎従、一人も殘らず打殺して』とあるが、「吾妻鏡」では『工藤幷びに郎從數輩を殺戮し』とあって工藤十郎本人も亡くなっている。この人物、「吾妻鏡」では他に建仁元(一二〇一)九月十八日の条で、頼家が犬を飼うことになり、その餌やりの六人の当番として名が載るのみである(この六人の中には能成や比企時員などの頼家の近習も選ばれている)。この謀叛を企んだトンデモ首謀者の追捕に、何故、よりによってこんな無名者の、この彼が選ばれ、そして、何故、御所の目と鼻の先での合戦なのに援軍もなく、あっけなく死なねばならなかったのか? 何だか、やっぱりおかしいぞ!

 

 「北條九代記」のこのパートの終りの部分は、三月八日の条の頭の『己酉。天霽。鎌倉中兵起之由。風聞于諸國之間。遠近御家人群參。不知幾千万。』(八日己酉。天、霽る。鎌倉中に兵起るの由、諸國に風聞の間、遠近(をちこち)の御家人の群參、幾千万を知らず)に基づく(この条は次のパートで全条を示す)。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 9

金沢称名寺の衰亡の慨嘆が続く。



 堂前の池にははちすのふる葉みだれ、冬のひやゝかに伽藍の跡どもは野菜のうねと成、一の室といへるは萱が軒端かたぶきて、めぐりの房々もひえわたりて、人のおとなひもせず。おもへばかへつて寂寞無人聲の扉をとぢ、坐禪觀法の床をしめたるに似たり。かく佛法零落の時節、いかなる人の世に出給ひ、たえたるをつぎ、すたれたるをおこし給んか。慈尊三會の曉を賴むばかり也。世に生れて人の時めきさかえ、何事をなすも心にまかせ、ならずといふ事なく、いきほひになびきぬる事、いく世の因緣をつみてか、果報のかゝる事には至るべきぞや。たゞ人と生るゝのみさへかたき事なり。たとへあまつそらより針をおろして、わたつうみのそこなる一粟をさしてとらんとし、うき木をもとむる龜のごとし。
[やぶちゃん注:「慈尊三會」「じそんさんゑ」と読む。龍華三会(りゅうげさんえ:連声(れんじょう)で「りゅうげさんね」とも読む。)釈迦の入滅後五十六億七千万年の後に弥勒菩薩がこの世に出でて、龍華樹の下で悟りを開き、人々を救済するために行う三回に亙る法座(説法)のこと。弥勒三会。]

耳嚢 巻之六 在郷は古風を守るに可笑き事ある事

 在郷は古風を守るに可笑き事ある事

 

 京都江戸抔の繁華の地と違ひ、總て在邊は古風にて、尊卑の品、家筋の事など、殊の外吟味して、誰々の家にて普請に石すへならざる格式、或は門長屋玄關は不致(いたさざる)筋、婚姻葬祭にも上下(かみしも)は着ざる家筋、彼は當時衰へぬれど上下着し上座可致(いたす)ものなり抔、悉く吟味いたし候事なり。夫(それ)に付可笑(つきおかし)きは、川尻甚五郎御代官勤(つとめ)し時、和州何郡の支配たりしか、何村とかいへる村方にて、年々神事の由、百姓集りて古への武者の眞似をなす事の由。或年家筋ならぬ百姓、渡邊綱(わたなべのつな)になりしを、何分(なにぶん)村方にて合點せず、四天王は重き事にて、彼(かの)者の家筋にて綱公時(つなきんとき)になるべき謂(いは)れなし、定めて金銀等の取扱(とりあつかひ)ゆゑ成(なる)べし、以(もつて)の外の事なりとて、若きものは不及申(まうすにおよばず)、宿老なるものも合點せず、終に其(その)結構やみにしと、笑ひ語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:古来の伝承風習譚で連関。この神事はどこのどのような祭であろう? 諸本は注しない。識者の御教授を乞うものである。

・「川尻甚五郎」川尻春之(はるの)。先の古佛畫の事の私の注を参照のこと。寛政七(一七九五)年に大和国の五條代官所が設置され、彼はその初代代官に就任している。その在任期間は寛政七年から享和二(一八〇二)年である。

・「渡邊綱」(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)は源頼光四天王の筆頭として剛勇で知られ、大江山の酒呑童子退治、京都の一条戻り橋上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で知られる。

・「公時」金太郎こと、坂田金時(長徳元・正暦六(九九五)年?~?)。公時とも書く。やはり頼光四天王の一人。

・「金銀等の取扱」岩波版長谷川氏注に、『金を出してその役を買ったという』とある。

・「宿老」「おとな」とも読み、前近代社会において集団の指導者をさす語。公家・武家・僧侶・商人・村人・町民の各組織には宿老がおり、特に中世の都市や村落において共同体組織の中心的人物をさす用語として著名である、と平凡社「世界大百科事典」にある。

・「結構」計画。企画。目論み。ここでは単にその百姓のキャスティングのみではなく、この神事に於ける複数の武者を演ずる演目(訳では行列とした)自体が取り止めになった、と解釈した。その方が読者の驚きが大きいと判断したからである。大方の御批判を俟つものである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 郷村にては古風を守ることに可笑しき事実のある事

 

 京都や江戸などの繁華の地と異なり、おしなべて田舎の風習は古風なもので、尊卑の品格、家筋のことなどにつき、殊更にうんぬん致いて――誰某(だれそれ)の家の格式では普請をするに際しては基礎に石を据えてはならぬ決まりであるとか――或いは、長屋門や玄関を設けてはならぬ家筋じゃとか――はたまた、婚姻葬祭に際しても裃(かみしも)を着てはならぬ家筋だの――彼の者、今は凋落致いておれど、裃を着し、上座に座らせねばならぬ格式の者であるとか――まあ、悉く、やかましく申すものにて御座る。

 それにつき、可笑しいことが御座る。

 川尻甚五郎春之(はるの)殿が、大和五条の御代官を勤められた折りのこと、大和国――何郡支配の何村と申したかは失念致いたが――その村方に於いては、毎年、神事が行われており、百姓どもが集って、古えの武者の真似事をなして行列を致す由なれど、ある年のこと、ある百姓、かの頼光四天王の一人、武名も猛き、かの渡邊綱の役を演ずることとなったと申す。ところが、

「――この者は渡邊綱となれる家筋にては、これ、御座ない!」

との疑義が挙がり、何としても、村内の百姓ども一同、合点せず、

「――四天王は重き役にて、かの者の家筋にては渡邊綱や坂田公時(さかたのきんとき)になれる謂われは、これ、御座ない!」

「――これ、定めて金を積んで、渡邊綱を買(こ)うたに違いない! 以ての外のことじゃ!」

とて、若き者は申すに及ばず、宿老格の者どもも、いっかな、合点せず……

……遂に……

……その年の、その武者行列は、これ、沙汰やみと相い成ったとの由。

 甚五郎殿御本人が、これ、笑いながら、私に語って御座った話である。

文學者の悲哀 萩原朔太郎

       文學者の悲哀

 

 文學者は、人生の批判者であつて行動者ではない。彼等は、人生の競技場に於て、自ら競技してゐるところの選手ではなく、彼等の觀覧席に於て、それを描寫したり、批評したりしてるところの觀察者である。しかも彼等もまた、自ら生活して生きるために、競技する行動者と同じやうに、金儲けを考へたり、世渡りの苦勞をしたり、女のことで惱まされたり、妻子を抱へて世帶を作つたりして、煩瑣な俗事に追はれながら、日々の處世をせねばならない。觀察者であつて、同時に行動人の義務を負ふといふこと。それが文學者にとつての、何より悲しい宿命である。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十一番目、先に示した「文學者と讀者」の直後に配されたものである。]

一言芳談 一二五

   一二五

 

 又云、凡(およそ)、淨土宗の元意(ぐわんい)、助け給へ、阿彌陀佛と思ふにすぎず。

 

○淨土宗の元意、願文(がんもん)の安心は三心なり。觀經の三心は彌陀經の一心なり。その一心は助け給への一念なり。

 

[やぶちゃん注:「一二六」に続く念阿良忠の言葉。極めて明快にして核心の教学である。

「願文」は弥陀の誓願の第十八誓願のことであろう。念仏往生の願・選択本願・本願三心の願・至心信楽の願・往相信心の願などとも言う。

設我得佛。十方衆生。至心信樂。欲生我國。乃至十念。若不生者。不取正覺。唯除五逆誹謗正法。

設(たと)ひ我、佛を得たらんに、十方の衆生、至心に信樂して、我が國に生まれんと欲(おも)ひて、乃至(ないし)十念せん。若し生まれずは、正覺を取らじ。唯だ、五逆と正法を誹謗せんを除く。

「安心は三心」前の「一二四」の私の注を参照のこと。

「觀經」狭義に「観無量寿経」を指す場合もあるが、以下に「彌陀經の一心」とあるから(「阿弥陀経」は「観無量寿経」とは別物である)ここは単に経を読む、看経(かんきん)の謂いであろう。

「彌陀經」「仏説阿弥陀経」のことであろう。釈尊自らが説いた経。

「一心」「一心不乱」のことであろう。「仏説阿弥陀経」に、

若有善男子善女人聞説阿彌陀佛執持名號。若一日若二日若三日若四日若五日若六日若七日。一心不亂。其人臨命終時。阿彌陀佛與諸聖衆現在其前。是人終時心不顚倒。即得往生阿彌陀佛極樂國土。

若し善男子善女人有りて、阿彌陀佛を説くを聞きて、名號を執持(しつじ)すること、若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心不亂ならば、其の人、命終の時に臨み、阿彌陀佛、諸聖衆と與(とも)に現じ、其の前に在らん、是れ、人、終はる時、心、顚倒せずして、即ち、阿彌陀の極樂國土に往生するを得ん。

とある。]

鬼城句集 春之部 鳥交る

鳥交る  高き木を雀交で落ちにけり

 [やぶちゃん注:季題は「とりさかる」と読み、「鳥つるむ」(本句の「つるんで」)「雀交(さか)る」「鳥つがふ」「鶴の舞」「鳥の恋」「恋雀」などを含む。春から初夏にかけて繁殖期を迎えた鳥の様々な求愛行動を指す。]

 

河原の沙のなかから 大手拓次

 河原の沙のなかから

河原の沙のなかから
夕映の花のなかへ むつくりとした圓いものがうかびあがる。
それは貝でもない、また魚でもない、
胴からはなれて生きるわたしの首の幻だ。
わたしの首はたいへん年をとつて
ぶらぶらとらちもない獨りあるきがしたいのだらう。
やさしくそれを看(み)とりしてやるものもない。
わたしの首は たうとう風に追はれて、月見草のくさむらへまぎれこんだ。

これを以って「陶器の鴉」の章を終わる。

2013/03/26

北條九代記 賀茂長明詠歌

      ○賀茂長明詠歌

加茂の社氏(やしろうぢの)菊大夫長明(ながあきら)入道蓮胤(れんいん)は、雅經(まさつねの)朝臣の舉(きよ)し申すに付けて、關東に下向し、將軍家に對面を遂げ奉り、鎌倉に居住し、折々は御前に召されて歌の道を問ひ給ふ御徒然(おんつれづれ)の友なりと、思(おぼし)召されければ、新恩に浴して、心を延べ、打慰む事多しとかや。正月十三日は故右大將家の御忌月(きげつ)なれば、法華堂に參詣す。往當(そのかみ)の御事共思ひ續くるに、武威の輝く事、一天に普(あまね)く、軍德の勢(いきほひ)、四海を治(をさめ)て、累祖源家の洪運(こううん)、此所(ここ)に開け、靡(なび)かぬ草木もあらざりしに、無常の殺鬼(さつき)を防ぐべき謀(はかりごと)なく、五十三歳の光陰忽(たちまち)に終盡(をはりつき)て、靑草(せいさう)一箇(こ)の土饅頭(どまんぢう)、黑字數尺(くろじすせき)の卒都婆(そとば)のみ、その名の記(しるし)に殘り給ふ御事よと、懐舊の涙、頻(しきり)に催し、一首の和歌を御堂の柱に書付けたり。

  草も木も磨きし秋の霜消えて空しき苔を拂ふ山風

將軍家御參詣の時、是を御覽じて、御感、淺からずとぞ聞えし。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の巻十九の建暦元(一二一一)年十月十三日の条に基づく。

○原文

十三日辛夘。鴨社氏人菊大夫長明入道。〔法名蓮胤。〕依雅經朝臣之擧。此間下向。奉謁將軍家。及度々云々。而今日當于幕下將軍御忌日。參彼法花堂。念誦讀經之間。懷舊之涙頻相催。註一首和歌於堂柱。

  草モ木モ靡シ秋ノ霜消テ空キ苔ヲ拂ウ山風

○やぶちゃんの書き下し文(和歌は原文に拠らず正確に読み易く示した)

十三日辛夘。鴨社の氏人(うぢびと)、菊大夫長明(ながあきら)入道〔法名、蓮胤。〕、雅經朝臣の擧(きよ)に依つて、此の間、下向す。將軍家に謁し奉ること、度々(どど)に及ぶと云々。

而るに今日、幕下將軍御忌日(ごきにち)に當り、彼(か)の法花堂に參り、念誦讀經の間、懷舊の涙、頻りに相ひ催し、一首の和歌を堂の柱に註(しる)す。

  草も木も靡(なび)きし秋の霜消えて空しき苔を拂ふ山風

 

「雅經」飛鳥井雅経(嘉応二(一一七〇)年~承久三(一二二一)年)は公家で歌人。義経の強力な支援者として知られ、流罪にも遇っている刑部卿難波頼経(なんばよりつね)の次男で飛鳥井家の祖。雅経も連座して鎌倉に護送されたが、頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価されて頼朝の猶子となった。建久八(一一九七)年に罪を許されて帰京する際には頼朝から様々な贈物を与えられている。その後、頼家・実朝とも深く親交を結び、政所別当大江広元の娘を妻とし、後鳥羽上皇からも近臣として重んじられた。幕府の招きによって鎌倉へ度々下向、実朝と藤原定家やここに示されるように鴨長明との仲を取り持ってもいる。「新古今和歌集」(元久二(一二〇五)年奏進)の撰者の一人として二十二首採歌、以下の勅撰和歌集に計一三二首が入集している(以上はウィキの「飛鳥井雅経」に拠った)。

 

 さて、ここでは少し趣向を変えてみたい。

 私は、「吾妻鏡」に、実朝(当時満十九歳)と鴨長明(当時五十六歳)のビッグな対面がこれしか載らないのが、如何にも不審であった。長明がわざわざ逢っておいて、実朝が気に入らなかったとは思われない。私は実朝の方が、彼に対して関心を示さなかったか、何らかの不快感を抱いたのではなかったとずっと思っている。本文では長明が頼朝の法華堂の柱に残した歌を『將軍家御參詣の時、是を御覽じて、御感、淺からずとぞ聞えし』と述べているが、この歌、無常を知る僧の歌としてどうということはないものの、頼朝の御代の栄華を偲びながら、実朝に忍び寄る不吉な死の気配を潜ませて余りあるように感ぜられる。少なくとも、「吾妻鏡」は、この条の直前の九月の条に(事実であるから、ここにあって何らおかしくはないものの)、

○原文

十五日甲子。晴。金吾將軍若宮〔善哉公。〕於定曉僧都室落飾給。法名公曉。

廿二日辛未。霽。禪師公〔公曉。〕爲登壇受戒。相伴定曉僧都。令上洛給。自將軍家被差遣扈從侍五人。是依爲御猶子也。

○やぶちゃんの書き下し文

十五日甲子。晴る。金吾將軍若宮〔善哉公。〕、定曉僧都の室に於いて落飾し給ふ。法名は公曉。

廿二日辛未。霽る。禪師公〔公曉。〕、登壇受戒の爲、定曉僧都に相ひ伴はれて、上洛せめ給ふ。將軍家より扈從の侍五人を差し遣はさる。是れ、御猶子(ごいうし)たるに依りてなり。

とあるのは、「滅び」の序曲の通奏低音の響きがいやが上にも聴こえてくる構成である。もっと他の事実がこの間に挟まってしかるべきところを「吾妻鏡」のこの部分の筆者は、そうしたカタストロフへの勾配をしっかりと見せつけて書いているとしか思われないのである。

 さればこそ、この長明の歌の「ありきたり」なはずの無常感は、実朝の悲劇のために、「吾妻鏡」の「ここ」にこそ、配されているのだと読むべきである。そうして、そうした自己の「滅び」をどこかで感じ始めていたはずの実朝が、この歌を、お目出度くも手放しで讃嘆したなどとは、これ、とても思えないのである(後の実朝自身がそうした無常感から詠んだのとはわけが違う)。実朝は、この和歌に、実は不快感を持ったのではあるまいか? もしかすると、神職としての出世の道を閉ざされ、和歌辺りから実朝に取り入って何らかの形で一旗揚げようと考えていたかも知れない長明が、数度の謁見の中で実朝が自分を今一つ気に入っていないことを敏感に感じとり、この和歌を以って尻(けつ)を捲くって鎌倉を後にしたのではないか、と穿ってとらえることも出来るように思われる(全く逆で実朝が飛鳥井雅経を通して歌学の師として長明を無理に招き、熱心に鎌倉に引き留めようとしたが、長明の方に全くやる気がなく、去ったのだというシチュエーションを創作している方もいるようだが、どう考えても、だったら、老体の彼が鎌倉に来るとは思われない。「方丈記」の成立が建暦二(一二一二)年であることから、そうした仮説を立てるのかも知れないが、寧ろ、欲に満ちた俗世の社会での積極的登用工作に失敗した、失意こそが「方丈記」誕生の一つの契機であったと私は考えるものである)。

 私のこうした思いは、高校二年生の時分に読んだ太宰治の「右大臣実朝」に遡るのである。無論、これも太宰の創作に過ぎない。しかし、古典であの「方丈記」の辛気臭い冒頭文を暗記せよと言われてある種の嫌悪をさえ感じていた私には、何かひどくリアルな長明像であったのである。以下、当該部を私の電子テクストから引用しておきたい。

 

 また、そのとしの秋、當時の蹴鞠の大家でもあり、京の和歌所の寄人でもあつた參議、明日香井雅經さまが、同じお歌仲間の、あの、鴨の長明入道さまを京の草庵より連れ出して、共に鎌倉へ下向し、さうして長明入道さまを將軍家のお歌のお相手として御推擧申し上げたのでございましたが、この雅經さまの思ひつきは、あまり成功でなかつたやうに私たちには見受けられました。入道さまは法名を蓮胤と申して居られましたが、その蓮胤さまが、けふ御所においでになるといふので私たちも緊張し、また將軍家に於いても、その日は朝からお待ちかねの御樣子でございました。なにしろ、鴨の長明さまと言へば、京に於いても屈指の高名の歌人で、かしこくも仙洞御所の御寵愛ただならぬものがあつたとか、御身分は中宮敍爵の從五位下といふむしろ低位のお方なのに、四十七歳の時には攝政左大臣良經さま、内大臣通雅さま、從三位定家卿などと共に和歌所の寄人に選ばれるといふ破格の榮光にも浴し、その後、思ふところあつて出家し、大原に隱棲なされて、さらに庵を日野外山に移し、その鎌倉下向の建暦元年には既におとしも六十歳ちかく、全くの世を捨人の御境涯であつたとは申しながら、隱す名はあらはれるの譬で、そのお歌は新古今和歌集にもいくつか載つてゐる事でございますし、やはり當代の風流人としてそのお名は鎌倉の里にも廣く聞えて居りました。その日、入道さまは、參議雅經さまの御案内で、御所へまゐり將軍家へ御挨拶をなさいまして、それからすぐに御酒宴がひらかれましたが、入道さまは、ただ、きよとんとなされて、將軍家からのお盃にも、ちよつと口をおつけになつただけで、お盃を下にさし置き、さうしてやつぱり、きよとんとして、あらぬ方を見廻したりなどして居られます。あのやうに高名なお方でございますから、さだめし眼光も鋭く、人品いやしからず、御態度も堂々として居られるに違ひないと私などは他愛ない想像をめぐらしてゐたのでございましたが、まことに案外な、ぽつちやりと太つて小さい、見どころもない下品の田舍ぢいさんで、お顏色はお猿のやうに赤くて、鼻は低く、お頭は禿げて居られるし、お齒も拔け落ちてしまつてゐる御樣子で、さうして御態度はどこやら輕々しく落ちつきがございませんし、このやうなお方がどうしてあの尊い仙洞御所の御寵愛など得られたのかと私にはそれが不思議でなりませんでした。さうしてまた將軍家に於いても、どこやら緊張した御鄭重のおもてなし振りで、

 チト、都ノ話デモ

 と入道さまに向つては、ほとんど御老師にでも對するやうに口ごもりながら御遠慮がちにおつしやるので、私たちには一層奇異な感じが致しました。入道さまは、

「は?」とおつしやつて聞き耳を立て、それから、「いや、この頃は、さつぱり何事も存じませぬ。」と低いお聲で言つてお首を傾け、きよとんとしていらつしやるのでした。けれども將軍家は、例のあの、何もかも御洞察なさつて居られるやうな、また、なんにもご存じなさらぬやうな、ゆつたりした御態度で、すこしお笑ひになつて、

 世ヲ捨テタ人ノオ氣持ハ

 と更にお尋ねになりました。入道さまはやつぱり、

「は?」とおつしやつて聞き耳を立て、それから、がくりと項垂れて何か口の中で烈しくぶつぶつ言つて居られたやうでしたが、ひよいと顏をお擧げになつて、「おそれながら申し上げまする。魚の心は、水の底に住んでみなければわかりませぬ。鳥の心も樹上の巣に生涯を託してみなければ、わかりませぬ。閑居の氣持も全く同樣、一切を放下し、方丈の庵にあけくれ起居してみなければ、わかるものではござりませぬ。そこの妙諦を、私が口で何と申し上げても、おそらく御理解は、難からうかと存じまする。」さらさらと申し上げました。けれども將軍家は、一向に平氣でございました。

 一切ノ放下

 と微笑んで御首肯なされ、

 デキマシタカ

 ややお口早におつしやいました。

「されば、」と入道さまも、こんどは、例の、は? と聞き耳を立てることも無く、言下に應ぜられました。「物欲を去る事は、むしろ容易に出來もしまするが、名譽を求むる心を棄て去る事は、なかなかの難事でござりました。瑜伽論にも『出世ノ名聲ハ譬ヘバ血ヲ以テ血ヲ洗フガ如シ』とございまするやうに、この名譽心といふものは、金を欲しがる心よりも、さらに醜く奇怪にして、まことにやり切れぬものでござりました。ただいまの御賢明のお尋ねに依り、蓮胤日頃の感懷をまつすぐに申し述べまするが、蓮胤、世捨人とは言ひながらも、この名譽の慾を未だ全く捨て去る事が出來ずに居りまする。姿は聖人に似たりといへども心は不平に濁りて騷ぎ、すみかを山中に營むといへども人を戀はざる一夜も無く、これ貧賤の報のみづから惱ますところか、はたまた妄心のいたりて狂せるかと、われとわが心に問ひかけてみましても更に答へはござりませぬ。御念佛ばかりが救ひでござりまする。」けれどもお顏には、いささかも動搖の影なく、澱みなく言ひ終つて、やつぱりきよとんとして居られました。

 遁世ノ動機ハ

 と輕くお尋ねになる將軍家の御態度も、また、まことに鷹揚なものでございました。

「おのが血族との爭ひでござります。」

 とおつしやつた、その時、入道さまの皺苦茶の赤いお顏に奇妙な笑ひがちらと浮んだやうに私には思はれたのですが、或ひは、それは、私の氣のせゐだつたかも知れませぬ。

 ドノヤウナ和歌ガヨイカ

 將軍家は相變らず物靜かな御口調で、ちがふ方面の事をお尋ねになりました。

「いまはただ、大仰でない歌だけが好ましく存ぜられます。和歌といふものは、人の耳をよろこばしめ、素直に人の共感をそそつたら、それで充分のもので、高く氣取つた意味など持たせるものでないやうな氣も致しまする。」あらぬ方を見ながら入道さまは、そのやうな事を獨り言のやうにおつしやつて、それから何か思ひ出されたやうに、うん、とうなづき、「さきごろ參議雅經どのより御垂教を得て、當將軍家のお歌數十首を拜讀いたしましたところ、これこそ蓮胤日頃あこがれ求めて居りました和歌の姿ぞ、とまことに夜の明けたるやうな氣が致しまして、雅經どのからのお誘ひもあり、老齡を忘れて日野外山の草庵より浮かれ出て、はるばる、あづまへまかり出ましたといふ言葉に嘘はござりませぬが、また一つには、これほど秀拔の歌人の御身邊に、恐れながら、直言を奉るほどの和歌のお仲間がおひとりもございませぬ御樣子が心許なく、かくては眞珠も曇るべしと老人のおせつかいではございまするが、やもたてもたまらぬ氣持で、このやうに見苦しいざまをもかへりみず、まかり出ましたやうなわけもござりまする。」と意外な事を言ひ出されました。

 ヲサナイ歌モ多カラウ

「いいえ、すがたは爽やか、しらべは天然の妙音、まことに眼のさめる思ひのお歌ばかりでございまするが、おゆるし下さりませ、無賴の世捨人の言葉でございます、嘘をおよみにならぬやうに願ひまする。」

 ウソトハ、ドノヤウナ事デス。

「眞似事でございます。たとへば、戀のお歌など。將軍家には、恐れながら未だ、眞の戀のこころがおわかりなさらぬ。都の眞似をなさらぬやう。これが蓮胤の命にかけても申し上げて置きたいところでござります。世にも優れた歌人にまします故にこそ、あたら惜しさに、居たたまらずこのやうに申し上げるのでござります。雁によする戀、雲によする戀、または、衣によする戀、このやうな題はいまでは、もはや都の冗談に過ぎぬのでござりまして、その酒落の手振りをただ形だけ眞似てもつともらしくお作りになつては、とんだあづまの片田舍の、いや、お聞き捨て願ひ上げます。あづまには、あづまの情がある筈でござります。それだけをまつすぐにおよみ下さいませ。ユヒソメテ馴レシタブサノ濃紫オモハズ今ニアサカリキトハ、といふお歌など、これがあの天才將軍のお歌かと蓮胤はいぶかしく存じました。御身邊に、お仲間がいらつしやりませぬから、いいえ、たくさんいらつしやつても、この蓮胤の如く、」と言ひかけた時に、將軍家は笑ひながらお立ちになり、

 モウヨイ。ソノ深イ慾モ捨テルトヨイノニ。

 とおつしやつて、お奧へお引き上げになられました。私もそのお後につき從つてお奧へまゐりましたが、お奧の人たちは口々に、入道さまのぶしつけな御態度を非難なさつて居られました。けれども將軍家はおだやかに、

 ナカナカ、世捨人デハナイ。

 とおつしやつただけで、何事もお氣にとめて居られない御樣子でございました。

 その翌日、參議雅經さまが少し恐縮の態で御所へおいでになられましたが、その時も、將軍家はこころよくお逢ひになつて、種々御歡談の末、長明入道さまにも、まだまだ尋ねたい事もあるゆゑ遠慮なく御所へ參るやうにとのお言傳さへございました御樣子でした。けれども長明入道さまのはうで、何か心にこだはるものがお出來になつたか、その後兩三度、御所へお見えになられましたけれど、いつも御挨拶のみにて早々御退出なされ、將軍家もまた、無理におとめなさらなかつたやうでございました。

 信仰ノ無イ人ラシイ

 そのやうな事を呟やかれて居られた事もございました。とにかく私たちから見ると、まだまだ強い野心をお持ちのお方のやうで、ただ將軍家の和歌のお相手になるべく、それだけの目的にて鎌倉へ下向したとは受け取りかねる節もないわけではございませんでしたが、あのやうにお偉いお方のお心持は私たちにはどうもよくわかりませぬ。このお方は十月の十三日、すなはち故右大將家の御忌日に法華堂へお參りして、讀經なされ、しきりに涙をお流しになり御堂のお柱に、草モ木モ靡キシ秋ノ霜消エテ空キ苔ヲ拂フ山風、といふ和歌をしるして、その後まもなく、あづまを發足して歸洛なさつた御樣子でございますが、わざわざ故右大將さまの御堂にお參りして涙を流され和歌などおしるしになつて、なんだかそれが、當將軍家への、俗に申すあてつけのやうで、私たちには、あまり快いことではございませんでした。あのひねくれ切つたやうな御老人から見ると、當將軍家のお心があまりにお若く無邪氣すぎるやうに思はれ、それがあの御老人に物足りなかつたといふわけだつたのでございませうか、なんだか、ひどくわがままな、わけのわからぬお方でございましたが、それから二、三箇月經つか經たぬかのうちに「方丈記」とかいふ天下の名文をお書き上げになつたさうで、その評判は遠く鎌倉にも響いてまゐりました。まことに油斷のならぬ世捨人で、あのやうに淺間しく、いやしげな風態をしてゐながら、どこにそれ程の力がひそんでゐたのでございませうか、私の案ずるところでは、當將軍家とお逢ひになつて、その時お二人の間に、私たちには覬覦を許さぬ何か尊い火花のやうなものが發して、それがあの「方丈記」とかいふものをお書きにならうと思ひ立つた端緒になつたのではあるまいか、ひよつとしたら、さすがの御老人も、天衣無縫の將軍家に、その急所弱所を見破られて謂はば奮起一番、筆を洗つてその名文をお書きはじめになつたのではあるまいか、などと、俗な身贔屓すぎてお笑ひなさるかも知れませんが私などには、どうも、そのやうな氣がしてなりませぬのでございます。とにかく、あの長明入道さまにしても、六十ちかい老齡を以て京の草庵からわざわざあづまの鎌倉までまかり越したといふのには、何かよほどの御決意のひそんでゐなければなりませぬところで、この捨てた憂き世に、けれどもたつたお一人、お逢ひしたいお方がある、もうそのお方は最後の望みの綱といふやうなお氣持で、將軍家にお目にかかりにやつて來られたらしいといふのは、私どもにも察しのつく事でございますが、けれども、永く鎌倉に御滯在もなさらず、故右大將さまの御堂で涙をお流しになつたりなどして、早々に歸洛なされ、すぐさま「方丈記」といふ一代の名作とやらを書き上げられ、それから四年目になくなられた、といふ經緯には、いづれその道の名人達人にのみ解し得る機微の事情もあつたのでございませう。不風流の私たちの野暮な詮議は、まあこれくらゐのところで、やめた方がよささうに思はれます。

 鴨の長明入道さまの事ばかり、ついながながと申し上げてしまひましたが、あの小さくて貧相な、きよとんとなされて居られた御老人の事は、私どもにとつても奇妙に思ひ出が色濃く、生涯忘れられぬお方のひとりになりまして、しかもそれは、私たちばかりではなく、もつたいなくも將軍家に於いてまで、あの御老人にお逢ひになつてから、或ひは之は私の愚かな氣の迷ひかも知れませぬが、何だか少し、ほんの少し、お變りになつたやうに、私には見受けられてなりませんでした。あのやうな、名人と申しませうか、奇人と申しませうか、その惡業深い體臭は、まことに強く、おそるべき力を持つてゐるもののやうに思はれます。將軍家は、戀のお歌を、そのころから、あまりお作りにならぬやうになりました。また、ほかのお歌も、以前のやうに興の湧くままにさらさらと事もなげにお作りなさるといふやうなことは、少くなりまして、さうして、たまには、紙に上の句をお書きになつただけで物案じなされ、筆をお置きになり、その紙を破り棄てなさる事さへ見受けられるやうになりました。破り棄てなさるなど、それまで一度も無かつた事でございましたので、お傍の私たちはその度毎に、ひやりとして、手に汗を握る思ひが致しました。けれども將軍家は、お破りになりながらも別段けはしいお顏をなさるわけではなく、例のやうに、白く光るお齒をちらと覗かせて美しくお笑ひになり、

 コノゴロ和歌ガワカツテ來マシタ

 などとおつしやつて、またぼんやり物案じにふけるのでございました。この頃から御學問にもいよいよおはげみの御樣子で、問註所入道さま、大官令さま、武州さま、修理亮さま、そのほか御家人衆を御前にお集めなされ、さまざまの和漢の古文籍を皆さま御一緒にお讀みになり熱心に御討議なされ、その御人格には更に鬱然たる強さをもお加へなさつた御樣子で、末は故右大將家にまさるとも劣らぬ大將軍と、御所の人々ひとしく讚仰して、それは、たのもしき限りに拜されました。

 

僕は長明が何故か、嫌いである。かの忌わしい兼好法師より、何故か、さらに嫌いである。――]

中島敦漢詩全集 四

  四

攻文二十年
自嗤疎世事
夜偶倦繙書
起仰天狼熾

〇やぶちゃんの訓読

攻文(こうぶん) 二十年
自(おのづ)から嗤(わら)ふ 世事 に疎(うと)きを
夜(よ) 偶(ふ)と書を繙(ひもと)くに倦(う)み
起(た)ちて仰ぐ 天狼の熾(し)たるを

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「攻」ここでは、積極的に学習したり、研究したりすること。
・「文」文学。
・「嗤」嘲笑する、あざ笑う。
・「疎」通りがよい、まばら、疎遠、おろそかにする、内容が充実していないなどの意を有する。
・「世事」世俗社会における様々なこと。俗事。
・「倦」疲労すること、若しくは、興味を失うこと。
・「繙」「翻」と同音同義。
・「起」寝ている状態から座った状態になること、あるいは、座った状態から立ち上がること。
・「天狼」天狼星。シリウス。
・「熾」火が盛んに燃えること、盛んであること、激しいこと。

○T.S.君による現代日本語訳
書物と向き合う時を、もう二十年も積み重ねてきただろうか
お蔭で世事に疎いことたるや、全く以って自嘲を禁じえない
夜、例の如く、読書に倦み
ふと立ち上がって、徐(おもむ)ろに天を振り仰げば
そこに――
ああ……
天狼の凄絶な燦(きら)めき!
永劫の彼方の蒼ざめた孤高な輝きは
透徹した冬の天空を刺し貫き
地上の私を凝っと見つめている……

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
 「事shi4」「熾chi4」が規則通り脚韻を踏む。難解な語彙は特にない。五言絶句として当然ではあるが、起承転結、いずれの句も相当の重さを持つ。各句の意は明快であり、伸びやかに読者の意識に入ってくる。
 ただしこの詩の心臓は、何といっても「天狼熾」の三文字であろう。起句は過去の振り返り、承句は自省、転句は現在の具体的行動を述べ、奇を衒うことなく論理を繋ぐ。そして結句において、最終的に一つの星の輝きに辿りつき、視線をそこに固定させて叙述を終える。
……いや――それは正しくない。
――まさにそこから詩が始まるのだ。
――その証拠に、読み終えた読者の胸に天狼星の輝きが残らないか?
――深い闇の中で――人生を照らす蒼白い光が。
――過去と、今この瞬間と、未来が、つまり、謂わば、運命というものがこの天狼星によって遥かに照射されるのである。
 さらに言おう。この詩の心臓の鼓動を司るもの、それは最後の一字――「熾」――である。
 「熾烈」の「熾」。
 強烈な光を発するだけではない。それは同時に激しく燃えているもの。ジリジリと燃えさかっているもの。理科の実験でマグネシウムの燃焼を見たことはないだろうか。それに近い強烈な蒼白い光。「輝」でも「燦」でも「煌」でもなく、ここに「熾」が置かれたのは、押韻や平仄上の要請からだけではないのだ。
 それにしても天狼星とはこの詩人にとって何なのだろう。世事に疎く、文学に自らの魂を投じることしか知らぬ彼にとって、一体何を象徴するのか。
 ――救いか――希望か――孤高の精神か――それとも、自らの誇りか……。
 この星は、詩人の心の中に、常に凄然たる光芒を曳いているようだ。
 そうした詩人と星――星に運命を重ね合わせる文学――として私は、佐藤春夫の「星」を忘れることが出来ない。全五十五章(佐藤は中国風に「折」と呼称している)の最初の四折分と後半にある三折の、読者の視線を強い力で星空に導く部分を、以下に引用したい[やぶちゃん注:「星」は作品末尾のクレジットによれば大正一〇(一九二一)年三月作。底本は岩波書店一九二八年刊(一九四〇年改版)の岩波文庫版「厭世家の誕生日 他六編」所収のものを用いた。「第一折」から「第三折」までは省略はなく、それぞれを「*」で区切った、その後の掉尾を含む後半の三つの「折」も折内での省略はせず、全文を示した。この引用はT.S.君が本詩を評釈するに際して、詩的な内的欲求として必要としたものであり、文化庁が示すところの、論文等に於いて必要な、一般的な許容される引用の範囲内に含まれると私は判断する。万一、疑義がある場合は、一切の公開上での責任を持つところの、私藪野直史に対してお願いする。なお、「第五十五折」にある「晋江」という地名であるが、底本では「普江」となっている。現在の当地の表記からも、また、岩波書店一九九二年刊の岩波文庫池内紀編「美しき町・西班牙犬の家 他六篇」の表記からも、「晋江」の誤植と判断し、訂した。]。
     《引用開始》
       第 一 折
 泉州城に近い英内の豪家陳氏には三人の兄弟息子があつた。陳氏は代代、富と譽とのある家がらで、一番年上の兄は早く立身をして、近ごろ兩廣巡察使になつた。まだ年若な二番目と三番目とは志を立てて故郷で勉強して居る。この三番息子の少年を陳氏の第三男といふわけで陳三(ちんさん)と呼んで居る。
       第 二 折
 陳三(ちんさん)は誰からであつたかは知らないが、星を見ることを習ひ覺えた。さうして秋の或る晩はつきりした星月夜に、無數の星のなかから一つの星を見出した。それは疑ふべくもなく陳三自身の運命の星であつた。何故かといふに、幾夜試みて見ても、その星は陳三の目を瞬く度ごとに瞬き光るのであつた。さうしてこの一つの星より外に、そのやうな星は一つもなかつた。陳三はそこでその星にむかつて跪いた。
       第 三 折
 「どうぞ私の星よ。私に世の中で一ばん美しい娘を私の妻として授けて下さい。又、その妻の腹に宿つて出來る私の男の子を世の中で一番えらい人にならせて下さい」
 陳三の星に祈つた願事(ねぎごと)はこのとほりであつた。
       第 四 折
 來年貢生の試驗に應ずるための讀書と詩作とに疲れて秋の夜の庭に出た兄は、陳三のこの言葉を聞くともなく偸み聞いた。兄は陳三の祈願を陳三に向つて哂つた。
 「お前は馬鹿なことを祈つた。お前はまるで凡人の幸福を願つて居る。若し私がお前なら私は妻や子供のことなどは決して願はなかつたらう。その代り自分自身のことを願つたらうに。自分の子供などではない。自分自身が世の中で一番えらい人になるやうにつて!」
 「さうです兄さん」素直な陳三はそこで答へた。「私とても最初はさう願はうと思はないではなかつたのです。しかし私は考へ直した。自分がえらい人になるだけの事なら、どうやら自分だけの努力で出來さうな氣もする。それにひきかへて、世の中で一番美しい娘にめぐり遭つたり、その娘の心をひくことが出來たり、その上その娘を妻にすることができて、その妻によつて子供を持ち、しかもそれが世の中で一ばんえらい人になる――こんな幸福こそは、自分の身の上のことでしかも自分の努力ではどうにもならない。これこそ星の力にでもよらなければならない事だ。と私はさう考へたのでした‥‥」
 「なるほど、しかし」と兄は遮つた。「私はまたかうも思ふ。運命といふものはお前が考るよりももつと大きな力であるかも知れない。假りにお前がもし、惡運の星の下に生れて來て居るとしたら、お前の熱心な祈願も、それをどれだけ善くかへることが出來るだらうか。一たい私は星を信じない方だが、それともお前よりももつと信ずると言つた方がいいかも知れない。何にしろ星に祈るのも無駄なことではなささうだ。私の星はそれなら、どの星であらう」
 兄弟はこんなことを語り合つて、もう一度、目を上げて空一めんの星くづに見入つた。
 謎の空は無限に深かつた。
         *
       第三十八折
 「どうぞ、私の星よ。私に世の中で一番美しい娘を私の妻として授けて下さい。又その妻の腹に宿つて出來る私の男の子を世の中で一番えらい人にならせて下さい。――あなたはもう私の祈願の半分を聞きとどけて下さつたよやうに見える。尚も、私を惠んで私の祈願を完うさせて下さい。私にどうぞ、人間らしい幸福を授けて下さい」
 陳三は、長兄との傳奇的なこの邂逅のあつた夜、彼の星にむかつて彼がその守護を得てゐることを深く感謝した。さうして彼はいつもより熱心に永いあひだ跪いた。さて、戀を思ひながら星に埋つた蒼穹を仰いだ陳三は、人間のあまりに微小なことを感じ、しかもその微小な人間の微小な胸の底にも亦一個無限の星辰を鏤めた蒼穹が宿されてゐるのを感じた。それ故に人間と生れたことは實にはかなく切なく、而もさればこそ生甲斐がある――陳三はこのやうな感に打たれながら、彼の目を星そのもののやうに輝かせた。
 陳三の星を教へられ、さてその左右に並んでゐるところの星が各自分のものであることを信じた五娘と益春ともまた、窓をとほしてその星を拜みながら、ひそかに祈念した。
 「どうぞ、私の星よ。私が私の夫によつて生涯深く愛せられるやうに私をお守り下さい」
 彼の女たちの願事(ねぎごと)は期せずして一致した。世の中のすべての花嫁たちがさうでなければならない如く。
         *
       第四十二所
 或る夜明けに、陳三は益春の房から出て五娘の房を訪れた。前の宵の五娘との約束を果さなければならないからである。陳三は五娘の牀の帳を押し明けた。訝しい事には五娘はそこに居ない。ただ枕もとに、その上へ金簪を置いた一通の手紙があつた。殘燈のほのかな白さのもとに、陳三はふるへる手でそれを開いた。驚いて、彼は扉を排して出た。まだ暗いことに氣がついて燭を秉つて再び出た――庭の井戸へ。五娘がそこへ身を投げると書き遺したところへ。石だたみの上には赤い小さな屣(くつ)が片一方ある! 五娘のものだ! 陳三は燭を高く斜にかざしてその下から井戸をのぞき込んだ。黑く屣の形が一つ、灯を金色に映じた水の圓いなかにしよんぼりと浮んでゐる。水は重たく靜まつてゐた。陳三は燭を石の上に置いた。それから石の上のを屣を拾つた。赤いうへに蔓草とそれの花とが黑く縫ひ飾つてある。――これこそ、あの第一の晩に五娘が帳中で穿いてゐたものである。陳三はもう一ペん井戸のなかを見る。そこには靜かな黑い水の面に星が一つ天から影を落してゐる。つくづく見るとそれが陳三自身の星である。
 「五娘!」
 陳三は叫んだ。星影を映した深い水が彼をおびき入れる。よろめいて彼は墜ちた――突きのめされるやうに。又狼狽して足を踏み外したやうに。
 短い叫び聲が井戸に近い穀倉から鋭く叫んだ。しかしそれは人を呑んだ黑い井戸の吼えるやうな響で消された。
 陳三は苦悶のうちに水面から擡げた頭の眞上に、彼自身の星を最後に見た。――その星だけは、どんな激しい感情が陳三を井戸のなかへ追ひ入れたかを、或は知つてゐるかも知れない‥‥
         *
       第五十五折
 「どうぞ、私の星よ。世の中で一番美しい娘を私の妻に授けて下さい。私の妻の腹に宿つて出來る私の男の子を世の中で一番えらい人にならせて下さい」そういう願事を彼の星に祈つた陳三や、その陳三と死を偕にし墓を一つにした第一夫人――世の人に一番美しいと言はれた五娘や、陳三のえらい男の子を腹に宿した第二夫人――天の目で一番美しいと思われた益春や、そのえらい男の子洪承疇や、その外のすべての彼らが生きてゐて、それぞれに笑ひ、嘆き、溜息をし、泪を流し、憤り、勝ち誇り、淋しきに堪へ、さて、死んで仕舞つてから、もう三百年以上になる。その間に淸の國も亦明と同じやうに亡びた。ただ泉州に近い英内には、陳三の五落の家が晋江の岸に沿うて流水に影を映じながら、崩れさうになつてではあるが、今でもまだ殘つてゐる。――しかし、私はその家は見ない。私は去年旅をしてあの近くへは行つたが、泉州へはとうとう行かないのだから。
   《引用終了》
――星に人生を投影すること、宇宙の運行に運命を見ること。
――私たちはそんな当たり前の健やかな心を、いつ、失ってしまったのだろうか――

耳嚢 巻之六 尾引城の事

 尾引城の事

 

 上州館林の城を、古代は尾引(をびき)の城と云(いひ)し由、土老の語りけるが、其譯を尋(たづね)しに、いにしへいつの頃にやありけん、赤井相公(しやうこう)といへる武士、年始とかや、彼(かの)邊を通りしに、草苅童共、松葉もて狐の穴をいぶし、狐の子二三疋を捕へ引歩行(ひきあるき)しを、赤井見て、狐の子を害せば親狐もなげくらむ、仇(あだ)などなさば村方の爲にもあしかりなんとて、色々諭して代償を出し、右狐の子を買取(かひとり)、とある山へ放し遣(やり)しけるに、或夜赤井が許へ來りて、うつゝに告(つげ)て云(いへ)るは、御身の放し給ひし狐の親なるが、莫大の厚恩報ずべき道なし、御身兼て城地(じやうち)を見立(みたて)、築(きづか)んの企(くはだて)ありと聞(きき)、我案内して其繩張をなし給はゞ、名城にして千歳全からんと申(まうす)にまかせ、日を極めて其指(そのさす)處に至りしに、狐出て田の中谷の間とも不言(いはず)、尾を引(ひき)て案内せる故、其尾に隨ひて繩張せし城なれば、尾引の城と唱へし由かたりぬ。太閤小田原攻(ぜめ)の頃、此城攻(せむる)に品々怪異ありて、落城六ケ敷(むつかし)かりしと、古戰記にも見へぬれば、いやしき土老の物語りながら、かゝる事もあるべきやと、爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。妖狐譚で六つ前の「二尾檢校針術名譽の事」と連関。

・「尾引城」現在の群馬県館林市に館林城(尾曳城)の跡が残る。ここに記された通り、この城の築城には伝説が残っており、天文元(一五三二)年、当時の大袋城(おおぶくろじょう:現在の群馬県館林市羽附字富士山にあった。館林城の東約一・五キロメートルの城沼に東北に向かって突き出した半島に築かれていた)主赤井照光が子供達に虐められていた子狐を助けると一人の老人が現われ、新たに城を築く事を強くすすめ、翌日、一匹の老狐が現われて尾を引きながら城の「繩張」り(建築予定の敷地に縄を張って建物の位置を定めること。縄打ち)をして城の守護神になることを約束して姿を消したという。照光は吉兆と思い、新城を築いて、所縁に拠って尾曳城(後の館林城)と名付け、本丸から見て、鬼門の方角に尾曳稲荷神社を遷座させて鬼門鎮守社としたという。但し、歴史資料では文明三(一四七一)年に上杉軍が「立林城」(館林城)を攻略した、という記述があるので、それ以前から築城されていたと思われる。城郭は平城で城沼を外堀とする要害堅固の城で、当時では珍しい総構え、広い城域に城下町を取り込んで、外側を高い土塁と堀で囲んでいたと推定されている。永禄五(一五六二)年に上杉謙信により落城、赤井氏は武蔵忍城に退き、謙信が死去すると、上野国の上杉家の影響力が弱体化したことで武田家・小田原北条家が支配した。江戸時代になると徳川家重臣榊原康政が城主となり、以後も東国の押さえの城として幕府から重要視され、徳川綱吉を筆頭に親藩や有力譜代大名が城主を歴任している。明治維新後は廃城となり、多くの建造物が破棄されたが、市街地にあって破却された平城の中では、土塁などの遺構が比較的残っており、近年、土橋門や土塀・井戸などが復元されて館林市指定史跡に指定されている(以上は「群馬県WEB観光案内所」の「館林城」の記載に拠った)。また、この城内にあった「尾曳稲荷神社」は現存する。現在でも社殿は旧本丸のあった西側方向に向いている(同「尾曳稲荷神社」に拠る)。底本の鈴木氏の注には、上記の他に、『赤井但馬入道法蓮が築城、功成って』弘治二(一五五六)年一月に『引移った(関八州古戦録)』とあり、また、その「繩張」りをした狐は白狐で『当国無双の稲荷新左衛門と名乗っ』たともある。……それにしても……結局、落城までは百年程、四〇〇年後には露と消えている……千年はちと、無理で御座ったな、白狐殿……

・「相公」宰相の敬称、また、参議の唐名であるが、これは赤井照光の名「照光」が、誤って伝えられたものであろう。

・「太閤小田原攻」小田原征伐。天正一八(一五九〇)年に豊臣秀吉が関東最大の戦国大名後北条氏を滅ぼして全国統一を完成させた戦い。九州征伐後の秀吉は北条氏政・氏直父子にも上洛を促したが、彼らは関東制覇の実績を奢って秀吉の力を評価せず、上洛に応じなかったため、秀吉は前年の天正一八年に後北条氏の上野の名胡桃(なくるみ)奪取を契機として諸大名を動員、後北条氏討伐を下令した(本文の館林城(尾曳城)攻めはこの時のこと)。後北条氏は上杉謙信・武田信玄に対して成功した本拠相模小田原城での籠城策を採用したが、後北条側から離反の動きが生じ、「小田原評定」という故事成句の元となった北条一族と重臣との豊臣軍との徹底抗戦か降伏かの議論が長く紛糾、同年七月、当主氏直が徳川勢の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出て開城となった。但し、氏直は家康の娘婿であったために助命となり、紀伊国高野山に追放されて生き延びた(以上は平凡社「世界大百科事典」及びウィキの「小田原征伐」の記載を参照してカップリングした)。

・「古戰記」不詳。識者の御教授を乞う。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 上州館林の城を、古えには『尾引の城』と申した由、土地の古老が語って御座ったによって、その謂われを訊ねてみたところ、

「……昔、何時の頃やら分からねど、赤井相公(そうこう)と申す武士が御座っての、……年始の頃とかに、あの辺りを歩いておったと。……

……と、草刈りに出でておった童(わらべ)どもが、これ、松葉を焚きて、狐の穴を燻(いぶ)し、狐の子(こお)を、これ、二、三疋も捕えて、引きずり回して御座ったを見かけての、……

『……狐の子(こお)を害さば……これ、親狐も嘆くであろ。……また、それを恨みて、仇(あだ)なんどをなしたり致さば……これ、村方のためにも、悪しきことじゃ……』

と、童らをいろいろに諭し、代価まで出だいて、その狐の子(こお)らを買い取ると、その近くの山に放してやったと。……

……さても、その後の、ある夜のことじゃ。……何者かが……赤井が枕許に参っての。……夢現(ゆめうつつ)のうちに告ぐることには、

「……我らは……御身が放ちて下された狐の親なるが……計り知れぬ厚き恩……これ……報いきることも出来ざる程なれど……御身……かねてより……良き地を見立て……城を築かんとする志しのあらるるを……これ……聞き及んで御座る……されば……我ら……案内(あない)致しますによって……その通りに城縄張りをなさったならば……これ……その城……千年の不落……間違い御座りませぬ……」

と申したによって、赤井、夢現のうちに、その狐妖の言うがまま、縄張りの日(ひい)を決め、場所をも示された、と申す。……

……さても、その約定(やくじょう)の日、その狐妖の指し示した所へ出向いたところ……

――確かに

――一疋の狐が出で来て

――田圃の中

――谷の間

――何処(いずく)とも委細構わず

――その長(ながー)き尾を引きて

――案内致いた、と申す。……

……さても、その狐の尾の、地曳き致いたままに、縄張り致いて築いたる城なればこそ、『尾引の城』と、唱えて御座る、じゃて。……」

とのことで御座った。

 太閤秀吉小田原攻めの頃、この城攻めをも行われて御座ったが、その折りには、これ、数多(あまた)の怪異が御座って落城が難しゅう御座った由、古戦記にも見えて御座れば、卑賤の古老の物語ながら、そうした『何かの因縁』も、これ、あるやも知れぬと、ここに書き記しておくことと致す。

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 8

 

 かくて爰に日をくらしなんもいかならんとて、山をくだり里に入ぬれば、朔日比の山のはに纖月かすかにして鐘のひゞき海岸のそこにこたへ、岡のやかたはなみにうつり、龍の都に入ぬるやと覺つかなし。

 

[やぶちゃん注:「朔日比」冒頭注で示した通り、彼が相州金沢に着いたのは寛永一〇(一六三三)年十一月一日の夜のことであった。

 

「纖月」「せんげつ」で繊月、繊維のように細い月。新月から二日月三日月の異名。]

 

 

 

 海士のいさりをたよりに宿とひて、ひと夜を明し、まづ寺に詣けるに本堂一宇あり。諸堂皆跡ばかり也。五重の塔も一重殘りぬ。此金澤山稱名寺はいつの年にか龜山院の細願所と號せらる。この所は一切在家をまじへず。今の在家は皆當時界内なり。殺生禁斷の浦なりし。漁人など申者一人もなし。時うつり國一度みだれ、寺廢亡して再いにしへにかへらず、庄園悉落て武家押領の地と成、房跡は漁人の栖家と成、院々は跡なく海士の小屋數そひ、當寺界外下郎どもは武家の手につき、門外に有ながらかへつてかれらが顏色をうかゞふあり樣、おもひやるべし。佛前の燈もほそく朝夕のけぶりもたえがち也と老僧達三人かたられけるに袖をうるほしつ。

 

[やぶちゃん注:称名寺の完膚なきまでの哀れな衰亡の様が語られる。当時の現状が具体に語られており、特に開幕後に移入してきた武士階級が横暴を極めている様子など、「佛前の」「ほそ」き「燈」の前の瘦せ枯れた「老僧達三人」の画像が慄然とするほどのリアルではないか。]

 

 

 

 昔舟つかはして一切經をも異國より取わたし、其外俗書外典ども世に類すくなき本ども、金澤文庫と書付あるは、當寺より紛失したる也とかたらる。經藏もこぼれぬれば本堂に一切經をばとめをくと也。寺の致境を見めぐらしぬれば、山かこみ古木そびえ立て、松杉の色、ことに秋よりけなる紅葉のほのめきて、靑地なる錦をはりたらんはかゝるべきかなどゝいひあへり。

 

 何となく空に時雨のふり分て そむるかへ手にましる松杉

 

[やぶちゃん注:金沢文庫もすっかり毀れている。

 

「金澤文庫と書付ある」は鎌倉攬勝考卷之十一附録の「金澤文庫舊跡」を参照。蔵書印の影印画像がある。これは鎌倉時代とも、後の室町時代に称名寺が蔵書点検を行った際に押されたとも言われる蔵書印で、日本最古の蔵書印である。同条に『儒書には黑印、佛書には朱印を押たるといえども、今希に世に有ものは、皆黑印にてぞ有ける。又黑印も、大小のたがひも有けるといふ』とし、沢庵の時代にまだあった一切経も、この「鎌倉攬勝考」の書かれた幕末文政十二(一八二九)年頃には、書籍が移譲された足利『學校も隨て頽廢し、書籍も悉く散逸しける事なるべし。今稱名寺にも、むかし文庫の書籍の内、一冊も見えず。一切經の殘册の破たるもの、彌勒堂に僅にあれども、定かならず』という惨憺たる状況に陥っていた。

 

「秋よりけなる紅葉」は、(秋の頃の美しさに)心が寄せられるの意の「寄る」に、そんな感じがする、の意の形容動詞化する接尾辞「気なり」が附いたか、若しくは、羨ましい、の謂いの、口語形容詞「けなりい」が附いたものが、誤って形容動詞化したものであろうか。国語学は苦手である。識者の御教授を乞う。]

 

 

一言芳談 一二四

   一二四

 

 然阿(ねんあ)上人云、三心(じん)を具せざる者も、おして決定往生と思へば、この故實によりて、はじめて三心をば具するなり。

 

○然阿上人、良忠上人なり。

○おして決定、此のおしてといふが肝要なり。一枚起請の所詮も決定の二字なり。

 

[やぶちゃん注:「然阿上人」(正治元(一一九九)年~弘安一〇(一二八七)年)は浄土僧。諱は然阿(ねんな)。謚号記主禅師(示寂七年後の永仁元 (一二九三) 年に伏見天皇より贈)。浄土宗第三祖とされる。太政大臣藤原師実六世の孫である円実の子といわれ(この出自はⅡの大橋氏の注に拠る。以下でもウィキ忠」を元にしながら、浄土宗公式サイトの記主良忠上人略年譜と校合、補塡した)、石見国三隅庄(現在の島根県那賀郡三隅村)出身。園城寺(三井寺)に入って出家、嘉禎二(一二三六)年頃、法然の弟子である聖光房弁長に謁して弟子となり、翌年、郷里に帰国して安芸国・石見国等に浄土教を弘めた。仁治元(一二四〇)年には幕府の重臣北条経時の帰依を受けて鎌倉佐助ヶ谷に蓮華寺(現在の材木座にある光明寺の前身)を創建、宝治二(一二四八)年には後嵯峨上皇に円頓戒を授戒している。この間、浄土・天台・真言・法相・三論・華厳・律・禅等の教学を精力的に学んだ。関東において広く浄土教を布教し、日蓮と論争もしている。

「三心」既注であるが、再注する。念仏信仰で浄土に生れるための至誠心・深心(しんじん)・回向発願心(えこうほつがんしん)の三つの信心(安心(あんじん)とも)を指す。「至誠心」とは誠心を以って素直に阿弥陀仏の「誠心」を受け止める心、「深心」は己の凡夫たることを知り(機の信心)、弥陀の四十八誓願の教えを深く信ずること(法の信心)。「回向発願心」は以上を得て、阿弥陀仏と向き合って自らの極楽往生への願を発すること。
「三心を具せざる者も、おして決定往生と思へば、この故實によりて、はじめて三心をば具するなり」この「故實」とは古えよりある決まりや習わし、先例となる事例の意。
――三心(さんじん)を具えていないと心配する者でも、その末期(まつご)に臨んで、『往生は決定(けつじょう)している。』と思えば、そのやり方で、初めて瞬時に三心は既に具しておるのである。――
という謂いであろう。
「一枚起請」法然の「一枚起請文」。全三八七字から成り、念仏の要義を一枚の紙に平易な文章で書き記して釈迦・弥陀に偽りのないことを誓った文。「一枚消息」とも呼ぶ。以前にも出ているが、ここで全文を示しておく(原文はウィキ・アーカイブの「一枚起請文」から引用したが。引用元の親本「法然上人全集」黒田真洞・望月信亨共編(一九〇六年宗粋社刊)の注によれば『黒谷金戒光明寺にある原本を写したもの』とする。なお、踊り字「〱」を示す部分は正字化した。やぶちゃん整序版は、これを私が恣意的に正字化、読みや読点・送り仮名も追加し、漢文訓読の鉄則たる助詞・助動詞の平仮名化を行って、法然自身の誤りも含めて一部の歴史的仮名遣の誤りを訂すなどして示したオリジナルな読みである)。

 

〇原文

もろこし我がてうにもろもろの智者のさたし申さるゝ觀念の念ニモ非ズ。叉學文をして念の心を悟リテ申念佛ニモ非ズ。たゞ往生極楽のタメニハ南無阿彌陀佛と申て疑なく往生スルゾト思とりテ申外二ハ別の子さい候はず。但三心四修と申事ノ候ハ皆決定して南無阿彌陀佛にて往生スルゾト思フ内二籠り候也。此外におくふかき事を存ゼバ二尊ノあはれみニハヅレ本願にもれ候べし。念佛を信ゼン人ハたとひ一代ノ法を能々學ストモ。一文不知ノ愚どんの身ニナシテ。尼入道ノ無ちノともがらに同して。ちシャノふるまいヲせずして。只一かうに念佛すべし。

爲證以両手印

淨土宗の安心起行此一紙二至極せり。源空が所存此外二全ク別義を存ゼズ。滅後ノ邪義ヲふせがんが爲メニ所存を記し畢。

建歴二年正月二十三日

 

○やぶちゃん整序版

 唐土(もろこし)・我が朝(てう)に諸々の知者の沙汰し申さるる觀念の念佛にも非ず。又、學文(がくもん)をして、念の心を悟りて申す念佛にも非ず。ただ往生極樂の爲には「南無阿彌陀佛」と申して疑ひなく往生するぞと思ひとりて申す外には、別の子細、候はず。但し、三心四修(さんじんしじゆ)と申す事の候ふは、皆、決定(けつじやう)して「南無阿彌陀佛」にて往生するぞと、思ふ内に籠り候ふなり。此の外に奧深きことを存ぜば、二尊の慈(あはれ)みに外(はづ)れ、本願に洩(も)れ候ふべし。念佛を信ぜん人は、縱令(たと)ひ一代の法を能々(よくよく)學(がく)すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智の輩(ともがら)に同じうして、智者の振舞(ふるま)ひをせずして、ただ一向に念佛すべし。

證の爲に兩手印を以つてす。

淨土宗の安心起行、此の一紙に至極せり。源空が所存、此外に全く別儀を存ぜず。滅後の邪義を防がんが爲に所存を記し畢んぬ。

建暦二年正月二十三日

 

既注であるが、「四修」とは恭敬修(くぎょうしゅ)・無余修(むよしゅ)・無間修(むけんしゅ)・長時修(ぢょうじしゅ)という念仏の正しい称え方や保ち方を指す。「恭敬修」は恭しく敬った心を持って、「無余修」は雑念をなくして、「無間修」何時でも何処でも、「長時修」は生涯かけて、念仏を修せよとの謂いである(「三心四修」についての注は大阪府高槻市の浄土宗光松寺(こうしょうじ)のHPにある「仏教質問箱」の記載を参考にさせて戴いた)。

「所詮」仏教用語では、経文などによって表される内容を意味し、能詮(のうせん:経典に説かれる意義を表すところの言語。文句。)の対語としてある。ここは、そう採らずとも、所謂、最後に落ち着くところは、の意で採っても「一枚起請文」という切り詰めた文章の場合、間違いではあるまい。]

文學者と讀者 萩原朔太郎

       文學者と讀者

 文學者に對する世人の誤解は、彼等が概して感性的な氣質人であり、作品中の人物に同情したり、熱烈に戀愛したりすることによつて、人情に厚く、情誼に溺れ易い性格の人だと誤信することにある。實を言へば、文學者ほどにも、冷靜で非人情的なものはない。人情を書く場合にさへも、彼等は冷い知性によつて、さうした心理を觀察し、いつも人生を局外から、客觀的に批判してゐるのである。ところが讀者の方では、その作品の背後に、知性的な觀察者が居るといふことを、いつも忘れてゐるのである。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十番目、先に示した「藝術家の原罪」の直後に配されたものである。]

憂はわたしを護る 大手拓次

 憂はわたしを護る

憂はわたしをまもる。
のびやかに此心がをどつてゆくときでも、
また限りない瞑想の朽廢へおちいるときでも、
きつと わたしの憂はわたしの弱い身體(からだ)を中庸の微韻のうちに保つ。
ああ お前よ、鳩の毛竝(けなみ)のやうにやさしくふるへる憂よ、
さあ お前の好きな五月がきた。
たんぽぽの實のしろくはじけてとぶ五月がきた。
お前は この光(ひかり)のなかに悲しげに浴(ゆあ)みして
世界のすべてを包む戀を探せ。

鬼城句集 春之部 虻

虻    虻飛んで一大圓をゑがきけり

2013/03/25

ブログ450000アクセス記念第二弾 室生犀星 あじゃり

ブログ450000アクセス記念の追加として、どうしても僕がテクスト化したかった、室生犀星「あじゃり」を公開した。これで僕の憂鬱は――またしても――完成した――。

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 7

 あけゆけば海道をふるに袖も引ちぎらず、上り下り人しるしらず打すぎ打すぎゆく人、いづれか世に殘りとゞまるベき。夢にあひ夢に別る、いづれをうつゝぞや。行とまるべき終のやどりをしる人やある。本覺の都とやらんも名にはきゝつらん、覺つかなし。

 

  東往西還見幾人  人々相遇孰相親

 

  親疎不問草頭露  露脆風前夢裡身

 

[やぶちゃん注:書き下す。

 

 

 

   東往 西還 幾人をか見る

 

   人々 相ひ遇ひ 孰(いづ)れか相ひ親しむ

 

   親疎問はず 草頭の露

 

   露は風前に脆く 夢裡の身

 

 

 

底本では「相」に送り仮名を振らない。]

 

 西行法師、

 

   いつくよりいつくにかよふ道なれは この世をかりの宿といふらん

 

とかゝる事を聞ても、身のゆくへおもふ人ぞまれなる。

 

   とまる身もゆくも此世を旅なれは 終のやとりはいつちならまし

 

と口のうちにつぶやきながら行に、かしこの里のこなたより左に付て行末こそ金澤へ入道なれといふ。そこの里の名をとへばかたびらの里と聞て、

 

  地白なる霜のあしたははたさむし 夏そきてみむかたひらの里

 

と俳諧して谷相の道をへてゆく。やうやうにしてたかき所にのぼれば、ふるき寺など見付て、山路のうれたき心もやぶれぬ。魂傷山峽深愁破崖寺古と杜工部がつくりけむ詩をおもひ出ぬ。又一坂をのぼれば一本の松あり。おひのぼりたるまさきのかづら靑つゞら、くる人もまれなるに、山男ひとり爪木とるが、是にとへば能化堂の松これ也といふに、立よりて金澤を見おろせば詞もなくて、實にや此入海はいにしへよりもろこしの西湖ともてなしけるときくも僞ならじ。追門の明神とて入海にさし出たる山あり。古木くろみ麓に橋あり。橋の下よりしほさし入ぬれば、はるばるとをき山のいりまで湖水となり、しほ引ぬれば水鳥も陸にまどふにこそ。水陸の景氣もあした夕にかはり、金岡も筆およばざりしと也。來て見る今は冬枯の野島が崎とをしふるは、秋の千種の色もなし。水むすびつゝすゞみける折にふれてや名付けん、名は夏島に夏もなし。島根に海士の小屋みえて網をほしたる夕附日、漁村のてらし是也。そめてかはらぬ筆の跡、硯の海のうるひかや、雨にきてまし笠島は、人の國なる瀟湘のよるの心もしられけり。目路とほけれど富士の根を心によせてまだふらぬ江天の雪と打ながむ。浪たちかへる市の聲、風まち出る沖つ舟、烟寺の鐘もひゞきゝぬ。洞庭とてもよそならず、月の秋こそしのばるれ。水のそこなる影を見て、臂をやのぶる猿島は、身のおろかなるなげ木より、おとしてけりな烏帽子島、海士の子どものかり殘す、沖のかぢめか鎚の音、荒磯浪に釘うたせ、あさ夕しほやさしぬらん。箱崎也とをしふるは、松さへしげり、あひにあふ、しるしの箱をおさめつゝ、西を守ると聞つるに、東の海のそこふかき、神の心ぞたふとかりける。

 

  島々やいく浦かけて山と歌 いかになかめん三十一文字

 

[やぶちゃん注:「いつくよりいつくにかよふ道なれは この世をかりの宿といふらん」この一首、西行の和歌に見出し得ない。識者の御教授を乞う。

 

「かたびらの里」帷子の里。かむいさんの個人ブログ「横浜の街紹介」の帷子の里に、帷子の地名は、「古(いにしへ)よりありし所なりと、されどその名の起りし故は傳へず」として「新編武蔵風土記稿巻文六十九 橘樹郡之十二 神奈川領編」に、道興准后の巡歴集「廻国雑記」(文明一八(一四八六)年成立)と伝太田道灌「平安記行」(室町中期成立)に、「帷子の里」と載る旨の紹介があるとする。「廻国雑記」には、

 

新羽を立ちて鎌倉に到る道すがら、さまざまの名所ども、委しく記すに及び侍らず。かたひらの宿といへる所にて、

 

 

 

  いつ来てか、旅の衣をかへてまし、風うら寒きかたひらの里

 

と載る。かむいさんのブログでは更に、『かたひらの里は現在の「橘樹神社」「神明社」あたりから元町(後の古町橋)にかけての』里名で、『新羽から「下の道」で芝生(現在の浅間町)の「追分」より元町→神明社の裏山を通り→かなざわかまくら道→岩井原の「北向き地蔵」→弘明寺→上大岡に至り「もちゐ坂」へ向かう』と、同定されておられる。この橘樹(たちばな)神社とは横浜市保土ヶ谷区天王町にあり、そばに現在も帷子川(かたびらがわ)と称する川が流れている。一説に、この天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、昔「かたひら」と呼称されたことに由来するという(この部分はウィキ帷子川」に拠る)。この「かたびらの里」で「以下にこなたより左に付て行末こそ金澤へ入道なれ」とあるから、この歌は、現在の西横浜辺りで詠まれたと考えられる。

 

「うれたき」「慨し」、元「心痛(うらいた)し」で、腹立たしい、うらめしい、いまいましい。「谷相」、谷間(たにあい)の景色の開けぬ中を延々と歩いて鬱屈していた。そこへ、景観が開けて解放された思いがしたのである。

 

「魂傷山峽深愁破崖寺古と杜工部がつくりけむ詩」底本の訓点は納得がいかないので、私の自己流で訓読すると、

 

 魂(こん) 山峽の深きに傷みしが

 

 愁(うれひ) 崖寺(がいじ)の古きに破らる

 

杜甫の五言古詩「法鏡寺」の第三・四句目であるが、字に異同がある。

 

 身危適他州

 

 勉強終勞苦

 

 神傷山行深

 

 愁破崖寺古

 

 嬋娟碧蘚淨

 

 蕭槭寒籜聚

 

 回回山根水

 

 冉冉松上雨

 

 洩雲蒙淸晨

 

 初日翳複吐

 

 朱甍半光炯

 

 戸牖粲可數

 

 拄策忘前期

 

 出蘿已亭午

 

 冥冥子規叫

 

 微徑不複取

 

 身危適他州

 

 勉強終勞苦

 

 愁破崖寺古原文も参考にさせて頂いた紀頌之氏の詩100」によれば、前半の紀頌之氏の訳は(訳の部分を連続させて引用)、

 

   《引用開始》

 

身の危険を覚悟の上で他の州の方へゆくのであるが、苦を厭わないことに努めようとはするが、結構きつい旅である。

 

自分の精神は山道を余りに深く入るのでしんぱいになってくる、愁いのこころがうち破られたのは突然に崖のところに古寺がみえてきたのだ。

 

みれば寺前に青ごけがしきつめてあるのであでやかで美しい感じになっている、こちらでは竹の皮が寒風に吹きよせられてさびしい様子である。

 

山の下をながれる水は回りうねって音をたてて流れる、そうしていると松の上からはぽつりぽつり次第に雨がふりそそいでくる。

 

   《引用終了》

 

これだと、

 

 神(しん) 山行の深きに傷みしが

 

 愁 崖寺の古きに破らる

 

か。第一句・第二句はもとより、次のシーンの松も対応しており、沢庵が本詩を想起したことが如何にも、と共感される。本詩の後半部は正しく、紀頌之氏で御鑑賞戴きたい。

 

「能化堂の松」「能化堂」は能見堂のこと。新編鎌倉八」及び鎌倉攬勝考卷之十一附録の「能見堂」の巨勢金岡(こせのかなおか)筆捨松の条々を参照されたい(絵図もある)。

 

「追門の明神」瀬戸明神のこと。新編鎌倉八」の「瀨戸明神」に、『瀨戸〔或作迫門(或は迫門に作る)。〕』と割注する。

 

「人の國なる瀟湘のよるの心もしられけり」水戸藩主徳川光圀が招いた明の禅僧東皐心越(とうこうしんえつ)が撰したものが金沢八景の由来であるが、その元となった中国で画題として知られる湖南省の瀟湘八景(瀟水が湘江に合流、他の水系も加わって洞庭湖を形成する一帯)の内、「瀟湘夜雨」(瀟水と湘水の合流する川面に降る夜の雨)の風情を受けた謂い。この前後、描き出す景観といい、韻律と言い、私は非常に美しく上手いと思う。下らぬ私の注など、不要という気さえしてくるのである。

 

「箱崎」現在の横須賀市箱崎町。吾妻島。現在は全島が米海軍吾妻倉庫地区に属しているために一般人は原則立ち入ることが出来ない。元は岬(箱崎半島)であったが、明治二二(一八八九)年に基部に水路が開削されて島となった(以上はウィキ吾妻島に拠った)。

 

「あひにあふ」とは「箱崎」という名称から身と蓋を連想したものか。また、その彼方の海が走水の海であり、倭建命(やまとたけるのみこと)のために我が身を海神に捧げた后弟橘媛(おとたちばなひめ)の二柱一体の幻影が沢庵を捉えたのかも知れない。識者の御教授を乞うものである。]

 

 

耳嚢 巻之六 領主と姓名を同ふする者の事

 領主と姓名を同ふする者の事

 

 上總國玉崎(たまさき)明神の神主を加納遠江(かなふとほたふみ)と云(いひ)て、不葺合(ふきあへず)の尊(みこと)より統等(とうなど)永く侍りし由。當時右村は加納遠江守領分の由、人の咄(はなし)ける故、領主と姓名を同(おなじ)ふすべき謂(いは)れなし、疑敷(うたがはしき)もの語りなりとなじりけるに、いやとよ、神主も代々右の通り名乘(なのり)、領主にても許容ありて其通り濟來(すみきた)る由申(まうし)ぬ。折あらば、加納家に尋問(たづねとは)んと思ひぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前話の報告者は「上總出生の者」とあり、同一ソースの可能性が高く、連関すると言える。

・「上總國玉崎明神」現在の千葉県長生(ちょうせい)郡一宮町一宮にある上総一宮玉前(たまさき)神社。ウィキの「玉前神社」によれば、現在、祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)で、彼女は海からこの地に上がって、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)に託された鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を養育したが、後に二人は婚姻、初代の神武天皇らを産んだとされる、とあり、更に「延喜式神名帳」を始めとする文献上では『祭神は一座とされているが、古社記には鵜茅葺不合命の名が併記されている』とある。底本の鈴木氏注に、三村竹清氏の注を引いて、『三代実録に授位の事を記せば某旧社たる知るべしとなり、八月十三日大祭にて神輿渡御し、来賽者群集すといふ。』とその参詣の盛況を記す(但し、同神社公式サイト記載によれば、現在の例祭は九月十三日に行われている(恐らく新暦を旧暦に読み替えたものであろう)。「上総十二社祭り」または「上総裸祭り」といわれる裸祭りで千葉県の無形民俗文化財に指定されている)。

・「加納遠江」同神社公式サイト紹介には、現在、「加納」姓や「遠江」の名の方はおられない。

・「不葺合の尊」火火出見尊(ひこほほひでのみこと:山幸彦。)と海神の娘である豊玉姫の子。「古事記」では天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、「日本書紀」では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と表記される。参照したウィキの「ウガヤフキアエズ」には、海神という『異類の者と結婚し、何かをするのを見るなとタブーを課し、そのタブーを破られて本来の姿を見られて別れるという話は世界各地に見られる。日本神話でも同様の説話があり(神産みの黄泉訪問説話など)、民話でも鶴の恩返しなどがある。また、この類の説話では、異類の者との間の子の子孫が王朝・氏族の始祖とされることが多い』とし、『天皇につながる神は皆「稲」に関する名を持つが、日子波限建鵜草葺不合命だけが稲穂と無関係であり、この理由には諸説がある。ウガヤフキアエズの事績の記述はほとんどないため、山と海の力が合わさったこの神により、天皇が山から海まで支配する力を表そうとの意図で、後世に作られた神であるとする説もある。ウガ(ウカ)を穀物とする説もある』とある。

・「加納遠江守」加納久周(ひさのり 宝暦元(一七五一)年~文化八(一八一一)年)。天明六(一七八六)年に養父久堅が死去したため、家督を相続して伊勢八田藩第三代藩主となったが、当時の陸奥白河藩主松平定信の信任が厚く、翌年に定信が老中首座となると、側衆となって定信を補佐して寛政の改革の推進に貢献した。同天明七年、大番頭を兼務し、遠江守に転任、上総一宮藩加納家三代となった。伏見奉行などを務めた。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月、彼の没年までは余り時間がない(根岸の逝去は文化一二(一八一五)年十二月四日)。果たして根岸はこの真否を彼に尋ね得たのであろうか?……はい?……そんなつまらないことが気になりますんでね。僕の悪い癖です……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 領主と姓名を同じゅうする者の事

 

 上総国玉崎(たまさき)明神の神主を、

――加納遠江(かのうとおとうみ)

と言うて、不葺合尊(ふきあえずのみこと)の代より、正当な神職名として、これ、永く名乗っておる由。

 当時、この神社の建つ村は、上総一宮藩にて、

――加納遠江守久周(ひさのり)殿

の御領分で御座った。

 さる人物が以上の話を致いたゆえ、

「……領主と、これ、姓名官位ともに同じゅうしてよいという謂われは、あるまい。……幾ら何でも、それはまた、疑わしき話しじゃが……」

と批難したところが、

「いやいや! 神主もこれ、代々、右の通り名乗り、御領主からも正式な許容の御座って、その通り、今までも、何のお咎めものう、済みおいて御座ること、これ、間違い、御座らぬ。」

と申した。

 さても、折りあらば何時か、加納家の方に尋ね問うてみようとは、思うて御座る。

詩と散文 萩原朔太郎

       詩と散文

 人生は、二つの時間から成立してゐる。夜と晝と。夢と現實と。無意識の生活と、意識する生活と。そこで文學もまた、二つのジヤンルに分類される。詩は夜の夢に浮ぶイメーヂであり、散文は晝の現實に意識するヴイジヨンである。それ故に詩は、常識の方式する文法や悟性を無視して、獨自なドリームライクな仕方により、意識の幽冥に出沒する自我の主體を表現する。――理想的に言へば、人はこの二つの文學(詩と散文)とを書くことにより、意識する自我の生活と、無意識する自我の主體とを、兩面から表現することによつて、初めて自我を完全に表現し得る。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の八番目、先に示した「抽象觀念としての詩」の直後に配されたものである。]

威嚇者 大手拓次

 威嚇者

 

わたしの威嚇者がおどろいてゐる梢の上から見おろして、

いまにもその妙に曲つた固い黑い爪で

冥府から來た響の聲援によりながら

必勝を期してわたしの魂へついてゐるだらう。

わたしはもう、それを恐れたり、おびえたりする餘裕がない。

わたしは朦朧として無限とつらなつてゐるばかりで、

苦痛も慟哭も、哀れな世の不運も、據りどころない風の苦痛にすぎなくなつた。

わたしは、もう永遠の存在の端(はし)へむすびつけられたのだ。

わたしの生活の盛りは、空氣をこえ、

萬象をこえ、水色の奧祕へひびく時である。

鬼城句集 春之部 猫の戀

猫の戀  犬吼えて遠くないけり猫の戀

     いがみ合うて猫分れけり井戸の端

一言芳談 一二三

   一二三

 

 信空上人問うて云、智惠若(も)し往生の要(えう)たるべくば、正直に仰せをかうむりて、修學(しゆがく)をいとなむべし。又、たゞ稱名不足なくば、そのむねを存ずべく候、云々。答へて云、往生の業は、是(これ)、稱名といふ事、釋の文(もん)、分明(ふんみやう)なり。有智無智(うちむち)を簡(えら)まずといふこと、又以つて顯然(けんぜん)なり。然れば、往生の爲めには稱名足れりとす。學問を好むとせむよりは、一向に念佛すべし。彌陀・觀音・勢至に逢ひ奉るの時、何(いづ)れの法文(ほふもん)か達せざらん。念佛往生の旨をしらざらんほどは是を學ぶべし。若し是を知りをはりなば、いくばくならざる知惠をもとめて、稱名の暇(いとま)をさまたぐべからず。

 

○答へて云、此答は法然上人なり。

○往生の業、業(ごふ)は業因(ごふいん)なり。

○釋の文、分明なり、散善義(さんぜんぎ)の一心專念の文(もん)、又要集の念佛爲本(ゐほん)の文(もん)、其外にもかずかずあきらかなり。

○有智無智を、五會讃(ごゑさん)に、不簡下智與高才(ふげんちよかうさい)とあり、又選擇集第三章をも見るべし。

○何れの法文か達せざらん、惠心僧都は唯識(ゆゐしき)は淨土を期(ご)すとの給ひ、聖覺(しやうかく)法印も大小經典の義理は百法明門(ひやくほふみやうもん)の暮をまつべしと仰せれたり。

○是を知りをはりなば、此の分際(ぶんざい)をよく合點(がてん)すべし。

 

[やぶちゃん注:「信空上人」「三十五」に既注済みであるが、再掲する。法蓮房信空(久安二(一一四六)年~安貞二(一二二八)年)は藤原行隆の子。称弁とも。法蓮房という。十二歳で法然の師比叡山黒谷の叡空の室にて得度出家(法然の出家は天養二(一一四五)年十三歳とされる。従って当初、法然は十三歳違いの兄弟子であった)。叡空の滅後に法然に師事、以後、門下の長老として実に五十五年もの間常随し、その臨終にも近侍した。天台僧の念仏弾圧に対して元久元(一二〇四)年に法然が比叡山に送った「七箇条起請文」では執筆役を務め、法然に次いで、門下として筆頭署名をしている。法然流罪後は事実上の後継者として残された教団を統卒、浄土宗の基礎を固めた。「没後制誡」によれば彼の祖父藤原顕時が叡空に寄進した中山(黒谷光明寺の地)の別邸は法然に譲られ、後に法然によって信空に譲られている。これを寝殿造の白川禅房(二階房)と称し、この房内の松林房において九月九日に八十三歳で示寂した(以上は「浄土宗」公式HP以下の頁の記載を参照した)。

「往生の業、業は業因なり」この場合の「業因」とは、本来の狭義の意味の、未来に苦楽の果報を招く原因となる善悪の行為、という意味ではなく、寧ろ、最も/唯一の善の導きだすところの、至高の「業」たる大切な要諦、という意である。

「散善義」既注済み。善導の「觀経疏散善義(かんきょうそさんぜんぎ)」。

「一心專念の文」「觀経疏散善義」に、

 一心專念彌陀名號 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼佛願故

とある。古来、全文を音読みするのが通例らしい(「いっしんせんねんみだみょうごう/ぎょうじゅうざが/ふもんじせつくごん/ねんねんふしゃしゃ/ぜみょうしょうじょうしごう/じゅんぴぶつがんこ)。趣意は「――一心に専ら弥陀の名号を念じよ――行住坐臥――時の長短を問わず――念じて念じて捨てぬ者――これを正定(しょうじょ)の業(ごう)と名づく――かの阿彌陀仏の誓願に無条件で随うが故に――」と謂ったいいであろう。

「要集」源信の「往生要集」。

「念佛爲本」「往生要集」の「第五助念方法門」の「第七総結要行」に、『往生之業念佛爲本』」とある。極楽往生の正しき業因は称名念仏を本(もと)とする(それ以外の学問などの余行は極楽往生の正しき業困ではない)という意である。

「五會讃」「後善導」と称えられた唐代の浄土教の僧法照(ほっしょう)の著わした「五会法事讃」。 念仏を、①平声(ひょうしょう)に緩く念ずる、②平上声(ひょうじょうしょう)に緩く念ずる、③非緩非急に念ずる、④漸く急に念ずる(以上六字名号)、⑤阿弥陀仏の四字をまた急に念ずる、の五種の音調に乗せて修する五会念仏の行儀作法を述べ、三十九種の讃文を集めたもの(ウィキ・アーカイブ「五会法事讃」に拠った)。

「不簡下智與高才」親鸞の「唯信鈔文意」に、『「不簡下智與高才」といふは、「下智」は、智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。』(「不簡下智与高才」の「下智」は、智慧が浅く、視野が狭く、知識・経験の少ない人のことである。)とある(親鸞仏教センター」の「『唯信鈔文意』試訳 10に拠った)。

「選擇集第三章」には以下のようにある(白文は「日蓮宗 現代宗教研究所」の「選択本願念仏集 漢文」を正字化して示し、書き下し文は岩波文庫一九九七年刊の大橋俊雄校注「選択本願念仏集」を底本として、恣意的に正字化、読みを歴史的仮名遣に変更した)。

○原文

故法照禪師五會法事讚云彼佛因中立弘誓聞名念我惣迎來不簡貧窮將富貴不簡下智與高才不簡多聞持淨戒不簡破戒罪根深但使廻心多念佛能令瓦礫變成金(已上)

○書き下し文

故に法照禪師の「五會法事讚」に云く、「彼の佛の因中(いんちう)に弘誓(ぐせい)を立てたまへり。名を聞きて我を念ぜば、惣(すべ)て迎へに來たらむ。貧窮と富貴とを簡(えら)ばず、下智と高才とを簡ばず、多聞にして淨戒(じやうかい)を持(たも)つを簡ばず、破戒にして罪根(ざいこん)の深きをも簡ばず、ただ心を廻(ゑ)して多く念佛せば、よく瓦礫(ぐわりやく)をして變じて金(こん)と成さしめむ。」と。(已上)

「惠心僧都」源信。

「唯識」一切の対象は心の本体である識によって現はれ出たものであり、識以外に実在するものはないということ。また、この識も誤った分別をするものに過ぎず、それ自体存在しえないという認識をも含む。

「聖覺」(仁安二(一一六七)年~嘉禎元(一二三五)年)天台僧。藤原通憲の孫。父は澄憲法印。父と共に唱導の安居院流を開く。安居院の法印とも呼ばれる。比叡山で出家し、比叡山東塔北谷竹林房の静厳について学び、恵心・檀那の両流を相伝した。後に竹林院の里坊である安居院に住み、唱導法談をもって一世を風靡した。法然に師事して浄土教に帰依し、他力念仏を勧めた「唯信抄」を書く。「一期物語」によれば、法然が瘧(おこり:マラリア。)の病いに罹った際、九条兼実が聖覚に命じて善導の影前において唱導を行わせたところ、病が治ったという。嘉禄の法難(一二二七年に法然門下の専修念仏者に加えられた迫害)では念仏停止を進言した。雅成親王からの下問に対して答申したり、後鳥羽上皇からの宗義の勅問を受けて答申しするなど、浄土門で大いに活動した(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「百法明門」一百八法明門。菩薩が初地の位において得る法門で、あらゆる真実の法に明瞭に通達させる智慧の意。]

ブログ450000アクセス記念 やぶちゃん正字化版西東三鬼句集 公開

2013/03/25 02:42:48 Blog鬼火~日々の迷走: くるり 家出娘

で来られ、トップ・ページや、プロフィール・ページ、

2013/03/25 02:44:18   Blog鬼火~日々の迷走: 冬 萩原朔太郎

などをご覧になられて、再び、

2013/03/25 02:46:20   Blog鬼火~日々の迷走: くるり 家出娘

で退出された「あなた」が、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来450000人目の訪問者でした。向後ともよろしゅうに。

只今、ブログ450000アクセス記念として「やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇」に、HP版「やぶちゃん正字化版西東三鬼句集 《西東三鬼全四句集『旗』・『夜の桃』・『今日』・『變身』(全)+「『變身』以後」(全)+やぶちゃん選拾遺抄Ⅰ~Ⅲ》」(+縦書版)を公開した。

2013/03/24

北條九代記 和田義盛上總國司職を望む

      ○和田義盛上總國司職を望む

承元三年五月十二日、和田左衞門尉義盛、内々望み申す事あり。往當(そのかみ)、故右大將家の御時に、抜群の忠功を勵(はげま)し、平氏没落して、四海靜謐に歸し、勲功の賞、行はれて、諸侍の位次(ゐじ)を定めらる。義盛は諸司(しよしの)別當に補(ふ)せられしに、梶原景時羨みて、假初(かりそめ)にこの職を借(かり)て永く返さず。景時没落の後、義盛、二度、還補(げんふ)したりけるが、此比上總國司職を望み申しけるを、將軍家、即ち、尼御臺政子の御方へ申合されたり。尼御臺、仰せられけるやう、故右大將家の御時より、侍(さぶらひ)の受領は停止(ちやうじ)せられたり、今更、成例(じやうれい)を始めらるべからず、女性(によしやう)なんどの口入(こうじゆ)には足らざるの旨、御返事有てその事打止(うちや)めらる。義盛、歎狀(たんじやう)を大官令に付けて、一生の望(のぞみ)、この一事にある由、述懷申しければ、「如何にも御計(はからひ)あるべし。左右を待つべし」とぞ仰出(おほせいだ)されける。同十二月十五日、近國の守護補任の御下文(くだしぶみ)を進ず。その中に千葉介成胤(なりたね)は、先祖千葉〔の〕大夫、元永より後、當莊の檢非違使所(けんびゐしどころ)たるの間(あひだ)、右大將家の御時、常胤、下總一國の守護職に補(ふ)せらるゝの由を申す。三浦兵衞尉義村は、祖父(おほじ)義明(よしあきら)、天治より以來(このかた)、相摸國の雑事(ざふじ)相交(まじは)るに依て、同じき御時檢斷の事、同じく沙汰致すべきの旨、義澄、是を承るの由を申す。小山左衞門尉朝政(ともまさ)は、本(もと)より御下文を帶せず。先租下野〔の〕少掾(じよう)豐澤(とよざは)、當國の押領使(あうりやうし)として、檢斷のこと、一向に執行(しゆぎやう)致す。秀郷朝臣(ひでさとのあそん)、天慶三年に官符を賜るの後、十三代數百歳奉行するの間、更に中絶の例(れい)なし。但し、右大將家の御時は建久年中に、亡父政光入道、この職を朝政に讓與(ゆづりあた)ふるに就いて、安堵の御下文を賜る計(ばかり)なり。敢て新恩の職にあらずと申す。その外國々皆右大將家の御下文を帶す。向後愈(いよいよ)政道怠るべからずと、仰せ含めらる。惣じて大名諸侍、其(その)先祖の武功を衒(てら)ひ、私(わたくし)の述懷を以て上を怨み奉る事は不忠の者たるべし。足る事を知るを勇士(ようし)の心とし、國家を守り奉るを忠勤の侍とす。只深く身を謹(つつしみ)て家を治むと名付くと、賞祿に厭(あ)かざる輩を誡仰出(いまいめおほせいだ)されけり。和田義盛、上總國司の事、所望を止(とど)め候、今は執心も無く候へば、擎(さゝ)げ奉る所の歎狀を返し給はるべき由を申す。既に御前に進覽せしめ、暫く御左右を待つべき旨、仰を承はりながら、今この訴訟、偏(ひとへ)に上を輕(かろし)め計(はから)ふ事、甚だ御意に叶はずとぞ、御氣色(ごきしよく)ありけり。子息四郎義直、五郎義重等(ら)、深く心に含みて、世を謀(はか)る志出來たり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十九の承元三(一二〇九)年十一月二十七日、十二月十五日、及び巻十六の正治二(一二〇〇)年二月五日の条(義盛の侍所別当還補)に基づく(「和田義盛侍所の別當に還補す」の注に既出)。前の二条を纏めて抜粋して示す。

○原文

(十一月大)廿七日丁巳。和田左衞門尉義盛上総國司所望事。内々有御計事。暫可奉待左右之由蒙仰。殊抃悦云々。

(十二月小)十五日乙亥。近國守護補任御下文等備進之。其中。千葉介成胤者。先祖千葉大夫元永以後爲當庄檢非違所之間。右大將家御時。以常胤被補下総一國守護職之由申之。三浦兵衞尉義村者。祖父義明天治以來依相交相摸國雜事。同御時。檢斷事同可致沙汰之旨。義澄承之訖之由申之。小山左衞門尉朝政申云。不帶本御下文。曩祖下野少掾豊澤爲當國押領使。如檢斷之事。一向執行之。秀郷朝臣天慶三年更賜官符之後。十三代數百歳。奉行之間。無片時中絶之例。但右大將家御時者。建久年中。亡父政光入道。就讓與此職於朝政。賜安堵御下文許也。敢非新恩之職。稱可散御不審。進覽彼官符以下狀等云々。其外國々又帶右大將家御下文訖。縱雖犯小過。輙難被改補之趣。有其沙汰。向後殊不可存懈緩之由。面々被仰含。廣元奉行之。

○やぶちゃんの書き下し文

(十一月大)廿七日丁巳。和田左衞門尉義盛、上総國司所望の事、内々に御計(おんはから)ひの事有り。暫く左右(さう)を待ち奉るべきの由、仰せを蒙り、殊に抃悦(べんえつ)と云々。

(十二月小)十五日乙亥。近國の守護、補任の御下文等之を備進(びしん)す。其の中に、千葉介成胤は、先祖千葉大夫、元永より以後、當庄檢非違所(けびゐどころ)たるの間、右大將家の御時、常胤を以つて下総一國の守護職を補(ふ)せらるるの由、之を申す。三浦兵衞尉義村は、祖父義明(よしあき)、天治より以來(このかた)、相摸國の雜事(ざふじ)に相ひ交はるに依つて、同じき御時、檢斷の事、同じく沙汰致すべきの旨、義澄、之を承り訖んぬるの由、之を申す。小山左衞門尉朝政(ともまさ)、申して云はく、本の御下文を帶せず。曩祖(なうそ)下野少掾豊澤(しもつけのしやうじやうとよさは)、當國の押領使(あふりやうし)として、檢斷のごときの事、一向に之を執り行ふ。秀郷朝臣、天慶三年、更に官符を賜はるの後、十三代數百歳奉行するの間、片時(へんし)も中絶の例(ためし)無し。但し、右大將家の御時は、建久年中、亡父政光入道、此の職を朝政に讓り與ふるに就き、安堵の御下文を賜はる許りなり。敢へて新恩の職に非ず。御不審を散ずべしと稱し、彼の官符以下の狀等を進覽すと云々。

其の外の國々、又、右大將家の御下文を帶び訖んぬ。縱ひ小過を犯すと雖も、輙(たやす)く改補せられ難きの趣き、其の沙汰有りて、向後、殊に懈緩(けくわん)を存ずべからざるの由、面々に仰せ含めらる。廣元、之を奉行す。

 

「上總國」は親王任国(しんのうにんごく:親王が国守に任じられた常陸国・上総国・上野国の三国。親王任国の守である親王は太守といい、国府の実質的長官は「介」と称した)であるので、その国司は上総介。

「受領」国司。なお、鎌倉時代は寧ろ、幕府によって各地に配置された地頭が、荘園や国司の管理していた国衙領へ侵出し、徐々に国司の支配権を奪っていった時代でもあった。

「歎狀」嘆願書。

「大官令」大江広元。

「下文」鎌倉幕府の場合は、政所から管轄諸官庁に下した公文書。

「進ず」将軍決裁を受けるための上申。

「千葉介成胤」(久寿二(一一五五)年~建保六(一二一八)年)は、治承四(一一八〇)年に石橋山の戦いに敗れた頼朝が安房国に逃れた際、祖父常胤や父胤正と共に頼朝の軍に参加、平家の総帥清盛の姉婿藤原親政を生虜にするという快挙を成し遂げて治承・寿永の乱を制する原動力となった。「吾妻鏡」によると、叔父東胤頼が安房国に逃れた頼朝への加勢と下総目代を誅することを主張、祖父常胤もこれを認めて、頼朝の軍に合流する事を決定し、叔父東胤頼と成胤は千葉荘を後にするに際し、下総目代を襲い、攻め滅ぼしている(治承四年九月十三日の条)。そのため、下総国千田荘領家で皇嘉門院判官代の藤原親政が千余騎を率いて千葉荘に侵入、千葉荘に戻った成胤と合戦になった。わずか七騎で迎え撃った成胤は、忽ち絶体絶命の窮地に陥ったが、それでも奮戦し遂に親政を生虜にしたという(同年九月十四日の条)。親政を生虜にしたことで様子見をしていた上総広常など坂東の武士団が挙って頼朝の軍に合流、関東における頼朝の軍事力は平家方の勢力を大きく上回る事になった。文治五(一一八九)年の奥州合戦にも加わって功を挙げ、建仁三(一二〇三)年の父の死により、家督を継いで当主となった。この後の建暦三(一二一三)年の泉親衡の乱を未然に防ぎ、続く和田合戦でも義時側に与して武功を挙げている(ウィキの「千葉成胤」に拠った)。

「先祖千葉の大夫」平安期の武士で千葉氏の祖(千葉成胤の五代前)平常長(万寿元(一〇二四)年~嘉承三(一一〇八)年)のこと。前九年の役と後三年の役では源頼義・義家父子に従って戦功を立てたとされ、戦後、上総国大椎に館を構え、更には下総国千葉郷に進出して、千葉大夫と号したとされる。常長には多くの息子がおり、その息子たちで房総平氏の諸氏が形成されるが、この内、次男の常兼が千葉氏、五男の常晴が上総氏の祖となって勢力を誇示することとなった(ウィキの「平常長」に拠った)。

「元永」西暦一一一八年~一一二〇年。千葉氏の初代当主平常兼(常長の子で下総国千葉郷に因んで千葉大介と号したとされる)の時代。

「檢非違使所」諸国に置かれた検非違使(犯罪・風俗の取締りなどの警察業務及び訴訟・裁判を掌る職)の事務を扱う所。

「常胤」成胤の祖父で幕府重臣千葉常胤(元永元(一一一八)年~建仁元(一二〇一)年)。彼の代に広大な相馬御厨(そうまみくりや:現在の茨城県取手市・守谷市及び千葉県柏市・流山市・我孫子市の辺りにあった伊勢神宮の荘園)を千葉氏は掌握することとなった。

「守護職」鎌倉時代以後、一国ごとに設置された武家による治安維持・軍事的統制を掌る行政官。守護人・守護奉行職・守護奉行人とも呼ばれる。近年の研究では平安中期以降諸国において、有力在庁官人となった大武士が「国の兵(つわもの)」と呼ばれる群小武士を随時統率する形の軍制が形成されてくることが明らかになっており、近年では、この軍制が平安末期には全体として主従制的性格の濃いものとなり、その統率者が国(くに)守護人と呼ばれ始めた可能性の高いことが指摘されている(主に平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「祖父義明」三浦義明(寛治六(一〇九二)年~治承四(一一八〇)年)は三浦荘(現在の神奈川県横須賀市)の在庁官人。桓武平氏平良文を祖とする三浦氏の一族。相模介三浦義継の子で三浦義村の祖父。頼朝が挙兵すると、一族挙げてこれに合流しようと居城の衣笠城を出撃したが、途中、石橋山の戦いの敗戦を聞き、引き返して籠城、程無くして敵方に参加していた畠山重忠率いる軍勢と合戦となり(衣笠城合戦)、一族郎党を率いて奮戦するも刀折れ矢尽き、義澄以下一族を安房に逃した後、独り城を守って戦死した。享年八十九(ウィキの「三浦義明」に拠った)。

「天治」西暦一一二四年~一一二六年。三浦義明は世襲の官である三浦介を号して、この天治年間に国務に参画、三浦半島一帯に勢力を扶植した(ウィキの「三浦義明」に拠る)。

「雑事相交る」種々雑多な政務に従事する。

「檢斷」検断職(けんだんしき)。刑事上の事件を審理評決する権限を有した職。中世に於いて侍所・六波羅探題・守護・地頭等に与えられていた。

「小山左衞門尉朝政」(保元三(一一五八)年?~嘉禎四(一二三八)年)頼朝直参の家臣。既出の奥州合戦でも活躍している。

「下野の少掾豐澤」藤原豊沢。藤原秀郷の祖父。

「押領使」基本的には国司や郡司の中でも武芸に長けた者が兼任し、主として現代でいう地方警察のような一国内の治安の維持に当たった。中には、一国に限らず、一郡を兼務していた者や、一時は東海道・東山道といった道という広範囲に亙っての軍事を担当した者もある。いずれにしても、地元密着型の職務であることから、押領使には土地の豪族を任命することが主流となり、彼らが現地において所有する私的武力がその軍事力の中心となった。天慶の乱に於いて下野国押領使として平将門を滅ぼした藤原秀郷は、まさにその代表格である(ウィキの「押領使」に拠った)。

「一向に執行致す」独占的にずっと執り行って参った。

「秀郷朝臣」藤原秀郷。

「天慶三年」西暦九四〇年。ウィキ藤原秀郷によれば、この前年、天慶二(九三九)年に平将門が兵を挙げて関東八か国を征圧すると(天慶の乱)、平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶三(九四〇)年二月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察しており、この功により同年三月、従四位下に叙され、十一月に下野守に任じられた。さらに武蔵守・鎮守府将軍も兼任するようになった、とある。

「官符」太政官符(だいじょうかんぷ)。太政官から八省や諸国に命令を下した公文書。

「建久年中」西暦一一九〇年~一一九八年。

「政光入道」小山氏の祖であ小山政光(生没年未詳)。武蔵国の在庁官人で藤原秀郷の直系子孫とされる太田行政の子(または孫)である。元の名は太田政光で、平安末期の久安六(一一五〇)年頃に下野国に移住し、小山荘に住して小山氏の祖となった。後妻で三男朝光の母である寒河尼は源頼朝の乳母である。下野国の国府周辺に広大な所領を有し、下野最大の武士団を率いていた(小山政光の部分はウィキの「小山政光」に拠る)。

「敢て新恩の職にあらず」全く以って(どこぞの新興勢力が受けたような)新たな恩賞として頂戴した職ではそもそもない。

「その外國々皆右大將家の御下文を帶す」この部分、増淵氏は実朝の言として、以下の「向後愈政道怠るべからず」と繋げて、『貴公ら以外の国でも皆右大将頼朝卿の御下文を所持して(それで満足して)いるのである。(それを守って)今後ますます職務を怠ってはならない』と訳しておられるが、如何か? 「吾妻鏡」を見る限り、「その外國々皆右大將家の御下文を帶す」は地の文で、『其の外の國々、又、右大將家の御下文を帶び訖んぬ。縱ひ小過を犯すと雖も、輙く改補せられ難きの趣き、其の沙汰有りて、向後、殊に懈緩(けくわん)を存ずべからざるの由、面々に仰せ含めらる』で、「その外の国々もまた、同じように頼朝卿の御下文をただ今まで所持し続けているのである。されば、ここは、

――実朝卿は『たとえ多少の罪過を犯すと雖も、(それなりの由緒があり、尚且つ、何よりも右大将御自身が公的に定められたものなれば)簡単にはその職を改変されるべきではあるまい』という趣旨の御決裁があり、加えて(そのように有り難き伝家の褒美なればこそ)『向後、特に、懈怠することなく、精を込めて幕府に仕えるよう、心懸けずんばらなず。』という趣旨の言を、それぞれの申し出た武将たちに伝えさせた。――

という謂いであろうと私は判断する。

「惣じて大名諸侍、其先祖の武功を衒ひ、私の述懷を以て上を怨み奉る事は不忠の者たるべし。足る事を知るを勇士の心とし、國家を守り奉るを忠勤の侍とす。只深く身を謹て家を治むと名付く」これは筆者の創作部分である。

「和田義盛、上總國司の事……甚だ御意に叶はずとぞ、御氣色ありけり」これも「吾妻鏡」になく、やはり筆者の創作か?

