生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 三 分業と進歩~(3)/了
個體が一個一個に離れながら社會を造つて生活する動物にも分業の行はれて居るものが多い。蜜蜂の如きものでも、生殖を司どる雌蜂・雄蜂の外に、巣の内外のすべての仕事を一手に引き受けて働く働蜂といふものがあつて、個體の形狀が三種類になつて居るが、蟻の類では更に分業が進んで、個體の形狀にも種類の數が殖えて居る。雌蟻・雄蟻の外に働蟻のあることは蜂と同じであるが、働蟻の中にはさまざまの分擔が行はれ形狀の異なつたものが幾種類もある。地面に少し砂糖を散して多數の蟻の集まつて來た所を見ると、顎が非常に大きく、隨つて頭の著しく大きなものが普通の働蟻に交つて處々に居るが、これらは兵蟻というて、特に敵に對して自分の團體を守ることを專門とする働蟻である。また普通の仕事をする働蟻の中に猫と鼠程に大いさの違ふ二組を區別することの出來る種類もある。これらはどこの國でも見かけることであるが、北アメリカのメキシコ國に産する蟻の一種では、働蟻の中の若干のものは、たゞ蜜を嚥み込んで腹の中に貯へることだけを專門の役目とし、生きながら砂糖壺の代りを務める。他の働蟻の集めて來た蜜を幾らでも引き受けて嚥み込むから、身體の形狀もこれに準じて變化し、頭と胸とは普通の蟻と餘り違はぬが、腹だけは何層倍にも大きく膨れて恰もゴム球の如くになつて居る。そして活潑に運動することは勿論出來ぬから、たゞ足で巣の壁に引き掛つて靜止して居るが、その幾疋も竝んで居る所を見ると、棚の上に壺が竝べてあるのと少しも違はぬ。蜜の入用が生ずると、他の働蟻がこの壷蟻の處へ來て、その口から一滴づつ蜜を受け取つて行くのであるから、働に於ても棚の砂糖壺と全く同じである。前に述べた「くだくらげ」の瓦斯袋でもこの壺蟻でも各々一疋の個體でありながら、單に物を容れる器としてのみ用ゐられて居るのであるから、個體を標準として考へると何のために生きて居るのか、殆どその生存の意義がない如くに見える。しかし團體を標準として考へると、かやうな自我を沒却した個體の存在することは、その團體の生活には有利であつて、かやうなものが加はつて居るので全團體が都合よく食つて産んで生存し續け得るのである。團體と團體とが競爭する場合には一歩でも分業の進んだものの方が勝つ見込が多いから、長い年月の間には次第に分業の程度が進んで、終に浮子の代り壺の代りなどを專門に務める個體までが出來たのであらう。
[やぶちゃん注:「北アメリカのメキシコ國に産する蟻の一種」は後掲されるその中の分業化した「壺蟻」の形態から、ミツツボアリ(蜜壺蟻)という和名を持つハチ目ハチ亜目有剣下目スズメバチ上科アリ科ヤマアリ亜科ミツツボアリ属
Myrmecocystus の一種を指しているものと思われる。ウィキの「アリ」には、『オーストラリアに分布。名の通り花の蜜を採集し、巣の中に待機する働きアリをタンクにして蓄える。タンク役のアリは腹を大きく膨らませて巣の天井にぶらさがり、仲間のために蜜を貯め続ける。蜜を貯めたものはアボリジニの間食用にされる』とオーストラリアに限定的に分布するような記載があるが、私の好きな番組であるNHKの「あにまるワンだ~」の公式サイト内の当該属の解説には、全長一二ミリメートルで、『オーストラリア、メキシコ北部などの乾燥地に住む。巣に、仲間が集めた花の蜜をお腹に貯めこむアリがいる。仲間は、食べ物が少なくなると、この貯蔵アリから蜜をもらう』とあるから間違いない。属名“Myrmecocystus”の“Myrmeco-”はギリシア語の「蟻」を意味する接頭辞で、“cystus”は植物のマメ目マメ科エニシダ属と同じ綴りであるから、私の推測であるが、まさにこの「壺」担当の蟻のぶら下った姿を、エニシダの総状花序で多数の花を附けているさまに擬えた命名ではなかろうか。グーグル検索の「ミツツボアリ」の画像検索はこちらを……ハデスの美しき宮殿である……
「浮子」は「うき」と読む。]
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