中島敦漢詩全集 三
三
非不愛阿堵
阿堵一無情
阨窮空憫婦
除日嗟咨聲
〇やぶちゃんの訓読
阿堵(あと)を愛さざるには非ず
阿堵は一(ひと)つとして情(こころ)無し
阨窮(やくきゆう) 空しく婦を憫(あは)れむ
除日(じよじつ) 嗟咨(さし)の聲
〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「阿堵」金銭の俗称。中国の六朝時代(呉滅亡から東晋成立までの三世紀から六世紀にかけて)および唐代(七世紀から九世紀)には、口語の「これ」という指示語であったが、後に金銭を指すようになった。西晋の王衍(おうえん:清談をよくした貴公子で、従兄弟に竹林の七賢の一人王戎がいる。)が金銭を「これ」と、指示語で忌んで呼んだところからという(「晋書」王衍伝)。
・「阨窮」困苦と経済的逼迫。「阨」は困苦や災難を表わし、「厄」と同音同義。「孟子」の「公孫丑(こうそんちゅう)」に次の句がある。
*
遺佚而不怨、阨窮而不憫。
遺佚(ゐいつ)されて怨みず、阨窮(やくきゆう)して憫(うれ)へず。
*
「憫」も用いられていることから判断し、同句を典拠としたものと推測される。当該箇所の下りは、聖人柳下恵(りゅうかけい:周代の魯の大夫。正道を守って君に仕えた賢者として知られる)の態度が、つまらぬ役職についても卑しまず、進んで智恵を提供し、必ず正しい道を歩み、自分が見捨てられても怨まず、困窮に直面しても憂いたりしなかったというものである。必ずしも孟子は全面的に評価してはいないのだが、柳下恵は、いわば無私の心で積極的な行動に臨む聖人である。詩の解釈においては、一歩進めて、詩人自身が柳下恵と自分を密かに重ね合わせているという解釈も許されるかもしれない。[やぶちゃん注:訓読では、「憫(うれ)へず」というマイナーな読みは排して、「憫(あは)れむ」とした。T.S.君の現代語訳を考えても、わざわざ「憫(うれ)へず」と訓ずるよりも素直であると判断したからである。]
・「空」ここでは、「無駄に」「虚しく」の意。
・「憫」哀れむこと、憂うこと。「阨窮」の項の用例を参照のこと。
・「婦」狭義では既婚女性・妻・息子の嫁などを指すが、広義には女性一般を指す。ここは家計をともにする者として、狭義の妻で読むのが自然かと思われる。
・「除日」十二月の最終日、大晦日。もしくは陰陽五行説で何事を行うにも吉であるとされた「黄道吉日(こうどうきちにち)」の中の一日をも指すが、ここでは前者の意であろう。
・「嗟咨」嘆きを漏らすこと、ため息をつくこと。または嘆き、ため息そのものを指す。但し、時に賛嘆の声を指す場合もある。音読みで「サシ」と訓ずる。「咨嗟」としても同義。古来より用例は多い。
○T.S.君による現代日本語訳
金が 嫌いなわけじゃあない
金が 俺を好かないだけさ
わが身の不運と この困窮
妻よ おまえを憐れんでも何にもならぬ
歳の暮れ 身から出るのは ため息ばかり
〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
五言絶句の規則通り、第二句と第四句の最終字「情qing2」と「聲sheng1」が脚韻を踏む。一見、意味を取りにくい。しかし鍵となる語を押さえてしまえば、全二十字による織物の糸目は比較的容易に見えてくる。
難しいのは「阿堵」「阨窮」「嗟咨」だろう。もちろん平仄をも合わせねばならない厳格な定型詩であるから、使用頻度の稀な難解な語を使用せざるを得ぬこともあろう。しかし、なぜこれらの語を選んだのだろう? 私は実にそこが気になった。以下は、そうした私の思惟の過程を再現したものである。お付き合い頂ければ幸いである。……
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…………「阿堵」は金銭のことだが、直接的な表現を憚る意識が働いて出来た言葉のようだ。そういえば日本語でも金銭を『先立つもの』などと表現するではないか。……物事を直線的に表現しない婉曲な言い方……それなのに、二十文字しかない指定席の五分の一である四文字も分け与えて憚らない……さらに言えば「阿」の字……二回も繰り出されるにしては、字面はあまりよろしくない(と私は個人的に思うのである。この字を名前に使われる方には申し訳ない。他意はない。)……「阿」の字には「迎合する」という意味があって、阿諛追従、「阿(おもね)る」という和訓もまた、頗る印象が悪い。……