「子息四郎義直、五郎義重等、深く心に含みて、世を謀る志出來たり」義盛のこの一連の出来事によって、彼の子息である義直と義重が深く遺恨を残して、将軍家に対し、謀叛を企てんとする悪しき心が芽生えた、というのは、この次の次で語られる「和田義盛叛逆滅亡」の端緒となる、建暦三(一二一三)年の泉親衡の乱(信濃源氏の泉親衡が頼家の遺児千寿を将軍に擁立し、北条氏を打倒する陰謀が未然に発覚した事件)で、事件に関与したとして、この義直と義重二人の息子と甥の胤長が逮捕されたことに繫げる叙述である(義直・義重は義盛の多年の勲功に免じて赦免されたが、胤長は赦免を求めに来ていた義盛以下の和田一族の面前で、事件の張本人と断定されて縄で縛りあげた姿を引き立てられるという大きな屈辱を受け、流罪と決した。この胤長の処分を決めた執権北条義時への義盛の深い恨みが和田義盛の乱の大きな要因の一つとなった。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 6

 一たびかしこに往て一香をたき、報恩の志をとげ、其外諸祖の塔を燒香順禮せばやとて、寛永十年癸の酉の仲冬の初に江府を出れば、旅より旅にたつ衣手さむきあかつき、左は江水漠々として白く、右にむかへば富士の根しろし。しのゝめも明ゆくそらに村寺の鐘を聞て、

 曉出江城對士峰 路邊水白照衰容

 征人馬上知繼夢 道者緩敲村寺鐘

[やぶちゃん注:書き下す。

 

 曉に江城を出でて士峰に對す

 路邊水白うして衰容を照らす

 征人 馬上 知 夢を繼ぎ

 道者 緩(かる)く敲く 村寺の鐘

 

底本では「出て」、「繼く」、「緩敲く」である。]

  旅人の朝立てゆく馬の上に みつゝや宿に殘しつる夢

  またさめぬ此世の夢に夢をみて いやはかなゝる身のゆく衞かな

  旅衣かたしく袖に入る夢は 古郷人のよるのこゝろか

  旅衣かりねの夢は夢の世を 見ならはしともしらてはかなき

[やぶちゃん注:「寛永十年癸の酉」寛永十(一六三三)年癸酉(みずのととり)。]

 

抽象觀念としての詩 萩原朔太郎

       抽象觀念としての詩

 詩、及び詩人といふ觀念は、今日に於て一つの抽象觀念になりつつある。それの實在性が希薄であるほど、そのイデーが高貴に欲情されてるのである。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の七番目、先に示した「行動主義」の直後に配されたものである。]

耳嚢 巻之六 鼬も蛇を制する事

 鼬も蛇を制する事

 

 雉子(きじ)蛇を食ふに、羽がひを蛇にまかせて羽ばたきすれば、其蛇寸々に切れるといふ事、いにしへより傳へ聞(きき)しが、上總(かづさ)出生の者來りかたりけるは、鼬も蛇にまかれて其蛇を制する事、度々上總にて見及びし由。鼬身をちゞめ十分に蛇にまかれて、惣身(そうみ)腹(はら)共(とも)張りて身をふるふに、蛇すんずんに切れける由もの語りぬ。大き成(なる)鼬、少しの穴より潛りいるを見れば、さる事も有(ある)べき事なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:標題自体が蛇を退治する動物の類話であることを表示する確信犯的連関。この本文、妙に岩波のカリフォルニア大学バークレー校版と細部が異なる。以下に示す(正字化、長谷川強氏によるルビも歴史的仮名遣に変更した)。たまにはこうした比較も楽しい。

 

 鼬(いたち)も蛇を制する事

 

 雉子(きじ)蛇を喰ふに、羽がひを蛇にま卷かせて羽たゝきすれば、其蛇直(ぢき)に切れるといふ事、いにしへより傳へ聞しに、上總出生のもの來り語りけるは、「鼬も蛇にまかれて其(その)蛇を制する事、度々上總にて見及びし」よし。鼬身を縮め十分に蛇にまかれて、惣身(そうみ)腹共張て身を振るふに、蛇直に切れける」よしもの語りぬ。大きなる鼬、少しの穴より潛り入るを見れば、さる事も有(ある)べきなり。

 

・「雉子蛇を食ふ」雉子は地上にある植物の芽・葉・種子や動物では昆虫・蜘蛛類・多足類・蝸牛などの軟体動物を捕食し、また、地中の根・球根・昆虫類などを爪で地面を搔いて食べたりするが、時には蛇なども積極的に襲って食べることがある。動画でその実際が見られる。

・「はがひ」羽交い。狭義には鳥の左右の翼が重なる箇所を言うが、ここは単に、鳥の羽、翼の謂い。

・「すんずん」底本では「ずん」の部分は踊り字「〱」であるから「すん」となるが、敢えて「ずん」とした。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鼬も蛇を制するという事

 

 雉子(きじ)が蛇を食ふ際、羽根を蛇に巻かせて羽ばたきをすると、その蛇は一瞬にして寸々に千切れるということ、これ、古くから伝え聞いておるが、上総出生(しゅっしょう)の者が私の元に来たって語ったことには、鼬(いたち)も蛇に巻かれても、その蛇を逆に成敗することが出来るということを、たびたび上総にては見及んだとの由。

鼬は身体をきゅっと縮めると、十二分に蛇に巻かせておいて、頃を見計らうと、瞬時に総身(そうみ)――特に腹(はら)の部分――をぷぅうっつ! と膨らませて身を振るう。

 すると――蛇は寸々に千切れてしまうとのこと、物語って御座った。

 大きな鼬が如何にも小さな穴より潜り入るのをしばしば見かけるから、そのようなこともあるであろうと思われる。

野の羊へ 大手拓次

 野の羊へ

野をひそひそとあゆんでゆく羊の群よ、
やさしげに湖上の夕月を眺めて
嘆息をもらすのは、
なんといふ瞑合をわたしの心にもつてくるだらう。
紫の角を持つた羊のむれ、
跳ねよ、跳ねよ、
夕月はめぐみをこぼす…………
わたし達すてられた魂のうへに。

[やぶちゃん注:「瞑合」は「みやうがふ(みょうごう)」で、恐らくは、知らず知らず一つになることという「冥合」の謂いであろう。]

鬼城句集 春之部 龜鳴く

龜鳴く  龜鳴くと噓をつきなる俳人よ

     だまされて泥龜きゝに泊まりけり

     龜鳴くや月暈を着て沼の上

 

[やぶちゃん注:「龜鳴く」という季題は、藤原定家の子である為家の和歌「川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば龜ぞ鳴くなる」が典拠とされる。実際には亀は鳴かないが、春になると亀の雄が雌を慕って鳴くという、一種の浪漫的情緒的な雰囲気を添える季題ではある。]

 

一言芳談 一二二

   一二二

 

 聖光上人云、故上人の給ひしは、往生のために念佛を申す時、念佛の行、心に大要におぼえて、行ずるに付けて勇みありて、つねに念佛の申したからんをば、我身にすでに三心を具せりとおもふべきなり。

 

○故上人、法然上人のことなり。

○三心、深心(じんしん)、至誠心(しじゃうしん)、★廻向發願心(ゑかうほつぐわんしん)。(句解)

 

[やぶちゃん注:Ⅱ・Ⅲでは「心」に「しん」と読みを振る。

「三心」「句解」のものは「観無量寿経」に説くもの。「無量寿経」第十八誓願に説く三心は至心・信楽(しんぎょう)・欲生(よくしょう)。法然が「選択本願念仏集」の第八章で「念仏する者は必ず三心を具足して念佛すべきこと」と言っている。前者に基づいて解説すると、まず、「三心」とは、本文にもある通り、念仏を称える際の心構えをいう語で、「深心」は深く信じる心を言う。これには二種あり、一方は、自分自身の機根(能力)に対する自覚の念を指し、自己の智慧が浅いものであり、修行も不足しているために常に罪悪を造っており、到底、自分自身の力では解脱を得ることは困難な凡夫であることを深く自覚することをいう。一方、今一つの深心は、そうした大凡夫の自覚を受け、阿弥陀仏の本願を無条件で深く信じることによって、即ち、本願に随順して念仏を称えるならば、必ず極楽往生が出来るということを、深く信じていることをもいう。「至誠心」は偽りのない心、真実心で、称名を称える口業(くごう)と、合掌・礼拝等をする身業(しんごう)と、「助けたまえ」と一心に念願する「意業(いごう)」とが、阿弥陀仏への信心として一致していることをいう。「廻向發願心」は自分の一切の善根功徳を極楽往生のために振り向けることを指し、すべての信仰心を阿弥陀仏に集中することをいう(以上は浄土宗僧侶伊藤俊雄氏のウェブサイト「仏教に親しむ」の浄土宗の教え11 三心具足の念の記載を参照させて頂いた)。なお、Ⅱの大橋氏の注によれば、この「観無量寿経」に説く三心を法然は『「無量寿経」に説く第十八誓願の至心・信楽(しんぎょう)・欲生我国にあてる』と注されておられる。因みに第十八願でのそれらは、「至心」が自らを救済しようという意、その至心を「信楽」する、無条件に受容し、その心を持って安楽の浄土世界に生まれようと思うこと(「欲生我国」)、という意を表わす。

「往生のために念佛を申す時、念佛の行、心に大要におぼえて、行ずるに付けて勇みありて、つねに念佛の申したからんをば、我身にすでに三心を具せりとおもふべきなり」往生のために念仏を致します時、この念仏の行は『本当に大切なことなのだなあ』と感じ、そのため、念仏を行じますにつけても、甚だ、心も高揚してまいります。そうして、不断に念仏を称え申し上げたいという心持ちになった――その時には――すでに我が身には三心が具わっているのだ、と思ってよいのです。]

2013/03/23

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 5

 

 第五山淨妙寺は山を稻荷といふ。千光の法嗣退耕行勇禪師開山たり。塔を光明院と云。此外十刹諸山の禪院代々の新營數をしらず。來朝の諸師、歸朝の列祖、皆此里に跡を殘し給ふ。其昔延暦の比和州大安寺行表和尚示寂、そのさき神秀派の禪師來朝あり。即行表和尚大安寺に禪院を立、行表・空海・最澄等參禪有し。其禪は宗派斷絶す。南宗の禪日本につたはりてより、此里は誠に禪河の源也。おのれが十二世の先師圓通大應國師も、龜山院の文安三年の秋に歸朝ありて、建長寺に住持し給ふ。此間筑前の興德寺、同國横嶽崇福寺、京師の萬壽寺に住し給ふ。あひあはせて四會の錄あり。後宇多院その道をしたひ給ひて、國師遷化の後城西の安井に竜翔寺を草創し給ひて、師の遺像を安置し跡猶今に殘れり。其外城南の薪里妙勝寺所々跡を殘し、終に建長寺に入滅を示し給ふて天源庵と云あり。天筆をそめ給ひ塔の額を普光と賜る。

 

[やぶちゃん注:浄妙寺はその前身を極楽寺と言い、その創建は文治四(一一八八)年、真言密教で開山は退耕行勇、開基を足利義兼とする。浄妙寺発行の「略記」よれば、蘭渓道隆の弟子月峯了然(げっぽうりょうねん)が住持となってより禅刹に改めて寺名を浄妙寺と改称した(寺名の改称は推定で正嘉年間(一二五七年~一二五九年)とする)。それにしても、この段落は後半、浄妙寺についてではなく、臨済宗宗史になってしまっているのは、やや、違和感がある。

 

「行表和尚」行表(ぎょうひょう 養老六(七二二)年~延暦一六(七九七)年)は大和国葛上郡高宮郷の出身で父は檜前(ひのくま)調使案麻呂。俗名は百戸。天平一三(七四一)年に恭仁宮で道璿に師事して得度、天平一五(七四三)年、興福寺北倉院で受戒後、興福寺で禅・唯識を学んだ。その後、近江国崇福寺の寺主とななって一丈余りの千手観音菩薩像を造り、次いで近江国の大国師となった。宝亀九(七七八)年、最澄の師となり、宝亀一一(七八〇)年には師主として最澄を得度させている。後、奈良大安寺に移った(以上はウィキ行表に拠った)。

 

「神秀派」唐代の禅僧神秀(じんしゅう)の正当な流れを汲む一派の謂いであろう。神秀は(六〇六年?~七〇六年)河南省開封の出身。当初、儒学を学び、後に出家して禅宗五祖弘忍に師事、慧能(えのう)の南宗禅に対する北宗禅の開祖。諡号は大通禅師。彼の禅の思想は段階的に悟りを進める「漸悟」にあり、弟弟子で後に禅宗六祖とされる慧能の、直下に悟りに至る「頓悟」のそれと対極をなした。神秀が本来の六租であるが、派閥の中で現在では「六租慧能」と位置付けられてしまった。ウィキ秀」には、その辺りについて、『後に六祖慧能の弟子で七祖を自称した荷澤神會の北宗批判により、それまでは区別のなかった東山法門派が神秀門下の「北宗」、慧能門下の「南宗」の二派に分かれるようになり、南宗開祖の慧能が神會の目論見通り、六祖となった』とあって、「其禪は宗派斷絶す。南宗の禪日本につたはりてより、此里は誠に禪河の源也」という部分は、その経緯を指したものである。しかし、ウィキによれば、神秀『の後は弟子の普寂が嗣ぎ、日本にも奈良時代・平安初期に伝わり、日本天台宗の開祖最澄も師の国分寺行表から北宗禅の思想を受け継いでいる』とあるから、沢庵の「斷絶」という謂いは正確とは言えない。

 

「圓通大應國師」南浦紹明(なんぽ しょうみょう/じょうみん 嘉禎元年(一二三五)年~延慶元(一三〇九)年)。鎌倉時代の臨済僧。駿河国安倍郡の出身。紹明は諱、南浦は道号、勅諡号が円通大応国師。幼くして故郷駿河国の建穂寺に学び、建長元(一二四九)年に建長寺蘭渓道隆に参禅の後、正元元(一二五九)年には渡宋して虚堂智愚の法を継いだ。文永四(一二六七)年(本文の文安三年秋というのは誤りであろうか)に帰国して建長寺に戻り、その後は文永七(一二七〇)年には筑前国興徳寺の、文永九(一二七二)年には博多の横岳山崇福寺(そうふくじ)の、それぞれ住持を務めた。嘉元二(一三〇四)年には後宇多上皇の招きによって上洛、万寿寺に入った。徳治二(一三〇七)年、鎌倉に戻って建長寺の住持となったが、翌年に、七十五で没した。没後の延慶二(一三〇九)年に後宇多上皇から円通大応の国師号が贈られているが、これは日本に於ける禅僧に下賜された国師号の最初である。南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗は皆、この法系に属する(以上はウィキ南浦紹明に拠った)。

 

「あひあはせて四會の錄あり」建長寺・興徳寺・崇福寺・萬寿寺での講筵の記録の謂いか? 新編鎌倉志巻之三の建長寺塔頭で南浦紹明が示寂した「天源菴」(後注参照)の項に『【四會の録】あり』とある。識者の御教授を乞うものである。

 

「竜翔寺」瑞鳳山竜翔寺(りょうしょうじ)は京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺境内の北西に立つ塔頭として現存する。開山を南浦紹明、開基を後宇多天皇とする、大徳寺とは別山で大徳寺派の修行専門道場となっている。

 

「城南の薪里妙勝寺」現在、京都府京田辺市薪字里ノ内にある臨済宗大徳寺派の霊瑞山酬恩庵(しゅうおんあん)の前身。妙勝寺は正応年間(一二八八年~一二九三年)に南浦紹明が開いたが、鎌倉幕府滅亡前後の元弘年間(一三三一年~一三三四年)の兵火によって衰亡していたのを、康正二(一四五六)年、一休宗純が草庵を結んで中興、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いるという意味で「酬恩庵」と号した。一休所縁で一休宗純の木像もあるため、「一休寺」「薪(たきぎ)の一休寺」とも称される。枯山水の石庭や納豆の一種である「一休寺納豆」でも知られる(以上はウィキ酬恩庵に拠った)。

 

「天源庵」「新編鎌倉志巻之三」の建長寺塔頭の項に、

 

天源菴 大應國師、諱は紹明、號南浦(南浦と號す)。嗣法虛堂(虛堂に嗣法す)。駿州の人、當山十三世、延慶元年十二月廿九日に示寂、世壽七十三。【四會の録】あり。堂の額、普光とあり。後宇多帝の宸筆なり。堂に南浦の像あり。經藏には、一切經あり。門に雲關と額あり。大燈和尚投機の所なり。透過雲關無舊路(雲關を透過して舊路無し)と頌せしは此の所なり。

 

とある。]

 

 

行動主義 萩原朔太郎

       行動主義

 文学に於ける行動主義とは、癇癪玉を破裂させようとすることの熱意である。肝心なことは、それが單なる熱意であり、熱意に過ぎないといふことである。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の六番目、先に示した「復讐としての文學」の直後に配されたものである。]

耳嚢 巻之六 大蟲も小蟲に身を失ふ事 (二話)

 大蟲も小蟲に身を失ふ事

 

 文化の初秋、石川氏の親族の家に池ありしが、田螺蓋を明きて水中に遊居(あそびをり)しを、一尺四五寸もありし蛇出て、かの田螺を喰ふ心や、蓋へ口を付(つけ)しを、田螺急に蓋をなしける故、蛇の下腮(したあご)をくわへられ、蛇苦しみて遁れんと色々頭をふり尾を縮め、蟠(わだかま)り延(のび)て品々なしけるが、不離(はなれず)。日も暮んとせし頃、蛇甚(はなはだ)よはりて、永くなり居(をり)しが、終(つひ)に蛇は斃(たふれ)て、田螺は終に水中へ落ち入りて、理運なりしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。動物――標題とこの時代の博物学で言うなら――「蟲類」奇譚であるが、最新の噂話(実話らしき話)として読める(腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae に属するタニシ類で本来の国産種は通常は五センチメートル以下であるが、大型個体もいる。噛まれたのは「下腮」とあるが、舌を挟まれたとする方がリアルかとも思われる)点で巻之六の中では着目すべき話である(但し、田螺を採餌しようとした蛇が、何らかの急性疾患によって激しく悶え苦しみ、衰弱、遂に田螺を銜えたままに力尽きて死んだ――即ち、七転八倒の様態は田螺に噛まれた結果ではない――とする方が理には適っているかも知れない。御存じの通り、古代の「漁夫の利」から近代の大型の貝類の挟まれて溺死するという都市伝説まで、この手の話は枚挙に暇がない。しかし、だからこそ糞真面目に考察してみる価値がない、とは言えまい。科学的論理的考察とは時に人には退屈で糞にしか見えぬものである)。冒頭「文化の初秋」とあることから、「卷之六」の執筆推定下限の文化元(一八〇四)年七月の、まさに直近に記載であることが分かる。本巻中でも最もホットな話柄である(次の第二話「又」の話柄の冒頭「右同時七月八日」というクレジットにも注目!)。

・「石川氏」表記が異なるが、恐らく高い確率で次の第二話「又」に登場する「石河(いしこ)壹岐守」(次話注参照)のことを指していると私は思う。その冒頭に「同時」とするのは、この二つの話が同時に齎されたことを意味しており、そこでたまたま「石川」氏とは異なる「石河(いしこ)」氏絡みの、極めて酷似した事件が起こるというのは、これ、ドラマの「相棒」みたような噴飯偶然だらけで、リアルじゃあ、ない、と思うのである。……いや……実は、この二つの話がデッチアゲの都市伝説であることを、その微細な奇妙な違い(逆に妙に似ている)部分でそれとなく示そうとする悪戯っぽい原話の創作者や伝承者たち(創作元は根岸ではないが、伝承者として無意識にその役割を担っている)の魂胆ででも、あったのかもしれない。

・「理運」「利運」とも書く。幸運。

・「一尺四五寸」約四二センチメートル強から四五センチメートル強。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大なる虫も小なる虫のために身を失うことのあるという事

 

 文化元年の初秋のこと。

 石川氏の親族の家に池があった。

 田螺が蓋を開けて水の中にゆっくらと泳い御座ったが、そこへ一尺四、五寸もあろうかという蛇が現われ、その田螺を喰はんとするものと見えて、蓋のところへ口吻をもっていったところが、田螺が急に蓋を閉ざしたゆえ、蛇は下腮(したあご)を銜え込まれてしもうた。

 蛇はひどう苦しんで遁れようと、激しく頭を振ってみたり、尾をきゅっと縮めてみたり、田螺を内側に蟠(わだかま)ってみたり、逆にべろり延びてみたりと、いろいろなことを試みておったが、一向に離れず。

 日も暮れようとした頃には、蛇、これ、甚だ衰弱致いて、池の端にだらりと身を横たえて御座った。

 見ておると、遂に蛇は――死に絶えて動かずなった。

――と――

 田螺はやっと蓋を緩め、池の内へと落ち入って、恙のう生き延びて御座った……とのことで御座る。

 

 

  又

 

 右同時(おなじきとき)七月八日の事なりし由、石河壹岐守屋鋪(いしこいきのかみやしき)にて、是も小蛇成(なる)が、草鞋蟲(ざうりむし)といえる小蟲をくらわんとせしが、是も其所(そこ)をさらず、蛇の舌につき居(ゐ)て終(つひ)に死せし由。わらぢ蟲もともに死せしをまのあたり見し人の、語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:小虫大虫を殺す奇譚で、「蛇の災難」の二連発、恐らく同一(「石川」=「石河」)ソースの動物都市伝説。前話注で述べた通り、異例のクレジット入りのホット・ニュース!

・「七月八日」文化元(一八〇四)年七月八日(西暦に換算すると一八〇四年八月十三日になる)。「耳嚢」で、しかも噂話や都市伝説の類いで日付までクレジットされるというのは、これ、極めて珍しい。

・「石河壹岐守」岩波版長谷川氏注に従えば石河貞通。寛政一〇(一八〇〇)年に御小性番頭とする。これは底本の鈴木氏も同じ同定であるが、そこでは『イシコ』と本姓を訓じている(長谷川氏は本文で同じく『いしこ』とルビを振る)。石河貞通という人物、下総小見川藩の第六代藩主で小見川藩内田家九代の内田正容(まさかた)なる大名のウィキの記載中に、正容が、寛政一二(一八〇〇)年八月十三日に、『大身旗本で留守居役を務めた石河貞通(伊東長丘の五男)の三男として生まれ』たという記載があり、年代的に見ても、この伊東長丘(備中岡田藩第六代藩主)五男石河貞通と本文の「石河壹岐守」貞通とは同一人物の可能性が高いように思われるが、如何?

・「草鞋蟲」一般には甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目ワラジムシ科ワラジムシ Porcellio scaber 及びその仲間の総称。ウィキの「ワラジムシ」によれば、現生種は約一五〇〇種が知られ、その内の一〇〇種ほどが本邦に棲息するとされているが、実際には国内種は四〇〇種ほどもいる、とも言われているとある。なお、誤解されている方も多いと思われるので注しておくと、触れると球形になって防禦姿勢をとる通称ダンゴムシ、ワラジムシ亜目オカダンゴムシ科オカダンゴムシ Armadillidium vulgare と、このワラジムシ Porcellio scaber とは異なる種である。しかも、ウィキの「ダンゴムシ」の記載から、本文の「草鞋蟲」はオカダンゴムシ Armadillidium vulgare である可能性は低いように思われる。何故なら、我々がしばしば家屋の周囲で目にするところの『オカダンゴムシは、元々、日本には生息していなかったが、明治時代に船の積荷に乗ってやってきたという説が有力である。日本にはもともと、コシビロダンゴムシという土着のダンゴムシがいたが、コシビロダンゴムシはオカダンゴムシより乾燥に弱く、森林でしか生きられないため、人家周辺はオカダンゴムシが広まっていった』とあるからである(この記載中の「コシビロダンゴムシ」というのはワラジムシ亜目コシビロダンゴムシ科セグロコシビロダンゴムシ Venezillo dorsalis のことを指しているように思われる)。――以下、私のクソ考察。――但し、この石河氏の屋敷の傍に林があり、そこから虫に噛まれたまま蛇が屋敷内に侵入したとすればセグロコシビロダンゴムシの可能性が全くないとはいえない。しかし、ワラジムシやダンゴムシの類は、よく見かける種で一二センチメートル程、大型種でも二センチを超えるようなものは少ないと思われ、蛇の舌先に喰らいついて死に至らしめるような口器を腐植土などの有機物を餌としている彼らが持っているとは思われない。とすれば、先の田螺のケースと同様、何らかの蛇の内臓疾患や、猛禽類などの天敵による致命的打撲損傷(開放性の外傷が他にあったのでは、この話は成立しないと思われる)、若しくは強毒性の植物か茸などを蛇が誤って摂餌した結果、衰弱して斃死した際、たまたまそこで死んでいたワラジムシが、その口刎部に附着した、それを見た人間がワラジムシが蛇を噛み殺したと誤認した、というのが事実ではなかろうか?

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大なる虫も小なる虫のために身を失うことのあるという事 その二

 

 先とほとんど同時期の話で、日附も本文化元年の七月八日のことであったと申す。

 石河(いしこ)壱岐守貞通殿御屋敷にて、これも前話同様、蛇――但し、こちらは小蛇であったとのことであるが、草鞋虫(ぞうりむし)と我らが呼んでおるところの、あの小虫、これを、その蛇が喰らわんしたところ、これも、蛇の舌先に逆に喰らいついて、いっかな、離さぬ。

 舌に喰いつかれたたまま、蛇は、これ、遂に死んだと申す。

 草鞋虫もともに死んでおるを、目の当たりに見た人の直談で御座る。

鬼城句集 春之部 烏の子

烏の子  つながれて黑々育つ烏の子

一言芳談 一二一

   一二一

 

 聖光(しやうくわう)上人云、辨阿(べんあ)は、助け給へ、阿彌陀佛と心にも思ひ、口にもいふなり。

 

〇辨阿、聖光上人なり。

〇助け給へ、云決答、先師定言云、助給阿彌陀佛、云々。或時、予示云、凡諸佛習、有最要一言。善導本願往生、惠心困明直辨也。辨阿助給阿彌陀佛心思口云也。實哉、此言。賢哉、此心。仰顧先師口決、落涙千行也、云々。助給思、滅罪邊籠、生善邊收。出離方寵、往生方收。本願至心信樂、彌无疑殆者歟。

 

[やぶちゃん注:漢文の句読点は一部、Ⅰに従っていない箇所がある。

「聖光上人」「三十三」に既注。浄土宗鎮西派(現在の浄土宗)の祖弁長。弁阿は字、聖光は房号。現在は「べんな」と読んでいるが、これは後の音の転訛であろう。

「云決答……」以下の漢文をⅠの訓点を参考に私なりの書き下し文を示す。

「決答」に云ふ、『先師の定言(ぢやうげん)に云はく、「助け給へ、阿彌陀佛。」と云々。或る時、予に示して云はく、「凡そ諸佛の習ひ、最要(さいえう)の一言(いちごん)有り。善導は『本願往生』、惠心は『困明直辨(こんめいじきべん)』なり。辨阿は『助け給へ、阿彌陀佛』と心に思ひ、口に云ふなり。實なるかな、此の言。賢なるかな、此の心。仰いで先師の口決を顧(かへりみ)るに落涙千行なり。」と云々。「助け給へ」と思へば、滅罪の邊(へん)も籠(こも)り、生善(しやうぜん)の邊も收(をさ)まる。出離の方も寵り、往生の方も收まる。本願の至心信樂(ししんしんげう)、彌々(いよいよ)疑殆(ぎたい)無きをや。』と。

因みにⅡの注(訓読文で示されている)では、「凡そ諸佛の習ひ」の「諸佛」を「諸師」とする(Ⅱが正しいか。恐らくは原典「決答授手印疑問鈔」が「諸佛」であるので、森下氏が訂したものであろう。意味上では問題はない)。

●「決答」聖光の法嗣であった良忠の記した「決答授手印疑問鈔」(正嘉元(一二五七)年)のことであろう。

●「困明直辨」不詳。「困明」は混迷と同義で、「混乱して分別に迷ったただ中で素直に語る」という謂いか。識者の御教授を乞う。

●「本願の至心信樂」「至心信樂」は真心を以って仏を信じ願うという意で、これは浄土教の根本命題とするところの彌陀の四十八誓願第十八誓願(本願)中の言葉である。

●「疑殆」疑いあやぶむこと。]

2013/03/22

人魚 火野葦平

   人魚

 

 草の葉に卷かれた生ぐさい一通の手紙を、私はひらく。

 

        ―――――――――――――――――――――

 

 あしへいさん。

 また、お手紙さしあげます。先便では失禮いたしました。小説「昇天記」を送つたりなどして、あはよくば芥川賞をと考へたわけでしたが、あとで赤面する思ひをいたしました。もう二度と小説などかかうといふ野心はおこさないことにしました。したがつてこんどは新作ができたから見てくれなどといふのとはちがひます。どうぞ、あのことはお忘れください。

 さて、けふはどうしてもあなたにお話しをして、御意見をうけたまはりたいことがありますので、とつぜんお手紙をさしあげるわけです。實はぢきぢきに參上してお話し申しあげるとよいのですが、あの日以來(どの日なのか、それはあとでお話ししますが)頭痛がして起きられませんので、手紙で失禮いたします。ずきんずきん蟀谷(こめかみ)がうづき、頭の皿の皮がつつぱつてしめつけられるやうで、この手紙をかくこともやつとの思ひです。したがつて頭も混亂してをりますし、文脈もみだれ勝ちになると思ひますけれど、なにとぞ御寛恕(ごかんじよ)くださいますよう。わたしがこんな無理をしてまであなたに手紙をかくわけは、わたしの現在のなやみを一日もはやく解決したいのと、そのわたしのなやみといふのはあなた以外にはわかつてくださるまいかと思ふからです。われわれ河童にたいして、あなたほど深い愛情と理解とを示してくれるひとはほかにありませんし、わたしのいまの奇妙ななやみも、あなたなら解決してくださるやうに思ふのです。おいそがしいでせうが、まづ、ひととほりおききください。

 一週間ほど前のことでした。夕ぐれどきになつて、わたしは棲んでゐる山の池を出て、ぶらりと海岸の方へ行きました。わたしはぶしやう者で、めつたに外出をしたことはなかつたのですが、その日はなぜともなくふと久しぶりに波の音がききたくなつて、海の方へ出かけたのです。もう秋のちかいころですから、たそがれどきになると、ひやりとした風が吹くやうになつてゐて、わたしの棲んでゐる池のおもてに散る木の葉のいろも、季節のうつりかはりをあらはしてゐました。わたしが波の音をききたくなつたといふのも、單調な池の底にあつて、やはり海にひろびろとした秋の氣配をさぐりたくなつたのかも知れません。そんな瓢然(へうぜん)とした思ひが、わざはひとなつて、現在こんな苦痛をなめなくてはならなくなるといふことが、そのときにどうしてわかりませう。

 あまり遠くはないので、まもなくわたしは渚(なぎさ)ちかくへ出ました。まだすつかり陽はおちてゐずに、水平線のうへにうづくまりかさなりあつた鰯雲(いわしぐも)はまつ赤に染まり、雲と雲とのすきまから、金色の放射線が紺碧の中天へつきささるやうにのびだしてゐます。すみきつた濃い藍(あゐ)のいろにひろがつた海ははるかのかなたまで鷹揚(おうやう)なうねりをたたへ、しづかに渚にうちよせ、うちかへします。銀線の曲折をながながとつづかせて、白砂の濱の波うちぎはは眼のとどかぬところまでかすんでゐます。ここの海は荒れることで有名なのですが、風がなければ、こんな靜かなときもあるのでせう。さらさらと竹林のさやぎに似た波の音がこころよく耳にひびいてきます。

 ところが、防風林の砂丘をこえたとき、わたしはたちすくんでしまひました。濱邊には人かげもなく、鷗(かもめ)が二三羽とんでゐるほか海上にも一隻の舟のかげも見えなかつたのですが、ふと渚ちかくになにか白く光るもののあることがわたしの眼にはいつたのです。二町ほどもはなれてゐたでせうか。その白いものはうらよせかへす波にもまれただよつてゐるやうですが、なになのかはじめはわかりませんでした。わたしは、いつたんこえた砂丘をあとがへり、防風林の裏をまはつて、その白いものを正面に見ることのできる位置へ移動しました。きうして、大きな松のかげに身をひそめて、そつと顏をだしました。かるい叫びがおもはず出て、わたしの眼はその白いものに釘づけになりました。

 波にただよつてゐるのはひとりの人間の女でしたが、そのうつくしさはなんにたとへればよいでせう。とてもわたくしにはその女のうつくしさをあなたにつたへる筆をもちません。年のころは十七八かと思はれますが、一絲をもまとはぬ裸身で、すきとほるやうに白い肌はあたかも大理石のやうになめらかに光つてゐます。どこひとつ角ばつたところのないなだらかな身體の曲線は、縱横にうねりまじはり、ぷつとふくらんだ二つの乳房のさきにある薄桃いろの乳首が、紅玉(こうぎよく)をちりばめたやうにみえます。ゆたかな顏、弓なりの眉、ながい捷毛(まつげ)のしたにある二重まぶたのすずしい眼、端正な鼻、二枚のはなびらのやうな唇、わたしが畫家であつたならば、生命をかけてでもかきたいと思ふやうなうつくしい顏です。ときほぐされたながい漆黑(しつこく)の髮はその白い身體になだれまつはり、その女が波にただよふときには、海藻のやうに水面にうきます。女は夢みるやうな眼をして、夕燒の空をあふいだり、はるかの水平線をながめたり、鷗のとぶあとを眼で追つたり、防風林の方を見たりします。わたしは自分のはうに顏がむくとはつとして首をひつこめました。

 それにしても、この女はなにものでせうか。もう海の水もつめたいことでせうに、いつかう氣にしてゐる樣子もなく、たのしげに波にただよつてゐるさまはまつたく海と同化してゐるみたいで、海が自分のすみかのやうにさへ感じられます。わたしはあたりを注意してみましたが、どこにも着物をぬいでゐる樣子がありません。家とてふきんには一軒もないのですから、家から裸のままできたとも思はれないのです。不思議なことに思つてゐるうちに、わたしの疑問はまもなく氷解いたしました。女は渚からあまり遠くないところで波に浮いたりしづんだりしてゐましたが、ふとこれまでは見なかつた身體の下半分がちらと波のうへにあらはれました。わたしはさつきからまつ白いふくらはぎを想像してゐたのですが、波のうへにあらはれたのは鱗(うろこ)につつまれた魚の尻尾で、ああ人魚だつたのだとはじめて悟つたのです。さうとわかればきつきからのさまざまのこと、海と同化してゐるやうなたはむれのありきまなども當然のこととわかります。人魚といふものは話にだけきいてゐましたので、わたしはさらに好奇心をそそられ、つひに、姿をかくして、人魚のかたはらにちかよりました。わたしたちが必要に應じて姿を消すことのできることは、あなたも御承知のことと存じます。わたしは姿を消すと、人魚にちかづいてゆき、波のなかにもぐりました。

 人魚はさういふことは知りませんから、前とすこしもかはらずに、うねりにつれて波のうへをただよひ、やがてなにか歌をうたひはじめました。その聲はあまり高くはありませんでしたが、風鈴(ふうりん)が風にそよぐやうにすずしい聲で、波のうへをながれてゆきます。高くひくく抑揚(よくやう)をつけてうたふのですが、もとよりわたしは歌の意味などわかるはずもありません。ただそのたえいるやうなしらべにうつとりとなるばかりです。水中にもぐつて人魚のまはりをめぐつてゐますと、うたふたびにかすかに胸がふくらんだりちぢんだりし、二つの乳房が息をしてゐるやうにふるへます。腰から下は鱸(すずき)によく似たこまかい鱗におほはれ、そのびいどろのやうないろの鱗は一枚々々みがかれたやうにつやつやしく、うごくたびにきらつきらつと光ります。扇がたにひろがつた尾は梶をとるやうにものやはらかにくねり、ときにはげしくうごいて人魚のからだを急激に推進させます。ときに人魚のからだは夕燒雲のいろを吸ひとるやうにうす紅にそまり、人魚がもぐりますと、長い黑髮が水中にみだれよつて、昆布(こんぶ)がゆらぐやうに妖しいうごきかたをします。人魚のからだのまはりに生まれた水泡が眞珠の玉をまきちらすやうにくるくると舞ひあがります。

 わたしはかういふ人魚の姿態にみとれながら、いつか切なく胸くるしい思ひにとらはれてをりました。人魚があまりにうつくしすぎるからです。わたしはたびたびなめらかな人魚の肌に手をふれたい衝動にかられ、ふつくらとした乳房をくはへてみたい慾望を感じました。また黑髮の林のなかにもぐつたり、腰のうへに馬のりになつてみたいなどとも考へました。しかし、わたしはまるで射すくめられたやうになにをすることもできず、かなしさに泣きたい思ひがしてきたのです。わたしはわたしのみにくさがたまらなくなつて、羞恥のおもひにもはや長くそこにゐることすらつらくなつてきました。河童とうまれた宿命をこれまでいちどもくやんだことはなかつたのですが、このときになつて自分のうけてきた血の宿命をうらむこころがわいたのです。靑みどりいろの身體、毛ばだつた頭髮とそのまんなかにある皿、背の甲羅、みづかきのある手足、とがつたくちばし、さういふ一切のものがすべてきたならしく、けがらはしいもののやうに、嫌惡の感情をもよほしてきました。河童としてこれまでもつてゐた衿侍などはあとかたもなく消えてしまひ、わたしは自分の不運をかこつこころさへ生じて、切なくかなしくなりました。わたしの愚かさをわらつてください。もはやもつてうまれた絶對の宿命として、河童として生きる以外のどのやうな生きかたもできないことがわかつてゐるのに、わたしはそのとき、なにかの奇蹟があらはれて、ふつと人魚にうまれかはることがあるのではないかといふやうな、途方もない妄想に瞬時とらはれてゐたのです。さうしてわたしのからだをふりむいてみて、やはり河童であること知つたときには、かなしみといきどほりで、みづからのからだをうちくだきたいやうな狂ほしい思ひにかられました。すると、わたしをこのやうな悲歎におとしいれた人魚へいきどほりのやうなものがわいて、ふと憎惡の思ひで、人魚をながめましたが、わたしのその思ひなど、たちまちふきとんでしまひました。このやうにうつくしいものをどうして憎むことなどできませうか。わたしの心の變化などはすこしも知らない人魚は、相かはらず白いからだを光らせ、鱗をきらめかせてはおよぎ、眞珠の玉につつまれながら水中にもぐつたりします。わたしもやがてあきらめるこころが出てきて、身のほどしらぬ自分の見榮坊をわらふ餘裕も生じ、ただ人魚のうつくしさのみをたのしむゆとりができました。

 夕燒雲がしだいに茜(あかね)いろをおとしてゆき、海上には夜をまねくたそがれのけはひがながれはじめました。すると、これまではただたのしげにうたつたり泳いだりしてゐました人魚の樣子がにはかに變りました。うつとりしたまなざしが消えて、急になにかをさがすやうなせはしげな眼になりました。これまでのやうな波にたはむれてゐる風情がなくなり、人魚は用事を思ひだしたやうに、水中をあららこちらと眼を八方にくばつて泳ぎはじめました。わたしにはその變化の理由がわかりませんでしたので、ひよつとしたらわたしのゐる事に感づいて、そのあやしいものを探してゐるのではないかとひやりとしました。姿のみえない確信はもつてゐるのですが、むかふも化生(けしやう)のものですから、どんな祕法をこころえてゐるかもわからないし、わたしはすこし遠ざかつていつも逃げられるやうに警戒はおこたらなかつたのです。

 ところがさういふわたしの解釋は杞憂(きいう)にすぎなかつたことがすぐにわかりました。すこし沖に出て、てんぐさ、みるめ、昆布などの海草がしげり、赤い星のやうな人手が、岩のあひだによこたはつてゐるところで、人魚はいつぴきの鯖(さば)をとらへました。それまで、海中に群れてゐた多くの魚たちは人魚が突進してくると、木の葉をふきちらすやうにして逃げてしまつたのです。鈍重ないつぴきの鯖がたうたう人魚につかまりました。すると人魚は鯖の頭と尾とを兩手につかんで、いきなり口にもつてゆきかぶりつきました。そのときのわたしのおどろきを想像してください。わたしはあつけにとられて、ぼかんと口をあけたまま、人魚のそのはしたない動作を見つめてゐました。人魚が急に用事ありげに泳ぎだしたのは、空腹を思ひだしたからだつたのです。人魚はその鯖をむしやむしやと食べてしまひますと、のこつた頭と骨とを投げすてました。さうしてさらにつぎの餌をもとめてまたけはしい眼つきで泳ぎだしました。これまでうつとりとした眼にすんでゐた瞳にはなにかいやしげないろが浮かび、あちらこちら魚を追ひまはす姿は、うつくしいだけにざんにんな不氣味さをはなちます。またとらへられたいつぴきの縞鯛(しまだい)が人魚の食膳にのぼりました。ほくそ笑んでむしやむしやと生身(なまみ)の魚をかじる人魚の口は、耳まで裂けてゐるやうにみえました。人魚はかうして貪婪(たんらん)にひかる眼つきをしてしきりに魚をとらへて食べましたが、つひに、巨大な昆布の林のなかにはいつていつて、そこへ脱糞をこころみました。尻尾にちかいところから黄いろくながいものが繩のやうにいくすぢもおしだされてきて、ちぎれるとながれにつれて底の方へしづんでゆきます。さうしながら人魚は口では魚を嚙んでゐるのです。

 もはやわたしは見るにたへなくなつて、匇々(そうそう)に海を出、重いこころをいだいて、山の池にかへりました。さうして、その日からわたしはえたいのしれぬ懷疑にとざされ、頭痛がしてきておきあがれなくなつてしまつたのです。

 あしへいさん、

 わたしの經驗したことといふのは以上のやうなことですが、あなたはどう思はれるでせうか。わたくしはうつくしさといふものに對する疑念が生じたのです。うつくしきを思ひ、うつくしきにあこがれる心は日ごろからわたしたちにあるわけなのですが、しからばそんなわたしたちを滿足させるやうなうつくしいものが實際にあるだらうか。人魚をはじめ見たときには、わたしはそのうつくしさに身ぶるひがし、日ごろの念願が達しられたよろこびにふるへたのです。ところがその人魚は、のちにはそのはしたないありきまでわたしをおどろかし、せつかくのわたしのよろこびを木つ葉みぢんにうちくだいてしまひました。昆布の林で脱糞したときの人魚ののうのうとした表情、あられもない女だてらの動作にすこしの羞恥をしめさない無智、それはわたしに一種のおそれをすらいだかせました。わたしははたして人魚がうつくしいかどうか、その日から考へはじめてたうとう病氣になり、わからなくなつてしまつたのです。

 人魚はうつくしいのですか。みにくいのですか。どつちですか。

 わたしはもう二度と海岸へ出まいと決心しました。しかしまたあの渚での濃艷な姿態が眼に浮かんできて、出てみたい誘惑にかられます。あのうつくしい姿はわたしの網膜にこびりついてしまつてはなれません。さうしてあとの半分をわすれてしまはうと必死の努力をしてみるのですが、あせればあせるほどその方もいつそうつよく浮かんできて、これも燒きついたやうに消えません。わたしはどうしたらよいのですか。この同じ人魚の二つのことなつた姿のどちらを信じたらよいのですか。どうぞ、わたしに教へてください。

 

        ―――――――――――――――――――――

 

 あしへいさん。

 御返事ありがたうございました。おいそがしいのに、さつそく返事をいただいて恐縮しました。しかし、あなたの手紙はわたしをおどろかせました。あなたは人魚のことはそつちのけにして、わたしのことばかり、かいていらつしやる。

 ――うつくしさをもとめ、うつくしさをうたがふ心、人魚がはんたうにうつくしいかどうかについて眞劍になやみ、たうとう病氣にまでなる心、その君のはうが人魚よりもよつぽどうつくしい。

 こんな一節がある。なにをいつてるんです。そんなことは聞きたくない。

 わたしはまもなく死にます。この手紙をかいてゐても手がふるへ、だんだん弱つてゆくのがわかります。もう頭の皿の水もひからびてしまつて、しめつけられるやうにいたいのですが、しかしいまわたくしはふしぎなよろこびにとざされてゐます。かういふ死にかたをすることは滿足です。

 わたしは、やつぱり人魚のうつくしさを信じることができるやうになりました。人魚はつねにうつくしい。なにもうたがつてみることなんてすこしもなかつた。さうしてそのうつくしい人魚を見たことをわたしはほこりとし、わたしの一生を人魚にささげて悔いのない思ひになりました。あなたもその人魚を見たいと思はれますか。きつと思はれるでせう。しかしけつしてごらんにならないやうにわたしはすすめます。つまり人魚のうつくしさのみに一生をささげて悔いないやうな御覺悟が、あなたにあるかどうか疑はしいからです。

 あの日以來、わたしは病氣になりましたが、それはわたしの懷疑となやみからきたものではありませんでした。あなたがいふやうに、病氣になるほどなやんだなんてことではなかつたのです。なにをおつしやる。あなたにほめてなんか貰ひたくない。わたしが病氣になり、死ななければならないのは、單なる傳説の掟にすぎないのです。はじめ、わたくしはそれを知りませんでした。この前の手紙のときにはまだ知らなかつたのです。見舞ひにきた古老が、わたくしにそのことを教へてくれました。つまり人魚を見たものは死ななければならないのです。これはゆるがすことのできない傳説の掟でした。どうしてそんな殘酷な掟ができたのでせうか。なにもわざわざ見にゆくわけでもなく、ふとゆきずりに出あふにすぎないのに、どうして死をもつて罰せられなければならないか。祕密をのぞかれた人魚の復讐であらうか。しかしながら死を眼前にみて、わたくしはその意味をはつきりと知ることができます。わたしがいまよろこびをもつて、この復讐をうけいれてゐることを申しあげれば、あなたにはすべてがおわかりでせう。

 いや、あなたなんかにはわかるまい。あなたはまたいふにきまつてゐる。うつくしさに殉じて悔いない君のはうこそ、人魚よりよつぽど美しいなんて。

 ああ、あなたもその人魚をいちど見るとよい。さうすればそんな馬鹿なことはいはなくなるにちがひない。道を教へます。ここに地圖をいれておきます。ときどきはきつとあらはれるにちがひないと思ひますから、なるだけ風のしづかな日のたそがれどきに、そこへ行つてごらんなさい。

 もう手がしびれてきました。眼さきがくらくなつてきました。たれかが呼んでゐるやうな氣がします。眠るやうな、夢みてゐるやうなよい氣持です。ではおわかれいたします。さやうなら。

 

[やぶちゃん注:中間よりやや後ろの段落「夕燒雲がしだいに茜(あかね)いろをおとしてゆき、……」の段落冒頭の「夕燒雲」は底本では「夕燒雪」。誤植と判断して勝手に訂した。]

北條九代記 熊谷小次郎上洛 付 直實入道往生 竝 相馬次郎端坐往生

      ○熊谷小次郎上洛  直實入道往生  相馬次郎端坐往生

熊谷(くまがへの)小次郎直家(なほいへ)は次郎直實が嫡子なり。然るに直實は、子細に依て發心して東山の麓黑谷に籠り、源空上人の弟子と成り、専修一心の念佛行者と成りにけり。初め平家追討の時、一の谷の先陣として、武勇の名隱(かくれ)なく、その子直家又忠戰(ちうせん)の勳功あり、父が名跡(みやうせき)相違なく下され、武蔵國にありけるが、承元二年九月に、父直實入道、使を下して、「來十四日には、黑谷にして臨終を取るべし。早く上洛せしめよ」と告げたりければ、小次郎直家、是を見訪(みとぶら)はんが爲に京都にぞ上りける。この事、鎌倉の御所に披露あり。奇代(きたい)の珍事、是ならん。豫て死期(しご)を知る事は、權化(ごんげ)にあらずは、疑(うたがひ)あるに似たり。直實入道蓮生(れんしやう)に於ては世の塵勞(ぢんらう)を遁れて一心に淨土を欣求(ごんぐ)し、念佛三昧(まい)を事とす。積年(しやくねん)修行の薫習(くんじゆ)高(たか)ければ、定(さだめ)て奇特(きどく)を現(あらは)さんものか、相馬〔の〕次郎師常は念佛信心堅固の者にて、去ぬる元久二年十一月十五日、六十七歳にして端坐合掌し、念佛唱へながら卒去したり。決定往生疑(うたがひ)なしとて、結緣(けちえん)の緇素(しそ)、集りて拜みけり。是に合せて念佛の利益、疑ふべき事ならずと、評定、區々(まちまち)なりける所に、東(とうの)平太重胤、京都より下向して、御所に參りて洛中の事共を申す中に、熊谷次郎直實入道、九月十四日、未刻(ひつじのこく)を以て臨終すべき由、洛中に相觸れたり。其日、既に時刻に當つて、結緣の道俗、東山黑谷の草菴に集ひて、幾千萬とも數知らず。既に時刻に成て、蓮生入道、袈裟を著(ちやく)し、禮盤(らいばん)に昇り、端坐合掌して高聲(かうじやう)に念佛し、その聲と共に、臨終を遂げたり。豫て聊(いさゝか)も病氣なし。頗る奇特(きどく)の事なりと申しけり。蓮生入道が子息直家、その跡を取(とり)納め、鎌倉に歸(かへり)參り、言上せし趣(おもむき)、東〔の〕平太が申すに違(たが)はず、皆、感信(かんしん)を催されけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十九の承元二(一二〇八)年九月三日及び十月二十一日と、相馬の往生は先立つ巻十八の元久二(一二〇五)年十一月十五日の条に基づく(以下に見るように、本文は広元の直実の死の予告への感慨の直接話法とこれを巧みに繋げて地の文としている)。私の大好きな熊谷直実蓮生の往生譚である。しかも役者もこれ以上のものはない(しかも「吾妻鏡」に記された事実とされる出来事である)。父の極楽往生に京へと向かう直家は、まさにかの寿永三(一一八四)年二月の一の谷の戦さで、直実が組伏した少年平敦盛の面影に見た嫡男である。そうしてそこで心ならずも敦盛の首を搔き切った瞬間、直実の心に無常の観念と仏道への帰依が深く萌したのである。この一連の熊谷直実発心往生譚を私は映像に撮ってみたい激しい欲求にかられるのである。九月三日及び十月二十一日の条を纏めて見る(間には実際には記事がある。また、二十一日の記事の後半は東重胤(とうのしげたね)による朱雀門焼亡の報告であるが、省略した)。

〇原文

(九月)三日庚子。陰。熊谷小次郎直家上洛。是父入道來十四日於東山麓可執終之由。示下之間。爲見訪之云々。進發之後。此事披露于御所中。珍事之由。有其沙汰。而廣元朝臣云。兼知死期。非權化者。雖似有疑。彼入道遁世塵之後。欣求浄土。所願堅固。積念佛修行薰修。仰而可信歟云々。

(十月)廿一日丁亥。東平太重胤〔號東所〕遂先途。自京都歸參。即被召御所。申洛中事等。先熊谷二郎直實入道。以九月十四日未尅可爲終焉之期由相觸之間。至當日。結緣道俗圍繞彼東山草庵。時尅。著衣袈裟。昇禮盤。端坐合掌。唱高聲念佛執終。兼聊無病氣云々。(以下略)

〇やぶちゃんの書き下し文

(九月小)三日庚子。陰る。熊谷小次郎直家、上洛す。是れ、父入道、來たる十四日、東山の麓に於いて終はりを執(と)るべきの由、示し下すの間、之を見訪(みとぶら)はんが爲と云々。

進發の後、此の事、御所中に披露す。珍事の由、其の沙汰有り。而るに廣元朝臣云はく、

「兼ねて死期(しご)を知る。權化(ごんげ)に非ずんば、疑ひ有るに似たりと雖も、彼の入道、世塵を遁るるの後、浄土を欣求(ごんぐ)し、所願堅固にして、念佛修行の薰修(くんじゆ)を積む。仰ぎて信ずるべきか。」

と云々。

(十月大)廿一日丁亥。東(とうの)平太重胤〔東所(とうのところ)と號す。〕先途を遂げ、京都より歸參す。即ち、御所に召され、洛中の事等を申す。先づ、熊谷(くまがへの)二郎直實入道、九月十四日未の尅を以つて終焉の期(ご)たるべき由、相ひ觸るるの間、當日に至りて、結緣(けちえん)の道俗、彼の東山の草庵を圍繞(ゐねう)す。時尅に、衣・袈裟を著し、禮盤(らいばん)に昇りて、端坐合掌し、高聲(かうじやう)に念佛を唱へて終はりを執る。兼ねて聊かも病氣無しと云々。(以下略)

・「熊谷小次郎直家」(仁安四・嘉応元(一一六九)年?~?)熊谷直実長男。治承・寿永の乱に父の直実とともに加わり、一ノ谷の戦いに参加、この時は父と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入、平山季重ともども討死しかけている(彼はこの時、矢に射抜かれ深手を負っており、直実はその仇討ちと勢い込んで、眼に入った若武者敦盛に挑んだのであった)。文治五(一一八九)年の奥州合戦では、頼朝から「本朝無双の勇士なり」と賞賛されている。建久三(一一九二)年、父直実が大叔父久下直光との所領訴訟に敗れて驚天動地の逐電出家をするに及んで家督を相続、父祖以来の武蔵大里郡熊谷郷を領した。承久三(一二二一)年の承久の乱では幕府軍として出陣し、活躍するが、嫡子直国が宇治・瀬田に於いて山田重忠らと戦い、討死にしている。墓所は現在、埼玉県熊谷市の熊谷寺にあり、父母の隣に眠っている(以上は主にウィキの「熊谷直家」に拠った)。

・「權化」神仏が衆生を救済せんがために、この世に仮の姿となって現れること。権現。化身。

・「東平太重胤」(治承元(一一七七)年?~宝治元(一二四七)年?)実朝の側近。千葉氏の庶流である東氏二代目当主。歌人として定家の門人でもあったと伝える(推定生没年はウィキの「東重胤」に拠った)。

・「未の尅」午後二時前後。

・「禮盤」本尊須彌壇(すみだん)の正面にあり、導師が仏を礼拝したり誦経するために上座する壇。

 

「源空上人」法然。

「相馬次郎師常は念佛信心堅固の者にて、去ぬる元久二年十一月十五日、六十七歳にして端坐合掌し、念佛唱へながら卒去したり。決定往生疑なしとて、結緣の緇素、集りて拜みけり」元久二(一二〇五)年十一月十五日の条を引いておく。

〇原文

十五日丁酉。相馬次郎師常卒。〔年六十七。〕令端座合掌。更不動搖。決定往生敢無其疑。是念佛行者也。稱結緣。緇素擧集拜之。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日丁酉。相馬次郎師常、卒す〔年六十七。〕。端座合掌せしめ、更に動搖せず。決定往生、敢へて其の疑ひ無し。是れ、念佛の行者なり。結緣(けちえん)と稱し、緇素(しそ)、擧(こぞ)りて集まり、之を拜す。

「相馬次郎師常」(保延五(一一三九)年~元久二(一二〇五)年十二月二十六日)は開幕期の重臣であった千葉常胤の次男。将門の子孫とされる篠田師国へ養子に入り、相馬を名乗って相馬氏初代当主となった。父と共に頼朝の挙兵に参加、範頼軍に従い、各地を転戦、文治五(一一八九)年九月の奥州合戦で勲功を立て、頼朝より「八幡大菩薩」の旗を賜っている。建仁元(一二〇一)年に父常胤が亡くなった際に出家し、家督を嫡男相馬義胤に譲り、自らは直実同様、法然の弟子となったと伝えられる。その往生は鎌倉の相馬邸屋敷でのことであった(以上はウィキ「相馬師常に拠った)。

「緇素」僧俗。]

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 三 分業と進歩~(3)/了


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[同一の種類に属ししかも形狀を異にする働蟻四種]

 

 個體が一個一個に離れながら社會を造つて生活する動物にも分業の行はれて居るものが多い。蜜蜂の如きものでも、生殖を司どる雌蜂・雄蜂の外に、巣の内外のすべての仕事を一手に引き受けて働く働蜂といふものがあつて、個體の形狀が三種類になつて居るが、蟻の類では更に分業が進んで、個體の形狀にも種類の數が殖えて居る。雌蟻・雄蟻の外に働蟻のあることは蜂と同じであるが、働蟻の中にはさまざまの分擔が行はれ形狀の異なつたものが幾種類もある。地面に少し砂糖を散して多數の蟻の集まつて來た所を見ると、顎が非常に大きく、隨つて頭の著しく大きなものが普通の働蟻に交つて處々に居るが、これらは兵蟻というて、特に敵に對して自分の團體を守ることを專門とする働蟻である。また普通の仕事をする働蟻の中に猫と鼠程に大いさの違ふ二組を區別することの出來る種類もある。これらはどこの國でも見かけることであるが、北アメリカのメキシコ國に産する蟻の一種では、働蟻の中の若干のものは、たゞ蜜を嚥み込んで腹の中に貯へることだけを專門の役目とし、生きながら砂糖壺の代りを務める。他の働蟻の集めて來た蜜を幾らでも引き受けて嚥み込むから、身體の形狀もこれに準じて變化し、頭と胸とは普通の蟻と餘り違はぬが、腹だけは何層倍にも大きく膨れて恰もゴム球の如くになつて居る。そして活潑に運動することは勿論出來ぬから、たゞ足で巣の壁に引き掛つて靜止して居るが、その幾疋も竝んで居る所を見ると、棚の上に壺が竝べてあるのと少しも違はぬ。蜜の入用が生ずると、他の働蟻がこの壷蟻の處へ來て、その口から一滴づつ蜜を受け取つて行くのであるから、働に於ても棚の砂糖壺と全く同じである。前に述べた「くだくらげ」の瓦斯袋でもこの壺蟻でも各々一疋の個體でありながら、單に物を容れる器としてのみ用ゐられて居るのであるから、個體を標準として考へると何のために生きて居るのか、殆どその生存の意義がない如くに見える。しかし團體を標準として考へると、かやうな自我を沒却した個體の存在することは、その團體の生活には有利であつて、かやうなものが加はつて居るので全團體が都合よく食つて産んで生存し續け得るのである。團體と團體とが競爭する場合には一歩でも分業の進んだものの方が勝つ見込が多いから、長い年月の間には次第に分業の程度が進んで、終に浮子の代り壺の代りなどを專門に務める個體までが出來たのであらう。

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[壺蟻]

[やぶちゃん注:「北アメリカのメキシコ國に産する蟻の一種」は後掲されるその中の分業化した「壺蟻」の形態から、ミツツボアリ(蜜壺蟻)という和名を持つハチ目ハチ亜目有剣下目スズメバチ上科アリ科ヤマアリ亜科ミツツボアリ属 Myrmecocystus の一種を指しているものと思われる。ウィキアリ」には、『オーストラリアに分布。名の通り花の蜜を採集し、巣の中に待機する働きアリをタンクにして蓄える。タンク役のアリは腹を大きく膨らませて巣の天井にぶらさがり、仲間のために蜜を貯め続ける。蜜を貯めたものはアボリジニの間食用にされる』とオーストラリアに限定的に分布するような記載があるが、私の好きな番組であるNHKの「あにまるワンだ~」の公式サイト内の当該解説には、全長一二ミリメートルで、『オーストラリア、メキシコ北部などの乾燥地に住む。巣に、仲間が集めた花の蜜をお腹に貯めこむアリがいる。仲間は、食べ物が少なくなると、この貯蔵アリから蜜をもらう』とあるから間違いない。属名“Myrmecocystus”の“Myrmeco-”はギリシア語の「蟻」を意味する接頭辞で、“cystus”は植物のマメ目マメ科エニシダ属と同じ綴りであるから、私の推測であるが、まさにこの「壺」担当の蟻のぶら下った姿を、エニシダの総状花序で多数の花を附けているさまに擬えた命名ではなかろうか。グーグル検索の「ミツツボアリ」の画像検索はを……ハデスの美しき宮殿である……

「浮子」は「うき」と読む。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 4

 第三龜谷山壽福寺は實朝の時に建立し、代も先なりけれど十別の位にてありし。後に五山に任ぜられける故に鎌倉五山の第三に列なれり。千光國師開山租たり。塔を逍遙庵といふ。第四山淨智寺は龜山院の文應元年に來朝ありし徑山無準の法嗣兀庵禪師開山租たり。師檀の緣やあさかりけむ、後四年に時賴既に薨じ給ふ。其後禪師は志ありて宋に歸給ふ。附法の弟子心翁禪師南洲宏海和尚歳わかきをもつて、大宋徑山石溪和尚の法嗣佛源禪師大休正念和尚に言を殘し給ふ。故に心翁・佛源兩師を開山に定む。兀庵を開山とせざる事は故ありとぞ。
[やぶちゃん注:「壽福寺は實朝の時に建立」寿福寺は源頼朝が没した翌年の正治二(一二〇〇)年に、妻の政子が夫の追善のために葉上房栄西千光国師を開山に招いて創建した。
「文應元年」西暦一二六〇年。
「後四年に時賴既に薨じ給ふ」時頼の没年は弘長三(一二六三)年。数えで「後四年」と呼称している。ここに記された浄智寺の開山の経緯は複雑を極める。浄智寺は第五代執権時頼三男北条宗政の菩提を弔うために弘安六(一二八三)年に創建、開基は第十代執権北条師時とされるが、当時の師時は未だ八歳であり、実際には宗政夫人と兄北条時宗の創建になる。以下の開山についても本文にある通り特異で、当初は日本人僧南洲宏海が招聘されるも任が重いとして、自らは准開山となり、自身の師であった宋からの渡来僧大休正念(文永六(一二六九)年来日)を迎えて入仏供養を実施、更に正念に先行した名僧で宏海の尊敬する師兀菴普寧(ごったんふねい)を開山としたことから、兀菴・大休・南洲の三名が開山に名を連ねることとなった。但し、やはり宋からの渡来僧であったこの兀菴普寧は、パトロンであった時頼の死後に支持者を失って文永二(一二六五)年には帰国しており、更に実は浄智寺開山の七年前の一二七六年に没している。沢庵が「兀庵を開山とせざる事は故ありとぞ」には、そうした背景を押さえた叙述である。]

耳嚢 巻之六 尖拔奇藥の事

 尖拔奇藥の事

 

 紀州家の健士、或時魚肉を食し、與風(ふと)咽※(のどぶえ)へ尖(とげ)たち百計すれど不拔(ぬけず)[やぶちゃん字注:「※」は「吭」の最後の七・八画目がそのまま上の(なべぶた)に接合した字体。]。其儘に二三日過(すぎ)しが、後は湯水食事等にも痛(いたみ)ありて甚(はなはだ)難儀せしが、尾陽家の健士と出會(であふ)事ありて右難儀を物語りせしに、某(それがし)奇藥あり、用ひ給ふべしと、懷中の黑燒を與へける故、悦びて早速用(もちゐ)しが、其翌日朝うがひ手水(てうず)せしに、前夜までに事替りて聊(いささか)其尖の憂(うれひ)を不覺(おぼえず)。夫より食事の節、其外にも一向憂なく、一夜の中に拔失(ぬけう)せしとなり。不思議の奇藥と紀州公へも申上(まうしあげ)、其藥施(ほどこ)せし人に尋(たづね)問ふに、尾陽公御法の由。依之(これによつて)御傳(ごでん)を御乞(おんこひ)求めありしに、芭蕉の卷葉(まきば)を黑燒にして用(もちゐ)る由。尤(もつとも)外に加劑(くわざい)もなく、唯(ただ)一味の由。依之予も其法を以(もつて)、黑燒を申付(まうしつけ)し也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:二つ前の「二尾檢校針術名譽の事」の紀州公連関。先に数多あった民間医薬シリーズ。製剤が簡単だったことと、副作用がなさそうに思えたからか、ここでは珍しく根岸も実際に製したと言っているのが面白い。ただ、その実際に根岸が使用した際の効果が記されていないのは惜しいところ。

・「尖拔」は「とげぬき」。

・「尖(とげ)」は底本のルビ。

・「尾陽家」尾張徳川家。

・「芭蕉」単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ Musa basjoo。田辺食品株式会社公式サイトの健康と青汁二〇四の医学博士遠藤仁郎氏の記載に以下のようにある。

   《引用開始》

 効能は、一般の青汁と同様だろうが、皇漢名医和漢薬処方には、

「森立之曰く、邪熱、百方效無き時、

 芭蕉の自然汁を服し效ありと聴きて試むに、毎に奇效あり」

(温知医談)。

「水腫去り難き時、芭蕉の自然汁常に奇效あり」

(同)。

 また、民間薬(富士川游著)には、

「腹痛 芭蕉の葉をつき爛らし、

    その汁をとりて白湯にて用ふべし」

(妙薬手引大成)。

「胸痛 心痛たへかぬるに芭蕉葉のしぼり汁、生酒にて用ふ」

(経験千方)。

 などとあって、解熱・利尿・鎮痛の効があるわけだし、トゲや骨のささったものには黒焼がよいらしい。

「簽刺(竹木刺、針刺)芭蕉の若葉を黒焼にして、酒にて服す」

(此君堂薬方)。

「咽喉に骨のたちたるに、

 芭蕉の巻葉を黒焼にし、白湯か濁酒にてのめば、

 鯛の骨なりとも、一夜の間にぬけること妙なり」

(懐中妙薬集)。

 また、中山太郎著、日本民族学辞典には、

「昔は、長病の患者に床ずれが出来ると、芭蕉葉を敷き、

 その上に臥かすと癒るとて用ゐた。

 また、本願寺の法王が死ぬと、その屍体を芭蕉葉に包んだ。

 これは防腐の效験があるので、こうして、遠方から来る門徒に最後の対面を許したという」

(中山聞書。)

   《引用終了》

と、確かに刺抜きの効能が記されてある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 刺抜きの奇薬の事

 

 紀州家の家士が、ある時、魚肉を食し、ふとした弾みで喉笛(のどぶえ)へ刺(とげ)を立たせてしまい、種々の方を尽くしてみたが、これがいっかな、抜けぬ。

 そのままに二、三日ほど過ぎたが、その頃には水を飲むにも食事を致すにも、疼くような痛みがあって、甚だ難儀に陥って御座った。

 そんな折り、ちょうど、尾張徳川家の家士と面談致すことが御座ったが、その談話の中で、かの刺の難儀を物語って御座ったところ、

「某(それがし)に奇薬が、これ、御座る。一つ、用いてみらるるがよかろう。」

と、懐中より何やらん黒焼きに致いた常備薬を取り出だいて呉れた。

 悦んで、屋敷に戻るや、早速に服用致いた。

 その翌日の朝のこと、いつもの通り、嗽・洗面など致いところが――前夜までとは、こと変わって――聊かも――これ、かの刺の痛みも喉(のんど)のゴロゴロも――これ――御座らぬ。……

 それより、食事其の外、これ、一向に不具合、御座らずなった。

 まさに一夜の中(うち)に――かの執拗(しゅうね)き刺――これ、美事、抜け失せて御座った。

「……ともかくも、不思議なる奇薬で御座いまする。」

と紀州公へも申し上げ、その薬を施して呉れた御仁にも尋ね問うたところ、

「――これ、尾陽公の御法(ごほう)にて御座る。」

との由にてあれば、かの紀州家家士、

「――どうか一つ、御製法方、お教え下さらぬか?」

と乞い求めたと申す。

 されば、あっさりと製法が、これ、明かされて御座った。それは、と申すに――

――芭蕉の若き巻葉(まきば)を黒焼きにして用いる

とのこと。

――外に加える生薬なし

――唯だ一味

の由。

 

……されば、私もその法を以って――芭蕉巻葉の黒焼き――これ、申し付へて常備致いて御座る。

中島敦漢詩全集 三

   三

非不愛阿堵
阿堵一無情
阨窮空憫婦
除日嗟咨聲

〇やぶちゃんの訓読

阿堵(あと)を愛さざるには非ず
阿堵は一(ひと)つとして情(こころ)無し
阨窮(やくきゆう) 空しく婦を憫(あは)れむ
除日(じよじつ) 嗟咨(さし)の聲

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「阿堵」金銭の俗称。中国の六朝時代(呉滅亡から東晋成立までの三世紀から六世紀にかけて)および唐代(七世紀から九世紀)には、口語の「これ」という指示語であったが、後に金銭を指すようになった。西晋の王衍(おうえん:清談をよくした貴公子で、従兄弟に竹林の七賢の一人王戎がいる。)が金銭を「これ」と、指示語で忌んで呼んだところからという(「晋書」王衍伝)。
・「阨窮」困苦と経済的逼迫。「阨」は困苦や災難を表わし、「厄」と同音同義。「孟子」の「公孫丑(こうそんちゅう)」に次の句がある。
   *
遺佚而不怨、阨窮而不憫。
遺佚(ゐいつ)されて怨みず、阨窮(やくきゆう)して憫(うれ)へず。
   *
「憫」も用いられていることから判断し、同句を典拠としたものと推測される。当該箇所の下りは、聖人柳下恵(りゅうかけい:周代の魯の大夫。正道を守って君に仕えた賢者として知られる)の態度が、つまらぬ役職についても卑しまず、進んで智恵を提供し、必ず正しい道を歩み、自分が見捨てられても怨まず、困窮に直面しても憂いたりしなかったというものである。必ずしも孟子は全面的に評価してはいないのだが、柳下恵は、いわば無私の心で積極的な行動に臨む聖人である。詩の解釈においては、一歩進めて、詩人自身が柳下恵と自分を密かに重ね合わせているという解釈も許されるかもしれない。[やぶちゃん注:訓読では、「憫(うれ)へず」というマイナーな読みは排して、「憫(あは)れむ」とした。T.S.君の現代語訳を考えても、わざわざ「憫(うれ)へず」と訓ずるよりも素直であると判断したからである。]
・「空」ここでは、「無駄に」「虚しく」の意。
・「憫」哀れむこと、憂うこと。「阨窮」の項の用例を参照のこと。
・「婦」狭義では既婚女性・妻・息子の嫁などを指すが、広義には女性一般を指す。ここは家計をともにする者として、狭義の妻で読むのが自然かと思われる。
・「除日」十二月の最終日、大晦日。もしくは陰陽五行説で何事を行うにも吉であるとされた「黄道吉日(こうどうきちにち)」の中の一日をも指すが、ここでは前者の意であろう。
・「嗟咨」嘆きを漏らすこと、ため息をつくこと。または嘆き、ため息そのものを指す。但し、時に賛嘆の声を指す場合もある。音読みで「サシ」と訓ずる。「咨嗟」としても同義。古来より用例は多い。

○T.S.君による現代日本語訳
金が 嫌いなわけじゃあない
金が 俺を好かないだけさ
わが身の不運と この困窮
妻よ おまえを憐れんでも何にもならぬ
歳の暮れ 身から出るのは ため息ばかり

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
 五言絶句の規則通り、第二句と第四句の最終字「情qing2」と「聲sheng1」が脚韻を踏む。一見、意味を取りにくい。しかし鍵となる語を押さえてしまえば、全二十字による織物の糸目は比較的容易に見えてくる。
 難しいのは「阿堵」「阨窮」「嗟咨」だろう。もちろん平仄をも合わせねばならない厳格な定型詩であるから、使用頻度の稀な難解な語を使用せざるを得ぬこともあろう。しかし、なぜこれらの語を選んだのだろう? 私は実にそこが気になった。以下は、そうした私の思惟の過程を再現したものである。お付き合い頂ければ幸いである。……
   ▼
…………「阿堵」は金銭のことだが、直接的な表現を憚る意識が働いて出来た言葉のようだ。そういえば日本語でも金銭を『先立つもの』などと表現するではないか。……物事を直線的に表現しない婉曲な言い方……それなのに、二十文字しかない指定席の五分の一である四文字も分け与えて憚らない……さらに言えば「阿」の字……二回も繰り出されるにしては、字面はあまりよろしくない(と私は個人的に思うのである。この字を名前に使われる方には申し訳ない。他意はない。)……「阿」の字には「迎合する」という意味があって、阿諛追従、「阿(おもね)る」という和訓もまた、頗る印象が悪い。……
 ……それに比べて「阨窮」は一応、正統派ではある。なにしろ、出自が経学の本流である四書の一つ、「孟子」である。……しかし、この全二十字の小さな世界に、この「阨」を配すると、何だか……重すぎるのだ……そもそも……「阨」という字は、これも、見るからに不祥を体現しているように思われてならない……はっきり言えば、不快感を催させる字形……詩意はともあれ、第三句の冒頭を飾るにあまりに禍々しい。……
 ……そして「嗟咨」……受け止める私の問題かもしれないが……この字面と音は如何にも大時代的で……『一向に胸の奥底には届いてこない』嘆きの声なのである。……
 ……詩人は以上のような用語の選択を行って憚らなかった。
 ……詩の出来上がりを玩味した上で、敢えて、この最終形を残した。
 これをどう捉えたらいいのだろうか?……
 この他にも、今一つ、抱かざるを得ない疑問があるのだ。……
 それは……最終句で大晦日を示唆することによる効果である。
 年越しを前に旧年中の借金を返すという日本独特の旧来の習慣は誰でも知っている(但し寧ろ、この禊(みそぎ)と軌を一にする意識は、グローバルには特異的であることは当の日本人に、あまり理解されているとは思われない。閑話休題。)。
 しかし……もし詩人が絶対的な困窮に直面しており、それを真に訴えたいのであれば、ここで大晦日という場面設定を行うというのは如何なものだろう?……
 ……詩人が困窮を語る時――我々は――卑俗卑近な家計や現実生活の経済から遠く離れて語ってもらいたい――商業的営みを示唆するような境地からは隔絶していてほしい――と、無意識のうちに希求してはいないだろうか?……さもないと、漢詩たるものが、あたかも『世話物の端唄のひとくされ』の如きものに堕してしまうように、感じられはしまいか?…………
   ▲
 以上に述べた用語上の不協和音、そして場面設定のせいだろうか、私には『詩人の困窮』なるものが、今一つ、胸に響いてこないのである。
 どうも、この詩人は、真剣に窮状を訴えようとは、していないのではあるまいか?
 私には、いつものように背筋を伸ばした詩人が見えるのである。昔、高校の教科書の「山月記」の終わりに遺影の如く掲げられてあった、例の写真の彼である。
 彼は、いつものように由緒正しい言葉を口にしては、いる。
 しかし、やや斜に構えて、その片方の口元には、ほんの少し、自嘲の苦笑いさえも浮べているのではないか?

 彼はある冬の日、ふと『肩の力を抜いて』、自分の貧窮を詠む気になった――
 そこで漢籍に関する茫洋たる知識の海から、『二三の貝殻を拾い上げた』――
 と――
 諧謔の呟きを込めて『二十片の組み合わせとして定着してみた』――

 実は、ただそれだけのことだったのでは、なかろうか?……
 ……だとしたら……いや……だからこそ……
 恐らくは――完全装甲(フルメタル・ジャケット)で、この詩には対峙しない方がいい。
 全霊を以ってこの詩の世界と格闘しないほうがいい。
 読む者は、決して、きゅっと、息を詰めたりはせずに、変化球を、すぽっと、素直に受け止めればいい。
 もし詩人の書いた次の文章を想起する者がいたら、その人は間違いなく力み過ぎなのである。
『成程、作者の素質が第一流に屬するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何處か(非常に微妙な點に於て)缺ける所があるのではないか、と』(「山月記」)[やぶちゃん注:引用は昭和五一(一九七六)年筑摩書房刊「中島敦全集」に拠った。]

……そして、また……

何事(なにごと)も金金(かねかね)とわらひ
すこし經(へ)て
またも俄(には)かに不平つのり來(く)
(啄木「一握の砂」より)[やぶちゃん注:引用は昭和五三(一九七八)年筑摩書房刊「石川啄木全集」に拠った。]

……啄木の無力感と苛立ちの深刻さに比べれば、苦笑いを浮べた、この五言絶句には、まだまだ余裕があるように感じられるのであるが……如何であろう?……

冬 萩原朔太郎

 冬

つみとがのしるし天にあらはれ、

ふりつむ雪のうへにあらはれ、

木木の梢にかがやきいで、

ま冬をこえて光るがに、

をかせる罪のしるしよもに現はれぬ。

みよや眠れる、

くらき土壤にいきものは、

懺悔の家をぞ建てそめし。

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)より。冒頭の「竹とその哀傷」詩群の八番目。この詩には最早、神による「淨罪」はないのではないか? あるのはただ、神なき「懺悔」のみ、なのではあるまいか?]

貘 萩原朔太郎 (「冬」初出形)

 貘

 

あきらかなるもの現れぬ、

つみとがのしるし天にあらはれ、

懺悔のひとの肩にあらはれ、

齒に現はれ、

骨に現はれ、

木木の梢に現はれ出で、

眞冬をこえて凍るがに、

犯せる罪のしるしよもにあらはれぬ。

             ――淨罪詩扁――

 

[やぶちゃん注:『地上巡禮』第二巻第二号・大正四(一九一五)年三月号所載。「扁」はママ。次に示す「月に吠える」の「冬」の初出形である。これが「淨罪詩」篇であり、映像が夢のイマージュのように描かれ、しかも題名が「貘」である時、実はこの悪夢としての一篇は「貘」に食われることを望み、若しくは「獏」に食われることによって昇華するところの、実はまさに「淨罪」の詩篇であった可能性を示唆しているように私には思えるのである。]

つんぼの犬 大手拓次

 つんぼの犬

だまつて聽いてゐる、
あけはなした恐ろしい話を。
むくむくと太古を夢見てる犬よ、
顏をあげて流れさる潮の
はなやかな色にみとれてるのか。
お前の後足のほとりには、いつも
ミモザの花のにほひが漂うてゐる。

鬼城句集 春之部 雀の子

雀の子  雀子や親と親とが鳴きかはす

     雀子や大きな口を開きけり

一言芳談 一二〇

   一二〇

 或人、明遍に問うて云、學問のほど、暫く、念佛の數反(すへん)を減じ候はんと。答へて云、學問は念佛を修(しゆ)せんがためなり。若し數反を減ぜらるべくは、教へたてまつるべからず。

〇學問のほど、學問の隙入(ひまいり)の間なり。ほどとは時節をいふ。
〇數反を減じ候はん、日所作(につしよさ)にて、何萬反(べん)ときはめたる念佛の數を少うすり事なり。
〇念佛を修せんがためなり。歸元直指云、今日有緣得逢佛法。當須究本。莫競枝條。

[やぶちゃん注:「或人」は、「問うて」いる「明遍」本人から、
『もっと教学の「學問」を受けたく存じますによって、「念佛の」する回数を「減じ」ようと思います』
と、如何にもな優等生のもの謂いをしている。明遍は、それに対し、
『「學問」は「念佛」をする「ため」のものであります。それを――「若し」「學問」のために――ほんの数回であっても、「念佛」をお「減」らしになる――ということであるのならば――私(わたくし)はあなたに「學問」とか申しておらるるものを、これ、お教え致すことは出来ませんぬ。』
と言っている。この当たり前のことを我々は確かに忘れている。悪しき謂いに於いてただ『ためにする』行為ばかりが、我々の存在を蝕んでいる、と私も思うのである。
「歸元直指云、今日有緣得逢佛法。當須究本。莫競枝條。」底本の訓点を参考に以下に書き下す。
 「歸元直指(きげんぢきし)」に云はく、『今日の有緣(うゑん)、佛法に逢ふことを得たり。當に須らく本を究むべし。枝條(しでふ)を競ふこと莫れ。』と。
「歸元直指」は明の宗本の編になる「帰元直指集」のこと。禅と念仏の一元化を主張した古来の説九十七篇を集めたもの。流石に禅語としてすっきりとして小気味よい。]

2013/03/21

北條九代記 吾妻四郎靑鷺を射て勘氣を許さる

      ○吾妻四郎靑鷺を射て勘氣を許さる

同八月十七日、鶴ヶ岡八幡宮の放生會(はうしやうゑ)あり。將軍家、御出あるべしとて、先(まづ)御供の隨兵(ずゐひやう)を定めらる。其中に吾妻(あづまの)四郎助光、故なくして參らざりければ、工藤小次郎行光を以て仰せられけるやう、「助光は、させる大名にあらずといへども、累代の勇士(ようし)たるを以て隨兵の員(かず)に召(めし)加へらる。頗(すこぶる)家の面目なりと存すべき所に、その期(ご)に臨みて、參らざる條、子細を言上すべし」とあり。助光、畏りて申しけるは、「將軍家、此御調事に御出ある事は晴(はれ)の儀たるを以て、態(わざ)と用意致せし所の鎧を、鼠の爲に損ぜられ、是に度(ど)を失ひ、俄(にはか)に申(まうし)障り候なり。別心を以て、まかり出ざるにては候はず」と陳じけり。重ねて仰せありけるは、「晴の儀たるに用意致しけるとは新造の鎧の事歟。甚(はなはだ)以て然るべからず。隨兵はその行粧(かうさう)を飾るべきにあらず。只警衛(けいゑい)の爲なり。是によつて、右大將家の御時、譜代の武土、綺麗を調ふる事を停止(ちやうじ)せらる。然れば往當(そのかみ)、故賴朝卿、御用の事有て筑後權守俊兼を召しけるに、此男、本より花美(きわび)を好み、殊に行粧を刷(かいつく)らふて小袖十餘領(りやう)を著(ちやく)し、褄(つま)の重(かさね)色々を飾りて、御前に出たり。賴朝卿、御覽じて、俊兼が帶する所の刀を召して、重ねたる小袖の褄を切せられて、後、仰せられけるやう、汝は才漢(さいかん)有て、家富みたり。何ぞ倹約を存ぜざるや。千葉常胤、土肥實平なんどは、所領は俊兼に雙(なら)ぶべからず。されども衣裳は麁品(そひん)を用ひ、鎧以下、更に美麗を好まず、其家富裕にして、數輩の郎從を扶持せしめ、たゞ勳功の忠義を存ず。今、汝は財産の費(つひえ)を知(しら)ず、過分の奢(おごり)を極むる條、大事に臨まば、定(さだめ)て家子(いへのこ)郎從を扶持するに叶はず、軍陣の時は獨身(ひとりみ)たるべし、と誡(いまし)め給へば、俊兼、面(おもて)を垂れて敬屈(けいくつ)し、向後、花美を停止すべき由、御請(うけ)を申しけると聞しめし傳へたり。されば當時武勇の輩、豫てより、鎧一領を持たぬ者やあるべき。何ぞ重代の兵具を差(さし)置きて、新造の鎧を用ひられば、累祖重代の鎧等は相傳の詮(せん)なきに似たり。その上、放生會は恆例の神事なり。度毎(たびごと)に新造せば倹約の義に背く者歟。向後、諸人この儀を守るべし。助光は先(まづ)出仕を止(やめ)らるゝ所なり」と仰せ出されければ、助光、暫く籠居致す。同十二月三日、相州大官令以下、御所に伺候あり。嵐、烈しく、松の梢に渡り、自(おのづから)、琴(きん)の調(しらべ)に通ふらん。雲、吹(ふき)閉ぢて、雪、降(ふり)出で、木々の枝々、時ならず花咲くかと怪まれければ、將軍實朝卿、興ぜさせ給ひて、御酒宴を始めらる。その間に靑鷺(あをさぎ)一羽、進物所(しんもつどころ)に入て、ふためきつゝ、寢殿の上に留(とゞま)りたり。野鳥、室に入るは不祥の兆(きざし)なり、と將軍家、御心に掛り思(おぼし)召し、「誰かある、あの鳥、射止めよ」と仰(おほせ)出ださる。折節、然るべき射手、御所中に候(こう)せず。相州、申されけるは、「吾妻四郎助光、御氣色を蒙りて、是を愁へ申さんために、近邊に居て候。召出されて射させらるべきか」とあり。御使を下され、助光、軈(やが)て參上し、蟇目(ひきめ)を挾(さしはさ)み、階隱(はしがくし)の蔭より狙寄(ねらひよつ)て、ひようと發(はな)つ。鳥には中(あた)らざるやうに見えて、鷺は庭上に落ちたり。助光、進覽致しける。左の目より血の少(すこし)出たる計(ばかり)にて死すべき疵(きず)にはあらざりけり。鷹の羽(は)にて矯(は)ぎたる矢なるが、鳥の目を曳(ひ)きて融(とほ)る。生ながら射留むる事、御感殊に甚しく、御赦免を蒙り、剩(あまつさ)へ御劍を賜(たまは)る。武藝に達せし故に依(よつ)て、時の面目を施しける手柄の程こそ雄々(ゆゝ)しけれと、皆(みな)人、感じ給ひけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十八の建永二(一二〇七)年八月十五日及び十七日の吾妻助光の不祥事に、巻三の元暦元(一一八四)年十一月二十一日の父頼朝の同様の勘気の事蹟を添え、巻十八の承元元年十二月三日の不吉な靑鷺の侵入と、助光の名射と勘気赦免の大団円とする、劇的な面白さを狙ったいい話柄である。但し、書き方に誤りがある。放生会は実は八月十七日ではなく、その二日前の八月十五日に行われた。その十五日の条に、

〇原文

十五日戊午。小雨。鶴岳宮放生會。將軍家既欲有御參宮之處。随兵已下臨期有申障之輩。被召別人之程。數尅被扣御出。尤爲神事違亂。是則御出等事。無奉行人之故也。仍召民部大夫行光。向後供奉人散狀已下。御所中可然事。於時無闕如之樣。可計沙汰之旨。被仰含之云々。及申尅。御出之間。舞樂等入夜。取松明有其儀。未事終還御。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日戊午。小雨。鶴岳宮の放生會。將軍家、既に御參宮有らんと欲するの處、随兵已下、期(ご)に臨みて障り申すの輩(ともがら)有り。別人を召さるるの程、數尅、御出を扣(ひか)へらる。尤も神事に違亂たり。是れ、則ち御出等の事に奉行人無きが故なり。仍つて民部大夫行光を召し、向後、供奉人の散狀(さんじやう)已下、御所中の然るべき事は、時に於いて闕如(けつじよ)無きの樣、計らひ沙汰すべきの旨、之を仰せ含めらると云々。

申の尅に及びて、御出の間、舞樂等、夜に入り、松明(たいまつ)を取り、其の儀有り、未だ事、終らざるに還御す。

・「尤も神事に違亂たり」神事という尤も不具合があってはならない儀式での、とんでもない不祥事である。

・「散狀」諸役の勤番を明記して事前に回覧した文書。回状。

ここでは特に、最後の部分で、この不祥事によって儀式が大幅に遅れ、深夜に及んでしまったことが述べられ、満十四歳の育ちざかりの実朝、恐らく腹も減らして、大いに不快であったに違いないことは窺えるが、ここで気づくべきは、どうも、この随兵不参加によるごたごた、「北條九代記」は吾妻助光一人が不参加であったように読めるのであるが、それならこうはならなかったなかったことであろう。「輩有り」はどうも複数に読める。以下、十七日の記事でそれが明らかになるのである。

 

 その二日後。

〇原文

十七日庚申。晴。放生會御出之時申障之輩事。相州。武州。廣元朝臣。善信。行光等參會。有其沙汰之處。或輕服。或病痾云々。而随兵之中。吾妻四郎助光無其故不參之間。以行光被仰云。助光雖非指大名。常爲累家之勇士。被召加之訖。不存面目乎。臨其期不參。所存如何者。助光謝申云。依爲晴儀。所用意之鎧。爲鼠被損之間。失度申障云々。重仰云。依晴儀稱用意者。若新造鎧歟。太不可然。隨兵者非可飾行粧。只爲警衛也。因茲。右大將軍御時。譜代武士可必候此役之由。所被定也。武勇之輩。兼爭不帶鎧一領焉。世上狼唳者不圖而出來。何閣重代兵具。可用輕色新物哉。且累祖之鎧等似無相傳之詮。就中恒例神事也。毎度於令新造者。背儉約儀者歟。向後諸人可守此儀者。助光者所被止出仕也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十七日庚申。晴る。放生會御出の時、障り申すの輩の事、相州・武州・廣元朝臣・善信・行光等參會して、其の沙汰有るの處、或ひは輕服(きやうぶく)、或ひは病痾(びやうあ)と云々。

而るに随兵の中に、吾妻四郎助光、其の故無く不參するの間、行光を以つて仰せられて云はく、

「助光、指(さ)せる大名に非ずと雖も、常に累家之の勇士として、之を召加へられ訖んぬ。面目を存ぜざるか。其の期(ご)に臨んでの不參、如何なる所存か。」

てへれば、助光、謝り申して云はく、

「晴れの儀たるに依つて、用意する所の鎧、鼠の爲、損ぜらるるの間、度を失ひ、障りを申すと云々。

重ねて仰せて云はく、

「晴れの儀に依つて用意すると稱すは、若しや、新造の鎧か。太だ然るべからず。隨兵は行粧(ぎやうさう)を飾るべきに非ず。只だ、警衛の爲なり。茲(こ)れに因つて、右大將軍の御時、譜代の武士、必ず此の役に候ずべきの由、定め被らるる所なり。武勇(ぶやう)の輩(ともがら)、兼ねて爭(いか)でか鎧一領を帶せざらん。世上の狼唳(らうれい)は圖らずして出で來たる。何ぞ重代の兵具を閣(さしお)きて、輕色(きやうしよく)の新物を用ふべけんや。且つは累祖の鎧等、相傳の詮(せん)無きに似たり。就中(なかんづく)、恒例の神事なり。毎度、新造せしむに於いては、儉約の儀に背く者か。向後、諸人此の儀を守るべし。」

てへれば、助光は出仕を止めらるる所なり。

・「輕服」遠縁の者の死去による軽い服喪をいう。反対語は重服(じゅうぶく)。

・「吾妻助光」(生没年不詳)「吾妻鏡」では建仁四(一二〇四)年一月十日の弓始めの儀での射手六名の最後、三番方の二番目に名があるのが初出、この出来事以降では翌々年の承元三(一二〇九)年一月六日の条に的始の射手に召されたのを最後として記載がない。

・「助光は出仕を止めらるる」叙述からは形式上は実朝が出仕を禁じたことになるが、記載から見ると、義時・時房(武州)以下の合議決裁で二階堂行光から出勤停止処分が通行されたものであろう。満十四歳の実朝自身の意志とは思われない。

 

「然れば往當、故賴朝卿、御用の事有て筑後權守俊兼を召しけるに……」以下では、頼朝の事蹟が語られるのであるが、それが「吾妻鏡」の二十三年前に遡るところの巻三の元暦元(一一八四)年十一月二十一日の条を元にした筆者の創作部分である。

〇原文

月大廿一日丙午。今朝。武衞有御要。召筑後權守俊兼。々々參進御前。而本自爲事花美者也。只今殊刷行粧。著小袖十餘領。其袖妻重色之。武衞覽之。召俊兼之刀。即進之。自取彼刀。令切俊兼之小袖妻給後。被仰曰。汝冨才翰也。盍存儉約哉。如常胤。實平者。不分淸濁之武士也。謂所領者。又不可雙俊兼。而各衣服已下用麁品。不好美麗。故其家有冨有之聞。令扶持數輩郎從。欲勵勳功。汝不知産財之所費。太過分也云々。俊兼無所于述申。垂面敬敬※[やぶちゃん注:「※」=「口」+「屈」。]。武衞向後被仰可停止花美否之由。俊兼申可停止之旨。廣元。邦通折節候傍。皆銷魂云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿一日丙午。今朝、武衞御要(ごえう)有りて、筑後權守俊兼を召す。俊兼、御前に參進す。而るに本より花美を事と爲す者なり。只今、殊に行粧(ぎやうさう)を刷(かいつくろ)ひ、小袖十餘領を著け、其の袖妻、之に色を重ぬ。武衞、之を覽て、俊兼が刀を召す。即ち、之を進ず。自(みづか)ら彼(か)の刀を取り、俊兼が小袖の妻を切らしめ給ひて後、仰せられて曰く、

「汝。才翰(さいかん)に冨むなり。盍(なん)ぞ儉約を存ぜぬや。常胤・實平のごときは、淸濁を分たざるの武士なれど、謂はば所領は、又、俊兼に雙ぶべからず。而るに各々、衣服已下、麁品(そひん)を用ゐて、美麗を好まず。故に其の家、冨有の聞え有りて、數輩の郎從を扶持せしめ、勳功を勵まんと欲す。汝、産財の費(つい)ゆる所を知らず。太はだ過分なり。」

と云々。俊兼、述べ申すに所無く、面を垂れて敬※(けいくつ)す。[やぶちゃん注:「※」=「口」+「屈」。武衞、

「向後、花美を停止べくか否か。」

の由を仰せらる。俊兼、

「停止すべし。」

の旨を申す。廣元・邦通、折節、傍に候ず。皆魂を銷(け)すと云々。

・「筑後權守俊兼」藤原俊兼(生没年未詳)は頼朝の初期の右筆。「吾妻鏡」での初出は養和二(一一八二)年一月二十八日の条で、俊兼は簀子(すのこ)に控えて、伊勢神宮に奉献される神馬十匹の毛付(馬を識別するための毛色の記録。原典では当該の馬を曳いて頼朝に進上した人物が割注で附されている)を記している。元暦元(一一八四)年四月二十三日には下河辺政義が俊兼を通じて訴え出て、頼朝の命により、俊兼が常陸国目代に御書を代書している。これ以降、同じ右筆として藤原邦通(引用した「吾妻鏡」の最後に登場している)と入れ替わるようによく登場し、逆に邦通は右筆としても影が薄くなる傾向がある。同十月二十日の条では頼朝御亭東面の廂を問注所とし、三善康信を筆頭に藤原俊兼、平盛時が諸人訴論対決の事を沙汰することになった、とある。本件を挟んで、文治二(一一八六)年三月六日の条では義経の行方について静御前の尋問を行う。同年八月十五日の条では西行の語る流鏑馬の奥義を頼朝が俊兼に書き取らせたとする。同じ京の文官である大江広元・三善康信・二階堂行政らと比べれば行政実務のトップクラスということではなかったが、奉行人・右筆として常に頼朝の側に居た様子が覗える(以上はウィキの「藤原俊兼」に拠った)。

 

 そうして青鷺事件が起こる。承元元(一二〇七)年十二月三日の条。

〇原文

三日甲辰。冴陰。白雪飛散。今日御所御酒宴。相州。大官令等被候。其間。靑鷺一羽入進物所。次集于寢殿之上。良久將軍家依恠思食。可射留件鳥之由。被仰出之處。折節可然射手不候御所中。相州被申云。吾妻四郎助光爲愁申蒙御氣色事。當時在御所近邊歟。可被召之云々。仍被遣御使之間。助光顚衣參上。挾引目。自階隱之蔭窺寄兮發矢。彼矢不中于鳥之樣雖見之。鷺忽騷墜于庭上。助光進覽之。左眼血聊出。但非可死之疵。此箭羽〔鷹羽極強云々。〕曳鳥之目兮融云々。助光兼以所相計無違也云々。乍生射留之。御感殊甚。如元可奉昵近之由。匪被仰出。所下給御釼也。

〇やぶちゃんの書き下し文

三日甲辰。冴え陰る。白雪飛散す。今日、御所の御酒宴。相州、大官令等、候ぜらる。其の間、靑鷺一羽、進物所に入る。次に寢殿の上に集まる。良(やや)久しうして將軍家、恠(あや)しみ思し食(め)すに依つて、件(くだん)の鳥を射留むべきの由、仰せ出ださるるの處、折節、然るべき射手、御所中に候ぜず。相州、申されて云はく、

「吾妻四郎助光、御氣色を蒙る事を愁へ申さんが爲、當時、御所の近邊に在らんか。之を召さるるべし。」

と云々。

仍つて御使を遣はさるるの間、助光、衣(ころも)を顚(さかしま)にして參上す。引目(ひけめ)を挾(さしはさ)み、階隱(はしがくし)の蔭より窺ひ寄つて、矢を發(はな)つ。彼(か)の矢、鳥に中(あた)らざる樣に之れ見えゆると雖も、鷺、忽ち庭上に騷ぎ墜つ。助光、之を進覽す。左の眼に血、聊か出づ。但し、死すべきの疵に非ず。此の箭(や)の羽〔鷹羽で極めて強しと云々。〕鳥の目を曳きて融(とほ)ると云々。

助光、

「兼ねて以つて相ひ計る所、違(たが)ふ無きなり。」

と云々。

生きながら之を射留むること、御感、殊に甚だし。元のごとく昵近(ぢつきん)奉るべきの由、仰せ出ださるのみに匪ず、御釼を下し給ふ所なり。

・「大官令」大江広元。

・「衣を顚にして」すわっ! と慌てふためいて。

・「引目」既出。射る対象を傷つけないように鏃を使わず、鏑に穴をあけたものを装着した矢のこと。通常は邪気を払うためにも、音を発して放たれるが、ここでは敏感な鳥を射ている以上、恐らくは穴を塞いで無音の鈍体にしたものと思われる。しかも、尖端ではなく、尾羽の鷹羽の背だけを青鷺の眼の部分に掠めさせて、そのショックで落下させるという超難度の技であった。

・「階隱」階隠間(はしがくしのま)。寝殿造で南廂の階の上にあたる中央の一間を指す。

・「兼ねて以つて相ひ計る所、違ふ無きなり」ここは助光本人の言葉で、「前以って狙っておりました射技と、全く外れるとこと、これ、御座いませなんだ。」というのだが、「北條九代記」の作者がこの自慢げな言を外したのは正解である。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 3

 瑞鹿山圓覺寺は時賴弘長三年に薨じ給ふ、そのさき大覺禪師時賴遊山の次、禪師のいはく、此地は叢林相應の所也、建立あるべしと。時賴時節をうつすべからずとて、折節田かへし居たる耕夫の鋤を取て、時賴一下し給ふ。同く大覺鋤を取て一下し給ひ、その所に草を結びそめたまふ。其後弘安元年に大覺も入滅ありて、同五年癸丑のとしに時宗公立おさめらる。時に詮藏主・英典座を兩僧使として大宋へ渡され、住持を請ぜらる、其狀にいはく、

 

[やぶちゃん注:「瑞鹿山圓覺寺は時賴弘長三年に薨じ給ふ」意味が通じない。底本にも「圓覺寺は」と「時賴」の右に『(脱文カ)』と傍注する。

 

「同五年癸丑」円覚寺落慶法要であるが干支は誤り。弘安五(一二八二)年は癸丑(みづのとうし)ではなく、壬午(みずのえうま)。]

 

「詮藏主・英典座」蘭渓道隆の法嗣であった無及徳詮と傑翁宗英(そうえい)。「藏主」は経蔵の管理責任者、「典座」は「てんぞ/てんざ」と読み、禅宗寺院の六知事の一つで、大衆の斎飯などの食事を司った厨房長で、傑翁も同義。

 

「不宣」は「ふせん」で「不一」「不悉」と同じく、自分の言うべきことを語り尽くすことが出来ていない甚だ拙文にて、という意の卑小を示す手紙の結語。]

 

[やぶちゃん注:以下の召請状は底本では全体が二字下げ。]

 

 

 

時宗留意宗乘積有年序、建營梵苑安止緇流、但時宗毎憶樹有其根水有其源、是以欲請宋朝名勝助行此道煩詮英兄、莫憚鯨波險阻誘引俊傑禪伯歸來本國爲望而已。不宣、

 

  弘安元年戊申十二月廿三日   時宗和南

 

   詮藏主禪師

 

   英典座禪師

 

[やぶちゃん注:以下に底本の訓点を参考に私なりに書き下したものを示す。

 

時宗、意を宗乘に留むること、積むに年序有り。梵苑を建營し、緇流を安止す。但し、時宗、毎に憶ふ、樹に其の根有り、水に其の源有り。是れを以つて、宋朝の名勝を請じて、此の道を助行せんと欲し、詮・英兄を煩はし、鯨波の險阻を憚ること莫く、俊傑の禪伯を誘引して、本國に歸り來たらんことを望みと爲るのみ。不宣、

 

  弘安元年戊申十二月廿三日   時宗和南

 

   詮藏主禪師

 

   英典座禪師

 

新編鎌倉志三」に「平時宗の書」として載るが、ここでも沢庵は干支を誤写している。弘安元年は戊申(つちのえさる)ではなく、戊寅(つちのえとら)である。]

 

 兩僧これによつて宋に入、同二年の夏佛光禪師請を受て來朝し給ふ。即圓覺寺の開山祖是也。圓滿常照國師と號す。諱は祖元、字は子元、みづから無學と號せられる。

 

[やぶちゃん注:「同二年」弘安二(一二七九)年。]

 

 

 

 

長き夜の夢を夢ぞと知る君はさめて迷へる人を助けむ 明恵

   上覺上人の許より、
    みる事は
    みなつねならむ
    うき世かな
    夢かとみゆる
    程のはかなさ
   と申したりける返事に

長き夜の夢を夢ぞと知る君はさめて迷へる人を助けむ   明惠

[やぶちゃん注:底本は岩波文庫一九八一年刊久保田淳・山口明穂校注「明恵上人集」の本文及び注を用いて「新続古今和歌集」巻八の釈教歌の八五一に載る形をを再現した。但し、恣意的に正字化し、また詞書を読み易い特殊な字配に変えた。「上覺上人」は真言僧。明恵の叔父(亡母の兄弟)で文覚の弟子。彼に従って明恵は数え九歳(養和元(一一八一)年)で神護寺に入山した。私撰集に「玄宝集」、歌学書「和歌色葉」を著わすなど、歌人としても知られた。底本の「明恵上人歌集」の部の本文(底本は東洋文庫版)では、

   御報

長き夜の夢を夢ぞと知る君やさめて迷へる人を助けむ

の形で載る。]



間違って貰っては困る――
この歌はありきたりな夢を無常の儚きものと捉えたり――譬えたりしている――歌では――ない――のだ――

……上覚上人さま……
……あなたは……「長き夜の夢を夢ぞと知る」あなたは「さめて迷へる人を助けむ」御方……
tえしかし私は……夢を儚きものとは……
……これ、思いませぬ……
……私は……私の「長き夜の夢」を……
……確かな私の「夢」として……
……「迷へる人を助け」んための……
……その方途と致しましょう――


……信じ難い? なれば、近いうちにそれについてお話を始めようと存ずる……
という驚天動地の確信の宣言なのである――

恐ろしく憂鬱なる 萩原朔太郎 (「青猫」版)

 恐ろしく憂鬱なる

 

こんもりとした森の木立のなかで

いちめんに白い蝶類が飛んでゐる

むらがる むらがりて飛びめぐる

てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

みどりの葉のあつぼつたい隙間から

ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼(つばさ)

いつぱいに群がつてとびめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

ああ これはなんといふ憂鬱な幻だ

このおもたい手足 おもたい心臟

かぎりなくなやましい物質と物質との重なり

ああ これはなんといふ美しい病氣だらう

つかれはてたる神經のなまめかしいたそがれどきに

私はみる ここに女たちの投げ出したおもたい手足を

つかれはてた股や乳房のなまめかしい重たさを

その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに

私の靑ざめた屍體のくちびるに

額に 髮に 髮の毛に 股に 胯に 腋の下に 足くびに 足のうらに

みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ

むらがりむらがる 物質と物質との淫猥なるかたまり

ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろの集團

ああこの恐ろしい地上の陰影

このなまめかしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる

その私の心はばたばたと羽ばたきして

小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ

ああこのたへがたく惱ましい性の感覺

あまりに恐ろしく憂鬱なる。

 

 註。「てふ」「てふ」はチヨーチヨーと讀むべ

 からず。蝶の原音は「て・ふ」である。蝶の

 翼の空氣をうつ感覺を音韻に寫したものであ

 る。

 

[やぶちゃん注:詩集「青猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)の「幻の寢臺」の掉尾に配された「恐ろしく憂鬱なる」。この微細な各所の推敲は、恐らくは初出を何度も朗誦する中で決定されたものであろう。他者がどう感じるか分からぬが、私には頗る興味深い推敲である。]

恐ろしく憂鬱なる 萩原朔太郎 (初出形)

 恐ろしく憂鬱なる

 

こんもりとした森の木立のなかで

いちめんに白い蝶類が飛んでゐる

むらがる、むらがりて飛びめぐるてふ、てふ、てふ、てふ

みどりの葉のあつぼつたい隙間から

ぴか、ぴか、ぴか、ぴかと光る そのちいさな鋭どいつばさ

いつぱいに群がつてとびめぐるてふ、てふ、てふ、てふ、てふ、てふ、てふ、てふ、てふ、 てふ、てふ、てふ

ああ これはなんといふ憂欝なまぼろしだ

このおもたい手足おもたい心臟

かぎりなくなやましい物質と物質との重なり

ああ これはなんといふ美しい病氣だ

疲れはてたる神經のなまめかしいたそがれどきだ

私はみる、ここに女たちの投げ出したおもたい手足を

つかれはてた股(もも)や乳房のなまめかしい重たさを

その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに

私の靑ざめた屍體のくちびるに、額に、かみに、かみのけに、ももに、胯に、腋のしたに、足くびに、あしのうらに、みぎの腕にも、ひだりの腕にも、腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ

むらがりむらがる物質と物質との淫猥なるかたまり

ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろの集團

ああ この恐ろしい地上の陰影

このなまめかしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂欝の日かげをみつめる

その私の心はぢたばたと羽ばたきして

小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ

ああこのたえがたく腦ましい性の感覺

あまりに恐ろしく憂欝なる。

 

   詩中平假名にて書きたる「てふてふ」は

   文字通り「て、ふ、て、ふ」と發音して

   讀まれたし「チヨーチヨー」と讀まれて

   は困る。

 

[やぶちゃん注:『感情』第二年五月号・大正六(一九一七)年五月号所収。底本(筑摩版全集第一巻一四九頁)では五行目の「隙間」の「隙」の(つくり)上部は「少」。その他はママ。最後の注記は底本ではポイント落ち。二箇所の下線部は底本では傍点「ヽ」。標題のみ「鬱」で、本文では「欝」とある。]

耳嚢 巻之六 古佛畫の事

 古佛畫の事

 

 川尻甚五郎、被咄(はなされ)けるは、彼(かの)家に古畫の由、彌陀の像を一幅持(もち)傳へしが、手足に水かきあり。不審なれば或人尋問(たづねとひ)しに、古への佛畫には手足の指に水かきあり。群生(ぐんしやう)を救ふの爲、水に入(いり)て溺るゝ者をたすけすくわんための由。大般若經とかに、三十二相揃ふといふには、右の通り手足の指に水かきありと、いひし由なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「水かき」のある奇怪な阿彌陀という怪談を狙ったものかも知れぬが、これは仏の三十二相の一つとして現在でも結構知られており、現存する仏像でもしばしば見出せる。怪談連関としたのならば不発であるが、神道シンパであった根岸であるから、三十二相などというものは、彼にとってこそ「不審」なのかも知れぬ(ただ、私は昔、この手足指縵網相を誇張して示した仏像を実見した際に――根岸ではないが――何故か、生理的に気味の悪い印象を持ったことをここに告白しておく)。

・「川尻」底本鈴木氏注で、河尻春之(はるの)の誤りとし(現代語訳では訂した)、寛政四(一七九二)年に代官に任ぜられた旨記載がある。他にも奈良県五條市公式サイトの五條十八景、時代背景と関連年表にも寛政七(一七九五)年に五條代官所設置され、その初代代官に「川尻甚五郎」が就任し、その在任期間は寛政七年から享和二(一八〇二)年とあるが(引用元、享和を享保と誤っている)、調べてみると、この人物はもっと注を附すべき人物のように思われる。ウェブサイト「定有堂書店」のブック・レビューにある岩田直樹氏の今月読んだ本一二〇回「近世日本における自然と異者理解-渡辺京二『逝し世の面影』『黒船前夜』を読む-(下)によれば、この記載の後(「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月)である文化四(一八〇七)年に幕府は蝦夷地全体を直轄地としたが、その際、函館奉行は松前奉行と改称され四人制となり、翌年に河尻春之・村垣定行・荒尾成章の三人制となったという記載と『河尻は後に転任』という補注がある。そうして文化五(一八〇八)年、本話のこのまさに河尻春之と荒尾成章が、蝦夷地警衛について老中から諮問を受けた際に、二人は次のような意見を上申したという。文化三(一八〇六)年と翌年にかけて樺太のクシュンコタンや択捉島のシャナを襲撃した『フヴォストフらの「不束」(暴行)を正式に謝罪すれば、交易を許してもよい。レザーノフを長崎で軟禁状態にして半年も待たせ、揚げ句の果て通商を拒否したのは、国家使節を迎える上で「不行届の義」であった』。『むろん交易は国法に叛くものである。しかし、ロシアの辺境と松前付属の土地との間であれば、すなわち国同士ではなく辺土同士であれば、交易をしても「軽き事」と見なすことが出来よう。ロシア極東領の食糧難を鑑みて許可すべきである』。『蝦夷地全域の警護がどれだけ非現実的か』。『今年の警護役の仙台・会津両藩は併せて』八十万石もの大藩であるのに、僅か三千人の兵を出すだけで『財政破綻の危機に瀕している。「ロシアなど恐るるに足らぬ」などと主張するのは、民の命を損なうことではないか』。『河尻と荒尾は、天命・天道に言及する。心を平静に保ち、ロシアと日本の「理非如何と糺し、…明白にその理を尽すべく候。もし、非なる処これありと存じ候ても、これを取りかざりて理を尽さず、命にかかわり候に及び候ては、国の大事を挙げ候とも、天より何と評判申すべきや」』(二七六頁)。『老中たちは、松前奉行の大胆な上申書を咎めるどころか、再来が予想されるフヴォストフに与える返書にその趣旨を取り入れた』という(以下はリンク先をお読みあれ)。河尻春之はあの幕末の動乱に向けて、自ら国の水かきたらんとした。そういう意味で、この驚くべき上申書はもっと知られてよいであろうと私は思う。

・「三十二相」で三十二相八十種好(はちじっしゅこう)。一見して分かる三十二相と微細な特徴としての八十種好を合わせたもの。「相好(そうごう)」ともいう。「三十二相」の詳細はウィキ三十二相八十種好を参照されたいが、その五番目に手足指縵網相(しゅそくまんもうそう)として、『手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある』とある(表現や順番は経により異同がある)。例えば個人ウェブサイト「仏像紀行」の広島県福山市草戸町の明王院・阿弥陀如来立像の写真で手のそれが確認出来る。

・「大般若經」大般若波羅蜜多経。六百余巻に及ぶ大乗仏教の基礎的教義が書かれている長短様々な般若教典を集大成したもの。玄奘が六六三年に漢訳として完成させた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 古仏画の事

 

 河尻甚五郎春之(はるの)殿のお話。

「……拙者の家には古き仏画が御座って、阿弥陀仏の像を一幅、先祖伝来のものとして持って御座る。……ところが……これには、何と、手足に水かきが御座るのじゃ。……如何にも気味悪う、不審なれば、とある御仁に尋ね問うたところ、

『古えの仏画には手足の指に水かきがある。衆生を救わんがため、即ち、水に入りて溺るる者をも、これ、掬い取らんがためにあるのものである。』

とのことで御座って、何でも「大般若経」とやらんに、

『三十二相相い揃うと申す条には、右の通り、手足の指に水かきあり、と記しある。』

との由で御座った。」

肉色の薔薇 大手拓次

 肉色の薔薇

 

うまれでた季節は僞らずに幸福をおくる。

おお はづかしげに裸(はだか)になつた接吻よ、

五月はわたし達に果てもない夢である。

此汎愛の思想のよわよわしい芽生えは

旅の空をうろついてあるく女藝人のやうに人知れず涙をながしてゐる。

今、偏狹者の胸に咲いた肉色の薔薇よ、

今、惡執者の腕に散る肉色の薔薇よ、

遍在の神は吾等の上に楽しい訪れをささやく。

歡びにみちた季節は悲哀の種をまく。

うれはしげに鎧を着た接吻よ、

戦闘は白く白く波をうつてゐる。

 

[やぶちゃん注:創元社刊創元文庫「大手拓次詩集」及び現代思潮社刊現代詩人文庫「大手拓次詩集」では、二行目を、

 おお はづかしげに裸(はだか)になつた接吻よ。

と読点ではなく、句点とする。また、後者現代詩人文庫版では、更に最後の三行を独立連(第二連)としている。正字で以下に現代詩人文庫版の詩形全文を示しておく。

 

 肉色の薔薇

 

うまれでた季節は僞らずに幸福をおくる。

おお はづかしげに裸(はだか)になつた接吻よ。

五月はわたし達に果てもない夢である。

此汎愛の思想のよわよわしい芽生えは

旅の空をうろついてあるく女藝人のやうに人知れず涙をながしてゐる。

今、偏狹者の胸に咲いた肉色の薔薇よ、

今、惡執者の腕に散る肉色の薔薇よ、

遍在の神は吾等の上に楽しい訪れをささやく。

 

歡びにみちた季節は悲哀の種をまく。

うれはしげに鎧を着た接吻よ、

戦闘は白く白く波をうつてゐる。]

鬼城句集 春之部 雲雀

雲雀   百姓に雲雀揚つて夜明けたり

一言芳談 一一九

   一一九

 

 又云、十聲(とこゑ)・一聲等(ひとこゑとう)の釋は、念佛を信ずる要(えう)、念々不捨者等(すてざるものとう)は、念佛を行ずる要なり。

 

〇十聲一聲等の釋、禮賛云、上盡一形、下至十聲一聲等、以佛願力易得往生。

〇念々不捨者、散善義云、行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼佛願故。

 

[やぶちゃん注:Ⅰでは「十聲一聲(じつしやういつしやう)]と中黒点を配さずに振るが、「とこゑ」はⅡ・Ⅲを採り、「ひとこゑ」は私が附した(但し、後に見るように浄土教学では「じつしょういっしょう」が正しいらしい)。次の「等」を「とう」と読むのはⅢに従い、後の「等」の「とう」の訓は私が附した。まず、二つの標註の漢文を私流に訓読しておく。

 「禮賛」に云はく、『上(じやう)は一形(いちぎやう)を盡して、下は十聲一聲(じつしやういつしやう)等(など)に至るまで、佛願力を以つて往生を得るに易し。』と。

 「散善義」に云はく、『行住坐臥は、時節の久近(くごん)を問はず、念々捨ざる者は、是れを正定の業と名づく、彼の佛願に順ずるが故に。』と。

ここで言う「十聲・一聲等の釋」とは善導の著「往生礼讃偈」に於ける念仏の解釈で、「安心(あんじん)」の章で、往生の肝要として掲げる「深心(じんしん)」の解に現われる(底本はウィキ・アーカイブ「往生礼讃 (七祖) を用いたが恣意的に正字化、句読点及び鍵括弧を追加、記号の一部を変更してある)。

 

 問ひていはく、「いま人を勸めて往生せしめんと欲せば、いまだ知らず、いかんが、安心・起行・作業して、さだめて、かの國土に往生することを得るや。」。

 答へていはく、「かならず、かの國土に生ぜんと欲せば、『觀經』に説きたまふがごときは、三心を具してかならず往生を得。なんらをか三となす。一には至誠心。いはゆる、身業に、かの佛を禮拜し、口業に、かの佛を讚歎稱揚し、意業に、かの佛を專念觀察す。おほよそ、三業を起さば、かならず、すべからく眞實なるべし。ゆゑに至誠心と名づく。二には深心。すなはちこれ、眞實の信心なり。自身はこれ、煩惱を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流轉して火宅を出でずと信知し、いま、彌陀の本弘誓願は、名號を稱すること、下十聲・一聲等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。三には囘向發願心。所作の一切の善根、ことごとくみな囘して往生を願ず。ゆゑに囘向發願心と名づく。この三心を具すれば、かならず生ずることを得。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。「觀經」につぶさに説くがごとし、知るべし。」。

 

即ち、善導の謂いの「一形を盡」すとは一生涯の不断念仏を指すから、「十聲一聲等の釋」とは、念仏はその回数を問題が問題なのではない、という結論を指している。一方の「念々不捨者」は、同じく善導の「散善義」の「深心釈」の「第七深信」に現われる。やや長くなるが少し前から引用する(底本はウィキ・アーカイブ観経疏 散善義 (七祖)を用いたが恣意的に正字化、句読点及び鍵括弧を追加、一部の記号を変更・省略した)。

 

すなはち「彌陀經」のなかに説きたまふ。釋迦極樂の種々の莊嚴を讚歎し、また「一切の凡夫、一日七日、一心にもつぱら彌陀の名號を念ずれば、さだめて往生を得。」と勸めたまひ、次下の文に、「十方におのおの恆河沙等の諸佛ましまして、同じく釋迦よく五濁惡時・惡世界・惡衆生・惡見・惡煩惱・惡邪・無信の盛りなる時において、彌陀の名號を指讚して、『衆生稱念すればかならず往生を得。』と勸勵したまふを讚じたまふ。」とのたまふは、すなはちその證なり。 また十方の佛等、衆生の釋迦一佛の所説を信ぜざることを恐畏れて、すなはちともに同心同時に、おのおの舌相を出してあまねく三千世界に覆ひて、誠實の言を説きたまふ。「なんぢら衆生、みな、この釋迦の所説・所讚・所證を信ずべし。一切の凡夫・罪福の多少・時節の久近を問はず、ただよく、上百年を盡し、下一日七日に至るまで、一心に、もつぱら彌陀の名號を念ずれば、さだめて往生を得ること、かならず疑なし。」と。このゆゑに一佛の所説は、すなはち一切佛、同じくその事を證誠したまふ。これを人に就きて信を立つと名づく。

次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。

一には正行、二には雜行なり。

正行といふは、もつぱら徃生經の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。何者かこれなるや。一心に、もつぱらこの「觀經」・「彌陀經」・「無量壽經」等を讀誦し、一心に專注してかの國の二報莊嚴を思想し觀察し憶念し、もし禮するには、すなはち、一心にもつぱらかの佛を禮し、もし口に稱するにはすなはち一心に、もつぱらかの佛を稱し、もし讚歎供養するには、すなはち一心に、もつぱら讚歎供養す、これを名づけて正となす。

また、この正のなかにつきて、また、二種あり。

一には、一心に、もつぱら彌陀の名號を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず、念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの佛の願に順ずるがゆゑなり。もし、禮誦等によるを、すなはち名づけて助業となす。この正助二行を除きて以外の自餘の諸善は、ことごとく雜行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心つねに親近して憶念斷えず、名づけて無間となす。もし後の雜行を行ずれば、すなはち心つねに間斷す、囘向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雜の行と名づく。ゆゑに深心と名づく。

 

以上から「念々不捨者」は、本来ならば「念々に捨てざるは」と読むのが正しいことが分かる。そうしてその意は、先に提示された称名念仏の回数を問題としないという要諦を踏まえた上で、「不断に心に弥陀への至高の思いを致して決して捨てぬこと」であることも分かる(と私は勝手に思っている)。]

2013/03/19

花はのこるべし

このころよりは、おおかた、せぬならでは手立てあるまじ。麒麟も老いては土馬に劣ると申すことあり。さりながら、まことに得たらん能者ならば、物數はみなみな失せて、善惡見どころは少なしとも、花は殘るべし。

(世阿彌「風姿花傳 第一 年來稽古條々」「五十有餘」冒頭)

明日は母の二周忌――そして――名古屋の義母の納骨式に参る。随分、御機嫌よう――

 

2013/03/18

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 三 分業と進歩~(2)

個人的に……こういう図……ぶるっとくるぐらい……僕は大好きなんである。……



Kudakurage_2


[くだくらげ]

 

(イ)浮子の役を務める個體

(ロ)運動を司どる固體[やぶちゃん注:「固」はママ。]

(ハ)食物を食ふ個體

(ニ)群體の中軸

(ホ、ヘ)保護する固體の蔭に隱れた食物を食ふ個體[やぶちゃん注:「固體」はママ。]

(ト)生殖を司どる個體

(チ)保護する個體

(リ)食物を食ふ個體

(ヌ)保護する個體の蔭に物を食ふ個體の隱れた所

(ル)保護する個體

(ヲ)食物を食ふ個體

(ワ)觸手の絲

 

 群體内で個體の間に分業の行はれて居る最も著しい例は、恐らく「くだくらげ」と名づける動物であろう。これもその構造は、あたかも數多くの「ヒドラ」を束にした如きものであるが、分業の結果各個體の形狀に著しい相違が生じ、すべてが相集まつて初めて一疋の動物を成せるかの如くに見える。すべて「くだくらげ」の類は群體を成したまゝで海面に浮んで居るが、その中軸として一本の伸縮自在の絲を具へ、これに、「ヒドラ」の如き構造の個體が列をなして附著して居るものが多い。そしてこの數多い個體の間には殆ど極度までに分業が行はれ、各個體は自身の分擔する職務のみを專門に務め、そのため各々特殊の形狀を呈して、中にはその一個體なることがわからぬ程に變形して居るものさへある。まづ中軸なる絲の上端の處には、内に瓦斯を含んだ嚢があつて浮子の役を務めて居るが、丁寧に調べて見ると、これも一疋の個體であつて全群體を浮かすことだけを自分の職務とし、それに應じた形狀を具へて他の作用は一切務めぬ。次に透明な硝子の鐘の如きものが數個竝んで居るが、生きて居るときはこの鐘が皆「くらげ」の傘の如くに伸縮して水を噴き、その反動によっつて全群體を游がせる。尤も一定の方向に進行せしめるわけではなく、單に同じ處に止まらぬといふだけであるが、浮游性の餌を求めるには、これだけでも大いに效能がある。それから下の部には、木の葉の如き形のものが處々に見えるが、これは他の個體を自分の蔭に蔽ひ隱して保護することを專門の務とする。前の鐘形の物と同じく、これも各々が一個體であつて、その發生を調べると、始め「ヒドラ」と同じ形のものが、次第に變形して終にかやうになったのである。木の葉の形の物の蔭から延び出て居るのは、食物を食ふことを專門とする個體で、形狀はまづ「ヒドラ」と同じく圓筒形で、その一端に口を具へて居る。但し「ヒドラ」とは違つて口の周圍に觸手がない。さすが食ふことを專門とするだけあつて、極めて大きく口を開くことが出來て、時とすると恰も朝顏の花の開いた如き形にもなる。またこれに交つて指のやうな形で口のない個體があるが、これは物に觸れて感ずることを務める。その傍からは一本長い絲が垂れて居るが、これは即ち伸縮自在の觸手であつて、その先には敵を刺すための微細な武器が塊になつて附いて居る。「くだくらげ」に烈しく刺すものの多いのはそのためである。この類は水中で觸手を長く伸し、浮游して居る動物に觸れると、この武器を用ゐて麻醉粘著せしめ、觸手を縮めて物を食ふ個體の口の處まで近づけてやるのである。その外、別に生殖のみを司どる個體が處々に塊つて居るが、これは大小の粒の集まりで、恰も葡萄の房の如くに見える。「くだくらげ」の一群體はかやうに種々雜多に變形した個體の集まりで、各種の個體は生活作用の一部づつを分擔し、餌を捕へる者はたゞ捕へるのみで、これを食ふ者に渡し、食ふ者はたゞ食ふだけで、餌が口の傍に達するまで待つて居る。浮く者は浮くだけ游ぐ者は游ぐだけの役目を引き受けて、他の仕事は何もせず、木の葉の形した個體の如きは、單に他のものに隱れ場所を與へるだけで、殆ど何らの生活作用をもなさぬ。各個體の構造が皆一方にのみ偏して居る有樣は、これを人間に移したならば、恰も口と消化器のみ發達して、手も足もない者、手だけが大きくて他の體部の悉く小さな者、眼だけが無暗に大きな者、生殖器のみが發達して胴も頭も小さな者といふ如き畸形者ばかりを紐で珠數繫ぎにした如くであるが、これが全部力を協せると何の不自由もなしに都合よく生活が出來るのである。

[やぶちゃん注:「くだくらげ」ここで丘先生が挙げている種は刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目 Siphonophora の中でも、気胞体・泳鐘・保護葉を総て持っている点から、胞泳(ヨウラククラゲ)亜目 Physonectae に属する種を指している。胞泳亜目 Physonectae にはヨウラククラゲ科 Agalmidae やバレンクラゲ科 Phrysophoridae など数科に別れるが、中でもここで示された図の形状からみるとヨウラククラゲ科のシダレザクラクラゲ Nanomia bijuga(もしくはその近縁種)を示したもののように推測される。ウィキの「ヨウラククラゲ」(これは内容的には科レベルでの記載と読んだ)には、『その体は複数の個虫が役割を分担するポリプの群体から成り、カツオノエボシの様な管クラゲである。「ヨウラク」の由来は仏壇の飾りの「瓔珞」に似ている事からという説と、揺れて落ちることを意味する「揺落」からの二説ある』とあり、日本の太平洋岸に分布する暖海性外洋性の『透明な棒状の形のクラゲである。長さは一三センチメートル、幅三センチメートルを越えるものも。頂端に小気泡体のある橙黄色の幹から泳鐘が左右二列で数十個連なり、十二角柱型。伸びると、側枝には刺胞叢と八~九回巻いた赤色の刺胞帯がある触手が外に長く垂れる。体はとても脆く、手で触れると泳鐘は簡単にバラバラになる』(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)とあり、私が拘る『しかし、体は脆いとはいえ、カツオノエボシに匹敵する刺胞毒が強い種もいるので、本来は触るべきでない』危険動物指示がしっかりと示されているのが何より嬉しい。なお、代表的なヨウラククラゲ Agalma okenii に同定しなかった理由は、例えばTBSブリタニカ二〇〇〇年刊の並河洋「クラゲ ガイドブック」のヨウラククラゲの記載によれば、Agalma okenii の泳鐘部と栄養部の大きさはほぼ同じ長さ(栄養部がやや太い)で、泳鐘部は二列に並んだ十個の泳鐘が互いに重なり合って十二角柱となっているとあり、その付属写真をみても図の形状とはかなり異なるからである。対するシダレザクラクラゲ Nanomia bijuga の写真は、その群体が頗る細長い。更に同記載には二列の泳鐘が十個以上見られ、その下には泳鐘部の数倍の長さになる栄養部が枝垂桜の枝のような姿形で続いている、とあって本図ともよく一致するからである(同種の分布は本州中部以南沿岸とある)。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 2

 前代のかた見とて、世に殘る物は神社佛閣なり。平時賴建長禪寺を創む、五山の第一たり。大覺禪師を開山祖となす。此禪師は字は蘭溪諱道隆、大宋より後嵯峨の寛元四年に來朝し給ふ。蜀の人なり。そのかみ千光國師榮西建保年中に入滅し給ふ。我世を去つて後三十三年に來朝の僧あるべし、我三十三年の拈香の師に請ずべし、是を布施しまいらせよとて藕糸の袈裟を殘されけり。年月うつりて三十三年の忌を、筑前國羽堅の聖福寺にしていとなみけるに、來朝の憎もなし。讖もあはぬ也といひける所に、半齋ばかりの時分、太宰府に唐船入ぬ。いかなる人やわたりけると尋ければ、大覺禪師此舟にて來朝也。即拈香に請じける。拈香の語は建仁の錄にみへたり。蜀地雲高、扶桑水快、前身後身、兩彩一賽と云々。千光は扶桑の人也、永快とは千光をいへり。大覺は蜀の産也。雲高とは大覺自らいへり、自贊の語なり、前身とは千光をいひ後身とは大覺のみづからいへるなり。合て一人なり。しかれば兩彩一賽といへる也。藕糸の袈裟今に大覺禪師の塔西來院にあり。千光國師三十三年に、大覺齡三十三にして寛元四年に來朝し給ふ。そのかみ千光の遺言、大覺の來朝、千光の三十三年、大覺の歳三十三、誠に符を合するがごとし。又本朝に三十三年ありて後宇多の弘安元年に壽六十六にて入滅ありき。
[やぶちゃん注:「蘭溪諱道隆、大宋より後嵯峨の寛元四年に來朝し給ふ」寛元四(一二四六)年に来日した蘭渓道隆(諡号大覚禅師)は本文にある通り、奇しくも数え三十三歳であった。
「蜀の人なり」蘭渓道隆は南宋の西蜀(現在の四川省)の出身。
「榮西建保年中に入滅し給ふ」本邦の臨済宗開祖である栄西(諡号千光国師)は建保三(一二一五)年に享年七十五で示寂している。蘭渓の来日は三十一年後であるが、示寂の年からの数え年とすれば三十二年で、事実とすれば驚くべき予言の当確とすべきであろう。
「拈香」は、本来は香を抓まんで焚くことであるが、ここは「拈香文」、禅僧が拈香の後に死者に哀悼の意を表して朗読する文を指し、その儀の主催者とすることであろう。
「藕糸」は「ぐうし」と読み、蓮の茎や根の細い繊維。蓮の糸の意。
「筑前國羽堅の聖福寺」現在の福岡市博多区御供所(ごくそ)町にある聖福寺。建久六(一一九五)年)に、南宋より帰国いた栄西が宋人の建立した博多の百堂の跡に創建した寺で、これが日本最初の禅寺であり、禅道場である。「羽堅」という地名は不詳、識者の御教授を乞う。
「讖」「シン」と読み、予言の意。
「半齋」「はんとき」。凡そ一時間。
「建仁の錄」建仁寺の記録の謂いであろう。禅・天台・真言の三宗兼学の建仁寺は建仁二(一二〇二)年に源頼家の外護により栄西が建立した。三宗兼学であったのは当時の京で真言・天台の既存宗派の勢力が強大であったからであったが、正元元(一二五九)年にはまさにこの蘭渓道隆が第十一世住職として入寺、純粋禅の寺院となった。創建から五十七年後のことであるが、栄西は別の讖(しん)で、自分の示寂の五十年後には本邦で禅宗が最も盛んになるであろう、とも予言しているのである。
「蜀地雲高、扶桑水快、前身後身、兩彩一賽」「大覚禅師語録」に「上堂蜀地雲高扶桑水快前身後身一彩兩賽昔年今日死而不亡今日斯晨在而不在諸人還知落處麼良久香風吹萎花更雨新」とあり、四句目が異なるが、「賽」は優劣や勝負を競うことで、謂いは沢庵の理解でよいであろうと思われる。]

船室から 萩原朔太郎 (詩集「宿命」版)

 船室から

 

 嵐、嵐、浪、浪、大浪、大浪、大浪。傾むく地平線、上昇する地平線、落ちくる地平線。がちやがちや、がちやがちや。上甲板へ、上甲板へ。鎖(チエン)を卷け、鎖(チエン)を卷け。突進する、突進する水夫ら。船室の窓、窓、窓、窓。傾むく地平線、上昇する地平線。鎖(チエン)、鎖(チエン)、鎖(チエン)。風、風、風。水、水、水。船窓(ハツチ)を閉めろ。船窓(ハツチ)を閉めろ。右舷へ、左舷へ。浪、浪、浪。ほひゆーる。ほひゆーる。ほひゆーる。

 

[やぶちゃん注:詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)より。「散文詩」という総副題の中にある一篇。]

船室から 萩原朔太郎  (アフォリズム集「新しき欲情」版)

船室から 嵐、嵐、浪、浪、大浪、大浪、大浪。傾むく地平線上昇する地平線、落ちくる地平線。がちやがちや、がちやがちや。上甲板へ、上甲板へ。鎖(ちえん)を卷け、鎖(ちえん)を卷け。突進する、突進する水夫ら。船室の窓、窓、窓、窓、傾むく地平線、上昇する地平線。大洪水、大洪水。風、風、風。扉(どあ)を閉めろ、扉(どあ)を閉めろ。ほひゆーる、ほひゆーる、ほひゆーる、る、る、る…………(暴風雨の幻想として)

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月アルス刊のアフォリズム集「新しき欲情」の「第五放射線」より。「傾むく地平線上昇する地平線」はママ。底本では、このアフォリズムは前に「228」のナンバーを持つ。これは後に後掲するような形に改稿されて、詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)に散文詩として採録されている。]

耳嚢 巻之六 二尾檢校針術名譽の事



 二尾檢校針術名譽の事

 

 二尾檢校城榮(ふたをけんげうじやうえい)は針術に妙を得て、元祿の頃、紀州公へ被召出(めしいだされ)、五拾人扶持を給(たまは)り、猶(なほ)役金等も給りしが、一生無妻にて聊(いささか)欲を不知(しらず)。常に遊所へ至りて遊女を樂しみとなし、公邊に出てもいさゝか隱す事なく、其氣性剛傑ともいふべし。紀州家の愛臣、氣病にて久敷(ひさしく)不快なるを療治せしに、檢校針をおろす夜は何事もなし。當番其外君用(そのほかくんよう)にてまからざる時は其病危し。是を君も聞(きき)給ひて、檢校へ夜詰の勤番不被仰付(おほせつけられられざる)故、夜每に彼(かの)病人の許(もと)に至りぬ。或日座敷に檢校ひとり休息しけるに、女の聲にて賴(たのみ)たき事ありといふ。いかなる事哉(や)と尋(たづね)ければ、此(この)あるじには恨(うらむ)る筋ありて、取付惱(とりつきなやま)すなり、我は野狐なり、我(わが)願ひ御身の鍼(はり)故に成就せざる間、重(かさね)ては鍼を用(もちふ)る事、容捨あるべし、若(もし)いなみ給はば御身の爲にもなるまじといひける故、檢校答けるは、汝(なんぢ)人の命をとらんとす、我は人の命を救ふを業(げふ)とす、況(いはんや)君命を請(うけ)て療治する上は、汝が望(のぞみ)、決(けつし)て承知しがたし、我に仇(あだ)なさば勝手次第、命と業とはかへがたしと申ければ、彼もの大に憤り、檢校の側へ來り、かきむしりて奧の方へ入ると覺へしに、病人以(もつて)の外(ほか)の由、奧より申(まうし)來りし故、早速立入(たちいり)、檢校も右の事を聞(きき)し故、心命を加へて鍼を下(おろ)し療養なしけるに、早速ひらき快かりしが、翌朝大庭へ年古(としふる)狐斃居(たふれゐ)たりしは、誠に檢校の心術の一鍼(いつしん)、其(その)妖は退治せると、其徒のもの、今にかたり傳へしとなり。

□やぶちゃん注


○前項連関:何と怪談四連発。妖狸譚から妖狐譚へと正統的連関でもある。

・「二尾檢校城榮」不詳。諸本に注なし。ネット検索でも掛からない。
・「紀州公」元禄の頃となると後の第八代将軍吉宗の父徳川光貞か、その嫡男徳川綱教の代となるが、ただ「紀州公」と称している点で前者であろう。


・「五拾人扶持」というのはとんでもない石高になる。ネット上の情報から江戸時代の平均的な数値で米に単純換算すると、


一人扶持=五俵=一・七五石=一七五升=一七五〇合=約二六二・五キログラム

であるから、何と、十三トン強だ! それに「役金」(幕府が幕臣に現金支給した役職手当の一種)まで! その人物の情報がまるでないというのも解せない。識者の御教授を乞うものである。


・「勤番不被仰付故」訓読したように、「勤番、仰せ付けられざる故」で問題ないが、底本では右に『(尊經閣本「勤番御免被仰付故」)』と傍注する。これだと「勤番御免、仰せ付けらる故」となり、文意としての通りはこっちの方が自然であるので、現代語訳は後者を採用した。


・「命」「業」前は「いのち」であろうが、後ろは同じく訓で「なりはひ」と読むと、朗読した際、検校の覚悟の台詞としての音(おん)が弛んでしまう気がする。かといって前を「めい」と音にすると、意味が採り難くなる。私は敢えて「命」を「いのち」と読み、「業」を「げふ(ぎょう)」と読んでおきたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 二尾検校の針術名誉の事

 

 二尾(ふたお)検校城栄(じょうえい)殿は、針術の技、絶妙の誉れを以って、元禄の頃、紀州公へ召し出だされ、五十人扶持を給はった上、更に役金(やっきん)などまでも給はれて御座ったが――この御仁、一生妻帯されず、また、聊かの欲をも持たるることなく、普段は遊廓へ参り、遊女らと戯るることを、これ、唯一の楽しみとなされ、公の場に出向かれても、遊廓の遊びのことを、如何にも楽しそうに話されは、聊か隠すことものう――謂わば、その御気性、これ、剛傑と申すに相応しい御方で御座ったと申す。

 さて、ある時、紀州公御寵愛の御家臣、永の気鬱の病いにて、はなはだ宜しからざるによって、二尾殿が療治致いて御座った。

 検校殿が針を下ろいた夜は何事ものう、安泰で御座ったが、検校殿が、お城の宿直(とのい)に当たっておられた折りや、その外の紀州公の御用によって、往診鍼治出来ざる折りには、その病状、甚だ危ういものとなって御座ったと申す。

 されば、これを紀州公もお聞きなられて、検校へは、夜詰宿直(とのい)の勤番の儀、これ、免除の由、仰せつけられたによって、検校殿は毎晩、かの病人の元へと往診療治に参って御座った由。

 そんなある夜のこと、いつもの通り、御家臣方屋敷へ療治に参り、その座敷にて、検校殿お一人、療治の合間とて、少しばかり休息をなさっておられたところ……

……女の声で、

「……頼みたきこと……これ……あり……」

と、申す。

 検校殿は眼の不自由なれば、その声のした方(かた)へと向き直って、

「――如何なることや?」

と質いた。すると、

「……この家(や)の主人(あるじ)には……これ……恨んでおる筋……これ……ありて……憑りつきて悩ませておる……我は……野狐……じゃが……我が願い……御身(おんみ)の鍼(はり)ゆえに成就致さぬ……どうか……重ねては鍼を用いること……これ……容捨あるべし……もし……否み給ふとならば……御身の身のためにも……これ……なりませぬぞえっ……」

と申したによって、検校、答えて、

「――汝、人の命(いのち)をとらんとす。――我れは、人の命を救うを業(ぎょう)とす。――況んや、君命を請けて療治する上は、汝が望み、これ、決して承知し難し!――我に仇をなさんとせば、これ、勝手次第!――命(いのち)と業(ぎょう)とは、これ、替え難し!」
と喝破致いたところが、かのあやかしと思しき女ならんもの、大いに憤った様子にて、検校の側へと、

――ツッ!

と寄り来たった気配の致いたかと思うと、

――シャアッツ!

という、おぞましき叫び声を挙げ、

――シャカシャカシャカシャカッ!

と検校の体を、これ、無体に掻き毟った、かと思うたところが、

――サッ!

と奧の方へと入ったと覚えた――その瞬間――

「……御病人! 以ての外の有り様にて御座いまする!……」

と、奧方より伝令の者、走り出で来たったによって、検校殿、直ちに立ち入られ――既に気鬱の病いの正体も、これ、かくの通りに聞き知って御座ったゆえ――文字通り、心命を賭して鍼を下ろし、強力苛烈なる療治をなされたと申す。……

 されば、かの病人、瞬く間に快癒致いた。……

 翌朝のこと、御屋敷の大きなる庭の隅に……年経た狐が一匹……斃れ伏して御座ったと申す。……

「……まっこと、かの検校の、心魂を込めた一撃一鍼(いっしん)の術……これ、その妖狐を美事、退治致いたので御座る!……」

と、紀州家御家中の方々、この話を今に語り伝えておらるる、とのことで御座る。

鬼城句集 春之部 蛙

蛙    浮く蛙居向をかへて浮きにけり

     事もなげに浮いて大なる蛙かな

罪の拜跪 大手拓次

 罪の拜跪

ぬしよ、この「自我」のぬしよ、
空虛な肉體をのこしてどこへいつたのか。
ぬしの御座は紫の疑惑にけがされてゐる。
跳梁(てうりやう)をほしいままにした罪の涙もろい拜跪は
祈れども祈れども、
ああ わたしの生存の標(しるし)たるぬしはみえない。
ぬしよ、囚人の悲しい音樂をきけ。
據りどころのない亡命の鳥の歌をきけ。
ぬしよ、
罪の至純なる懺悔はいづこまでそなたの影を追うてゆくのか。
ぬしよ、信仰の火把(ひたば)に火はつけられんとする。
死は香爐の扉のやうににほうてくる。

[やぶちゃん注:底本、八行目は、
據りどころ亡命の鳥の歌をきけ。
であるが、意味が通らないため、昭和二六(一九四一)年創元社刊創元文庫「大手拓次詩集」、昭和五〇(一九七五)年現代思潮社刊現代詩人文庫「大手拓次詩集」に拠って訂した。]

北條九代記 實朝卿和歌定家卿批點 付 鬪鷄

      ○實朝卿和歌定家卿批點  鬪鷄

承元元年七月に將軍實朝卿、御夢想によりて和歌二十首を詠じて、住吉の寶殿に奉納あり。この次(ついで)に、去ぬる建永元年より以來の詠歌三十首を藤原定家卿に送り、批點(ひてん)を請ひ給ふ。定家卿、點を加へて返され、詠歌の口傳(くでん)一卷を參せらる。日比、和歌六義(りくぎ)の風體(ふうてい)を實朝卿、尋ね給ひける故なり。この比(ころ)、世も既に靜(しづか)なるに似て、春の空長閑(のどか)なり。三月朔日に永編福寺の梅櫻を北の御壺(つぼ)に掘移(ほりうつ)して植られ、同じき三日には北の御壺に於て鬪鷄(にはとりあはせ)の會(くわい)あり。相州、時房を初(はじめ)て、親廣、朝光、義盛、逹元、景盛、常秀、常盛、義村、宗政等(ら)をその衆として、思ひ思うひに鷄(にはとり)を出して鬪(あはせ)らる。或は距(けづめ)に金(かね)を入れ、或は翼に芥(なたね)を塗りけん[やぶちゃん字注:「或は翼に」の「或」は底本では「成」。誤植と判断して訂した。]、唐(もろこし)の季郈(きこう)、季子(きし)が古(いにしへ)もかくこそありつらめとこの比(ころ)の見物(みもの)なり。

[やぶちゃん注:標題は「實朝〔の〕卿和歌定家〔の〕卿批點(ひてん) 付 鬪鷄(にはとりあはせ)」とルビを振る。私はここまで「〇〇卿」の「〇〇」の後に「の」を入れては読んでこなかったので、これには激しい違和感がある。向後、あっても省略するので、悪しからず。

 本話はクレジットにひどい錯雑がある。実朝が和歌を住吉社に献上し、定家より詠歌口伝を伝授される部分は、「承元元年」(西暦一二〇六年)ではなく、「吾妻鏡」巻十八の承元三(一二〇九)年の七月五日及び八月十三日に基づき、住吉社献が七月、後の伝授は翌月である(本文はともに七月のことのように記してあるのは誤りである)。後半の永福寺北の壺での梅・桜の移植や闘鶏の会に至っては、「承元元年」の「三月朔日」及び同「三日」としているが、甚だしい錯誤で、これは「吾妻鏡」では承元元年の一年前、建永二(一二〇七)年三月一日及び同三日の話である。確認のために以下に示しておく。

 まず承元三(一二〇九)年七月五日の条(七月は「吾妻鏡」ではこの一条のみである)。

〇原文

五日丙申。將軍家依御夢想。被奉二十首御詠歌於住吉社。内藤右馬允知親〔好士也。定家朝臣門弟。〕爲御使。以此次。去建永元年御初學之後御歌撰卅首。爲合點。被遣定家朝臣也。

〇やぶちゃんの書き下し文

五日丙申。將軍家、御夢想に依つて、二十首の御詠歌を住吉社へ奉らる。内藤右馬允知親〔好士なり。定家朝臣の門弟。〕御使たり。此の次でを以つて、去ぬる建永元年、御初學の後の御歌卅首を撰(えら)み、合點(がつてん)の爲に、定家朝臣に遣はさるるなり。

「好士」は歌人、「合點」は和歌の批評で、その際に秀歌と思うものの肩につける「〽」「○」「・」などの印を附けたことからの呼称。

 

 次に同年八月十三日の条(八月は「吾妻鏡」ではこれと十五日の二条のみ)。

〇原文

十三日甲戌。知親。〔元朝字也。與美作藏人朝親名字著到時。混乱間改之。〕自京都歸參。所被遣于京極中將定家朝臣之御歌。加合點返進。又獻詠歌口傳一巻。是六義風體事。内々依被尋仰也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十三日甲戌。知親〔元は朝の字なり。美作藏人(みまさかのくらんど)朝親と、名字著到の時、混乱するの間、之を改む。〕京都より歸參す。京極中將定家朝臣に遣はさるる所の御歌、合點を加へ返し進ず。又、詠歌の口傳一巻を獻ず。是れ、六義風體(りくぎふうてい)の事、内々尋ね仰せらるるに依つてなり。

割注は、「知親」の元の名前は「朝親」の字であったが、「美作(藤原)蔵人朝親(ともちか)」(生没年不詳。御家人。「吾妻鏡」には承元二(一二〇八)年の五月十七日の条に、実朝の病気平癒祈願のための鶴岡八幡宮での法華経供養の奉行として「美作蔵人朝親」の名で初出し、建暦三(一二一三)年二月に設置された学問所番の二番筆頭にその名が見え、「吾妻鏡」では都合、二十四箇所ほど現われる人物で、承久の乱の後は若狭国大飯郡本郷の地頭に任ぜられて同地に下向した。子孫は本郷氏を称し、鎌倉期には在京の御家人として存続していると、ウィキの「美作朝親」にある)。の名と、「名字著到」(幕府への出勤や公務集合の際に到着と同時に署名した名簿。着到状)の際に混乱を来たすので、「知親」と変えた、の意。

「六義」和歌の六種の風体。紀貫之が「詩経」に於ける詩の六種の分類である六義(内容での区分である風・雅・頌(しょう)と表現上の区分である賦・比・興)を転用して、「古今集」の「仮名序」で述べた六種の歌の作り方。そえ歌・かぞえ歌・なずらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・いわい歌。

 

 次に遡る建永二(一二〇七)年三月一日と「吾妻鏡」でも連続している同三日の条を、纏めて示す。

〇原文

一日丙子。櫻梅等樹多被植北御壷。自永福寺所被引移也。

三日戊寅。於北御壺。有鷄鬪會。時房朝臣 親廣 朝光 義盛 遠元 景盛 常秀 常盛 義村 宗政等爲其衆云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

一日丙子。櫻、梅等の樹、多く北御壺へ植ゑらる。永福寺より引き移さるる所なり。

三日戊寅。北御壺に於いて、鷄鬪(とりあはせ)の會(くわい)有り。時房朝臣・親廣・朝光・義盛・遠元・景盛・常秀・常盛・義村・宗政等、其の衆たりと云々。

 

「距に金を入れ、或は翼に芥を塗りけん」これは闘う鶏が優位に立てるように図られた装備と思われ、鶏の雄の足の後ろ側にある角質の突起である蹴爪(攻撃や防御に用いる)に堅い金属の爪を被せたり、相手が啄みを入れて攻撃してくる翼部分に芥子菜(からしな)から採った辛子(からし)を塗り込んだりしたものであろう、という筆者の推測部分である。増淵氏は「金を入れ」の部分を「金箔を散らしたり」と多分に装飾的な意味合いで訳されておられるが、私は以下の故事から「金属の爪」採る。

「唐の季郈、季子が古」周の敬王三年(紀元前五一七年)のこと、当時の魯国では三桓(魯の第十五代君主桓公の子孫である孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏)が権力を握っており、中でも季孫氏(季子・季孫意如)が最大勢力を持ち、それに郈氏(季郈・郈昭伯)・臧(そう)氏といった大夫が反発を高めていた。ある日、季孫氏と郈氏が闘鶏をしたが、季孫氏は鶏に鎧を着させ、郈氏は鶏に金属の爪をつけて戦わせ、季孫氏の鶏に勝ったために季孫氏は郈氏に対して深く恨みを持ったという。一方では、季孫氏が屋敷地の拡張を行い、郈氏の敷地を侵犯したため、郈氏も季孫氏へ遺恨を深くしていた。期を同じくして臧氏も季孫氏と対立し、郈氏と臧氏は魯の昭公を巻き込んで、季孫氏の討伐開始しようとした。ところが、昭公が郈氏と臧氏の提案する強硬策を肯んぜず、その内に季孫氏方からの武力行使が始まってしまう。季孫氏と昭公の対立という構図が明らかになると、三桓の他の二氏孟孫氏と叔孫氏も季孫氏を支持、結局、昭公は敗れて斉に亡命した、という故事を踏まえる(以上は主に中国在住の日本人の方のブログ「中国生活の日記」の中国史年表一二一周敬王二 魯昭公出奔 周敬王復位の記載を参照させて戴いた)。]

一言芳談 一一八

   一一八

 

 又云、あの阿波介(あはのすけ)が念佛も、源空が念佛も、またくもて同じ念佛なり。助け給へ阿彌陀佛、と思ふ外は、別の念を發(おこ)さざる也。

 

〇阿波介が念佛、此の男、もとは陰陽師(おんみやうじ)なりしが、上人に歸依して弟子となる。きはめておろかなりしものなり。念佛に申しやうなし。智者の申(まうす)も、愚者の申も、おなじ事なり。

 

[やぶちゃん注:Ⅱの大橋氏注に、「法然上人行状絵図」(第十九)や「決答授手印疑問鈔」(巻上)にも見える、とある。後者は正嘉元(一二五七)年良忠撰。

「阿波介」浄土宗公式ウェブサイトの「あらゆる階層の帰依者たち 阿波の介」によれば、生没年未詳で、『法然上人に帰依した信者。京都伏見に住した元陰陽師』であったが、七人の妻を持ち、酒色に溺れて『悪業をなすことをつねとしていた貪欲非道の人』であったが、その後、法然に出会って感化を受け、蓄えた財産を七人の妻に分け与えて出家した。播磨国への行脚の途次、道に迷った際、『現世の旅路ですら先達(せんだつ)が必要である。まして後生浄土の道には善知識が必要である』と悟って法然の弟子となった。以後、法然に常に従って念仏を称えたが、彼は常に百八つの念珠二連を持ち、一連で念仏をし、もう一連で数を採ったとされる。ある時、法然が『「私と阿波の介の念仏のどちらが勝っているか」と弟子の聖光房に尋ねると「同じはずがありません」と聖光房。すると「日ごろ何を学んでいるのか。助けたまえと申す念仏に勝劣があるわけがない」と語った』とあり、本話柄の原形がこれであることが知れる。晩年は『平泉金色堂に行き端座合掌し念仏を唱えながら往生したと伝えられてい』る、とある。]

2013/03/17

藝術家の原罪 萩原朔太郎

       藝術家の原罪

 通常の人が、通常の仕方ですることには、どんな快樂をも感じ得ないといふこと。これが藝術家の宿命を決定してゐる、原罪的の不幸である。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「詩と文學」の冒頭にある「1 詩――詩人」の九番目。私は芸術家でないが、妙に納得してしまうアフォリズムである。]

耳囊 卷之六 未熟の狸被切事

 

 未熟の狸被切事 

 

 石谷某(なにがし)の一族の下屋敷に妖怪出ると聞(きき)、其主人或夜泊りけるに、丑みつの頃、月影にて、障子にうつる怪敷(あやしき)影ありしゆえ、密(ひそか)に立(たち)て俄(にはか)に右障子をひらきしに、白髮の老姥(らううば)あり。何者也やと聲を懸しに、彼姥(かのうば)答へけるは、某(それが)しは此屋敷の先主の妾(そばめ)なりしが、なさけなく命を召れしゆえ、今以浮(いまもつてうか)む事なし、哀れ跡ねんごろに弔ひ、此屋敷にひとつの塚堂をもきづき給はらん事を賴(たのま)んと思ひけれど、恐れて聞請(ききうく)る人なしといゝければ、あるじのいわく、妾ならば嬋娟(せんけん)と年も若くあるべきに、白髮の老姥、何とも合點ゆかずと尋しに、年久敷(ひさしき)事なればむかしの姿なしと答(こたへ)ける故、死しても年はよるものやと、拔打(ぬきうち)に切り付ければ、きやつと云ふて影を失(うせ)ぬ。夜明てのりをしたひ尋(たづね)しに、山陰の眞の内へ血ひきて、穴ありければ切(きり)崩して見けるに、年を經し狸なり。堂塚を建させ、供物抔貪(むさぼら)んと巧(たくみ)しが、未練なる趣向故、きられけるならんかと、語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:珍しくも怪談三連発だが、あんまり怖くない。

 

・「未熟の狸被切事」「みじゆくのたぬききらるること」と読む。

 

・「石谷某」底本の鈴木氏注に、『イシガヤ。四家ある。同氏で最もよく知られたのは、天草の乱に板倉重昌の副官として征討軍を率いて出陣した貞清』とある。ウィキ石谷氏」には遠江石谷氏の知られた人物として以下の人物を挙げている。

 

   《引用開始》

 

石谷政清

 

遠江石谷氏の祖。通称は十郎右衛門。今川義元・氏真・徳川家康に仕える。

 

石谷貞清

 

政清の孫で徳川家旗本。島原の乱や慶安の変で活躍した。江戸北町奉行を勤める。石谷十蔵の氏神という石ヶ谷明神が掛川市にある。

 

石谷清昌

 

佐渡奉行、勘定奉行、長崎奉行などを歴任し、田沼意次の行政に深く関与したとされる。

 

石谷穆清

 

石谷貞清の末裔で幕末の徳川家旗本。江戸北町奉行を勤める。安政の大獄に関与したとされ、大老・井伊直弼の片腕的存在と言われる。

 

   《引用終了》

 

最後の穆清は「あつきよ」と読むが、本記載の「石谷某」とは、まさに石谷清昌とこの穆清の間にいた人物であった可能性が高いか。ただ、岩波版では長谷川氏は注しておらず、鈴木氏や私が、この遠江石谷氏であると思い込んでいるだけ、同定は論理的ではあるまい。そもそもこれを「いしがい」と読めば、土岐石谷氏となり、「いしや」と読めば、また異なるらしい。一応、「いしがい」と現代語訳では読んでおく。

 

・「妾」一応、「そばめ」と読んだが「めかけ」かも知れぬ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「妻」とあって問題がない。

 

・「嬋娟」容姿の艶(あで)やかで美しいさま。

 

・「のり」血糊。後の「血」も「のり」と読むべきである。

 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 未熟の狸の切らるる事 

 

 石谷某の一族の話であると申す。

 

 石谷(いしがい)家下屋敷に妖怪が出るとの噂が立って御座ったゆえ、ある夜のこと、かの主人石谷殿御自身、直々にお泊りになった。

 

 丑三つの頃、月光皓々たる中、御寝所の障子に映る、怪しき影のあったによって、石谷殿、そっと立つと、さっと! その障子を開けた――

 

――と

 

――そこに

 

――白髪の老婆が

 

――これ、佇んで御座った。

 

「――何者じゃッ?」

 

と、石谷殿が厳しく誰何(すいか)致すと、その老嫗(ろうおう)、

 

「……それがしは……この屋敷の先主(せんしゅ)の妾(そばめ)であったが……その主人……非情にも……それがしの命を召され……今……以って……浮かばれようがない……ああっ!……どうか!……それがしが……跡を……これ……懇ろに弔い……この屋敷内(うち)に……一つの塚堂をも……これ……築いて下されんことを頼まんと……ずっと先(せん)より……思うてまいったれど……それがしの姿を恐れて……誰(たれ)一人……聞きいれて呉るる人……これ……なし……」

 

と答えて御座った。しかし、石谷殿、

 

「……そなたの話柄を推し量るれば――妾(そばめ)とならば――これ、嬋娟(せんけん)として、年も若(わこ)うあるべきに――白髪の老嫗とは――これ、何とも合点がゆかぬ!」

 

ときつく糺いたところ、

 

「……いや……そ、その……年久しきことなれば……その……昔の面影は……これ、のうなったればこそ……」

 

と、何やらん、しどろもどろに答えたによって、石谷殿、すかさず!

 

「――死にても! これ! 歳は取るものやッ?!」

 

という一喝とともに、抜き打ちに斬りつけたところ!

 

――キヤッツ!

 

と、人ならざる声を挙げて――姿は、これ、消えて御座った。

 

 夜明けて、庭先から点々と続く……血糊(ちのり)の跡を……これ……ずうっと……辿ってみたところが……

 

……屋敷近くの小高き山の……その陰の……藪の中(なか)へと……血(ちい)は……引き垂れて御座って……

 

……そうして……その血(ちい)……一つの……斜面の穴の中へと……続いておった……

 

 さればそこを掘り崩して見たところが――

 

――歳経た狸の死骸が一つ

 

――転がり出た……と申す…… 

 

「……堂塚なんどをも建てさせ、捧ぐるところの供物なんぞを貪(むさぼ)らんと企(たくら)んだものにても御座ろうが……如何にも未熟なる化け様(よう)なれば、他愛ものう、斬られてしもうたものででも……御座ろうかの……」

 

とは、この話を聴いた私の感想で御座った。

小百合さん、……

昨日、友人らに逢いに行く途中、電車の窓からJR東日本の「大人の休日倶楽部」のポスターを見た――
「大人になったら、したいこと。」
と、小百合さんが呟いている――
「小百合さん、大人になったら、したいこと――それをしたら――僕はすっかり淋しくなってしまいました……」
と、心の中で呟いていた――

注:僕は実は吉永小百合を俳優としてはあまり評価していない。演技が上手いとも思わないし、よく朗読をされるが、彼女の声は私は朗読向きの声とは思わない(はっきり言うと彼女の声は決して「よくない」「綺麗ではない」のである)し、朗読自体も決して上手いとは思っていない。……しかし……しかし、私が物心ついた中学一年生の時の生徒手帳には……若き日の吉永小百合のブロマイドが入れてあったし……そうして……実は今、私の持っている定期入れにも……アリスの生後一ヶ月の写真と対で……彼女の遣いきったテレホン・カードが入れてあるのである……。

裸體の森 大手拓次

 裸體の森

 

鏡の眼をもつた糜爛(びらん)の蛇が、

羚羊(かもしか)の腹を喰ひやぶる蛇が、

凝力の強い稟性(ひんせい)の痴愚を煽つて

炎熱の砂漠の上にたたきつぶす。

冷笑の使をおびた駝鳥が奇怪なづうたいをのさばらす。

死ね……

淫縱の智者よ、

芳香ある裸体の森へゆかう。

なめらかな氈(かも)の上に 化粧の蛇は媚をあふれこぼす。

 

[やぶちゃん注:「稟性」生得の性質。天賦の質。天性。]

鬼城句集 春之部 燕

燕    曇る日や高浪に飛ぶむら燕

     田のくろに猫の爪研ぐ燕かな

     濁流や腹をひたして飛ぶ燕

     大瀧を好んで飛べる燕かな

一言芳談 一一七

  一一七

 

 法然上人、常の御詞(おんことば)に云く、哀(あはれ)、今度(こんど)しおほせばやなと、其時、乘願房申さく、上人だにもか樣(やう)に不定(ふぢやう)げなる仰(おほせ)の候はんには、まして其余(そのよ)の人はいかゞ候ふべきと。其時、上人うちわらひて、の給はく、蓮臺(れんだい)にのらんまでは、いかでか此思ひはたえ候ふべき、云々。

 

〇哀、今度しおほせばやなと、しおほせばやなとは極樂往生のことなり。

〇蓮臺にのらんまでは、決定往生の道理にはうたがひなけれども、まさしく其境見つくるほどの事はなきなり。西要抄に、むかへの蓮を見てこそと、いぶかしさをのこされければとある、これなり。くはしくは諺注にしるしたれば見るべし。

 

[やぶちゃん注:法然の言葉は実に爽やかな風の匂いがするようだ――微かな蓮の花の香りをのせた……

本篇本文はⅠに拠らず、Ⅲに拠った。Ⅰでは法然の語録を意図的に集中させた「安心」の分類項の二番目に配されて、冒頭も「又云、あはれ此度しおほせばやなと」と大きく異なっているからである(但し、以下に見る通り、Ⅰの方が法然の直話の原形に近いものとは判断される)。標註の引用部もここでは変えた。

「御詞」Ⅱの大橋氏注に、「法然上人行状絵図」の第十一、「和語燈録」巻五、「閑亭後世物語」巻上にもある旨の記載がある。「和語燈録」とは道光(望西楼了慧)の編になる法然の遺文・消息・法語などを集成した、文永一一(一二七四)年から翌年にかけて成立した「黒谷上人語燈録」全十八巻の内、中下巻(十一巻以降)の和語(一巻から十巻までは漢語)で書かれたものを指す。法然滅後六十余年の時期において法然の遺文等定本化を図り、教義や信仰上の準拠たらしめんとしたものである(「和語燈録」部分は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。「閑亭後世物語」は隆寛(久安四(一一四八)年~安貞元(一二二八)年)の書いた法然の伝記。「和語燈録」には(ネット上テクストを正字化して示す)、

ある時又の給はく、あはれこのたびしおほせばやなと。

その時、乘願申さく、上人だにもかやうに不定げなるおほせの候はんには、ましてその余の人はいかが候へきと。

その時上人うちわらひての給はく、蓮臺にのらんまでは、いかでかこのおもひはたえ候べきと。

但し、末尾に「閑亭問答集よりいでたり」と割注があるから、これ自体が「閑亭後世物語」辺りから引いて来たものらしい。

「今度しおほせばやな」今度こそしっかりと極楽往生をし遂(おお)せたいものだなぁ。

「西要抄」向阿証賢(こうあしょうけん)が元亨年間(一三二一年~一三二四年)に書いた「三部仮名鈔」(総称)を構成する「帰命本願鈔」(三巻)・「西要鈔」(二巻)・「父子相迎」(二巻)の一つ。和文で浄土宗の教義を説く。

「諺注」は「げんちゆう(げんちゅう)」と読み、俗語による注釈のこと。当時の現代語による注釈の意であろう。「西要鈔諺注」は実はⅠの「標注増補一言芳談抄」の作者湛澄によるもの。これ、自己の著作の宣伝である。]

沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」 1 (昨日公開分は破棄して注を大々的に施した) 始動

 

鎌倉巡禮記   澤庵宗彭

 

 

 

[やぶちゃん注:本書は有名な臨済僧沢庵宗彭(たくあんそうほう 天正元(一五七三)年~正保二(一六四六)年)の記した鎌倉紀行である。その簡単な行程は以下の通りである。

 

寛永一〇(一六三三)年十一月

 

一日 江戸を出立。

 

二日 金沢称名寺の零落の跡を見る。

 

三日 夕刻に入鎌して雪の下に宿をとったが、折柄、十一月初卯の祭日で、夜には鶴岡八幡宮の祭儀を見る。

 

四日 極楽寺などを経て、腰越から船で江の島を参詣。

 

五日 この日以降、旅の目的であった五山の巡礼を順次行っている。

 

なお、この前後からの沢庵についての事蹟をウィキの「沢庵宗彭」より引いておきたい。江戸幕府成立に伴い、寺院法度などによって寺社への締め付けが厳しくなったいたが、特に、沢庵が住持を直前に勤めていた大徳寺のような『有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられた。これらの法度には、従来、天皇の詔で決まっていた大徳寺の住持職を幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められた。』寛永四(一六二七)年、『幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り、前住職の宗珀(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝(たんでん)、東源(とうげん)らとともに、反対運動を行った』。寛永六(一六二九)年、『幕府は、沢庵を出羽国上山に、また宗珀を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪とした(紫衣事件)。上山藩主の土岐頼行は、流されてきた名僧沢庵の権力に与しない生き方と、「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、歌人でもあった沢庵に草庵を寄進した。沢庵はここを春雨庵と名づけこよなく愛したといわれている。頼行は藩政への助言を仰ぐなどして沢庵を厚遇した』。寛永九(一六三二)年、『大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され』、沢庵の人となりに引かれていた天海や柳生宗矩、春日局の補佐役で家光に仕えた『祖心尼の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。宗矩は姉が石田三成の名臣島左近の妻であり、祖心尼は娘が三成の外孫にあたる岡吉右衛門の妻であり(その間に生まれたのが家光の最初の側室自証院で、自証院は祖心尼の孫娘であると同時に三成の曾孫でもある)、また祖心尼が前夫に離縁されて妙心寺にいた時に帰依したのが前述した三成の長男の宗亨であることから、沢庵が赦免された理由や、後に家光の要請を受け入れた理由は、石田家を通じて彼らと沢庵が互いの人物を知っていたためと考えられる(白川亨「石田三成とその子孫」)。 沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた「不動智神妙録」は、「剣禅一味」を説き、禅で武道の極意を説いた最初の書物である。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、同年冬より駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ』、寛永一一(一六三四)年の『夏までここに留まった』。

 

 まさにこの時期に、本「鎌倉巡礼記」に記された鎌倉行脚があったのである。

 

その後、『宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、将軍・徳川家光が上洛し、天海や柳生宗矩・堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は家光に謁見した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになった。同年、郷里出石に戻ったが、翌年に家光に懇願されて再び江戸に下った。沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった』。寛永一六(一六三九)年、『家光は萬松山東海寺を創建し沢庵を住職とする。家光は政事に関する相談もたびたび行ったが、これは家光による懐柔工作であると考えられている。それは逆に言えば沢庵の影響力がいかに強かったかを示している。正保元』(一六四四)年には『土岐頼行が東海寺に上山の春雨庵を模した塔中を、沢庵のために建立した。晩年の沢庵が多くの諸侯の招きを拒絶しながら家光の要請を受け入れたのは、前述の経歴から見て、彼が終生にわたって』旧友であった故石田『三成を慕い、三成ゆかりの人間が周辺に多かった家光に好意を持ったためと考えられる。沢庵は最終的に紫衣事件において幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らへ紫衣を完全に奪還し、無住状態の大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯を揺らぎないものにしたのである』正保二年十二月十一日、『沢庵は江戸で没した。「墓碑は建ててはならぬ」の遺誡を残しているが、円覚山宗鏡寺 (兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺(東京都品川区)に墓がある』とある。

 

 底本は吉川弘文館昭和六〇(一九八五)年刊の「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」所収のもの(これ自体は沢庵自筆本を底本としたとされる「国文東方仏教叢書」所収本を底本としている)を用いたが、私のポリシーに則り、恣意的に正字化した。各形式段落の後に私が必要と判断した注を附した。漢詩文については白文で示した後に注を入れて底本の訓点に従って書き下したものを示した。藪野直史【ブログ始動:二〇一三年三月十六日】]

 

 

 

鎌倉巡禮記

 

 

 

 宮柱ふとしき立てゝ萬代に今ぞさかえむ鎌倉の里ときこえしは、そのかみ三浦の一黨賴朝におもひ付申て、北條より此里へむかへいれ奉りてより、威光めでとふして、天下を掌のうちに治め給ひけるとか。鳩峯とをく鶴岡にうつります神垣も、宮柱いやましに立そひ國よろづ代の祝歌なるべし。本より神と佛は水波のへだて一躰異名なれば、本地をあらはせば西方の化主、日の本にあとをたれ給ふ。神佛如々なれば瑞垣もへだてなく、神の宮寺には東方の化主醫王善逝を安置し、ゆふべあかつきの鐘のひゞき無常の夢をおどろかし、四方かためとて里の四隅に四箇の律寺を創め國泰民安の祈をつとめ、佛の威儀をあらはし衆生を利益し給ふ。わが禪法流布の時や至けむ、後鳥羽院の建久二年に明庵榮西禪師大宋より歸り、土御門の建仁には洛陽河東に禪寺を立、顯密を兼おかる。順德院の建保三年に鎌倉に實朝の時壽福寺をたてらる。是、五山のその一也。惣じて上をうやまひ、下をめぐみ、現當をかねつとめられけれ共、夙因のつむ所やうすかりけむ、現在の果報家にみじかくして、獅子身中の蟲とかや、身のうちにて身をやぶる事と成、實朝はやく公曉のために失はれ給ひて家たじろぎぬれど、萬代のちかひや里に殘けむ、後の九代鎌倉殿とかしづかれ、天下は一人の天下にあらず、道有て代をしづめ給ふ人の天下なれば、家は平にかわれども洪基をひらき給ふは源也、中垣の隔をいふは人の情なり。

 

[やぶちゃん注:「宮柱ふとしき立てゝ萬代に今ぞさかえむ鎌倉の里」「金槐和歌集」雑之部に載る源実朝の歌。「続古今和歌集」に入集。

 

「三浦の一黨賴朝におもひ付申て、北條より此里へむかへいれ奉りてより」頼朝の父義朝は鎌倉に館を持ち、逗子の沼浜にも別邸があって三浦氏(当時の当主は三浦義明)との関係も深く(三浦義明娘は義朝の側室となったとされる)、配流中の伊豆の頼朝をも陰ながら援助していたから、入鎌を最も歓迎したのは三浦氏であったことは確かであるが、実際に鎌倉への入城を強く慫慂したのは下総国の在庁官人であった千葉常胤やその従兄弟に当たる上総介平広常(鎌倉に居館を持っていた)らであったと思われる。「吾妻鏡」の治承四(一一八〇)年九月九日の条に使者として遣わしていた側近安達盛長が帰参し、頼朝に告げた内容の中に、

 

〇原文

 

常胤云。心中領狀更無異儀。令興源家中絶跡給之條。感涙遮眼。非言語之所覃也者。其後有盃酒次。當時御居所非指要害地。又非御曩跡。速可令出相摸國鎌倉給。常胤相率門客等。爲御迎可參向之由申之。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

 

常胤云はく、「心中の領狀(りやうじやう)、更に異儀無し。源家中絶の跡を興さしめ給ふの條、感涙、眼(まなこ)に遮(さいぎ)り、言語の覃(およ)ぶ所に非ざるなり。」てへり。其の後、盃酒有る次いでに、「當時の御居所は指せる要害の地に非ず、又、御曩跡(なうせき)に非ず。速やかに相摸國の鎌倉に出で令め給ふべし。」

 

とある。「曩跡」とは曩祖(父祖)伝来の地の意。

 

「鳩峯」分社された鶴岡八幡宮の本体である石清水八幡宮のこと。男山(別名鳩ヶ峰)山上に鎮座することからの別称。

 

「神垣」一応、私は「かみがき」と訓じておくが、他にも音で「しんゑん」、当て読みで「たまがき」「みずがき」とも読める(但し、後で「瑞垣」とあるの、「みずがき」とは読んでいないと思われる)。

 

「水波のへだて一躰異名」「神と仏は水波の隔て」神と仏とは丁度、水と波との如く、ただ形が違うだけで元来は同体のものである、という謂い。

 

「化主」教化(きょうけ)の主の意で、仏のこと。

 

「如々」真如(しんにょ)のこと。ありのままの姿。万物の本体としての永久不変の真理。宇宙万有に遍在する根元的実体。法性(ほっしょう)、実相とも言う。

 

「醫王善逝」「善逝」は仏、如来の意で、薬師仏、薬師如来のこと。新編鎌倉一」の鶴岡八幡宮の「上宮」の条に、

 

上宮(かみのみや) 此即ち上(かみ)の地、本社應神天皇なり。此の地を元松岡(もとまつがをか)と云。上の山を大臣(たいしん)山と云。【鶴岡八幡宮記】に、上宮(かみのみや)三所は、中は應神天皇、東は氣長足妃(をきながたらしひめ)、應神の御母(はは)神功皇后也。西は妃(ひめ)大神、應神の御姊(あね)也。然(しかれ)ば應神の御父(ちち)仲哀天皇は、何れの處に坐し給へる乎(や)。曰く、神宮寺に、本社垂跡合體にて坐し給ふ也。上の宮三所は、阿彌陀の三尊の義に依る也。仲哀天皇は、本地は藥師なる故に之を除きて奉るなりとあり。本殿は、竪(たて)九間、横三間、幣殿(へいでん)は四間に三間、拜殿は、四間に二間なり。

 

とある。

 

「四方かためとて里の四隅に四箇の律寺を創め」「創め」は「つくらしめ」か「はじめ」と訓じていよう。「四箇の律寺」不詳。有力な真言律宗の寺となると、極楽寺・金沢の称名寺・新清涼寺釈迦堂(江戸時代に廃寺(時期不詳)。海蔵寺の東の谷戸名として清涼寺ヶ谷と残る。宗旨は不詳ながら、弘長二(一二六二)年に鎌倉に下向してきた西大寺流律宗の叡尊が滞在している)・多宝寺(廃寺。浄光明寺の東の谷戸名として多宝寺ヶ谷と残る)などがあるが、最後の二つは近接しており、東南の隅の寺が見当たらない。識者の御教授を乞う。

 

「建久二年」西暦一一九一年。

 

「土御門の建仁には洛陽河東に禪寺を立、顯密を兼おかる」「兼」は「かね」と訓ずる。建仁二(一二〇二)年に栄西が源頼家の外護によって京都東山に建仁寺を建立したことを指す。創建当時の建仁寺は天台・真言・禅の三宗並立であった。これは当時の京都では真言・天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にあるが、創建から半世紀以上経た正元元(一二五九)年には宋僧蘭渓道隆が十一世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となった(建仁寺の記載部分はウィキ建仁寺に拠った)。

 

「順德院の建保三年に鎌倉に實朝の時壽福寺をたてらる」「建保三年」は西暦一二一五年であるが、この記述は誤りである。寿福寺は源頼朝が没した翌年の正治二(一二〇〇)年に北条政子が栄西を開山に招いて創建している。これは栄西が建保三年に享年七十五歳で寿福寺で病没したことと誤認したものと思われる(但し、終焉の地を京都とする説もある)。

 

「現當」「げんたう(げんとう)」と読み、現世と来世のこと。現未。「げとう」とも読む。

 

「夙」「つとに」と読む副詞。早い時期から。以前から。その初めから。実朝の命運のことを指している。

 

「家たじろぎぬれど」源家の嫡流は絶えてしまったが。

 

「後の九代」私の北條九代記」の冒頭注で示したように、北条時政から高時に至る鎌倉幕府を実質支配した北条得宗家九代(時政①・義時②・泰時③・時氏・経時④・時頼⑤・時宗⑧・貞時⑨・高時⑭。名前の後の数字は執権次第で時氏は二十八歳で早世しており執権になっていない)のことを指す。

 

「家は平にかわれども」北条氏は平氏である。

 

「洪基」「鴻基」とも書く。大きな事業の基礎。大業の基い。

 

「中垣の隔をいふは人の情なり」「中垣の隔(へだて)」人との仲を隔てるものの譬えで、『まあ、源家の嫡流が三代で途絶え、結局、平氏である北条が実権を握ったのだから、鎌倉幕府と言ったって内実は悪しく変質しているではないか、とちゃちゃを入れたくなるのは、これ、ありがちな人の情ではある』といった意であろう。]

 

 然るに此家も數代かさぬれば、上をうやまひ下をめぐむ心うすらぎ、侈に家かたぶきて、其後尊氏公天下の武將として、一統の代となりて、都には長男義詮皇圖を守護し給へば、關東をば二男基氏にあづけ給うてこの里はとこしなへにさかえけらし。

 