……それに比べて「阨窮」は一応、正統派ではある。なにしろ、出自が経学の本流である四書の一つ、「孟子」である。……しかし、この全二十字の小さな世界に、この「阨」を配すると、何だか……重すぎるのだ……そもそも……「阨」という字は、これも、見るからに不祥を体現しているように思われてならない……はっきり言えば、不快感を催させる字形……詩意はともあれ、第三句の冒頭を飾るにあまりに禍々しい。……
……そして「嗟咨」……受け止める私の問題かもしれないが……この字面と音は如何にも大時代的で……『一向に胸の奥底には届いてこない』嘆きの声なのである。……
……詩人は以上のような用語の選択を行って憚らなかった。
……詩の出来上がりを玩味した上で、敢えて、この最終形を残した。
これをどう捉えたらいいのだろうか?……
この他にも、今一つ、抱かざるを得ない疑問があるのだ。……
それは……最終句で大晦日を示唆することによる効果である。
年越しを前に旧年中の借金を返すという日本独特の旧来の習慣は誰でも知っている(但し寧ろ、この禊(みそぎ)と軌を一にする意識は、グローバルには特異的であることは当の日本人に、あまり理解されているとは思われない。閑話休題。)。
しかし……もし詩人が絶対的な困窮に直面しており、それを真に訴えたいのであれば、ここで大晦日という場面設定を行うというのは如何なものだろう?……
……詩人が困窮を語る時――我々は――卑俗卑近な家計や現実生活の経済から遠く離れて語ってもらいたい――商業的営みを示唆するような境地からは隔絶していてほしい――と、無意識のうちに希求してはいないだろうか?……さもないと、漢詩たるものが、あたかも『世話物の端唄のひとくされ』の如きものに堕してしまうように、感じられはしまいか?…………
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以上に述べた用語上の不協和音、そして場面設定のせいだろうか、私には『詩人の困窮』なるものが、今一つ、胸に響いてこないのである。
どうも、この詩人は、真剣に窮状を訴えようとは、していないのではあるまいか?
私には、いつものように背筋を伸ばした詩人が見えるのである。昔、高校の教科書の「山月記」の終わりに遺影の如く掲げられてあった、例の写真の彼である。
彼は、いつものように由緒正しい言葉を口にしては、いる。
しかし、やや斜に構えて、その片方の口元には、ほんの少し、自嘲の苦笑いさえも浮べているのではないか?
彼はある冬の日、ふと『肩の力を抜いて』、自分の貧窮を詠む気になった――
そこで漢籍に関する茫洋たる知識の海から、『二三の貝殻を拾い上げた』――
と――
諧謔の呟きを込めて『二十片の組み合わせとして定着してみた』――
実は、ただそれだけのことだったのでは、なかろうか?……
……だとしたら……いや……だからこそ……
恐らくは――完全装甲(フルメタル・ジャケット)で、この詩には対峙しない方がいい。
全霊を以ってこの詩の世界と格闘しないほうがいい。
読む者は、決して、きゅっと、息を詰めたりはせずに、変化球を、すぽっと、素直に受け止めればいい。
もし詩人の書いた次の文章を想起する者がいたら、その人は間違いなく力み過ぎなのである。
『成程、作者の素質が第一流に屬するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何處か(非常に微妙な點に於て)缺ける所があるのではないか、と』(「山月記」)[やぶちゃん注:引用は昭和五一(一九七六)年筑摩書房刊「中島敦全集」に拠った。]
……そして、また……
何事(なにごと)も金金(かねかね)とわらひ
すこし經(へ)て
またも俄(には)かに不平つのり來(く)
(啄木「一握の砂」より)[やぶちゃん注:引用は昭和五三(一九七八)年筑摩書房刊「石川啄木全集」に拠った。]
……啄木の無力感と苛立ちの深刻さに比べれば、苦笑いを浮べた、この五言絶句には、まだまだ余裕があるように感じられるのであるが……如何であろう?……