[やぶちゃん注:「侈に」「ほしいままに」と訓じていよう。

 

「皇圖」「くわうと(こうと)」で、天子の領土。]

 

2013/03/16

北條九代記 黑谷源空商人流罪 付 上人傳記

      ○黑谷源空商人流罪  上人傳記

 

元久三年四月に改元あり、建永元年と號せらる。次の年十月に又改元あり、承元(しようげん)と號す。かく改元のありけるも、世の中内外(うちと)に付けて靜(しづか)ならざる故なるべし。承元元年二月に黑谷上人法然房源空を讃岐國に流罪せらる。彼の上人は、本は美作國久米南條稻岡(くめのなんでういなをか)と云ふ所の人なり。父は漆間(うるまの)左衞門尉時國と名付く。讐敵(しうてき)の爲に夜討(ようち)せられ、時國、害せられしかば、母に隨ひて、當國菩提寺の觀覺得業生(くわんがくとくごふせい)の弟子となり、後に叡山に登りて、阿闍梨皇圓(くわうゑん)の門弟として、剃髮受戒し、學文(がくもん)を極め、又、源光阿闍梨に師とし仕(つかへ)て、宗(しう)の淵底(えんてい)を明(あきら)め、遂に隱遁して、黑谷睿空(えいくう)法師の許に行きて、念佛の門に入り、法然道理(はふねんだうり)の人なりと申されしとり法然房と名を付(つ)き、又初の師源光、今の師睿空の一字を取合せて、法名を源空とぞ名のられける。四十三にして、浄土念佛の宗門を立てて、東山黑谷に居て、是を勸められしかば、その門弟三百餘人、其外貴賤の男女參(まゐり)集りて、念佛す。九條前〔の〕關白太政大臣藤原兼實公(こう)は月輪殿(つきのわどの)と申しけるが、源空上人の念佛に歸して、崇敬(しうきやう)ありし所に、後鳥羽上皇の宮女二人戒を受けて尼(あま)となる。上皇逆鱗ましまして、その弟子授戒せし住蓮安樂をば六條河原にして首(かうべ)を刎(は)ね、法然房は流罪せられ、その外上足(そく)の弟子諸國に配流せられたり。是より五年の後、勅免あり。建暦二年正月二十五日、八十歳にして吉水(よしみづ)にて遷化あり。

[やぶちゃん注:浄土宗及び浄土真宗の元祖法然(長承二(一一三三)年~建暦二(一二一二)年)の流罪と略伝。以下、ウィキ法然」から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略し、柱の標題の頭に□を附した)。

   《引用開始》

□生い立ちと出家・授戒

長承二年(一一三三年)四月七日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国(うるまときくに)と、母・秦氏君(はたうじのきみ)との子として生まれる。生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。

『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延七年(一一四一年)九歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。その才に気づいた観覚は、出家のための学問をさずけ、また、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。

その後、天養二年(一一四五年)、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安三年(一一四七年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。久安六年(一一五〇年)、皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、十八歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である。法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(一一五六年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)や醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)などに遊学した。

□浄土宗の開宗

承安五年(一一七五年)四十三歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで浄土宗を開き、比叡山を下りて東山吉水に住んで、念仏の教えを広めた。この年が浄土宗の立教開宗の年とされる。法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。

養和元年(一一八一年)、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。

文治二年(一一八六年)、大原勝林院で聖浄二門を論じた。これを「大原問答」と呼んでいる。

建久元年(一一九〇年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経を講ずる。 建久九年(一一九八年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。叙述に際しては弟子たちの力も借りたという。

元久元年(一二〇四年)、後白河法皇十三回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)にその法要の場面が描かれている。

□延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難

元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟一九〇名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、元久二年(一二〇五年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(一二〇七年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。

念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。

法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国(実際には讃岐国)に流罪となった。なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。

□讃岐配流と晩年

讃岐国滞在は十ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現・香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、七十五歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。法然を偲ぶ法然寺も高松市に所在する。

承元元年(一二〇七年)十二月に赦免されて讃岐国から戻った法然が摂津国豊島郡(現箕面市)の勝尾寺に承元四年(一二一〇年)三月二十一日まで滞在していた記録が残っている。翌年の建暦元年(一二一一年)には京に入り、吉水にもどった。

建暦二年(一二一二年)一月二十五日、京都東山大谷(京都市東山区)で死去した。享年八十(満七十八歳没)。なお、死の直前の一月二十三日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。

法然の門下には弁長・源智・信空・隆寛・証空・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、式子内親王・九条兼実・宇都宮頼綱らが著名である。

   《引用終了》

「得業生」「とくごふしやう(とくごうしょう)」とも読む。元来は古代の学制の一つで、明経・紀伝(文章)・明法・算の各道の学生(がくしょう)から成績優秀の者を選んで与えた身分を指したが、それが僧の学階にも用いられるようになり、奈良では三会(さんえ:円宗寺の法華会と最勝会及び法勝寺の大乗会の三つの三代法会。)の立義(りゅうぎ:「竪義」とも書き、法会に際して学僧を試験するために行われた問答論議の儀式。探題(たんだい)が問題を出して問者(もんじゃ)が難詰、試験を受ける竪者(りっしゃ)がこれに答える儀式。)を勤め終えた僧の称号となり、比叡山では、横川(よかわ)の四季講(横川の四季講堂で行われる恵心講二十五三昧式)と定心房の三講(やはり比叡山横川にあった元三大師良源の住房定心房で四季に行われた法華経講義。定心房は別名、四季講堂と呼ばれた)が建の聴衆を勤めた僧の称号となった。ここでは後者の比叡山。

「月輪殿」九条兼実の山荘の名。]

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 戸塚 /(掉尾) 「金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻」全篇終了

本記載を以って「金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻」の全篇の注釈附き電子テクスト化を終了した。



   戸塚

 

 去年(きよねん)の『金草鞋(かねのわらじ)』、伊豆の國の一見よりひきつゞき、箱根の七湯(なゝゆ)廻(めぐ)りから、江の島鎌倉をまはり、ながながの道中つゝがなく、心をなぐさめ、命の洗濯(せんたく)して、これから長生(ながいき)する種をまき、めでたく江戸へ歸(かへ)り道、今宵(こよひ)は戸塚の宿(しゆく)の中村屋にとまり、もはや、明日(あす)は江戸入(い)り。旅の名殘なれば、互ひにその身の無事をよろこび、酒くみかはして、めでたく、この紀行(きかう)の筆をとめけるぞ、またまた、めでたし、めでたし。

〽狂 達者(たつしや)にて

     りゝしく

 かへるあしもとは

これあつらへの

  紺(こん)のたびなれ

「女どもが、ひさしい願ひで、箱根の道中から戻りに、江の島鎌倉を見たいといつたが、これで、なにも言分(いひぶん)はあるまい。その代はり、誰(たれ)でも、これからは、儂(わし)がいふことを、なんでもきかねばならぬが、承知であらうの。」

「あいあい、それはもふ、あなたの方(ほう)からおつしやらぬ先(さき)に、妾(わたし)どもの方からもちかけませう。その代はりには、來年、また、伊勢參宮から大和廻(めぐ)りがいたしたうござりますから、つれていつてくださりませ。」

「それはこの『金草鞋』に伊勢參宮はあつたが、まだ、大和廻りや播州(ばんしう)廻りはない。それに、西國(さいこく)も長崎まで大阪から船路(ふなぢ)はあつたが、陸路(りくみち)がないから、おいおいに、かくであらう。」

「だんなの女子(おなご)は、申しつけておきました。」

 

[やぶちゃん注:「一見」漢字表記。「いつけん」と読ませているのであろう。

「中村屋」鶴岡節雄氏校注「新版絵草紙シリーズⅥ 十返舎一九の箱根 江の島・鎌倉 道中記」(千秋社昭和五七(一九八二)年刊)の脚注に、「金草鞋二編東海道」にも出てくる旅籠屋とする。最後にはやっぱりタイアップ広告であったか。]

 

 

 

   (掉尾)

 

年々(としどし)、あいもかはらぬ『金草鞋(かねのわらじ)』、幸ひに御評判(へうばん)をゑて、版元の、よく辛抱(しんぼう)、その喜び、すくなからず。今年、廿四編にいたる。なにとぞ、あいかはらず、御評判、よろしくねがひあげたてまつるにこそ。

 

おさまれぬ

  御代(みよ)とてかねの

          わらじまで

  長刀なりに

    きれぬめでたさ

 

[やぶちゃん注:最後の狂歌は、作家仲間でもあった山東京伝などが受けた寛政の改革での手鎖処罰出版差し止め辺りを皮肉ったものであろう。]

耳囊 卷之六 執心の說間違と思ふ事

 

 執心の說間違と思ふ事

 

 駒込邊の醫師にて、予が許へ來る與住(よずみ)など懇意なりしが、信州邊の者にもありけるか、輕井澤とかの食賣女(めしうりをんな)を妻に成してくらしけるが、容儀うるはしきにもあらず、いかなる譯にて妻とせしかと疑ひける由。しかるに、同じ在所の者、娘を壹人召連(めしつれ)、身上(しんしやう)も相應にもありけん、彼(かの)醫者の許に來りて、去る大名の奧へ右の娘を部屋子(へやご)に遣し、追(おつ)ては奉公も爲致(いたさせ)候積りなれども、江戶表ゆかりの者多けれど、町家よりは、醫者の宿なれば格好も宜(よろしき)とて、ひたすら賴ける故、醫者もうけがひて宿になりしに、彼娘煩ひ付(つき)て醫者の許へ下(さが)り居(をり)しに、療治に心を盡すのみならず、快(くわい)に隨ひて彼娘と密通なしけるを、妻なる女深く妬(ねた)み恨(うらみ)けれど、元來食賣女なしける身故ゆかりの者もなく、見捨(みすて)らればいかにせんと思ひけるか、或日家出して失(うせ)ぬ。驚きて所々尋ければ、兩國川へ身を投(なげ)んとせし處を取押(とりおさ)へ連れ歸りて、いかなる心得違(ちがひ)なりやと或は叱り諫(いさめ)けるが、五六日過て二階へ上り、夫の脇差にて咽(のど)を貫ぬき果(はて)ぬ。せん方なく野邊送りしけるが、何となく其所にも住憂(すみうく)て、跡を賣居(うりすゑ)にして他所へ移りしに、右跡の家を座頭買得て來りしが、金子二三十兩も出して普請造作して引移りぬ。ある夜、女房眼を覺し見しに、屛風の上へ色靑ざめし女兩手をかけて内を覗く故、驚ろき夫を起しけるに、夫は盲人の事故、曾て不取用(とりもちひず)、新(あたらし)きの處へうつりし故、心の迷ひよりかゝる事申(まうす)なりと叱り、とりあへぬに、兩三日續きて同樣なれば、彼妻堪(たへ)がたく、夫へかたり、いかになさんと歎きし故、同店(おなじたな)のものへかたりしに、此家はかゝる事もあらん、かくかくの事にて先の店主(たなのあるじ)の醫師の妻、自殺せしと語りける故、座頭の坊も怖敷(おそろしく)やなりけん、早く其處を引拂ひて轉宅せしとや。靈魂の心殘りあるとも、彼醫者の轉宅せし先へは行べき事なるに、譯もしらぬ座頭の許へ出で其人をくるしむる事、靈鬼にも心得違なるもあるなりと、語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:珍しい本格怪奇譚の二連発である。但し――冒頭の如何にも取柄のないように見える女を妻としているのかという謎が明かされぬままに、少女との密通が生じ、妻が神経症的になって、入水未遂を起こし、遂には喉を突いて自死、不吉な家を転売して、医師は去り(密通した少女はどうしかのか書かれていない)、後半のお門違いの妻の亡魂出現譚となる(それも転居のシーンで断ち切られる)辺り――展開が下手で消化不良気味の上に、話柄が前後で折れてしまっている感じがある。作話可能性がいや高い話柄なればこそ、もっとなんとかならなかったのかなあ、という気がする。現代語訳では、このジョイントの綻びを継ぎ接ぎするため、[根岸注]という架空の訳を追加してある。悪しからず。

 

・「與住」本巻の「威德繼嗣を設る事」に既出。与住元卓。「卷之一 人の精力しるしある事」に初出する人物。根岸家の親類筋で出入りの町医師。根岸一番のニュース・ソースの一人である。

 

・「輕井澤」軽井沢宿。軽井沢は長野県佐久地方にある地域名で、現在の長野県北佐久郡軽井沢町旧軽井沢地区や軽井沢町全体を指す。この一帯は江戸時代には中山道が通る宿場町で、中山道難所の一つとして知られた碓氷峠西側の宿場町として栄えていた(碓氷峠は江戸寄りの隣の宿場町坂本宿との間にあった)。軽井沢付近には軽井沢宿(旧軽井沢)の他に沓掛宿(中軽井沢)・追分宿(信濃追分)が置かれており、この三宿をまとめて「浅間三宿」と呼称した。浅間山を望む景勝地として有名であった(以上はウィキの「軽井沢」に拠った)。

 

・「食賣女」底本では右に『(飯盛)』と傍注する。体を鬻ぐのが、本業であった。

 

・「部屋子」大名屋敷の御殿女中の下で私的に召し使われた少女。部屋方(へやがた)。身分の高い武家への奉公の場合、身元保証が第一であるため、多くの場合は形の上で旗本の養女となったり、相応に公的に認められた人物を保証人として奉公に上がった。

 

・「宿」(この場合は奉公人の)身元保証人。

 

・「賣居」家屋を内部の造作をそのままに売ること。商店売買の際の「居抜き」に同じ。

 

・「驚ろき夫を起しけるに、夫は盲人の事故、曾て不取用、新きの處へうつりし故、心の迷ひよりかゝる事申なりと叱り、とりあへぬに、」この部分、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 

 驚ろきて夫を起しけるに、「心の迷にてかゝる事申也」と叱り取敢(とりあへ)ぬに、

 

とある。私は「夫は盲人の事故、曾て不取用」の部分、如何にもな謂いであって、差別的な嫌味な笑い部分である。そこで、ここを除去した、

 

 驚ろき夫を起しけるに、新きの處へうつりし故、心の迷ひよりかゝる事申なりと叱り、とりあへぬに、

 

で訳した。但し、差別的な擽りは擽りとして、後の場面に少し出して、原話の「差別性」を示しておいた。そこは、当時の視覚障碍者に対する差別感情に対して批判的にお読み頂きたい。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 執心の思い見当違いとしか思われぬ事 

 

 駒込辺に住んで御座った医者で、私の元に出入り致す医師与住元卓などが懇意に致いておった者なるが――出が信州辺りの者ででもあったが――何故か、軽井沢宿とかの飯盛女(めしもりおんな)をしておった女(おなご)を妻として暮らして御座った。

 

 ところが、与住曰く、

 

「……それが……その妻なる者……これ、容貌も姿態も……全く以って、麗しきところ、これ、一つも御座らぬ。……こんな女(おなご)……一体、如何なる訳にてか、妻と致いたものやら……と、疑いの湧くほどで御座った。……」

 

と語り出した……その話。……

 

[根岸補注:読者諸士に予め断っておかねばならぬが、現在はこの医師は、行方知れずと相い成って御座って、従って与住は、その疑問の真相を明かす手立てを失ったと申しておる。]

 

   ■

 

 ……然るに、ある時、その医師の信州辺りの里の者――これ、身上(しんしょう)も相応に豊かなる者が、娘を一人連れて、彼の元へと相談に参り、

 

「……さる大名の奥向きへ、この娘を部屋子(へやご)に遣わすことと相い成り、ゆくゆくは正規の御女中となって屋敷奉公など致さするつもりで御座れど、江戸表には親類縁者の者も多くは御座れど、これ、町家の者よりは、まずは、お医者様の家(うち)より奉公さすれば、これ、世間体も宜しゅう御座ればこそ。どうか……」

 

と頻りに頼まれたによって、かの医師も肯(がえ)んじて、娘の身元引受の保証人となったと申す。

 

 ところが、その娘、奉公に上がるやいなや、患い臥してしもうたによって、保証人たる医師の元へと宿下がり致いて、療養なすことと相い成って御座ったと申す。

 

 さても……かの医師は……勿論、この娘を心を尽くして療治致いた……いや……療治ばかりにては、これ、御座らなんだ……病いの快気致すに従い……この娘と……これ……密通を成して御座ったと申す。……

 

 医師の妻は無論、深く妬(ねた)み、恨んで御座ったれど――元来が田舎の街道筋の宿場の、一介の賤しき飯盛女で御座ったによって、また、その過去を近所にても陰口囁かれて御座ったによって――思い切って、このことを相談出来るような知り合いも、これ、おらなんだのであろう、

 

『……あの人に……捨てられてしもうたら……どうしよう……』

 

と思い悩むばかりにて日を暮して御座った。

 

 そうして、ある日のこと――思い余って――突如、家出を致いて姿を消した。

 

 医師は驚いて、方々を捜し回る。

 

[根岸補注:与住が言うに、この時、医師は自分の娘との密通が妻には知らておらぬと思っておったらしい。]

 

 やっとのことに、両国川に身を投げんとするところを辛くも見出し、取り押さえて連れ帰り、

 

「……い、如何なる思い違いを致いて、こ、このようなことを!……」

 

と、妻の……

 

――ボソッ――ボソッ――

 

――と微かに呟く……

 

――その思いつめた……

 

――密通への恨みつらみは……

 

これ、聴こえざる振りを致しつつ、或いは強く叱りつけ諌めて、その場は、まずは気を鎭めさせて御座ったと申す。……

 

 ところが、それから五、六日後のこと、

 

――妻なる者……

 

――医師宅の二階へと走りのぼったかと思うと……

 

――そこに置かれてあった夫の脇差を抜き放ち……

 

――一突くに!

 

――喉(のんど)を貫いて果てて御座ったと申す。……

 

 医師は仕方のう、妻の野辺送りを致いたが、流石に、妻が恨みを以って自死致いた、その家(いえ)に住んでおるのも気鬱となり、家財道具一切を据え置いたままに転売、他所(よそ)へ引き移ったと申す。

 

[根岸補注:与住が言うに、ここら辺りまでは、その野辺送りの後の精進落としの席にて、その医師本人が告白致いたものとのことで御座る。また、医師の転居(それ以降、この医師と与住とは音信もなく、行方知れずと相い成った申す)以下の話は、後日、与住の知れる者で、かの医師の旧宅近くに住もうておる者からの聞き書きと申す。]

 

   * * *

 

 ……さて暫く致いて、その家を、さる小金持ちの、目明きの女を妻帯して御座った座頭が買い取って、引っ越して参ったと申す。

 

 金子(きんす)二三十両ほども費やして、外内の普請造作(ふしんぞうさく)なんども小綺麗に作り変え、ようようと引き移って御座ったと申す。

 

 ところが、引っ越してすぐの、ある夜のこと、座頭の女房が、ふと、目をさますと……

 

……枕元に立てた屏風の……

 

……向こうから……

 

……色青ざめた女が独り……

 

――ダラリ――

 

……と、両手をこちらに越しかけて……

 

……寝所の内を覗いて……おる!……

 

 座頭の妻は驚き、大声で夫を起こした。

 

 ところが、夫たる座頭は、

 

「……まんず、新しき所に引き移ったによって……これ、枯れ薄の類いじゃ!……心の迷いにて、そのような戯けたことを申すのじゃ!……」

 

と叱りつけて取り合わなんだと申す。

 

 ところが――それから三晩も続いて――同様の怪異があったによって、妻は恐れ戦き、いっかな、堪え難く、夫に縋りつくと、

 

「……ほんに! 青白き女がッ!……」

 

と泣き叫んだによって、夫座頭、流石に困って、隣人の者へこの話を致いたこところが、

 

「……お前さん……ここを買うについて……聴いて居なさらぬか?……そうか……ここの先の持ち主は、お医者で御座ったが……その医師の妻……これ……この二階にて……喉(のんど)を一突き……自殺して……御座ったんじゃ……」

 

とばらしてしもうたゆえ、流石に――己には青白き恨み女の幽魂は、これ、見えざるものの――座頭も怖しくなったので御座ろう、早々にそこを引き払って、また転宅致いたとか申す。

 

   ■

 

「……幽鬼の心残りがあったとしても、これ、かの医師の転居致いた、その先へこそ化けて出るべきことで御座ろう。……何の関係もない座頭夫婦の所へ出て、彼らを恐懼(きょうく)さするというは、これ、霊魂にも、とんだ心得違いのあるもので御座るかのぅ。……」

 

とは、与住の最後の感想で御座った。

鬼城句集 春之部 蠶

蠶    菜の花に煤掃をする飼家かな

     口腫れて桑にもつかずお蠶休

     [やぶちゃん注:「お蠶休」は「おかいこやす

      み」と読む。これは蚕が脱皮をする間を言

      い、休眠して桑を食べない期間のことであ

      る。これについては平成二十二年度総務省

      「地域ICT利活用広域連携事業」に採択さ

      れているプラットフォーム構築事業のウェブ

      サイト伝統文化養蚕」の項によ

      れば、春蚕(はるご)・夏蚕・秋蚕・晩秋蚕

      (ばんしゅうさん)・晩々秋蚕(ばんばん

      しゅうさん)と五回の掃立(はきた)て(孵

      化した蚕を蚕座に移して飼育を開始する作業。

      羽箒をもって毛蚕を掃き下ろすことからかく

      言う)があるが、蚕があがるまでには「お蚕

      休み」がそれぞれ四回あるとし、このお蚕休

      みの折りには、『餅・ぼたもち・赤飯・まん

      じゅう等を作り、疲れた体をいたわります。

      しかし、この頃はお蚕が休んでも農繁期にあ

      たり九月末まで忙しくお蚕に追われます』と

      ある。]

     いさゝかの蠶してゐる渡守

秋 大手拓次

  秋

 

ものはものは呼んでよろこび、

さみしい秋の黄色い葉はひろい大樣(おほやう)な胸にねむる。

風もあるし、旅人もあるし、

しづんでゆく若い心はほのかな化粧づかれに遠い國をおもふ。

ちひさな傷のあるわたしの手は

よろけながらに白い狼をおひかける。

ああ 秋よ、

秋はつめたい霧の火をまきちらす。

 

[やぶちゃん注:一行目、不審。校合すべき所載本がないのではっきりとは言えないが、これは、

ものはものを呼んでよろこび、

の誤植ではなかろうかと思われる。

 ネット上で検索をかけた結果、「日本詩人愛唱歌集 詩と音楽を愛する人のためのデータベース内に「藍色の蟇」(白鳳社版「大手拓次全集」の第一巻及び第二巻)があり、そこでは「ものを」となっているのを見出した。

 以下に「ものを」とした全詩を再度、掲げておく。

 

  秋

 

ものはものを呼んでよろこび、

さみしい秋の黄色い葉はひろい大樣(おほやう)な胸にねむる。

風もあるし、旅人もあるし、

しづんでゆく若い心はほのかな化粧づかれに遠い國をおもふ。

ちひさな傷のあるわたしの手は

よろけながらに白い狼をおひかける。

ああ 秋よ、

秋はつめたい霧の火をまきちらす。

 

但し、私は白鳳社版「大手拓次全集」を所持しておらず、現時点では確認したわけでもないことは断っておく。]

一言芳談 一一六

   一一六

 

 鎮西の本覺房、明遍に問ひ奉りて云、心もし散漫せば、其時の稱名、善にあらず。心をしづかにして後、唱ふべきなりと申し候ふは、いかゞ用意すべく候(さふらふ)らん。答へて云、其は上機(じやうき)にてぞ候はん。空阿彌陀佛がごときの下機(げき)は、心をしづむる事は、いかにもかなひがたければ、念珠の緒(を)をつよくして、亂不亂(らんふらん)を論ぜず、くりゐてこそ候へ。心のしづまらん時と思はんには、堅固念佛(けんごねんぶつ)申さぬものにてこそ候はんずれ。

 

〇散漫、萬境に心のちるなり。

〇上機、すぐれたる心なり。

〇空阿彌陀佛、明遍僧都なり。

 

[やぶちゃん注:「本覺房」不詳。Ⅱの注で大橋氏は「浄土伝燈総系譜」を引かれて、その『中の「長楽寺流総系譜」に「隆寛律師―智慶―隆慶―能念―観念―本覚』(割注で「本覚の下に『住筑前粥田弘教』(筑前粥田(かいた)に住し、教へを弘む)とある)の最後にある『本覚かと推定される』と記されておられる。長楽寺流は、東山の長楽寺に住した法然門下の皆空房(かいくうぼう)隆寛(久安三(一一四八)年~安貞元・嘉禄三(一二二七)年)によって伝えられた系統。参照したウィキアーカイブ長楽寺には、『多念の称名によって臨終の往生が確実になるとするので、多念義とも呼ばれるが、隆寛自身の教学を多念義とするのは適切ではない』とある。また、筑前粥田とは筑前国鞍手郡(現在の福岡県鞍手郡宮田町)の三分の一を占めた荘園粥田荘(かいたのしょう)のこと。立荘事情は不明だが北条政子により高野山金剛三昧院に寄進されて鎌倉幕府の保護を受けた(「粥田荘」については平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「いかゞ用意すべく候らん」これ訳そうなら、

――念仏法を修するに当たっては、如何なる修法前の心得を致すが肝要で御座ろうか?――

といった感じで採りたい。「一言芳談」の作者がどう考えたかは別として、本覚房なろ人物が多念の称名が臨終の往生を確実とする多念義を唱道する布教者であったなら、明遍に対するに、慇懃無礼にして智で武装したトリック・スターとして登場させるに若くはない――と私は考えるからである。

「空阿彌陀佛」標註にあるように、明遍自身のこと。Ⅱの大橋氏の注に、当時の「空阿彌陀佛」と号した人物には『有智の空阿弥陀仏と無智の空阿弥陀仏』の二人があって、『明遍は有智の空阿弥陀仏と呼ばれた』とある。法然の教えを忠実に守り、経典などは一切読まず、日夜称名念仏に専心、極楽の「七重宝樹の風の響き」や「八功徳池の波の音」を思わせるとして風鈴の音を殊の外に愛し、法然をして「源空は智徳をもて人を化するなを不足なり。法性寺の空阿彌陀佛は愚痴なれども、念佛の大先達としてあまねく化導ひろし。我もし人身うけば大愚痴の身となり、念佛勤行の人たらん」と言わしめたという「無智の空阿彌陀佛」、法性寺の空阿弥陀仏(同大橋氏注によれば「天王寺瓦堂本願」とも称されたとある)については参照したウィキ空阿弥陀仏に詳しい。明遍ウィキ。)

「心のしづまらん時と思はんには、堅固念佛(けんごねんぶつ)申さぬものにてこそ候はんずれ。」優れた謂いである。「堅固念佛申さぬもの」は、これで1フレーズで、「まことの思いを込めた念仏を申すことが全く出来なるということ」という名詞節を形成している。即ち、明遍は、

……それは……上機――往生のすぐれた機縁――を持っておる場合のことにて、御座る。……

……心落ち着かぬ煩悩の海のただ中にあって、下機の――機縁の如何にも低き凡夫たる――我れ、「空阿彌陀佛」明遍の如きは……これ……

……心を鎭めることなどは、如何に致いても叶い難きことなればこそ……

……ただただ、数珠の緒を強きものに替えて、断ち切れることのように致しまして……

……心が乱れておるか、おらぬかなんどは……これ、意に介さず……

……ただただ念仏申して……

……只管(ひたすら)に念珠を繰って……坐して御座る。……

……本覚房殿?……心が鎭まる時を俟って念仏を申そうなんどと思っておっては……

――まことの念仏を申すことなど――これ――出来ずなる――のでは、御座るまいか、の?……

と答えているのである。

……そうして……そうしてここで私は思い出すのだ……「こゝろ」のあの……先生の述懐を……

 

「最初の夏休みにKは國へ歸りませんでした。駒込のある寺の一間を借りて勉強するのだと云つてゐました。私が歸つて來たのは九月上旬でしたが、彼は果して大觀音(おほかんのん)の傍(そば)の汚ない寺の中に閉ぢ籠つてゐました。彼の座敷は本堂(ほんたう)のすぐ傍の狹い室でしたが、彼は其處で自分の思ふ通りに勉強が出來たのを喜こんでゐるらしく見えました。私は其時彼の生活の段々坊さんらしくなつて行くのを認めたやうに思ひます。彼は手頸に珠數を懸けてゐました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する眞似をして見せました。彼は斯うして日に何遍も珠數(じゆず)の輪を勘定するらしかつたのです。たゞし其意味は私には解りません。圓い輪になつてゐるものを一粒づゝ數へて行けば、何處迄數へて行つても終局はありません。Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰(つまぐ)る手を留(と)めたでせう。詰らない事ですが、私はよくそれを思ふのです。……

 

(引用はの電子テクストより)]

2013/03/15

中島敦漢詩全集 二

   二

韶光已遍柳絲長
四月庭除氣正爽
紅紫好薰風信子
朱黄奪目鬱金香
花英絢爛如濃抹
嫩綠蒼々似淡妝
誰謂此家無一物
萬金芬郁滿茅堂

〇やぶちゃんの訓読

韶光(せうくわう) 已に遍(あまね)くして 柳絲(りうし)長く
四月の庭除(ていじよ) 氣 正に爽(さう)たり
紅紫 薰(くん)好(よ)し 風信子
朱黄 目を奪ふ 鬱金香(うつこんかう)
花英 絢爛として 濃抹(のうまつ)のごとく
嫩綠(どんりよく) 蒼々として 淡粧(たんしやう)に似たり
誰(た)が謂ふ 此の家(や) 一物(いちもつ)も無しと
万金(ばんきん) 芬郁(ふんいく)として茅堂(ばうだう)に滿つ

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「韶光」美しい時節、季節。麗しい春の光を指すことが通常である。「韶」は麗しいという意。晩唐の温庭筠の「春洲曲」に景観美を美女の顔色に擬えた次の句がある。
  *
韶光染色如蛾翠
綠濕紅鮮水容媚
 韶光の染色 蛾翠のごとく
 綠濕 紅鮮 水容 媚たり
  *
・「遍」あまねく。全面的な。
・「柳絲」柳の枝。枝垂れ柳の枝。
・「庭除」庭前の段、若しくは庭園。
・「氣」ここでは自然界の寒暖や天候などのこと、若しくはその現象を指す。
・「爽」明るく澄んだ、軽い、爽やかな、さっぱりした、心地良いなどの字義があるが、ここでは心地よいというニュアンスが強い。
・「紅紫」紅紫色。古代中国では青・赤・白・黒・黄が原色または基本色とされ、紅紫色は中間色であるため一段格の低い色とされた。このほか、紅と紫、または紅の花と紫の花を指す場合がある。本詩ではこのそれぞれの色の花の意で用いられていると思われる。そもそも「紅」と「紫」の二字は相性が良く、現代中国でも「千紅万紫」といえば子供でも口にする基本単語で、様々な花が咲き乱れる様子を言う。
・「薫」草花の薫り。
・「風信子」ヒヤシンス。名はギリシャ神話の美青年ヒュアキントスに由来するという。中国名もその音に由来するものと推測される。中国で栽培が始まったのは十九世紀末で、現代中国では子供でも必ず知っている名詞であるが、伝来が新しいため、古典詩歌での用例を見出すことは出来なかった。
・「朱黄」ここでは前句の「紅紫」と対をなして、単に朱や黄という意で用いられているものと思われるが、「朱黄」とは本来、中国で書籍の校注を行う際に用いられた、朱と黄の二種類の顔料であり、そのイメージが推敲され完成された詩文の如き彫琢の美、というニュアンスをも匂わせているのかもしれない。
・「奪目」文字通り目を奪うこと。
・「鬱金香」チューリップ。「風信子」と同様、現代中国では子供でも必ず知っている名詞。但し、用例は古く、唐代にまで遡ることが出来る。前句の「風信子」と対を成す。
・「花英」花、花の芽、蕾。この場合は花そのものを指すのであろう。
・「絢爛」色彩の美しさが人の目を奪うこと。
・「濃抹」厚化粧。蘇軾の有名な七絶「飮湖上初晴後雨」(湖上に飮み初め晴るるも後に雨ふる)に、
   *
欲把西湖比西子
淡粧濃抹總相宜
 西湖を把(も)ちて 西子と比せんと欲せば
 淡粧 濃抹 總(すべ)て相ひ宜(よろ)し
[やぶちゃん訳:
  西湖を以って西施と比せんとしようとならば
  薄化粧にても濃いそれにても――
   即ち、晴れようが雨降ろうが――
    これ、何れもなかなかに相応しい――]
   *
とある。この「淡粧濃抹」はそのまま(「妝」は「粧」の正字)対としてこの詩に現れる。この蘇軾の詩を受けたものと考えて間違いない。
・「嫩綠」出たばかりの木の芽のような浅緑色。黄緑。前句の「花英」と対を成す。「嫩」は若い、みずみずしく柔らかいという意味で、現代中国でも常用語である。
・「蒼々」白みがかった灰色なさま。広々として果てしないさま。
・「淡妝」薄化粧。「妝」は「粧」の正字。前句の「濃抹」と対を成す語。「濃抹」の項を参照のこと。
・「無一物」物が何もないこと。用例は古くに遡ることが出来る。晩唐の杜牧の「冬至日寄小侄阿宜詩」(冬至の日、小侄の阿宜に寄する詩)に次の句がある。
   *
第中無一物
萬卷書滿堂
 第中(だいちう) 一物(いちもつ)無く
 萬卷の書 堂に滿つ
[やぶちゃん訳:
  我が家の中(うち)には、まあ、これといった物は御座らぬが、
  そうさな、万巻の書だけは、これ、書庫を埋めつくして御座るよ。]
   *
また蘇軾の「涵虚亭」には次の句がある。
   *
惟有此亭無一物
坐観萬景得天全
 惟だ此の亭有りて 一物(いちもつ)無し
 坐して観る 萬景 天全を得るを
[やぶちゃん訳:
  (「虚を涵(ひた)す」という名のこの涵虚亭は)
  見るところ、ただの一亭あるのみにして、他には一物もない。
  ただ座して観る――
   この天下の総ての景観と――
    その遍(あまね)き風情を――]
   *
・「萬金」多くの金銭。若しくは、この上ない価値がある、非常に得がたい、という意。ここでは勿論、後者。
・「芬郁」「芬」は香り、「郁」は濃い様子を表わす。即ち、香りが濃いさま。因みに、「郁」は「鬱」と通じる字であり、ここでは代用が可能である。両字とも同じ発音を持ち、盛んに濃く繁るさまを表わしている。
・「茅堂」草葺、茅葺の建物。自邸を卑下した表現。
 
○T.S.君による現代日本語訳

麗しい春の光は世界に満ちあふれ、柳の枝もさし出ずる。
四月の庭の心地良さよ……
紅 紫 朱 黄 ――
風信子(ヒヤシンス) ――
鬱金香(チューリップ) ――
花の色の絢爛は、まるで麗人のあでやかな化粧。
木の芽の浅緑は、さながら佳人の控えめな薄化粧。
この家に何もないなどとは、もう誰にも言わせぬ。
値(あたい)千金の花 ――
濃厚な香 ――
ほら! もう息苦しいほどだ!
 
〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
 またしても規則を忠実に守った謹厳な七律。「長chang2」「爽shuang3」「香xiang1」「妝zhuang1」「堂tang2」 が脚韻を踏み、第二聯、第三聯がそれぞれ明らかな対句によって構成されている。
 詩情や詩意の推移で見ても、詩人が羽目をはずすことはない。第一聯から第三聯に向かい、少しずつ情緒が高揚していく。しかし詩人は最後までマナーを失わない。漢学を専門に修めた彼の、漢詩に対する当然且つ最低限の作法を、私はここに感じる。内心は恐らく大いに高揚していると推測される第三聯でも、落ち着き払ったまま、蘇軾を踏まえた対句を披露する。そして最終聯では、気分は高揚したまま、しかし声を張り上げることもなく、反語を用いた伝統的かつ堅実な手法で総括を行う。
 しかしこの詩の生命は、以下の仕掛けによって窺える、一種どうしようもない詩人内面の衝動にある。
 まず、色彩である。様々な色彩の盛り付けと彩度の高さも印象的だ。「光」「爽」という字を先陣に背景画を準備したその直後、「紅」「紫」「朱」「黄」と立て続けに繰り出し、その上「金」まで貼りつける。それだけではない。ここまででさえ目くるめく原色の洪水に驚く読者に対して、これでもかと言わんばかりに、さらに「緑」や「蒼」まで惜しげもなく見せつける。こんな大胆なことをしていいのだろうか。私は戸惑ってしまう。
 次に、音である。中国語で朗誦してまず気づくことは、音としての明るさや躍動感だ。全編の中国語発音を記して見よう。

韶光已遍柳絲長 shao2guang1yi3bian4liu3si1chang2
四月庭除氣正爽 si4yue4ting2chu2qi4zheng4shuang3
紅紫好薰風信子 hong2zi3hao3xun1feng1xin4zi3
朱黄奪目鬱金香 zhu1huang2duo2mu4yu4jin1xiang1
花英絢爛如濃抹 hua1ying1xuan4lan4ru2nong2mo3
嫩綠蒼々似淡妝 nen4lv4cang1cang1si4dan4zhuang1
誰謂此家無一物 shui2wei4ci3jia1mu2yi2wu4
萬金芬郁滿茅堂 wan4jin1fen1yu4man3mao2tang2

脚韻字に共通な発音、すなわち口を大きく開けた“ang” (アン)という開放的な音の効果は大きい。脚韻だけではなく、所々に配されたa音も効果的だ。朗誦する者は、冒頭のaoとuangのa音に始まり、その後色とりどりの母音を辿る。そして折に触れて何度か基調音aに帰り、その都度明るい陽射しを確かめることになる。まるで詩意にある様々な色彩を、音で奏でているようだ。
 詩意と音がなぜここまで同期するのだろうか。詩人が念入りに仕組んだのだろうか。いや、そうではなかろう。彼は中国語音にはそれほど通じていなかっただろうから。ではなぜだろう。私は思う、数千年という長い時間をかけて発酵し蒸留された漢語は、その義と音が、実にたくみにブレンドされているからなのだ、と。
 それにしても強烈な詩である。詩人は只管一途に絢爛な世界を追い求めている。息をついて涼しい風の音にじっと耳を傾ける長閑な余裕はない。原色の絵の具をキャンバス上のそこかしこに置いただけのような、息詰まる豪華な色の饗宴。明らかに詩人は意識して創っている。門外漢乍ら、今までの伝統的な漢詩の世界に、こんな光彩の幻暈が果たしてあっただろうか。
 ただひとつ気になることがある。豪華な春は確かに、ある。しかし、錯覚だろうか。私は、どこか詩人が、自分で自分を駆り立てているような気がするのである。そしてそこに、微かだが、ある種の傷ましさを感じてしまうのである。
 具体的に申し上げよう。第三聯の末尾まで来ると、あなたはどことなく息切れを感じはしまいか? 花の香りや草いきれに、ほんの少し息が詰まるような気がし始めはしないか? あまりの色彩の洪水に目がチカチカと痛むような錯覚が起こらないか? そうして、自然体の花園には必ず現れるはずの「陰影」が、ここには、全く見られないことに違和感は覚えないか?
 詩人は思い切り自らの豊穣を、幸福を、輝きを、自分のためだけに、前のめりになって謳っている……。

ご覧……
赤や黄色や紫や
ヒヤシンスにチューリップ
――春がきたぞ! 春まっさかりだ!
あでやかな花も、可憐な新芽も
私の内に! ほらこんなに豊かに!
――春がきたぞ! 春まっさかりだ!

 最後に。近代中国における建築家にして詩人の林徽因(りんきいん Lín Huīyīn リン・フイイン 一九〇四年~一九五五年)の非常に有名な詩を、蛇足を承知で敢えてここにご紹介したい。それは、「四月」、「花」、「嫩」など共通の言葉に敏感に反応してしまったからだけではない。四月の豊穣と充足を詠んだ詩境として、本詩と比較してみたいからである。もちろん男性と女性の感性の違いはある。歌う対象が異なるということもあろう(彼女が本詩で詠んだ対象(モチーフ)は、花ではなくて恋人であるとも、或いは自らの嬰児であるとも推測されている)。しかし私は、詩境の差異に、自分からアクセルを踏む中島敦をどうしても感じてしまうのである。もしも仮に、中島敦が自己防衛と自己再評価のために本詩をものしたのであれば、私はなおのこと、この林徽因の詩を、中国女性からの優しさ溢れる「返歌」として、冥界の彼に読んでもらいたいと思うのである。

  你是人間的四月天
     ―― 一句愛的賛頌
           林徽因

我説你是人間的四月天
笑響点亮了四面風;軽霊
在春的光艶中交舞着変。

你是四月早天裡的雲煙、
黄昏吹着風的軟、星子在
無意中閃、細雨点洒在花前。

那軽、那娉婷、你是、鮮妍
百花的冠冕你戴着、你是
天真、荘厳、你是夜夜的月圓。

雪化後那片鵞黄、你像;新鮮
初放芽的緑、你是;柔嫩喜悦
水光浮動着你夢期待中白蓮。
 
你是一樹一樹的花開、是燕
在梁間呢喃、――你是愛、是暖、
是希望、你是人間的四月天!

   §

   あなたは麗しい四月の空
      ――愛への賛歌
           林徽因 T.S.日本語訳

ああ、あなたは麗しい四月の空
あなたの笑い声は精霊を目覚ませ
春の柔らかな光にステップを踏ませる

あなたは四月の空に浮かぶ雲
黄昏の柔らかい風を吹かせ
星を瞬かせ
軽い雨を花に注ぐ

すらりとした身軽なあなたは、
あでやかな花の冠を戴く
あなたは無邪気で厳かで
夜毎に浮かぶまあるい月

あなたは、まるで雪が解けたあとのクリーム色
あなたは若芽の緑色
あなたは柔らかな悦び
きらめく水の上に揺れる夢の白蓮の花

あなたは木に咲く花
梁の上にさえずる燕の子
――愛、あたたかさ、希望
そう、あなたは麗しい四月の空!

   §

北條九代記 賴家卿の子息善哉鶴ヶ岡御入室

      ○賴家卿の子息善哉鶴ヶ岡御入室
同十二月二日、故賴家卿の御息善哉公(ぜんやぎみ)、幽(かすか)なる御有樣にておはしけるを、尼御臺政子の御計(はからひ)として將軍實朝卿の御猶子(いうし)となし參(まゐら)せ、鶴ヶ岡の別當宰相阿闍梨尊曉(べつたうさいしやうのあじやりそんげう)の弟子と定め、侍五人を相副へて、彼(かの)本坊に御入室ありけり。後は知らず。めでたかりける御事なり。出家し給ひて、禪師公曉(ぜんじくげう)と申せしは、此御事にておはします。今年いかなる年なれば、京、鎌倉、靜(しづか)ならず、人の心も空に成りて、手を握り、足をつまだて、易きに居(を)る者、更になし。故右大將家の御時より、當家に忠義を存ぜし輩或は人の讒言により、或は自(みづから)恨(うらみ)を含みて、身を滅し、家を滅する者、所々に數を知らず。是に依(よつ)て、軍兵日毎に馳(はせ)違ひ、鎧の汗を乾す隙(ひま)なし。あはれ、弓を嚢(ふくろ)にし、太刀を箱にして、大平を歌ふ世もあれかし、今日はかく時めくといへども、明日(あす)如何ならん事の出來て誰(た)が身の上に禍(わざはひ)あるべきも知らぬ憂世(うきよ)の有樣哉と、互に心をおきつ波(なみ)の打解(うちと)くる事もなく、漸々(やうやう)月日もくれはどり、怪(あやし)みながら送り來て、新玉の春を迎へんと、家々取賄(とりまかな)ひ、除夜を祝ふも理(ことわり)なり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十八の元久二(一二〇五)年十二月二日及び建永元(一二〇六)年十月二十日に基づくが、カメラを庶民の位置まで下げてリアルな世上を描き出している。一応、「吾妻鏡」を見ておく。元久二年十二月二日の条。
〇原文
二日甲寅。故左金吾將軍若公。〔號善哉公。〕依尼御臺所御計。鶴岳別當宰相阿闍梨尊曉門弟也。酉尅。渡御彼本坊。侍五人扈從。
〇やぶちゃんの書き下し文
二日甲寅。故左金吾將軍若公〔善哉公と號す。〕、尼御臺所の御計ひに依つて、鶴岳別當宰相阿闍梨尊曉の門弟なり。酉の尅、彼(か)の本坊に渡御す。侍五人、扈從(こしやう)す。

 次に建永元年十月二十日の条。
〇原文
廿日丁夘。陰。左金吾將軍御息若君〔善哉公〕依尼御臺所之仰。爲將軍家御猶子。始入御營中。御乳母夫三浦平六兵衞尉義村献御賜物等。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿日丁夘。陰る。左金吾將軍御息若君〔善哉公。〕、尼御臺所の仰せに依つて、將軍家御猶子(ごいうし)として、始めて營中に入御す。御乳母夫(おんめのと)の三浦平六兵衞尉義村、御賜物(おんたまもの)等を献ず。]

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 三 分業と進歩~(1)

  三 分業と進歩

 

[珊瑚類の分業。群體中の個體八疋だけを示す]

3porip

[左から一番目と八番目との個體は群體の防禦を引き受けるもの

 二番目、五番目、六番目の個體は餌を食ふことを専門とするもの

 三番目、四番目、七番目の個體は生殖を司どるもの]

 

 社會が完結すると同時に生ずることは分業である。身體の連續した動物の群體を見るに、個體の形狀も働きも全部一樣のものもあるが、個體間に分業が行はれ、分擔の仕事が各々專門に定まつて、體の形狀もこれに應じて幾通りか區別の出來るやうになつた種類が頗る多い。淡水に産する苔蟲では一群體内の個體は形がたゞ一通りよりなく、珊瑚などで表面から見える個體は皆形が相同じであるが、珊瑚に似た動物で、「やどかり」の殼の外面に附著した群體を造るものには個體に三種類の別があつて、一種は食物を捕へて食ふことを司どり、一種はたゞ生殖のみを役目とし、他の一種は敵に對して群體を防禦することのみを己が務として居る。この動物の構造は「ヒドラ」を多數集めて、尻の處で互に連絡させ、これを芝の如くに一平面の上に擴げたと想像すれば、大概の見當は附くが、その「ヒドラ」の如き形の個體を調べて見ると、觸手も長く口も發達して、餌を食ふに適すると思はれる形のものが多數を占めて居る間に交つて、形が稍々細く觸手も短いものが幾つもある。そしてこれらのものには、必ず體の中央から恰も柿の木の枝に柿の實が生つて居る如くに、小さな丸い實の如きものが突出して居るが、これが即ち生殖の器官で、成熟すればその中から子が游ぎ出すのである。一群體の内個體は、悉く身體が互に連絡して滋養分はいづれにも行き渡るから、食物を捕へて食ふ役目の個體がよく勉強してくれさへすれば、生殖を司る方の個體は四方から十分に滋養分を得て、盛に子を産み續けることが出來る。

[やぶちゃん注:『珊瑚に似た動物で、「やどかり」の殼の外面に附著した群體を造るもの』これは刺胞動物門ヒドロ虫綱花水母目ウミヒドラ科ウミヒドラ属キタカイウミヒドラ Hydractinia uchidaiを指していると考えられる。キタカイウミヒドラ Hydractinia uchidai は北海道に分布し、ヤドカリ類の入った巻貝の殻上に群体を形成する。マット状のヒドロ根上には、最高七〇本糸状触手を持つ栄養ポリプ、六~十二本の糸状触手を持つ小型の生殖ポリプ、鞭状の指状ポリプ、及び刺が見られ、各生殖ポリプには一本当たり最高で五個の子嚢が形成される。なお、同科のイガグリガイウミヒドラ Hydrissa sodalis (本種はウミヒドラ属に入れる場合もある)は、日本各地に分布するが、巻貝の殻の破片に憑りつき、それ自体が巻貝の介殻に酷似した骨格をそこから形成し、ヤドカリ類がこれを貝殻と同様に棲管として入り込んで棲むという点で特異である。形成する骨格には長さ一〇ミリメートルほどの樹枝状の突起が散在し、各突起はさらに小刺を具備する。更に骨格の殻口付近には指状ポリプが分化して密生し、これは最高二〇個の瘤状をした刺胞塊を持っている。栄養ポリプや生殖ポリプはキタカイウミヒドラに同じい(以上は「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」(保育社平成四(一九九二)年刊)」の記載を参照した)。]

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 離山

   離山

 

 鎌倉の名所古跡一見すみて、それより歸り道は、東海道(とうかいどう)の戸塚(とつか)の宿(しゆく)にいたるに、鎌倉より二里なり。鎌倉をいでゝ離山(はなれやま)といふ立場(たてば)あり。これより戸塚へ一里。

〽狂 旅笠の

ちらちらしろく

 木のまより

見ゆるは

 春(はる)の

  はなれ

   山みち

「はいはい、それ、あぶない、馬(むま)だ、馬だ、のつているおいらも、やつぱり馬だから、傍(かた)よれ、傍よれ。」

「イヤ、このお侍(さふらひ)さまは、『のつてゐる俺(おれ)も馬(むま)だ』といひなさつたが、あのお人は馬、儂(わし)は狸(たぬき)だ。なぜといふに、儂は金玉(きんたま)が大きいものだから、儂の渾名(あだな)を『狸』といふことを、この前、お地頭(ぢとう)さまがおきゝなされて、殿さまが私(わたし)をめされて、

『これ、これ、その方(ほう)は「狸」そうな、腹鼓(はらつづみ)をうて。』

とおつしやるから、いやともいはれず、仕方なしに腹をあけて、たゝいてお目にかけたら、

『さても、よくなる腹だ。その腹がほしい。俺にくれろ。』

とおつしやるから、

『これはあげられませぬ。私の體(からだ)へ造り附けにいたしてござりますから、はなされませぬ。』

といふと、

『いやいや、はなしてとらうとはいはぬ、俺がもらつて、その方へあづけておくが、それが承知なら、もはや、その方の腹ではないぞ、侍といふ者は、いつ何時(なんどき)、どのやうなことがあるまいものでもないから、腹も掛け替(が)へがなくてはならぬ。その掛け替への腹にするのだ。』

とおつしゃるから、

――こいつ、小氣味のわるいこと……

と思ひながら、御扶持(ごふち)をくださることだから、おうけ申しておきましたが、此節(せつ)きけば、お地頭さまに、なにか、間違ひがあつたといふこと。

『さあ、しまつた、掛け替えへの腹をきられてはたまらぬ。』

と、儂はそのまゝ、驅落(かけおち)して、このやうに當(あ)て無(な)しの旅へでかけました。後(あと)では大方(かた)、腹がなくなつたとて、儂は出臍(でべそ)でござるから、出臍を證據(しやうこ)に、腹の詮議(せんぎ)がきびしからうとおもひますから、めつたに臍をだしてはあるかれませぬ。」

[やぶちゃん注:狂歌は惜春の情を詠んでなかなかに風雅であると私は思う。既に掉尾に近く、そうした別れへの一九の思いも込められているのやも知れぬ。

「離山」鶴岡節雄氏校注「新版絵草紙シリーズⅥ 十返舎一九の箱根 江の島・鎌倉 道中記」(千秋社昭和五七(一九八二)年刊)の脚注には、『現在の大船駅東、松竹撮影所の辺にあった三つの丘(地蔵山、長山、腰山)の総称、一面のたんぼの中にあったので、戸塚から鎌倉へめざす旅人の目印であった。都市化した現在は、その面影はない』と、沢寿郎「つれづれの鎌倉」(一九七六年かまくら春秋社刊行)より引用されている。三つの山の名称は「新編相模国風土記稿」によるものであろう。松竹撮影所は消滅して記載が古くなってしまっているため、言い換えると、現在の鎌倉女子大学から鎌倉芸術館、更に大船中央病院及びその南西にある三菱電機を含む、大船五丁目から六丁目にかけてかつて存在した山で、今は五丁目の端にバス停の名として知られる程度である(昔からの住人であった私などには如何にも懐かしい響きの地名であるが、私が物心ついた頃でさえ、赤さびた貯蔵タンクだけが「離山」のイメージであった(そのタンクももうない)。鎌倉一」に、

離(ハナレ)山 山の内を西へ行て、巨福呂谷村、市場村の出口、戸塚道の邊、水田の中に北寄に當て獨立する童山、凡高さ三丈許、東西へ長き三十間餘、實にはなれ出たる山ゆへ名附、往來より二町を隔つ。享德四年六月、公方成氏朝臣を追討として、京都將軍の御下知を承て、駿州今川上總介範忠、海道五ケ國の軍勢を引卒し鎌倉へ發向と聞へければ、鎌倉にても木戸、大森、印東、里見等離山に陣取て駿州勢を待かけ防ぎ戰けれど、敵は目にあまる大軍叶ひがたく、仍て成氏朝臣新手二百餘差向たれど敵雲霞の如く押來れば終に打負、成氏朝臣を初とし、皆武州府中をさして落行と、【大草紙】に見へたるは此時なり。夫より駿州勢鎌倉へ亂入し、神社佛閣を亂妨し、民屋に放火しければ、元弘以來の大亂ゆへ、古書古器等皆散逸せしとあり。偖此離山は四邊平坦の地に孤立せし山にて、西を上として三丈許りの高さより、東へ續き一階低き所あり。爰も高さ一丈餘、樹木一株もなき芝山なり。謂れあるゆへにや土人等むかしより耕耘のさまたげあれとも鍬鋤などもいれざれば、故あることには思はれける。道興准后法親王の歌もあり。或説には當國にふるき大塚有事を聞。されば、此山こそは上古の世の塋域に封築せし塚なるべし。他國にも大塚と地名する伊所はいつくにも有て、大ひなる塚の有ものなり。爰の離山はちいさき山の形に見へけるゆへ、はなれ山とは解しける、其製は畿内及び諸國にも見へたり。下野國那須郡國造の古碑ある湯津上村に、今も古塚の大ひなる數多あり。二級に築しもの多し。此所の山も夫に形相同じ、是は上古の製にて車塚と唱ふ。後世に至りては皆丸く築けり。古えは車塚の頂上えは、人の登らぬ爲に埒をゆひ、一階低き所にて祭奠を行ふやうに造れるものなりといふ。偖また此塚山は何人の塚なるもしれず。當國の府は高座郡にて、早川今泉の邊に國府と稱する地有て、國分寺の舊礎も田圃の間に双び存せり。國造も其邊に住せしなるべし。鎌倉よりは六七里を隔てたり。國造が墳はかしこに有べし。是なる塚はあがれる世には、此郡中に住せし丸子連多麻呂か先祖の塚山にてや有けん。其慥成證跡はしらねど、後の考へにしるせり。

とある。当該項には絵図もあり、更に、私の「離山」についてのオリジナルな考証をもしているので、是非、参照されたい。]

耳嚢 巻之六 作佛祟の事

 作佛祟の事

 

 文化元年の夏、或人來りて語りけるは、御先手(おさきて)能勢(のせ)甚四郎組(ぐみ)與力の内なる由、名も聞しが忘れぬ、庭を作らせけるとや、又井を掘らせけるとやせしに、佛像を掘出(ほりいだ)せしとて、彼(かの)職人あるじに見せける故洗ひ淸め見れば、いかにも能(よき)細工の地藏なり、しかるに、かの主人はかたのごとくかたまり法花宗故、甚不喜(はなはだよろこばず)、いかゞなすべきと、其(その)筋心得し僧俗に見せしに、是は作人(さくにん)はしれねども、いづれ知識の作佛也、大切になし給へと申けるに、主人心よからず、工夫して右を日蓮の立像になさばしかるべしとて、出入の鍛冶(かぢ)へ賴(たのみ)、手に持(もち)し寶珠釋杖(しやくぢやう)をとり除(のき)くれ候やう賴けれど、彼鍛冶も作物と知りて斷りいなみければ、詮方なく、やすりを借り持(もち)歸りて、自身(おのづ)と寶珠釋杖をすり除(の)け、日蓮の像に似たるやう持(もち)成し、堀の内とかやへ持參して開眼などなしけるが、右故にもあるまじけれど、當番に出(いで)し時俄(にはか)に亂心して、色々右の事を申(まうし)、譫言(うはごと)のみ申ける故、早々宿へ歸し段々保養療養を加へしに、むら氣は直りしが、此程はおし同樣、もの言ふ事ならずとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:陰徳の報恩というポジティヴな綺譚から、恐ろしき地蔵像(地蔵菩薩が祟ったのでは、これ、おかしかろう。これは地蔵像の中に潜む、あるまがまがしい何ものかと捉えねばならぬ。だからあくまで「地蔵ではなく「地蔵像」とせねばならぬ)の祟りというネガティヴな呪い話で軽く連関すると言えるか。久々のホラーである(しばしば言われることであるが、一部で怪談集として喧伝されている「耳嚢」には、実は本格怪談は思いの外少ない)が、どうもこれはラストの統合失調症様の妄想多語から緘黙という怪異を描くことより、根岸が大嫌いな「かたまり法花宗」――ファンダメンタル日蓮宗宗徒の、地蔵を日蓮像に勝手に作り替えるという救いようのない悪逆非道の行為を嘲笑することに力が割かれているように思われる。

・「文化元年の夏」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、直近のホットな、しかも公務員の自宅で起きた典型的な怪奇都市伝説(アーバン・レジェンド)である。

・「能勢甚四郎」底本の鈴木氏注で能勢頼護(よりもり)とし、寛政五(一七九三)年御徒頭、とある。

・「甚不喜」日蓮宗では地蔵菩薩を本尊とすることさえ多く、このように地蔵像を軽んずる傾向はない。この風変わりな頑固男自身の好き嫌いであるように思われる。

・「知識」善知識。仏法を説いて導く指導者。名僧。

・「釋杖」底本には右に『(錫杖)』の訂正傍注がある。

・「とり除(のき)くれ候やう」長谷川強氏は岩波版で「除(のぞき)」と訓じておられるが、私は後文に「すり除け」とあって、こちらは「のけ」としか読めず、ここも「のき」と読みを振った。

・「堀の内」東京都杉並区堀ノ内にある日蓮宗本山である日円山妙法寺のこと。ウィキの「妙法寺」に、『初めは碑文谷法華寺の末寺となったが』、元禄一一(一六九八)年、『碑文谷法華寺は不受不施派の寺院として江戸幕府の弾圧を受け、改宗を余儀なされ、身延久遠寺の末寺となった。このころ碑文谷法華寺にあった祖師像を譲り受ける。日蓮の祖師像が厄除けに利益(りやく)があるということで、江戸時代より多くの人々から信仰を集めている』とあって、元は、かの不受不施派ではないか。私がファンダメンタルと書いた謂いが真正にズバり当たっていたという訳である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 仏像の祟りの事

 

 先日、今年文化元年の夏のこと、ある御仁が私の元を訪ねて参って語った話。

 御先手(おさきて)組頭、能勢(のせ)甚四郎頼護(よりもり)殿御支配の与力のうちの一人である由。名も聞いたが、失念致いたとのこと。

 かの者、自邸にて――庭を作らせたか、はたまた、井戸を掘らせたか、その辺りは定かでは御座らぬが――職人を呼び入れて作業をさせて御座ったところ、

「……こんなものを、掘り出だいて御座る。」

と、その人夫が主人(あるじ)に見せた。

――これ、土くれがついた、ごろんとした、こけしのようなもので御座ったと申す。

 洗い清めさせて、よう見てみれば、これ、如何にも、よき細工の地蔵菩薩の像で御座った。

 然るに、この主人(あるじ)は、鋳型に嵌め抜いたような、ガチガチの金丸(かなまり)法華宗で御座ったゆえ、甚だ不興にて、

「……こんなもの……どうして呉れようか。……」

と、仏像に詳しい、その筋を心得ておる、知り人の僧俗なんどに見せたところが、

「……いやいや、これは作者は分からねど、何(いず)れ、善知識の作仏にて御座ることは、これ、明らかじゃ! 大切になさるるがよいぞ!」

と言われて御座ったが、それでも石部金吉コンコンチキの主人(あるじ)、これ、心よからず思うこと頻りにて、

「……これは一つ、なんぞ工夫を加えて、このつまらぬ地蔵を、日蓮上人さまの御立像(おんりつぞう)になさば、これ、よいことじゃ!」

と思い至り、出入りの鍛冶屋(かじや)へ持ち込んで、

「――この像の、手に持ったる寶珠(ほうじゅ)と錫杖(しゃくじょう)を、取り除(の)いて貰いたい。」

と頼んだと申す。

 ところが、その鍛冶屋も、一目見て、これ、ただものにては御座らぬ、崇高なる作物(さくもつ)と見抜いたによって、店頭にて即座に断ったと申す。

 されば、石頭主人(いしあたまあるじ)、詮方なく、鍛冶屋より鑢(やすり)を借りて持ち帰ると、自身にて、寶珠と釋杖をすり除(のぞ)き、さらにやはり手ずから、日蓮の像に似たように、面相・衣服・持物(じぶつ)に至るまで細部を徹底的に改造致いた上、檀家で御座った堀の内の妙法寺とかへ持ち込み、開眼(かいげん)供養なんどまで致いたと申す。

 かようなおぞましき仕儀を致いたゆえ――と申すわけにても、御座るまいが……

 かの者、御徒組当番として出仕致いた折り――これ、俄かに乱心致いて、色々と、件(くだん)の改造日蓮元地蔵の像につき、譫言(うわごと)のような、よう分からぬことを口走り始めたによって、御支配の能勢様より、

「早々に宿へ帰せ。」

とのお達しを受けたと申す。……

 そのまま暫く、自邸にて保養致し、また、療治なんどをも加えて御座ったが……

……その後は……

……最初の喋くりまくる、気違い染みた発作は、これ、直ったとは申すものの……

――今は

……全く以って……

……唖(おし)同様の緘黙と、相い成り……

……一言も、これ、ものを言うことも出来ずなっておる……との由。

復讐としての文學 萩原朔太郎 / 附サントリー・ロイヤルCM

       復讐としての文學

 

 アルチユル・ラムボオは、文學を捨てて人生に入つって行つた。反對に或る人々は、人生を捨てて文學に入つて行く。希望もなく、見捨てられてしまつた人生にまで、悲しい復讐を遂げるために。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の五番目に配されたもの。

 因みに、私はかつてのサントリロイヤル」CMとそこで用いられた Mark Goldenbergマーク・ゴールデンバーグ“Qween Of Swords女王」)が好きで堪らない(かつてのサントリーのCMは飛び切り附きでお洒落だった)。その、

 その詩人は――底知れぬ渇きを抱えて――放浪を繰り返した――

 限りない無邪気さから生まれた唄――

 世界中の詩人たちが蒼ざめたその頃――彼は――砂漠の商人――

 「詩なんかより、美味いお酒を」――などと、おっしゃる――

 (ここでナイフ投げの男が投げたそれがランボーの詩集に突き刺さる)

 ランボー――こんな男――ちょっと、いない――

というナレーションも頗るいい。……いや! 気がついて見れば! このナレーションは! 私の大好きな故草野大悟じゃないか!!!]

鬼城句集 春之部 鶯

鶯    鶯や隣へ逃げる藪つゞき

美の遊行者 大手拓次

 美の遊行者

そのむかし、わたしの心にさわいだ野獸の嵐が、
初夏の日にひややかによみがへつてきた。
すべての空想のあたらしい核(たね)をもとめようとして
南洋のながい髮をたれた女鳥(をんなどり)のやうに、
いたましいほどに狂ひみだれたそのときの一途(いちづ)の心が
いまもまた、このおだやかな遊惰の日に法服をきた昔の知り人のやうにやつてきた。
なんといふあてもない寂しさだらう。
白磁の皿にもられたこのみのやうに人を魅する冷たい哀愁がながれでる。
わたしはまことに美の遊行者であつた。
苗床のなかにめぐむ憂ひの芽(め)望みの芽(め)、
わたしのゆくみちには常にかなしい雨がふる。

[やぶちゃん注:「女鳥」不詳。叙述からみると、所謂、雄の成鳥が美しい飾り羽を持つ極楽鳥、スズメ目スズメ亜目カラス上科フウチョウ科 Paradisaeidae に属するフウチョウ(風鳥)の仲間を指しているように読める(人口に膾炙しているゴクラクチョウという名は正式和名ではない)。識者の御教授を乞う。]

一言芳談 一一五

   一一五

 禪勝房、又、生あるものゝ必ず死するがごとく、往生におきては、決定なりと申されけるが、殊縁の往生をとげられたり。此(この)兩三人は、同(おなじき)上人面授(しやうにんめんじゆ)の人々にて、彼の御教訓なり。然れば、決定往生の思ひをなすべきなり。〔此、慈心上人問、行仙上人答也。〕。

〇此兩三人、小藏入道に、蓮生房、禪勝房の事なり。

[やぶちゃん注:この発語部分の特異性や叙述内容から見て、この条に関しては独立させるよりも、前の「一一四」に続けてある方が自然である。なお、「〔此、慈心上人問、行仙上人答也。〕」は珍しい本文割注である。訓読すれば、「此れ、慈心上人が問ひの、行仙上人が答へなり。」か。
「生あるものゝ必ず死するがごとく、往生におきては、決定なり」生あるもが必ず死ぬように、一切の衆生の極楽往生も、これ、既に決定している、というこの禅勝房の驚くべきパラドキシャルな比喩は、私には何かひどく新鮮な気がした。
「同上人面授の人々」法然上人から直々に教えを受けた高弟たち。
「然れば、決定往生の思ひをなすべきなり」だから、一切衆生極楽往生は既に決定(けつじょう)しているという絶対の信心を以って安心して念仏を称えるのがよいのである。
「慈心上人」正三位民部卿藤原長房(嘉応二(一一七〇)年~寛元元(一二四三)年)の法名。後鳥羽院の近臣で参議藤原光長と同参議藤原俊経の娘との子。元久元(一二〇四)年参議、同二年には後鳥羽上皇の皇女煕子内親王の乳父となって皇女を引き取っており、後鳥羽中宮宜秋門院任子にも仕えた。承元四(一二一〇)年、後鳥羽の幕府打倒の意向を諫めかねてとも、法相宗を大成した貞慶の徳を慕ってとも言われるが、突如、出家、その後は奈良に移居して貞慶の門人となった。海住山民部卿入道とも号した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

2013/03/14

妊娠夢+詠唱夢

今朝方の六つばかりあったアンソロジーの夢の内、二つ。



僕はアフリカのさる部族の村を訪ねている。しかし、旅ではない。それも僕ひとりだけが、そこに突如、テレポートしたような感じであった。

部族長が僕に、葉でくるんだタロイモで作ったと思しい白く固まった食物を差し出す。

僕はそれを美味しく戴いた。

傍に族長の娘がいる。

僕より遙かに背が高い。褐色の肌をした鼻の高いとても美しい娘であった。

僕は僕の食べていたそれを、その娘に笑いながら差し出す。

彼女はそれを満面の笑みで、少しだけ掬って食べた。

すると――族長が

「お前の子供が娘に宿った。お前は永遠に――我が種族である。」

と告げたのだった……。

僕は確かにこの娘に――僕の褐色の子供が孕まれていることを――確かな事実として――実感した。――

その次の夢――

僕は闇夜の荒野に立ち竦んで――アントニオ・カルロス・ジョビンの“Chega de saudade”「思いあふれて」を――唄っているのだ……

前者の族長の娘は誰にも似ておらず、しかしてとても美しい娘だった……後者の特異性――僕は夢で自分が慥に唄っている夢を――初めて見たのであった……

夢 萩原朔太郎 (アフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭に配された「1 夢」 全)

ここで、部分的に示してきたそれを、前半部も含めてソリッドに固めて示す。



       夢と人生

 

 夢が虛妄に思はれるのは、個々の事件が斷片であり、記憶の連續がないからである。昨日私は、夢の中で借金し、夢の中で怪我をした。しかし朝になつて見れば、借金を返す義務もなく、負傷の跡方さへもないのである。そして今夜の夢は、それと全く別なことを經驗する。だがもしさうでなく、夢が夜毎に連續したらどうであらうか。昨日の夢で怪我をした私は、今夜の夢で病院へ入院し、醫師の治療を受けねばならぬ。そして昨日の夢で借りた金を、今夜の夢で催促され、工面しなければならないのである。

 この場合にあつて、夢はまさしく現實である。即ち人々は、晝間の生活と、睡眠中の生活と、二部の倂存した人生を生きねばならぬ。神がもし慈悲深く、衆生の人間に對して平等だつたら、おそらくこの二つの生活は、互に反對のものになるであらう。即ち晝間の生活で幸福であり、樂しく滿悦してゐるところの人々は、夢の中で苦惱多く、不幸な人生を經驗し、その反對の人々は、晝間の生活の代償として、夢の中で幸福な世を送る。そしてすべての人々は、神の公平な攝理の下に、エコヒイキなく平等になる。だがどんな場合にあつても、神は決して公平でない。なぜなら夢は、その人の先天的氣質や體質や、特に健康狀態によつて決定されるからである。たとへば神經質の人や、内氣で非社交的な人々や、不健康で病弱の人々や、即ち一口で言へば、生存競爭の劣敗者たる素質を持つた人々は、概して皆苦しい夢、恐ろしい夢、人から苛められるやうな夢ばかり見る。反對に樂天的で陽氣な人々や、社交的で元氣がよく、健康のすぐれた強壯の人々や、即ち素質的に生存競爭の優勝者たる人々は、概して皆樂しい夢、明るい輝いた夢ばかり見る。「富める者は、その持たざる物をも與へられ、貧しき者は、その持つ物をも奪はる」と耶蘇が言つた聖書の言葉は、人生のどんな場合にも眞實である。幸運の星の下に生れた人は、夜の夢の中でも幸福であり、惡しき星の下に生れた人は、夢の中でさへも、二重にまた不幸である。夢がその一夜限りの斷片であり、記憶の連續をもたないこと、その故にまた虛妄であるといふことは、せめてもの恩寵として、神に感謝すべきことであるかも知れない。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の冒頭に配されいる。]

 

 

 

       夢を支配する自由

 

 阿片やモルヒネの麻醉が、人を樂しく恍惚とさせるのは、それが半醒半夢の狀態を喚起させ、夢を自由に幻想することができるからである。眞に深く眠つてしまへば、人はもはや意識を失ひ、或る超自我の生命支配者がするところの、勝手な法則に夢を委ねなければならなくなる。しかもその夢は、たいてい願はしくないこと、思ひがけないこと、厭な樂しくもないことばかりである。しかも覺醒している間は、意識が現實の刺激に對して、一々の決定された法則によつて反應するため、一も眞の自由が得られず、人間の精神生活そのものが、物理的法則の支配下に屬してしまふ。精神の眞の自由――自分の意志によつて、自分の意識を支配することの自由――は、ただ夢と現實の境、半醒半夢の狀態にだけある。阿片の醉夢の中では、人はその心に畫いてゐるところの、どんなヴイジヨンをも幻想し得る。だがさうした毒物の麻醉を借りずに、もつと自然的(ノーマル)な仕方によつて、夢を自由にコントロールすることができるならば、人生はずつと幸福なものに變るであらう。その時人々は、現實に充たされない多くの欲望を、夢で自由に充たすことができる上に、意識をその決定する因果の法則から、自由に解放することによつて、あらゆる放縱不覊なイメージや美的意匠を、夢で藝術することができるのである。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の二番目に配されている。「ノーマル」は底本では「自然的」のルビである。ここで朔太郎が、フロイトの『超自我』の用語を用い、その検閲説をも肯定しているのが興味深い。フロイトの「夢判断」は一九〇〇年に書かれた。朔太郎が英訳版などを管見していた可能性は高いが、邦訳でも昭和四(一九二九)年末から殆んど同時に二つの邦訳フロイト全集の刊行が始まっていた。一つはアルス刊の「フロイト精神分析大系」全十二巻(安田徳太郎・丸井清泰・関良三他訳)、今一つは春陽堂書店刊の「フロイト精神分析全集」全十巻(大槻憲二他訳)である。]

 

 

 

       夢と情緒

 

 夢の中で見る事件や物象は、概して皆灰色に薄ぼんやりして、現實のやうにレアルでない。だがその反對に、夢の中で感ずる情緒は、現實のそれと比較にならないほど、ひどく生々(なまなま)としてレアリスチツクに強烈である。特に惡夢などで經驗する、恐怖の情緒の物凄さは、到底普通の言葉で語られないほど、生々(なまなま)として血まみれに深刻である。(多くの物凄い怪談は、たいてい夢の恐怖を素材にしてゐる)現實の世界に於ては、たとへどんなに恐ろしい事件、死に直面するやうな事件に遭遇しても、決して夢のそれのやうには恐ろしくない。悲哀の情緒もまた、夢の中では特別に辛烈である。夢で愛人と別れたり、兩親と死別したり、それから特に、自分の避けがたい死や不運やを見たりする時ほど、眞に斷腸の悲しみといふ言葉を、文字通りに感じて噓唏することはない。夢で慈母を喪つた悲しみは、むしろ現實のそれに數倍して哀切である。現實の情緒は、悲哀にまれ、恐怖にまれ、理智の常識する白晝(まひる)の太陽に照らされて、夢の闇の中で見るやうに強烈でなく、晝間の殘月のやうにぼんやりしてゐる。情緒の眞のレアリチイは、夢の中にのみ實在してゐる。そしてこのことは、夢が何億萬年の古い人類の歴史を、我々の記憶の中に再現することを實證する。おそらく我々は、原始に類人猿の一族から發生した時、未だ理智の悟性が芽生えなかつた。その時人間は、鳥類や獸類と同じやうに、純粹に情緒ばかりで行動して居た。そして鳥類や獸類やは、今でも尚依然として、我々が夢の中で感ずるやうに、世界を「現實(レアル)」に經驗して居るのである。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の三番目に配されている。ここでは後半部で俄然、ユングの原初的無意識説が語られ始める。「噓唏」は「きよき(きょき)」と読み、ためいきをつく、嘆息をする、啜り泣くで、「歔欷」と同じい。]

 

 

 

       夢と動物愛

 

 動物の情緒(悲哀や、喜悦や、恐怖やの感情)が、いかに生々(なまなま)しく強烈なものだといふことを、夢の經驗によつて推測するところの人々は、彼等の畜類に對して、自然に同情と理解をもつようになり、基督教的の倫理觀から、動物愛護主義者になる。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の四番目に配されている。このアフォリズムは面白く、個人的に考えるところがある。皮肉な意味で、である。]

 

 

 

       夢の起源

 

 夢が性慾の潛在意識だといふフロイドの説は、それのドグマによる彼の夢判斷と共に、私の考へるところでは誤つて居る。おそらく夢の起源は、人間にも動物にも共通して、祖先の古い生活經驗を遺傳してゐるところの、先驗的記憶の再現である。夜、夢の中で遠吠えする犬の聲が、それ自ら狼の鳴聲と同じであるといふことは、疑ひもなく犬の夢が、祖先の狼であつた時の、古い記憶を表象してゐるのである。人間の夢の中に、蛇や蜥蜴やの爬蟲類が、最も普通にしばしば現はれるのは、フロイドの言ふ如く性慾の表象でなく、おそらく人類の發生期に於て、それらの巨怪な爬蟲類が地球上に繁盛し、憐れな賴りない弱者であつた我等の先祖を、絶えず脅かしてゐた爲であらう。人類の先祖は、一億萬年もの長い間、非力な賴りない動物として、酷烈な自然と鬪ひながら、不斷に他の強大な動物から脅かされ、生命の危險におびえわなないて居た。人間がその發育した理智によつて、自然の苛虐から自衞策を講じ、次第に他の強敵を征服して、自らの文化と歴史とを作つたのは、極めて最近の事蹟であり、人類進化の悠遠な史上に於ては、殆んど言ふに足らない短日月の歴史にすぎない。我等の意識内容にある記憶の主座は、過去に最もながく人類の經驗した、樣々の恐ろしいこと、氣味の惡いこと、怯え戰つてることばかりである。人は夜の夢の中で、樹人や火人であつた頃の、先祖の古い記憶を再現し、いつも我等の生命を脅かして居たところの、妖怪變化の恐ろしい姿や、得體の解らぬ怪獸やの、魑魅魍魎(ちみまうりやう)の大群に取り圍まれて魘されてゐる。人が本能的に闇黑を恐れるのも、それが敵から襲撃されるところの、最も恐ろしく氣味の惡い時であつたからだ。夢の中では、人間も萬物の靈長ではなく、馬や牛や動物と變りがない。或はもつとそれよりも、悲しく頼りない生物であるかも知れない。人間の夢の中に理智が現はれ、文化人としての記憶が表象されるのは、おそらく數千萬年の將來に屬するだらう。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の五番目に配されている。この一連の夢論の中でフロイドの名の初出である。朔太郎の謂いはユングの原初的無意識に近い考え方であるが、『人類の發生期に於て、それらの巨怪な爬蟲類が地球上に繁盛し、憐れな賴りない弱者であつた我等の先祖を、絶えず脅かしてゐた爲であらう』という謂いの誤り(これはジュラ紀をイメージしており科学的には誤りである。哺乳類の祖先とされる白亜紀の哺乳綱獣亜綱後獣下綱デルタテリディウム目デルタテリディウム科デルタテリディウム属 Deltatheridium を『人類の發生期』とは言い難い。また、その前の『祖先の古い生活經驗を遺傳してゐるところの、先驗的記憶の再現』という主張は、それこそ私が好きでしばしば授業した阿部公房が「日常性の壁」で批判している誤謬と全く以って同じで、後天的経験記憶の安易な遺伝説という点で非科学的、「日常性の壁」で樹上生活しているうちはヒトではなく、未だサルであったという目から鱗の論駁とまたまた同じく、朔太郎は『樹人』という誤った概念を提示している。彼の謂いは、それこそ日本では極めて幅をきかせて人気も依然として高いユング派精神分析学というちょっとアブナイ科学の無批判でロマンティックな信仰者の主張であるとも言えよう。因みに、私はかつてフロイトに私淑し、ユングを耽読してきたし、大学では精神分析を主体とした心理学を学びたいと思った(が心理学科は総て不合格で国文科へ入ったが)が、今は彼らの学問は理系的な精神医学には属さないのではないか、況や、実験心理学や動物行動学等が保持しているところの実証的科学性すらないと感じている。但し、文系的な一つの思想としては今でも面白いとは思っている。]

 

 

 

       心理學者の誤謬

 

 夢の解釋について、多くの心理學者に共通する誤謬は、覺醒時に於ける半醒半夢の狀態から、眞の昏睡時の夢を類推することである。夢が性慾の潛在意識であるといふフロイドの學説も、おそらくその同じ誤謬から出發してゐる。覺醒時に於ては、既に半ば意識が働き、夢を夢と意識することから、人は或る程度まで、夢を自分の意志によつて、自由にコントロールすることができるのである。そこでフロイドの説の如く、人はその日常生活で抑壓され、ふだんに内攻してゐる性の欲求を、おのづから夢の中に變貌して表象する。多くの人々にあつて「まだ醒めやらぬ明方の夢」が樂しいのは、つまり言つてこの事實を説明してゐる。なぜならフロイドの説によれば、夢は原則として「樂しいもの」であり、性の解放による饗宴でなければならないからだ。だが眞の昏睡時の夢は、概してあまり樂しいものではなく、むしろ性の解放とは關係がないところの、恐ろしいことや悲しいことが多いのである。

 ベルグソンの夢の説も、ひとしくまた同じ點で誤つてゐる。ベルグソンによれば、夢は身體の内外に於ける知覺の刺激――戸外の物音や、胃腸の重壓感や――によつて動因的に表象されるといふのである。彼はその例證として、戸外で吠える犬の聲から、大砲の音を表象し、それによつて戰爭の夢を見たと言つてる。覺醒時に於て、知覺が半ば目を醒ましてゐる時には、疑ひもなくその通りである。しかし意識が全く昏睡してゐる夢の中では、ベルグソンの説明が意味をなさない。おそらく夢の解説は、もつと不思議で解きがたく、謎の深い神祕の闇に低迷してゐる。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の六番目、前掲の「夢の起源」の次に配されている。この内容は頗る共感出来る。これ、凡そ日本の昭和初期の一介の詩人の書き散らしたもののとは思われない。古い夢分析についての精神分析学の学術論文の一節と偽っても、誰もが信ずるであろう。]

 

 

 

       幼兒の夢

 

 幼兒は絶えず夜泣きをし、何事かの夢に魘されておびえ泣いてる。母の胎體を出たばかりの小さな肉塊。人間といふよりは、むしろ生命の神祕な原型質といふべき彼等は、夢の中に何物の表象を見るのであらうか。性慾の芽生えもなく、人生に就いて何の經驗もない彼等は、おそらくその夢の中で、過去に何萬代の先祖から遺傳されたところの、人類の純粹記憶を表象してゐるのであらう。夢に魘えて夜泣きをする幼兒の聲ほど、生命の或る神祕的な恐怖と戰慄とを、哀切に氣味わるく感じさせるものはない。たしかに彼等の幼兒は、夢の中で魑魅魍魎に取り圍まれ、人類の遠い先祖が經驗した、言説しがたく恐ろしいこと、危險なことを體驗し、生命の脅かされたスリルを味はつてゐるのである。夢を性慾の表象とし、それによつて夢判斷をするフロイド流の心理學者は、すくなくともその同じ原理によつて、赤兒の夢を判斷し得ない。夢の起源は、彼等の學者が思惟するよりは、もつとミステリアスな詩人の表象と關聯してゐる。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の七番目、前掲の「夢の誤謬」の次に配されている。下線部は底本では傍点「ヽ」。最後のフロイト批判は頗る説得力があるように私には思われる。なお、ユングの人類共通の原初的な集合的無意識という元型仮説は、一九二一年の代表作「心理学的類型」(「タイプ論」「元型論」とも訳される)で公にされている。]

 

 

 

       「思ひ出」と幼年心理

 

 雪の降る夜の願人坊や、黑ン坊の子供や、生膽取りの幻想やによつて、絶えず物におびえ泣いてゐる幼兒の心理を、官能的でイマヂナチヴな言葉によつて、美しくもリリカルな詩に表現した北原白秋の「思ひ出」は、おそらくこの種の詩集として、世界に稀有な文獻であると共に、兒童文學の研究者にとつて、最も貴重な參考書であるだらう。なぜなら詩人の直覺する眞理は、學者の抽象的な推理以上に、心の内奥する祕密の本質を直視してるから、いかなる學者にもまさつて、白秋は兒童心理學の大家であつた。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の八番目、前掲の「幼兒の夢」の次に配されている。下線部は底本では傍点「ヽ」。「個人と社會」の、底本の独立標題ページの下には、確かに「1 夢」とあるのだが、これは実は本文にはない。従ってどこでこの「1 夢」のパートがどこで終わるのかは、実は示されていないのであるが、次の「2 女性――家庭――結婚――sex」という標題内容と、この『「思ひ出」と幼年心理』の次のアフォリズム「女の悲しさ」を読む限りに於いて、間違いなく「1 夢」はこの『「思ひ出」と幼年心理』を以って終了していることが分かる。]

「思ひ出」と幼年心理 萩原朔太郎

本日は父の手術に向けての検査に付き添うによって、これを以って暫く閉店と致す。



       「思ひ出」と幼年心理

 

 雪の降る夜の願人坊や、黑ン坊の子供や、生膽取りの幻想やによつて、絶えず物におびえ泣いてゐる幼兒の心理を、官能的でイマヂナチヴな言葉によつて、美しくもリリカルな詩に表現した北原白秋の「思ひ出」は、おそらくこの種の詩集として、世界に稀有な文獻であると共に、兒童文學の研究者にとつて、最も貴重な參考書であるだらう。なぜなら詩人の直覺する眞理は、學者の抽象的な推理以上に、心の内奥する祕密の本質を直視してるから、いかなる學者にもまさつて、白秋は兒童心理學の大家であつた。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の八番目、前掲の「幼兒の夢」の次に配されている。下線部は底本では傍点「ヽ」。「個人と社會」の、底本の独立標題ページの下には、確かに「1 夢」とあるのだが、これは実は本文にはない。従ってどこでこの「1 夢」のパートが終わるのかは、実は示されていないのであるが、次の「2 女性――家庭――結婚――sex」という標題内容と、この『「思ひ出」と幼年心理』の次のアフォリズム「女の悲しさ」を読む限りに於いて、間違いなく「1 夢」はこの『「思ひ出」と幼年心理』を以って終了していることが分かる。]

鬼城句集 春之部 猫の子

猫の子  猫の子や親を距離(はな)れて眠り居る

やけた鍵 やけた鍵 大手拓次

 やけた鍵

だまつてゐてくれ、
おまへにこんなことをお願ひするのは面目ないんだ。
この燒けてさびた鍵をそつともつてゆき、
うぐひす色のしなやかな紙鑪(かみやすり)にかけて、
それからおまへの使ひなれた靑砥(あをと)のうへにきずのつかないやうにおいてくれ。
べつに多分のねがひはない。
ね、さうやつてやけあとがきれいになほつたら、
またわたしの手へかへしてくれ、
それのもどるのを專念に待つてゐるのだから。
季節のすすむのがはやいので、
ついそのままにわすれてゐた。
としつきに焦(こ)げたこのちひさな鍵(かぎ)も
またつかひみちがわかるだらう。

[やぶちゃん注:「紙鑪」の「鑪」は、囲炉裏・火鉢・香炉・大甕・酒甕といった意味でヤスリの意はない。ヤスリは「鑢」と書き、「鑪」に非常に似ているので、作者自身の誤字か、植字ミスの可能性が疑われる。]

一言芳談 一一四

   一一四

 

 行仙房(ぎやうせんばう)云、或人問ふて云、我身の無道心をかへり見て、往生をうら思ふと、涯分(がいぶん)を顧みず、決定往生と思ふと、何(いづ)れかよく候ふべき。答へて云く、我(われ)むかし小藏入道(をぐらにふだう)に謁(と)ひたりき。往生は最初の一念に決定せり、報命(はうめい)盡きざれば、依身(えしん)の未だ消えざるばかりなりと申されしが、殊緣(しゆえん)の往生をとげられき。熊谷入道(くまがへにふだう)も、此の定(ぢやう)に申されけるとなん承りき。

 

〇うらおもふ、慮の字にて氣づかひの事なり。

〇涯分、我身の分際なり。

〇小藏入道、園田太郎、號智明房。

〇最初の一念、はじめて信受せし心念なり。

〇報命、たゞ命の事なり。

 資持記云、命之延促宿因所招。故云報命。

〇熊谷入道、蓮生房。

 

[やぶちゃん注:本テクストはⅠに主に拠ったが、Ⅰは幾つかの箇所で疑義があったため、Ⅱ・Ⅲと校合した。ところがⅡ・Ⅲには全体に読みにくい箇所や歴史的仮名遣の甚だしい誤りが散見されるため(但し、Ⅱのそれは原文のままに翻刻したため)、読みの一部を本文に出すなどして、結果としてⅠでもⅡでもⅢでもない、全く独自のテクスト表記となった(学術的に読まれたいのであれば、それぞれに拠って戴きたい)。いつもの通り、読みは歴史的仮名遣に拠ったが、「くまがへ」は敢えてⅡの読みを示した。なお、Ⅰ・Ⅲでは次の一一五の本文部分(最後の割注を除く)が末尾に直に繋がっている(但し、今まで特に注していないが、この現象はⅢではこれ以前にも幾らも存在してはいる)。間接話法が入り込んでいるので、以下に分かり易く一部の表記を書き換え、語を補って、書き直してみる。

 

 行仙房の云はく、

「或る人、問ふて云はく、

『我が身の無道心を顧みて、往生を裡思(うらおも)ふと、涯分を顧みず、決定往生と思ふと、何れかよく候ふべき。』

と。

 我、答へて云はく、

『我、昔、小藏入道に謁(えつ)し問ひたりき。答へ申されて、

――往生は最初の一念に決定せり。報命、これ、盡きざれば、依身の未だ消えざるばかりなり――

と申されしが、殊緣の往生をとげられき。熊谷入道も、此の定に申されけるとなん、承りき。』

 

「行仙房」Ⅱの大橋氏注に、『聖光上人の弟子。隠者。ただし禅勝房の弟子にも同名の人がいる』とある。前に注した通り、禅勝房は、元は天台宗の僧であったものの、蓮生(れんじょう:名将熊谷直実の法名)の説法を聴いて京へ上り、蓮生の師であった法然の弟子となったという因縁から考えれば、本文に「熊谷入道も、此の定に申されけるとなん承りき」と添えたことは、禅勝房の弟子であった方がより必然的で自然なものとして私には思われる。

「小藏入道」Ⅱの大橋氏注に、『上野国小蔵の人。薗田太郎成家。法然上人の弟子となり、智明房と号した』とある。講談社「日本人名大辞典」には智明坊(ちみょうぼう 承安四(一一七四)年~宝治二(一二四八)年)として、浄土宗の僧で幕府御家人、正治二(一二〇〇)年に京都で法然の教えを聴いて僧となり、郷里上野に戻り、教導して家のもの二十余人をみな出家させ、山田郡小倉村に庵室を結んだ。俗名は薗田成家とある。

「報命」定められた寿命。

「依身」心やその働きのよりどころとなる肉体、身体のこと。肉身。

「殊緣」Ⅰは「殊勝」とする。

「資持記云、命之延促宿因所招。故云報命。」Ⅰの訓点を参考にして(一部従っていない)読めば、

 資持記に云はく、「命の延促は宿因の招く所なれば、故に報命と云ふ。」と。

となろう。「資持記」は「九十二」に既注。

「熊谷入道」「平家物語」の一の谷の戦いでの平敦盛との一騎討、そこでの無常観の思いから出家するという知られた名将熊谷直実(永治元(一一四一)年~建永二(一二〇七)年)のこと。法号は蓮生(れんしょう/れんせい)。優れた武士であったが口下手で、建久三(一一九二)年、社会的に優位にあった、父代わり久下直光(直実の母方の伯父)とのおぞましい領地訴訟に敗北し(私のテクスト北條九代記 問注所を移し立てらるを参照のこと)、『敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた直実は』、上洛して『法然との面談を法然の弟子に求めて、いきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、直実は「後生」』『について、真剣にたずねたという。法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えたという』。『その言葉を聞いて、切腹するか、手足の一本切り落とそうと思っていた直実は、さめざめと泣いたという』。家督を嫡子直家に譲った後、建久四(一一九三)年、五十二歳の頃、『法然の弟子となり出家した』。その後の蓮生は美作国久米南条稲岡庄(岡山県久米郡久米南町)の法然生誕地に誕生寺を建立するなど、数多くの寺院を開いていることで知られる。建久六(一一九五)年八月十日には京から鎌倉へ下ったが、『蓮生は鎌倉に着くなり、泣いて懐かしんで頼朝と対面し、仏法と兵法の故実を語り、周囲を感歎させる。出家しても心はなお真俗を兼ねていた。武蔵国へ下向するため退出する際、頼朝にしきりに引き留められている』。その後、京都に戻った蓮生は、建久八(一一九七)年五月、錦小路東洞院西の父貞直所縁んの旧地に『法然を開山と仰ぎ、御影を安置して法然寺を建立し』ている。建久九(一一九八)年には粟生の西山浄土宗総本山光明寺を開いているが、『直実が法然を開山として、この地に念仏三昧堂を建てたのが始まりである。後に黒谷にあった法然の墓が』安貞二(一二二八)年に『比叡山の僧徒に襲撃を受け、遺骸が暴かれたため、東山大谷から移され、ここで火葬して遺骨を納めた宗廟を建てた。遺骨は分骨された』。『本領の熊谷郷に帰った蓮生は庵(後の熊谷寺)で、念仏三昧の生活を送』り、元久元(一二〇四)年には『上品上生し、早く仏と成り、この世に再び還り来て、有縁の者、無縁の者問わず救い弔いたいと、阿弥陀仏に誓い蓮生誓願状をしたためた。誓願状の自筆が嵯峨清涼寺に残されている』。建永元(一二〇六)年八月、翌年の二月八日に『極楽浄土に生まれると予告する高札を武蔵村岡の市に立てた。その春の予告往生は果たせなかったが、再び高札を立て』て、建永二年九月四日に『実際に往生したと言われている』。彼の逸話として、出家後のこと、関白九条兼実の『屋敷で法然の法話をはるか遠くの庭先から聞いていた時、「ああ、この世ほど口惜しい所はない、極楽にはこんな差別などあるまいに、ここでは上人様のお声も聞こえませんぞ」と大声で怒鳴り立てたという、出家前と変わらない反骨精神を伺わせるエピソードが残されて』おり、また、『京都から関東にもどるとき、西を背にすると、浄土の阿弥陀仏に背を向けると言って、鞍を前後さかさまにおいて、西に背を向けずに関東に下ったという』(ウィキの人物図はそれに基づく)。法然は蓮生に一日六万遍の『念仏を勧めており、蓮生はそれを守り通したとされる』とある。(以上の引用はウィキ熊谷直実に拠る)。――私は実は――熊谷直実のとびっきりのファンである。

 

 本条は私なりに全文の現代語訳を試みたい。

 

 行仙房が仰せられたことには、

「ある人が我らに問うて言われたことに、

『我が身に道心のないことを自省して往生の心配を致すのと――身のほどを弁えずに往生は既に以って決定(けつじょう)致いておると思うと――これ、何(いず)がよく御座ろうか。』

と。

 我らが、答えて申したことには、

『我ら、昔、小蔵(おぐら)入道に謁して、同様のことをお訊ね致いたことが御座った。小蔵入道のお答えは、

――往生は最初の一念にて決定(けつじょう)しておる。定められた命が、これ、尽きておらぬが故に、この肉身は、ただ、未だに消えずにあるのみに過ぎぬ――

との仰せで御座った。その小蔵入道は、そのお言葉通り、決然とした往生をお遂げになられました。また、かの熊谷の蓮生(れんしょう)入道も、これと全く同じことを仰せになられたと、聞き及んで御座る。』

とお答えしておきました。」

 

疑心暗鬼や姑息な凡智の自省心など、あるだけ、往生の妨げであると喝破する。]

2013/03/13

みなし兒 北原白秋

   みなし兒

あかい夕日のてる坂で
われと泣くよならつぱぶし‥‥

あかい夕日のてるなかに
ひとりあやつる商人(あきうど)のほそい指さき、舌のさき、
絲に吊(つ)られて、譜につれて、
手足(ふる)顫はせのぼりゆく紙の人形のひとおどり。

あかい夕日のてる坂で
やるせないぞへ、らつぱぶし。
笛が泣くのか、あやつりか、なにかわかねど、ひとすぢに、
糸に吊(つ)られて、音(ね)につれて、
手足顫(ふる)はせのぼりゆく戲(おど)け人形のひとおどり。

なにかわかねど、ひとすぢに
見れば輪廻(りんね)が泣いしやくる。
たよるすべなき孤兒(みなしご)のけふ日(び)の寒さ、身のつらさ、
思ふ人には見棄てられ、商人(あきうど)の手にや彈(はぢ)かれて、
糸に吊(つ)られて、譜につれて、
手足顫(ふる)はせのぼりゆく紙の人形のひとおどり。

あかい夕日のてる坂で
消えも入るよならつぱぶし‥‥

(昭和25(1950)年新潮文庫「北原白秋詩集」 「思ひ出」より)

[やぶちゃん注:詩人殿岡秀秋氏のブログ「北原白秋さんの詩集『思ひ出』について  その8」で本詩を評して『大道芸人がラッパの擬音トコトットトを各節の終わりにいれるのがらっぱぶしです。紙でできたあやつり人形が手足をふるわせながらのぼってゆきます。それが少年にはみなし児が、恋人に捨てられ、商人に買われて、踊っている少女の姿に見えてくるのです。この転換が見事です。そしてまた、糸につられて、譜につれて、紙の人形にもどって終ります。少年が大道芸をみているときに、一瞬こころに浮かんだ切ない想いをとらえて、描いています』と実に映像として鮮やかに鑑賞なさっておられる。また、河村政敏著「北原白秋の世界 その世紀末的詩境の考察」(至文堂11997年刊)のグーグル・ブックスのレビューに『日本の近代文学史を美しく彩った「パンの会」の詩人、白秋、杢太郎、光太郎らは、隅田川にセーヌをしのびながら、詩と酒と青春との饗宴を繰り展げ、酔えば白秋のこの詩を当時流行の「ラッパ節」の節に合わせて歌ったものだという。享楽の底にしのび入るようなこの世紀末的哀傷こそ、彼等詩人がこよなく愛した情趣であった』とある。なお、「ラッパ節」について、ウィキの演歌師「添田唖蝉坊」には(「そえだあぜんぼう」と読む)には、明治35(1901)年頃、『「渋井のばあさん」と呼ばれていた知り合いの流し演歌師に頼まれてつくった「ラッパ節」が、1905年(明治38年)末から翌年にかけて大流行する。幸徳秋水・堺利彦らとも交流を持つ。こうしたことがきっかけで、堺利彦に依頼を受け、「ラッパ節」の改作である「社会党喇叭節」を作詞。1906年(明治39年)には、日本社会党の結成とともにその評議員になるなどし、その演歌は、社会主義伝道のための手段にな』ったとある。この添田唖蝉坊の「ラッパ節」と明治44(1901)年刊行の、この「思ひ出」の「らつぱぶし」の関連は定かではないが、添田唖蝉坊の「ラッパ節」の流行の頃は、白秋二十歳、新詩社を脱退して木下杢太郎を介して、石井柏亭らのパンの会に参加したのが明治41(1908)年であるから、同じ調べのものであったことは間違いあるまい。]

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 最明寺舊跡 亀の井

   最明寺舊跡 亀の井

 

 最明寺(さいめうじ)の舊跡は、山の内にあり。福源山禪興寺(ふくげんざんぜんこうじ)といふ關東禪院十刹(さつ)のその一なり。本願は、平時賴にて、昔は七堂伽藍大寺(てら)なりしといふ。明月院は最明寺の東にあり。上杉憲方(のりかた)の建立也。亀の井は、明月院の後ろにあり。鎌倉十井のその一つなり。

〽狂 せんしうの

 めいげつ

  いんの

 うしろには

これ

 ばん

  ぜいのかめの

    井もあり

「なんと、上(かみ)さん、こゝは田舍でも江戸がちかいから、よい男もおりおりは見なさるであらうが、私(わたし)のやうな色男はめつたにはあるまいの。」

「とんだことをいひなさる。なに、お前がよい男なものか。昨日(きのふ)も妾(わたし)の裏の掃溜(はきだめ)を掃除(そうぢ)したら、お前のやうな男が幾らも、ぞろぞろと出てうるさいから、皆、一つにかためて、川へながしてしまひました。お前も、そこにいつまでもゐなさると、川へながしてしまひますぞ。」

「そんなら、よもや、私独りをながす氣ではあるまい。お前、一緒にながされる氣か。どうだ。」

「妾(わたし)ではない。お前と一緒にながす物があります。私の所のしんだ婆(ばあ)さまが、ひさしく腰拔けでいましたが、その時つくった御厠(おかは)があるから、お前と、その御厠と一緒にながします。」

「さては。その『おかは』といふ女は、よい女か。何處(どこ)の者だ。なんにしろ、女ときいては、なんでも、かまはぬ。しからば、その『おかは』と我らが二人、その川へ浮き名をながすのか、これは、うれしい、うれしい。」

「やれやれ、この團子(だんご)には消炭(けしずみ)の火がくつついて、口の端を大きに火傷(やけど)をした。」

「あつやの。あつやの。」

「上さん、この邊に後家の質屋(しちや)はあるまいかの。どうぞ、儂(わし)を質にとつてもらいたい。利(り)もくふが、飯(めい)も大喰(ぐら)ひだ。」

「團子でもあがりませぬか。妾(わたし)が、この垢だらけな手でまるめたのでござります。」

 

[やぶちゃん注:「最明寺舊跡」本文にある通り、当時は禪興寺となっていた。最明寺は北条時頼が出家の準備として建立した、極めて個人的な持仏堂乃至は禅定室のようなものであって住持がいた形跡がなく、時頼の死後、すぐに廃絶してしまったと考えられている。但し、その比定位置は現在は、ここに記されたような、また従来説の名月谷奥の狭い範囲ではなく、名月谷入口から東慶寺門前に及ぶ山ノ内街道北側のかなり広範囲な一帯に寺域を保持していたと考えられている。その後、ほぼ同地域に北条時宗を開基、蘭渓道隆を開山として最明寺廃絶数年内の文永五(一二六八)年か翌年辺りに開創されたものが禅興寺である。禅興寺はその後、一旦廃絶したが、永正九(一五八一)年に再興され、その後は天正九(一五八一)年頃までは続いたと推定されている。その後に再び衰微し、貞亨二(一六八五)年に完成した新編鎌倉志三」には、『昔は七堂伽藍ありしと也。源の氏滿建立の時の堂塔幷に地圖、今明月院にあり。甚だ廣大なり。今は佛殿ばかりあり。明月院の持分なり』という状態で、明治初期に廃絶して、塔頭であった明月院のみが残った。

「上杉憲方」「長壽寺 明月院」に既注。

「亀の井」「亀」は原本絵図上の標題の表記。但し、「甕の井」が正しい。知られた十井の呼称では「瓶(つるべ)の井」の方が人口に膾炙している。現在の明月院境内にあり、岩盤を垂直に掘り抜いて作られたものみられるが、掘削時期は江戸期と推定されている。特に伝承は伝わらないが、鎌倉十井の中でも現在でも使用出来る数少ない井戸の一つである。

「御厠」簡易便器である「おまる」のこと。この少し抜けたチャラ男、女中のきっぷのいい尻まくりの剛毅なやり返しに対し、「おかは」を「お川」と言った女性名と聞き違えて、なおも文字通り、糞をまるような洒落でチャラチャラしまくるところが、なかなか面白いではないか。

「あついの、あついの」の台詞は、右の絵の犬の前にある。火傷をしたとぼやくボケが縁台の団子を持った男であろうから、この台詞は、犬の鳴き声をオノマトペイアしているように私は感ずる。]

耳嚢 巻之六 陰德子孫に及びしやの事

 陰德子孫に及びしやの事

 泉州堺にて和泉屋喜兵衞といへる、延享の頃專ら富饒(ぶねう)にて、慈悲ある商人なりしが、日々鳥屋より雀一羽づゝ調へ放しけるが、其心正しきもの故、彌(いよいよ)家富榮(とみさかへ)けり。其子喜兵衞は親に似ず放蕩ものにして、遊興に金銀を失ひて、あまつさへ娘計(ばかり)にて男子もなかりしに、或日表を浪人の乞食、謠ひをうたひしを聞(きく)に、其音聲(おんじやう)はさらなり、なかなか一通りの諷(うたひ)にあらずと感心して、今一番諷(うた)ふべしと望しかば、其需(もとめ)に應じて諷ひけるを、彌(いよいよ)感心して、爾は生れながらの乞食にはあるまじ、昔は相應のものなるべしと尋ければ、答へて云(いへ)るは、成程親々は相應にくらしけるが、遊興に身を持崩しかゝる身分に成(なり)しとかたりし故、喜兵衞いへるは、我に男子なければ、聟にいたすべき間、親元を名乘(なのり)候樣申けるが、親を名乘り候事は幾重にもゆるし給へとて、せちに尋けれどかたらず。是を聞(きき)て、家内手代など以(もつて)の外の事なり、穢多非人かもしれずと諫めあらそいしが、彼喜兵衞、生得滅法界者(しやうとくめつぱうかいもの)にや曾て不用(もちゐず)。引留(ひきとめ)て手前に養ひしが、家事の取斗(とりはから)ひ、商ひの道は申(まうす)に不及(およばず)、老親への孝行、聊か申分(まうしぶん)なく、或日手代召連(めしつれ)て大阪へ下りしに、江州(がうしう)彦根布屋といへるものゝ手代、彼聟を見て、若旦那いづ方に居給ふや、近國其外を此(この)程搜し尋る也、少しも早く歸り給へ、親旦那も大病にて、日毎に戀ひ慕ひ給ふ事をと申(まうし)ける故、やがて其譯養父の喜兵衞へ願ひて江州へまかりしを、附添(つきそふ)手代抔、彼(かの)江州彦根にいたり見けるに、布屋といえるは彦根第一の豪家にて、中々和泉屋抔は似るべくもなし。取戻しの儀を彦根より度々申けれど、喜兵衞儀何分得心(とくしん)なく、しかれども布屋も外に子供なければ、是非々々とこひ願ひし故、然らば喜兵衞方より養子に遣すべしとて、漸(やうやく)事治(をさま)りしが、喜兵衞は素よりの放蕩者故、身上(しんしやう)もしだいにをとろへしが、彌(いよいよ)金錢は湯水と遣ひしが、彦根より年々金子等贈り、今は相應になりしと。彼(かの)喜兵衞は當時可參(まゐるべし)と申、七十歳餘になりて、彼(かの)養子、喜兵衞と名乘(なのり)、兩家をたもち、目出度(めでたく)さかふる由。文化元年の夏、大和廻(めぐ)りして歸りけるものゝかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:根岸知音の大和廻りでの見聞譚連関。
・「和泉屋喜兵衛」不詳。高村光雲の「幕末維新懐古談」の中の「年季あけ前後のはなし」の中に江戸の知られた札差として『天王橋の和泉屋喜兵衞』という同屋号同名の人物が記されるが、全く別人であろう。
・「延享の頃」西暦一七四四年~一七四七年。
・「生得滅法界者」生まれつきの極め付きの無茶な輩。「滅法」の道理に外れるさま、常識を超えているさまに、一切の現象の本質的な姿である真如(しんにょ)・実相の謂いの「法界」を滅するを掛けた。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、大当たりとなった先立つ天明三(一七八四)年初演の七五三助(しめすけ)作の歌舞伎喜劇「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」で知られる、主人公破戒僧法界坊辺りからの流行語ででもあったのかも知れない。
・「江州彦根布屋」不詳。屋号から見て絹商人か呉服商人かと思われる。
・「可參と申」よく分からない。「參るべしと申し」の「參る」は卑語としての「死ぬ」の意で、そろそろお迎えが来そうな感じで、という謂いか? 一応、それで訳しておいたが、とんでもない誤訳かも知れぬ。識者の御教授を乞うものである。

■やぶちゃん現代語訳

 陰徳が子孫に及んだのかもしれぬとも思わする事

 かの泉州堺に和泉屋喜兵衛と申す、延享の頃、甚だ裕福にて、慈悲に富んだ商人(あきんど)が御座った。
 毎日、鳥屋より雀を一羽ずつ買い調へては放っては放生(ほうじょう)の陰徳を積んで御座ったと申す。
 その心、正しきものゆえ、いよいよ彼が代に和泉屋は大いに富み栄えて御座ったと申す。
 ところが、その子の代の喜兵衞儀は、これ親にも似ず、甚だ放蕩者にして、遊興に金銀を失(うしの)うて、家業も瞬く間に衰え、あまつさえ、子は娘ばかりにて、一人の男子も御座らんだと申す。
 さて、ある日のこと、喜兵衛、しょぼくれてしもうた己が和泉屋の表を、浪人体(てい)の乞食が一人、謠(うた)いを口ずさみつつ行くを聴くに、その音聲(おんじょう)は言うまでもなく、なかなかに一通りの謠いっぷりには、これ、あらざるものと、いたく感心致いて、
「今一番、謠(うと)うて給(た)べ。」
と請うたところ、その求めに応じて再び謠(うと)うたを聴けば、これ、いよいよ感心致す代物なればこそ、
「……汝は生れながらの乞食にては、これ、あるまい。……昔は、そうさ、相応の身分の者であったものと存ずるがのぅ。……」
と水を向けたところ、答えて申すことには、
「……如何にも……親どもは相応に暮して御座いましたが……我ら……お定まりの通り……遊興に身を持ち崩し、かかる身分に堕ち申して御座いまする。……」
と語ったによって、喜兵衞、
「……我らには男子、これ、なきによって……一つ、そなたを聟(むこ)にとりとう存ずる。……によって、まずは、親元を名乗っては下さるまいか?」
申したところが、
「……親の名を名乗りますることは……これ、どうか……幾重にも、お許し下されませ……」
と否み、切に質(ただ)いたれど、決して語ろうとは致さなんだ。
 ところが、この一部始終を店内にて聴いて御座った、家内の者や手代なんどが、慌てふためいて中に割って入り、
「……も、以っての外のことにて御座います!……見たところ……これ、穢多・非人の類いやも知れず……」
と頻りに諌めたによって、果ては主人と激しき言い争いにまでなったが、かの喜兵衞――これ、当世流行の言葉を用いたならば、所謂――生得滅法界者(しょうとくめっぽうほうかいもの)――ででも御座ったものか、いっかな、聴こうともせず、遂にはこの男を家内に引き留め、喜兵衛の手元に侍らせて、身内として養(やしの)うことと相い成って御座ったと申す。
 ところが、この男――家事の取り計らい方や商いの道は、これ申すに及ばず――老いたる義父喜兵衛とその妻たる義母への孝行なんどにも、聊かの申し分もこれない――目覚ましき働きを見せて御座ったと申す。
 さて、ある日のこと、この聟、手代を召し連れて、商売のために大阪へ下ったところ、たまたま行き逢(お)うた、近江彦根の布屋とか申す商人(あきんど)の手代とか申す者が、かの聟を一目見るなり、
「……わ、わ、若旦那さま! い、一体、どこにおられたので御座います! 近国はもとより、方々(ほうぼう)を、ずっと先(せん)よりこの方、捜し尋ねあぐんでござんしたものを! 少しでも早うに! どうか! ご実家へとお戻り下さいませ!……大(おお)旦那さまも大病を患い、日に日に若さまを恋い慕(しと)うていらっしゃいまするぞッ!……」
と、泣きすがらんばかりに申したてた。
 されば――この聟も、流石に実父の病み臥せっておると聞きては、このままに捨ておくことも出来ず――やがて、商用済んで堺へ立ち戻ると、喜兵衞へ、己が隠して御座った出自のことと、この度の出来事を語って、切に願い出でて、ともかくもと、江州へと向かって御座ったと申す。
 さても喜兵衛は和泉屋の聟なればこそ、江州行きには手代なんどをもしっかり附き添えさせて御座ったのだが――かの近江彦根に辿りついて――その手代が見たものは――
――布屋と申すは――
――これ、彦根第一の豪商にて――
……なかなかクソ和泉屋なんどとは比べものにならぬ、遙かに棟高き商家で御座った。
 聟は暫く致いて戻っては参ったものの、何やらん、里のことが気になる風情。
 そこへまた、実子取り戻しの儀につき、彦根よりたびたび願い上げが御座った。
 されど、頑ななる喜兵衞儀なれば、こればかりは何分にも得心致すこと、相い出来申さずと断り続けて御座った。
 されど――布屋もこの男以外には跡継ぎの子どもがあらなんだによって――是非に是非にと――これまた何度も何度も――切に切に、請い願って参ったゆえ、喜兵衛も流石に我を折らざるを得ずなって、
「……然らば! 我ら喜兵衞方より! えぇい! 養子として遣すわい!……」
とて、ようやっと、このごたごたも取り敢えず収まって御座ったとは申す。
 されど喜兵衞、これ、もとより――生得滅法界者の――放蕩者で御座ったゆえ、堅実な聟がおらんようになるや、またしても身上(しんしょう)、次第に衰え、にもかかわらず、喜兵衛、これまた、いよいよ金銭を湯水の如、使うに使うという体たらく。
 されど、それと察すればこそ――彦根の元の聟方、今の養子の方と相い成った布屋より――年々(としどし)に十分な金子なんどが贈られて参り――その堅実な恩義に感じたものか――はたまた流石に老耄なれば遊びにも疲れたもので御座ったか――喜兵衛の放蕩もややおさまって――今は、和泉屋も相応の暮らし向きと相い成ってなって御座る由。
 かの喜兵衛はもう、近時――そろそろお迎えがあってもよさそうな感じで御座ったと申すが――それでも七十余歳で存命にて――かたや、かの元聟の今の養子の男は、これ、自ら養父の名を継いで「喜兵衛」と名乗り――しかも――和泉屋と布屋の双方の家産を篤実着実に守り抜いて――今もめでたく栄えさせて御座るとの由。
 これは、文化元年の夏、大和廻(めぐ)りして帰参致いた、例の、私の知音の男の旅の土産話の一つで御座った。

★④★北條九代記 卷第四【第4巻】 朝親新古今集を進ず 付 八代集撰者

鎌倉 北條九代記  卷第四

 

      〇朝親新古今集を進ず  八代集撰者

同九月二日、藤兵衞尉朝親、京都より下著して、續新古今集を以て、將軍實朝卿に奉る。其より以前、延喜帝の御時に紀貫之等(ら)に勅して古今集を撰ぜられ、村上天皇の御宇に大中臣能宣(おほなかとみのよしのぶ)、源順(みなもとのしたがふ)、淸原元輔(きよはらのもとすけ)、紀時文(きのときぶん)、坂上棒城(さかのうへのもちき)、五人に命じて、後撰集を撰じ、一條院の御時に藤原公任(きんたふ)大納言、拾遺和歌集を撰ぜらる。是を三代集と名付けて歌道の權輿(けんよ)とし給ひけり。その後に白河院御在位の時、藤原通俊(みちとし)、後拾遺集を撰じ、崇德院の御宇に源俊賴(としより)朝臣、金曜葉集を撰じ、近衞院の音時に、藤原顯輔(あきすけ)、詞花集を撰じ、後白河院の御宇に至て、藤原俊成(としなり)に勅して千載集を撰ず。今又、後鳥羽上皇既に源通具(みちとも)、藤原有家(ありいへ)、藤原定家(さだいへ)、藤原家隆(いへたか)、藤原稚經(まさつね)に命じて、新古今和歌集を撰ぜしめ給ふ。古今集より新古今集まで、是を合せて八代集とぞ名付けたる。歌の道は我國の風俗として神代の古(いにしへ)より傳り、世世の帝(みかど)、絶(たえ)せぬ言の葉を撰ぜられける。その中に新古今集は去ぬる三月十六日に撰集し、同じき四月に奏覧す。未だ竟宴(きやうえん)を行はれず。披露の義は是(これ)なしといへども、將軍實朝卿、この道を好み給ふ。その上、故右大將の御歌も撰び入れられんと聞給ふに付けて、頻(しきり)に御覧ぜらるべき志おはしけるを、朝親、即ち定家(ていかの)卿に屬して、和歌の道、稽古淺からず、既に此集(しふ)の作者に入れられ、讀人しらずとは書かれたりけれども、歌の本意(ほんい)は有りけりと思(おもひ)喜ぶ所なり。實朝卿、如何にもして、書進(かきしん)ずべきの旨、望み給ふに依て、朝親、竊(ひそか)に寫(うつ)して、鎌倉に下向し、將軍家に奉りければ、大に御感(ぎよかん)の餘(あまり)、朝親に樣々の御引出物を賜り、歌の道、御物語ましまし、御詠なんども出されて見せ給ひけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十八の元久二(一二〇五)年九月二日に基づく。

〇原文

二日乙酉。内藤兵衞尉朝親自京都下著。持參新古今和歌集。是通具。有家。定家。家隆。雅經等朝臣奉勅定。於和歌所。去三月十六日撰進之。同四月奏覽。未被行竟宴。又無披露之儀。而將軍家令好和語給之上。故右大將軍御詠被撰入之由就聞食。頻雖有御覽之志。態不及被尋申。而朝親適屬定家朝臣嗜當道。即列此集作者〔讀人不知。〕之間。廻計略可書進之由。被仰含之處。依朝雅。重忠等事。都鄙不靜之故。于今遲引云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日乙酉。 内藤兵衞尉朝親、京都より下著、新古今和歌集を持參す。是れ、通具・有家・定家・家隆・雅經等朝臣、勅定(ちやくぢやう)を奉(うけたまは)り、和歌所(わかどころ)に於いて、去ぬる三月十六日、之を撰進(せんしん)し、同四月、奏覽す。未だ竟宴(きやうえん)を行はれず、又、披露の儀、無し。而れども將軍家、和語を好ましめ給ふの上、故右大將軍の御詠、撰び入れらるるの由、聞(きこ)し食(め)すに就きて、頻りに御覽の志し有りと雖も、態(わざ)と尋ね申さるるに及ばず。而るに朝親、適々(たまたま)定家朝臣に屬して當道を嗜む。即ち、此の集の作者〔讀人知らず。〕に列するの間、計略を廻らして、書き進(しん)ずべきの由、仰せ含めらるるの處、朝雅・重忠等(ら)が事に依つて、都鄙、靜かならざるが故に、今に遲引すと云々。

・「内藤兵衞尉朝親」(生没年未詳)御家人で実朝の側近。本文にあるように定家の門弟で和歌をよくした。

・「竟宴」宮中で進講や勅撰集の撰進が終わった後に催される酒宴(諸臣に詩歌を詠ませたり禄を賜ったりした)。

・「和語」は漢語に対する日本固有の語、大和言葉の謂いであるが、漢詩漢文を男系の作詩や記録の基本としていた世界では和語は和歌の謂いとなろう。

 

「延喜帝」醍醐天皇。

「三代集」勅撰和歌集「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」の総称で、この名称は天永四・永久元(一一一三)年の成立とされる源俊頼「俊頼髄脳」の頃より用いられたらしい。

「八代集」この名称は鎌倉初期の藤原定家の日記「明月記」や順徳天皇による歌論書「八雲御抄(やくもみしよう)」などに既に見られる。以下、八代集の成立年代と、そのスパンを表示してみる。言霊のウェーヴの変化が見てとれる。

「古今和歌集」延喜一三(九一三)年~一四年頃、成立。

   凡そ四〇~五〇年

「後撰和歌集」未詳。村上天皇の勅は天暦五(九五一)年に発せられている。

   凡そ四〇~五〇年

「拾遺和歌集」寛弘二(一〇〇五)年~寛弘四年、成立。

   約八〇年

「後拾遺和歌集」応徳三(一〇八六)年、成立。

   約四〇年

「金葉和歌集」二度本は天治二(一一二五)年に、三奏本は大治元(一一二六)年に成立。

   約二五年

「詞花和歌集」仁平元(一一五一)年、成立。

   約三五年

「千載和歌集」文治三(一一八七)年若しくは同四年に成立。

   約二〇年

「新古今和歌集」元久二(一二〇五)年の成立後、承元四(一二一〇)年頃まで改訂続行。]

幼兒の夢 萩原朔太郎

       幼兒の夢

 

 幼兒は絶えず夜泣きをし、何事かの夢に魘されておびえ泣いてる。母の胎體を出たばかりの小さな肉塊。人間といふよりは、むしろ生命の神祕な原型質といふべき彼等は、夢の中に何物の表象を見るのであらうか。性慾の芽生えもなく、人生に就いて何の經驗もない彼等は、おそらくその夢の中で、過去に何萬代の先祖から遺傳されたところの、人類の純粹記憶を表象してゐるのであらう。夢に魘えて夜泣きをする幼兒の聲ほど、生命の或る神祕的な恐怖と戰慄とを、哀切に氣味わるく感じさせるものはない。たしかに彼等の幼兒は、夢の中で魑魅魍魎に取り圍まれ、人類の遠い先祖が經驗した、言説しがたく恐ろしいこと、危險なことを體驗し、生命の脅かされたスリルを味はつてゐるのである。夢を性慾の表象とし、それによつて夢判斷をするフロイド流の心理學者は、すくなくともその同じ原理によつて、赤兒の夢を判斷し得ない。夢の起源は、彼等の學者が思惟するよりは、もつとミステリアスな詩人の表象と關聯してゐる。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の七番目、前掲の「夢の誤謬」の次に配されている。下線部は底本では傍点「ヽ」。最後のフロイト批判は頗る説得力があるように私には思われる。なお、ユングの人類共通の原初的な集合的無意識という元型仮説は、一九二一年の代表作「心理学的類型」(「タイプ論」「元型論」とも訳される)で公にされている。]

のびてゆく不具 大手拓次

 のびてゆく不具

 

わたしはなんにもしらない。

ただぼんやりとすわつてゐる。

さうして、わたしのあたまが香のけむりのくゆるやうにわらわらとみだれてゐる。

あたまはじぶんから

あはうのやうにすべての物音(ものおと)に負(ま)かされてゐる。

かびのはえたやうなしめつぽい木靈(こだま)が

はりあひもなくはねかへつてゐる。

のぞみのない不具(かたは)めが

もうおれひとりといはぬばかりに

あたらしい生活のあとを食ひあらしてゆく。

わたしはかうしてまいにちまいにち、

ふるい灰塚のなかへうもれてゐる。

神さまもみえない、

ふるへながら、のろのろしてゐる死をぬつたり消しぬつたり消ししてゐる。

 

[やぶちゃん注:下線部は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 田螺

田螺   靜さに堪へで田螺の移りけり

     田螺賣る津守の里の小家かな

     揚げ土に陽炎を吐く田螺かな

一言芳談 一一三

   一一三

 

 心戒上人、四国修行のあひだ、或百姓の家の壁に書付けて云、念佛者ならで、念佛申(まう)して、往生をとぐべし、云々。

 

〇心戒上人、俗名は宗親。阿州の人也。年たけて世をのがれ、紀の高野にすみ、後、重源房と海をまたげて、宋にゆき、歸朝の後は居所つねなく、あとは風雲によす。(句解)

〇念佛者ならで、人目たゝず、名利をもとめぬなり。是が至誠心(しじやうしん)の念佛にて、外のさはりもなきなり。

 

[やぶちゃん注:私は三十代の頃から、四国遍路を夢見ていた。しかし、これはどうももう、叶わぬ気がしている。少し、残念な気がしている。

「心戒上人」「朝日日本歴史人物事典」の五味文彦の記載では平宗親(たいらのむねちか 生没年不詳)とする。鎌倉初期の聖で源有仁の流れを引き、平宗盛の養子となって阿波守となるが、文治元(一一八五)年平氏の滅亡とともに遁世、心戒房と称して重源の伝をたどって宋に渡る。帰国後は居所も定めず諸国を流浪、その行動と言談は聖の典型として「一言芳談」に載る、と記す。

「四国修行」現在の四国遍路の原形。ウィキの「四国八十八箇所」によれば、『古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生れた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代がたつにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海』『の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。また、西行の白峰御陵(白峰寺)の参拝、弘法大師遺蹟巡礼や、一遍の影響もあるといわれている。室町時代には僧侶の遍路が盛んにな』った。江戸初期には「四国遍路」という言葉と概念が成立したとされ、この頃には僧侶だけでなく、現在のような民衆による遍歴が始まっている。十七世紀には『真念という僧によって『四国遍路道指南』(しこくへんろみちしるべ)という今日でいうガイドブックが書かれている。手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めたと言われる。修行僧や信仰目的の巡礼者以外にも、ハンセン病患者などの、故郷を追われた、もしくは捨てざるをえなかった者たちが四国遍路を終生行う』職業遍路も『存在した。また、犯罪やそれに類する行為で故郷を追われた者も同様に居たといわれている。もっともこれらの者たちも、信仰によって病気が治るのではないかという期待や、信仰による贖罪であったので、信仰が目的であったともいえる。また、信仰によって病気や身体の機能不全が治るのではないかと一縷の望みをかけ、現代でいう視聴覚障害者や身体障害者が巡礼することも始まった。その後、地区によっては一種の通過儀礼として村内の若衆が遍路に出るといったこともあったとされる』とある。]

2013/03/12

石竹の思ひ出 北原白秋

   石竹の思ひ出 北原白秋

 

なにゆゑに人々の笑ひしか。

われは知らず、

え知る筈なし、

そは稚(いとけな)き三歳のむかしなれば。

暑き日なりき。

物音もなき夏の日のあかるき眞晝なりき、

息ぐるしく、珍らしく、何事か意味ありげなる。

 

誰(た)が家か、われは知らず。

われはただ老爺(ヂイヤン)の張れる黃色かりし提燈(ちやうちん)を知る。

眼のわろき老婆(バン)の土間(どま)にて割(さ)きつつある

靑き液(しる)出す小さなる貝類のにほひを知る。

 

わが惱ましき晝寢の夢よりさめたるとき、

ふくらなる或る女の兩手(もろて)は

彈機(ばね)のごとも慌てたる熱(あつ)き力もて

かき抱き、光れる緣側へと連れゆきぬ。

花ありき、赤き小さき花、石竹の花。

 

無邪氣なる放尿‥‥

幼兒(をさなご)は靜こころなく凝視(みつ)めつつあり。

赤き赤き石竹の花は痛(いた)きまでその瞳にうつり、

何ものか、背後(うしろ)にて擽(こそば)ゆし。繪艸紙の古ぼけし手觸(てざはり)にや。

 

なにごとの可笑(をかし)さぞ、

數多(あまた)の若き漁夫(ロツキユ)と着物(きもの)つけぬ女との集まりて。

珍らしく、恐ろしきもの、

そを見むと無益にも靈(たまし)動かす。

 

柔かき乳房もて頭(かうべ)を壓され、

幼兒(をさなご)は怪しげなる何物をか感じたり。

何時(いつ)までも何時までも、五月蠅(うるさ)く、なつかしく、やるせなく、

身をすりつけて女は呼吸(いき)す。

その汗の臭(にほひ)の強さ、くるしさ、せつなさ、

恐ろしき何やらむ、背後(うしろ)にぞ居れ。

なにゆゑに人々の笑ひつる。

われは知らず、

え知る筈なし、

そは稚(いとけな)き三歳の日のむかしなれば。

 

暑き日なりき、

物音もなき鹹河(しほがは)の傍(そば)のあかるき眞晝なりき。

蒸すが如き幼年の恐怖(おそれ)より

尿(いばり)しつつ‥‥われのただ凝視(みつ)めてありし

赤き花、小さき花、目に痛(いた)き石竹の花。
 
 
 

(昭和25(1950)年新潮文庫「北原白秋詩集」 「思ひ出」より)

[やぶちゃん注:「漁夫(ロツキユ)」第三連から推測出来ると思うが、このフランス語みたような「ロツキユ」とは、北原白秋の故郷福岡県柳川の方言である。明治四四(一九一一)年東雲堂書店刊の「思ひ出」の序「生ひたちの記」の第3章の冒頭に(引用は新潮社「日本詩人全集7 北原白秋」を用いたが、恣意的に正字化した)、

 柳河を南に約半里ほど隔(へだ)てゝ六騎(ロツキユ)の街沖ノ端がある。(六騎とはこの街に住む漁夫の諢名(あだな)であつて、昔平家沒落の砌(みぎり)に打ち洩(も)らされの六騎がここへ落ちて來て初めて漁(すなど)りに從事したといふ、さうしてその子孫が世々その業を繼襲し、繁殖して今日の部落を爲(な)すに至つたのである。)

と説明している。]

「相棒 狂鬼人間」で検索を掛けてきた方へ 又は Season5第五話 悪魔への復讐殺人 評

僕のブログに「相棒 狂鬼人間」で検索を掛けてきた方がいるので、一言。

僕は先日の「相棒シーズン二第四話消エル銃弾ハ怪奇大作戦ノ優レタル末裔ナル語」で僕の心的な連関性で感想を述べたが、恐らく検索者は、この「消える銃弾」ではなく、Season5の第五話「悪魔への復讐殺人」(脚本・櫻井武晴 監督・和泉聖治)を念頭において検索されたはないかと推理したからである。
精神鑑定と不起訴、そして心神喪失で無罪となった犯人への復讐という構造は、如何にも「怪奇大作戦」の「狂鬼人間」(脚本・山浦弘靖 監督・満田※〈「※」=「禾」(のぎへん)」+「斉」〉「かずほ」と読む)の記憶が、脚本家の執筆動機の一因であったかも知れないことは想像に難くない。仮にそうでなかったとしても、本作が――正統な『狂鬼人間』の流れ――の下流にあることは疑いようがない事実である。
但し、僕は「悪魔への復讐殺人」には多くの不満が残った。それを記す。

本作はSeason4第5話の「悪魔の囁き」の続編であるが、

(以下、ネタバレを含むので要注意!)

その真犯人安斉直太郎があれだけの犯行の緻密さと正確さを保持し、さらに自身の犯罪行為を周到に隠蔽した理性的行動、更に幾多の犯行後も警察捜査の捜査線上に登らぬように行動した一貫した優れて論理的で緻密な行動を見ても、検察が簡易鑑定で心神喪失として不起訴にすることは絶対にあり得ないという点が、まず非現実的であるという難点である。あの事例は必ず裁判となり、そこで正規の精紳鑑定が行われて爭われるケースである。

また、エンディングももっとディグするのかと思ったら、表面上は犯罪者の良心による回心(勿論、それは現実に当然あることではある)に帰結させている点でも不満が残る。
快楽殺人を何度もしてきた安斉直太郎があの傲慢な精神科医やキリスト教の教誨師らしき人物によって(その映像がインサートされている)、たった一年ばかりで回心するというシチュエーションは――あり得ぬことでは無論ないが――多くの視聴者を納得させ得るリアリティを持っているようには、これ、思われない。そこに快楽殺人のエクスタシーを打ち破るような想像を絶する、それこそ、あの不快な精神科医が口にするような「異常体験」があって初めて、その可能性を是認し得るものである(勿論、現実にそれがなければ回心はしないと断定しているものではない)。少なくとも僕は、一般的なドラマのそうした『お約束』が「悪魔への復讐殺人」には脚本上、欠けているように僕は思うのである(尺の制限があるから仕方がないと言われればそれまでであるが、それは言い訳にはならない)。

しかし、更に言えば、脚本や監督は、実は視聴者に、杉下右京を含めてエンディングの作中人物全員が――実は真相に気づいていない――ということを匂わせる「禁じ手」を用いているように、僕は実は感じたのである。
安斉直太郎が何故、自身のカウセリング担当ナースである真帆に対して、かつて娘を安斉に殺された牧百合江に対する接触を「実に慇懃に熱心に」勧めたかを考えれば、容易に答えは出る。
安斉はそうすれば、真帆が、安西の更正や回心を心から語って、自分の外出訓練の情報をどこかで(無意識にでも)仄めかすであろうことを予測していたのである(事実、そうなった)。

はっきり言おう。安西は自身を牧百合江に殺させるために、真帆を、心理的に実に巧みに誘導したのである。

その証拠に、安西が殺されるシーンで彼は殆んど抵抗を見せない。それどころか、腹部を刺された後の安斉を演じた高橋一生君は、微かな笑みさえ浮かべているではいか(と私は冷静に見た)!

では、人によっては、「やはり安西は自身を自身で罰したことになり、彼は十全に回心したのでないか」と解釈される方も多くあられることと思う。

しかし、僕はそれを――法でさえ裁いて呉れない、許し難い自身を断罪させることに成功した、回心した快楽殺人者の末期の安堵や贖罪の笑み――とは、必ずしもとらないのである。

先にも述べたが、真正の快楽殺人者の殺人美学や快楽論理は、「悪魔への復讐殺人」で名前こそ出さなかったが、法廷で被害者遺族に対し、言うもおぞましい被害者の死体処理について笑って吐きかけたチカチーロのケースなどをみても、常人の「認識」や「常識」など吹き飛んでしまうような、遙かに越えた凄絶なものなのである。

犯罪心理学では究極のサディズトのエクスタシーは、時に自己に向けられることがあり、それは自身が殺されることを望むというマゾヒズムと区別がつかなくなる場合がある、と聞き及んでいる(実際にそうした過剰なサド行為による相互の結果犯罪成立例や事故死過失死のケースを僕は幾つか記録で管見している)。

安西は究極の快楽――自身を殺して貰うという快楽である――を目的として、最後に牧百合江を巧妙に自分に呼び寄せた可能性を――僕は否定出来ないのである。

何より――安斉直太郎は――精神科医を志していた。その療法は裏を返せば、容易にマインド・コントロールへと繋がるものである。

最後に。
寧ろ僕は、「悪魔への復讐殺人」がSeason4第5話の「悪魔の囁き」の続編であることに着目したい。

何故か?

「悪魔の囁き」の脚本家である。
これは砂本量・瀬巻亮犬及び砂本氏の体調悪化によって書き継いだ須藤泰司の三名による共同脚本であることがウィキの「相棒」のスタッフ・リストによって分かる。
この砂本量氏とは――
まさにあの――「消える銃弾」――の作者なのである……

「相棒」season9第8話「ボーダーライン」という救い難い悲哀

先日、「相棒」season9第8話「ボーダーライン」を見た(脚本・櫻井武晴 監督・橋本一)。
実に救いのない話である。ネタバレを含むが、偽装殺人(殺人ではない)という点に於いてまず「相棒」の中でも特異である。さる方のブログには、米沢守を演じる六角精児氏が、「長いこと『相棒』に携わってきたが、こんな『しみったれた』話ははじめてだ」と述べたのも、「しみったれ」ているかどうかは別として、大方の賛同を得そうな評言ではある(その方は本作を「相棒」の一篇である必要性さえない作品として斬って捨てている)。
さればこそ――この特異さ故に――開いた口が塞がらなくなって裏返ってしまう超偶然性と階段落下で美事に殺される被害者の多い「相棒」世界の中にあって――寧ろ、あり得るかもしれない、虫唾の走るような慄然さとリアルさを持つ特異点を形成して――僕にとっては大いに面白い(確実に多くの視聴者の記憶に拭い難い不快なシミとして残ってしまうという点に於いて)、絶望的にダークな作品に仕上がっており――僕は――頗る附きで気に入った。
何よりも――テツテ的に「ついていない」主役柴田貴史を演じる山本浩司君の演技が素晴らしい。
僕は彼をつげ義春原作山下敦弘監督の「リアリズムの宿」で見ていた。残念ながら、この作品に就いてはかつて「家出娘だけがいい」で低評価を下さざるを得なかったのであるが、山本浩司君を通底器として、この「相棒」が、僕の中に、ある強烈な反射作用を齎したのであった。
即ち――「リアリズムの宿」が、「つげ的世界」の持つ『毒と孤独の悲哀のすべての核心が』『完膚なきまでに』『致命的に抜け落ちてい』たのに対して、この「相棒」の山本浩司君演じる「柴田貴史」なる人物が、恐ろしいまでに、「つげ的世界」の住人として屹立していたからである。――いや――実は柴田貴史は「つげ的人物」を突き抜けてしまってさえいる。つげの主人公は、その悉くが――柴田貴史よろしく「無能の人」であるが――彼らはしかし――決して自死はしない――からである。
現代の救い難い「一言芳談」ならぬ「一言怪談」の哀しい隣人こそが――この柴田貴史であった。
そして、そうした稀有の役を山本浩司君は実に悲喜劇的(現実的悲惨はしばしば喜劇的でさえある)に演じ切ったと僕は思うのである。
「ボーダーライン」……一見の価値あり……但し、気持ちがどん底の時に見ると……あなたも柴田貴史になってしまう……かも知れぬ……

北條九代記 北條時政出家 付 前司朝雅伏誅  / 【第三巻~了】

本話を以って「北條九代記 卷之三」までのテクスト注釈を終了した。



      〇北條時政出家 付 前司朝雅伏誅

牧〔の〕御方いとゞ奸謀重畳(かんぼうぢうでう)して恣(ほしいまゝ)に行ひ、時政に向ひて種々(しゆじゆ)の非道を密談せらるゝ所に、時政も心操僻出(こゝろだでひがみい)でて、義時、時房、泰特等(ら)の政務、一向、我(わが)思ふ旨に叶はず、と常々は呟(つぶや)きて、何事も牧御方の申さるゝ義を只、善しとのみぞ思はれける。將軍實朝、未だ御幼稚にして何の御智慮もおはしまさず。尼御臺政子、内外に付きて政道を計(はから)はれ、皆、この命を守らる。然るに牧御方、又、あらぬ工(たくみ)を仕出し、如何にもして、我が婿武蔵守朝雅に關東將軍の職を繼(つが)せ、權威を耀(かゝやか)して見ばやとぞ思(おもひ)立たれける。實朝はこの比、遠州時政の亭におはします。内々當將軍家を謀り申さるゝ由、聞えければ、尼御臺政子、大に驚き、長沼〔の〕五郎宗政、結城七郎朝光、三浦兵衞尉義村、同じき九郎胤義、天野六郎政景等(ら)を遣して、將軍實朝を相摸守の亭に迎(むかへ)取り奉らる。かゝりければ、時政、潛(ひそか)に集められし勇士等、悉く相州の方に參りて、御所を守護致しけり。遠州時政、思ふ旨有りけるにや、俄(にはか)に髮を剃りて、執権の事を留めて引(ひき)籠らる。行年六十八歳。いまだ老耄(らうまう)すべき時分にもあらず。只(たゞ)心の僻(ひが)みたる所より我身を自(みづから)苦しめらる。同時に出家せし人々、數(かず)多し。是等も定(さだめ)て陰謀密談の輩なるべしと彼(か)方の人は疑(うあがひ)思はれけり。牧の御方も心ならず、鎌倉には居住するに足(あし)もたまらず、伊豆の北條に下向あり。九まべしと彼の方の人は疑思はれけり。牧御方も心ならず、前大膳大夫入道、藤九郎左衞門尉等、即ち、相摸守殿の御亭に參じて評議あり。「朝雅、斯(かく)て候はゞ、如何樣(いかさま)にも叛逆(ほんぎやく)を起し、京、鎌倉、靜(しづか)なるべからず、早く誅戮せば、太平の本なるべし」と一決して、使者を京都に遣し、右衞門〔の〕權〔の〕佐朝雅を誅すべき由、在京の御家人等に仰付けられたり。同閏七月二十六日に、京都の武士、五條判官有範、後藤左衞門尉基淸、源三左衞門尉親長、佐々木左衞門尉廣綱、同じき彌太郎高重以下七百餘騎にて、朝雅が六角東洞院の家に押寄せたり。武蔵守右衞門權佐朝雅は、折節、仙洞に候じて、圍棊(ゐご)の會に交りて退出せず。小舍人(こどねり)の童(わらは)、走(はしり)來りて座を招(まねき)立ちて、かうかうと告げたりけるに、朝雅、更に驚周章(おどろきあわ)てず、色にも出さず、元の座に歸(かへり)居て、棊の果(はて)たりける目算(もくさん)せしめ、石を蒔(まき)收めて後に「關東より朝雅誅罸の使を上せられ、軍兵、私宅へ押寄せ候と申來りて候。早く身の暇(いとま)を給はるべし」と仙洞へ奏聞(そうもん)し、馬に打乘り、六角の家に歸りければ、郎従共(ども)、早(はや)出向うて防(ふせぎ)戰ふ。朝雅、面(おもて)も振らず、寄手(よせて)の中を蒐(かけ)通り、内に入て鎧を著(ちやく)し、打て出でつゝ、四方八面に追散(おひちら)し、郎從、皆、打れしかば、只一騎、落ちて行く。只一騎落ちて行く。軍兵等、追(おひ)かくれども. 物ともせず、松坂の邊まで落ちけるを、金持(かなぢの)六郎廣親、佐々木三郎兵衞尉盛綱等、跡に付きて隨(したかひ)行けども追詰(おひつ)むる人もなかりし所に、山〔の〕内刑部大輔(ぎやうぶのたいふ)經俊が六男六郎通基、其時は未だ持壽丸(ぢじゆまる)と名付けしが、聞ゆる強弓(つよゆみ)にて、近く馳寄(はせよつ)て射たりければ、朝雅が頸(くび)の骨を箆深(のぶか)に射込(いこみ)しかば、一矢(や)なれども、痛手にて、馬より眞倒(なつさかさ)まに落ちけるを、押へて首をぞ取にける。さしも武勇(ぶよう)の譽(ほまれ)を施し、當時、權勢の威を逞しくして、諸人、恐れて影をだにも蹈(ふ)まざりけるに、盛者必衰(しようしやひつすゐ)の理(ことわり)、誠に賴(たのみ)なき世の有樣、勢(いきほひ)、磷(ひずろ)ぎ、運、傾き一朝に滅びて死骸を路徑(ろけい)の草むらに曝し、命を黄泉(くわうせん)の底に落しけるこそ悲しけれ。


[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十八の元久二(一二〇五)年閏七月十九日・二十日・二十五日・二十六日に基づく。以上の閏七月十九日から続く二十六日まで全条(途中に別条はない)を続けて見る。


〇原文
久二年閏七月小十九日甲辰。晴。牧御方廻奸謀。以朝雅爲關東將軍。可奉謀當將軍家〔于時御坐遠州亭〕之由有其聞。仍尼御臺所遣長沼五郎宗政。結城七郎朝光。三浦兵衞尉義村。同九郎胤義。天野六郎政景等。被奉迎羽林。即入御相州亭之間。遠州所被召聚之勇士。悉以參入彼所。奉守護將軍家。同日丑尅。遠州俄以令落飾給。〔年六十八〕同時出家之輩不可勝計。
廿日乙巳。晴。辰尅。遠州禪室下向伊豆北條郡給。今日相州令奉執権事給云々。今日大膳大夫屬入道。藤九郎右衞門尉等參會相州御亭。被經評議。被發使者於京都。是可誅右衞門權佐朝雅之由。依被仰在京御家人等也。
廿五日庚戌。晴。去廿日進發東使。今日入夜入洛。即相觸事由於在京健士云々。
廿六日辛亥。晴。右衛門權佐朝雅候仙洞。未退出之間。有圍碁會之處。小舍人童走來招金吾。告追討使事。金吾更不驚動。歸參本所。令目算之後。自關東被差上誅罸專使。無據于遁逃。早可給身暇之旨奏訖。退出于六角東洞院宿廬之後。軍兵五條判官有範。後藤左衞門尉基淸。源三左衞門尉親長。佐々木左衞門尉廣綱。同彌太郎高重已下襲到。暫雖相戰。朝雅失度逃亡。遁松阪邊。金持六郎廣親。佐々木三郎兵衞尉盛綱等追彼後之處。山内持壽丸〔後號六郎通基。刑部大夫經俊六男。〕射留右金吾云々。


〇やぶちゃんの書き下し文
十九日甲辰。晴る。牧の御方、奸謀を廻らし、朝雅を以つて關東の將軍と爲し、當將軍家〔時に遠州亭に御坐(おはしま)す。〕を謀り奉るべきの由、其の聞え有り。仍つて尼御臺所、 長沼五郎宗政・結城七郎朝光・三浦兵衞尉義村・同九郎胤義・天野六郎政景等を遣はし、羽林を迎へ奉らる。即ち、相州の亭に入御するの間、遠州が召し聚めらるる所の勇士、悉く以つて彼(か)の所へ參入し、將軍家を守護し奉る。同日丑の尅、遠州、俄かに以つて落飾せしめ給ふ〔年六十八。〕。同時に出家の輩、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。
廿日乙巳。晴る。辰の尅、遠州禪室、伊豆の北條郡へ下向し給ふ。今日、相州執権の事を奉(うけたまは)らしめ給ふと云々。
今日、大膳大夫・屬(さくわん)入道・藤九郎右衞門尉等、相州の御亭に參會し、評議を經られ、使者を京都へ發せらる。是れ、右衞門の權の佐(すけ)朝雅を誅すべきの由、在京御家人等に仰せ被らるに依つてなり。
廿五日庚戌。晴る。去ぬる廿日進發の東使、今日、夜に入りて入洛す。即ち、事の由を在京の健士に相ひ觸ると云々。
廿六日辛亥。晴。右衞門權佐朝雅、仙洞に候じ、未だ退出せざるの間、圍碁(いご)の會有るの處、小舍人童(こどねりわらは)、走り來りて金吾を招き、追討使が事を告ぐ。金吾、更に驚動せず、本所(ほんじよ)へ歸參し、目算せしむるの後、
「關東より誅罸の專使を差し上ぼされ、遁逃(とんたう)に據(よんんどこ)ろ無し。早く身の暇まを給はるべきの旨、奏し訖んぬ。六角東洞院(ひがしのとうゐん)の宿廬(しゆくろ)に退出の後、軍兵五條判官有範・後藤左衞門尉基淸・源三左衞門尉親長・佐々木左衞門尉廣綱・同彌太郎高重已下、襲ひ到り、暫く相ひ戰ふと雖も、朝雅、度を失ひて逃亡し、松阪邊に遁(のが)る。金持(かなぢの)六郎廣親・佐々木三郎兵衞尉盛綱等、彼の後を追ふの處、山内持壽丸(ぢじゆまる)〔後に六郎通基と號す。刑部大夫經俊が六男。〕右金吾を射留むと云々。

「箆深に射込しかば」矢柄(やがら)も深々と射抜いたによって。]

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 巨福山興國建長寺

   巨福山興國建長寺

 巨福山興國建長寺(こふくざんけんてうじ)は、鎌倉五山の一番目なり。本尊は濟田(さいだ)地藏尊なり。應行(おうぎやう)の作。古へは、この處(ところ)を地獄谷(ぢごくだに)とて、科人(とがにん)を刑罰(けいばつ)せしところなり。時賴の時、科人濟田といふもの、つねに地藏菩薩を信仰しけるが、きられんとせし時、守(まも)りにかけたる地藏の利生(りせう)ありて、たすかりたり。この地藏を本尊として、この寺、建立ありしなり。いたつて大寺(だいぢ)にて、境内、見所(どころ)おほし。
〽狂 くさなぎの
    けんてうじとや
 けいだいを
はらいきよめて
  ちりひとつなし
「世間の譬(たとへ)にも、きれいにはきちぎつたことを、『建長寺の樣(やう)だ』といひますが、それにひきかへて、私(わたし)の家(うち)の嬶(かゝあ)めが爺(ぢ)ぢむさいには、こまります。なんでもいきなりで、ついにお齒黑(はぐろ)をつけたこともない口から、鼠色(ねづみいろ)の涎(よだれ)をたらして、どこもかしこも、不掃除(ふそうぢ)できたないから、ときどき、儂(わし)が掃除してやりますが、こんなにひさしく旅へ出てゐるから、掃除してやる人がなくて、さぞかし、よごれてゐるであらう。はやくかへつて、掃除をしてやらうと思へば、それが樂しみでござります。」
「イヤ、お前こそさふ思つてゐなさらうが、お前の留守に、上(かみ)さまが、だれぞ、よい箒(ほうき)をこしらへて、掃除をしてもらはふもしれぬぞへ。」
「さやう、さやう、それもしれませぬ。『物臭者(ものぐさもの)の節句働(せつくばたら)き』といふことがあるから、そんな事のないうちに、私は、この節句前には、ぜひ、かへらうとぞんじます。」

[やぶちゃん注:「巨福山興國建長寺」の正式名は建長興国禅寺である。
「濟田地藏尊」「杉个谷 小袋坂」で既注。
「はきちぎつた」この「ちぎる」は動詞ラ行四段活用の動詞を造る接尾語で、他の動詞の連用形に付き、その意を強め、はなはだしく~する、盛んに~する、という意を表す。徹底的に掃き切った。
「建長寺の樣だ」事実、掃除の行き届いている様子を故事成句で「建長寺の庭を竹箒で掃いたようだ」と言う。開山蘭渓道隆は本寺を本邦初の純粋禅の道場とするため、宋の厳格な禅風をそのままに持ち込んでこのかた、境内は塵一つなく掃き清められてきたことに基づく成句。
「物臭者の節句働き」怠け者の節句働き。ふだん怠けている者が、世間の人が休む日に限って働くことを揶揄した成句。]

心理學者の誤謬 萩原朔太郎

       心理學者の誤謬

 夢の解釋について、多くの心理學者に共通する誤謬は、覺醒時に於ける半醒半夢の狀態から、眞の昏睡時の夢を類推することである。夢が性慾の潛在意識であるといふフロイドの學説も、おそらくその同じ誤謬から出發してゐる。覺醒時に於ては、既に半ば意識が働き、夢を夢と意識することから、人は或る程度まで、夢を自分の意志によつて、自由にコントロールすることができるのである。そこでフロイドの説の如く、人はその日常生活で抑壓され、ふだんに内攻してゐる性の欲求を、おのづから夢の中に變貌して表象する。多くの人々にあつて「まだ醒めやらぬ明方の夢」が樂しいのは、つまり言つてこの事實を説明してゐる。なぜならフロイドの説によれば、夢は原則として「樂しいもの」であり、性の解放による饗宴でなければならないからだ。だが眞の昏睡時の夢は、概してあまり樂しいものではなく、むしろ性の解放とは關係がないところの、恐ろしいことや悲しいことが多いのである。
 ベルグソンの夢の説も、ひとしくまた同じ點で誤つてゐる。ベルグソンによれば、夢は身體の内外に於ける知覺の刺激――戸外の物音や、胃腸の重壓感や――によつて動因的に表象されるといふのである。彼はその例證として、戸外で吠える犬の聲から、大砲の音を表象し、それによつて戰爭の夢を見たと言つてる。覺醒時に於て、知覺が半ば目を醒ましてゐる時には、疑ひもなくその通りである。しかし意識が全く昏睡してゐる夢の中では、ベルグソンの説明が意味をなさない。おそらく夢の解説は、もつと不思議で解きがたく、謎の深い神祕の闇に低迷してゐる。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の六番目、前掲の「夢の起源」の次に配されている。この内容は頗る共感出来る。これ、凡そ日本の昭和初期の一介の詩人の書き散らしたもののとは思われない。古い夢分析についての精神分析学の学術論文の一節と偽っても、誰もが信ずるであろう。]

北條九代記 武藏前司朝雅畠山重保と喧嘩 竝 畠山父子滅亡


      ○武藏前司朝雅畠山重保と喧嘩 竝 畠山父子滅亡

 

京都の守護武藏前司源朝雅が第(てい)は六角東〔の〕洞院にあり。今度、實朝卿の御臺所御迎(おむかひ)の爲に、上洛せられし人々、かの第に參會して酒宴ありけるに、畠山六郎重保と亭主朝雅と計(はかり)なき諍論(じやうろん)を仕出(しいだ)し、重保、樣々悪口を吐散(はきちら)す。一座の人々兎角宥(なだ)めて無事なりけるを、朝雅、猶(なほ)も遺恨を挾(さしはさ)み、牧御方(まきのおかた)に付いて、畠山次郎重忠を讒しけり。重忠は時政前腹(ぜんばら)の娘に嫁して婿なり。朝雅は時政當腹(とうふく)の娘を迎へて、牧御方、殊更に愛せらるゝ婿たり。繼母(けいぼ)なりければ、婿ながらも重忠には疎(うと)く、朝雅には親しきに任せて、時々(よりより)畠山父子逆心ある由、時政に讒しけり。稲毛三郎重成は重忠が従弟(いとこ)なり。是も時政前腹の婿ながら、重忠と不和なりければ、同じく牧御方と心を合せて、畠山父子を滅(ほろぼ)さんと相計る、北條義時、同舎弟時房、即ち父時政を諫め申されける樣、「畠山次郎重忠は、去ぬる治承四年の役より以來(このかた)、忠義を專(もつぱら)とせしかば、故大將軍御家其志を鑒(かんが)み給ひ、將軍御家督の御代(みよ)を守護し奉るべき旨、慇懃の御遺言(ごゆゐげん)を爲し給へり。賴家卿の御方(みかた)に候じながら、判官能員叛逆の時、北條家の味方と成り、忠戦(ちうせん)の功を顯しけるも、時政公に於て婿なれば、父子の禮を重くする所なり[やぶちゃん字注:「顯しけるも、」は底本では「顯しけるり、」。文脈からかく訂した。]。然るを、今、何の憤りを以てか、重忠、叛逆を起すべき。若(もし)彼(か)の度々の忠功を捨てて楚忽(そこつ)に誅伐を行はれば、定(さだめ)て後悔に及ぶべき歟。事の實否を糺されて後、その御沙汰あらば然るべく候」と申されけるに、時政、一言にも及ばす、座を立たれければ、義時、時房も退出せらる。牧御方、この由を聞給ひ、備前守時親を使として、相州義時に仰せけるは、「重忠謀叛の事隱なし。君のため、世のため、この趣を遠州時政へしらせ奉る所に、貴殿の諫は偏(ひとへ)に重忠が奸曲(いんきよく)に方人(かたうど)して、繼母なれば、我を讒者になすべしとの御巧(おんたくみ)なるべし」と申されければ、相州義時、「この上は如何様にも御心に任せ給ふべし」とぞ返答せられける。同六月二十二日の微明(びめい)に鎌倉中騒動し、軍兵等(ら)、由比濱(ゆひのはま)の邊に馳(はせ)違ひ、佐久間太郎等(ら)大勢にて、畠由六郎重保が家を取圍む。重保、出でて防(ふせぎ)戰ふといへども、俄の事にてはあり、折節、無勢なり。主從十五人、同じ枕に討死したり。父重忠は別心なき由、申(まうし)開かんとて、鎌倉に來ると聞えしかば、相模守義時を大將として數(す)萬騎を卒(そつ)して、武州二俣河(ふたまたがは)に出向はる。先陣は葛西か〔の〕兵衞尉淸重、後陣は堺〔の〕平次兵衞尉常秀なり。相隨ふ人々には大須賀(おほすかの)四郎胤信、國分(こくぶの)五郎胤通、相馬五郎義胤、東(とうの)平太重胤、足利三郎義氏、小山左衞門尉朝政(ともまさ)、三浦兵衞尉義村、同九郎胤義、長沼〔の〕五郎宗政、結域〔の〕七郎朝光、宇都宮〔の〕彌三郎頼賴綱、筑後〔の〕左衞門尉知重、安達〔の〕藤九郎右衞門尉最盛、中條(なかでう)藤右衞門尉家長、刈田(かりたの)平右衞門尉義季、狩野介(かののすけ)入道、宇佐美(うさみの)右衞門尉祐茂(すけしげ)、波多野(はだのの)小次郎忠綱、松田次郎有綱、土屋(つちやの)彌三郎宗光、河越(かわごえの)次郎重時、同三郎重員、江戸〔の〕太郎忠重、澁河(しぶかはの)武者所、小野寺(をのでらの)太郎秀通、下河邊莊司(しもかうべのしやうじ)行平、園田(そのだの)七郎、その外、大井、品河(しながは)、春日部(かすがへ)、潮田(しほだ)、鹿島(かしま)、小栗(をぐり)、竝方(なめかた)、兒玉(こだま)、横山、金子、村山の輩、我も我もと馳(はせ)付けたり。關戸(せきど)の大將には式部丞時房、和田左衞門尉義盛なり。前後の軍兵三萬餘騎、山に連(つらな)り、野に滿ちて。旗を靡(なびか)し、甲(かぶと)の星を竝べて、今や遲しと待ちかけたり。さる程に畠山次郎重忠、二俣河に付いて、遙にこの由を聞きて鶴峯(つるがみね)の麓に陣取(じんど)り、家子(いへのこ)本田(ほんだの)次郎近常(ちかつね)、榛澤(はんざわの)六郎成淸(なりきよ)に申されけるは、「我、既に小衾郡(をぶすまのこほり)を出でて爰にきたり、大軍に行逢ひたり。然るに舍弟長野〔の〕三郎重淸は信濃あり、同舍弟六郎重宗は奥州にあり、いま相隨ふ者とては一男小次郎重秀、家子に汝二人、郎從都合、百三十四人のみなり。嫡子重保は早(はや)、討たれたりと聞くからに、我、何をか期(ご)し、何處(いづく)にか遁るべき、只討死と思ふより外は他念なし。若(もし)落(おち)行かんと思ふ人々は是より歸り給へ」と申されしかば、本田、榛澤、申しけるは、「敵軍數萬騎に此小勢、對戰し難し。先づ御館に引返し、討手を待(まち)受けて軍(いくさ)し給へかし」と云ひければ、重忠、仰せけるは、「家を忘れ親(したし)きを忘るゝは勇士の道なり。嫡子重保討たれし上は、本地に歸りても何かせん。去ぬる正治の比、梶原〔の〕景時が一宮(いちのみや)の館(たち)を出でて途中にて討れしは、一時の命を惜(をし)むに似たりと後に嘲(あざけり)を殘せしぞや。引返(ひきかへ)さば、陰謀の企(くはだて)あるに似たり。只爰にて腹切(はらきる)べし」とありければ、百三十四人の輩、同じく御供申して年來の御恩を報ずべしとて、中々一人も落べしと申す者なし。斯(かく)て寄手の軍兵共、先陣を志す其中に、安達藤九郎右衞門尉景盛、其郎野田(のだの)與一、加治(かぢの)次郎、飽間(あくまの)太郎、鶴見(つるみの)平次、玉村〔の〕太郎與藤次(よとうじ)、主從七騎、眞前(まつさき)に進み、弓矢取直し、鏑矢(かぶらや)を打番(つが)うて重忠を目掛けてかゝりけり。重忠、是を見て、「安達は弓馬の親き友なり。一陣に驅出(かけい)でたるは神妙なり。如何に小次郎重秀、馳向うて戰へ」と下知しければ、重秀、太刀を拔き、安達と相戰ふ事、數刻に可ぶ。その間に重忠に渡逢(わたりあ)ひて、加治(かぢの)次郎 宗季以下二十三騎、打たれたり。本田、榛澤以下の兵、數萬騎の中に驅入(かけいつ)て、四角八方に討て廻る。さしもの大軍、村々に成て引色(ひきいろ)なり。申刻(さるのこく)に及びて、重忠既に氣疲れたり。小次郎も手負ひたり。その外の郎從も痛手薄手負(おは)ぬはなし。寄手は大軍、いやが上に新手(あらて)入替りて攻めけるが、愛甲(あいかふの)三郎季隆が放つ矢に、重忠、脇壺を射させて、一矢なれども、究竟(くつきやう)の矢壺なれば、重忠、堪へず、馬より下(おり)立ちて、太刀を杖に突き、※(すくみ)たる所を、季隆、引組みて首を取る[やぶちゃん字注:「※」は判読不能。「疒」の中に「全」のような字に見えるが、それでは「癒える」の意でおかしい。識者の御教授を乞う。]。大將討たれければ、子息小次郎を初(はじめ)て皆、一所にて討死す。重忠、今年四十二歳、多年の勳功忠義の志、讒佞(ざんねい)の掌握に落ちて、家門滅びける事は、如何なる運命の果(はて)なるらんと、心ある人々は怪(あやし)み思ひ侍(はんべ)りけり。翌日、軍兵等(ら)、鎌倉に歸參して、畠山重忠以卞の首級を遠州時政に檢(けん)せしめて、軍(いくさ)の事を語り申す。相州義時、申されけるは、「重忠が舍弟親族は皆他所にありて、戦場に隨ふ者は僅(わづか)に百餘人なり。謀叛の事は虛誕(きよたん)の讒訴なりと覺ゆ。不便(ふびん)の事かな」とて、落涙せらる。時政、何とも仰(おほせ)の旨なし。その日の酉刻とりのこく)計(ばかり)に、三浦〔の〕卒六兵衞尉、鎌倉経師谷(きやうじがやつ)にして榛谷四郎重朝、同嫡子太郎重季、次郎秀重等を誅戮す[やぶちゃん字注:「きやうじがやつ」のルビは底本では「きうじがやつ」。脱字と判断して訂した。]。この軍の起(おこり)は稻毛三郎重成入道が謀曲(ぼうきよく)にあり。遠州時政、潛(ひそか)に畠山叛逆誅伐の事を稻毛に示合(しめしあは)さる。親族の好(よしみ)を變じて、重忠を謀りし故なりとて、大河戸三郎、宇佐美與一に仰せて、稻毛入道、同子息小澤(こざはの)次郎重政を誅せらる。牧御方、非道の企(くはだて)、世に隱(かくれ)なく沙汰し合へり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十八の元久元(一二〇四)年十一月二十日及び元久二年六月二十一日・二十二日・二十三日等に基づく。所謂、畠山重忠の乱である。牧の方に対する一貫した指弾から(実際の事実であると私は客観的には思っているのだが)、私はこの後に展開される実質的な尼将軍政子への批判と同様、本作の筆者は、非常に強い女性嫌悪感情(恐らくは幼児期から青年期までの何らかのトラウマによるものと推測されるような)を持っている人物とプロファイリングする。

 

「計なき諍論」取るに足らぬ些細なことから生じた言い争い。「吾妻鏡」でもその内容を記さない。

 

「稻毛三郎重成」(?~元久二(一二〇五)年)は既注済みであるが再注しておく。桓武平氏の流れを汲む秩父氏一族。武蔵国稲毛荘を領した。多摩丘陵にあった広大な稲毛荘を安堵され、枡形山に枡形城(現生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。治承四(一一八〇)年八月の頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年十月、隅田川の長井の渡しに於いて、従兄弟であった畠山重忠らとともに頼朝に帰伏して御家人となって政子の妹を妻に迎え、多摩丘陵にあった広大な稲毛荘(武蔵国橘樹郡(たちばなのこおり))を安堵されて枡形山に枡形城(現在の生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。建久九(一一九八)年に重成は亡き妻のために相模川に橋を架けたが、その橋の落成供養に出席した頼朝が帰りの道中で落馬、それが元で死去している。本話の最後にある通り、元久二(一二〇五)年六月二十二日の畠山重忠の乱によって重忠が滅ぼされると、その原因は重成の謀略によるもので、重成が舅の時政の意を受けて無実の重忠を讒言したと指弾されて、翌二十三日には早々に殺害されている(ウィキの「稻毛重成」に拠る)。

 

カタストロフの開始である「吾妻鏡」の元久二(一二〇五)年六月二十一日の条から見る。

 

〇原文

廿一日丁未。晴。牧御方請朝雅〔去年爲畠山六郎被惡口。〕之讒訴。被欝陶之間。可誅重忠父子之由。内々有計議。先遠州被仰此事於相州幷式部丞時房主等。兩客被申云。重忠治承四年以來。專忠直間。右大將軍依鑒其志給。可奉護後胤之旨。被遣慇懃御詞者也。就中雖候于金吾將軍御方。能員合戰之時。參御方抽其忠。是併重御父子礼之故也。〔重忠者遠州聟也。〕而今以何憤可企叛逆哉。若被弃度々勳功。被加楚忽誅戮者。定可及後悔。糺犯否之眞僞之後。有其沙汰。不可停滯歟云々。遠州重不出詞兮。被起座。相州又退出給。備前守時親爲牧御方之使。追參相州御亭。申云。重忠謀叛事已發覺。仍爲君爲世。漏申事由於遠州之處。今貴殿被申之趣。偏相代重忠。欲被宥彼奸曲。是存繼母阿黨。爲被處吾於讒者歟云々。相州。此上者可在賢慮之由。被申之云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

廿一日丁未。晴る。牧御方、朝雅〔去年、畠山六郎の爲に惡口を被る。〕が讒訴を請けて、欝陶(うつたう)せらるるの間、重忠父子を誅すべきの由、内々計議有り。先づ遠州、此の事を相州幷びに式部丞時房主等(ぬしら)に仰せらる。兩客、申せれて云はく、

「重忠、治承四年以來(このかた)、忠直を專らにする間、右大將軍、其の志を鑒(かんが)み給ふに依つて、後胤(こういん)を護り奉るべきの旨、慇懃(いんぎん)の御詞(おんことば)を遣はさる者なり。就中(なかんづく)、金吾將軍の御方(みかた)に候ずと雖も、能員が合戰の時、御方に參じて、其の忠を抽(ぬき)んづ。是れ併(しか)しながら、御父子の禮を重んずるが故なり〔重忠は遠州の聟なり。〕。而るに今、何の憤りを以つてか、叛逆を企つべけんや。若し、度々の勳功を弃(す)てられ、楚忽(そこつ)の誅戮を加へらるれば、定めて後悔に及ぶべし。犯否(ぼんぷ)の眞僞を糺すの後、其の沙汰有るも、停滯すべからざらんか。」

と云々。

遠州、重ねて詞を出されずして、座を起たせらる。相州も又、退出し給ふ。備前守時親、牧御方の使ひとして、追つて相州の御亭に參り、申して云はく、

「重忠が謀叛の事、已に發覺す。仍つて君の爲、世の爲、事の由を遠州に漏らし申すの處、今、貴殿が申さるるの趣き、偏へに重忠に相ひ代はりて、彼(かれ)が奸曲(かんきよく)を宥(なだ)められんと欲す。是れ、繼母の阿黨(あたう)と存じ、吾(われ)を讒者(ざんしや)に處せられんが爲か。」

と云々。

相州、

「此の上は、賢慮在るべし。」

の由、之を申さると云々。

 

・「楚忽に」軽率に。

 

・「犯否」罪を犯すことと犯さないこと。「はんぴ」と読んでもよい。

 

・「備前守時親」(生没年未詳)は牧の方の父(もしくは兄)であった牧宗親(まきのむねちか 生没年未詳)の子。牧宗親は、例の頼朝の亀の前スキャンダルの際、亀の前が匿われていた伏見広綱邸を政子の命で破却、それが頼朝の怒りを買い、髻を切られる恥辱を受けた人物である。時親はこの後の実朝を廃して平賀朝雅を新将軍として擁立しようとした牧氏事件で縁座して出家させられている(以上はウィキの「牧宗親」の記載を参考にした)。

 

・「奸曲を宥められんと欲す」「奸曲」は姦曲とも書き、心に悪だくみのあること。「宥む」は罪などに対して寛大な処置をするの謂いであるから、ここは、『(重忠の許し難い)悪だくみを誤魔化しそうとしている』の意である。

 

・「繼母の阿黨と存じ」「阿黨」は普通は、権力のある者に阿(おもね)って組みすること、また、その仲間を言うが、ここは、『継母であるという先入観から、悪しきおもねりをなして、悪だくみを致す不逞の輩と、我らを断じて』の意。

 

・「此の上は、賢慮在るべし」双方がケツを捲くっている状況であるから、ここは、『かくなる上は、どうぞ、御随意に!』といった切り口上といった感じであろう。

 

 翌元久二(一二〇五)年六月二十二日の条。畠山重忠の乱は一日でカタがついてしまうのである。如何にも鮮やか過ぎるではないか?

 

〇原文

六月小廿二日戊申。快晴。寅尅。鎌倉中驚遽。軍兵競走于由比濱之邊。可被誅謀叛之輩云々。依之畠山六郎重保。具郎從三人向其所之間。三浦平六兵衞尉義村奉仰。以佐久間太郎等。相圍重保之處。雖諍雌雄。不能破多勢。主從共被誅云々。又畠山次郎重忠參上之由。風聞之間。於路次可誅之由。有其沙汰。相州已下被進發。軍兵悉以從之。仍少祗候于御所中之輩。于時問注所入道善信。相談于廣元朝臣云。朱雀院御時。將門起於東國。雖隔數日之行程。於洛陽猶有如固關之搆。上東上西兩門〔元土門也。〕始被建扉。矧重忠已莅來近所歟。盍廻用意哉云々。依之遠州候御前給。召上四百人之壯士。被固御所之四面。次軍兵等進發。大手大將軍相州也。先陣葛西兵衞尉淸重。後陣堺平次兵衞尉常秀。大須賀四郎胤信。國分五郎胤通。相馬五郎義胤。東平太重胤也。其外。足利三郎義氏。小山左衞門尉朝政。三浦兵衞尉義村。同九郎胤義。長沼五郎宗政。結城七郎朝光。宇都宮彌三郎賴綱。筑後左衞門尉知重。安達藤九郎右衞門尉景盛。中條藤右衞門尉家長。同苅田平右衞門尉義季。狩野介入道。宇佐美右衞門尉祐茂。波多野小次郎忠綱。松田次郎有經。土屋彌三郎宗光。河越次郎重時。同三郎重員。江戸太郎忠重。澁河武者所。小野寺太郎秀通。下河邊庄司行平。薗田七郎。幷大井。品河。春日部。潮田。鹿嶋。小栗。行方之輩。兒玉。横山。金子。村山黨者共。皆揚鞭。關戸大將軍式部丞時房。和田左衞門尉義盛也。前後軍兵。如雲霞兮。列山滿野。午尅各於武藏國二俣河。相逢于重忠。重忠去十九日出小衾郡菅屋館。今著此澤也。折節舍弟長野三郎重淸在信濃國。同弟六郎重宗在奥州。然間相從之輩。二男小次郎重秀。郎從本田次郎近常。榛澤六郎成淸已下百三十四騎。陣于鶴峯之麓。而重保今朝蒙誅之上。軍兵又襲來之由。於此所聞之。近常。成淸等云。如聞者。討手不知幾千万騎。吾衆更難敵件威勢。早退歸于本所。相待討手。可遂合戰云々。重忠云。其儀不可然。忘家忘親者。將軍本意也。随而重保被誅之後。不能顧本所。去正治之比。景時辭一宮館。於途中伏誅。似惜暫時之命。且又兼似有陰謀企。可恥賢察歟。尤可存後車之誡云々。爰襲來軍兵等。各懸意於先陣。欲貽譽於後代。其中。安達藤九郎右衞門尉景盛引卒野田與一。加世次郎。飽間太郎。鶴見平次。玉村太郎。與藤次等畢。主從七騎進先登。取弓挾鏑。重忠見之。此金吾者。弓馬放遊舊友也。拔万人赴一陣。何不感之哉。重秀對于彼。可輕命之由加下知。仍挑戰及數反。加治次郎宗季已下多以爲重忠被誅。凡弓箭之戰。刀劔之諍。雖移尅。無其勝負之處。及申斜。愛甲三郎季隆之所發箭中重忠〔年四十二。〕之身。季隆即取彼首。献相州之陣。而之後。小次郎重秀〔年廿三。母右衞門尉遠元女。〕幷郎從等自殺之間。縡屬無爲。今日未尅。相州室〔伊賀守朝光女。〕男子平産〔左京兆是也。〕。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

廿二日戊申。快晴。寅の尅、鎌倉中、驚遽(きやうきよ)し、軍兵、由比の濱の邊に競ひ走る。謀叛の輩、誅せらるべしと云々。

之れに依つて、畠山六郎重保、郎從三人を具して其の所へ向ふの間、三浦平六兵衞尉義村 仰せを奉(うけたまは)り、佐久間太郎等を以つて、重保を相ひ圍むの處、雌雄を諍(あらそ)ふと雖も、多勢を破るに能はず、主從共に誅せらると云々。

又、畠山次郎重忠參上の由、風聞の間、路次(ろし)に於いて誅すべきの由、其の沙汰有り。相州已下、進發せらる。軍兵、悉く以つて之に從ふ。仍つて御所中に祗候(しこう)するの輩(ともがら)、少なし。時に問注所入道善信、廣元朝臣に相ひ談じて云はく、

「朱雀院の御時、將門、東國に於いて起つ。數日の行程を隔つと雖も、洛陽に於いて猶ほ固關(こげん)のごときの搆(かま)へ有り。上東・上西の兩門〔元は土門(つちもん)なり。〕、始めて扉(そびら)を建てらる。矧(いはん)や重忠、已に近所に莅(のぞ)み來たらんか。盍(なん)ぞ用意を廻らさざらんや。」

と云々。

之れに依つて、遠州、御前に候じ給ひ、四百人の壯士を召し上ぼせ、御所の四面を固めらる。次に軍兵等、進發す。大手大將軍は相州なり。先陣は葛西兵衞尉淸重、後陣は堺平次兵衞尉常秀・大須賀四郎胤信・國分五郎胤通・相馬五郎義胤・東平太重胤なり。其の外は、足利三郎義氏・小山左衞門尉朝政・三浦兵衞尉義村・同九郎胤義・長沼五郎宗政・結城七郎朝光・宇都宮彌三郎賴綱・筑後左衞門尉知重・安達藤九郎右衞門尉景盛・中條藤右衞門尉家長・同苅田平右衞門尉義季・狩野介入道・宇佐美右衞門尉祐茂・波多野小次郎忠綱・松田次郎有經・土屋彌三郎宗光・河越次郎重時・同三郎重員・江戸太郎忠重・澁河武者所・小野寺太郎秀通・下河邊庄司行平・薗田七郎、幷に大井・品河(しながは)・春日部(かすかべ)・潮田(うしほだ)・鹿嶋(かしま)・小栗(をぐり)・行方(なめかた)の輩、兒玉・横山・金子・村山黨(たう)の者共、皆、鞭を揚ぐ。關戸の大將軍は式部丞時房、和田左衞門尉義盛なり。前後の軍兵、雲霞のごとく、山に列し、野に滿つ。午の尅、各々、武藏國二俣河に於いて、重忠に相ひ逢ふ。重忠、去ぬる十九日、小衾郡(をぶすまのこほり)菅屋(すがや)の館(たち)を出で、今、此の澤に著くなり。折節、舍弟長野三郎重淸は信濃國に在り。同じく弟六郎重宗は奥州に在る。然る間、相ひ從ふの輩は、二男小次郎重秀・郎從本田次郎近常・榛澤(はんざはの)六郎成淸已下、百三十四騎、鶴峯(つるがみね)の麓に陣す。而うして、重保、今朝、誅を蒙るの上、軍兵、又、襲ひ來たるの由、此の所に於て之を聞く。

近常・成淸等、云はく、

「聞くがごとくんば、討手(うつて)幾千万騎といふことを知らず。吾が衆、更に件(くだん)の威勢に敵(てき)し難し。早く本所に退き歸り、討手を相ひ待ち、合戰を遂ぐべし。」

と云々。

重忠、云はく、

「其の儀は然るべからず。家を忘れ、親を忘るるは、將軍の本意なり。随つて、重保誅せらるるの後は、本所を顧みるに能はず。去ぬる正治の比(ころ)、景時、一宮の館(たち)を辭し、途中に於いて誅に伏(ふく)す。暫時の命を惜むに似て、且は又、兼ねて陰謀の企て有るに似たり。賢察を恥づべきか。尤も後車の誡(いましめ)と存ずべし。」

と云々。

爰に軍兵等、襲ひ來る。各々、意(こころ)を先陣に懸け、譽れ後代に貽(のこ)さんと欲す。其の中に、安達藤九郎右衞門尉景盛・野田與一・加世(かせの)次郎・飽間(あきまの)太郎・鶴見平次・玉村太郎・與藤次等を引卒し畢はり、主從七騎、先登に進み、弓を取り鏑(かぶら)を挾(さしはさ)む。重忠、之れを見て、

「此の金吾は、弓馬放遊の舊友なり。万人を拔きんで一陣に赴く。何ぞ之を感ぜざるや。重秀、彼に對し、命を輕んずるべし。」

の由、下知を加ふ。仍つて挑戰、數反(すへん)に及ぶ。加治次郎・宗季已下、多く以つて重忠の爲に誅せらる。凡そ、弓箭の戰ひ、刀劔の諍(あらそ)ひ、尅(とき)を移すと雖も、其の勝負無きの處、申の斜(ななめ)に及び、愛甲三郎季隆が發つ所の箭(や)、重忠〔年四十二。〕が身に中(あた)る。季隆、即ち彼(か)の首を取り、相州の陣へ献ず。而るの後、小次郎重秀〔年廿三、母は右衞門尉遠元の女。〕幷びに郎從等、自殺するの間、縡(こと)、無爲(ぶゐ)に屬す。今日、未の尅、相州が室〔伊賀守朝光の女。〕、男子平産す〔左京兆、是れなり。〕。

 

・「朱雀院の御時、將門、東國に於いて起つ。數日の行程を隔つと雖も、洛陽に於いて猶ほ固關のごときの搆へ有り。上東・上西の兩門〔元は土門なり。〕、始めて扉を建てらる。矧や重忠、已に近所に莅み來たらんか。盍ぞ用意を廻らさざらんや」の問注所執事三好康信の台詞は、

 

――平将門が東国で乱を起こした際には、京の御所とは幾日もの行程を隔つほどの遠い距離にあったにも拘わらず、なおも危急に備え、鉄壁の構えで御所を守備致し、上東門と上西門〔何れも大内裏の東西の最北にある門で元は土門(つちもん。築地(ついじ)を切って簡易の扉を附けただけのもの)であった。〕に初めて本格的な門を構えて厳重な扉を建ててた先例も御座る。況や今、謀叛人重忠は眼と鼻の先まで進軍しておるので御座るぞ! 油断致いて手を拱いて何の用意も致さぬというは、これ、剣呑!――

 

といった謂いである。

 

・「關戸の大將軍は式部丞時房、和田左衞門尉義盛なり。前後の軍兵、雲霞のごとく、山に列し、野に滿つ」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の注には、この前の義時指揮の大部隊っは二俣川へ鎌倉古道の「中の道」を通っており、この現在の東京都多摩市の『関戸への道は鎌倉古道「上の道」を通るので、途中瀬谷から矢倉沢往還を江戸方面へ向かい、中山から白根へ出ると、重忠の菅谷館への退路を断ち、挟み撃ちにできる』とあって、単に『牧の方に口説かれて、いやいや出撃する割には用意周到すぎる』と、この畠山重忠の乱の意想外に複雑な謀略性を美事に推理しておられる(なお、加藤塾では、先の義時の私が「かくなる上は、どうぞ、御随意に!」と訳した「此の上は、賢慮在るべし」という台詞を、『それならばもう一度考え直しましょう。』と訳しておられ、この注の『牧の方に口説かれて』とは、その部分を指しての謂いと推察する)。

 

・「小衾郡菅屋」は武蔵国にあった男衾郡(小衾郡とも書いた)で現在の埼玉県比企郡嵐山町にあった菅谷館(すがややかた)、菅谷城のこと。現在でも空堀等の遺構が残されてはいるが、これらは戦国時代の後北条氏のものであると言われる(最後の部分はウィキ畠山重忠」の記載に拠る)。

 

・「一男小次郎重秀」(寿永二(一一八三)年~元久二(一二〇五)年)重忠次男。

 

・「且は又、兼ねて陰謀の企て有るに似たり。賢察を恥づべきか。尤も後車の誡と存ずべし」この重忠の台詞を配した「吾妻鏡」の筆者は鋭い。続きを読むまでもなく、既にここで重忠謀叛は謀略であったことを、重忠本人の肉声で伝えるのだから、その言説の正当性は厭上にも昂まるからである。「後車の誡」は「前車の覆轍(ふくてつ)」に同じ。先人の失敗を教訓とすること。「前車」は前を行く車、「覆」は転覆、「轍」はわだちで、車輪の跡。前の車がひっくり返った、その車輪の跡を見て、後続の車はそこを通らぬようにするという「漢書」賈誼(かぎ)伝の「前車の覆るは後車の戒め」に基づく故事成句。

 

――かつはまたやはり景時の最期の如く、濡れ衣であるにも拘わらず、以前より謀叛の陰謀の企みがあったかように、御所様が情けなくもお思いになられた、ということをこそ恥じと感ずべきではないか?! これらをこそ「前車の覆るは後車の戒め」とせずんばあらず!――

 

と喝破するのである。この場面のこの台詞は、私としては「北條九代記」でも、そのまま使って欲しかったというのが本音である。なお、ウィキのウィキ畠山重忠」によれば、『重忠は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と矢箆を地に突きさした。やがてこの矢は自然に根付き、年々』二本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになった、と記す。この悲劇の武将畠山重忠の美談は枚挙に暇がない。

 

・「此の金吾」安達景盛。彼は右衞門尉で「金吾」は衞門府の唐名。

 

・「申の斜」「斜」は正中や半分を過ぎることであるから、午後四時過ぎから四時半頃。

 

・「今日、未の尅、相州が室〔伊賀守朝光の女。〕、男子平産す〔左京兆、是れなり。〕」この悲劇的で凄惨な戦さの最中、午後二時頃、北条義時の継室伊賀の方が、五男を生んだ。これが後の左京権大夫、第七代執権となる北条政村である。

 

 乱の翌日。元久二(一二〇五)年六月二十三日の条。

 

〇原文

廿三日己酉。晴。未尅。相州已下被歸參于鎌倉。遠州被尋申場事。相州被申云。重忠弟親類大略以在他所。相從于戰場之者僅百餘輩也。然者。企謀叛事已爲虛誕。若依讒訴。逢誅戮歟。太以不便。斬首持來于陣頭。見之不忘年來合眼之眤。悲涙難禁云々。遠州無被仰之旨云々。」酉尅。鎌倉中又騷動。是三浦平六兵衞尉義村。重廻思慮。於經師谷口。謀兮討榛谷四郎重朝。同嫡男太郎重季。次郎季重等也。稻毛入道爲大河戸三郎被誅。子息小澤次郎重政者。宇佐美與一誅之。今度合戰之起。偏在彼重成法師之謀曲。所謂右衞門權佐朝雅。於畠山次郎有遺恨之間。彼一族巧反逆之由。頻依讒申于牧御方。〔遠州室。〕遠州潛被示合此事於稻毛之間。稻毛變親族之好。當時鎌倉中有兵起之由。就消息。重忠於途中逢不意之横死。人以莫不悲歎云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

廿三日己酉。晴る。未の尅、相州已下、鎌倉に歸參せらる。遠州、戰場の事を尋ね申さる。相州、申されて云はく、

「重忠が弟・親類は大略以つて他所(よそ)に在り。戰場に相ひ從ふの者、僅かに百餘輩なり。然れば、謀叛を企つる事、已に虛誕(きよたん)たり。若し讒訴に依つて、誅戮に逢へるか。太(はなは)だ以つて不便(ふびん)。首を斬りて陣頭に持ち來たつて、之を見るに、年來(としごろ)、合眼(がふがん)の眤(むつみ)を忘れず、悲涙禁じ難し。」

と云々。

遠州、仰せらるるの旨、無しと云々。

酉の尅、鎌倉中、又、騷動す。是れ、三浦平六兵衞尉義村、重ねて思慮を廻らし、經師谷口(きやうじがやつぐち)に於いて謀りて、榛谷四郎重朝・同嫡男太郎重季・次郎季重等を討つなり。稻毛入道は、大河戸三郎が爲に誅せらる。子息小澤次郎重政は、宇佐美與一、之を誅す。今度の合戰の起りは、偏へに彼(か)の重成法師の謀曲に在り。所謂、右衞門權佐朝雅、畠山次郎に遺恨有るの間、彼の一族反逆を巧(たく)むの由、頻りに牧御方〔遠州が室。〕に讒し申すに依つて、遠州、潛かに此の事を稻毛に示し合はせらるるの間、稻毛、親族の好(よし)みを變じ、當時、鎌倉中に兵起有るの由、消息に就きて、重忠、途中に於いて不意の横死に逢ふ。人、以つて悲歎せざるといふこと莫し、と云々。

 

・「是れ、三浦平六兵衞尉義村、重ねて思慮を廻らし、經師谷口に於いて謀りて、榛谷四郎重朝・同嫡男太郎重季・次郎季重等を討つなり」この部分には三浦氏の私怨がある。三浦義村の祖父義明(よしあき)は治承四(一一八〇)年の頼朝挙兵と同時に一族挙げてこれに合流しようと居城の衣笠城を出撃したが、途中で石橋山での頼朝の敗戦を聞いて、引き返して籠城、ほどなくして当時平家方であった畠山重忠率いる軍勢と合戦となり(衣笠城合戦)、一族郎党を率いて奮戦したが、最後は刀折れ矢尽き、義澄以下、一族を安房に逃した後に独り城を守って享年八十九歳で戦死している。榛谷は畠山重忠の従兄弟であり、稲毛重成は兄に当たる。榛谷一族の誅伐の名目は、実は次の稲毛重成誅殺とともに、重忠の謀殺に荷担したという罪状であるが、実はこれによって三浦義村は積年の仇敵たる畠山一党への怨を雪いだ結果となったのである。但し、重忠旧領と畠山の名跡は足利義兼の庶長子足利義純が重忠の未亡人(時政女)と婚姻して継承した結果、畠山氏は源姓として存続することなる(最後の部分はウィキ畠山重忠」の記載に拠る)。

 

・「大河戸三郎」武蔵七党の一つである児玉党の宿谷(しゅくや)氏の家臣で、宿谷七騎と呼ばれた名将の一人。

 

・「鎌倉中に兵起有るの由、消息に就きて」とは、鎌倉で兵乱が起こったので至急参られたしという偽りの手紙を重忠に送って、の意。]

 

 

耳嚢 巻之六 犬の堂の事

 犬の堂の事

 

 烏丸(からすまる)光廣卿の狂歌とて、人のかたりけるは、

  はるばるといぬの堂より見渡せば霞か船の帆へかゝるなり

といへるが、犬の堂といへるは、何所なりや不知過(しらずすぎ)にしに、予がしれる何某(なにがし)、大和廻りして物語りに、丹後の成合(なりあひ)の最寄(もより)に、犬の堂といへるあり、彼(かの)所に飼(かひ)置ける犬、主人の病氣重き節、觀音へ日々參りて主人の病は愈(いえ)ぬ、依之(これによつて)彼家にて、右犬を愛養して、斃(たふれ)し後のち)右の處に埋(うづ)め、堂抔たてゝ、いつとなく犬の堂と唱へしが、年を經、今も犬の堂とて、海上を見渡し絶景の場所のよし。彼是考合(かれこれかんがへあは)すれば、光廣卿の歌も、此犬の堂を詠(よめ)る興歌(きようか)なるべしと、しられたり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせないが、二つ前の「有馬家蓄犬奇説の事」と犬譚で連関。狂歌シリーズ。根岸殿はかなり狂歌がお好きと見える。彼自身の詠んだものもきっとあったに違いないのだが。

・「犬の堂」現存しない。現在の京都府宮津市杉末(すぎのすえ)にあった。戒岩寺(げんざいの呼称はこれであるが、岩波版長谷川氏注には『海岸寺』とあり、Kiichi Saito氏のHP「丹後の地名・資料編」の杉末(すぎのすえ) 宮津市に引用する「宮津府志」の引用では確かに『海岸寺』とある。)個人のHP「犬の伝説を訪ねて」の「犬の堂」に、見やすい画像があり、その宮津市教育委員会の解説プレートには(杉末(すぎのすえ) 宮津市に引用されてあるものを、「犬の伝説を訪ねて」の「犬の堂」の画像で視認して校訂した)、

   《引用開始》

 ここに建つ一基の碑は延宝六年(一六七八)時の宮津城主永井尚長(なおなが)によって建てられたもので、碑文は江戸の林 春斎(羅山の子)の作である。

 昔、波路(はじ)村戒岩寺が九世戸文殊堂を兼管していた頃、一匹の賢い犬が毎日両寺の間を往来して寺用をたしていた。ところが年老いてその犬が死んでしまったので、僧は犬を憐れんでここに堂を建てて弔い、犬の堂と呼んだ。以来年が経って堂も壊れたので修復して、同時にこの碑を建てたという次第である。

 この小丘は虎が鼻といい、宮津から文殊などへ行く道はこの山の尾の上を通っていた。碑も丘の上にあった。かつてはここは天橋立の眺望の場所でもあった。犬の堂という呼称は近世初頭には既にあって、細川時代(一五八〇~一六〇〇)の記録類にも散見する。「細川家記」によれば細川幽斎がここに小亭をいとなみ、犬の堂と名づけて

  犬堂の 海渺々と ながむれば

    かすみは舟の 帆へかかるなり

と詠んだといい、その子忠興は慶長五年(一六〇〇)十二月九州へ移封の途次、宮津を去るに際し、ここを通る時

  立別れ まつに名残は をしけれど

    思ひきれとの 天の橋立

と詠んだという。

                宮津市教育委員会

   《引用終了》

とある。この戦国大名で歌人としても知られた細川幽斎(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)の和歌、本歌に酷似する。烏丸光広は幽斎の和歌の弟子であり、以上の教育委員会の記載から見ても、この歌は実は幽斎が真の作者であろう。

「烏丸光廣」(天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)は安土桃山から江戸初期の公卿で歌人。権大納言。細川幽斎に和歌を学び、古今を伝授されて二条家流歌学を究めた。歌集に「黄葉和歌集」。俵屋宗達・本阿弥光悦などの文化人や徳川家康・家光と交流があった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「はるばるといぬの堂より見渡せば霞か船の帆へかゝるなり」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 はるばるといぬの堂より見渡せば霞は船の帆へかゝるなり

と載る。「帆(ほ)へかゝる」は犬が「吠えかかる」に掛ける。

・「成合」現在の宮津市成相寺。天橋立を南方直下に見下ろす成相山の中腹には西国三十三所第二十八番札所の真言宗成相山成相寺(なりあいじ)が建つが、ここの本尊は聖観世音菩薩である。本文、直線距離では五キロメートルほどであるものの、海を挟んだ対岸であり、今の感覚では「最寄」という謂いはややおかしく感じられる。しかし、そんなことはどうでもよい。実はどうも、この犬が日参したという「觀音」とは、この成相寺の本尊聖観世音菩薩であるように読めるのがいい。日々、天橋立を一匹の犬が主人の病平癒のために往復する姿をイメージすると、何だか、涙腺が緩んでくるではないか。

・「海上を見渡し絶景の場所」犬の堂は天の橋立から南東へ約二キロメートル強離れた宮津湾湾奥の東方の海岸に位置する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 犬の堂の事

 

 烏丸光廣(からすまるみつひろ)卿の狂歌とのことで、人の語って御座った歌に、

  はるばるといぬの堂より見渡せば霞か船の帆へかゝるなり

というものが御座ったが、この「犬の堂」というは一体、何処(いずこ)にある如何なるものであろうか、訝りつつも、ついつい調べずに済まして御座ったが、この度、私の知人の何某(なにがし)なる者、大和廻りを致いて、その帰府後の物語りに、

「……丹後の成合(なりあい)の最寄りに、『犬の堂』と申す御堂(みどう)が御座っての。……これは何でも、その辺りの者の家に飼いならいておった犬が、主人の病気の重き折柄、畜生の分際ながら、観音へと日参致いたと申す。……さても、主人の病、これ、愈えたによって、かの家にては、その犬を愛(いつく)しみ養のうて、その後(のち)に、犬が亡くなった後(あと)、かの――日々犬が渡って行った天の橋立と、参ったところの成相山(なりあいやま)の見ゆる所に埋葬の上、堂などをも建立致いたと申す。……そうして何時とはなく、これを『犬の堂』と唱うるようになって御座ったとのことで御座った。……年を経ても、なお今も『犬の堂』と称し、これ、海上遙かに天の橋立と成相山を見渡して、まっこと、絶景の場所にて御座った。……」

とのこと。

 以上を考え合わすると、光廣卿のこの歌も、この「犬の堂」を詠んだところの、少し軽く興に乗ってお作りになられた和歌ででもあったのであろうと、推察致すもので御座る。

なりひびく鉤 大手拓次

 なりひびく鉤

年のわかい蛭のやうに
みづみづとふくらんだ眼から眼へ、
はなやかな隱者の心が點(とも)つてゆき、
わけ知らずの顏の白いけものたち、
お前は幽靈のやうにわたしのまはりに坐(すわ)つてゐる。
そら、海が女のやうに媚びてねむるとき、
絲をはなれて、はればれと鳴る黑い鉤(はり)の音(おと)をきいてごらん、
やはらかい魚はだまつてききとれてゐるだらう。

鬼城句集 春之部 蝌蚪

蝌蚪   川底に蝌蚪の大國ありにけり
     風吹いてうちかたまりぬ蛙の子
     蛙の子泥をかむりて隱れけり
     ちりぢりに出て遊びけり蛙の子

[やぶちゃん注:底本では「ちりぢり」の後半は踊り字「〲」。]


川底に蝌蚪の大國ありにけり


僕にとって、この句は遠き少年の日の強烈な実景をフラッシュ・バックさせる忘れ難い句なのである――。

一言芳談 一一二

   一一二

 

 教佛(きやうぶつ)上人、最後の所勞の時に云、僧都御房(さうづごばう)の、佛助け給へと思ふ外は、要にあらずと仰せられし事を、さしもやと思ひしが、今こそおもひしらるれ。不淨觀(ふじやうくわん)も平生(へいぜい)の時のことなり。東城寺(とうじやうじ)の阿耨房(あのくばう)が、式の法文(ほふもん)を習ふは、猿樂(さるがく)をするにてこそあれと云ひけるも、今ぞ思ひ知らるゝ、云々。

 

〇所勞の時云とは死期三日以前の言葉なり。(句解)

〇僧都御房、明遍のことなり。

〇不淨觀、わが身の不淨を觀じて執着をさるなり。

〇不淨觀とは、五薀(ごうん)和合、身はしろきほねに、あかきわたをまき、そのうへにかわをはり、男女(なんによ)のわかきも、しばらくその色うるはしきも、紅粉いろどりたるにて、ゑならに香にもあらぬと觀ずる也。(句解)

〇東城寺、常州。

〇式の法文、聖道家にある事なり。法事の時の儀式なり。それぞれにふしをならふゆゑかくいふなり。

 

[やぶちゃん注:本文はⅠに拠ったが、「教佛上人」の後の読点、「時に云」の「に」は私が独断で附した。この条、他との異同が多い。以下に示す。

 

 教佛上人最後の所勞の時云、〔死期三日以前。〕僧都御房の、佛助玉へと思外(おもふほか)は、要(よう)にあらずと被仰(おほせられ)し事もさしもやと思ひしが、今こそおもひしらるれ。不淨觀も平生の時のこと也。東城寺の阿耨(あのく)房が、式の法文を習ば、猿樂をするにてこそあれと云けるも、今ぞ思ひ知らるゝ、云々。

 

例によって正字化して示した。〔 〕はポイント落ちで、Ⅱ本文では珍しく例外的な割注。ここでの大きな異同は「被仰し事もさしもやと思ひしが」の「事も」で、ここは次に示すⅢでは「事も然と」(「然」は「さしもや」と訓じているものと推定出来る)とあるから、Ⅱ・Ⅲの方が原形(若しくはそれに近いもの)と思われる。

 

 同上人(どううしやうにん)最後(さつご)の所勞(しやらう)の時(ときに)云〔死期(き)三日以前(いぜん)〕僧都御房(そうづごばう)の佛(ほとけ)助(たすけ)玉へと、思外(おもふほか)は要(よう)にあらずと、被仰(おほせられ)し事も然と思ひしが、今(いま)こそおもひしらざれ。不淨觀(ふじやうくわん)も、平生(へいぜい)の時(とき)のこと也、東城寺(とうじやうじ)の阿耨房(あのくはう)が、式(しき)の法文(はうもん)を習(ならは)ば、猿樂(さるがく)をするにてこそあれと云けるも、今(いま)そ思知(しら)るゝ〔云々〕

 

〔 〕は割注若しくは二行書きの部分。活字化に際しては附された総ての読みを示し、「。」のような区切り記号を読点で示した。一箇所ピリオドのような点が「所勞の時云」の「云」の直後に見えるが無視した。平仮名の清濁は画像視認によって有無そのままに示した。ここでは「今こそおもひしらざれ」に大きな異同が認められる。但し、これは『今の今まで知らなかった。この時に初めて思い知らされた』という否定句による詠嘆表現として採れ、意味の逆転は生じないようには思われる。

 

「最後の所勞の時に云」でⅡ・Ⅲに「死期三日以前」とあるのは、

末期の病いで伏せられた時に仰せられた――それは直後の示寂の、ちょうど三日前のことで御座ったが――

という謂いである。以下、煩を厭わず、教仏上人の言葉を整序し、一部に現代語の補足を附して復元してみる。

「僧都御房の、

『佛、助け給へと思ふ外は、要にあらず(大切なものなどは、これ、ない)。』

と、仰せられし事を、

『さしもや(いくらなんでも、まさかそこまで単純素朴では御座るまいに)。』

と思ひしが、今こそおもひしらるれ(今こそ、まさしくその通りであると、自ずと思い知らされて御座る)。不淨觀も平生の時のことなり(観法の不浄観を致すなんどということも、これ、平生の、実は切迫したなにものもない時にだからこそのほほんと修し得るものじゃ)。東城寺の阿耨房が、

『式の法文(正式な法会の際に用いるところの厳かな講式の文)を習ふは、猿樂をするにてこそあれ(猿楽を囃し唄うのとなんら変わらぬ下らぬ遊びぞ)。』

と云ひけるも、今ぞ思ひ知らるゝ。」

 

「不淨觀」観法の一つで、肉体を始めとしてこの世界全体が汚れたものであることを観じて、煩悩を打ち消す修行法。主に、「句解」の注にある如く、肉体が死後に腐敗して白骨に変化する過程を観想するものである。所謂、死体変相の九相詩絵巻を内観するに等しい。

「東城寺」Ⅱの大橋氏注に『不詳。廃寺。』とあるが、「標註」に「常州」とあり、これは今も茨城県土浦市にある真言宗朝望山東城寺とは違うのであろうか? 現存する東城寺については、ウィキ東城寺に、延暦一五(七九六)年、最仙によって開山、当初は常陸国における天台宗の拠点のひとつであったが、鎌倉初期に小田氏の尊崇を受けて真言宗に改められ、江戸時代には江戸幕府から朱印状も与えられていた、とある歴史ある寺で、敬仏房が末期に語る以上、彼の尊崇する高僧と思われる「阿耨房」(不詳)のいた(若しくはかつていた)寺としては充分な格と思われるのであるが。この寺ではないという否定の証左をご存知の方は御教授を乞う。

「式の法文」特に真言宗や天台宗に於いて、法会の際に用いるところの経・論・釈などを説き明かした文章のこと。

「五薀和合」五蘊仮和合(ごうんけわごう)。「五蘊」とは人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したもの。梵語の「五つの積集」の漢訳語で、物質的身体的なものとしての色蘊(しきうん)・感覚作用としての受蘊・表象作用としての想蘊・意志・欲求などの心理作用としての行蘊(ぎょううん)、対象を識別する認識作用としての識蘊を指し、五陰(ごおん)とも言う。この五蘊が集合して仮象されたものが人間であるとする謂いが、五蘊仮和合である。

「聖道家」聖道門。自ら修行して現世に於いての悟達を目的とする自力宗門。特に真言・天台の二宗を指す。自力門。易行門(いぎょうもん)や他力門、即ち浄土門との対語である。]

2013/03/11

中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 始動 / 中島敦漢詩全集 一

カテゴリ「中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈」を始動する。内容は以下の冒頭注を参照されたい。但し、本カテゴリはいつにも増して多忙となったT.S.君の職務の関係上、牛歩の更新となることを、予めお断りしておく。【2013年6月20日追記:これらとの関連資料を含めて、別にブログ・カテゴリ「中島敦」を創始した。そちらもよろしく。】



中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈

[やぶちゃん注:底本は筑摩書房昭和五七(一九八二)根年刊増補版「中島敦全集 第二巻」を用いた。便宜上、底本の漢詩番号をそのまま用いた。
 最初に当該白文を示し、その後に私のオリジナルな訓読文を配した後、私の最初の教え子で「芥川龍之介漢詩全集」でも協力して呉れた中国語に堪能なT.S.君の手になる(一部に藪野が補筆)の、これもオリジナルな中国語を踏まえた語釈・現代日本語訳・評釈を附した。今回は訓読以外のパートは基本的に彼が担当し、私との何回にも亙るやり取り(彼は上海在住であるのでメールによって)を経て決定稿を造る、という仕儀をとった。なお、私が中国文学は専門外であるように、彼の専門は文学とは無縁である。従って、典籍に気づかずに薄っぺらに解釈して終わらせていたり(これが二人が最初に最も恐れた/作業に入った現在も恐れている部分である)、どこかに二人して大きな陥穽に陥っていながら、それに気づかず、遠い井戸の口を星と見上げる致命的な誤りをなしている可能性もないではない。それと気づかれた識者の方は、どうか速やかに御助言の程、お願い申し上げるものである。【ブログ始動:二〇一三年三月十一日】]

   一

習々東風夜淡晴
星光潤暈不鮮晶
淸明未到天狼沒
穀雨已過角宿瑩
庭上見星幽客意
花陰踏露惜春情
微芳滿地無人識
只有隣家靜瑟聲

〇やぶちゃんの訓読

習々たる東風 夜(よ) 淡く晴るるも
星光 潤暈(じゆんうん)として 鮮晶(せんしやう)たらず
淸明 未だ到らざるに 天狼 没し
穀雨 已に過ぎて 角宿 瑩(えい)たり
庭上 星を見る 幽客の意
花陰 露を踏む 惜春の情
微芳 地に滿つるも 人 識る無し
只だ有り 隣家 靜瑟(せいひつ)の聲

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「習習」現代中国語でも書面語として使われる擬音語。風が静かに柔らかく吹くさま。「シーシー」で、そよそよ。
・「淡晴」微かに晴れていること。続く詩句の意から判断し、春霞の影響でもあるかと思われる。
・「暈」ぼうっとすること。
・「鮮晶」粒がキラキラ光ること。
・「淸明」二十四節気のひとつ。冬至から百五日目からの三日間に当たる清明節のこと。太陽暦では四月四日から四月六日の頃。
・「天狼」天狼星、即ち、おおいぬ座の一等星シリウス。太陽を除き、全天で最も明るい恒星。古代中国では、鳥を狙っている狼とされたためにこの名がついた。冬の星。
・「穀雨」二十四節気の一つ。通常、太陽暦四月二十日頃。
・「角宿」二十八星宿の一つ。おとめ座にあるスピカと、もう一つの恒星からなる星座。穀雨を過ぎた頃の夜空では、午前零時前に南中する。日本語では「かくしゅく」若しくは「かくしゅう」と訓ずる。
・「瑩」玉のように光る石のこと。透き通ったように光るさまを言う。
・「見星」これは「星を見る」というよりも、「星が見える」というニュアンスが強い語句である。
・「幽客」世に隠れ住む隠士を指すのが通常であるが、ここは本作の作者自身と捉えるのが妥当であろう。
・「花陰」陽射しが届かぬほど群れた花によって覆われた場所を言う。本邦で、四月下旬に人の背丈より高い位置で鬱蒼と咲きほこり、且つ、「花」の一字で表現して読者に理解し得る存在感のある「花」といえば、これは、八重桜若しくは藤の花ではないかと思われる。
・「微芳」微かで繊細な香り。中国の古典詩文では、自らの美徳を謙譲の意を籠めて形容する際に用いられることが多いので、そうした詩背からの詩想の芳香としても読み取るべきか。されば、最終句の「有隣」――「論語」里仁編の「德不孤、必有隣」(德、孤ならず、必ず隣り有り)――の語とも仄かに響き合う。
・「瑟」古代中国の二十五弦琴のことを指すが、ここでは一般の琴の音と受け取ってよいであろう。この琴を弾く隣人もまた、「有隣」の隠士の風貌である。

〇T.S.君による現代日本語訳

東風がそよそよと吹いている。夜は微かに晴れている。
星の光は柔らかく滲み、ぼやけている。
清明節を迎える前には、天狼星は没し去り、
穀雨を過ぎた今は、角宿が玉(ぎょく)のようにきらめく。
庭に夜空の星を見上げるこの私は、
花の下に露を踏み、行く春を惜しむ。
辺りに満ちている微かな芳香を、私以外の誰一人とて知る者もない。
遠くかすかな隣家の琴の音だけが伝わってくる。

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
 七律の鉄則通り、第一句・二句・四句・六句・八句の末尾、すなわち「晴qing2」「晶jing1」「瑩ying2」「情qing2」「聲sheng1」が脚韻を踏む。また、第二聨(第三句と第四句)、第三聨(第五句と第六句)は対になっている。伝統に忠実で、堅固な構造を示す。
 しかし、私は戸惑った。中国語で朗誦すると重心となる句が見出せないからである。第三聯にも第四聨にもこれといった高揚は感じられない。幾つか、音の流れに小さな淀みがある他は終始一定のリズムで通され、発音や声調などにも特筆すべき仕掛けは見出せない。実はこれは意味の上でも言えることである。一貫して淡々と事実を述べるだけで、感情の起伏が表面に出てこないのである。
 そしてもうひとつの戸惑いがある。それは第三句と第四句の解釈である。第三句には『清明節がまだ来ていない』とあるのに、第四句では『穀雨を既に過ぎ』とする。一時点の形容としては両立し得ない。では「淸明」を別義としてある『清明たる夜明け』とすればいいのか? しかしこれは問題である。第三句と第四句は対になるという鉄則を侵しかねないことに加えて、穀雨後の四月下旬には、角宿のスピカは午前零時前に南中し、天狼は午後九時頃には既に地平に沈んでしまうからである。『夜明けはまだ来ない』と詠むには早すぎる時間なのである。そもそも、最終句に隣家の琴の音の描写があることに着目せねばならない。夜明け前に琴を弾くというのは、如何にも考えにくいことではないか。従って「淸明」は、これ、やはり清明節なのである。
 とすれば、第三句と第四句を如何に解釈すればよいか。
 最終的な私なりの回答は次のような解釈である。
「清明節を迎える前には天狼星は没し去り、穀雨を過ぎた今は角宿が玉のようにきらめく」
 既述の通り、詩中に大きなクライマックスはない。しかし一読して非常に印象的なのは、ロマンティックで崇高な夜空の描写である。
 天狼・角宿という名から、なんと神秘的な輝きが発せられることか。
 そして星空の描写への圧倒的な力の配分。
 第一聯と第二聯が、たっぷり、この目的に供される。
 第三聯で、やっとゆっくり人界に降り来たって、最後に少しだけ、惜春の情と琴の音が詠われる。
 この詩において描写される人の活動は、春を惜しむ詩人の心と琴の音だけであり、他は全て自然現象である。
 人の悩みも喜びも、そして涙も笑みも、ここでは直接に語られることは、ない。
 あくまで、描かれるのは、滲んだように輝く一等星――そして底無しの星空……。
 そこにこそ想起されるではないか。
 この詩人の手になる小説には往々にして――
――天
そして
――星
とりわけ、
――天狼星
の描写が組み込まれていることを。
 長いが、敢えて例を挙げよう[やぶちゃん注:底本は昭和五一(一九七六)年刊の筑摩書房版全集により、踊り字「〱」は正字化した]。

   *

Ⅰ『彼の家の近くに住む一商人は或夜紀昌の家の上空で、雲に乘つた紀昌が珍しくも弓を手にして、古の名人・羿(げい)と養由基の二人を相手に腕比べをしてゐるのを確かに見たと言ひ出した。その時三名人の放つた矢はそれぞれ夜空に靑白い光芒を曳きつつ參宿と天狼星との間に消去つたと』(「名人傳」)

Ⅱ『十日もゐる中に月はなくなつた。空氣の乾いてゐるせゐか、ひどく星が美しい。黑々とした山影とすれすれに、夜毎、狼星が、靑白い光芒を斜めに曳いて輝いてゐた。十數日事なく過ごした後、明日は愈々此處を立退いて、指定された進路を東南へ向つて取らうと決したその晩でのことである。一人の歩哨が見るとも無く此の爛々たる狼星を見上げてゐると、突然、その星の直ぐ下の所に頗る大きな赤黄色い星が現れた。オヤと思つてゐる中に、その見なれぬ巨きな星が赤く太い尾を引いて動いた。と續いて、二つ三つ四つ五つ、同じやうな光がその周圍に現れて、動いた。思はず歩哨が聲を立てようとした時、其等の遠くの灯はフツと一時に消えた。まるで今見たことが夢だつたかの樣に』(「李陵」)

Ⅲ『併し、天は矢張り見てゐたのだといふ考へが李陵をいたく打つた。見てゐないやうでゐて、やつぱり天は見てゐる。彼は肅然として懼れた。今でも己の過去を決して非なりとは思はないけれども、尚こゝに蘇武といふ男があつて、無理ではなかつた筈の己の過去をも恥づかしく思はせることを堂々とやつてのけ、しかも、その跡が今や天下に顯彰されることになつたといふ事實は、なんとしても李陵にはこたへた』(「李陵」)[やぶちゃん注:末尾の「こたへた」には底本では傍点「ヽ」が附されている。]

Ⅳ『彼は地團駄を踏む思ひで、天とは何だと考へる。天は何を見てゐるのだ。其の樣な運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗しないではゐられない。天は人間と獸との間に區別を設けないと同じく、善と惡との間にも差別を立てないのか。正とか邪とかは畢竟人間の間だけの假の取決(とりきめ)に過ぎないのか?』(「弟子」)

   *

 私は高校の頃、初めてⅠに接した。そのときの陶酔を、今でも忘れることができない。宇宙の無限の闇に消えていく矢の青白い光芒……。
 そしてⅡは漢の遠征軍幕営中でのエピソード。歩哨が見た赤黄色い星は、果たして胡兵の篝火であった。夜が明けると戦闘準備を整えた李陵の軍は初めて匈奴の攻撃を受けることになる。そして以降、敵の執拗な追撃が続く。天狼星のすぐ下に敵軍来襲の予兆を見るとは何と出来た話か……。
 いや――文学には文学の真実があるはずだ。……
 続くⅢとⅣは、いずれも天が人間の運命を左右し得るということを前提にした言葉だ。詩人が人間の運命というものを考えるとき、意識の深いところに、中国思想に言うような「天」があったに違いない。そして思考の背景に底無しの星空が広がっていたに違いない。そして忘れてはならないのが、全天で最も明るい天狼の輝き……。
 そうだ、そこから詩想を広げていこう。すると……見えては来ないだろうか。天そのものの生きた気配が……人間の運命まで含めた森羅万象を司る不思議な力が……。

 頭上に広がる恐ろしいほど広大で底無しの星空。
 静かに着実に、そして正確に季節は巡る。
 天狼星が去り、角宿が輝きを増していく。
 潤いを帯びた晩春の大気。星々の煌きが天空に滲む。
 過ぎ行く春を惜しむ私という存在の、なんとちっぽけなことか。
 今まさに卑小な下界の営み全てが消え失せた。ただ辛うじて微かな琴の音のみ。
 ああ、天よ!
 私は今こうやって唯ひとり、大いなるあなたと対峙し、
 あなたが息づく密やかな気配を感じている。
 あなたは私に何をさせようとしているのか……。
 あなたは私に如何なる運命を用意しているのか……。
 あなたは――。
 星空……中島敦という詩人の宿命――

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 丸山稻荷 新宮六木杉

   丸山稻荷 新宮六木杉

 

十二院は鶴が岡の西の方(かた)にあり。社僧(しやそう)なり。古へは二十五院ありしとなり。この内(うち)、莊嚴院(しやうごんいん)の後ろの山を狻踞峯(さんきよほう)といふ。山亭(さんてい)あり、この處(ところ)より見わたし、風景、いたつてよし。この邊りに丸山稻荷の宮(みや)あり。これも景致(けいち)なり。

〽狂 みな人へ

りせうを

 てらし玉ふ

     とて

月のまる山

 いなり

  たうとき

「儂(わし)は腹がへつてこたへられぬが、晝食(ちうじき)の握り飯を、さつき、何處(どこ)へかおとしてしまつた。ひもじくてならぬ。なんと、貴樣の握り飯を俺(おれ)に一つ、くれぬか。なに、もふ、皆、くつてしまつてない、といふか、噓(うそ)をつくの、貴樣は、しわい男だ。まだあることを俺がしつてゐるから、いふのだ。いよいよ、ないか。なくば、仕方がないから、俺がかくしてあるのを出してくひませう。人の腹のへつたのはこらへられるものだが、わが腹のへつたのは、どうも、こらへられぬ。」

新宮(しんぐう)の社(やしろ)は、坊中(ぼうちう)、我覺院(がゝくいん)の社より左の方(かた)へ二丁ばかりにあり、今宮(いまみや)といふ。社の後ろは谷ふかく、一本のふるき杉(すぎ)あり。大木(ぼく)にして根元(ねもと)より六本(ほん)にわかれ、そのたかきこと、十餘丈、径(わたり)三尺の老木(らうぼく)なり。

〽狂 見とれては

 うてうてんぐの

すみかともしらずに

 杉(すぎ)の古木(こぼく)なが

               むる

「この六本杉には、天狗(てんぐ)がすんでゐるときいたが、なるほど、見なさい、あれあれ、天狗の雛(ひよこ)が見へる。しかし、鳶(とんび)かしらぬ。天狗にしては鼻がひくいやうだ。」

「それはまだ、子どもだからのことさ。だんだん、成人(せいじん)するにしたがつて、あの鼻も大きくなるであらう。てうど、儂が鼻も、始めは唐辛子(とうがらし)の樣(やう)であつたが、だんだんとそれが、薩摩芋(さつまいも)の樣になつて、後(のち)には練馬(ねりま)大根(こん)のやうになつたが、今では、また、皺(しわ)がよつて、干(ほし)大根の樣になつたからはじまらない。」

[やぶちゃん注:「丸山稻荷」は鶴岡八幡宮境内の末社。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。現在の本殿西側の小さな丘の上に鎮座する。社伝によれば、建久二(一一九一)年の本宮造営の際に、現在の本宮の敷地内にあったものを、場所を譲って現在地に遷ったもので、古来からの地主神であるとする。本宮は山腹をかなり大きく切り崩して創建されたものであるが、この丘はこの地主神の神座(かみくら)として残ったものと思われる(以上は白井永二編「鎌倉事典」の「丸山稲荷社」の項を参考にした)。

「新宮六本杉」は「しんぐうろくほんすぎ」と読みを振る。この杉は現存しない。「新宮」は鶴岡八幡宮後方の雪下東谷にある境内外末社の今宮のことで、祭神は後鳥羽・土御門・順徳の三天皇。当初は承久三(一二二一)年の承久の乱で隠岐に流されて配流のまま没した後鳥羽院の怨霊を鎮めるために宝治元(一二四七)年に創建されたもの。「今宮」という名称には「新しい宮」という意味があることから「新宮」とも称した。室町時代にかけて別当職が置かれ、神領を有していた。この社の後ろにかつて一つの根から六本に分かれた六本杉と呼ばれた大木があったが、本笑話にも出る通り(本話は珍しく笑談の中で名所が巧みに解説されている)、この六本杉には天狗が住みついていたと言い伝えられていた(以上も白井永二編「鎌倉事典」の「今宮」の項を参考にした)。

「十二院」「古へは二十五院」雪ノ下に鎌倉時代から江戸時代まで存在した寺院、鶴岡二十五坊のこと。治承四(一一八〇)年十二月四日に鎌倉入りしたばかりの頼朝が僧定兼阿闍梨を上総国より召して最初の鶴岡供僧職に任じたのを濫觴とし、二十五坊が揃ったのは建久八(一一九七)年頃と推定されている。その後、室町になって鎌倉公方足利持氏が没した永享一一(一四三九)年頃より衰退し始め、成氏が古河へ去った後にいよいよ衰微し、天文初年(一五七三年)頃には七ヶ院にまで減じた。以下に二十五院を示すが、その内で頭に「〇」を附したものが、徳川家康によって文禄年間(一五九二年~一五九六年)に徳川家康が五坊を再興して十二坊となった。これが明治初年の廃仏毀釈まで存続した十二院である。

〇善松坊(香象院)・〇林東坊(荘厳院)・〇仏乗坊(浄国院)・〇安楽坊(安楽院)・ 座心坊(朝宝院)・〇千南坊(正覚院)・〇文恵坊(恵光院)・〇頓覚坊(相承院)・〇密乗坊(我覚院)・〇静慮坊(最勝院)・〇南禅坊(等覚院)・永乗坊(普賢院)・悉覚坊(如是院)・智覚坊(花薗院)・円乗坊(宝瓶院)・永厳坊(紹隆院)・実円坊(金勝院)・〇宝蔵坊(海光院)・南蔵坊(吉祥院)・慈月坊(慈薗院)・蓮華坊(蓮華院)・〇寂静坊(増福院)・華光坊(大通院)・真智坊(宝光院)・乗蓮坊(如意院)

鶴岡二十五坊については新編鎌倉志一」の「鶴岡八幡宮」の最後の方の十二箇院についての私の注で詳述してあるので参照されたい。また、廃仏毀釈時の様子などはウィキの「鶴岡二十五坊がよく解説しているのでお読み頂きたい。

「莊嚴院」林東坊。これは最も東谷の最も奥まった位置にあった。新編鎌倉志一」の私の注にあるs_minaga 氏の「相模鶴岡八幡宮大塔」から拝借した「鎌倉八幡宮社僧十二院図」と同氏の航空写真による幾つかの院の同定画像を参照されたい。

「狻踞峯」位置は何となくわかるが、現在、この呼称は失われているように思われる。ここが相応の観光地であったことが分かるが、まさに廃仏毀釈によって、今や全くの夢の跡となってしまったのであった。

「景致」「致」は趣きの意で、景色の有り様、山水風物の趣き(のよい)こと。景勝地。

「りせう」利生。「衆生利益(しゅじょうりやく)」の意。仏・菩薩が衆生に利益を与えること。また、その利益。

「十餘丈」三十メートルを遙かに越える高さ。]

夢の起源 萩原朔太郎

       夢の起源

 夢が性慾の潛在意識だといふフロイドの説は、それのドグマによる彼の夢判斷と共に、私の考へるところでは誤つて居る。おそらく夢の起源は、人間にも動物にも共通して、祖先の古い生活經驗を遺傳してゐるところの、先驗的記憶の再現である。夜、夢の中で遠吠えする犬の聲が、それ自ら狼の鳴聲と同じであるといふことは、疑ひもなく犬の夢が、祖先の狼であつた時の、古い記憶を表象してゐるのである。人間の夢の中に、蛇や蜥蜴やの爬蟲類が、最も普通にしばしば現はれるのは、フロイドの言ふ如く性慾の表象でなく、おそらく人類の發生期に於て、それらの巨怪な爬蟲類が地球上に繁盛し、憐れな賴りない弱者であつた我等の先祖を、絶えず脅かしてゐた爲であらう。人類の先祖は、一億萬年もの長い間、非力な賴りない動物として、酷烈な自然と鬪ひながら、不斷に他の強大な動物から脅かされ、生命の危險におびえわなないて居た。人間がその發育した理智によつて、自然の苛虐から自衞策を講じ、次第に他の強敵を征服して、自らの文化と歴史とを作つたのは、極めて最近の事蹟であり、人類進化の悠遠な史上に於ては、殆んど言ふに足らない短日月の歴史にすぎない。我等の意識内容にある記憶の主座は、過去に最もながく人類の經驗した、樣々の恐ろしいこと、氣味の惡いこと、怯え戰つてることばかりである。人は夜の夢の中で、樹人や火人であつた頃の、先祖の古い記憶を再現し、いつも我等の生命を脅かして居たところの、妖怪變化の恐ろしい姿や、得體の解らぬ怪獸やの、魑魅魍魎(ちみまうりやう)の大群に取り圍まれて魘されてゐる。人が本能的に闇黑を恐れるのも、それが敵から襲撃されるところの、最も恐ろしく氣味の惡い時であつたからだ。夢の中では、人間も萬物の靈長ではなく、馬や牛や動物と變りがない。或はもつとそれよりも、悲しく頼りない生物であるかも知れない。人間の夢の中に理智が現はれ、文化人としての記憶が表象されるのは、おそらく數千萬年の將來に屬するだらう。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の五番目に配されている。この一連の夢論の中でフロイドの名の初出である。朔太郎の謂いはユングの原初的無意識に近い考え方であるが、『人類の發生期に於て、それらの巨怪な爬蟲類が地球上に繁盛し、憐れな賴りない弱者であつた我等の先祖を、絶えず脅かしてゐた爲であらう』という謂いの誤り(これはジュラ紀をイメージしており科学的には誤りである。哺乳類の祖先とされる白亜紀の哺乳綱獣亜綱後獣下綱デルタテリディウム目デルタテリディウム科デルタテリディウム属 Deltatheridium を『人類の發生期』とは言い難い。また、その前の『祖先の古い生活經驗を遺傳してゐるところの、先驗的記憶の再現』という主張は、それこそ私が好きでしばしば授業した阿部公房が「日常性の壁」で批判している誤謬と全く以って同じで、後天的経験記憶の安易な遺伝説という点で非科学的、「日常性の壁」で樹上生活しているうちはヒトではなく、未だサルであったという目から鱗の論駁とまたまた同じく、朔太郎は『樹人』という誤った概念を提示している。彼の謂いは、それこそ日本では極めて幅をきかせて人気も依然として高いユング派精神分析学というちょっとアブナイ科学の無批判でロマンティックな信仰者の主張であるとも言えよう。因みに、私はかつてフロイトに私淑し、ユングを耽読してきたし、大学では精神分析を主体とした心理学を学びたいと思った(が心理学科は総て不合格で国文科へ入ったが)が、今は彼らの学問は理系的な精神医学には属さないのではないか、況や、実験心理学や動物行動学等が保持しているところの実証的科学性すらないと感じている。但し、文系的な一つの思想としては今でも面白いとは思っている。]

目をあいた過去 大手拓次

 目をあいた過去

この放埒(はうらつ)な空想は
行きつまつて 自(みづか)らのからだのうちへ沈んだ。
みづからをとめどもなく掘りくづす旅わたりの金鑛夫(きんくわふ)、
わたしの過去はなまなましくくづれてくる。
過去よ、決して聲をあげるな、
お前は隱呪の箱のやうにただ暗く恐ろしくあれ。

[やぶちゃん注:「隱呪」不詳。「おんじゆ(おんじゅ)」と読んでいるか。これはもしかすると、呪術を用いて自分の姿を隠して見えなくする「隠形(いんぎょう)」の謂いか? 識者の御教授を乞うものである。]

耳嚢 巻之六 疵を直す奇油の事

 疵を直す奇油の事

 

 木挽町(こびきちやう)に西良忠といへる外科(がいりやう)あり。彼(かの)ものは、予が許へも來りぬ。小兒などのいさゝかの怪我はいふにも不及(およばず)、瑾瘡(きんさう)類も、まづ綿にてひたせし油藥を附るに、其功いちじるし。其事を心易(こころやすき)ものへ良忠かたりけるは、去る諸侯の奧へ療治に至り、早速快氣の功ありし後、彼病人全快を悦び、年久しく貯へ置く油藥あり、用にもたつべくは、用ひ見らるべしとて給りぬ、依之(これによつて)瑾瘡其外に試(こころみ)るに即功の妙あれば、今に貯へて其功を得たり、良忠は老人なるが、悴が代までは用ひ相成るべし、其後は此藥たえもせんが、法をしらざればせんかたなしと語りぬ。良忠も今存生(ぞんじやう)なり、悴も年若なれば、永く療治をなすべし。彼者の家にかゝる藥ある事しらば、ひとつは益あるべき事と、爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:金瘡(刀傷、切り傷。「瑾瘡」は同義)の妙油薬二連発。時に……私は何かの古い記載の中で、人間(死罪となったものなどの遺体から採取する)の脂を用いた油薬の話を読んだことがある。この薬も狐どころか……なんどという想像を逞しくしてしまう私がいる……

・「木挽町」東京都中央区銀座にあった旧町名。木挽き職人が多く住んだことに由来する。江戸時代の劇場街でもあり、現在も歌舞伎座があり、歌舞伎座の通称を現在も木挽町と言う。木挽き職人ならば、これ、金瘡とも縁がある。

・「西良忠」不詳。ここまでは登場したことがない。気になるのは「心易ものへ良忠かたりけるは」の部分で、彼は根岸宅へのも出入りするが、以上の油薬の由縁は根岸が直接聴いたものではない点である。彼は必ずしも根岸と親密ではなかったということか。それとも、実は親密で本話も根岸が直接西から聴取し、後年の倅の代まで繁昌することを狙って根岸が意図的に伝聞として書いたものか。何となく後半部の如何に歯の浮いたような書きざまを見ると(根岸らしくないなんだか迂遠な言い回しであるように私は感じる)、そんな臭いがぷんぷんしてくるぞ。

・「用ひ見らるべし」底本「用ひ見らべし」。訂した。脱字とも、「見(みら)るべし」の書写の誤りとも考えられる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疵を治す奇(く)しき油(あぶら)の事

 

 銀座は木挽町に西良忠という外科がおる。彼の者は私の元へも出入りして御座った。

 実見致いた限りでは、子どものちょっとした怪我は言うに及ばず、刃物などの切り傷にも、ただ、綿に浸した伝家の油薬(あぶらぐすり)を貼り附けただけで、これ、効能著しいもので御座った。

 その薬に纏わる話として、気安くして御座る知音(ちいん)に良忠自身が話したことには、

 「……ある諸侯の奥向きへ療治に参った際、たまたま、施術するや、瞬く間に全快致いたしたことが、これ、御座ったが、病人、この予想だにせぬ全快をいたく悦び、

『――実は、当家に於いて長年蓄え置いておる油薬が、これ、ある。貴殿の療治の役に立つと思うなら、一つ、用いてみらるるがよかろう。』

との仰せによって賜わって御座ったが、この薬で御座った。

 されば刀や刃物傷その外の外用薬として治験致いて御座ったところが、これ、即効の妙なれば、こうして現在も貯えて、かくも絶妙の治療効果を得て御座る。

 拙者良忠は老齢で御座るが、倅の代までは、これ、使用致すに足るだけの分量は未だ御座るが、さても、その後は、この薬も底を尽きましょう。

 ……はい?……いや、残念ながら製法は存ぜぬゆえ……こればかりは、致し方のう御座る。……」

と述懐致いたと申す。

 但し、文化元年七月現在、良忠は健在である。

 倅も未だ年若なれば、二世良忠を継いでも、これ、長く療治に従事致すことと存ずる。

 さても、かの西良忠が医家に、そのような特効薬があることが広く知られておれば、これ、大いなる益(えき)ともならんと思い、ここに記しおくことと致いた。

鬼城句集 春之部 地虫穴を出づ

地虫穴を出づ 影を慕うて這へる地虫かな

       地虫出てゝまた搜しけり別の穴

一言芳談 一一一

   一一一

 敬佛房云、同朋を呵(か)して云、おのれは荷籠負(かごをい)の足(あし)ためんずるものなり。

〇同朋、同法ともかくなり。おなじく宿する弟子等なり。
〇足ためんずるもの、たはめんとする事也。則揉の字。ひきつくろひ、よろしくして、かご負(をは)んとせしを呵するなり。(句解)

[やぶちゃん注:「呵して」叱って。
「おのれは荷籠負の足ためんずるものなり」少なくとも私には意味を採り難い。大橋氏は、『そなたたちはかごを背負いながら、まだ負いたりないのか、足だめししている(重荷を負ったうえにもなお荷を負うようなことをしている)』と訳されておられる。修行のいらぬ工夫という意味で、修行者の荷籠への執着を一喝するという、ここまでの「一言芳談」的世界では納得出来る内容ではある。が、私は、この『かご』は『実際/実在の籠』であって、同時にまた、『実際/実在の籠』ではないようにも思われるのである。目に見えぬ『籠』である。現世に生きるという大いなる修行者も避け得ぬ、如何なる衆生も背負わねばならぬ煩悩、『業の籠』なのではあるまいか? 逆説的に、これ以上の往生の因縁となる(煩悩や業がなければ、そもそも往生を祈念する必要がない。往生決定であるからである。さればこそ障害こそが実は往生の因縁であると私は思うのである)ものを、
――お前たちは、なおも背負いたいと思うのか! 馬鹿どもが!
と敬仏房は言っているように私には思えるのである。]

2013/03/10

レンブラント 自画像

Self1661
レンブラント 自画像 1661

僕が最も好きなレンブラントの自画像――そして、この絵を見ると思い出すのは――あのマラマッドの好短編「レンブラントの帽子」だ――

芸術には上達がない 萩原朔太郎

       ●芸術には上達がない

 

 すべての技術は、練習によつて上達する。ところで練習とは、筋肉または思惟の法則が、腦髓の中に溝(みぞ)をつくることである。例へば熟練したピアニストは、一つの鍵盤を叩いた指で、同時に百の鍵盤の上を走らせて行く。それは長い間の練習が、彼等の腦髓皮質に一定の溝(みぞ)をつくつたことから、動作が意識的でなく、習慣から型にはまつて、敏速に行はれる爲に他ならない。

 かくすべての技藝や技術やは、その道の練習――即ち習慣をつくること――で上達する。然るに藝術が意義するところの、創作の本意は何だらうか? 創作の眞の本意は、すべての習慣に反對し、習慣上の型を破つて、普段に新しき世界を創るにある。藝術家がもし、彼の思想で固定し、テクニツクの習慣になれ、いつも同一の型を反復するならば、彼自身の古さの故に葬られる。この故に藝術家は、絶えず彼自身に革命し、彼自身の古き型を破るべく、いつでも自我の習慣と戰つてゐる。偉大なる善き藝術家は、それによつていつも新しく、生涯を若やぎに溢れてゐる。

 されば藝術家の修養は、技術家の勉強とは正反對である。後者にあつては、練習が上達の祕訣であるのに、前者にあつては、むしろ練習しないことが、平常の善き心掛けに屬してゐる。(それ故に善き作家等は、常に多作を警めてゐる。)これが藝術家の修養と、學校の作文科目の反對である。學校での作文は、常に多作の練習が要求される。なぜなら學校教育が教課しようとするものは、人が實生活で必要とするところの、社交上や實用上の書簡文、もしくはその種類の、用務を辨ずるための文章だから。そしてこの種類の文面では、一定の類型的な事務の仕方で、できるだけ習慣的に、したがつてできるだけ敏速に書くことが必要だから。そしてこの教育の目的は、もちろん藝術の目的と別個である。

 それ故に藝術は、それが單なる技藝――ヴアイオリンを巧みに彈くことなど――でなく、本當の意味の藝術ならば、藝術は練習すべきものでない。したがつて藝術家には、言葉の正しき意味に於ける、上達といふ事實は有り得ない。然り! 藝術には上達がない。ただ不斷に新しいものを創造して行く、勉強への意思があるにすぎないのである。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の「藝術に就いて」より。下線部は底本では傍点「●」。]

山岳部OB会

本日はこれより横浜翠嵐時代の山岳部のOB会なればこれにて閉店致す――

天邪鬼 萩原朔太郎

天邪鬼  天邪鬼(あまのじやく)の興味は、絶えず一般的に者に反對するというふことにある。既に一般的となつてしまつた彼自身の思想や趣味に對してすら。

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月アルス刊のアフォリズム集「新しき欲情」の「第一放射線」より。「8」のナンバーを持つ。下線部は底本では傍点「●」。]

耳嚢 巻之六 有馬家畜犬奇説の事

 有馬家畜犬奇説の事

 

 松平丹波守家法に、金瘡(きんさう)を治する奇藥あり。俗に手引(ひてか)ずと云る油藥なり。手を引(ひか)ざる内に、平癒するといふ事なり。或時有馬玄蕃頭(げんばのかみ)事、丹波守亭へ來り、物にあたりて額(ぬか)とか損じ候を、亭主氣の毒に思ひて彼(かの)藥を付しに、忽(たちまち)に愈(いえ)て跡なきが如し。是(これ)によりて、玄蕃頭、頻りに其法を懇望せしが、家に傳へる祕藥にて、當時製するにもあらず、數年貯置(たくはへおき)し品也といなみしが、武家は戰場などにて尤可貯(もつともたくはふべき)奇藥、身上(しんしやう)にかへても望みなりと切に乞(こひ)候故、然上(しかるうへ)はいなむべき樣もなし、其法は、狐を藥を以飼立(もつてかひたて)、生(いき)ながら藥に和して、油を以(もつて)煎りたつる藥の由。有馬是を聞(きき)て、いと安き事なりとて、早速領分へ申付(まうしつけ)、狐を捕へ、法の如く藥りを仕立(したて)給ひしと也。彼狐の魂魄なるか又は其狐の餘類なるや、其頃より居間へ日々夜々狐出て、百計なせども不去(さらず)。依之(これによつて)犬を飼置(かひおき)て、居間又は寢所近く差置(さしおけ)ば、狐妖さらになし。是によつて、引續(ひきつづき)右家にては犬を飼置、とのゐ等今以(もつて)なす事の由。實事なりや、人の語るに任せて書(かき)とゞめぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:実戦心得から実戦用金瘡秘薬で武辺譚連関。薬譚でその前の「幻僧奇藥を教る事」とも連関。但し、この話柄は後半の妖狐譚にこそ主眼がある。

・「松平丹波守」戸田(松平)光慈(みつちか 正徳二(一七一二)年~享保一七(一七三二)年)。享保二(一七一七)年に六歳で山城淀藩主となる。志摩鳥羽藩を経て、享保一〇(一七二五)年、信濃松本藩主六万石、戸田(松平)家第六代(第二次初代)となって同年十二月十八日に従五位下丹波守に叙位任官しているが、その七年後に享年二十一歳で夭折した(以上の記載は講談社「日本人名大辞典」及びウィキの「松平光慈」を参照した)。同人同定は岩波版の長谷川氏の注によった。注意されたい。この時、彼は、

十三~二十一歳

である。

・「手引(ひてか)ず」の読みは、岩波版の長谷川氏の読みに従った。

・「有馬玄蕃頭」有馬則維(のりふさ 延宝二(一六七四)年~元文三(一七三八)年)。筑後久留米藩第六代藩主。久留米藩有馬家第七代。宝永三(一七〇六)年に久留米藩主有馬頼旨の末期養子となって遺領を継承、同年末に従四位下玄蕃頭に叙任され(後に侍従)、正徳三(一七一三)年に初めてお国入りの許可を得ている。参照したウィキの「有馬則維」によれば、『藩主となってからは改革に努めた。当時の藩は財政が悪化しており、則維は役人の整理や実力による官吏の登用や倹約によって財政を立て直そうとした。また、家老の合議体制を弱め藩主の実権を強化した』とある。戸田光慈とは孫ほどの、三十八もの年齢差がある。この時、彼はなんと、

五十一歳~五十九歳

となる。イメージする二人には気をつけなくてはなるまい。老いを迎えた往年の古武士とさわやかな青年大名のシークエンスである。さらに、「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、本話は七十年以上も前の、ひどく古い都市伝説である(だからこそ最後に最早検証不可能な「實事なりや」という附言があるのであろう)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 有馬家に於いて畜犬致すことに纏わる奇説の事

 

 松平丹波守殿に伝わる家法に、金瘡(かなきず)を治(じ)する奇薬があり、通称「手引(ひてか)ず」という油薬で御座る。これは、「手を引かざるうちに平癒す」という謂いで御座る。

 ある時、御大(おんたい)有馬玄蕃頭則維(げんばのかみのりふさ)殿が、若き丹波守光慈(みつちか)殿の御屋敷をお訪ねになられた折り、御自身の不注意にて、ちょっとした物にぶつかられ、お額(ひたい)辺りででも御座ったか、御怪我なされた。

 亭主丹波守殿、自邸での事故なればこそ、痛く気の毒にお思いになられ、即座に、かの家伝の秘薬を申し付けて出ださせ、お塗り申し上げたところ、忽ちのうちに愈えて、これ、傷跡さえも、殆んど見えぬようになったと申す。

 これを見た玄蕃頭殿、

「――是非に!」

と頻りにその製法を懇望なされたが、丹波守殿、

「……家に伝える秘薬にて御座れば……実はこれも、近年実際に製したものでさえ御座りませぬ。……先代より数年の間、貯え置いた品にて御座れば……」

と難色を示されたが、玄蕃頭殿、

「武家にては、これ、戦場などにて、もっとも常備しておかずんばならざる奇薬で御座る! この老いたる我が身上(しんしょう)に代えても! これ、御伝授、望みなり!」

と、口上を切ってまで乞われたによって、

「……御大より、かく願われては、否み様(よう)も、これ、御座いませぬ。……さても、この製法は――狐を――まさにこの薬を以って飼いおいて育て――相応に成長致いたところで、その狐を生きながらに――これ、やはり、この薬に和して――大鍋に入れ込み――油を以って長々――煎り続けて――出来まする薬に……御座いまする。……」

との子細な伝授をなされたと申す。

 有馬殿、これを聞くや、

「それは! いと安きことじゃ!」

とて、自邸に戻らるるや、早速、領分であられた筑後は久留米の在方へと申し付けられ、狐を捕えて、伝授された法の如、かの秘薬を調合なされたと申す。

……ところが……

……その犠牲となった狐の魂魄なるか……

……はたまた……

……その生きながらに煎られて死んだ狐の……

……身内のものなるか……

……その頃より……

……玄蕃頭御屋敷の……

……その居間へ……

……これ……

……昼日中(ひるひなか)夜分を分かたず……

……狐が……

……出でて……

……これ……

呪(まじな)いやら供養やら祈禱やら……

……如何なる法を尽くしても……

……全く以って……

……妖狐の気の立ち去る気配……

……これ……

……御座ない。――

 さればこそと、複数の犬を飼い置いて、居間または寝所近くにさし置いたところ――狐妖、これ、一切、なくなったと申す。

 それ故、例の秘薬をやはり伝家と致いた有馬家におかせられては、引き続き犬を飼い置いておくことを家訓と致いて、宿直(とのい)などの折りには、今以って、居間・寝所に犬を配されておらるる由。

 以上の話、実話であるかどうかは、これ、妖しき気も致すが、人の語るに任せて、ここに書き留めておくことと致す。

鬼城句集 春之部 動物 蝶

  動物

蝶    てふてふのなぐれて高き焚火かな
     [やぶちゃん注:底本では「てふてふ」の後
      半は踊り字「〱」。以下六句総て同じ。
      「なぐれて」はラ行下二段「なぐる」で、横
      の方へ反れるの意。]
     川風に吹き戻さるゝてふてふかな
     てふてふの翅引裂けて飛びにけり
     てふてふの虻に逃げたる高さかな
     てふてふや鬚もうつりて石にゐる
     てふてふや草にもどりて日暮るゝ
     高浪をかむりて出づるてふてふかな



動物や虫は村上鬼城の真骨頂であればこそ、季題ごとに分けて味わうこととする。

長い耳の亡靈 大手拓次

 長い耳の亡靈

うこん色にひかる遊戲のなかに
追ひたてられた亡靈はつまづいてたふれる。
きらびやかな荊棘(いばら)の杖をついて
足のすわらない生活がせまつてくる。
くるしい、そしてつんぼの窓(まど)には
亡靈のうとい耳がひつかかつてゐる。
灰色のだらつとたれた長い耳は
あへぎあへぎ空想をはらんでゐる。

一言芳談 一一〇

   一一〇

 敬蓮社(きやうれんじや)云、いかに發(おこす)とも、行業(ぎやうごふ)などをば、二重三重(ふたへみへ)ひきさげて行ふべきなり。心をば上手(うはて)になして、行業を下手(したて)になすべき也。

〇いかに發す、心はいさむとも、身をかへりみてつとめずば、懈(けたい)の因緣なるべしとの心か。
〇心を上手になしてとは、願心(ぐはんしん)を常に上手にして行をひきたつるやうにとの心なり。(句解)

[やぶちゃん注:Ⅰは「發す」を「發(おこ)る」とするが、Ⅱ・Ⅲに拠りながら「る」の送り仮名を出した。
「敬蓮社」「五十六」に既出。再録する。正治元(一一九九)年~弘安四(一二八一)年又は弘安八(一二八五)年)敬蓮社入西。入阿。長州の人。初め、成覚房について一念義を学び、十二歳の時、健保二(一二一四)年に真如堂で聖覚上人の説法を聞き、俄然、一念義を捨てて鎮西に走り、聖光上人(弁長)の門弟となった。三十六歳の頃には鎌倉に入って教化に勤めている。弁長滅後は彼の伝記も録している。「蓮社」というのは浄土門で用いる法号の一種で、中国廬山の東晋の名僧慧遠(えおん 三三四年~四一六年)が在家信者らとともに結成した念仏結社白蓮社に因んだもの。
「發る」発心する。悟りを得ようとする菩提心を起こすこと。
「行業」身業・口業・意業の三業(さんごう:身・口・心による種々の行為)の働きによる、あらゆる仏道修行のことを指す。
「下手」この場合は、特に目立たないこと、地味なことを言うのであろう。逆説的に言えば、一見すると菩提心がそれほどでもないように見える程度の、見た目、熱心でないと思われるような三業(さんごう)。それこそが望ましい、というのである。心は高く持って、世間体は嘲笑されるようなものであるのが肝要である、と敬蓮社は言うのである。「五十六」で敬蓮社は「日來(ひごろ)後世の心あるものも、學問などしつれば、大旨(おほむね)は無道心になる事にてあるなり」と喝破した。それが遠くここで鮮やかに響き合う。Ⅰでは「五十六」が「學問」に、これがそのすぐ後ろの「用心」に配され、その間は十一項ほどしかないが、やはりⅠの分類学的編集は曲者である。何故ならそこでは――古典的生物分類学がヒトという本来は他と変わらない惨めな種が自身を征服者として特別視するために理性内でヒト以外の生物を虫ピンで留めて満足していたのと同じく――読者は読みながら、知らず知らずのうちに新しい分類項目に入ると、無意識に脳内の「一言芳談」という薬味箪笥の「学問」の引き出しを閉じてしまい、別な「用心」の引き出しに変えてしまう傾向が顕著にあるからである(その方が分かったように振る舞うには便利であるから)。私には今――この「一言芳談抄校註」の〈智の分類〉という行為そのものが何よりも実は反「一言芳談」的な愚劣な智の作業であったのだ――ということが、はっきりと分かった気がするのである。]

2013/03/09

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 杉个谷 小袋坂

 

   杉个谷 小袋坂 

 

管領(くわんれい)の屋敷跡、今は田畑(でんはた)となり、その形(かたち)のこれり。杉が谷(やつ)辨財天の宮(みや)、その東にあり。こゝに俳諧師梅翁(ばいおう)の碑(ひ)あり。この邊の山の内小袋坂(こぶくろざか)の上なり。伽羅陀山(からだせん)といふは小袋坂にあり。

 

〽狂 ゑんめいの小ぶくろざかはかま

                 くらへ

 たから入こむめい所けんぶつ

 

旅人

 

「儂(わし)は昨日(きのふ)、どうした事か、にはかに鹽梅(あんばい)がわるくなつて、どうもあるかれませぬから、商人(あきんど)の見せ先(さき)をかりてやすんでゐたが、しきりに氣がとほくなって目をまはしましたが、なにか、ひいやりと咽喉(のど)へとほつたとおぼへて、氣がついて見ましたら、私(わたし)の傍(そば)に、うつくしい神(かみ)さまがいて、

 

『さてはお前、氣がつきましたか、いろいろしても、いかぬゆへ、これはいとしいこと、どふぞ、正氣にしてあげたいと、水をひとつ、妾(わたし)がふくんで、お前を妾の膝の上へだきあげて、口移しに水をあげましたら、お氣がつきました。』

 

といふから、その神さまを見るに、色が雪のやうにしろくて、目附きがよくて、口元がかはゆらしく、にこにことわらふ、その愛嬌(あいけう)の良さ、儂は首筋元(くびすじもと)からぞつとして、

 

『さてもさても、このやうな辨天さまのやうな、うつくしい女中(ちう)の口から、儂がこの、入齒(いれば)をした口へ口移しとは、ありがたい、もつたいない。』

 

と、あんまりうれしく、有頂天(うてうてん)になつて、とりのぼせ、また、目をひきつけましたら、今度は、

 

『口移しでもゆくまい、灸(きう)をすへるがよい。』

 

とて、袋艾(ふくろもぐさ)を一包(ひとつゝみ)、腹へすへられまして、氣はつきましたが、これ、御らうじませ、その灸の跡が、このとほりにくづれて、もうもう、ひりひりといたみまして、昨夜(ゆふべ)もよつぴて、ふせりませぬ。誰(たれ)でも、あるくとお前方(がた)も、この上、ひよつと、どういふことで、あそこの門(かど)先で目をまはすまいものでもないから、その時、灸はすへてくださるなと、先(さき)へことわつておいてから、目をまわしなさるがいゝ。儂は、とんだ目にあいました。」

 

[やぶちゃん注:笑談の部分は、何だか妙な話である。売春絡みの何か隠喩が隠れているようにも感じられるが、よく分からない。識者の御教授を乞う。

 

「杉个谷」は「すぎがやつ」と読みを振る。

 

「管領の屋敷跡」これについては伝承のみで、確固たる同定確証はなく、現在は最早、位置も定かには現認出来ない(一応、長寿寺の向いの東北一帯を「東管領屋敷」と呼称してはいる)。「新編鎌倉志卷之三」に、

 

管領屋敷 管領屋敷は、明月院の馬場先(ばばさき)、東鄰の畠也。上杉民部の大輔憲顯(のりあき)、源の基氏の執事として此所に居す。其の後上杉家、代々此の所に居宅す。其の時鎌倉にても京に似せて、管領を將軍或は公方などと稱し、執事を管領と云故に、此の處を管領屋敷と云なり。後に上杉顯定、上州平井の城に居す。しかれども山の内の管領と云ふ。憲顯の末流を、山の内上杉と云なり。扇谷(あうぎがやつ)の上杉と云あり。扇谷の條下に詳かなり。

 

とある。「上杉民部の大輔憲顯」(徳治元(一三〇六)年~応安元・正平二三(一三六八)年)は南北朝期の武将。関東執事から関東管領。足利尊氏・直義の従兄弟。特に直義とは同年で親しかった。鎌倉で足利義詮を補佐したが、もう一人の執事であった高師冬と対立、観応二・正平六(一三五一)年に師冬を滅ぼして関東の実権を握った。その後、兄と不仲になった直義を匿おうとして尊氏と対立、敗走、信濃に追放となった(観応の擾乱)。後、鎌倉公方足利基氏に許されて復帰、貞治二・正平一八(一三六三)年は入鎌して関東管領となった。足利氏による関東支配の中核を担い、更に関東上杉氏勢力の基盤を固めた人物。「上杉顯定」(享徳三(一四五四)年~永正七(一五一〇)年)は戦国の武将。関東管領。越後守護上杉氏の出身であったが山内上杉家当主を継ぎ、四十年以上の長きに亙って関東管領職を務めた。古河公方足利成氏との対立、家臣長尾景春の反乱、同族の扇谷上杉定正との抗争、越後の長尾為景との戦い(この戦で戦死)など、兵乱の只中を生きた、山内上杉氏の最後の光芒を放った人物である。「上州平井」現在の群馬県藤岡市平井にあった山内上杉氏の本城。この城下町は高崎市山名根古谷地区まで及び、『関東の都』と呼ばれて繁栄した。

 

「杉が谷(やつ)辨財天の宮」現存しない。これについては、今回のテクスト化で非常にお世話になっている鶴岡節雄氏校注「新版絵草紙シリーズⅥ 十返舎一九の箱根 江の島・鎌倉 道中記」(千秋社昭和五七(一九八二)年刊)の鶴岡節雄氏の解題「名所記とそのカルチュア」の「名所・そのカルチュア」にある「そのⅠ 杉之谷弁財天」に、詳細な考証が記されてある。かなり長いものであるが、鶴岡氏も述べておられる通り、この名所は現在、ほぼ完全に忘れ去られたものであり、現行の鎌倉地誌や案内記にも記載が殆んどない(私もこれを読むまで、その全くと言ってよいほどに知らなかった。但し、引用に表われる蘭渓道隆の童子の逸話の原話は比較的人口に膾炙するものではある)。さすれば、鶴岡氏のこの記載は貴重な探査と記録であり、是非とも広く知られるべき内容であると確信し、全文を引用する(踊り字「〱」は正字化し、写真のページを示すアラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた。但し、当該写真は、先にも揚げた上総国大野村名主の鎌倉道中の日記などは、底本をご購入の上、実見されたい。私の引用は著作権の侵害を意図するものではないが故に)。

 

   《引用開始》

 

本書「箱根鎌倉」編の「杉が谷」は、最近の鎌倉案内(ガイド・絵図)はもとより、『鎌倉の廃寺』というような専門的な研究書などにも、ほとんど見かけられない。しかし、鎌倉の古絵図(前述のうち『鎌倉絵図』『鎌倉勝概図』『鎌倉一覧図』など)には、本書記述の位置(山の内、管領屋敷の東)に、明らかに「杉ケ谷弁財天」、または「杉谷弁天」としるされている。現地の方がたにもお聞きしたが、容易にその所在を知ることができなかった。

 

 再三、鎌倉にを運んだ結果、はからずも建長寺塔頭龍峯院の門前、石階の傍らに立つ「杉之谷弁財尊天」の碑(八十一頁の写真)に、バッタリと出会うことができた。碑陰には「元禄十四巳年九月吉旦之内講中」とあった。龍峯院の峰藤耕雨師にお聞きしたところ、この碑の右手台上に堂があったが、大正十二年の大地震で崩壊、本尊は現在建長寺(龍王殿右側)に移されているとのことであった。峰藤さんの紹介で、その後、建長寺資料を保管している鎌倉国宝館の三浦勝男氏から、杉の谷弁天の縁起資料のご提供をいただく幸運を得た。ご提供いただいた資料中に、前述碑建立の翌年(元禄十五年九月)の縁起がある。その要旨を略記すると、およそ次のようなものである。

 

[やぶちゃん注:以下の「 」の引用部は、底本では全体が二字下げである。]

 

「杉谷山弁才尊天は弘法大師の作で、もと江の嶋岩くつの本尊であった。(伝によると、岩くつには大師の作三体あり、一体は今にあり、一体は光明寺に、-体はこの尊天であると)建長寺開山大覚禅師この尊天を請待し、十世、一山禅師、この尊天を祈願、玉雲庵を開基、これをまつる。元禄十四年、武陽不忍池の弁天を信じていた一庶民の杉山某なる者、夢に杉谷弁天をいのれとのお告げをうけ、三百余年すたれていた杉之谷弁天の宮を再興。ために霊験大いにあらわる。杉山某は沙門覚真なり」

 

 なお、明治十年の建長寺什物帳の記録では、この再造を元禄年度(年なし)東都(江戸)戸川弾正としている。沙門覚真と戸川弾正とがどのような関係かは判然しないが、不忍池の弁天を信仰していたという杉山某、沙門覚真も、あるいは江戸の人であったかもしれない。

 

 それはともかく、元禄十五年の縁起より、ちょうど半世紀後の宝暦二年(一七五二)江戸日本橋、須原屋から板行された『鎌倉物語』には、建長寺弁天について、次のような話がのせられている。

 

[やぶちゃん注:以下の引用部は、底本では全体が一字下げである。]

 

『鎌倉物語』-建長寺に絵嶋(ゑのしま)の弁才天十六童子(とうじ)の内童子ハ此寺に置といへりむかし蘭漢和尚(らんけいおしやう[やぶちゃん注:ママ。])らい朝の節(せつ)絵嶋弁才天より一童子を船中まで迎につかハされ鎌倉まで送(おく)りまいらせけるとなり扨らんけい此寺建立の時絵嶋弁才天らんけいにの給ふやう仏力とうとしとハいへども福神なくてハ法のはんじやう成がたからんか然バ童子をミやづかへ玉へとて三十二そうの美女をさづけ玉ふらんけい神のつげにまかせ蔵あづけ納所をぞまかなハせ玉ふさて諸事万宝(まんほう)をねがひ給ふに叶ざるといふことなし扨もいよいよ寺ほんじやうしけれ然る所に鎌倉中にらんけい美女をかくし置玉ふといふ説(せつ)ちまたにをほしその比の御台所此事いつハリにをいてハうたがひあらじ然ども人のもうあく鬼口ふさぐに所なし寺請に事よせて実(じつ)を見んとぞはかられける扨俄(にはか)に美(び)女二千人を催(もよを)し建長寺に参詣(さんけい)し給ふ然バくり(庫裡)めんざう(眠蔵)ゑんの下まで人ならずと云事なし然バ神女かくれかに所なく扨こそ御台所かの美女を求得たり御台所らんけいにの給ふやう和尚(おしやう[やぶちゃん注:ママ。])等(たつと)しといへども珍敷(めづらしき)ものをゑたりいかゞふしんおほしと有し時らんけいのいはく我破戒(はかい)のなんにあらず是絵嶋(ゑしま)の弁才天よりさづけ給ふ神女なりとて則神女をめし出し誠の姿(すがた)をあらハしめ玉へと有し時に俄に神女建廿丈斗の大蛇となりろう門を七重にまきて見せ玉へバ御台所ありがたし共おそろしとも只もとの姿と有し時又美女とぞなり玉ふ其時らんけい神女にのたまふ俄の事とハいひながら此人数を馳走して玉へと有しかバ神女則三千人に膳(ぜん)ぶわたしてほうらいの山をつき白玉のくわしをもってちそうし給ふかく俄の事といへども神女のなすわざ凡人の及所にあらずとぞの給ひける御台所ハうたがひをはらしてかへらしめ給へバ神女ハてんにあがり玉ふ扨こそ一童子の内福神ハ建長寺にいはゝれ玉ふと先立のかたりし也

 

 ところで、建長寺に隣る円覚寺にも龍神や江の島弁天ゆかりの「宿龍池」や「洪鐘弁天堂」があるが、さきにもあげた上総国大野村名主の鎌倉道中の日記には、妙隆寺の鐘にまつわる次のような話がしるされている。

 

[やぶちゃん注:以下の引用部は、底本では全体が一字下げである。]

 

白井惣右ヱ門という人が、零落の妙隆寺に龍頭を掛けようとしたが、大勢寄っても容易に掛けられず因っているところへ、一人の女があらわれ、やすやすと掛け、わたしは龍宮から円覚寺の龍頭掛にきた者だが、一夜の宿をねがいたいと惣右ヱ門の家に入り、臼の中に入って上からむしろをかけてもらって寝、ゆうべこの臼の中に産をしたので、この子を育ててもらいたいといって立ち去った。その子の子孫が同家をついだので、六十一年目六十一年目に釣鐘供養があるとのことだ(要約)

 

 この話は、円覚寺の洪鐘祭(洪鐘弁天は江の島からうつされたもので六十一年ごとに江の島弁天と会うというお祭)の説話とも通ずるものがある。これらは、たとえ説話であろうと、建長寺や円覚寺、その他鎌倉の地に、江の島弁天が色濃く影をおとしていることに変わりはない。それはいわずもがな、江戸中期ころから、ほうはいと高まった江の島詣と深くかかわるものであろうし、杉之谷弁財尊天の碑や資料は、そうした足あとを明かすものといえよう。

 

 杉が谷弁天はいま忘れ去られようとしているが、名所記は、その記録をしるしつづけてきた。沢庵がしるした江戸初期の衰退を思うにつけ、名所旧跡の鎌倉の繁栄が、これら名所記のカルチュアと無関係とは思われないのだが。

 

   《引用終了》

 

最後に再度、本電子テクスト化に際しても大いに参照させて頂いている本書の校注者鶴岡節雄氏に深く敬意を表するものである。

 

「俳諧師梅翁の碑あり」「俳諧師梅翁」は談林派の祖西山宗因(慶長一〇(一六〇五)年~天和二(一六八二)年)のことであるが、この碑、現在は行方不明と思われる。

 

「伽羅陀山」円応寺の向かいの山上にあった佉羅陀山(からだせん)心平寺のことであるが、現存しない。「新編鎌倉志卷之三」に、

 

○地藏堂 地藏堂は、小袋坂(こふくろさか)より山の内へ行(ゆけ)ば右の方にあり。佉羅陀山(からだせん)心平寺と云ふ。建長寺の境内なり。【鎌倉大(をほ)日記】に、建長元年に、小袋坂の地藏堂建立とあれば、建長寺草創以前、地獄谷(じごくがやつ)と云し時より、地藏此の所にあり。濟田(さいた)地藏の根本なり。事は建長寺の條下にあり。

 

とあり、また「建長寺」の「佛殿」の項には、

 

佛殿 祈禱の牌を懸て、毎晨祈禱の經咒怠らず。本尊地藏、應行が作。相ひ傳ふ此寺建立なき以前、此の地を地獄谷と云、犯罪の者を刑罰せし處なり。平の時賴の時代に、濟田と云者、重科に依て斬罪に及ぶ。太刀とり、二(ふた)大刀まで打てども切れず。刀を見れば折れたり。何の故かあると問ひけるに、濟田荅て曰、我れ平生地藏菩薩を信仰して常に身を放たず。今も尚髻(もとど)りの内に祕すと云ふ。依てこれを見れば、果して地藏の小像あり。背(せなか)に刀(かたな)の跡あり。君臣歎異して、則ち濟田が科(とが)を赦す。濟田此の地藏を心平寺の地藏の肚中(とちう)に收むとなり。此の寺草創の時、佛殿の地藏の頭内に移す。長(たけ)一寸五分、臺座ともに二寸一分、立像の木佛(もくぶつ)なり。背に刀の跡ありと云ふ。(以下略)

 

と由来を伝える。

 

「ゑんめいの小ぶくろざかはかま/くらへ/たから入こむめい所けんぶつ」この狂歌、勘でしかないが……何となく猥雑の臭いがする(これも一九先生に毒された所以か)。識者の御教授を俟つ。

 

「よつぴて」発音は「よっぴて」で副詞。「夜一夜(よっぴとい)」の変化した語で、一晩を通してずっと。夜どおし。夜もすがら。「よっぴとよ」「よっぴてえ」とも言い、今は「よっぴいて」が普通。]

日本の文学 萩原朔太郎

       ●日本の文學

 日本の文學には、いつも二つの範疇しかない。「老人の文學」と、そして「少年の文學」である。即ち一方には、情熱の枯燥し盡した、老人の閑話小説的な文學があり、一方にはこれと對照して、少年血氣の激情に醉ひ、空虛な怒號や無思慮の理想に惑溺してゐる、感傷的の乳臭い文學がある。
「日本人の特殊なことは」と、或る外國人が評して言つた。「一般に早老であり、少年期から老年期へと、一足跳びに移つて行き、早く年齡を取つてしまふ。」と。同樣に我々の文學が、また少年期から老年期へと、一足跳びに變移して行く。そして兩者の中間にあり、人生の最も成熟した收穫時代、即ちあの所謂「中年時代」を通過しない。その中年時代に於てのみ、人は思慮の深い反省と經驗から、内に燃えあがる情熱の火を止揚して、眞の力強い作品を書き得るのだ。
 日本の文壇と文學とは、人生の收穫すべき、最も重要な時期を通過しない。それからして文學が、いつも永遠の「稚態」と「老耄」との外、一の成熟をも見ないのである。

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」より。]

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 二 社會~(3)/ 了

 以上二、三の例でもわかる通り、動物の社會にもさまざまの程度のものがあるが、蜂や蟻で見る如き完全な社會は如何にして生じたかと考へるに、比較的小さな群集が數多く相 竝んで存在して絶えず劇しく競爭したと假定すると、その結果として必ずかやうな完結した社會が出來上がるべき筈である。群集と群集とが相戰ふときには、協力一致する性質の少しでも優つた方が勝つ見込みが多く、特に味方のためには命も惜しまぬものの集まりと、危難に遇へば友を捨てて逃げ去るものの集まりとが相對する場合には、前者の勝つべきは勿論であるから、これらの性質の優れた群集が常に勝つて生存し、その弱つた群集は絶えず敗けて滅亡し、年月の重なる間には益々これらの性質が進歩して、終に今日の蜂や蟻の社會に見る如き程度まで發達したのであらう。されば蟻の勉強も蜂の勇氣も共に生存に必要なる性質として、自然淘汰の結果、次第次第に進み來つたもので、一個體を標準として見ると損になる場合が屢々あるが、その屬する團體を標準として見ると、無論極めて有功である。即ち蟻の擧國一致も、蜂の義勇奉公も、實は團體が食つて産んで死ぬために必要なことで、種族生存の目的からいへば「山荒し」が棘を立て、「スカンク」が臭氣を放つのと同じ役に立つて居る。たゞ同一の目的を達するために、それぞれ異なった手段を採つて居るといふに過ぎぬ。

鬼城句集 春之部 地理

  地理

 

春山   春山や松に隱れて田一枚

     春山や家根ふきかへる御

山笑ふ  稚子達に山笑ふ窓を開きけり

春水   大釜に春水落す筧かな

     眞菰生えて春水生えて到ること早し

苗代   苗代にひたひた飮むや烏猫

     [やぶちゃん注:底本では「ひたひた」の後

      半は踊り字「〱」。]

     竹切れに髮の毛つけて苗代田

     [やぶちゃん注:全くの勘でしかないが、こ

      竹枝に附けた髪の毛というのは、豊作祈願

      の予祝行事ではなかろうか? 識者の御教

      授を乞うものである。]

     苗代を作りて伐るや楢林

春の川  山の日のきらきら落ちぬ春の川

     [やぶちゃん注:底本では「きらきら」の後

      半は踊り字「〱」。]

     春川の日暮れんとする水嵩かな

     春川や橋くゞらする帆掛舟

氷解   とけて浮く氷の影や水の底

耳嚢 巻之六 武勇實談の事

 武勇實談の事

 戰國治(をさま)りて太平に成(なり)候頃迄長生(ちやうせい)せし老人、〔此老人の名も聞きしが思ひ忘れたり、糺(ただし)の上追(おつ)て申聞(まうしきけ)んと川尻子(し)言(いひ)ぬ。〕集會雜談の節、年若き輩、戰場に出て功をなさん事を狂じ語りければ、彼(かの)老人笑ひて、夫(それ)は大き成(なる)了簡違(ちがひ)、我等は數度戰場(いくさば)にも出(いで)けるが、中々恐ろしくて、兼ての心懸けは出來ぬものなり、我等或日軍さに、伏勢(ふせぜい)の中に組入(くみいれ)られて草高き林の内に埋伏(まいふく)なせしが、其時の心には、哀れ敵此道をば過(すぎ)ざれかし、遙かに馬煙(うまけむ)り見ゆる頃は、彌(いよいよ)恐敷(おそろしく)、此度の合戰濟(すみ)候はゞ武士をもやめ候程に思ひしが、敵兵通り過(すぐ)る頃、合圖有之候(これありさふらふ)て打出るに至り候ては、左程怖敷(おそろしく)も思わず、味方の馬に蹈(ふま)れ打物に當りて討死の數に加はるも有(あり)しが、其期(ご)に至りては何とも思はず、籠城にも數度かゝりしが、是もふたゝび武士には成間敷(なるまじき)と思ひ詰(つめ)し事もありしが、戰散(いくさちり)し後は、又止(や)め候(さふらふ)氣も失せぬと、語りし由。左も有べき實情の物語りと、聞しまゝ記しぬ。彼老人の物語りに、我憶(おく)したる心底ゆゑ、かくもあるべしと思われんが、其節同輩のもの、何れも同樣なりしと、語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。久々の、まさに題名通りの強烈なリアリズムを持った武辺譚である。
・「〔此老人の名も聞きしが思ひ忘れたり、糺の上追て申聞んと川尻子言ぬ。〕」は珍しい本文の割注である。なお、「申聞ん」を「まうしきけん」と訓じたが、これはカ行下一段活用の動詞「申し聞ける」(現在使用されるサ行下一段動詞「申し聞かせる」と同義)の未然形「申し聞け」に意志の助動詞「む」がついた「申し聞けむ」である。岩波版で長谷川氏も『申聞(きけ)ん』と読んでおられる。「川尻子」は恐らく、後の「古佛畫の事」に出る川尻春之はるのであろう。当該項の注を参照されたい。

・「憶」底本では右に『(臆)』と正字注を附す。

■やぶちゃん現代語訳

 武勇実談の事

 戦国の世が治まり、太平の世になって御座る頃まで長生致いておった、さる老人〔根岸割注:「この老人の名も訊きおいたので御座るが、失念致いたによって、仔細を再度質いた上、おって御報告致す。」とは、本話の話者である川尻氏の言である。〕、とある集まりにて雜談致いた折り、中におった年若き輩が、
「戦場に出でて功をなしたいものじゃ!」
といったことを、頻りに熱く語って御座ったところが、かの老人、軽く笑(わろ)うて、
「……それは、大いなる了簡違い。……我らは数度、戦場(いくさば)にも出でて御座ったが……なかなか。……恐ろしゅうて、かねての猛き心懸けなんどは……実際には奮い立たすこと、これ、出来ぬもので御座る。……
……例えば……我ら、ある日の戦さに、伏せ勢(ぜい)の中(なか)に組み入れられ、草深き林の内に埋伏(まいふく)致いて御座ったが、その時の心持ちにては、
『……ああっ! どうか! 敵の! この道をば過ぐること! これ、御座らぬように!……』
と深く念じ……遙かに馬煙(うまけむ)りの見えた頃には……もう、いよいよ恐しゅうなって、
『……この度(たび)の合戦だに済み申した上は……我ら……武士をも、やめんとぞ思う!……』
とまで決して御座った。……
……が……
……敵兵が通り過ぐる頃、合図のこれあり候うて、鬨上げて打ち出でた、その瞬時には……これ、さほど……怖しいとも感ずることのぅ……
……味方の馬に踏まれたり……
……同胞の打ち物に当たって、これ、惨めな討ち死にの……
……無益なる数に加わった朋輩も……これ、多く御座ったれど……
……その期(ご)に至っては……
……これ、恐ろしいとも哀れとも……
……何とも……
……思わず御座った、の……
……さても……おぞましく苦しき籠城をも、これ、幾度か致いたが……
……この折りも、
『二度とは武士には、これ、なるまい!』
と、その都度、思いつめたこと、これやはり、御座った。……
……が……
……戦さが散(さん)じた後(のち)は……これまた……武士をやめんとぞ思う気持ちも、これ、とんと、失せて御座ったよ。……」
と、語ったと申す。

 以上は、さもあらんと感ずるところの、実情の物語りと、私川尻氏より聞きしままに記したものである。
「……かの老人のあまりにも生々しき物語りに、我ら、気後れ致いて……その心底ゆえ、かくも、もの凄きものと感じ申したのであろうかとも思われはしまするが……その折り、同座致いて御座った朋輩の者も……これ、何れも、老人の話の終わった後は……同様に押し黙ってしもうて、御座いました。……」
と、川尻氏は最後に言い添えて御座ったことも記しおくことと致す。

泡立つ陰鬱 大手拓次

 泡立つ陰鬱

女のかひなのやうに泡(あわ)だつてくる
むさぼり好(ず)きの陰鬱(いんうつ)よ、
あの黑(くろ)い いつもよくかしこまつてゐる小魚(こうを)が
空(そら)が絹(きぬ)をひいたやうにあまいので、
今日(けふ)は なだめやうもないほどむづかつてゐる。

一言芳談 一〇八

   一〇八

 或上人、同法を誡(いまし)めて云、物なほしがり給ひそ、儲(まう)くるはやすくて、捨つるが大事なるに、と云々。

〇捨つるが大事、執(しふ)がきれかぬるなり。さればむかしも鉢を愛して餓鬼となり、衣を愛して蛇(じや)となり、笋(たけのこ)を愛して蟲となり、花を愛して蝶となれるたぐひおほかり。

[やぶちゃん注:されば、人の愛欲、これ煩悩の最たるものなればこそ、我、餓鬼とも蛇とも蟲とも蝶ともなり侍る所存なれ。愛欲を鮮やかに捨つるは、人たらんを酷く捨つることにほかならずや。況や、餓鬼・蛇・蟲・蝶とならんには若かじ。
「同法」仲間の念仏者。]

2013/03/08

柳に就いて / 柳  萩原朔太郎

 柳に就て

放火、殺人、竊盜、夜行、姦淫、及びあらゆる兇行をして柳の樹下に行はしめよ。夜に於て。光る柳の樹下に行はしめよ。
かかり塲合に於ける、すべての兇行は必ず靈性に生ず。
そもそも柳が電氣の良導體なることを、世界に於て最初に發見せるもの我々の先祖にあり。
しかも極めて不徹底に無自覺に、あまつさへ、傳説的に表現せられしところの新人の增補がある。

手に兇器を所持して人畜の内臟を電裂せんとするの兇賊がある。
彼はその愛人の額んに光る鑛石を射擊せんとして震慄し、かつ疾患するところの手を所有する。
かざされたるところの兇器は、その生あたたかき心臟の上におかれ、生ぐさき夜の靈智の呼吸に於て、點火發光するところのぴすとるである。而して見よ、この黑衣の曲者も、白夜柳の木の下に停立凝視する由所である。

[やぶちゃん注:『詩歌』第五巻第二号(大正四(一九一五)年二月号)所載。下線部「ぴすとる」は底本では傍点「ヽ」。後の大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」に所収された、次に示す「柳」の初出形である。]

 柳

放火、殺人、竊盜、夜行、姦淫、およびあらゆる兇行をして柳の樹下に行はしめよ。夜において光る柳の樹下に。
そもそも柳が電氣の良導體なることを、最初に發見せるもの先祖の中にあり。

手に兇器をもつて人畜の内臟を電裂せんとする兇賊がある。
かざされたるところの兇器は、その生(なま)あたたかき心臟の上におかれ、生ぐさき夜の呼吸において點火發光するところのぴすとるである。
しかしてみよ、この黑衣の曲者(くせもの)も、白夜柳の木の下に凝立する所以である。

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」より。初出の萩原朔太郎弾劾裁判所法廷に提出されたる自白調書に比して、遙かに有罪――死刑――に処し難い――悪しき杜撰な被告詩人の生活史の朦朧さを見よ!]

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 二 社會~(2)





Arinosu


[蟻の巣]

 

 身體の互に連續して居る動物の群體では、上に述べた如き團體的生活が完全に行はれるのが當り前のやうに思はれるが、個體が一個一個相離れて居る動物にも理想的の團體生活を營んで居るものがある。昆蟲の中の蜜蜂・蟻・白蟻などはその著しい例であるが、これらに於いても、各個體がたゞ自己の屬する團體の維持と繁榮とのためにのみ力を盡す點は、身體の連續した群體に比しても少しも相違はない。かやうな個體の集まりを社會又は國と名づける。蜜蜂でも蟻でも白蟻でも、數千數萬もしくは數十萬の個體が、力を協せて共同の巣を造り、餌を集めるにも敵を防ぐにも常に一致して活動する。外へ出て餌を求めるものは朝から晩まで出歩いて熱心に勉強し、獲られるだけは集めて來るが、これは無論自身一個のためではない。また巣の内に留まつて、子を育てるものは、或は幼蟲に餌を食はせたり、蛹を温い處へ移したりして一刻も休んでは居ない。蜂や蟻の卵から出た幼蟲は小さな蛆のやうなもので、足もなく眼も見えず捨てて置いては到底獨で生活は出來ぬから、係(かゝり)の者が毎日その口に滋養物を入れて廻る必要があつて、これを育てるにはなかなか手數が掛る。また敵を防ぐに當つては、各個體は始から命を捨てる覺悟で居る。蟻も蜂も腹の後端に鋭い針を備へ、且一種の酸を分泌して針で注射するから、刺されると頗る痛いが、蜜蜂などが他のものを刺すと、針は相手の傷口に折れ込み根元からちぎれるから、一度敵を刺した蜂は腹の後部に大きな傷口が出來て、そのため命を落すに至る。しかし、自身の死ぬことによつて、自身の屬する社會を敵から防ぐことに幾分かでも貢獻することが出來る場合には、蟻や蜂は少しも躊躇せず直に難に赴いて命を捨てるのである。徴兵忌避者の多い人間の社會に比べては實に愛國心が理想の程度まで發達して居る如くに見えるが、これが皆その蟲の持つて生まれた本能の働である。

Syakaihataori

[鳥類の共同の巣]

[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。【2014年1月4日上図正式追補・国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5703号)】]

 

 動物の中には澤山の個體が集まつて多少共同の生活を營みながら、蟻や蜂程に完結した社會を造るには至らぬものが幾らもある。アフリカの或る地方に産する鳥類の一種に、八百疋乃至千疋も集まつて樹木の上に共同の屋根を造り、その下に一組づつで巣を拵へるものがある。但しこれは風雨に對して巣を守るために力を協せるだけで、一疋が危險に遇うた場合に他のものがこれを助けるといふまでには至らぬ。されば、「共和政治鳥」といふ俗稱が附けてはあるが、大統領を選擧して政治を委ねるらしい形跡は見えぬ。また前に例に擧げた「あざらし」などは、多數集まつて働いて居るときには、必ず番をする役のものがあつて、危險の虞があれば、直に扁たい尾で水面を打つて相圖をすると、その響を聞いて皆殘らず水中へ飛び込んでしまふ。かやうな團體は已に多少の組織が具はつて、事實互に相助けて居るから、最早社會といふ名を冠らせても宜しからう。「をつとせい」や「あしか」などが、多數岸に上つて眠る場合にもこれと同樣のことをする。野牛の團體に就いては前にも述べたが、象の如きも群れをなして森の中を進むときには、必ず強い牡が周圍を警護し、牝や子供は中央の安全な處を歩かせる。猿の類には猩々〔オランウータン〕などの如く、夫婦と子供とで一家族を造つて生活して居るものもあるが、また多數集まつて群居して居る場合には、無論或る程度までは協力一致して働くが、個體の間には必ずしも爭鬪がないわけではなく、かしこでもこゝでも小さな爭は絶えず行はれて居る。猿の群では、その中で最も力の強く最も牙の大きな牡が大將となつて總勢を指揮し、強制的に全部を一致させて居るが、猿の程度の群集には生活上この仕組みが却つて目的に適うて居るやうに思はれる。

[「ひひ」が石を投げる]

Isiwonageruhihi

[「ひひ」の類は口吻が突出ゐるので横から見れば顏の形やや犬に似てゐて鋭い牙がる。常に岩石等の上に群居し盛に石を投げて敵を防ぐがから容易に近づかれない。圖に示すのはアフリカ産の一種である。]

[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。【2014年1月4日上図正式追補・国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5703号)】]

[やぶちゃん注:「共和政治鳥」とはスズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科スズメ科スズメハタオリ亜科 Philetairus(フィレタイルス)属シャカイハタオリ Philetairus socius(英名“Sociable Weaver”)を指している。英名の「社会性のある織工」や、その訳語の和名は、草などを編んで巨大な傘のような共同巣を集団で営巣することに由来する。ボツワナ・ナミビア・南アフリカに分布し、全長約一四センチメートル、体重約二五グラム。昆虫や種子を餌とする。背面と翼は黒っぽい色をしており、尻は淡黄色、背面と頸や翼には鱗のような模様があって尾羽は黒色。下面は淡黄色がかった白色、冠羽は薄い茶色、顎は黒い。顔は仮面をつけたような模様があり、嘴は青みがかった灰色。眼は暗褐色。脚と足は青灰色である(♀♂は外見が似、幼鳥は成鳥と比べて色がくすんで顔は黒くなく嘴は薄い茶色)。群居性が強い種で、繁殖においては独特の数百羽にも及ぶ驚くべきコロニーを形成する。♀は二~六個の卵を産卵して二週間ほど抱卵、雛は雌雄両方で世話をする。孵化後、幼鳥は十六日間程度で羽毛が生えそろう(以上の記載は主に「鳥類動画図鑑」(但し、本種の動画はない)の「シャカイハタオリ」に拠った。巨大な共同巣と本種の動画は“Birds Build Huge Communal Nests in Desertをご覧あれ)。なお、似たような造巣をし、名も酷似するスズメ上科ハタオリドリ科 Ploceidae に属する一群(実際に伝統的な旧分類ではPhiletairus 属もこちらに入っていた)は、主にサハラ砂漠以南のアフリカに棲息する(一部南アジアや東南アジア棲息し、南北アメリカにも外来種として棲息)ので、丘先生のイメージの範疇にはこれらも含まれていたはずである。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑4 鳥類」(平凡社一九八七年刊)の「ハタオリドリ」の項には、シャカイハタオリの Philetairus という属名は、ギリシア語で“Philos”(愛すべき)+“etairos”(仲間)の意とあり、二百~三百もの『つがいが一緒になって巨大な共同巣をつくる習性に由来する』とする。その巣は『小さな木に一見巨大な傘を思わせる共同巣をつくる』が、この巣、下側に設けられた入口は、ちゃんとつがい毎に別々となっているとあり、それは先に示した動画でも確認出来る。

『「あざらし」などは、多數集まつて働いて居るときには、必ず番をする役のものがあつて……』の部分は講談社学術文庫版では「あざらし」は『海狸(ビーバー)』とある。「あざらし」でもおかしくはないが、「多數集まつて働いて居るとき」「扁たい尾で水面を打つ」「その響を聞いて皆殘らず水中へ飛び込んでしまふ」というシークエンスの叙述からは、ビーバーの方が確かにしっくりくるように思われ、ここは初版の誤りがずっと踏襲された可能性が高いように感じられるのである。そもそも後文で『「をつとせい」や「あしか」などが、多數岸に上つて眠る場合にもこれと同樣のことをする』というのは、ここが「あざらし」では、屋上屋の感が拭えないからでもある。同等ではなく、より古形的な齧歯(ネズミ)目のビーバーを挙げてこそ意味があると考えるからでもある。
「圖に示すのはアフリカ産の一種である」〈図のキャプション〉これは図から見ても霊長目直鼻猿亜目狭鼻下目オナガザル上科オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属マントヒヒ Papio hamadryas であろう。それにしても、丘先生の挿絵の選び方は、後代のヴィジュアル・クレーターの先駆者であった大伴昌司も真っ青ではないか! この絵は「少年マガジン」の図解の一齣と偽っても、皆、信ずること、請け合い!]

耳嚢 巻之六 幻僧奇藥を教る事

 幻僧奇藥を教る事

 

 小石川寂圓寺の住僧の坊守の里なる、くらやみ坂の由、寺僧等の名も聞(きき)しが忘れたり。※症にて言舌不分(わからず)[やぶちゃん字注:「※」=「疒」+「中」。]、手足痒(やま)へてなやみ、五年ほど以前なりしが、百計醫藥すれども其驗(しるし)なし。或夜眠(ねむり)さめしに、雨戸少しあきし所より、丈(たけ)六尺斗(ばかり)の僧立入(たちいり)て、汝が病ひ難儀なるべし、是を治(ぢ)せんと思はゞ、千葉の賣藥を用ひば快氣するべしといひしが、右は小兒の藥なれば、中症(ちうしやう)にしるしあるべしとも思わざるに、(彼(かの)僧は元の處より出行(いでゆき)、心にも不止(とどめず)一兩夜過(すぎ)しに、又ある夜)彼僧來りて、汝わが申(まうす)處を疑ふや、呉々(くれぐれ)も千葉藥(ちばがくすり)を調へ飮(のむ)べしと憤り叱りしゆゑ、心得しと答へぬれば、又元の所より立出(たちいで)しが、跡をしたひて見ければ、庭の内に少しの石垣ありし所にてかたちを見失ひぬ。さて捨置(すておく)べきにあらざれば、人して千葉が鄽(みせ)へ至り藥を需(もと)め、此藥は小兒のみの藥やと尋けれは、小兒のみならず老人などは用ひて功ありと云へるゆゑ、害もあらざらんと彼藥を用ひしに、果して其功を得、物言ひも追々相(あひ)分り、歩行も一里斗りの所は杖によりて行(ゆき)通ふ樣になりし由。文化元子年四(ぶんかがんねんねの)五月は、また煩付(わづらひつき)て、此度はとても活間敷(いくまじき)と、彼寂圓寺の旦緣(だんえん)なる人語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。天狗のような妖僧に纏わる都市伝説の類いであるが、実際に市販されている薬物を用いている点が特異で、これは一種の宣伝効果を狙ったその薬種屋がちゃっかりでっち上げた、小児薬が老人性疾患にも効果があるという噂(但し、実際に効いた可能性もプラシーボ効果を含めて否定は出来ない)なのかも知れない。各種の薬物・健康食品・サプリメントの流行る現代にあっては、我々はこの話を荒唐無稽と笑い飛ばすことは、これ、出来ぬ。

・「教る」は「をしふる」と訓ずる。

・「寂圓寺」東京都文京区白山に現存する浄土真宗東本願寺派法輪山寂圓寺(現在も「圓」と書く)。寛永一二(一六三五)年に将軍家光の代に三河の武家衆の檀信徒によって神田緒弓町組屋敷内に開基されたが、貞享五(一六八八)年に幕命により小石川原町の現在位置に移転した。万延元(一八六〇)年には町衆も合わせて檀信徒は三百人に達した(以上は「寂寺」公式HPに拠った)。

・「寂圓寺の住僧の坊守の里なる、くらやみ坂の由」底本には左に傍注して、『(專經關本「寂圓寺の僧くらやみ坂のよし」)』とある。「坊守」は坊主と同じであろう(岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『坊主』である)。「くらやみ坂」は寂圓寺直近では文京区白山五丁目の暗闇坂であるが、「坊主の里なる」が必ずしもここに同定出来ない微妙なところではある。岩波版長谷川氏注には「江戸の坂東京の坂」『に別称を入れて十二箇所をあげる』とある。しかし、ここは文脈から寂圓寺の位置を述べたともとれないことはない。現代語訳はそう採った。

・「※」(=「疒」+「中」)は「廣漢和辭典」にも所収せず、不詳。文字面と後文にある「中症」及び言語障害や四肢の運動機能障害(但し、これは末梢神経障害と私は見る)からは中風若しくは中風様の症状を指すかと思われる。

・「千葉の賣藥」底本の鈴木氏注は、『中橋の千葉家で売った婦人血の道の実母散のこと。千葉ぐすり』とあるが、岩波版長谷川氏注は、『四谷塩町の千葉の小児丸。小児五疳の薬』とされる。どう考えても長谷川氏に軍配が挙がる。

・「痒へて」「痒」は「やむ」(病む)と訓ずることが出来る。

・「(彼僧は元の處より出行、心にも不止一兩夜過しに、又ある夜)」底本には左に『(尊經閣本)』からの補填である旨の傍注がある。

・「庭の内に少しの石垣ありし所にてかたちを見失ひぬ」の部分、その石垣をアップにして仔細を語らないのが惜しい。そこにこの妖しい僧の正体を説く鍵があったかも知れないのに。残念至極! その方が都市伝説としては面白くなること請け合いであるから、この辺りにこそ逆に、本話が単なる都市伝説なのではなく、まさに「千葉の小児丸」の販売促進策の一環であった疑いを濃厚に感じさせるのである。

・「文化元子年四(ぶんかがんねんねの)五月」読みは私の勝手な推測である。文化元年甲子(かのえね)は西暦一八〇四年で、二月十一日に享和四年から改元した。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、またしても二ヶ月前の出来たてほやほやのアーバン・レジェンドということになる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 妖しい僧が奇薬を教えた事

 

 小石川――かの暗闇坂近くの――寂圓寺の住僧の体験したことと申す(その寺僧などの名も聞いて御座ったが、残念ながら失念致いた)。

 この僧、中風の症状が出でて、その言語も不明瞭、手足も病んで不自由となって御座った。

 その発症は五年ほど以前に遡る。あらゆる施術・療治・投薬を試みてはみたものの、その効果は全く見られなんだと申す。

 ところが、ある夜のこと、かの僧、ふと眠りより醒めたかと思うたところが、僧坊の雨戸が少し開いており、そこから身の丈け、これ、六尺ばかりもあろうかという、一人の奇怪な僧が僧内へと立ち入って参り、

「……汝が病いはこれ、難儀なることであろう――これを治癒せんと思はば――これ、千葉の売薬を用いたならば――瞬く間に快気するであろうぞ。……」

と告げて、元の狭(せば)っこい雨戸の隙から出でて行ってしもうた――と思うた――ところで本当に目(めえ)が醒めた、と申す。

[根岸補注:後に僧は、この時、内心にてはその告げられた薬が知られた小児の万能薬であってどう考えてみても中風に効こうとは思われなかった、と述懐したと言う。]

 僧は、

「……おかしな夢じゃ。」

と心にも止めず、一両日が過ぎた。

 が、またしてもある夜、かの僧が来たって、

「……汝、我が申す謂いを、これ、疑うかッ!――くれぐれも! 千葉が薬を買い調えて飲まずばならずッ!!」

と、これ、ひどく憤って叱りつけたによって、

「……こ、心得まして御座るッ!……」

と、平身低頭致いて肯んじたと申す。

 妖僧はまたしても、例の雨戸の隙まより立ち出でて去(いん)だが、かの僧、こっそりとその跡をつけて見たと申す。

 ところが、庭内――ちょっとした石垣が御座ったが、そこ――で姿を見失(うしの)うてしもうたと申す。

 さても、かくなっては捨て置くわけにも参らずなったによって、足も不自由なれば、人に頼んで千葉の薬種屋へと行って貰い、かの「小児丸」を買い求めたが、その際、使いの者が、

「この薬は小児にのみ薬効のあるものか?」

と訊ねたところが、番頭の曰く、

「商標と致しまして『小児丸』と名打っては御座いまするが、これ、小児のみならず、老人などが用いましても十分に効が御座います。」

と請けがったゆえ、それを又聞き致いたかの僧も、

「……まあ、小児の薬なれば、害もあるまいて。」

と、かの薬を服用致いたと申す。

 すると、果して、自分でも吃驚するほどの効果が得られ、かつては発声の不明瞭さゆえに、ようわからなんだ、その物言いも、これ、おいおい、誰にもよう解るように相い成なって参り、また、歩行の方も、これ、一里ばかりの所ならば杖を用いて行き通えるほどになったと申す。

[根岸補注:但し、文化子(ね)の元年の四、五月頃からは、また患いついて、今度ばかりは、残念ながら救命は難しかろう、との話であった。]

 以上は、私根岸の補注情報も含めて、寂圓寺の檀家で御座る御仁の直談で御座る。

鬼城句集 春之部 天文

  天文

 

霞    榛名山大霞して眞晝かな

     石ころも霞みてをかし垣の下

     郵便夫同じところで日々霞む

     野に出でゝ霞む善男善女かな

     夕霞鳥烏のかへる國遠し

     落る日に山家さみしくかすみけり

春雨   春雨や拜殿でする宮普請

     春の雨かはるがはるに寐たりけり

     [やぶちゃん注:底本では「かはるがはる」

      の後半は踊り字「〲」。]

     新しき蒲團に聽くや春の雨

     春雨や音させてゐる舟大工

     春雨やたしかに見たる石の精

     桵の木の刺もぬれけり春の雨

     [やぶちゃん注:「桵」は「たら」。双子葉植

      物綱セリ目ウコギ科タラノキ Aralia elata

      のこと。]

     春の雨藁家ふきかへて住みにけり

     慈恩寺の鐘とこそ聽け春の雨

     [やぶちゃん注:この「慈恩寺」は白居易の

      「三月三十日題慈恩寺」などを想起したも

      のと思われる。]

陽炎   陽炎や鵜を休めたる籠の土

春雷   春雷にお能始まる御殿かな

春の雪  春の雪麥畑の主よく起きぬ

     春雪にしばらくありぬ松の影

     [やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を

      崩した草書体表記である。]

東風   門を出づれば東風吹き送る山遠し

春の月  春月に木登りするや童達

     誰れ待ちて容す春の月

     [やぶちゃん注:「容す」は「すがたかたち

      す」と訓じているか。]

     米搗に大なり春の月のぼる

殘雪   谷底に雪一塊の白さかな

     熊笹の中に雪ある山路かな

風光る   送別

     新しき笠のあるじに風光れ

なまけものの幽靈 大手拓次

 なまけものの幽靈

ある日なまけものの幽靈が
感奮して魔王の黑い黑い殿堂の建築に從事した。
ひとあたり手をつけてみると
妙にをかしくてつてきて、またどうやら倦(あ)き倦(あ)きしてしまつた。
しかし、仕事をつづけるといふことが怪しく殘りをしかつたので
靑い斧をふりあげては働いた。
そして、炎のやうに冥想の遺骸が質朴な木造車にのせられて通る。
黑い殿堂は休むことなく
ふだんの事のやうに工事が進められてゐる。
なまけものの幽靈は今更のやうにあたり前の誇りをみせびらかしたくなつた。
――みると幽靈の足には草色の瘤が出來てゐた。

一言芳談 一〇七

   一〇七

 

 下津村(しもつむら)、慈阿彌陀佛云、行基云、常作他伴(つねにたのともとなつて)、自莫爲主(みづからしゆとなることなかれ)云々。人のわきに入りたるが、心のやすき事にてあるなり。

 

〇行基曰、いふ心はあやしき柴の庵に住めども、主となるときはおごる心あり。又、何事も身にかゝりてむつかしきなり。たとへば、樹に鳥のたはむれて梢をからすがごとし。たゞ、いつも人にしたがはんにはしかじ。空也上人の、徒衆をかへりみて、物さはがしとのたまへるは、げにもとぞおぼゆる。

 

[やぶちゃん注:Ⅰは「伴」を「はん」、「自莫爲主」を「みづからしゆとなるなかれ」と訓じているが、Ⅱ・Ⅲに拠った。ここまでの「一言芳談」の流れの中では何かよく分からないけれども、私は違和感を感ずる。但し、行基の実際のプラグマティクな言行と対比しながら単独で読めむと含蓄がある言葉ではある。実はこれはⅠでは「師友」の冒頭(凡そⅠの初項から未だ二十番目ほど)に配されており、Ⅰの初読時には全く問題なく自然に読めたように記憶する。これは、恐らく原典の順序で読むが故に生ずる違和感であるように思われる。法然以前の法語を「一言芳談」の中に投げ込めば、そこまでの仮象された「一言芳談」という魔界(敢えてかく呼ぶが、私はこれに否定的意味を実は全く込めていないことを断っておく)との齟齬を生ずるのは当然である。しかし、この「一言芳談」という魔界は軽々と過去へ遡及し、その定常世界をも鮮やかに浸食するという事実に於いても驚愕の書なのである。

「下津村」Ⅱの大橋氏の脚注に、『下津村とあるが、永仁六年(一二八九)付高野山文書中に「浜中南庄惣田数柱状」に「下津浦堂」の名が見えるので、下津浦が正しいのではあるまいか』とある。これは現在の和歌山県海南市下津町にある天台宗を慶徳山長保寺(ちょうほうじ)のことと思われる。長保寺は長保二(一〇〇〇)年に一条天皇の勅願によって円仁の弟子の性空(しょうくう)によって創建、年号をそのままに取って号したという。参照したウィキ長保寺」には、同地の歴史的な地名は紀伊国海部郡浜中荘上村で『長保寺の塔頭・吉祥院は、仁和寺が荘園領家である浜中荘(濱中荘)の荘務を委任されていたことから』、『浜中荘はこの長保寺を中心にして平安時代末から室町時代にかけて栄えていた』とある。]

2013/03/07

時計 萩原朔太郎 (初出形及び決定稿「定本靑猫」版)

 

 

 時計

 

古いさびしい空家の中で

 

椅子が茫然として居るではないか。

 

その上に腰をかけて

 

編物をしてゐる娘もなく

 

暖爐に坐る黑猫の姿も見えない。

 

白いがらんどうの家の中で

 

私は物悲しい夢を見ながら

 

古風な柱時計のほどけて行く

 

錆びたぜんまいの響を聽いた。

 

 じぼあん・じやん! じぼあん・じやん!

 

古いさびしい空家の中で

 

昔の戀人の寫眞を見てゐた。

 

どこにも思ひ出す記憶がなく

 

洋燈(らんぷ)の黃色い光の影で

 

かなしい情傷だけがたゞつてゐた。

 

私は椅子の上にまどろみながら

 

遠い人氣のない廊下の向うを

 

幽靈のやうにほごれてくる

 

柱時計の錆びついた響を聽いた。

 

 じぼあん・じやん! じぼあん・じやん! 

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版全集初版に拠った。『若草』第四巻第十二号(昭和三(一九二八)年十二月号)所載。後の「新潮社版 現代詩人全集 萩原朔太郎集」の所収され、「定本靑猫」の決定稿で知られる「時計」の初出形である。下線部「ぜんまい」は底本では傍点「ヽ」。「ほごれてくる」は、縺れたり、固まったりしたものが溶けて離れてくること。「解(ほど)ける」と同義。なお、「新潮社版 現代詩人全集 萩原朔太郎集」では、「白いがらんどうの家の中で」が「白いがらんどう家の中で」となっているが、単なる脱字であろう。]

 

 

 時計

 

古いさびしい空家の中で

 

椅子が茫然として居るではないか。

 

その上に腰をかけて

 

編物をしてゐる娘もなく

 

煖爐に坐る黑猫の姿も見えない

 

白いがらんどうの家の中で

 

私は物悲しい夢を見ながら

 

古風な柱時計のほどけて行く

 

錆びたぜんまいの響を聽いた。

 

じぼ・あん・じやん! じぼ・あん・じやん!

 

古いさびしい空家の中で

 

昔の戀人の寫眞を見てゐた。

 

どこにも思ひ出す記憶がなく

 

洋燈(らんぷ)の黃色い光の影で

 

かなしい情熱だけが漂つてゐた。

 

私は椅子の上にまどろみながら

 

遠い人氣(ひとけ)のない廊下の向うを

 

幽靈のやうにほごれてくる

 

柱時計の錆びついた響を聽いた。

 

じぼ・あん・じやん! じぼ・あん・じやん! 

 

[やぶちゃん注:「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)所収のもの。私は生理的に初出を断然、支持したい。――何故かって? 私にとっては、忘れられた柱時計の音は決して「じぼ・あん・じやん!」――ではなく――「じぼあん・じやん!」であるからだ――

北條九代記 北條政範死去

      〇北條政範死去
遠江守從五位下佐馬頭權助政範は、今度、將軍家北御方(きたのおんかた)、御迎ひの人數に選ばれ、京都に上洛しける所に、路次(ろじ)より病惱に侵され、身心安からずといへども、立ち歸べき事も流石(さすが)なり、諸將に打連れて上りけるが、愈病氣重くなりければ、仙洞を初め奉り、諸將、請侍、手を握り、足を空(そら)になし、醫針の祕術、薬石の神方樣々、手を盡しけれども、極(きはま)れる天年にや、更に少の驗(しるし)もなく、遂に死去せられけり。今年末だ十六歳、十一月五日、忽(たちまち)に無常の風に誘はれ、瓦隴(ぐわろう)の霜と消えにけり。一族郎従等(ら)、力を落し、泣々(なくなく)挽歌を歌ひ、翌日の早朝に東山鳥部野に葬り、枯殘りたる草を刈(かり)拂ひ、一聚(しう)の塚にぞ埋(うづ)みける。飛脚を以て關東に告げたりければ、將軍實朝卿には御竈愛の近侍なり、牧御方(まきのおかた)の腹として、時政夫婦の愛(いつくしみ)、荒き風にも當て參(まゐら)せじと、花を飾り玉を弄(もてあそ)ぶ如くなりしかば、大名諸侍(しよじ)の餘勢重く、時めきける人ぞかし。今、かく聞き給ひ、俄(にはか)に燈火(ともしび)を打消したるやうに、肝心(きもこゝろ)を失ひ、牧御方、絶入(たえいり)々々、歎き悲(かなし)み給へども、其甲斐もあらざれば、僧を請じて經讀みつゝ、菩提を弔(とぶら)ひ給ひける。哀(あはれ)なる事共なり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十八の元久元(一二〇四)年十一月五日及び十三日に基づく。私は個人的には、この男の死を語る筆者の作話上の意図がよく分からない。
「仙洞」後鳥羽上皇。
「空になし」足を空になすで、足が地につかないほどに慌て急ぐさま。
「瓦隴の霜」屋根瓦や畑地に降りる霜。]

北條九代記 賴家卿薨去 付 實朝の御臺鎌倉に下向

      ○賴家卿薨去  實朝の御臺鎌倉に下向

同七月十八日實朝時政、計ひ申して、修禪寺に人を遣し、賴家卿を浴室の内にして潛(ひそか)に刺殺し奉る。御年未だ二十三歳、一朝の露と消えて益(あへ)なく名のみを殘し給ひ、永く白日の下(もと)を辭して、一堆(たい)の塚の主となり給ひけり。哀(あはれ)なりける御事なり。賴家卿、近習の輩、謀叛の企(くはだて)露顯せしかば、北條相摸守義時、軍士を遣して誅せらる。實朝の御臺所は京都に奏聞を經給ふ。坊門(ぼうもんの)大納言藤原信淸卿の御娘を定め下さる。御迎(おんむかひ)の人數は容儀花麗の壯士を選(えらみ)遣さる。左馬〔の〕權〔の〕介、結城〔の〕七郎、千葉〔の〕平次郎兵衞尉、畠山六郎、筑後六郎、和田三郎、土肥(とひの)先(せん)次郎、葛西(かさいの)十郎、佐原(さはらの)四郎、長居太郎、宇佐美(うさみの)三郎、佐々木小三郎、南條(なんでうの)平次、安西(あんざいの)四郎、是等を先として、美男優長(いうちやう)の輩を選(えり)揃へて上洛せしめらる。同十二月十日、御臺所、鎌倉に下著あり。即ち、御所んい御輿(おこし)入れましましければ、上下悦(よろこび)の眉(まゆ)を開き、貴賤、安堵の思(おもひ)をなし、賑々(にぎにぎ)しき世となり、關東靜謐(せいひつ)の基(もとゐ)なりと大名諸侍(しよし)の家々までも萬歳を唱へける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十八の元久元(一二〇四)年七月十九日・二十四日、八月四日、十月十四日、十二月十日に基づくが、無論、「吾妻鏡」では「十九日己夘。酉尅。伊豆國飛脚參着。昨日。〔十八日。〕左金吾禪閤〔年廿三。〕於當國修禪寺薨給之由申之云々。」(十九日己夘。酉の尅、伊豆國の飛脚、參着す。昨日〔十八日。〕、左金吾禪閤〔年廿三。〕、當國修禪寺に於いて薨じ給ふの由、之を申すと云々)とのみあるだけで、北條時政による頼家謀殺については、「承久記」(古活字本巻上)にある「外祖父にて後見なりし北條遠江守時政が爲に亡され給ぬ」や「愚管抄」(巻第六)の「元久元年七月十八日に、修禪寺にて又賴家入道を指ころしてけり。とみに、ゑとりつめざりければ、頸に緒(を)をつけ、ふぐりを取(とる)などしてころしてけりと聞へき」等を元にした叙述と思われる。

「實朝時政、計ひ申して」といっても実朝は当時未だ満十三歳であるから、これはやや無理がある気はする。

「坊門大納言藤原信淸卿の御娘」坊門信清(平治元(一一五九)年~建保四(一二一六)年)は修理大夫藤原信隆の子。同母姉に高倉天皇妃の殖子(七条院)がおり、後鳥羽天皇の外叔父として権勢を揮った。ここはその娘で実朝の正室となった坊門信子(建久四(一一九三)年~文永一一(一二七四)年)。西八条禅尼と通称され、出家後の法名は本覚尼。実朝との仲は良かったとされるが子は出来なかった。承久元(一二一九)年に実朝が公暁によって暗殺されると寿福寺にて出家し、京に戻った。後の承久三(一二二一)年五月に起こった承久の乱では兄である坊門忠信や忠清らが幕府と敵対して敗れたが、信子の嘆願によって死罪を免れている。九条大宮の地に夫の菩提寺遍照心院(現在の大通寺)を建立している(以上はウィキの「坊門信清」及び「坊門信子」を参照した)。この時、彼女は未だ十一歳であった。

「左馬の權の介」北条政範(文治五(一一八九)年~元久元(一二〇四)年)。この迎えの途中から発病し、京で死去した。ウィキの「北条政範」によれば『若年での官位の高さなどから見て、時政の嫡男は異母兄の北条義時ではなく、貴族出身である牧の方を母とする政範であったと考えられる。時政・牧の方鍾愛の子であり、牧の方所生唯一の男子であった政範の死は、畠山重忠の乱、牧氏事件と続く鎌倉幕府、北条氏一族内紛のきっかけとなっている』とある。次話参照。]

蛇の道行 大手拓次

 蛇の道行

わたしの眼を、ふところに抱(だ)いた眞珠玉のやうに暖めて、
懶惰の考へ深い錆色をした蛇めが
若いはちきれるやうな血をみなぎらして蠟色の臥床(ふしど)にありながら、
おほやうな空の叢に舞ふ光の魂を招いたのだ。
それも無理もない話だ。
見たまへ、お互ひが持つてゐる慾の火壺のなかには可愛らしい子蛇と光りの卵が無心にふざけてる。
だんだんに子供たちの眼がふくらんできて、
ありもしない翅をはたつかせた。
そのたびに幻影はいきほひよくをどつた。
いたづらな神樣は
かうして二人に罪と惠みの樂しみを料理してくれた。

鬼城句集 春之部 人事

  人事

 

治聾酒  治聾酒の醉ほどもなくさめにけり

     治聾酒や靜かに飮んでうまかつし

     [やぶちゃん注:「治聾酒」「ぢろうしゆ(じ

      ろうしゅ)」と読む。春の社日(立春から数

      えて五番目の、春分に最も近い戊戌(つち

      のえいぬ)の日に当たる)に土地の神に供

      える酒を言い、この日に酒を飲むと耳の不具

      合が治るという。「大辞泉」の例文はこの鬼

      城の冒頭の句である。御承知のことと思われ

      るが、鬼城は耳が不自由であった(若年期の後

      天的な耳の疾患によるものらしい)。]

畑打   小男や足鍬(えんぐは)踏みこむ二押三押

     [やぶちゃん注:「足」を「えん」と読むのは

      不詳。識者の御教授を乞うものである。]

     先祖代々打ち枯らしたる畑かな

     畑打のよき馬持ちて踏ませけり

目刺   束修の二把の目刺に師弟かな

     [やぶちゃん注:「束修」は「束脩」の誤りで

      あろう。「束脩」は「そくしう(そくしゅ

      う)」と読み、古く中国で師に入門する際の

      贈物とした束ねた干し肉のことで、転じて、

      諸師匠に入門する際の持参する謝礼を言う。]

     目刺あぶりて賴みある仲の二人かな

種蒔   種蒔いて暖き雨を聽く夜かな

     種蒔や繩引き合へる山畑

寒食   寒食や冷飯腹のすいて鳴る

     [やぶちゃん注:「寒食」は「かんじき」また

      は「かんしよく」と読み、冬至から一〇五

      日目の節気。古代中国の習慣で、この日は

      火気を用いずに冷たい食事をしたことによ

      る。由来ははっきりしないがこの時期は風

      雨が激しいことから火災を防ぐためとも、

      また、一度火を断って新しい火で春を呼び

      込む再生儀礼とも言われる。]

北窓開く 北窓をこぢ放しけり鷄の中

凧    谷間に凧の小さくあがりけり

     大凧や草の戸越の雲中語

初午   初午や神主もして小百姓

     初午や枯木二本の御

雛    蕎麥打つて雛も三月五日かな

     雛の間やひたとたて切る女夫事

春の灯    思ひわづらふことあり

     春の灯や搔きたつうれどもまた暗し

摘草   摘草や帶引きまはす前後

     摘草や苽市たちて二三軒

     [やぶちゃん注:「苽」はマコモのことだが、

      これは「笊市」(ざるいち)の誤植ではあ

      るまいか。]

芋植うる 芋種の古き俵をこぼれけり

     芋植ゑて土きせにけり一つ一つ

     [やぶちゃん注:底本では「一つ一つ」の後

      半は踊り字「〱」。]

     芋植えゑて梶原屋敷掘られけり

     [やぶちゃん注:これを鎌倉の吟とするペー

      ジを見かけたが、梶原景時の所領は相模国

      一宮(現在の寒川町)や初沢城(現在の八

      王子市初沢町)などにもあって梶原屋敷と

      呼称する場所は他にも多く、同定する根拠

      に疑問がある。]

櫻餠   たんと食うてよき子孕みね櫻餠

踏靑   靑を踏む放參の僧二人かな

     [やぶちゃん注:「踏靑」は「たふせい(とう

      せい)」と読む。中国で清明節前後(四月五

      日前後)に郊外へと遊んだことを言った。

      春の青草を踏んで遊ぶから、春の野遊びの

      意となった。「放參」は「はうさん(ほうさ

      ん)」と読み、禅寺で夜の参禅から修行僧を

      放免することを言う。]

藪入   藪入に交りて市を歩きけり

針供養  山里や男も遊ぶ針供養

干鱈   干鱈あぶりてほろほろと酒の醉に居る

     [やぶちゃん注:底本では「ほろほろ」の後

      半は踊り字「〱」。]

彼岸   虎溪山の僧まゐりたる彼岸かな

     [やぶちゃん注:「虎溪山」は岐阜県多治見市

      にある臨済宗南禅寺派の寺虎渓山永保寺

      (こけいざんえいほうじ)のこと。]

野燒   野を燒くや風曇りする榛名山

     野を燒くやぼつんぽつんと雨到る

     [やぶちゃん注:底本では「ぼつんぽつん」

      の後半は踊り字「〱」。]

接木   壁に題して主人を誹る接木かな

     接木してふぐり見られし不興かな

     柿の木に梯子をかける接木かな

節分   思ひ出して豆撒きにけり一軒家

草餠   草餠に燒印もがな草の庵

菊根分  妹が垣伏見の小菊根分けり

     菊根分呉山の雪の覺束な

     [やぶちゃん注:「呉山の雪」は南宋の魏慶之

      撰「詩人玉屑(ぎょくせつ)」に採られてい

      る唐代の詩僧釈可士(かし)の「僧を送る」

      という詩の一節「笠重呉天雪 鞋香楚地花」

      (笠は重し呉天(ごてん)の雪 鞋(あい)

      は香ばし楚地(そぢ)の花」という漢詩が元

      で、「呉天」は呉の地方の空の意。禅語とし

      て良く取り上げられるが、後に謡曲「葛城」

      で、シテの里の女(実は葛城の女神)とワキ

      の山伏が「笠はおもし呉天の雪 靴は香ばし

      楚地の花」と謠うことで人口に膾炙し(観世

      流では「呉天」をまさに「呉山」と謠う)、

      芭蕉も「夜着は重し呉天に雪を見るあらん」

      と詠んでいる。]

野遊   野遊や餘所にも見ゆる頰冠

茶摘   茶畑に葭簀かけたる薄日かな

     ねもごろに一本の茶を摘みにけり

鷄合   鬪鷄の眼つぶれて飼はれけり

     鬪鷄の蹴上げ蹴おろす羽風かな

一言芳談 一〇六

   一〇六

 

 聖光(しやうくわう)上人、學問を不受(うけず)して云、日來(ひごろ)學し給へる人々だにも、捨てゝこそ念佛をば申されけれ。さばかり惜しきいとまに、念佛をば申さずして學問をする事、無益なり。念佛を申していとまのひまには、さもありなん。

 

〇受けずして、修行をこのまずして、いたづらに學問のみこのむ事をいましめて、同心し給はぬなり。

〇念佛を申して、此言葉をよく見るべし。一向に學問をいましめ給ふにはあらず。

 

[やぶちゃん注:「聖光上人」再録する。浄土宗鎮西派(現在の浄土宗)の祖弁長(べんちょう 応保二(一一六二)年~嘉禎四(一二三八)年)のことである。字は弁阿(べんな)、房号は聖光房。筑前国香月(現在の福岡県北九州市八幡西区)生。現在の浄土宗では第二祖とされる。仁安三(一一六八)年に出家、安元元(一一七五)年に観世音寺戒壇で受戒、天台僧となって比叡山観叡、後に証真に師事した。建久元(一一九〇)年に帰郷して鎮西の聖地油山(あぶらやま)の学頭(一山の統率者)となったが、建久四(一一九三)年に異母弟三明房の死に臨んで深く無常を感じ、浄土教に強く惹かれる。寺務のために上洛した建久八(一一九七)年、法然を訪ねて即日、弟子となった。後に故郷筑前に戻ると筑後国・肥後国を中心として念仏の教えを弘め、筑後国山本に善導寺を建立、九州に於ける念仏の根本道場と成した。弟子に三祖然阿良忠を始めとして宗円・入阿など多数がある(以上はウィキの「弁長」に拠った)。……さて……この大物の学僧の謂いに対する湛澄の註は、これ、発言者の「作家論的分析」や「宗教史的解析」からは正しいであろう。……しかし「一言芳談」という魔界に投げ入れられた時……このような如何にもな「弁解」は、それこそ如何にもな凡愚の所産としか見えなくなる――ということは、私のみならず、ここまで私と同行されてきた読者諸士にとっても素直な感懐であると私は思うている。――そもそも「念佛を申していとまのひまには、さもありなん」(念仏を十全に申し上げていながら、それでも更に時間的ゆとりがあるというのであれば、その暇に学問をするというはよかろう)という謂いは、「念佛を申していとまのひま」あるなどという輩の申し上げておる念仏は、心からの念仏とは言えぬ、寧ろ、暇をつくる「ためにする」念仏である、と聖光は自身の生涯を追想して慚愧の中で断じているのだ――と私は読みたいのである。寧ろ、私は湛澄とは反対に、冒頭のきっぱりとした「學問を不受して」(教理経論の凡愚の学問を拒絶して)の謂いをこそ「此言葉をよく見るべし」と註したい。そうして、それに続けて、正しい呼応の副詞「一向に」の用法を以って、「一向に學問を受けず、いましめ給ふなり。」と続けたいのである。私は即ち、ここには、

〇學問を不受して、此言葉をよく見るべし。一向に學問を受けず、いましめ給ふなり。

と註したいのである。――この私の見解に就いては、これ、識者の意見を乞うものではない、とあらかじめ断っておきたい。]

2013/03/06

北條九代記 實朝讀書始 付 勢州の一揆對治

 

      ○實朝讀書始  勢州の一揆對治

 

建仁四年改元ありて元久元年とぞ號しける。將軍實朝、從五位下右近衞少將に任ぜらる。正月十二日、讀書始め。先(まづ)孝經を讀ましめ給ふ。相摸守中原仲業(なかなり)、侍讀(じどく)たり。この人はさせる文才(もんさい)の譽(ほまれ)なしといへども、諸史(しよし)百家の書を集め、粗(ほぼ)九流(きうりう)の義に通ぜし故なり。その日、砂金(しやきん)五十兩、劍(けん)一腰(こし)を賜ひけり。同四月、平氏の餘黨雅樂助(うたのすけ)平維基(これもと)が子孫等(ら)、伊賀國に起り、中宮(ちうぐうの)長司度光(のりみつ)が子息等、伊勢國に起り、一族郎從、諸方より集(あつま)る。兩國の守護山内首藤(すどう)刑部丞經俊、子細を尋(たづね)んと擬(ぎ)する所に、合戰を企つる。經俊、無勢にて叶(かなひ)難く、館(たち)を開(あ)けて逃亡す。凶徒、二ヶ國を掠(かす)め、鈴鹿の關を切塞(きりふさ)ぎ、勢州に六ヶ所の城郭を構へ、これより隣國に打出んとす。京都の守護武蔵守源朝雅(ともまさ)、軍兵を催し、美濃國より廻りて、進士三郎基度(もとのり)が朝明郡(あさけのこほり)富田(とみだ)の館(たて)に押寄(おしよせ)て、一時の間に攻(せめ)ほし、三郎基度、同舍弟松本三郎盛光、同四郎、同じき九郎、其外雜兵(ざふひやう)二百餘人を討取て安濃郡(あののこほり)に打越え、岡(おかの)八郎貞重父子、郎從八十餘人を討取(うちと)り、其より多氣(たきの)郡に討入りて、莊田(しやうだの)三郎佐房(すけふさ)、同嫡子師持(もろもち)以下が首を切(きり)掛け、河田刑部太夫を生捕りたり。朝雅が猛威、此所(ここ)に於て盛なり、一揆の張本若菜(わかなの)五郎が城郭、勢州日永(ひなが)、若松、南村、高角(たかど)、關(せき)、小野(をの)に籠(こめ)置きたる軍兵等、朝雅が武勇におそれて、皆、落失せたりければ、兩國、幾程(いくほど)なく平(たひら)ぎけり。朝雅に勸賞(けんじやう)行はれ、伊勢國の守護職に補(ふ)せられ、首藤經俊は本職を改補(かいふ)せらる。武蔵守朝雅は北條時政の婿なり。其妻は牧御方(まきのおんかた)が腹の娘なりければ、殊更に權威を振ふ事、誰(たれ)か是に勝(まさ)るべき。

 

[やぶちゃん注:実朝の読書始は「吾妻鏡」巻十八の元久元・建仁四(一二〇四)年一月十二日の条に、伊勢国と伊賀国で平家の残党が蜂起した三日平氏の乱(建仁三(一二〇三)年十二月に伊勢平氏の若菜盛高らが蜂起し、討伐に向かった鎌倉幕府軍の平賀朝雅が建仁四年(一二〇四)年四月十日から十二日の間に反乱軍を鎮圧した事件)と、彼が戦後の論功行賞で伊勢守護職となる下りは同年三月九日、四月二十一日、五月六日及び十日の条に基づく。

 

・「相摸守中原仲業」先の梶原景時弾劾事件で景時に遺恨を抱く者の内で文筆に秀でる故に訴状の執筆が依頼された人物として既出の、政所の役人(発給文書の執筆や地方巡検使節などを務め、頼家の政所始には吉書を清書、実朝期には問注所寄人も兼ねていた)であるが、これは、後に実朝と一緒に命を落とす源仲章(なかあきら、?~建保七(一二一九)年一月二十七日)の誤りである。以下の「吾妻鏡」の建仁四年一月十二日の条で、

 

〇原文

十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始。相摸權守爲御侍讀。此儒依無殊文章。雖無才名之譽。好集書籍。詳通百家九流云々。御讀合之後。賜砂金五十兩。御劔一腰於中章。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日丙子。晴る。將軍家、御讀書始〔孝經。〕。相摸權守、御侍讀(じどく)たり。此の儒、殊なる文章無きに依つて、才名の譽れ無しと雖も、好みて書籍を集め、詳らかに百家九流に通ずと云々。

御讀み合はせの後、砂金五十兩・御劔一腰(ぎよけんひとこし)を中章(なかあきら)に賜はる。

 

とあり、「相摸權守」が「中章」(仲章)であることが分かる。源仲章は貴族出身(宇多源氏で後白河法皇の側近であった源光遠の子)の儒学者。参照したウィキの「源仲章」によれば、院近臣の家に生まれて後鳥羽上皇に仕えたが、早くから鎌倉幕府にも通じて在京のまま御家人としての資格を得る。京都では正治二(一二〇〇)年頃から在京御家人としての活躍が記録され、盗賊の追捕や幕府との連絡係を務めた。その後、鎌倉に下って将軍となった源実朝の侍読(御進講役。貴人に学問を教授する学者。また、その職。後世は侍講という。「じとう」とも読む)となった。『京都においては学者としての実績に格別なものは無かったが、博学ぶりにはそれなりの評価があったらしく、学問に優れた人材に乏しい鎌倉においては幼少の将軍の教育係に適した人物とされた。実朝から気に入られた仲章は将軍の御所の近くに邸宅を賜った。その一方で、朝廷の官吏としての地位も保持して、時折上洛しては後鳥羽上皇に奉仕して幕府内部の情報を伝えるなど、今日で言うところの二重スパイの役目を果たした』。『それでも、鎌倉幕府初期の人材不足のためか』、建保四(一二一六)年には政所別当に任ぜられ(当時は二人制で大江広元とともに職務を分担)、一方、官位も相模守から大学頭を経て、建保六(一二一八)年『には幕府の推薦という名目で従四位下文章博士と順徳天皇の侍読を兼務して昇殿を許されるに至った。これは当時の幕府・朝廷双方にとって彼の存在価値が決して低くはなかった事の反映であったと言えるだろう』とある。『だが、実朝の右大臣就任の祝賀の拝賀の日、鶴岡八幡宮において実朝の甥の公暁によって実朝とともに殺害された。一般には執権北条義時と間違えられたからとも言われているが、仲章が持つ二重スパイ的な立場から、彼自身が初めから襲撃の目標に含まれていたのではという説もある』とする。なお、引用元では正式な侍読になった時期を建永元(一二〇六)年頃とする。

 

「砂金五十兩」しばしばお世話になっている「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注ではこれを現在の金額にして凡そ四百五十万円強と換算しておられる。

 

「雅樂助平維基」平重盛の嫡男で平清盛の嫡孫である平維盛の子とされる。「雅樂助」は元来は雅楽寮の次官で、正六位下に相当する。

 

「中宮長司度光」桓武天皇の末裔平良文の子忠光(ただみち)の子。因みに良文・忠光父子は今、私がこれを書きながら背を向けている二伝寺裏山の頂上に眠っている。

 

「首藤刑部丞經俊」「瀧口三郎經俊斬罪を宥めらる」に既出。事蹟はそちらを参照のこと。

 

「子細を尋んと擬する所に……」以下、ウィキの「三日平氏の乱」(鎌倉時代)から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『鎌倉幕府は初代将軍源頼朝の死後に内紛が続き、正治二年(一二〇〇年)正月に梶原景時の変を受けて京において建仁の乱が起こるなど、その影響は都にも及んだ。建仁三年(一二〇三年)九月の比企能員の変・二代将軍源頼家の追放によって十二歳の三代将軍源実朝が擁立され、北条時政が実権を握った幕府は十月三日に時政の娘婿平賀朝雅を京都守護として京に派遣し、朝雅は西国に領地を持つ武蔵国の御家人を率いて上洛した』。『一方、伊勢・伊賀地域は治承・寿永の乱で滅亡した平家の本拠地であり、元暦元年(一一八四年)の三日平氏の乱(平安時代)で平家残党の蜂起が鎮圧された後も根絶された訳ではなく、隠然たる勢力があった』(同じ呼称で呼ばれる先行する元暦元(一一八四)年七月から八月にかけて前年の平氏都落ち後に同じく伊賀・伊勢に潜伏していた平氏残党が蜂起した別事件についてはウィキの「三日平氏の乱(平安時代)」を参照されたい)。『平家残党は二十年の雌伏を経て、将軍後継問題で揺れる幕府の動揺に乗じて建仁三年(一二〇三年)十二月、若菜五郎盛高(三日平氏の乱(平安時代)を起こした藤原忠清の次男・平忠光の子)が軍勢を率いて伊勢国の守護である山内首藤経俊の舘を襲撃し、再び反乱の兵を挙げた』。『山内首藤経俊はこの襲撃事件を平氏反乱の兆しとは気づかず、十二月二十五日に侍所別当和田義盛が幕府に事件の張本を伊勢国員弁郡の郡司進士行綱と報告し、翌元久元年(一二〇四年)二月、行綱は召し捕られ囚人とされた。しかし同二月、伊賀で平維基(維盛の子とされる)の子孫らが、伊勢で平度光(忠光の子、盛高と兄弟か)の子息らが蜂起し、両国の守護の経俊が赴いたが問答無用で襲撃され、無勢の経俊は逃亡した。伊勢・伊賀は制圧され、反乱軍は鈴鹿関や八峰山(現在の根の平峠)等を通る道路を固めた』。『この報告を受けた幕府は元久元年(一二〇四年)三月十日、ついで三月二十九日に京都守護の平賀朝雅に京畿の御家人達を率いて伊勢・伊賀両国へ出陣することを命じた』。『京都では反乱軍の勢力は千余人に及ぶとの風聞があり、三月二十一日、後鳥羽院の御所で議定があり、伊賀国を朝雅の知行国と定め、追討の便宜を図った。翌二十二日、朝雅は軍勢は二百騎を率いて出陣した。反旗は伊賀国に翻ったものの、反乱の中心地は伊勢北部の朝明郡、三重郡、鈴鹿郡、安濃郡、河曲郡の諸国および中心の多気郡であった。追討軍は三月二十三日、都を出て征途に上った。反乱軍が鈴鹿関を塞いでいるため、近江国からは入れないので美濃国を経由し、二十七日に伊勢国に入った。作戦を練った上で四月十日から合戦に及び、まず富田基度(曾孫に平親真)が拠る朝明郡の富田舘(四日市市東富田町)を襲い、数時間合戦を続け、富田基度・松本盛光兄弟、安濃郡の岡八郎貞重とその子息・親族等を撃破した。さらに多気郡に進んで庄田三郎佐房とその子師房と戦い、六箇山の平盛時、そして関の小野(亀岡市)に拠る張本の若菜五郎を破った。同十二日、反乱はほぼ三日間で鎮圧され、その後伊賀国の残党も追討された』。『幕府では五月十日に論功行賞が行われ、山内首藤経俊は伊賀・伊勢の守護を剥奪され、朝雅が兼務することとなり、謀反人の所領は朝雅に与えられた。加藤光員も恩賞を受けた』。『平賀朝雅は上北面武士として後鳥羽院の殿上人に加えられ、京都守護、伊勢守護、伊賀知行国主となって御家人としては異例の権勢を強めた』(以下、続くが後の話と重複するので省略する)。なお歴史学者『岡野友彦は平氏側の拠点となった伊賀国六箇山の領家が平光盛(頼盛の子)であった事実と杉橋隆夫が唱えた牧宗親・池禅尼兄弟説(すなわち平賀朝雅の義母牧の方と平頼盛を従兄弟とする)を採用して、この事件を平賀朝雅と平光盛ら池家一族が自己の勢力拡大のために平氏残党を唆して仕組んだ「自作自演」の可能性を指摘している』ともある。

 

「進士三郎基度」前注の富田基度(とみだもとのり)。「進士」は律令制の官吏登用試験の進士科の合格者である文章生(もんじょうしょう)を言う。

 

「攻(せめ)ほし」「攻め干す」で、攻め滅ぼすの謂いか。単に「攻滅ぼし」の脱字と誤字かも知れない。

 

「勢州日永、若松、南村、高角、關、小野」「日永」は現在の四日市市日永で、以下「若松」は鈴鹿市若松、「南村」は四日市市内、「高角」は四日市市高角町、「關」は亀山市関町、「小野」は亀山市小野町に相当する(以上は「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注を参照した)。]

我が友へ贈る――

ダ・ヴィンチの「手」 ……そして……ペルゴレージの「スターバト・マーテル」の第12曲……

Hands


腕のある寢臺 萩原朔太郎

 腕のある寢臺

綺麗なびらうどで飾られたひとつの寢臺
ふつくりとしてあつたかい寢臺
ああ あこがれ こがれいくたびか夢にまで見た寢臺
私の求めてゐたただひとつの寢臺
この寢臺の上に寢るときはむつくりとしてあつたかい
この寢臺はふたつのびらうどの腕をもつて私を抱く
そこにはたのしい愛の言葉がある
あらゆる生活(らいふ)のよろこびをもつたその大きな胸の上に
私はすつぽりと疲れたからだを投げかける
ああこの寢臺の上にはじめて寢るときの悦びはどんなであらう
そのよろこびはだれも知らない祕密のよろこび
さかんに強い力をもつてひろがりゆく生命(いのち)のよろこびだ。
みよ ひとつの魂はその上にすすりなき
ひとつの魂はその上に合掌するまでにいたる
ああかくのごとき大いなる愛憐の寢臺はどこにあるか
それによつて惱めるものは慰められ 求めるものはあたへられ
みなその心は子供のやうにすやすやと眠る
ああ このひとつの寢臺 あこがれもとめ夢にみるひとつの寢臺
ああこの幻(まぼろし)の寢臺はどこにあるか。

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」所収。私は個人的に、「淋しい人格」でも推敲過程で振られた「生活」への「らいふ」という気障な読みを好まない。その生理的嫌悪感より何より、朗読には最も向かない当て読みであるからである。]

まぼろしの寢臺 萩原朔太郎 (「腕のある寢臺」初出形)

 まぼろしの寢臺

きれいなびらうどで飾られたひとつの寢臺
ふつくりとしてあつたかい寢臺
ああ あこがれ、こがれ、いくたびか夢にまで見た寢臺
私の求めてゐたたつたひとつの寢臺
この寢臺の上に寢るときはむつくりとしてあつたかい
この寢臺はふたつのびらうどの手をもつて私を抱く
そこにはたのしい幸福の泉がある
あらゆる人生の悦びをもつたその大きな胸のうへに
私はすつぽりと疲れたからだを投げかける
ああ この寢臺のうへにはじめて寢るときの悦びはどんなであらふ
その悦びはだれも知らない秘密のよろこび
さかんに強い力をもつてひろがりゆく生命のよろこびだ
みよ、ひとつのたましひはその上にすすりなき
ひとつのたましひはその上にて合掌するまでにいたる
ああ かくのごとき大いなる愛戀の寢臺はどこにあるか
それによりて惱めるものはなぐさめられ、求めるものはあたへられ、その心は子供のやうにすやすやとしづかに眠る
ああ このひとつの美美しい寢臺、あらゆる生命の悦びをつつめる寢臺
それにも知れぬ遠方にも見え
あとかたもなく失はれたるまぼろしの寢臺はどこにあるか

[やぶちゃん注:『感情』第二年六月号(大正六(一九一七)年六月号)掲載。次に示す大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」に所収する「腕のある寢臺」の初出形。下線部は底本では傍点「ヽ」。個人的にはこちらの方が決定稿「腕のある寢臺」よりも、遙かに内在律の描く線がなだらかで美しいと感じられる。特にコーダはこちらの方が広角で、その詩人の声が虚空に無限遠に広がっている。]

耳嚢 巻之六 譯有と言しも其土俗の仕癖となる事

 譯有と言しも其土俗の仕癖となる事

 

 京都にては盆中に表毎に燈籠を三十日の間とぼす事なり。是(これ)明智光秀、京都の地子(ぢし)をゆるす事ありしを、彼土(かのど)のもの嬉敷(うれしき)事に思ひて、明智滅亡の後、追善の心得にて七月中燈籠を門へ釣(つる)すとや。大阪にて五月の幟(のぼり)を、市中に節句の四つ時分迄に不殘取仕廻(のこらずとりしま)ふ事の由。是は大阪にて、秀賴落城城攻(しろぜめ)の事、五月節句に當りし故、小兒など幟沙汰(のぼりざた)にもあらず、又追(おつ)て追善を思ふ故哉(や)と、昔は言(いひ)しが、今日はかゝる譯もなく、盆燈籠、京地にて七月中家々に燈(とも)し、(大坂にて)五月の幟も五日の晝は仕廻ふ事になりて、自然と其風土の仕癖(しくせ)に成(なり)しと、度々上方へ行(ゆき)し人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。民俗学的要素を持ちながら、考現学的にも鋭い知見である。但し、この習慣が現在も京都や大阪の市中で守られているかどうかは知らない(後者は守られていない可能性が強いと推測する)。また逆に、一部のネット記載には近世の京都・大阪・江戸では盆灯籠を盆月が終わっても八月三日まで灯し続ける風習があったともある(HP「盆踊りの世界」のの記載)。もし、ここに書かれていることが守られているという地域や御仁があられれれば、これ、是非とも御教授乞いたく思う。

・「譯有と言しも其土俗の仕癖となる事」は「わけありといひしもそのどぞくのしくせとなること」と読む。岩波版長谷川氏のルビでは「わけある」と振る。

・「(大坂にて)」底本では右に、『(尊經閣本)』からの補填である旨の注記がある。

・「明智光秀」ウィキの「明智光秀の「人物・評価」の項に『光秀は信長を討った後、朝廷や京周辺の町衆・寺社などの勢力に金銀を贈与した。また、洛中及び丹波国に、地子銭(宅地税)の永代免除という政策を敷いたこれに対し、正親町天皇は、変の後のわずか』。七日の間に、三度も『勅使を派遣している。ただし、勅使として派遣されたのは吉田兼見である。兼和は、神祇官として朝廷の官位を受けてはいたが、正式な朝臣ではなかった。こうしたことから、光秀が得た権威は一時的なもので、朝廷は状況を冷静に見ていたと考えられる』とある。地子銭(「じしせん/ちしせん」)とは領主が田畠・山林・屋敷地などへ賦課した地代をいう。岩波の長谷川氏注では地子の注に『市街地の宅地税』とある。

・「四つ時分」午前十時頃。

・「秀賴落城城攻」大坂夏の陣での大阪城落城は慶長二〇(一六一五)年五月八日の朝(前日深夜より火の手が上がっているため、記載によっては五月七日陥落とする)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 訳有りとは言うもののそれぞれ由来が忘れられ単なる土俗一般の仕癖(しぐせ)として認識されるに至る事

 

 京都にては、盆の間は家ごとに燈籠を三十日の間、燈(とも)すことと相い成ってなって御座る。

――これは、かの明智光秀が、本能寺の変の後(のち)、京都の地子銭(じしせん)を免除致いたことがあったを、かの土地の者どもが、甚だ嬉しきことと思うたによって、明智滅亡の後も、その追善の思いを込めて、七月中は燈籠を門へ釣るすとか申すことで御座る。

 また、大阪にては五月の節句の幟りを、市中にあっては、これ、なんと、五月五日の節句の当日、早くも四つ時分までには、残らず降ろして、しまいおいてしもう、との由。

――これに就きては、大阪夏の陣の大阪城攻めに於いて、豊臣秀頼公の籠城なされた大阪城落城は、これ五月七日八日(なぬかようか)の、まさに五月の節句に当たって御座ったゆえ、小児なんどの幟りの沙汰どころでは御座らなんだ――また、おって秀頼公追善の意も含んで御座ったものか――と、昔は言い伝えて御座ったと申す。

 しかし、今日(こんにち)では、このような意味、分かってそうした仕儀が行われておるという風にては、これなく、ただただ、仕来(しきた)りとして、

――盆燈籠は、京都にては七月中一杯は家々に燈(とも)すもの

――五月の幟りは、大坂にては五日の昼にはしもうてしまうこと

となっておる由。

 自然、その土地の、あたかも遙かに遠い昔からの、自然な仕方の型癖と相い成って御座る。……

 

 以上は、たびたび上方へと参る御仁の語って御座った話である。

慰安 大手拓次

 慰安

惡氣のそれとなくうなだれて
慰安の銀綠色の塔のなかへ身を投げかける。
なめらかな天鵞絨色(びろうどいろ)の魚よ、
忍從の木陰(こかげ)に鳴らす timbale(タンバアル)
祕密はあだめいた濃化粧(こいけしやう)して温順な人生に享樂の罪を贈る。
わたしはただ、空(そら)に鳴る鞭のひびきにすぎない。
水色の神と交遊する鞭にすぎない。

[やぶちゃん注:底本では「天鵞絨色」のルビは「ろうどいろ」であるが、意味からも、ルビの植字の割付位置からも、「び」の脱字であることが明白であるので補った。「timbale(タンバアル)」はフランス語で打楽器のティンパニのこと。ティンパニは英語では“timpani”、本来の語源であるイタリア語では“timpani ”又は“timpano”と綴る。]

鬼城句集 春 時候

 春之部

 

  時候

 

春の日  春の日や高くとまれる尾長鷄

     あかあかと大風に沈む春日かな

春の夜  春の夜や灯を圍み居る盲者達

     春の夜や泣きながら寐る子供達

     春の夜や上堂したる大和尚

餘寒   春寒や隨身門に肥車

     竹うごいて影ふり落す餘寒かな

     春寒や掘出されたる蟇

     大寺に沙彌の爐を守る餘寒かな

     鏈して小舟つなげる餘寒かな

     [やぶちゃん字注:「鏈」は「鎖」と同義で、

      「くさり」と訓じていよう。]

     仙人掌の角の折れたる餘寒かな

     山寺に菎蒻賣りや春寒し

日永   遲き日や家業たのしむ小百姓

     遲き日の暮れて淋しや水明り

     遲き日の暮るゝに居りて灯も置かず

     遲き日やから臼踏みの臼の音

暖    遠山に暖き里見えにけり

     石暖く犬ころ草の枯れてあり

     暖く西日に住めり小舍の者

     暖や馬つながれて立眠り

長閑   長閑さや大きな緋鯉浮いて出る

     長閑さや鷄の蹴かへす藁の音

     長閑さやてふてふ二つ川を越す

     麥畑にわら灰打ちて長閑かな

     曳馬の歩き眠りや長閑なる

     ひとり歩く木曾の荷牛の長閑かな

春の宵  小百姓の飯のおそさよ春の宵

     美しき娘(こ)の手習や宵の春

     女夫して實家(さと)に遊ぶや春の宵

朧    朧夜や天地碎くる通りもの

     大門に閂落す朧かな

行春   行春や机の上の金蘭薄

     [やぶちゃん注:「金蘭薄」は「きんらんぱく」

      と読み、単子葉植物綱ラン目ラン科シュンラン

      Cymbidium goeringii の品種の一。]

     何燃して天を焦すぞ暮の春

     淺間山春の名殘の雲かゝる

     行春や畑ヶにほこる葱坊主

     行春や淋しき顏の酒ぶくれ

     春行くと娘に髮を結はせけり

     亡き人の短尺かけて暮の春

     行春や夕燒したる餘所の國

     行春や看板かけて賃仕事

     草の戸に春の名殘の倡和かな

     春惜む同じ心の二法師

二月   黑うなつて茨の實落つる二月かな

     西行の御像かけて二月寺

冴返る  冴返る庵に小さき火鉢かな

     冴返る川上に水なかりけり

夏近し  夏近き曾我中村の水田かな

     [やぶちゃん注:「曾我中村」は小田原市国府津

      の北の、現在の曽我別所梅林の東北にある六

      本松跡周辺山彦山山麓を指す地名と思われる。

      ここでの句としては、

      ほととぎす鳴き鳴き飛ぶぞいそがわし 芭蕉

      人の知る曾我中村や靑嵐       白雄

      雨ほろほろ曽我中村の田植えかな   蕪村

      といった先行作がある。]

     夏近き近江の空や麻の雨

一言芳談 一〇五

   一〇五

又云、稱名念佛は、樣(やう)なきを樣とす。身の振舞、心の善惡をも沙汰せず。懇(ねんごろ)に申せば、往生するなり。

〇樣なきを樣とす、申し樣なり。念佛申すには何の沙汰もなし。
〇身の振舞、士農工商、萬のいとなみ。
〇心の善惡、煩悩妄念のおこるおこらぬなり。
〇沙汰、取捨の義なり。

[やぶちゃん注:「樣」決まった型。
「沙汰せず」全く問題ではない。]

2013/03/05

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 二 社會~(1)

言っておくが、僕は、各種の情報を漫然と安易にコピー・ペーストして引用している訳ではない。本ブログの「苔蟲」の注をようく読んで戴ければ分かるであろう。


     二 社會

Sangonoguntai

[珊瑚の群體]

 

 水中に生活する動物には芽生によつて蕃殖するものが幾らもあるが、これらの動物は多くは親と子との身體が一生涯離れず相續いたままで居るから、段々大きな群體が出來る。例へば「珊瑚」の蟲なども、初め卵から生ずるときは一疋であるが、次第に芽生して終に樹枝狀の群體となり終る。その有樣を人間に比べて見たならば、恰も一人が椅子に腰をかけて居ると、その人の腰の邊から横に芽が生じ、それが少しづつ大きくなり、終に完全な成人となつて、隣の椅子に腰を掛け、またその人の腰の邊から横に芽が生えて、三人、四人と次第に人數が增加して行く如くである。かやうにして生じた群體では一個一個の身體は互に連續して居て、同じ血液が全部に循環し、同じ滋養物が全部に分配せられるから、生活上には全部が恰も一疋の動物の如くに働き、各個體が互に相爭ふことはない。假に甲乙一個體の中間の處へ餌になる物が流れ寄つたとしても、甲か乙か近い方が靜にこれを捕へ食ふだけで、引張り合つて爭ふ如きことは決してせぬ。但し甲が食つても乙が食つても、その消化した滋養分は隣から隣へと流れて順々に分配せられるから、互に相爭つて食ふ必要はない。このやうな動物では生存競爭に於ける單位は一疋づつ相離れた個體ではなく、多數の個體である。隨つて生存のために相戰ふに當つては必ず群體と群體とが對抗し、各個體は、たゞ自分の屬する群體の戰鬪力を增すために同僚と力を協せて必死に働くだけで、隣の者と相爭ふ如きことは絶對にない。海産の固著動物にはかやうな例が澤山にあるが、淡水池や沼に住む苔蟲類なども、生活の狀態は全くこの通りで、實に理想的の團體生活を營んで居るといふことが出來る。

Kokemusi

[淡水苔蟲]

[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。【2014年1月4日上図正式追補・国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5703号)】]

 

[やぶちゃん注:「苔蟲類」広義には外肛(がいこう)動物門 Bryozoa または Ectoprocta に属する。珊瑚に似た炭酸カルシウムなどからなる外壁を造って小群体を形成し生活する動物を指すが、一般にはコケムシの名の方が通りがよい。殆んどは温帯から熱帯の海を好むが世界中に分布し、現在、約六〇〇〇種が確認されている。ここで丘先生は、その中でも例外的な淡水産コケムシを例に挙げているが、淡水に生息する種は約七〇種ほどと少ない。恐らく丘先生は読者が接し、観察し易い種として淡水産を示されたものと思われるが、岩礁海岸などでも海産コケムシは容易に発見は出来る(私が八年前に総合学習で海岸動物観察に生徒を引率し、右腕をぐしゃぐしゃに折った直前にもその群体を見つけて生徒にこれが群体生物であることを教授したことが今も忘れられない)。参照したウィキの「外肛動物より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。この『群体は、山型、扇型、小枝型、栓抜き型など様々な形をとる。外壁には小さな穴が無数に開いていて、それぞれが個虫(zooid)と呼ばれる個々の個体である。これらは口から肛門まで続く消化管からなる真体腔の構造も持っている。口の周りの触手には繊毛が生えている総担(ふさかつぎ)と呼ばれる構造があり、珪藻や藻類を含む微生物を捕まえて餌とする。これは繊毛の生えた触手が口を囲んで配置したもので、全体をまとめて触手冠をなす。触手冠は、完全に動物体の内部に引き込むことができる』。『触手冠はこの動物のよく目立つ特徴であるが、その形には大きく二つの形がある。一つは円形に配置するもので、もう一つはそれが大きく曲がってU字型(馬蹄型)になったものである。前者は主に海産である裸喉綱と狭喉綱にみられ、後者はすべて淡水産の掩喉綱にのみみられる。ただし、掩喉綱の Fredericella 科は例外的に円形の触手冠を有している。裸喉綱や狭喉綱にみられる円形の触手冠では、その内側は例えばイソギンチャクの口盤のような広い面を持っておらず、触手の寄り集まったところに口が開く。掩喉綱のU字型の触手冠では、U字の底にあたる部分に口が開き、その両側の触手の列が大きく同一方向に伸びたような形になっている。肛門は触手冠のすぐ外に開く。掩口綱ではU字の底、口のある位置近くに開く。触手は繊毛に覆われていて、繊毛を使うことによって水流を作り、餌を口まで運ぶ』。その内部構造は、当該動物が『小さすぎるため、きちんとした呼吸器系や循環器系を持たないが、神経系や骨格系は持っている。骨格の結晶学的解析によると、方解石やアラレ石に似た構造が見られ』、『消化管はU字型に湾曲しており、咽頭から食道を通り、噴門、盲嚢、幽門とつの部分に分かれた胃へと続く。幽門から小腸を経て直腸、肛門につながっている。ある種では、噴門の前に砂嚢がある。消化管系は、個虫がそれぞれ持つ器官であるが、群体を作る時に再構成される。多くの外肛動物では一部の若い個虫しか消化機能を持たない。大きさが小さいために、外肛動物には循環系がない。ガス交換は体表全体で行うが、特に触手の部分で盛んである』とある。『裸喉綱では、群体を構成する個虫に多形がみられる例が多い。触手を持ち、えさをとる普通の個虫を常個虫という。これに対して、特殊な形になったものを異形個虫と呼んでいる。以下のようなものが知られる。

空個虫:個虫本体は退化し、個虫の部屋のみが残ったもの。群体の支持を担う。

鳥頭体:個室の入り口がくちばし状になって突出したもの。外敵の防衛や群体の清掃。

振鞭体:長い鞭状の突起が生じたもの。同じく外敵の防衛や群体の清掃。

卵室:卵を保持。

群体内の個虫はすべて無性生殖によって増えたもののため、遺伝的に同一である。そのため、自ら繁殖しない個虫も、他の個虫の繁殖を助けることによって、次世代に遺伝子を残すことができると考えられる。すなわち、個虫の機能分化は、社会性昆虫のカースト分化などと同様に、血縁淘汰によって説明することができる』。その生殖と発生は、『一部の例外を除いて外肛動物の個虫は雌雄同体である。外肛動物は無性生殖も有性生殖も行う。有性生殖ではキフォナウテス幼生などの幼生を生じる。無性生殖では新しい個虫を出芽によって形成することにより、群体が大きく成長する。群体の一部が壊れることにより、それぞれの破片が成長して新しい群体となる場合もある。このようにしてできた群体は、群体内の個虫同様にクローンで』、『掩喉綱では、無性生殖により休芽が形成される。これは二枚のキチン質の殻に包まれたもので、耐久性があり、冬をこれで乗り切るほか、水鳥の足などにくっついて分布を拡大するにも役立っているとされる』。『なお、幼生が変態したり休芽が発芽して生じた最初の個虫のことは、初虫(ancestrula)と呼ばれる』とある。生態は先に述べた通り、『ほとんどの外肛動物は海に生息するが、淡水中に生息する種類も七〇種ほど知られている。水中では、砂地、岩地、貝殻や木、海草の上などどのような場所にも存在する。しかしある種は固い基質の上では育てず、堆積物上で生活する。また、八二〇〇メートルもの深海で生息する種もいるが、多くは浅い場所で生活する。多くの外肛動物は固着性で自分では動けないが、一部の種は砂地を這うことができ、単独で動き回りながら生活する種もある。また南極海を漂いながら生きる種もいる』。『外肛動物の群体は数百万匹もの個体が集まってできることもある。個体の大きさはミリメートル以下だが、群体の大きさは数ミリメートルから時には数メートルにも達する。一部では、群体を構成する各個虫に機能分化がみられる。餌を集める通常の個体に対して、群体を支持・強化する個虫や、掃除をする個虫もいる。一方、外肛動物自体はウニや魚の餌となっている。淡水産の掩喉綱には特殊な寄生虫として軟胞子虫の Buddenbrockia が知られている』。フサコケムシ Bugula neritina やホンダワラコケムシ Zoobotryon verticillatum 『など、多くの種類が人工的な基盤上によく繁殖する。生簀に繁殖すると網目を詰まらせ、あるいは船底に付着して船足を止めるので嫌われる』とあり、先般、利尻島に私が旅した際、コンブ類に虫が附着して外見が悪くなって商品価値が落ちると漁民が町役場の役人と一緒に歎いている現場に行き遇ったことがある(この時、私がそれを見て「これはコケムシですね。かなりひどいやられようだ。」と言ったら、彼らが「あんたは学者か?」と驚かれたのが忘れられない)。『淡水産のオオマリコケムシ』 Pectinatella magnifica 『は巨大なゼラチン質の群体となって水中に浮遊し、人を驚かせることがあり、また水質悪化を招く場合もあ』り(ウィキオオマリコケムシで巨大な群体を見られる)、『一部の種は毒性を持ち、漁夫の皮膚病の原因となる。フサコケムシ Bugula neritinaは、抗がん剤になりうる細胞毒性を持つブリオスタチンという化合物を生成するとして、注目を集めている』。歴史的には、『この類は古くはサンゴなどとともに植虫(Zoophyta)などと呼ばれたが、その内部構造などが明らかになると、間違いなく動物であり、しかもサンゴなどよりはるかに複雑な構造であることが判明したことから独立に扱われるようになり』、一八三一年、Ehrenbergによって『コケムシ類(bryozoa)とされた。当初はスズコケムシ類もこれに含めたが、両者の違いがはっきり理解されるに従い、それぞれ独立した群と見なされるようになった。外肛動物の名は、スズコケムシ類との関連で、コケムシ類の場合は肛門が触手冠の外にあるのに対して、スズコケムシ類ではその内側にあるため、この類を内肛動物と呼んだのに対比させたものである』とある。]

虫 萩原朔太郎 (詩集「宿命」の「蟲」の初出形)

 

 

 

 或る詰らない何かの言葉が、時としては毛虫のやうに、腦裏の中に意地わるくこびりついて、それの意味が見出される迄、執念深く苦しめるものである。或る日の午後、私は町を步きながら、ふと「鐵筋コンクリート」といふ言葉を口に浮べた。何故にそんな言葉が、私の心に浮んだのか、まるで理由がわからなかつた。だがその言葉の意味の中に、何か常識の理解し得ない、或る幽玄な哲理の謎が、神祕に隱されてゐるやうに思はれた。それは夢の中の記憶のやうに、意識の背後にかくされて居り、漂渺として捉へがたく、そのくせすぐ目の前にも、捉へることができるやうに思はれた。何かの忘れたことを思ひ出す時、それがつい近くまで來て居ながら、容易に思ひ出せない時のあの焦燥。多くの人々が、たれも經驗するところの、あの苛々した執念の焦燥が、その時以來憑きまとつて、絕えず私を苦しくした。家に居る時も、外に居る時も、不斷に私はそれを考へ、この詰らない、解りきつた言葉の背後にひそんでゐる、或る神祕なイメーヂの謎を摸索して居た。その憑き物のやうな言葉は、いつも私の耳元で囁いて居た。惡いことにはまた、それには强い韻律的の調子があり、一度おぼえた詩語のやうに、意氣わるく忘れることができないのだつた。「テツ、キン、コン」と、それは三シラブルの押韻をし、最後に長く「クリート」と曳くのであつた。その神祕的な意味を解かうとして、私は偏執狂者のやうになつてしまつた。明らかにそれは、一つの强迫觀念にちがひなかつた。私は神經衰弱症にかかつて居たのだ。
 或る日、電車の中で、それを考へつめてる時、ふと隣席の人の會話を聞いた。
「そりや君。駄目だよ。木造ではね。」
「やつぱり鐵筋コンクリートかな。」
 二人づれの洋服紳士は、たしかに何所かの技師であり、建築のことを話して居たのだ。だが私には、その他の會話は聞えなかつた。ただその單語だけが耳に入つた。「鐵筋コンクリート!」
 私は跳びあがるやうなシヨツクを感じた。さうだ。この人たちに聞いてやれ。彼等は何でも知つてるのだ。機會を逸するな。大膽にやれ。と自分の心をはげましながら
「その……ちよいと……失禮ですが……。」
 と私は思ひ切つて話しかけた。
「その……鐵筋コンクリート……ですな。エヽ……それはですな。それはつまり、どういふわけですかな。エヽそのつまり言葉の意味……といふのはその、つまり形而上の意味……僕はその、哲學のことを言つてるのですが……。」
 私は妙に舌がもどつて、自分の意志を表現することが不可能だつた。自分自身には解つて居ながら、人に說明することができないのだつた。隣席の紳士は、吃驚したやうな表情をして、私の顏を正面から見つめて居た。私が何事をしやべつて居るのか、意味が全で解らなかつたのである。それから隣の連を顧み、氣味惡さうに目を見合せ、急にすつかり默つてしまつた。私はテレかくしにニヤニヤ笑つた。次の停車場についた時、二人の紳士は大急ぎで席を立ち、逃げるやうにして降りて行つた。
 到々或る日、私はたまりかねて友人の所へ出かけて行つた。部屋に入ると同時に、私はいきなり質問した。
「鐵筋コンクリートつて、君、何のことだ。」
 友は呆氣にとられながら、私の顏をぼんやり見詰めた。私の顏は岩礁のやうに緊張して居た。
「何だい君。」
 と、半ば笑ひながら友が答へた。
「そりや君。中の骨組を鐵筋にして、コンクリート建てにした家のことぢやないか。それが何うしたつてんだ。一體。」
「ちがふ。僕はそれを聞いてるのぢやないんだ。」
 と、不平を色に現はして私が言つた。
「それの意味なんだ。僕の聞くのはね。つまり、その……。その言葉の意味……表象……イメーヂ……。つまりその、言語のメタフイヂツクな暗號。寓意。それの秘密。……解るね。つまりその、隱されたパズル。本當の意味なのだ。本當の意味なのだ。」
 この本當の意味と言ふ語に、私は特に力を入れて、幾度も幾度も繰返した。
 友はすつかり呆氣に取られて、放心者のやうに口を開きながら、私の顏ばかり視つめて居た。私はまた繰返して、幾度もしつツこく質問した。だが友は何事も答へなかつた。そして故意に話題を轉じ、笑談に紛らさうと努め出した。私はムキになつて腹が立つた。人がこれほど眞面目になつて、熱心に聞いてる重大事を、笑談に紛らすとは何の事だ。たしかに、此奴は自分で知つてるにちがひないのだ。ちやんとその秘密を知つてゐながら、私に敎へまいとして、わざと薄とぼけて居るにちがひないのだ。否、この友人ばかりではない。いつか電車の中で逢つた男も、私の周圍に居る人たちも、だれも皆知つてるのだ。知つて私に意地わるく敎へないのだ。
「ざまあ見やがれ。此奴等!」
 私は心の中で友を罵り、それから私の知つてる範圍の、あらゆる人々に對して敵愾した。何故に人々が、こんなにも意地わるく私にするのか。それが不可解でもあるし、口惜しくもあつた。
 だがしかし、私が友の家を跳び出した時、ふいに全く思ひがけなく、その憑き物のやうな言葉の意味が、急に明るく、靈感のやうに閃めいた。
「虫だ!」
 私は思はず聲に叫んだ。虫! 鐵筋コンクリートといふ言葉が、秘密に表象してゐる謎の意味は、實にその單純なイメーヂにすぎなかつたのだ。それが何故に虫であるかは、此所に說明する必要はない。或る人々にとつて、牡蠣の表象が女の肉體であると同じやうに、私自身にすつかり解りきつたことなのである。私は聲をあげて明るく笑つた。それから兩手を高く上げ、鳥の飛ぶやうな形をして、嬉しさうに叫びながら、町の通りを一散に走り出した。

[やぶちゃん注:『文藝』第五巻第一号 昭和一二(一九三七)年一月号所収。詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)の「蟲」の初出形である。「祕」と「秘」の混在はママ(これは作者ではなく、専ら、植字工の責任と推定される)。
 なお、「宿命」版は(●は相対的に詩想としてはやや大きな変改)、

●「虫」は禪箇所が正字の「蟲」となっている点
・「或る幽玄な哲理の謎」の「幽玄」が「幽幻」と改められている点
・「漂渺」が「縹渺」に訂正されいる点
・「意氣」が「意地」に改められている点(意味は変わらないので誤字ではない)
●その直後の「忘れることができないのだつた。」が「忘れることができないのだ。」という過去の事柄に対する判断・確認を表すものが断定・強調を示す現在形に書き改められている点
・致命的な誤植で読みようがない「舌がもどつて」を「舌がどもつて」に訂正している点
・「到々」が「到頭」に訂正されいる点
・「それの秘密」の「れ」が除去されている点

以外はほぼ同じであるので(何故、「ほぼ」と言ったかというと、実は「宿命」では第一段落の終り近くの『「クリート」』があろうことか、『「ククート」』になってしまっているからである)、私の本ブログでは示す必要を認めないので掲げない。なお、「宿命」の巻末に載せる「散文詩自註」の「蟲」の部分を参考としてここに示しておく。

 

   散文詩といふよりは、むしろコントといふ如き文學種目に入るものだらう。此所で自分が書いてることは、或る神經衰弱症にかかつた詩人の、變態心理の描寫である。「鐵筋コンクリート」と「蟲」との間には、勿論何の論理的關係もなく、何の思想的な寓意もない。これが雜誌に發表された時、二三の熱心の讀者から、その點での質問を受けて返事に窮した。しかし精神分析學的に探究したら、勿論この兩語の間に、何かの隱れた心理的關聯があるにちがひない。なぜならその詩人といふものは、著者の私のことであり、實際に主觀上で、私がかつて經驗したことを書いたのだから。
 しかし多くの詩人たちは、自己の詩作の經驗上で、だれも皆こんなことは知つてる筈だ。近代の詩人たちは、言葉を意味によつて聯想しないで、イメーヂによつて飛躍させる。たとへば或る詩人は、「馬」といふ言葉から「港」をイメーヂし、「a」といふ言葉から「蠅」を表象し、「象」といふ言葉から「墓地」を表現させてる。かうしたイメーヂの聯絡は、極めて飛躍的であり、突拍子もない荒唐のものに思はれるだらうが、作者の主觀的の心理の中では、その二つの言葉をシノニムに結ぶところの、歷とした表象範則ができてるのである。しかもその範則は、作者自身にも知られてない。なぜならそれは、夢の現象と同じく、作者の潜在意識にひそむ經驗の再現であり、精神分析學だけが、科學的方法によつて抽出し得るものであるから。
 それ故詩人たちは、本來皆、自ら意識せざる精神分析學者なのである。しかしそれを特に意識して、自家の藝術や詩の特色としたものが、西洋の所謂シユル・レアリズム(超現實派)である。シユル・レアリズムの詩人や畫家たちは、意識の表皮に浮んだ言葉や心像やを、意識の潜在下にある經驗と結びつけることによつて、一つの藝術的イメーヂを構成することに苦心してゐるが、單に彼等ばかりでなく、一般に近代の詩人たちは、だれも皆かうした「言葉の迷ひ兒さがし」に苦勞して居り、その點での經驗を充分に持つてる筈である。そこで私のこのコントは、かうした詩人たちの創作に於ける苦心を、心理學的に解剖したものとも見られるだらう。

 

朔太郎はこれを「神經衰弱症かかつた詩人」即ち「著者の私のことであり、實際に主觀上で、私がかつて經驗したことを書いた」と述べているが、特にエンディングの処理はカフカの諸小説やブニュエルやの映像に近い、シュールレアリスム的なるものの潮流の中で恣意的にパーフォムされたものと近似している(これは言っておくが批判ではない)。【2022年1月23日に「宿命」の正規表現版の公開のために不全箇所を訂した。】]

鬼城句集 新年之部 (全) / カテゴリ「鬼城句集」始動

ブログ・カテゴリ「鬼城句集」を始動する。



鬼城句集

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年四月中央出版協会発行の「鬼城句集」を復刻した、昭和五八(一九八三)年財団法人日本近代文学館刊の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」内の同句集を底本としたが、字配(特に文字空けと句の均等割付)などは原則、無視している。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部に禁欲的に注を附した。句の電子化終了後に、高濱虛子及び大須賀乙字の「序」、鬼城の「例言」を附してHP版を作製する予定である。【ブログ始動・二〇一三年三月五日】]

 

新年之部

鬼城句集

 新年之部


  時候


元日   緣側の日にゑひにけりお元日

     元旦や枯木の宿の薄曇り

     元日やふどしたゝんで枕上

三日   一壺かろく正月三日となりにけり

四日   小坊主の法衣嬉しき四日かな

三ケ日  門さして寺町さみし三ケ日

     ともしらの酒あたゝねぬ三ケ日

松の内  松の内村人二人まゐりけり

廿日正月 正月も繿縷市たちて二十日かな

正月   正月や何して遊ぶ盲者達

  

  天文

 

お降   お降や羽根つきに行く傘の下

     お降や袴ぬぎたる靜心

  

  地理

 

惠方   白雲の靜かに行きて惠方かな

  

  人事

 

御慶   御慶申す手にいたいたし按摩膏

[やぶちゃん注:底本では「いたいたし」の後ろの「いた」は踊り字「〱」。]

     髻を女房に結はせ年賀かな

雜煮   雜煮食うてねむうなりけり勿體な

     もうもうと大鍋けぶる雜煮かな

[やぶちゃん注:底本では「もうもう」の後半は踊り字「〱」。]

歌留多  二つ三つ歌も覺えて歌留多かな

     歌かるた讀み人かへてとりにけり

羽根   靜かさや冴え渡り來る羽根の音

     獅子舞に團十郎を知る子かな

     前髮に二つはさむや羽根大事

手毬   日暮るゝに取替へてつく手毬かな

     杣の子の二つ持ちたる手毬かな

破魔弓  破魔弓を掛けて時めく主人かな

     二つ掛けて老い子育つる破魔矢かな

     四十二の鬼子育つる破魔矢かな

     破魔弓をかけて寺ともなかりけり

繭玉   繭玉や店ひろびろと船問屋

[やぶちゃん注:底本では「ひろびろ」の後半は踊り字「〲」。「村上鬼城記念館」公式サイト「鬼城草庵」の鬼城俳句と自画讃で猿曳の絵を添えた短冊が見られる。]

初曆   吉日のつゞいて嬉し初曆

     草の戸に喜び事や初曆

飾    古鍬を研ぎすましたる飾かな

     壁にかけて二挺の鍬の飾かな

門松   門松や蔭言多き吉良屋敷

     松立てゝゆゝしき門となりにけり

     門松や戸をさして住む百姓家

     松立てゝ大百姓の門二つ

     柴門に大きな松を立てにけり

書初   庵主の禿筆を嚙む試筆かな

食積   食積や喜び事のつゞく家

若水   若水のけむりて見ゆる靜かな

     包井や老も起きそふ草の宿

初手水  上人の御顏なつかし初手水

年玉   年玉や水引かけて山の芋

     年玉や寺でくれたる飯杓子

     年玉や大きな判の伊勢曆

初荷   山里を通り拔けたる初荷かな

     藥湯に四五俵の炭の初荷かな

左義長  左義長や河原の霜に頰冠

     大穴に霜の煮え立つとんどかな

     谷間の二軒の家のとんどかな

七草   ことことと老の打ち出す薺かな

[やぶちゃん注:底本では「ことこと」の後半は踊り字「〱」。]

     七草やもうもうけぶる馬の粥

[やぶちゃん注:底本では「もうもう」の後半は踊り字「〱」。]

     とかくして冷たうなりぬ七草粥

用始   向合うて墨すりかはせ用始

     用始禿筆嚙む小吏かな

鍬始   鍬始小松並べて植ゑにけり

     山畑に朝日大きや鍬始

     鍬始乏しき酒をあたゝめぬ

     烏帽子着て畑ヶ二打身三打かな

     鍬始淺間ヶ嶽に雲かゝる

調練始  大筒をひき出て調練始めかな

彈始   彈初や官位持ちたる琵琶法師

鏡開   老猿をかざり立てたり猿まはし

     大猿に小さき着物や猿まはし

傀儡師  傀儡師鬼も出さずに去にゝけり

懸想文  薄墨のたよりなき色や懸想文

  

  植物

 

福壽草  福壽草咲いて筆硯多祥かな

     福壽草や卓に掛けたる白錦

     福壽草何隱したる古屛風

北條九代記 賴家卿出家流罪 付 千幡公家督 竝 元服

      ○賴家卿出家流罪  千幡公家督  元服

將軍賴家卿の惡行、重畳(ぢうでふ)し給ひしかば、心ならず御餝下(おんかざりおろ)し給ふ。御病惱の上には國家政理(せいり)の御事も始終尤も危くおはしますとて、尼御臺所政子の御計(はからひ)として、伊蔵國修禪寺に御下向なし奉らる。正治元年より以來(このかた)、御治世、僅(わづか)に五年なり。北條時政、同子息義時等、千幡公(ぎみ)を取立て主君とす。故右大將賴朝卿より以來(このかた)の御家人等、皆、本領を安堵したり。時政が妻牧御方(まきのおんかた)は、尼御臺所政子の爲には繼母(けいぼ)なり、かゝる折節に千幡公をも害し參らせんと思ふ志有りけれども、義時等が介抱に依て其事叶はず。同九月十五日、千幡公を關東の長者とし、從五位下の位(ゐ)記竝に征夷大將軍の宣旨を鎌倉に下されけり。十月八日、千幡公、年十二歳にして御元服あり。武藏守義信、加冠たり。理髮は外祖時政なり。政所の吉書始(きつしよはじ)め、御鎧(よろひ)の著始(きはじめ)、馬乘弓初(のりゆみはじめ)、皆その儀式を行ひ給ふ。鶴ヶ岡二所、三嶋以下の神社に各々神馬を參らせて、世上無爲(ぶゐ)の御祈(いのり)あり。鶴ヶ岡の塔婆の事、建立の始に火災ありて、當宮以下、鎌倉中の民屋數(す)町焼失す。既に再興の御爲に地曳(ぢびき)せらるゝ所に、賴家卿没落し給ふ。旁々(かたがた)以て不吉なれば、此經營、然るべからずとて、尼御臺政子の計(はからひ)として塔婆の再興を停止せらる。神慮如何(いかゞ)と覺束(おぼつか)なし。

[やぶちゃん注:頼家の出家と伊豆修善寺への強制下向は「吾妻鏡」巻十七の建仁三(一二〇三)年九月七日及び二十九日に、千幡の征夷大将軍就任、元服その他の儀は同年九月十五日、十月八日・九日・十四日に、最後の鶴ヶ岡八幡宮寺の塔婆建立の停止(ちょうじ)は同年十二月三日の条に基づく。

 遂に頼家が幕政から排除される九月七日の条を見よう。

〇原文

七日壬申。霽。亥尅。將軍家令落飾給。御病惱之上。治家門給事。始終尤危之故。尼御臺所依被計仰。不意如此。

〇やぶちゃんの書き下し文

七日壬申。霽る。亥の尅、將軍家、落飾せしめ給ふ。御病惱の上、家門を治め給ふ事、始終尤も危きが故に、尼御臺所、計ひ仰せらるるに依つて、意(こころ)ならずも此くのごとし。

なお、「okadoのブログ: 源頼家の悲劇~比企氏の乱の真相は…」によれば、この直後の九月七日の、近衛家実の「猪熊関白記(いのくまかんぱくき)」(但し、当時はまだ右大臣)や藤原定家の「明月記」には、「頼家が九月一日に死去したため、弟に継がせたいという幕府の申請をうけ、朝廷が弟を征夷大将軍に任命し実朝の名を与えた。二日には頼家の子や比企能員が実朝もしくは北条氏によって討たれた」と記されている、とある。

「時政が妻牧御方」牧の方(生没年不詳)は北条時政の継室。牧宗親の娘とも妹とも言われ、下級ながら貴族の出身であった。子は北条政範・平賀朝雅室・三条実宣室・宇都宮頼綱室。夫時政とはかなり年齢が離れていたが、その仲は睦まじかったと言われている。寿永二(一一八二)年十一月、産後の継娘政子に夫頼朝の浮気を伝え、政子が牧の方の父(兄?)宗親に命じて頼朝の愛妾亀の前の屋敷を打ち壊させる騒動を引き起こしている。これについては新編鎌倉志七」の「飯島」の項で、私が事件の詳細を再現しているので是非、ご覧あれかし。

「かゝる折節に千幡公をも害し參らせんと思ふ志有りけれども、義時等が介抱に依て其事叶はず」は後の時政と牧の方の共謀による実朝暗殺計画の仄めかしであるが、ちょっと焦り過ぎのフライングで、文脈上も言葉足らずの印象を拭えず、伏線の張り方としては筆者らしからぬ失敗である。

「加冠」男子の元服の際に初めて冠をつける儀式初冠(ういこうぶり)での、冠を被らせる役。「ひきいれ」とも言った。

「理髮」男子の元服や女子の成人の裳着(もぎ)の儀式で頭髪の末を切ったり結んだりして整える役。

「吉書始め」武家で年始・任官・将軍職相続等の際に吉書(初めて天皇に上奏する形式的な政務上の文書)を出す儀式。

「二所」伊豆山権現(走湯権現)と箱根権現。これに次の三嶋社を加えた二所詣(加えても二所と言った)では文治四(一一八八)年一月二十日に頼朝によってはじめられた儀式である。

「鶴ヶ岡の塔婆の事、建立の始に火災ありて、當宮以下、鎌倉中の民屋數町焼失す。既に再興の御爲に地曳せらるゝ所」当巻の先行する判官知康落馬 付 鶴ヶ岡塔婆造立地曳を参照。

「尼御臺政子の計として塔婆の再興を停止せらる。神慮如何と覺束なし」無論、「神慮如何と覺束なし」の部分は「吾妻鏡」にはない。この辺り、既に向後に顕在化する筆者の政子個人に対する批判的視点が顔を見せ始めているように私には思われる。]

さくら貝、ふたつ重ねて海の趣味、いづれ深しと笑み問(と)はれけり。 萩原朔太郎

さくら貝、ふたつ重ねて海の趣味、いづれ深しと笑み問(と)はれけり。

[やぶちゃん注:前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十二号(明治三八(一九〇九)年七月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された「ゑかたびら」と題する十二首連作の掉尾。当時、朔太郎満十八歳(朔太郎の誕生日は十一月一日)。後に第六高等学校『校友会誌』(明治四一(一九〇八)年十二月号)には、「美棹」の署名に「水市覺有秋」の題の七首の四首目に配されて、
櫻貝二つ竝べて海の趣味いづれ深しと笑み問はれけり
と改稿されている。短歌を解さない私ではあるが(であるが故に、というべきであろう)初出形が断然よいと思う。]

その昔贈られた黄変した「萩原朔太郎詩集」の栞には手書きでこう書かれていた

Ô saisons, ô châteaux,
Quelle âme est sans défauts ?

        ――Arthur Rimbaud――

海鳥の結婚 大手拓次

 海鳥の結婚

大きな緋色の扇をかざして
空想の海は大聲にわらふ。
濃い綠色(みどりいろ)の海鳥の不具者(ふぐしや)、
命(いのち)の前にかぎりない祈禱をささげ、
眞夏の落葉(おちば)のやうに不運をなげく。
命はしとやかに馬の蹄をふんで西へ西へとすすみ、
再現のあまい美妙はいんいんと鳴る。
眠りは起き、狂氣はめざめ、
嵐はさうさうと神の額をふく。
永劫は臥床(ふしど)から出て信仰の笑顏に親しむ。
空想の海は平和の祭禮のなかに
可憐な不具者と異樣のものの媒介(なかだち)をする。

寂寥の犬、病氣の牛、
色大理石の女の彫像に淫蕩な母韻の泣き聲がただよふ。
唇に秋を思はせる姦淫者のおとなしい群よ、
惡の花の咲きにほふひと閒(ま)をみたまへ、
勝利をほころばす靑い冠、
女の謎をふせぐ黄金の圓楯よ、
戀の姿をうつす象牙の鏡、
寶玉と薰香と善美をつくした死の王衣よ。
海鳥の不具者は驚異と安息とに飽食し、
涙もろい異樣のものを抱へてひざまづく。

一言芳談 一〇四

   一〇四

 法然上人云、念佛の義を深く云ふ事は、却つて淺き事なり。義はふかからずとも、欣求(ごんぐ)だにも深くば、一定(いちじやう)往生はしてん。

〇又云、念佛は果海甚深(くわかいじんしん)の境界にして、因分解會(いんぶんげゑ)の及ぶところにあらず。たゞ仰ぎて信ずれば佛願にかなふなり。義の深きは解(げ)なり。欣求の深きは信なり。密家(みつけ)に解信深信(げしんじんしん)といふ事あり。

[やぶちゃん注:我ら知れる或人云、戻り來(きた)る人の一人(いちにん)としてなければこそ、來世とは良きところと決したり。]

耳嚢 巻之六 商家豪智の事

 商家豪智の事

 

 文化元年夏のはじめ、予がしれる者王子へまうでけるが、心地よき事を見たりとて語りぬ。王子の近所何屋とかいへる料理茶屋のありしが、かの所によりて酒食などせしに、町人壹人鄽(みせ)に腰かけて酒食抔せしに、程なく徒士(かち)ていにていと無骨成(なる)おのこ、是も彼(かの)酒店(さかみせ)に來りしが、酒狂にや甚(はなはだ)法外にて、彼(かの)町人の腰の上をまたぎこし、あたりの人にかまはず、己が雪駄(せつた)を人の膳部へかゝるも不厭(いとはず)打(うち)はたきなどしけるが、彼町人と竝びて酒飮けるが、みだりにつばき吐(はき)などして、彼町人を專(もつぱ)ら目當に無禮のみなして、町人の方へ持出(もちいづ)る肴(さかな)やうのものをも、など町人づれよりは我にこそさきへ可持來(もちいきたるべき)とて奪ひなどせしを、彼町人はにが笑ひして一向不取合(とりあはざり)しが、暫くして彼町人、我等は疝氣(せんき)強く腹ひえて難儀に付(つき)、豆腐を熱く煮て、からしわさび抔つよく懸(かけ)て出し候やう亭主に申付(まうしつけ)、代料(だいりやう)を拂ひし故、早速調味して、いかにもあつくどんぶりに入(いれ)て差(さし)出しけるを、是は至極よろしきとて、箸にて一二口食し、彼どんぶりを手に持(もち)て、右のわる者のあたまより打(うち)かぶせ、さわぎのまぎれにいづちへかはづしかへりしとなり。倶(とも)に立(たち)よりし者も、彼徒士體のもの最初よりの始末を恨み居ければ、誰ありて氣の毒といふものなく、いづれも悦(よろこび)しとかや。彼徒士は、熱物(あつもの)をあたまより冠(かぶ)り、殊更からしわさびのからみに目口を痛め、葛醬油(くずじやうゆ)にて全身を燒床(やけど)して、誰相手なければ、腹たつのみにてかへりしを、人々どよみ悦びしとや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。非常に痛快な笑い話である。少し訳では遊ばさせてもらった。

・「文化元年夏のはじめ」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、四ヶ月ばかり前のホットのな話題である。本巻は鈴木氏の執筆推定年が正しいとすると、クレジットの記された非常に新しい話題が特に目につくように思われる。

・「王子」現在の東京都北区岸町にある王子稲荷神社。徳川家康が王子稲荷・王子権現・両社の別当であった金輪寺に宥養上人を招いて以降、江戸の北地域では勢力をもった稲荷社であった。毎月午の日が縁日で今も賑わうと、参照したウィキの「王子稲荷神社」にあるから、このシークエンスの賑わいから見ても、四月の午の日の出来事かも知れない。……いや……もしかすると、この町人……縁日に、人に化けて浮かれ出た……お狐さまの……無法者へのお仕置きででも……あったのかも知れないな……面白いじゃん!

・「料理茶屋」岩波版長谷川氏注に、『海老屋・扇屋が有名』とある。

・「かち」徒侍(かちざむらい)。主家の外出時に徒歩で身辺警護を務めたりした下級武士。騎馬を許されないの謂いで、広く下級武士を指す。

・「疝氣」既出「耳嚢 巻之四」の「疝氣呪の事」の私の注を参照のこと。

・「葛醬油」醤油味の汁を煮立てた中に葛粉を溶いたものを混ぜた、とろみのある汁。長谷川氏注にはさらに、ここではその『豆腐に掛けてあり、葛で熱を逃がさぬので熱い』と、実に勘所を得た附言をなさっておられる。これぞ、注と言うもの!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 商家の者の豪快な頓智の事

 

 文化元年の初夏のこと、私の知人が、

「……先日、王子稲荷へ詣でましたところ、これ、まっこと、爽快な一場を見て御座った。……」

と語った話。

 

……王子の近所に、何とか屋とか申す知られた料理茶屋が御座るが、そこに立ち寄って、軽き酒食なんどを致しましておりました。

 同じ店内にはまた、町人体(てい)の男が一人、やはり腰かけて、同じごと、酒食なんど致いておりました。

 そこに程のう、徒士体(かちてい)の、これ、如何にも――臭って来るような不良なる男が一人――これも、かの酒店(さかみせ)に来たって御座ったと思し召されい。

 これが、また、すでに一杯入っておる様子――所謂、酒乱の類いででも御座ったものか――これ、甚だ傍若無人の振舞いを致します。

 かの町人の腰の上をわざと理不尽にも跨ぎ越す。

 辺りの者にはまるで気づかいも致さず、己(おの)が雪駄(せった)を脱いでは、

――パン! パン! パパン!

――パン! パン! パパン!

と、これ、無暗矢鱈に打ち鳴らしは、そこから飛び散る砂埃が、人の膳へ舞い掛かるも平気の平左。

 そうして、その無頼の輩がまた、かの町人と並んで酒を呑み始めたので御座るが、これがまた、

――ペッツ! ペ、ペッツ!

――ペッツ! ペ、ペッツ!

と、濫りに唾(つばき)を吐きなど致いております。

 もう、何と申しましょうか、かの町人をもっぱらイビリの標的となし、無礼の限りを尽くすので御座る。例えば、町人が注文致いた酒の肴様なんどが運ばれ来たった折りにも、

「――なんじゃア?! 町人ごときよりは我れらにこそ、先へ持って来るが、筋じゃろうがア!」

と喚(おめ)くや、横から無理矢理、奪い取ったりなんど致す始末。……

 ところが、この町人、苦笑いを致すばかりで、これ、一向に取り合う様子も御座らぬ。

 まあ、あの荒くれようを見ては、これ、黙っておるしかあるまいと、我らも気の毒に横目で見て御座った。

 すると暫く致いて、かの町人、

「我らは疝氣(せんき)が強うて、ちょいと腹が冷えて難儀で御座るによって――一つ、豆腐を熱(あつー)く煮て――辛子や山葵(わさび)なんどを強(つよー)く懸けたものを――これ、出して下さらんかのぅ、ご亭主?」

と特に注文を申し付けて、気前よく、前払いで代金も支払って御座った。

 されば料理屋の亭主も、早速に言われた通りのものを存分に調味致いて、

――これ、如何にも熱(あっ)つ熱つに、丼(どんぶり)に入れたものを――

差し出いて御座った。

 町人は、それが出されると、

「これは! これは! 至極、塩梅のよろしゅう御座るのぅ!」

と……

――箸にて一口、二口摘まむ――

 如何にも熱く辛きが、その表情からも窺えました。

と……

……町人

……如何にも満足気に

……その丼を

……徐ろにゆっくら

……ゆっくらと

……両手で持ち上げたかと思うと

……かの不良侍の

……その頭に

――これ

――ズッポリ!

と、うち被せたから――たまりませぬ!

「フンギョエ! オエッツ! ウアッツ! 熱(あっつ)! 熱(あつ)! アッツツ!」

……もうもうと立ち上る湯気と

……だらだらと垂れる汁と

……それにまみれて

……かの不良侍めが――

――これ、馬鹿踊りをするように飛んだり跳ねたり!

……さても

……その騒ぎに紛れて、かの町人は何処(いずこ)ともなく、場を外して、立ち去って姿が見えずなって御座った。

 拙者を含め、その折りに、ともにかの茶屋に立ち寄って御座った者、皆、かの徒士体(かちてい)の者には、これ、当初よりのおぞましき振舞いに、悉く恨みを抱いて御座ったれば、誰(たれ)一人として、気の毒がるものも、これ、御座らなんだ。

 拙者を始めとして誰(たれ)もが――まさに心の底より――快哉を叫んで御座ったように見受けられ申した。

 さても、かの徒士は、羹(あつもの)を脳天より深々と冠(かんむり)の如く被って御座ったゆえ……また、殊更に辛子やら山葵やらの、極めつけの辛味によって……目や口をさんざんに痛めるわ……また、しっかりと熱を持ったところの、ねっとりべたべたと、へばりついたるあつあつの葛(くず)醬油にて……これ、総身(そうみ)に火傷(やけど)を負うわ……されど……やはり、誰(たれ)一人、これ、可哀そうに思う者も……介抱致す者も……とんと、御座らぬ。

……ただ……男の……火傷で真っ赤になって腫れあがった唇から、言葉にならぬ腹たち紛れの言葉が発せらるるばかり。……ところが、これがまた、

――ヒョエッフ!

とか、

――ヒェ、ヒエトゴロヒ!

とか、

――ヒクシャフメム!

とか、訳も分からぬ物言いなれば……

……またしても一同、どっと笑って御座るうちに……

……火傷の痛みに堪えかねたもので御座ろう……

……尻をからげて……

ほうほうの体(てい)にて、逃げるように帰って行きました。

……さればこそ! はい! それでまた、我ら、どっと、どよんで……いやぁ、もう、誰も彼もが、心底、悦に入って御座いました。はい……

2013/03/04

北條九代記 太輔房源性一幡公の骨を拾ふ 付 賴家郷近習衆禁獄 竝 將軍家叛逆仁田忠常誅せらる

      ○太輔房源性一幡公の骨を拾ふ 付 賴家郷近習衆禁獄 竝 將軍家叛逆仁田忠常誅せらる
太輔房源性は將軍家に昵近(ぢつきん)し奉り、御恩、山の如く蒙りけり。思(おもひ)も寄らざる軍(いくさ)起り、一幡公失せ給へば、せめての事に御遺骨(ゆゐこつ)を尋ね求め、高野山に納め奉らんと思ひて小御所の燒跡に行きて見るに、討死したる人々の死骸共(ども)、灰に塗(まみ)れ、土に和して累々たる事。目も當てられぬ有樣なり。年比(としごろ)さしも作(つくり)磨かれたる御所なるを、忽(たちまち)に修羅の巷(ちまた)となり、一時の内に亡(ほろび)んとは誰か豫(けね)ては思ふベき。若君の御死骸は求むるに得ざりければ、御乳母(めのと)申しけるやう、御最後には染入(そめいれ)の御小袖を著せしめ給へり、菊の枝(えだ)を御紋とする由語りければ、未だ燻(くすぼ)りける灰の中を尋ぬるに、少(ちひさ)き死骸の、燃株(もへくひ)の如くなるが、右の脇の下に小袖、僅(わづか)に一寸餘(あまり)焦(こげ)殘る菊の紋見えたり。是を標(しるし)に御骨(おこつ)を拾ひ壺に入れて、源性自(みづから)肩に掛けて泣々(なくなく)高野山に趣きつゝ、奥院(おくのゐん)にぞ納めける。同月四日、小笠原彌太郎、中野五郎、細野兵衞尉等を召戒(めしいましめ)らる。將軍家の近習として、能員に骨肉の眤(むつび)あり。のちの災(わざはひ)を思はるゝ所なり。さる程に將軍家の御惱少しく怠らせ給ひ、若君、能員滅亡の事を聞召(きこしめさ)れ、「我、憗(なまじひ)に死(しに)もやらでかゝる愁(うれへ)を聞く事よ、此欝胸(うつきよう)、何時(いつ)か開けん」とて和田左衞門尉義盛、仁田四郎忠常に密談あり、北條時政を討べき企(くはだて)をぞ致し給ひける。堀(ほりの)藤次親家を以て御書を和田に下されしを、義盛、思慮を廻して時政に見せたり。時政、軈(やが)て親家を捕へて、工藤小次郎行光に仰せて誅せらる。斯(かく)て北條時政は仁田四郎忠常を名越(なごえ)の亭に召して、能員追伐の賞を行はんとせらる。忠常參りて、日暮に至れども退出せず。舎人男(とねりをとこ)、怪(あやし)みて忠常が乗りたる馬を引きて家に歸り、舍弟仁田五郎六郎等にかくと云ふに、是は一定、北條時政追討の事、將軍家に賴まれ奉る、其事漏れて誅せられたるなるべしと子細にも及ばず、推量に任せて家子(いへのこ)、郎從起り立(たち)て、五郎六郎二人の弟を大將として、江馬殿に押寄(おしよせ)たり。御家人等(ら)、おり合ひて防ぎ戰ふに、波多野(はだの)次郎忠綱は仁田五郎に組(くん)で首を取る。六郎は臺盤所に驅(かけ)込み火を懸けて自害す。仁田〔の〕四郎忠常は、思(おもひ)も寄らず名越の亭より歸りしが、道にて是を聞きつゝ、御所を指して馳(はせ)行きしを、加藤次(かとうじ)景廉に行(ゆき)合ひて討たれたり、運命とは云ひながら楚忽(そこつ)の所行こそ淺ましけれ。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十七の建仁三(一二〇三)年九月三日・四日・五日・六日の条に基づく。標題の「太輔房源性」は既出であるが「たいふばうげんせい」と読み、「一幡公の骨」の「骨」は「こつ」とルビする。
一幡の小袖のエピソードは三日の条。
〇原文
三日戊辰。被搜求能員余黨等。或流刑。或死罪。多以被糺斷。妻妾幷二歳男子等者。依有好。召預和田左衛門尉義盛。配安房國。今日於小御所跡。大輔房源性〔鞠足。〕欲奉拾故一幡君遺骨之處。所燒之死骸。若干相交而無所求。而御乳母云。最後令著染付小袖給。其文菊枝也云々。或死骸。右脇下小袖僅一寸餘焦殘。菊文詳也。仍以之知之奉拾了。源性懸頸。進發高野山。可奉納奥院云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
三日戊辰。能員が余黨等を搜し求められ、或いは流刑に、或いは死罪に、多く以つて糺斷せらる。妻妾幷びに二歳の男子等は、好(よしみ)有るに依つて、和田左衛門尉義盛に召し預け、安房國に配す。今日、小御所の跡に於いて、大輔房源性〔鞠足(まりあし)。〕故一幡君の遺骨(ゆいこつ)を拾ひ奉らんと欲するの處、燒くる所の死骸、若干(そこばく)相ひ交りて求める所無し。而して御乳母(おんめのと)云はく、最後に染付(そめつけ)の小袖を著せしめ給ふ。其の文(もん)、菊の枝なりと云々。
或る死骸の右脇下の小袖、僅かに一寸餘り焦げ殘り、菊の文詳かなり。仍つて之を以つて之を知り拾ひ奉り了んぬ。源性、頸に懸け、高野山へ進發す。奥院へ奉納すべしと云々。

頼家の時政誅伐指令発令の和田義盛の密告による不発と暗愚の家来と親族によって仁田一族が滅ぼされる(というより私はこれも北条氏の巧妙な謀略の臭いがするのであるが)、五・六日を続けて見る。
〇原文
五日庚午。將軍家御病痾少減。憖以保壽算給。而令聞若君幷能員滅亡事給。不堪其鬱陶。可誅遠州由。密々被仰和田左衛門尉義盛及新田四郎忠常等。堀藤次親家爲御使。雖持御書。義盛深思慮。以彼御書献遠州。仍虜親家。令工藤小次郎行光誅之。將軍家彌御心勞云々。
六日辛未。及晩。遠州召仁田四郎忠常於名越御亭。是爲被行能員追討之賞也。而忠常參入御亭之後。雖臨昏黒。更不退出。舍人男恠此事。引彼乘馬。歸宅告事由於弟五郎六郎等。而可奉追討遠州之由。將軍家被仰合忠常事。令漏脱之間。已被罪科歟之由。彼輩加推量。忽爲果其憤。欲參江馬殿。江馬殿折節被候大御所。〔幕下將軍御遺跡。當時尼御臺所御坐。〕仍五郎已下輩奔參發矢。江馬殿令御家人等防禦給。五郎者爲波多野次郎忠綱被梟首。六郎者於臺所放火自殺。見件煙。御家人等競集。又忠常出名越。還私宅之刻。於途中聞之。則稱可弃命。參御所之處。爲加藤次景廉被誅畢。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日庚午。將軍家の御病痾、少減し、憖(なまじひ)に以つて壽算を保ち給ふ。而るに若君幷びに能員が滅亡の事を聞かしめ給ひ、其の鬱陶(うつたう)に堪へず、
「遠州を誅すべし。」
由、密々に和田左衛門尉義盛及び新田四郎忠常等に仰せらる。堀藤次親家、御使として、御書を持ち向ふと雖も、義盛、深く思慮し、彼(か)の御書を以つて遠州に献ず。仍つて親家を虜(とら)へ、工藤小次郎行光をして之を誅せしむ。將軍家、彌々(いよいよ)御心勞と云々。
六日辛未。晩に及び、遠州、仁田四郎忠常を名越の御亭に召す。是れ、能員追討の賞を行はれんが爲なり。而るに、忠常御亭に參入の後、昏黑に臨むと雖も、更に退出せず。舍人(とねり)の男、此の事を恠(あや)しみ、彼の乘馬を引きて歸宅し、事の由を弟五郎・六郎等に告げる。而して、
「遠州を追討奉るべきの由、將軍家、忠常に仰せ合はせらるる事、漏脱せしむの間、已に罪科せらるるか。」
の由、彼(か)の輩、推量を加へ、忽ち其の憤りを果さんが爲に、江馬殿に參らんと欲す。江馬殿、折節、大御所〔幕下將軍の御遺跡。當時、尼御臺所御坐(おはしま)す。〕へ候ぜらる。仍つて五郎已下の輩、奔參(ほんさん)して矢を發(はな)つ。江馬殿が御家人等をして防禦せしめ給ふ。五郎は波多野次郎忠綱の爲に梟首せられ、六郎は臺所(だいどころ)に於いて火を放ちて自殺す。件の煙を見て、御家人等競ひ集まる。又、忠常、名越を出でて、私宅へ還るの刻(きざみ)、途中に於いて之を聞き、
「則ち、命を弃(す)つべし。」
と稱し、御所へ參るの處、加藤次景廉の爲に誅せられ畢んぬ。

「御惱少しく怠らせ給ひ」この「怠る」は、病気が快方に向かうの意。
「堀藤次親家」(?~建仁三(一二〇三)年)は「淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎」以降に既出で、木曾義高を誅殺したのは彼の郎党であった。即ち、ここで簡単に誅されているのであるが、彼は決して頼家のぺえぺえの近習なんぞではない。彼は治承四(一一八〇)年八月の頼朝挙兵当初から側近として仕えた歴戦の勇者で山木兼隆襲撃や石橋山の戦いにも実戦参加、その後も奥州合戦や頼朝の上洛にも従い、頼朝死後は頼家に仕えた。さすれば、当時、有に四十は越えており、五十歳に近かった可能性さえもある。直参の彼がかくもあっさりと誅せられているのは、なんとも不審であり哀れでもあるが、これもあらゆる対立可能性因子を除去し去る遠大な北条氏の陰謀の一齣ででもあったのかも知れない。
「臺盤所」「だいばんどころ」と読み、食物を調理する台所のこと。]

耳嚢 巻之六 酒量を鰹によりて增事

 酒量を鰹によりて增事

 

 鰹魚(かつを)をさしみに作り、盃の内に如形(かたのごとく)置(おき)て、盃(さかづき)より舌のごとく出(いだし)候處へ聊(いささか)燒鹽(やきじほ)を置(おき)て、右鰹の一ひらを食し、酒を呑(のむ)に、魚味淡味にして格別に酒量を增(ます)と、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:これも呪(まじな)いではない、美味い酒の肴であるわけだが、当時の性質としてはやはり呪(まじな)いと変わらないものであったはずであるから、前項同様、強く連関すると言ってよいであろう。標題の「增事」は「ますこと」と訓じている。「お酒の販売と講座 静岡 丸河屋酒店」のHP内の「カツオ(ショウガ正油)といろんな酒類の相性1」及び「カツオの刺身とお酒の相性2 醤油を使わない場合」には、多様な酒類と鰹の相性を実験されておられ、誠に面白い。ご覧あれ。因みに私は……丸ごと一尾でも平らげてしまう鰹のたたき命男である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 酒量が鰹によって増す事

 

 鰹(かつお)を刺身に作って、盃(さかづき)のうちに普通にただ置いて――但し、一方の端を盃より舌のようにぺろっと出して、そこに少量の焼き塩をつけ置いた上、まず、この鰹の一片を食した後に酒を呑むと、魚味は全く以って生臭くなく、淡い味乍ら、これ、格別にその後の酒量を増すとのこと、さる御仁が語って御座った。

薄暮の部屋 萩原朔太郎 (「青猫」版)

 薄暮の部屋

つかれた心臟は夜(よる)をよく眠る
私はよく眠る
ふらんねるをきたさびしい心臟の所有者だ
なにものか そこをしづかに動いてゐる夢の中なるちのみ兒
寒さにかじかまる蠅のなきごゑ
ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。

私はかなしむ この白つぽけた室内の光線を
私はさびしむ この力のない生命の韻動を。

戀びとよ
お前はそこに坐つてゐる 私の寢臺のまくらべに
戀びとよ お前はそこに坐つてゐる。
お前のほつそりした頸すぢ
お前のながくのばした髮の毛
ねえ やさしい戀びとよ
私のみじめな運命をさすつておくれ
私はかなしむ
私は眺める
そこに苦しげなるひとつの感情
病みてひろがる風景の憂鬱を
ああ さめざめたる部屋の隅から つかれて床をさまよふ蠅の幽靈
ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。

戀びとよ
私の部屋のまくらべに坐るをとめよ
お前はそこになにを見るのか
わたしについてなにを見るのか
この私のやつれたからだ 思想の過去に殘した影を見てゐるのか
戀びとよ
すえた菊のにほひを嗅ぐやうに
私は嗅ぐ お前のあやしい情熱を その靑ざめた信仰を
よし二人からだをひとつにし
このあたたかみあるものの上にしも お前の白い手をあてて 手をあてて。

戀びとよ
この閑寂な室内の光線はうす紅く
そこにもまた力のない蠅のうたごゑ
ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。
戀びとよ
わたしのいぢらしい心臟は お前の手や胸にかじかまる子供のやうだ
戀びとよ
戀びとよ。

[やぶちゃん注:詩集「青猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)の「幻の寢臺」の巻頭を飾る「薄暮の部屋」。初出の擬宗教性に富んだある意味、理知の勝った、観念的景観がホリゾントのずっと彼方まで後退し、逆に恋人と詩人に死の饐えた甘い香りを振り撒く蠅の幽霊と、そのオノマトペイアが、ミューズの生贄として祭壇の上に美しくアップされる。――しかし、この詩の朗読は、難しい――。]

夕暮室内にありて靜かにうたへる歌 萩原朔太郎 (「薄暮の部屋」初出形)



 夕暮室内にありて靜かにうたへる歌

 

つかれた心臟は夜(よる)をよく眠る、

私はよく眠る、ふらんねるをきて居るさびしい心臟の所有者だ、

なにものか、そこをしづかに動いてゐる夢の中なるちのみ兒、

寒さにかぢかまる蠅のなきごゑ、

ぶむ、ぶむ、ぶむ、ぶむ、ぶむ、ぶむ、

私はかなしむ、この白つぽけた室内の光線を、

私はさびしむ、この力のない生命の動律を。

 

戀びとよ、

お前はそこに坐つて居る、私の寢臺のまくらべに、

戀びとよ、お前はそこに座つてゐる。

お前のながくのばした黑い髮の毛、

お前のほつそりとしたくびすじ、

お前ののをぶるな手足、

お前の透きとほる肉體、

なやみて白き橫顏、

戀びとよ、

物言はぬ私の少女(をとめ)よ、

お前の心配、

お前の思想、

お前の信仰する神樣の愛、

わけてもその不可思議な美しい奇蹟の信念、

このすべてお前が念ずるもののかげ形を私は眺める、

そこにざめざめとした幽靈のやうなもの、

そこに苦しげなるひとつの感情、

そこにまた寂しげなるひとつの風景のひろがり、

病みてせんちめんたるなる愛のキリスト、

および熱情からきたるところの憂欝的信念と少女らしき慘虐性、

むらさき色の花のくさぐさ、その香氣、

およそお前の愛するもの、お前の求める夢のすべてを私は眺める、

私は眺める、かうした霧の中なるいつさいの憂欝を、かうした人間的祈禱の悲しみを。

 

戀びとよ、

私の寢室のまくらべに坐つてゐる少女よ、

この愛らしい、しかしながら憂愁にかたむく少女よ、

お前はそこになにを見てゐるのか、

私についてなにごとを見るのか、

この私のやつれたからだ、肉のうすい手足のかげを見るのか、

靑ざめた神經の會話をきいてゐるのか、

そこにまた、この病弱な心臓をお前は見るのか、

ああ、お前はそこに、あまりに長くそれを見つめて居た、

お前の愛らしい瞳がすべての秘密を知るまでに、

よし、泣くな、いま决して泣くな、私のためにお前の淚をおしんでくれよ、

心をはりつめてゐよ、

よしや苦しくとも、たえず心をはりつめてこのひとつの生命をみよ、

このあたたかみあるものの上にしも、お前の白い手をあてて、手をあてて。

 

戀びとよ、

この閑寂な室内の光線はうす赤く、

そこにもまた力のない蠅のうたごゑ、

ぶむ、ぶむ、ぶむ、ぶむ、ぶむ、ぶむ、

戀びとよ、

私のいぢらしい心臟は、お前の手や胸ににかぢかまる子供のやうだ、

戀びとよ、

遠い墓塲の草かげに眠りつくそれまでは、

戀びとよ。

 

[やぶちゃん注:『詩歌』第七巻十二号 大正六(一九一七)年十一月号に所収する、後掲する後の詩集「青猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)の「幻の寢臺」の巻頭を飾る「薄暮の部屋」の初出形であるが、それとは全く以って別物のように感じられる。敢えて歴史的仮名遣の誤りや衍字と思われるもの(例えば最後から四行目の「胸にに」の「に」)も総てママで示した。下線「のをぶる」は底本では傍点「ヽ」。]

羊皮をきた召使 大手拓次

 羊皮をきた召使

お前は羊皮(やうひ)をきた召使だ。
くさつた思想をもちはこぶおとなしい召使だ。
お前は紅い羊皮をきたつつましい召使だ。
あの ふるい手なれた鎔爐のそばに
お前はいつも生生(いきいき)した眼で待つてゐる。
ほんたうにお前は氣の毒なほど新らしい無智を食べてゐる。
やはらかい羊の皮のきものをきて
すずしい眼で御用をきいてゐる。
すこしはなまけてもいいよ、
すこしはあそんでもいいよ、
夜(よる)になつたらお前自身の考をゆるしてやる。
ぬけ羽のことさへわすれた老鳥(おいどり)が
お前のあたまのうへにびつこをひいてゐる。

一言芳談 一〇三

   一〇三

 

 賀古(かこ)の教信(けうしん)は、西には垣もせず、極樂と中をあけ、あはせて、本尊をも安ぜず、聖教(しやうげう)をも持せず、僧にもあらず、俗にもあらぬ形にて、つねに西に向ひて、念佛して、其餘は忘れたるがごとし、云々。

 

〇賀古の教信、賀古は播磨の郡の名なり。教信の事は保胤(やすたね)の往生記、十韻などに見えたり。

〇賀古の教信、まことの隱者にて、道のほとりに、竹の柱、わらの床、とりあへぬありさまにて、年月を我からおくり、終におはられしと也。(句解)

〇本尊をも安ぜず、安は安置なり。

〇僧にもあらず、妻子あるあがゆゑに。

〇俗にもあらず、剃染(ていぜん)の形なればなり。

 

[やぶちゃん注:「賀古」は「風土記」にこの漢字表記で載せられた播磨国の古い郡名。現在は兵庫県加古郡二町・加古川市の加古川東詰側・高砂市・明石市の一部(ウィキの「加古郡」に拠った)。

「教信」(天応元(七八一)年?~貞観八(八六六)年)。称名念仏の創始者。阿彌陀丸・沙弥教信と称せられた。大橋氏の注には、『はじめ興福寺の学僧であったが、教団の現状にあきたらず、諸国を行脚したのち、承和三年(八三六)秋還俗結婚』、賀古駅(かこのうまや)の北(現在の加古川市野口町野口)『に草庵を結び、雇夫となり生産に従事しながら念仏に没頭したという。貞観八年(八六六)八月に没したときは室内に異香が薫じた伝えている』と記す。参照させて戴いた北摂みのお氏のHP「北摂みのおの春夏秋冬」の「沙弥教信」によれば(生年はこちらの記載に随った)、「今昔物語集」や宝暦一二(一七六二)年頃に成立したとされる平野庸脩(ようさい)の地誌「播磨鑑」、古いものでは慶滋保胤の「日本往生極楽記」(成立は寛和年間(九八五年~九八七年)頃)、三善為康の「後拾遺往生伝」(同人の「拾遺往生伝」の完成後に引き続いてその遺漏を集めたもので為康の死亡する保延五(一一三九)年まで増補され書き継がれた)、永観の「往生拾因」(康和五(一一〇三)年頃成立)などに彼についての記載があり、それらによれば、彼が賀古の地へ来た頃の『加古川の本流は、現在の別府川であるので、野口は駅家の里であった。彼は、旅人の荷物を運ぶ仕事で生計を立て、妻を娶り子供も一人生まれる。村人と共に、道作りや川堤の修理などにも従ったと』いい、『いつも西方浄土を念じて念仏を唱えているので、人々は彼を「阿弥陀丸」と呼んだ。彼は僧にもあらず俗でもないので(非僧非俗)後の人は彼を沙弥教信と』も称したという。入滅に際しては、『自分は生前、生き物を食べているいるので、せめて死んだ後の体は鳥獣に供養したいと遺言したので、家人は遺体を裏の林に捨て、遺骸は鳥獣の食い荒らすところとなる。しかし、不思議にも頭部だけは全く汚されていなかったと』伝わる。天応元(七八一)年生とすれば享年八十六歳で後に示す奇瑞を受けた勝如(証如)と同い年である。

 ここで、実際に「今昔物語集巻第十五」の二十六話を見よう(底本は池上洵一編岩波文庫版を用いたが、恣意的に正字化し、読みを歴史的仮名遣に変更、更に一部の読みについては送り仮名に出してルビを省略、一部に句読点を追加、直接話法部分を改行し、一部記号を変更した)。後に底本脚注を参考に簡単な注を附した。

 

  幡磨(はりま)の國の賀古の驛(うまや)の教信、往生せる語(こと)第二十六

 今昔、攝津國の島の下の郡に勝尾寺(かちおでら)と云ふ寺有り。其の寺に勝如(しようによ)聖人と云ふ僧、住しけり。道心深くして、別に草の菴を造りて、其の中に籠り居て、十餘年の間、六道の衆生の爲に無言(むごん)して懃(ねんご)ろに行ひけり。弟子童子を見る事そら、尚(なほ)し希れ也。况んや、他人を見る事は無し。

 而る間、夜半に人來て、柴の戸を叩く。勝如、此を聞くと云へども、無言なるに依りて問ふ事不能(あたは)ずして、咳(しはぶき)の音(こゑ)を以つて叩く人に令知(しらしむ)るに、叩く人の云く、

「我れは此の幡磨の國、賀古の郡の、賀古の驛(うまや)の北の邊(ほと)りに住みつる沙弥教信也。年來、彌陀の念佛を唱へて、極樂に往生せむと願ひつる間、今日、既に、極樂往生す。聖人、亦、某年某月某日、極樂の迎へを可得給(えたまふべ)し。然れば、此の事を告げ申さむが爲に來れる也。」

と云ひて、去りぬ。

 勝如、此れを聞きて驚き怪しむで、明くる朝に、忽ちに無言を止めて、弟子勝鑒(しやうかん)と云ふ僧を呼びて語らひて云く、

「我れ、今夜、然々(しかじか)告(つげ)有り。汝ぢ、速かに、彼の幡磨の國、賀古の郡、賀古の驛の邊りに行きて、『教信と云ふ僧有や』と尋ねて可返來(かへりきたるべ

し。」

勝鑒、師の教へに随ひて、彼の國に行きて、其の所を尋ね見るに、彼の驛の北の方に小さき奄(いほり)有り。其の奄の前に一の死人有り。狗(いぬ)・烏、集りて、其の身を競ひ噉(くら)ふ。奄の内に、一人の嫗(をうな)・一人の童有り、共に泣き悲む事無限(がりりな)し。

 勝鑒、此れを見て、奄の口に立ち寄りて、

「此(こ)は何(いか)なる人の、何なる事有りて泣くぞ。」

と問ふに、嫗、答へて云く、

「彼の死人は此れ、我が年來の夫也、名をば沙彌教信と云ふ。一生の間、彌陀の念佛を唱へて、晝夜寤寐(ごび)に怠る事無かりつ。然れば、隣り里の人、皆、教信を名付けて阿彌陀丸(あみだまろ)と呼びつ。而るに、今夜、既に死にぬ。嫗、年老いて年來の夫に、今、別れて、泣き悲む也。亦、此の侍る童は教信が子也。」

と。

勝鑒、此れを聞きて、返り至りて、勝如聖人に此の事を委しく語る。勝如聖人、此れを聞きて、涙を流して悲び貴(たふと)むで、忽ちに教信が所に行きて、泣々(なくなく)念佛を唱へてぞ本の奄に返りにける。

 其の後、勝如、弥(いよい)よ心を至(いた)して、日夜に念佛を唱へて怠る事無し。而る間、彼の教信が告げし年の月日に至りて、遂に終はり貴(たふと)くして失せにけり。此れを聞く人、皆、

「必ず極樂に往生せる人也。」

と知りて貴びけり。彼の教信、妻子を具したりと云へども、年來(としごろ)、念佛を唱へて往生する也。

 然れば、往生は偏へに念佛の力也となむ語り傳へたるとや。

●「幡磨」播磨の通用字。

●「勝尾寺」大阪府箕面市にある高野山真言宗寺院。寺名は「かつおうじ」「かちおじ」などとも読まれる。光仁天皇の皇子(桓武天皇の異母兄)である開成が宝亀八(七七七)年に創建した弥勒寺が前身(以上はウィキの「勝尾寺」に拠った)。

●「勝如」(天応元(七八一)年~貞観九(八六七)年)は摂津豊島郡(現在の大阪府)弥勒寺の証道に師事して顕密二教を学ぶ。摂津豊島郡生で俗姓は時原。法名は証如とも書く。享年八七歳。

●「無言して懃ろに行ひけり」自ら会話を禁じる厳しい無言の行を修していた。

●「見る事そら」「そら」は副助詞で「すら」と同義。

●「夜半に人來て」底本注に、『往生伝、縁起集等は、貞観八年(八六六)八月十五日のこととする』とある。

●「咳」咳払い。

●「賀古の驛」現在の兵庫県加古川市野口町附近にあった山陽道の宿駅。

●「沙彌」仏門に入って髪をそって十戒を受けた初心の修行未熟な男子僧。僧伽(そうが:出家教団。)に入るための具足戒を受けておらず、未だ正式な僧ではない段階の呼称である。

●「教信」底本で池上氏は詳細注を附しておられ、本話が創造された伝承であり、『妻帯沙弥の念仏信仰が大僧の修行を凌駕したことを語ったものであり、親鸞が「我はこれ賀古の教信の定なり」(改邪鈔)と讃仰したのも、それ故である』と記されておられる。

●「某年某月某日」実際には具体的な年月日を予言したものの意識的伏字。勝如の入滅は貞観九年八月十五日で、即ち、一年後の今月今夜という謂いになる。

●「彼の驛の北の方に小さき奄有り」加古川市野口町には、ズバリ、教信寺という時宗の寺が現存する。公式HPによれば、この寺はまさしくこの教信所縁の寺である。

●「其の奄の前に一の死人有り。狗・烏、集りて、其の身を競ひ噉ふ」死体を遺棄しているのではなく、風葬であることを言う。

●「寤寐」目覚めていることと眠っていること。寝ても醒めても、の謂い。

●「悲しび」心打たれて。

 

 北摂みのお氏の記載をもう少し引用させて戴くと、『このようにして、沙弥教信は口誦念仏、称名念仏の創始者となる。すなわち、従来でも、無量寿経や阿弥陀経などの浄土教典が読まれ、阿弥陀如来への信仰も、それなりにあったが、「南無阿弥陀仏」の六字名号を常に口誦すると云うのは彼が初めてであった』。

 なお、以上の「今昔物語集」が元としたと考えられる、最も古い「日本往生極楽記」に載る「攝津國島下郡勝尾寺の住僧勝如」も、私の所持する原典岩波書店一九七四刊「続・日本仏教の思想――1 往生伝 法華験記」所収版で示す(恣意的に正字化した)。後に底本脚注を参考に簡単な注を附した。

 

攝津國島下(しまのしもの)郡勝尾(かちを)寺の住僧勝如(しようによ)は、別に草庵を起(つく)りて、その中に蟄居せり。十餘年の間言語を禁斷す。弟子童子、相見ること稀なり。夜中に人あり、來りて柴の戸を叩きぬ。勝如言語を忌むをもて、問ふことを得ず。ただ咳の聲をもて、人ありと知らしむ。戸外にて陳べて云はく、我はこれ播磨國賀古(かこの)郡賀古驛(のむまや)の北の邊(ほとり)に居住せる沙彌教信(けうしん)なり。今日極樂に往生せむと欲す。上人年月ありて、その迎へを得べし。この由を告げむがために、故(ことさら)にもて來れるなりといふ。言訖りて去りぬ。

 勝如驚き怪びて、明旦(みやうたん)弟子の僧勝鑑(しようかん)を遣し、かの處を尋ねしめ眞僞を撿(み)せむと欲せり。勝鑑還り來りて日く、驛の家の北に竹の廬(いほり)あり。廬の前に死人あり。群がれる狗(いぬ)競(きほ)ひ食(じき)せり。廬の内に一の老嫗(おうな)・一の童子あり。相共に哀哭せり。勝鑑便ち悲べる情(こころ)を問ふに、嫗の曰く、死人はこれ我が夫(をふと)沙彌教信なり。一生の間、彌陀の號(な)を稱へて、晝夜休まず、もて己の業となせり。隣里の雇ひ用ゐるの人、呼びて阿彌陀丸(あみだまろ)となす。今嫗老いて後に相別れぬ。これをもて哭(な)くなり。この童子は即ち教信の兒なりといへり。勝如この言を聞きて自ら謂(おも)へらく、我の言語なきは、教信の念佛に如(し)かずとおもへり。故(かるがゆゑ)に聚落に往き詣(いた)りて自他念佛す。期の月に及びて、急(たちま)ちにもて入滅せり。

 

底本の頭注には「聚落に往き詣りて……」の部分に注して『勝如は教信との邂逅によって悟るところあり、隠居黙語をやめて世俗の聚落に入っていき、化他を専らとすることになった』とある。「化他」は「けた」と読み、他者を教化することを言う。]

北條九代記 將軍賴家卿御病惱 付 比企判官討たる 竝 比企四郎一幡公を抱きて火中に入りて死す

 

      ○將軍賴家卿御病惱  比企判官討たる  比企四郎一幡公を抱きて火中に入りて死す

 

此間鶴ヶ岡の御寶殿にして鳩の死する事三度(たび)、その外怪異樣々有りければ、是只事にあらずと諸人驚き思ふ所に、七月二十日、將軍賴家卿、俄に御病惱を受け給ひ、身心惱亂し給ふ。内外の人々驚き騷ぎて、神社佛閣に於いて樣々御祈禱ありけれども、その效(するし)おはしまさず、和丹(わたん)醫師伺候して、藥治(やくぢ)の術(じゆつ)を盡すといへども、更に驗氣(げんき)の色も見えず。御兆(おんうらかた)には靈神(れいじん)の御祟(たゝり)なりと申す。八月二十七日、愈々危急に迫り給ふ間、御遺言(ごゆゐげん)御讓補分(じやうぶわけ)の沙汰あり。「關より西三十三ヶ國の地頭職をば御舍弟子幡公に譲り奉り、關より東三十三ケ國の地頭職をば御舍弟千幡公(ぎみ)に讓り奉り、關より東三十三ヶ國の地頭竝に惣(そう)守護職をば御嫡子一幡公に讓り奉るべし。諸國の御家人等(ら)克(よ)く奉公を勤むべし」とて、その外、程々に隨ひて金銀、財寶、太刀、刀以下、御讓物(ゆづりもの)をぞ定められける。然る所に、御家督の外戚比企判官能員は、賴家卿の妾(おもひもの)若狹局(わかさのつぼね)の父なり。この腹に一幡公、御誕生ありければ、外戚の権威、甚(はなはだ)時を得たる折節なり。能員、竊(ひそか)に關西を御舍弟に讓り給ふ事を憤る。千幡公は北條遠江守時政の孫なり。母は政子、即ち右大將家の妻室(さいしつ)、今は尼御臺所とて權勢天下に蔓(はびこ)り、威名(いめい)、四海に輝(かゝや)けり[やぶちゃん字注:底本「兄御臺所」。訂した。]。されば賴家卿、天下を兩分して權柄(けんぺい)二つ爭はば始終宜(よろし)かるべからず。遂には北條の爲に家督を奪(うばは)れんこと疑無(うたがひな)し、今、賴家卿御存命の中に遠州北條家の一族を亡(ほろぼ)し、一幡公の世になし、外祖の權威を恣(ほしいまゝ)にせばやと思ふ心つきて、賴家卿御枕もとにまゐり、北條家追伐すべき企(くはだて)をぞ致しける。尼御臺所、障子を隔てて此密談を聞き給ひ、書を遣して父時政に告げ給ふ。時政、大に驚き、暫(しばらく)思案を廻(めぐら)し、大膳大夫廣元朝臣に「かうかうの事あり。如何思ひ給ふ」と語られしに「宜(よろし)く賢慮に任せらるべし」と申す。時政、即ち天野民部(みんぶの)入道蓮景(れんけい)、仁田四郎忠常を招きて、「能員、叛逆を企つる由。今日早く誅伐すべし、旁(かたがた)を以て追手(おつて)の大將となすべきなり」と有しかば、蓮景入道、申しけるは、「軍兵を發(おこ)すまでは候まじ。御前に召(めさ)れて誅せられんに、彼(か)の老人、何程の事か候べき」となり。時政、竊(ひそか)に謀りて、今日遠州時政の亭にして、藥師如來の尊像を日來(ひごろ)造立の願望(ぐわんまう)を遂け、落慶供養あるべし。葉上房律師、この導師なり。尼御臺所、御結緣の爲に參り給ふとて、工藤五郎を使として、能員が本(もと)に申遣(まうしつかは)されけるやう、「宿願に依て藥師の佛像供養あり。御來臨し給ひて、聽聞(ちやうもん)あるべき歟。且(かつう)は又、その次(ついで)に雜事(ざふじ)の密談を遂げらるべし。早く豫參有るべし」と申されたり。能員、何心もなく、畏(かしいこま)り候由、返事せらる。子息親類郎從等、同じく能員を諫めて云ふやう、「日來(ひごろ)、祕計の企(くはだて)あり。その事風聞あるに依て、この使を立てらるる歟。此所(こゝ)に殘心(ざんしん)なかるべきに候はず。左右なく参向(さんかう)せらるべからず。たとひ參らるゝとも、家子(いへのこ)、郎從を相隨へ、甲冑弓箭を著帶(ちやくたい)せしめて、御身の邊(あたり)を離(はな)たれざらん事こそ然るべく候へ」と申しければ、能員、云ひけるは、「甲冑、弓箭の用意は却つて人の疑(うたがひ)を招くに似たり。當時、能員、かゝる行粧(かうしやう)を致すとならば、鎌倉中の諸人、周章(あわて)騷ぐべし[やぶちゃん注:底本は「騷く」。上代なら「さわく」で良いが、ここは誤字と見て濁音化した。]。且(かつう)は佛事結縁の爲、且は御讓補等(じやうぶとう)の事に付きて仰合(おほせあは)さるゝ事なるべし。何となく參らんには、然るべき計(はからひ)なるべきなりしとて、出立たれけり。北條時政は甲冑を著(ちやく)し、中野五郎、市河(いちかは)別當五郎は弓に名を得たる者なりければ、征矢(そや)を手挾(たばさ)みて、兩方の小門に立ちたり。天野入道蓮景、仁田忠常は腹巻卷(はらまき)を著して、西南の脇戸(わきど)の内に隱れて、今や今やと待ゐたり。能員、運命の悲しさは平禮の白き水干に葛袴(くずばかま)を著し、黑き馬に打乘り、郎等二人、雜色(ざつしき)五人を相倶して、惣門(そうもん)に入りて馬を下り、廊を昇り、妻戸を通り、北面に行至る。蓮景、忠常向うて、能員が左右の手を捕へ、引据て、首を搔(か)きたり。郎等雜色等、驚きて走(はしり)歸り、事の由を告げしかば、子息、親類家子(いへのこ)郎從等(ら)、さればこそとて一幡公の小御所(こごしよ)の引(ひき)籠り、謀叛(むほん)の色を立てたりしに、尼御臺所の仰(おほせ)に依(よつ)て、軍兵を差遣(さしつかは)さる。江馬(えまの)四郎、同太郎殿を大將として、武藏守朝房(ともふさ)、小出(をやまの)左衞門尉朝政(ともまさ)、同五郎宗政、同七郎朝光(ともみつ)、畠山次郎重忠、榛谷(はんがへの)四郎重朝、三浦平六兵衞尉義村、和田左衞門尉義盛、同兵衞尉常盛、同小四郎景長、土肥(どひの)先(せん)二郎惟光、後藤左衞門尉信康、尾藤次(びとうじ)知景、工藤小次郎行光、金窪(かなくぼの)太郎行親、加藤次景廉、同太郎景朝以下、その勢、雲霞の如く、小御所の前に押(おし)寄せたり。比企三郎、同四郎、相五郎、河原田(かはらだの)次郎は能員が猶子(いうし)なり。笠原十郎左衞門尉親景、中山五郎爲重、糟屋(かすやの)藤太兵衞尉有季、此三人は能員が婿(むこ)なり。是等を初めとして、一族、家子(いへのこ)、郎従等我も我もと馳まゐりて、矢種を惜まず散々に射ければ、面に進む寄手の兵、矢庭(やには)に射伏せらるゝ者三十餘人、其外手負(てお)ふ者百餘人、ばらばらと引退(ひきしりぞ)く[やぶちゃん字注:「手負ふ」のルビは底本では「ておふ」。「ふ」は衍字と見て削除した。]。然れども敵味方、互に相知る輩なれば、後日の恥を思ふ故に、生きて名を流さんより死して譽(ほまれ)を殘せやとて、又どつと攻懸(せめかゝ)れば、内より出でて追散(おひちら)す。加藤次景廉、景長が郎從等數百人、或は討たれ、或は疵を蒙りしかば、攻厭(せめあぐ)みたる所に、畠山重忠、新手(あらて)を入替へて攻付(せめつ)けたり。笠原十郎親景、討たれ、中山、糟屋も手を負ひたりければ、比企(ひきの)五郎、河原田〔の〕次郎、小御所に火を懸けて自害す。比企(ひきの)四郎、一幡公を抱(いだ)き奉りて、猛火の中に飛(とび)入りたり。女房達その外の輩、裏門より落ちて行く。能員が嫡男餘一(よいち)兵衞尉は女房の姿に出(いで)立ち、小袖打被(かつ)ぎて、戰場(いくさば)を遁(のがれ)出でしかども、景廉に見付けられて、首をぞ刎(は)ねられける。未刻(ひつじのこく)より申刻(さるのこく)まで一時の間に敵味方討たるゝ者、八百餘人、手負ひたるは數知らず。軍(いくさ)、既に果てければ、夜に入て、能員が舅(しうと)澁河(しぶかは)刑部丞を誅せらる。その外、餘黨等(ら)を尋(たづね)探し、死罪流刑に行はれ、鎌倉やうやう靜(しづま)りけり。

 

[やぶちゃん注:鶴岡八幡宮の鳩の怪異の条は「吾妻鏡」巻十七の建仁三(一二〇三)年六月三十日(ここのみ「唐鳩」とあり、これはハト目ハト科キジバト Streptopelia orientalis を指し、後の二例はただ「鳩」とするところから、恐らくは一般的なドバト、ハト科カワラバト Columba livia を指していると思われる。前者のキジバトは後者のカワラバトよりも遙かに警戒心が強く、山地に棲息し、当時は人里には普通は降りてこなかった)と七月四日及び九日を、頼家の病悩から遺言・将軍職譲補の評議の部分は同じく建仁三年七月二十日・二十三日及び八月二十七日を、比企能員の変は同九月二日及び三日の条に基づく。

 

「その外怪異樣々有りければ」とあるが、「吾妻鏡」には鳩の変死以外には特にこの比企能員の変の前には怪異の記載はない。

 

「和丹醫師」医家の和気氏と丹波氏の医師。宮内省に属した医療・調薬を担当する部署である典薬寮は、平安時代後期以降、この和気氏と丹波氏による世襲となっていた。但し、この記載は「吾妻鏡」には見えない。

 

「驗氣の色」治療が効果があった兆し。

 

「御兆には靈神の御祟なりと申す」「吾妻鏡」建仁三年七月二十三日の条に、「廿三日己丑。御病惱既危急之間。被始行數ケ御祈禱等。而卜筮之所告。靈神之祟云々。」(廿三日己丑。御病惱、既に危急の間、數ケ(すうけ)の御祈禱等(ら)を始行せらる。而るに卜筮(ぼくぜい)の告ぐる所は、靈神の祟りと云々。)とあるのに基づくが、「吾妻鏡」でもそうだが、本書でも直前の「伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士入穴に入る」の叙述中の末尾、『古老の人々は、是を聞きて、「この穴は淺間大菩薩の住所なりと申し傳へ、昔より遂に其内を見る事能はずと聞き傳ふ。只今、斯樣に事を破り給ふには、將軍家の御身に取りて御愼無きにあらず。恐し恐し」とぞ私語ける』の部分が呼応するように書かれていることから、この「靈神」は暗に浅間大菩薩の祟りを暗に言っているように読める。

 

「八月二十七日、愈々危急に迫り給ふ間、御遺言(ごゆゐげん)御讓補分(じやうぶわけ)の沙汰あり。……」元となった「吾妻鏡」建仁三年八月二十七日の条を見よう。

〇原文

廿七日壬戌。將軍家御不例。縡危急之間。有御讓補沙汰。以關西三十八ケ國地頭職。被奉讓舎弟千幡君。〔十歳。〕以關東二十八ケ國地頭幷惣守護職。被充御長子一幡君。〔六歳。〕爰家督御外祖比企判官能員潜憤怨讓補于舎弟事。募外戚之權威。挿獨歩志之間。企叛逆。擬奉謀千幡君幷彼外家已下云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日壬戌。將軍家御不例、縡(こと)、危急の間、御讓補(じやうほ)の沙汰有り。關西三十八ケ國の地頭職を以つて、舎弟千幡君〔十歳。〕に讓り奉らる。關東二十八ケ國の地頭幷びに惣(そう)守護職を以つて、御長子一幡君〔六歳。〕に充てらる。爰に家督の御外祖
比企判官能員、潜かに舎弟に讓補する事を憤怨し、外戚の權威を募(つの)り、獨歩の志を挿むの間、叛逆を企て、千幡君幷びに彼の外家(ぐわいけ)已下を謀(はか)り奉らんと擬すと云々。

 

●「舎弟千幡君」は後の源実朝。

●「募り」ますます激化しくなる。昂じる。

●「獨歩の志」北条氏と一線を画して独立しようという野心。

 

「賴家卿御枕もとにまゐり、北條家追伐すべき企をぞ致しける。尼御臺所、障子を隔てて此密談を聞き給ひ、……」比企能員の変である。元となった「吾妻鏡」建仁三年九月二日の条を見よう。

〇原文

二日丁夘。今朝。廷尉能員以息女〔將軍家妾。若君母儀也。元號若狹局。〕訴申。北條殿。偏可追討由也。凡家督外。於被相分地頭職。威權分于二。挑爭之條不可疑之。爲子爲弟。雖似靜謐御計。還所招乱國基也。遠州一族被存者。被奪家督世之事。又以無異儀云々。將軍驚而招能員於病床。令談合給。追討之儀。且及許諾。而尼御臺所隔障子。潜令伺聞此密事給。爲被告申。以女房被奉尋遠州。爲修佛事。已歸名越給之由。令申之間。雖非委細之趣。聊載此子細於御書。付美女被進之。彼女奉奔付于路次。捧御書。遠州下馬拜見之。頗落涙。更乘馬之後。止駕暫有思案等之氣。遂廻轡渡御于大膳大夫廣元朝臣亭。亭主奉相逢之。遠州被仰合云。近年能員振威蔑如諸人條。世之所知也。剩將軍病疾之今。窺惘然之期。掠而稱將命。欲企逆謀之由。慥聞于告。此上先可征之歟。如何者。大官令答申云。幕下將軍御時以降。有扶政道之號。於兵法者。不弁是非。誅戮否。宜有賢慮云々。遠州聞此詞。即起座給。天野民部入道蓮景。新田四郎忠常等爲御共。於荏柄社前。又控御駕。被仰件兩人云。能員依企謀叛。今日可追伐。各可爲討手者。蓮景云。不能發軍兵。召寄御前。可被誅之。彼老翁有何事之哉者。令還御亭給之後。此事猶有儀。重爲談合。被召大官令。大官令雖有思慮之氣。憖以欲參向。家人等多以進從之處。稱有存念悉留之。只相具飯冨源太宗長許。路次之間。大官令密語于宗長云。世上之爲躰。尤可怖畏歟。於重事者。今朝被凝細碎評議訖。而又恩喚之條。太難得其意。若有不慮事者。汝先可害予者。爾後至名越殿。遠州御對面良久。此間。宗長在大官令之後。不去座云々。午尅。大官令退出。遠州於此御亭。令供養藥師如來像〔日來奉造之。〕給。葉上律師爲導師。尼御臺所爲御結縁。可有入御云々。遠州以工藤五郎爲使。被仰遣能員之許云。依宿願。有佛像供養之儀。御來臨。可被聽聞歟。且又以次可談雜事者。早申可豫參之由。御使退去之後。廷尉子息親類等諌云。日來非無計儀事。若依有風聞之旨。預專使歟。無左右不可被參向。縱雖可被參。令家子郎從等。著甲冑帶弓矢。可被相從云々。能員云。如然之行粧。敢非警固之備。謬可成人疑之因也。當時能員猶召具甲冑兵士者。鎌倉中諸人皆可遽騒。其事不可然。且爲佛事結緣。且就御讓補等事。有可被仰合事哉。忩可參者。遠州著甲冑給。召中野四郎。市河別當五郎。帶弓箭可儲兩方小門之旨下知給。仍取分征箭一腰於二。各手挾之。立件兩門。彼等依爲勝射手。應此仰云々。蓮景。忠常。著腹巻。構于西南脇戸内。小時廷尉參入。着平禮白水干葛袴。駕黑馬。郎等二人。雜色五人有共。入惣門。昇廊沓脱。通妻戸。擬參北面。于時蓮景。忠常等立向于造合脇戸之砌。取廷尉左右手。引伏于山本竹中。誅戮不廻踵。遠州出於出居見之給云々。廷尉僮僕奔歸宿廬。告事由。仍彼一族郎從等引籠一幡君御館。〔號小御所。〕謀叛之間。未三尅。依尼御臺所之仰。爲追討件輩。被差遣軍兵。所謂。江馬四郎殿。同太郎主。武藏守朝政。小山左衞門尉朝政。同五郎宗政。同七郎朝光。畠山二郎重忠。榛谷四郎重朝。三浦平六兵衞尉義村。和田左衞門尉義盛。同兵衞尉常盛。同小四郎景長。土肥先二郎惟光。後藤左衞門尉信康。所右衞門尉朝光。尾藤次知景。工藤小次郎行光。金窪太郎行親。加藤次景廉。同太郎景朝。仁田四郎忠常已下如雲霞。各襲到彼所。比企三郎。同四郎。同五郎。河原田次郎。〔能員猶子。〕笠原十郎左衞門尉親景。中山五郎爲重。糟屋藤太兵衞尉有季〔已上三人能員聟。〕等防戰。敢不愁死之間。挑戰及申剋。景朝。景廉。知景。景長等。幷郎從數輩被疵頗引退。重忠入替壯力之郎從責攻之。親景等不敵彼武威。放火于館。各於若君御前自殺。若君同不免此殃給。廷尉嫡男餘一兵衞尉假姿於女人。雖遁出戰場。於路次。爲景廉被梟首。其後。遠州遣大岳判官時親。被實檢死骸等云々。入夜被誅澁河刑部丞。依爲能員之舅也。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日丁夘。今朝、廷尉能員、息女〔將軍家の妾。若君が母儀なり。元、若狹局と號す。〕をつて、訴へ申す。

「北條殿を偏へに追討すべし。」

の由なり。

「凡そ家督の外、地頭職を相ひ分かたるるに於いては、威權、二に分かれ、挑(いど)み爭ふの條、之れ疑ふべからず。子たり、弟たり、靜謐(せいひつ)の御計(おんはから)ひに似たりと雖も、還つて乱國の基(もとゐ))を招く所なり。遠州の一族存ぜられば、家督の世を奪はるるの事、又以つて異儀無からん。」

と云々。

將軍、驚きて、能員を病床に招き、談合せしめ給ふ。追討の儀、且つは許諾に及ぶ。而るに尼御臺所、障子を隔てて、潜かに此の密事を伺ひ聞かせしめ給ひ、告げ申されんが爲に、女房を以つて遠州を尋ね奉つらる。

「佛事を修さんが爲に、已に名越へ歸り給ふ。」

の由、申さしむるの間、委細之の趣きに非ずと雖も、聊か此の子細を御書(おんしよ)に載せ、美女に付して進ぜ被らる。彼の女、路次(ろし)に奔(はし)り付きて奉り、御書を捧ぐ。遠州、下馬して之を拜見し、頗る落涙す。更に乘馬の後、駕(が)を止めて暫く思案等の氣有り。遂に轡(くつばみ)を廻らし、大膳大夫廣元朝臣亭に渡御す。亭主、之に相ひ逢ひ奉る。遠州、仰せ合はせられて云はく、

「近年、能員、威を振ひ、諸人を蔑如(べつじよ)するの條、世の知る所なり。剩へ將軍病疾の今、惘然(ぼうぜん)の期(ご)を窺(うかが)ひ、掠(かす)めて將命と稱し、逆謀を企てんと欲するの由、慥かに告(つげ)を聞く。此の上は先づ之を征すべきか、如何(いか)に。」

てへれば、大官令、答へ申して云はく、

「幕下將軍の御時より以降(このかた)、政道を扶(たす)くるの號(な)有るも、兵法(へいはふ)に於ては、是非を弁ぜず。誅戮するや否や、宜しく賢慮有るべし。」

と云々。

遠州、此の詞を聞き、即ち座を起ち給ふ。天野民部入道蓮景(れんけい)・新田四郎忠常等、御共たり。荏柄の社前に於いて、又、御駕を控へ、件(くだん)の兩人に仰せられて云はく、

「能員謀叛を企だつに依つて、今日追伐すべし。各々、討手たるべし。」

てへれば、蓮景云はく、

「軍兵(ぐんぴやう)を發するに能はず。御前に召し寄せて、之を誅せらるべし。彼(か)の老翁、何事か有らんや。」

てへれば、御亭に還らしめ給ふの後、此の事、猶ほ儀有り。重ねて談合せんが爲に、大官令を召かる。大官令、思慮の氣有りと雖も、憖(なまじひ)に以つて參向せんと欲す。家人(けにん)等、多く以つて進み從はんとするの處、

「存念有り。」

と稱し、悉く之を留め、只だ、飯冨(いひとみ)源太宗長許(ばか)りを相ひ具す。路次(ろし)の間、大官令、密かに宗長に語りて云はく、

「世上の躰爲(ていたらく)、尤も怖畏すべきか。重事(ちようじ)に於ては、今朝、細碎(さいさい)に評議を凝らされ訖んぬ。而るに又、恩喚の條、太だ其の意を得難し。若し、不慮の事有らば、汝、先づ予を害すべし。」

てへれば、爾(そ)の後、名越殿に至る。遠州、御對面、良(やや)久しうす。此の間、宗長、大官令の後ろに在りて、座を去らずと云々。

午の尅、大官令、退出す。遠州、此の御亭に於いて、藥師如來像〔日來(ひごろ)之れを造り奉る。〕を供養せしめ給ふ。葉上律師、導師たり。

「尼御臺所御結縁の爲に、入御有るべし。」

と云々。

遠州、工藤五郎を以つて使ひと爲(な)し、能員の許へ仰せ遣はされて云はく、

「宿願に依つて、佛像供養の儀有り。御來臨ありて、聽聞(ちやうもん)せらるべきか。且つは又、次(ついで)を以つて雜事を談ずべし。」

てへれば、早く豫參すべき由を申す。御使、退去の後、廷尉の子息親類等、諫めて云はく、「日來(ひごろ)、計儀の事無きにしも非ず。若し風聞の旨有るに依つて、專使(せんし)に預るか。左右(さう)無く參向せらるべからず。縱ひ參らべしと雖も、家子(いへのこ)郎從等をして、甲冑を著(ちやく)し、弓矢を帶せしめて、相ひ從へらるべし。」

と云々。

能員云はく、

「然るごときの行粧(ぎやうさう)は、敢へて警固の備へに非ず。謬(あやま)りて人の疑ひを成すべきの因なり。當時、能員、猶ほ甲冑の兵士を召し具せば、鎌倉中の諸人、皆遽(には)かに騒ぐべし。其の事然るべからず。且つは佛事結緣(けちえん)の爲に、且つは御讓補等の事に就き、仰せ合せらるべき事有らんか。忩(いそ)ぎ參るべし。」

てへり。遠州、甲冑を著し給ひ、中野四郎・市河(いちかは)別當五郎を召し、弓箭を帶し、兩方の小門に儲(まう)くべきの旨、下知し給ふ。仍つて征箭(そや)一腰(ひとこし)を二つに取り分かち、各々之を手挾(たばさ)みて、件(くだん)の兩門に立つ。彼等は勝(すぐ)れたる射手(いて)たるに依つて、此の仰せに應ずと云々。

蓮景・忠常は、腹巻(はらまき)を着け、西南の脇戸(わきど)の内に構ふ。小時(しばらく)あつて廷尉、參入す。平禮(ひれ)、白水干(しろすいかん)に葛袴を著し、黑馬に駕す。郎等二人、雜色(ざふしき)五人共に有り。惣門に入りて、廊(らう)の沓脱(くつぬぎ)に昇り、妻戸(つまど)を通りて、北面に參らんと擬す。時に蓮景・忠常等、造り合はせの脇戸の砌りに立ち向ひ、廷尉の左右の手を取り、山本の竹中に引き伏せ、誅戮、踵(くびす)を廻らさず。遠州、出居(でゐ)に出でて之を見給ふと云々。

廷尉の僮僕(どうぼく)、宿廬(しゆくろ)へ奔(はし)り歸り、事の由を告ぐ。仍つて彼(か)の一族郎從等、一幡君の御館(みたち)〔小御所(こごしよ)と號す。〕に引き籠りて謀叛の間、未(ひつじ)の三尅(みつのこく)、尼御臺所の仰せに依つて、件の輩を追討せんが爲に、軍兵を差し遣はさる。所謂、江馬四郎殿・同太郎主(ぬし)・武藏守朝政・小山左衞門尉朝政・同五郎宗政・同七郎朝光・畠山二郎重忠・榛谷(はんがやの)四郎重朝(しげとも)・三浦平六兵衞尉義村・和田左衞門尉義盛・同兵衞尉常盛・同小四郎景長・土肥先二郎(せんじろう)惟光・後藤左衞門尉信康・所(ところの)右衞門尉朝光・尾藤次(びとうじ)知景・工藤小次郎行光・金窪(かなくぼの)太郎行親・加藤次(かとうじ)景廉・同太郎景朝・仁田四郎忠常已下、雲霞の如ごとし。各々彼(か)の所へ襲ひ到る。比企三郎・同四郎・同五郎・河原田(かはらだの)次郎〔能員が猶子。〕・笠原十郎左衞門尉親景・中山五郎爲重・糟屋藤太(かすやのとうた)兵衞尉有季〔已上三人、能員が聟(むこ)。〕等、防ぎ戰ひ、敢へて死を愁へざるの間、挑戰、申の剋に及び、景朝・景廉・知景・景長等幷びに郎從數輩、疵を被りて頗る引き退(しりぞ)く。重忠、壯力の郎從を入れ替へ、之を責めに攻む。親景等、彼(か)の武威に敵せず、火を館に放ち、各々、若君の御前に於いて自殺す。若君も同じく此の殃(わざわひ)を免かれ給はず。廷尉が嫡男、餘一兵衞尉、姿を女人に假(か)りて、戰場を遁れ出づと雖も、路次(ろし)に於いて、景廉が爲に梟首せらる。其の後、遠州、大岳(おほをか)判官時親を遣はし、死骸等を實檢(じつけん)せらると云々。

夜に入り、澁河(しぶかは)刑部丞、誅せらる。能員の舅(しうと)たるに依つてなり。

 

今回は「北條九代記」と重なるシーンが多いので、特に注は附さない。

 

「若狹局」(?~建仁三(一二〇三)年)は本文にある通り、比企能員の娘で頼家の妻妾(「吾妻鏡」では若狭局は愛妾とあり、足助(あすけ)重長の女が室と書かれているが、若狭局が建久九(一一九八)年に頼家十七歳の時に生んだ一幡は嫡子に等しい扱いを受けており、誰が正室かは不明である)で頼家嫡男一幡の母。後に第四代将軍藤原頼経に嫁いだで唯一頼朝の血筋を引く生き残りであった竹御所も若狭局の子とされる。「吾妻鏡」では一幡とともに若狭局も焼死したとするが、「愚管抄」によると、一幡は母が抱いて逃げ延びたものの、三箇月後の十一月、義時の手の者によって刺し殺されたとする(以上はウィキの「若狭局」に拠った)。

 

「行粧」外出の際の服装。

 

「葛袴」葛布(くずふ:横糸に葛の繊維を、縦糸に綿・麻・絹などを用いて織った布。丈夫で防水性に優れる。)で作った袴。狩袴をやや裾短かに仕立て、括(くくり)緒(お)を附けたもの。

 

「妻戸」殿舎の四隅に設けた両開きの板扉。

 

「未刻より申刻まで」「吾妻鏡」には「未の三尅」とあるから午後二時半頃から同四時頃まで。比企能員の変は実に二時間余りで一瞬にしてケリがついたのであった。]

2013/03/03

暦の亡魂 萩原朔太郎 (「定本 靑猫」版補正版)

 

 曆の亡魂

 

薄暮のさびしい部屋の中で

 

わたしのあうむ時計はこはれてしまつた。

 

感情のねぢは錆びて ぜんまいもぐだらくに解けてしまつた。

 

こんな古ぼけた曆をみて

 

どうして宿命のめぐりあふ曆數をかぞへよう。

 

いつといふこともない

 

ぼろぼろになつた憂鬱の鞄をさげて

 

明朝(あした)は港の方へでも出かけて行かう。

 

さうして海岸のけむつた柳のかげで

 

首無(くびな)し船のちらほらと往き通(か)ふ帆でもながめてゐよう

 

あるいは波止場の垣にもたれて

 

乞食共のする砂利場の賭博(ばくち)でもながめてゐよう。

 

どこへ行かうといふ國の船もなく

 

これといふ仕事や職業もありはしない。

 

まづしい黑毛の猫のやうに

 

よぼよぼとしてよろめきながら步いてゐる。

 

さうして芥燒場(ごみやきば)の泥土(でいど)にぬりこめられた

 

このひとのやうなものは

 

忘れた曆の亡魂だらうよ。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集第二巻の二〇〇~二〇一頁に載る、「底本靑猫」(昭和一一(一九三六)年三月版畫莊刊)を底本として編者によって歴史的仮名遣を補正してしまったもの。「ぜんまい」の下線は底本では傍点「ヽ」。第一書房版「萩原朔太郎詩集」の筑摩版全集第二巻の七二~七三頁に載る第一書房版「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年三月刊)を底本として編者によって補正されたものとの異同は、

 

二行目末の句点追加

 

二行目の「あふむ」を歴史的仮名遣「あうむ」と補正(但し、これは全集編者による補正)

 

二行目の「あうむ」からの傍点除去

 

三行目の「ぐたらく」を「ぐだらく」と補正

 

五行目の末に句点を追加

 

一〇行目の「首無し」の「無し」が「なし」と平仮名化

 

十一行目の「あるひは」の「あるいは」の補正(但し、これは全集編者による補正)

 

十二行目の末に句点を追加

 

十五行目の「黑鴉」から「黑毛」への変更

 

十六行目の末に句点を追加

 

の九箇所を数える。それ以外に編者による歴史的仮名遣の完膚なきまでの「補正」が加えられているのであるから、最早、私は初出の「曆の亡魂」とこの筑摩版全集の「底本靑猫」版「曆の亡魂」とは似て非なる作品であると思う。]

暦の亡魂 萩原朔太郎  (第一書房版「萩原朔太郎詩集」版)

 曆の亡魂

 

薄暮のさびしい部屋の中で

わたしのあふむ時計はこはれてしまつた

感情のねぢは錆びてぜんまいもぐたらくに解けてしまつた

こんな古ぼけた曆をみて

どうして宿命のめぐりあふ曆數をかぞへよう

いつといふこともない

ぼろぼろになつた憂鬱の鞄をさげて

明朝(あした)は港の方へでも出かけて行かう。

さうして海岸のけむつた柳のかげで

首無(くびな)し船のちらほらと往き通(か)ふ帆でもながめてゐよう

あるひは波止場の垣にもたれて

乞食共のする砂利場の賭博(ばくち)でもながめてゐよう

どこへ行かうといふ國の船もなく

これといふ仕事や職業もありはしない。

まづしい黑鴉の猫のやうに

よぼよぼとしてよろめきながら歩いてゐる

さうして芥燒場(ごみやきば)の泥土(でいど)にぬりこめられた

このひとのやうなものは

忘れた曆の亡魂だらうよ。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集第二巻の七二~七三頁に載る、第一書房版「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年三月刊)を底本として編者によって補正された箇所を同巻末の校異を元に復元した第一書房版「萩原朔太郎詩集」に所収する実際の「曆の亡魂」である。「あうむ」「ぜんまい」の下線は底本では傍点「ヽ」。]

暦の亡魂 (初出形)

 

 曆の亡魂

 

薄暮のさびしい部屋の中で

 

わたしのあふむ時計はこわれてしまつた。

 

感情のねぢは錆びてぜんまいもぐたらくに解けてしまつた

 

こんな古ばけた曆をみて

 

どして宿命のめぐりあふ曆數をかぞへやう

 

いつといふこともない

 

ぼろぼろになつた憂鬱の鞄をさげて

 

明朝(あした)は港の方へでも出かけて行かう

 

さうして海岸のけむつた柳のかげで

 

頸無(くびな)し船のちらほらと往き通(か)ふ帆でもながめてゐやう

 

あるひは波止場の垣にもたれて

 

乞食共のする砂利場の賭博(ばくち)でもながめてゐやう

 

どこへ行かうといふ國の船もなく

 

これといふ仕事や職業もありはしない

 

まづしい黑鴉の猫のやうに

 

よぼよぼとしてよろめきながら步いてゐる

 

さうして芥燒場の泥土(でいど)にぬりこめられた。

 

このひとのやうなものは

 

忘れた曆の亡魂だろうよ。

 

 

   (註。あふむ時計の字義は鸚鵡時計。

    音便オームではなく、原音通りア・

    ウ・ムとよまれたし、でないとこの

    行の音樂的韻律かこわされます。) 

 

 

[やぶちゃん注:『帆船』第十號(大正一二(一九二三)年二月刊行)に所収。「あふむ」「ぜんまい」の下線は底本では傍点「ヽ」。作者萩原朔太郎自身が附した自註(これは詩集では付属しない貴重な自註である。最後の「かこわされます」は、ママ。言わずもがな乍ら、「がこはされます」の誤り或いは誤植)の「音樂的韻律」に拘っている謂いを尊重して、あえて初出形をそのまま示した。多量に見られる歴史的仮名遣の誤りは一切ママである。最後に示す筑摩版全集第二巻の七二~七三頁に載る、後で示す筑摩版全集第二巻の二〇〇~二〇一頁に載る、「定本 靑猫」(昭和一一(一九三六)年三月版畫莊刊)を底本として編者によって歴史的仮名遣を補正してしまったものに比して、朔太郎の言う通りに、表記文字をその通りに発音して朗読した場合、初出は異様に異なった印象を与えることは間違いない。この詩は筑摩版全集のような形で「正しく」補正されていけない部類の詩であると私は思うのである。]

耳嚢 巻之六 河骨蕣生花の事

 河骨蕣生花の事

 

 河骨(かうほね)は、投(なげ)入れ又は立花(たてばな)にするに、水あがりかね、暫しの内に花のぢくくぢけ、葉も又しぼみぬるものなり。或諸候のかたりけるは、河骨を生(いけ)んと思ふには、まづ軸にもつ水をしぼりて一夜水につけ置(おけ)ば、水あがりてたもつ由。又一法に河骨の軸へ、小刀目(こがたなめ)を數ケ所へ入れて生花にするに、暫くたもつとや。蕣(あさがほ)は、活花(いけばな)はさらなり、垣に咲(さけ)るも、日影にしぼむ事いとはかなし。晝よりさきの客には、蕣を花にいけん事、かたき事なり。爰に一術ありと、人のかたりぬ。朝顏の花、あすはひらかんとおもふつるをとりて、つぼみをぬれ紙にて包(つつみ)、つるともに水に入て、客來らんと思ふ刻限に紙をとり活(いけ)ぬれば、程よく咲(さき)て暫しはたもつ事なりとぞ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:これは呪(まじな)いではない、極めてプラグマティクな生け花法であるが、当時の性質としては呪いと変わらないものであったはずであるから、強く連関すると言ってよいであろう。コウホネのケースは、現在の花首まで水につける深水法と呼ばれる水揚げに適い、特に維管束内のバクテリア等を含んだ水を絞り出すことで効果があるように思われ、アサガオの方の手法は水を含ませた新聞紙で包んで水揚げを行う手法に等しい。水揚げには温水や熱水を使うこともあり、かなり萎れた菊などでもこの方法で回復する(以上の水揚げ法については、個人のHP「飛鳥村のヘングリッシュガーデン」内の切り花を長持ちさせる方法を参考にさせて頂いた)。

・「河骨」双子葉植物綱スイレン目スイレン科コウホネ Nuphar japonicum。水生多年生草本。浅い池や沼に自生する。参照したウィキの「コウホネ」によれば、『根茎は白くで肥大しており、やや横に這い、多数の葉をつける。葉は水中葉と水上葉がある。いずれも長い葉柄とスイレンの葉の形に近いが、やや細長い葉身をつける。水中葉は薄くてやや透明で、ひらひらしている。冬季には水中葉のみを残す。暖かくなるにつれ、次第に水面に浮く葉をつけ、あるいは一気に水面から抽出して葉をつける。水上葉はやや厚くて深緑、表面につやがある。花期は』六月~九月頃で、長い花茎の先端に一つだけ『黄色い花を咲かせる』。『日本、朝鮮半島に分布する。浅い池によく見かけるが、流れの緩い小川に出現することもある。根茎が骨のように見え、コウホネ(河骨、川骨)の名の由来となっている』とある。属名「ヌーファ」はアラビア語由来で同種(の花)を指す語であるらしい。

・「投入れ」「抛げ入れ」とも書く。生け花で自然のままの風姿を保つように生けること。また、その花の意。室町末期に始まる。

・「立花(たてばな)」「りつか(りっか)」と読んでもよい。花や枝などを花瓶に立てて生けることであるが、狭義には生け花の型の一つとして江戸前期に二世池坊専好(いけのぼうせんこう)が大成した最初の生け花様式をも言う。真とよばれる役枝を中央に立て、それに七つの役枝(七つ道具。真・副(そ)え・受け(請け)・正真(しょうしん)・見越し・流枝(ながし)・前置きの七つ。のちに九つ道具となった)をあしらって全体として自然の様相をかたどったもの。現在、池坊に伝承されている。

・「蕣」双子葉植物綱ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil。因みに属名はギリシャ語の“ips”(芋虫)+“homoios”(似た)で、物に絡みついて這い登る性質に由来する。種小名“nil” はアラビア語由来で藍色の意。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 河骨(こうほね)と朝顔を生花とする際の水揚げ方法の事

 

 河骨は、投げ入れ又は立て花(ばな)にするにしても、水がなかなか揚がらず、生けても暫くするうちに、花の軸が傷み腐って、葉もまた萎んでしまうものである。

 とある華道を嗜まるる御大名のお話によれば、河骨を生けようと思う場合には、まず、軸に含まれている水分を十分に絞り出した上、一夜(ひとよ)、水に漬けおいたものを用いると、これ、しっかりと水が揚がって永く保つとの由で御座った。

 また一法には、河骨の軸へ、小刀で切れ目を數箇所入れて生け花にすれば、普通より永く保つ、とも仰せられて御座った。

 更に――朝顔は、活け花はもとより、垣根に咲いておるものでも、日が昇って光が射し始めると急速に萎んでしまう、大層、儚(はかな)いもので御座る。

 昼より後の客の接待の際に、朝顔を生け花に致すというは、これ、非常に難しいことであることは言を俟たぬもので御座ろう。

 ところが、ここに一つの方法がある、と、さる御仁が話して呉れて御座った。

 それは、朝顏の花で明日は開くであろうと思しいものを蔓ごと採って、その蕾(つぼみ)を濡れた紙にて包み、蔓と一緒に水に入れて、客が来たらんとする刻限に合わせて紙を取り除いて活ければ、これ、来客中にほどよく咲いて、午後であっても暫くの間は開花を保つことが出来るとのことで御座った。

撒水車の小僧たち 大手拓次

 撒水車の小僧たち

お前は撒水車をひく小僧たち、
川ぞひのひろい市街を悠長にかけめぐる。
紅や綠や光のある色はみんなおほひかくされ、
Silence(シイランス) と廢滅(はいめつ)の水色の色の行者のみがうろつく。
これがわたしの隱しやうもない生活の姿だ。
ああわたしの果てもない寂寥を
街のかなたこなたに撒きちらせ、撒きちらせ。
撒水車の小僧たち、
あはい豫言の日和が生れるより先に、
つきせないわたしの寂寥をまきちらせまきちらせ。
海のやうにわきでるわたしの寂寥をまきちらせ。

[やぶちゃん注:「撒水車」は「さつすいしや(さっすいしゃ)」と読む。散水車に同じであるが、読みに注意されたい。]

一言芳談 一〇二

   一〇二

 顕性房云、我は遁世の始よりして、疾(と)く死なばやと云ふ事を習ひしなり。さればこそ、三十餘年が間ならひし故に、今は片時(へんじ)も忘れず。とく死にたければ、すこしも延びたる樣なれば、むねがつぶれてわびしきなり。さればこそ符(ふ)、籠(かご)一つもよくてもたむとする事をば制すれ。生死を厭ふ事を大事とおもはざらんや、云々。

〇顕性房、善惠上人弟子、住長門(ながとにすむ)。
〇生死を厭ふ事を大事、無始より生を愛していとはざりし故に、今まで流轉(るてん)を經たるなり。

[やぶちゃん注:……へそ曲がりである私は(以前にも念死を主張する条はあったが)、ここまではっきり豪語されると、自死を禁じていない古形の仏教において(これは釈迦自身の行跡が示している。「九十一」を見よ。捨身飼虎だ。釈迦の前生であった薩捶王子は飢えた親子の虎に我が身を与えるために崖上から虚空に身を翻らせて墜死し餓虎の餌食となったではないか)、何故、あなたはさっさと浄土へ生まれるために自死しないのか、と顕性房に問いたくなる。……彼はどう答えるのか(その機縁に至っていないとか言うのか)、答え得るのか(その機縁なるものが弁解でないことを立証し得るのか)……私が納得出来る顕性房の答えを、どなたか、御教授下さると嬉しい。……
「顕性房」註にかくあるが(但し、これはⅠにでは除外されてなく、Ⅱの脚注にあるものを復元したもの)、Ⅱの大橋氏では、「一遍上人語録」巻下『に「常に長門顕性房を称美して云、三心所廃の法門はよく立てられたり。されば往生を遂られたり」とある顕性房』(即ちこの「善惠上人弟子」という人物)ということになるが、『恐らく同名異人で、明遍の弟子であろう』とされている。同じ大橋氏校注になる同書岩波文庫版の下巻「門人伝説」の「四」の注に、この当該人物でない顕性房の方は『長門の人で、始め西山証空の弟子となったが、のち覚入の弟子となった顕性房が浄土源流章(凝然)に見えている』とある。因みに「三心」は「さんじん」と読み(同大橋氏校注岩波文庫版による)、浄土に生まれるために必要な三種の心を指す。「観無量寿経」には至誠心(しじょうしん)・深心(じんしん)・回向発願心(えこうほつがんしん)、「無量寿経」には至心・信楽(しんぎょう)・欲生(よくしょう)とある。「三心所廃」は同大橋氏校注岩波文庫版の注によれば、『本願を信ずる心の三心が、そのまま口にでると念仏になり、』そうした境地に至ると実は外見上、『三心はしばらく隠れるという教え』とある。なお、「善惠上人」は一遍の大橋注にある「西山証空」のこと。証空(治承元(一一七七)年~宝治元(一二四七)年)は法然の高弟で西山浄土宗・浄土宗西山禅林寺派・浄土宗西山深草派の祖。……しかし、こういうメタなパラドックスを謂われてしまうと、ここでもへそ曲がりである私は、即座にかく問い返したくなる。……「こういう真偽は、では、どこで見分けられるのでしょう? 一遍さん?」……その問いが愚智だと言われれば、私はこう切り返そう。……「では、私にそう感じさせた『三心所廃』という考え方を示した一遍も、それ有り難がって私を指弾するあなたの智も、やはり、愚智という訳です。」……と……。
「符籠」ⅠもⅡも「符籠」と一語で採っている。読点は私が附した。Ⅱはこれを「かご」と訳すのみで、如何なる籠、背負籠(しょいこ)なのか、もっと小さな日常的に用いる入れ物としての籠なのか分からない。ただ私が言いたいのは「符」には単に籠を意味するような意は含まれていないということである。そこで私は「符・籠」と読み、「符」は修行者が身に着けるところの神仏の守り札である御札・護符の類いと採り、行脚するための籠、背負籠と採って、読点を配した。大方の御批判を乞うものである。]

2013/03/02

本日雛祭

今日は久方振りに妻の(僕のでもある)女友達らが六人、総勢八名が我が茅屋に雛祭に訪れるによってテクストはこれにて閉店と致す。

一言芳談 一〇一

   一〇一

 傳教記文(でんげうきもん)に云、後世者の住所(すみどころ)は三間(さんげん)に不可過(すぐべからず)。謂(いは)く、一間(いつけん)は持佛堂、一間は住所(ぢゆうしよ)、一間は世事所(せいじどころ)なり。

〇後世者の住所、長明がかりの庵、ほどせばしといへども一身をやどすに不足なしといへり。その家のありさまは方丈記に見るべし。

[やぶちゃん注:「傳教記文」伝教大師最澄の書き記したもの。但し、この出典は不詳。最澄入寂の西暦一三八七年の「一弘仁十三年四月。告諸弟子言。若我滅後。皆勿着俗服。」(一つ、弘仁十三年四月、諸弟子に告げて言はく、若し我が滅後に皆俗服を着すること勿れ。)に始まる「根本大師臨終遺言」には「一第五充房也。上品人者。小竹圓房。中品人者。方丈圓室。下品人者三間板室。造房之料。修理之分。秋節行檀。諸國一升米。城下一文錢。」(一つ、第五は充房なり。上品の人は小竹(ささ)の圓房、中品の人は方丈の圓室、下品の人は三間の板室とす。造房の料、修理の分は、秋節に檀を行ぜよ。諸国は一升の米、城下は一文の錢なり。)とある。「檀を行ぜよ」とは「布施を戴け」の意。最澄は天台教学とともに密教・禅の他、浄土教の念仏行を本邦に齎している。
「持佛堂」Ⅱで大橋氏は、『朝夕その人が礼拝する持仏を安置してある堂や部屋をいい、高野山諸寺院が従来本堂を所有せず、持仏堂、持仏間のみを存するのは、中世後世者の庵室の名残りであろう』と注されておられる。
「世事所」最低限度の世俗的生活に関わる雑事をなす所。
「長明がかりの庵……」以下、長明の庵のさまを具体に示す最初の部分を「方丈記」より引用する(底本は一応、角川文庫昭和四二(一九六七)年刊の簗瀬一雄訳注版を用いたが、一部の読みや読点には従わず、また恣意的に漢字を正字化した。後に底本を参考に簡単な注を附した)。
 こゝに、六十(むそぢ)の露、消えがたに及びて、更に末葉(すゑは)の宿りを結べる事あり。いはば、旅人の一夜(いちや)の宿りを造り、老いたる蠶(かいこ)の繭を營むがごとし。これを中ごろの栖(すみか)に並ぶれば、また百分が一に及ばず。とかく言ふほどに、齡(よはい)は歳々(としどし)にたかく、栖は、をりをりに狹(せば)し。その家の有樣、世の常にも似ず。廣さは僅かに方丈、高さは七尺(しちしやく)がうちなり。處を思ひ定めざるが故に、地を占(し)めて造らず。土居(つちゐ)を組み、うちおほひを葺きて、繼目(つぎめ)ごとに、かけがねを掛けたり。もし、心にかなはぬ事あらば、やすく他に移さんがためなり。その改め造る事、いくばくの煩ひかある。積むところ、わづかに二輛、車の力を報ふ外には、さらに他の用途(ようど)いらず。
 いま、日野山の奧に、跡をかくして後(のち)、東に三尺餘りの庇(ひさし)をさして、芝折りくぶるよすがとす。南に竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)を作り、北によせて、障子をへだてて、阿彌陀の繪像(ゑざう)を安置(あんぢ)し、そばに普賢をかけ、前に法華經を置けり。東のきはに蕨(わらび)のほどろを敷いて、夜の床とす。西南に竹の吊棚(つりだな)をかまへて、黑き皮籠(かはご)三合を置けり。すなはち、和歌・管絃・往生要集ごときの抄物(せうもつ)を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張(ちやう)を立つ。いはゆる、をり琴・つぎ琵琶これなり。かりの庵の有樣、かくのごとし。(以下略)
●「中ごろの栖」前段で、三十過ぎて鴨の河原近くに造って住んでいた家屋を指す。それでも車輪附きで移動可能であったことが記されてある。
●「方丈」約三メートル強四方。
●「七尺」約二メートル強。
●「うちおほひ」簡易に蔽った屋根様のもの。
●「用途」費用。
●「日野山」山科。現在の京都市伏見区日野町。
●「三尺餘り」一メートル足らず。
●「蕨のほどろ」蕨の穂のほうけたばさばさしたもの。
●「皮籠」竹や籐(とう)などで編んだ上に皮を張った蓋付きの籠(かご)。
●「をり琴・つぎ琵琶」もともと組立式になっている携帯に簡便な琴・琵琶のこと。]

漁色 大手拓次

 漁色

あを海色(うみいろ)の耳のない叢林よ、
たまごなりの媒酌のうつたうしい気分、
おとなしい山羊の曲り角に手をかけて、子供たちの空想の息をついてみよう。
夜(よる)よ、夜(よる)よ、夜(よる)の船のなかに
茴香色(うゐきやういろ)の性慾はこまやかに泡だつて、
花粉の霧のやうに麥笛をならす。

2013/03/01

耳嚢 巻之六 産後髮の不拔呪の事

 産後髮の不拔呪の事

 

 婦人出産後、夥敷(おびただしく)髮の拔るものあり。産濟て、枕にかゝり候節、髮の内ひよめきといえる所へ生鹽(なまじほ)を聊か置(おく)ときは、毛不拔事(ぬけざること)妙の由。又一法に、出産後、いたゞきを、毛ぶるひを以て震ふまねなせば、是又毛拔候事無之(これなき)由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。定番の呪(まじな)いシリーズ。

・「不拔呪」「ぬけざるまじない」と読む。

・「婦人出産後、夥敷髮の拔るものあり」分娩後脱毛症という。「女性薄毛対策室」管理になるHP内の分娩後脱毛症の原因と対策ページによれば、『分娩後脱毛症とは、その名の通り、出産後に起こる女性特有の脱毛症のことで』、出産後二~三ヶ月後に『起こることが多く、一度にかなりの量の髪が抜けるので、このまま薄毛になってしまうのではと恐怖を覚える方も少なく』ないとある。『しかし、分娩後脱毛症は一部例外を除けば、自然現象の一環なので、あまり過度に心配する必要はないと言われて』いるとする。そのの原因については以下のように解説されてある。『女性は妊娠した時から出産に至るまで、徐々に卵胞ホルモン』であるエストロゲン『の分泌量が増える傾向にあ』るが、『エストロゲンには髪の発毛を行っている毛母細胞や毛乳頭を活性化させる作用があり、いつもより髪が伸びるスピードが』加速され、『さらに、女性ホルモンの作用で、抜け毛を誘発する男性ホルモンの働きが抑制され、髪が抜けにくくなる』。この二つの作用により、実は『妊娠中は髪が抜けにくく、伸びやすい状態となり、一時的に髪のボリュームがアップ』する。ところが、『出産するとホルモン分泌量が元に戻るため、一時的に増加していた髪が抜け落ち、薄毛となってしまう』ことを主因とするとある。『一時的に乱れたホルモンバランスは時間の経過とともに正常に戻るため』、通常ならば半年から一年も経てば薄毛症状も快方に向かうのであるが、『女性ホルモンとは別の理由、たとえば授乳による栄養不足や、育児疲れによるストレスなどを原因とした薄毛は、放っておいても改善することは』なく、こうした状態に至った『場合は婦人科を受診してみる』ことを勧める、とある。妊婦の方、これから妊婦になられるかもしれない方のために注しておく。

・「枕にかゝり候節」これは坐産(坐った状態で出産する恐らく縄文時代以来の本邦の古来からの出産方法)で分娩後に初めて横臥する際のことを言っている。三重県四日市市羽津地区お公式HP『羽津の昔「人生儀礼」』に、『出産することを「まめになる」といった。出産は、納戸などの薄暗い部屋で行なった。布団の上へ渋紙を敷き、更にその上へ藁灰を入れた「灰布団」を重ね、そこヘペタンと腰を下ろして座り、天井から吊された紐につかまって出産した。いわゆる「座産」である。現在のように寝たままの姿勢でお産をするようになったのは、大正末期から昭和の初めにかけて以降のことであり、それまでは全て座産で』、『妊婦が「ケづく」、つまり陣痛が始まると「抱き女」という予め頼んであった人がきて、天井から吊した紐につかまった妊婦を背後から抱きかかえ、腹の上部をしめつけるようにして、妊婦を励ましたり、いきませたりした。もちろん、この時には、「とりあげ婆さん」も来ていて、出産の介助に当たっていた。お産にあたっては、妊婦が陣痛に苦しんだあげく、障子の桟が見えなくなるくらいにならないと子供は生まれてこないといった』とある。リアルな貴重な記録である。

・「ひよめき」前頭部。通常はこう呼称した場合、乳児の頭頂部前方(おでこの髪の生え際辺りの中央部)にある頭蓋骨の隙間部分を言うが、ここではそれを援用して前額部分をかく呼称しているものと思われる(産婦でもあり関係も深いことからであろう)。医学的には大泉門と呼び、乳児のおでこの正中線を頭頂部に向かって触れてゆくと、頭髪の生え際より少し上の部分に菱形をした柔らかいぷよぷよした部分のことを指す。これは乳児の頭蓋骨の発達が未だ十分でないために生じている複数の頭骨(頭蓋骨は左右前頭骨・左右頭頂骨及び後頭骨の五枚から構成されている)間の縫合部にある比較的大きな隙間(ブレグマ(Bregma):矢状縫合と冠状縫合の交点のこと。)である。

・「生鹽」結晶の粗い精製したり煎ったりしていない塩。

・「毛ぶるひ」「毛篩」で、粉などを篩(ふる)うために用いる目の非常に細かい篩(ふるい)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 産後に髪の毛が抜けぬようにする呪い(まじな)いの事

 

 婦人の出産後、夥しく髮の抜くる者があるが、こうならなぬようにするためには、坐産が済んで後、初めて横に臥すという際に、額の前髮の生え際のところ――俗に幼児の「ひよめき」と呼んでおるところで御座る――へ、粗塩(あらじお)を少しばかり据えおくならば、これ、毛が抜けなくなること、まっこと、絶妙なる由にて御座る。

 また、今、別の一法としては、同じく出産後に、頭の頂きに於いて、厨(くりや)で用いる毛篩(けぶるい)を以って、これを篩(ふる)う真似を致さば、これまた、毛が抜けるようなことは、これ、一切ないとのことで御座る。

耳嚢 巻之六 50話超 HP版を公開

「耳嚢 巻之六」のブログ公開分が50話を越えたので、HP版「耳嚢 巻之六」を公開した。ルビがどうもよろしくない。勝手にビルダーが書き換えてしまい、結局、昨夜と今日半日を、これに費やしてしまった。巻之七以降は、トラブルの起こらないよう、もっと少ないうちに、HP化したい。疲れた。

道心 大手拓次

 

 道心

 

七頭の怪物のやうな形をして、わたしの道心は呼吸してゐる。
洪水の喧囂、洪水の騷亂、
わたしは死骸となつた童貞のそばに、
白い布に包まれて母の嘆きをおびてゐる。
たはむれに水蛇は怪しい理智の影に逃げまはる。
世界は黄昏(たそがれ)の永遠を波立たせる。

 

[やぶちゃん注:「喧囂」は「けんがう(けんごう)」で、喧喧囂囂。がやがやとやかましいこと、そうすること、また、そのさま。

私はこの、

わたしは死骸となつた童貞のそばに、
白い布に包まれて母の嘆きをおびてゐる。

のシークエンスが好きで堪らない。]

一言芳談 一〇〇

残すところは、後、45章である。



   一〇〇

 解脱上人云、出離に三障(しやう)あり。一には所持の愛物(あひもつ)、本尊持經(ほんぞんじけう)等(とう)まで。二には身命(しんみやう)を惜しむ。三には善知識の教(をしへ)に從はざる。

〇本尊持經、心をこめて見るべし。
〇善知識、博學辯口によらず、後世心(ごせしん)のある人を善知識といふ。

[やぶちゃん注:「愛物」「あいぶつ」とも読む。愛し好むもの、また、生き物。気に入りの人。
「善知識」一般には、人々を仏の道へ誘い導く人、特に高徳の僧のことを指す(浄土真宗では門弟が念仏の教えを勧める人としての最高位に位置する法主(ほっす)を、禅宗では参学の者が師家(しけ)を言う際に用いる)が、私はここは、この本来の語の意を採りたい。即ち、サンスクリット語の“kalyaaNa-mitra”「カリヤアーナ・ミトラ」である。“kalyaaNa”は「美しい」「善い」の意味の形容詞又は中性名詞として「善」「徳」の意味で、“mitra”は「友人」であるから、「善き友」「真の友人」の謂いとなる(「善友」とも漢訳される)。勿論、それが仏語として、仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人を指していう語と異ならないと言われれば言われようが、私はここまでの「一言芳談」の一貫したコンセプトからは、例えば「標注」の「博學辯口によらず、後世心のある人」なんどという、困って焦った調子の弁解口調は好まぬのである。「一言芳談」が多様な欣求浄土の複数の格言集であれば、それぞれの齟齬や相異は勿論、免れぬとは言えようが、とは言え、前言の核心のコンセプトを否定する併置はあるべきではない。善知識が後の高位の権力者であったり、形式的な師匠の意を含んでいてはおかしいことは誰にも分かるが、そもそも立派であろうが形ばかりであろうが、これを真の仏法の「指導者」「教授者」の謂いで採ること自体が、「一言芳談」という命題の中に在っては誤謬であると私は思うのである。さすれば、原義に還るに若くはない。「教」も「戒め」の意でよい。私は解脱上人は、シンプルに「良き友の伝えてくれる教訓に従わぬこと」と訳したいのである。
――いや――
――でなければ――
――辞書的な一般的な意味での「善知識」の意に拘るとすれば――
――この部分、私は、
〈否定文ではなく肯定文であるべきではないか〉
とさえ初読時に疑っているのである。即ち、ここは、
「三には善知識の教に從ふ。」
である。私の初読時の誤読は以下の通りである。

――解脱の境地に至るには、三つの障害がある。
――第一に――所持するところのあらゆる愛するもの――それは――日々拝む本尊や常に所持するところの経典に至るまでをも含む――
――第二に――身や命を惜しむこと――
……そうして
――第三に――教導者の教えに盲目的に従うこと――

そもそもが直接話法の中にあっては、
「出離を妨げて〈出来ず〉さするところの三つの障りを示すと」
と語り出して、その最後の三つ目禁忌を言う末尾に於いて、
「~をしないことによって障りを完遂〈出来る〉のである」
と述べる慣用的な誤用表現を私はしばしば他者から聴くからである。
――何れにせよ、私はこの部分を――例えばⅡの大橋氏のように、『善き導きての教えに耳を傾けないこと』と、高校の受験参考書の模範訳のように、逐語的に正しく文字通りに解釈することは――残念ながら出来ない捻くれ者であるということだけは表明しておきたい。というより――かの「十二」のシークエンスに登場した解脱上人ならば、きっとかく言うはずである――と私は信じてやまぬのである。――]

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