生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 四 協力と束縛
……生物群体のその叙述は……もう、何かしみじみと哲学している……
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四 協力と束縛
單獨に生活する動物では成功すれば自身だけが利益を得、失敗すれば自身だけが損害を蒙るのであるから、笑ひたいときに笑ひ、泣きたいときに泣くのも勝手であるが、多數相集まつて力を協せ敵に當る場合には大に趣が違ひ、常に全團體の利害を考へて、各自の擧動を加減しなければならぬ。笑ひたいときにも、もし自分の笑ふことが團體に取つて不利益ならば、笑はずに怺へて居なければならず、泣きたいときにも、若し自分の泣くことが團體のために不利益ならば、泣かずに忍ばねばならぬ。これが即ち所謂義務であつて、義務のために自由の一部を制限せられることは、團體生活を營む動物の免れぬ所である。しかし團體生活によつて生ずる生活上の利益は、この損失を償つてなほ餘りがあるから、種族全體の利害からいへば、個體の自由の制限せられることは頗る有望な方面に進み行くものと見做すことが出來る。「自由を與へよ。しからざれば死を與へよ。」との叫びは如何にも壯快に聞えるが、絶對の自由は團體生活をする動物には禁物であつて、もしこれを許したならば、團體は即座に分解して、敵なる團體と競爭することが出來なくなる。團體内の一部の者が暴威を振つて殘りの者を壓制するために、個體間に反抗の精神が盛になり、自分の屬する團體をも呪ふ如き者の生ずることは、その團體の生存上大に不利益であるから、かゝる場合に壓制者に對して自由を叫ぶもののあるのは當然であるが、團體生活をなす以上は、條件附の自由より外に許すことの出來ぬは論を待たぬ。
[やぶちゃん注:「怺へて」は「こらへて」と読む。]
群體を造つて生活する動物でも、個體間にまだ分業の行はれぬ種類ならば、一疋づつに離しても生存が出來ぬこともないが、幾分でも分業が進んで、個體間に形狀や作用の相異なつたものの生じた場合には、これを別々に離しては到底完全な生活を營むことは出來ぬ。假に大工と仕立屋と百姓とが一箇所に住んで居ると考へれば、大工は三人分の家を建て、仕立屋は三人分の衣服を縫ひ、百姓は三人分の田を耕して、三人ともに安樂に暮せるが、これを一人づつに離したならば、大工も縫針を持たねばならず、仕立屋も肥桶を擔がねばならず、極めて不得手なことをも務めねばならぬであらうから、衣食住ともに頗る不自由なるを免れぬ。個体間に分業が行はれて居る動物を一疋づつに離したならば、いつでもこれと同樣な不便が生ずる。人間ならば誰も身體の形狀が同じであるから、大工が縫針を持ち、仕立屋が肥桶を擔ぐことも出來るが、群體を造る動物では、各個體の形狀・構造がその受け持ちの役目に應じて變化して居るものが多いから、一疋づつ離しては到底一日も生活が出來ぬであらう。例へば、「くだくらげ」の群體をばらばらに離したと假定すると、鐘形の個體は泳ぐだけで餓死し、葉形の個體は蔭に隱れるものがないから何の役にも立たず、物を食ふ個體は口を大きく開いて居ても餌をくれるものがなく、觸手は餌を捕へて收縮してもこれを持つて行く先がない。かやうな動物では種々の個體が集まつて、初めて完全な生活が出來るのであるから、個體は互に離れることが出來ぬ。そして他と離れることが出出來ぬといふことは既に大なる束縛である。
蜜蜂や蟻の社會では個體の身體は相離れて居るが、各自分擔が定まて皆揃はねば完全な生活が出來ぬという點では、「くだくらげ」と同樣である。雌蜂・雄蜂だけでは卵を産むだけは出來ても、これを保護する巣も造れず、卵から孵化した幼蟲を養育することも出來ぬ。また働蜂だけでは子が生まれぬから一代限りで種族が斷絶する。働蟻の方でももこれと同樣であるが、メキシコ産の壺蟻の如きに至つては、一疋づつに離しては全く生存の意義がなくなる。されば蜂でも蟻でも、たゞ自己の屬する團體のためにのみ力を盡すやうに束縛せられて居るのである。但し、「くだくらげ」でも、蜂・蟻でも各個體は事實上かやうに束縛せられては居るが、これを人間社會で用ゐる普通の意味の束縛と名づくべきか否かは頗る疑はしい。なぜといふに、束縛といへば必ずその反對に自由のあることを豫想する。自由に動きたがるものに、制限を定めることが即ち束縛であるが、束縛せずともそれ以外のことを爲さぬものに對しては束縛といふ文字は當て嵌まらぬ。「くだくらげ」でも蜂・蟻でも長い年月の團體的競爭を經て、自然淘汰の結果今日の有樣までに達したのであるから、各個體の神經系は、たゞ團體のためにのみ力を盡す本能が現れるやうに發達して、生まれながらに團體に有利なことのみを行ふのである。蟻が終日働くのは怠けたい所を努めて働くのではなく、働かずに居られぬ性質を持つて生まれたから働くのである。蜂が敵を刺すのは、自己の屬する團體の危險を知り、大切な命をも捨てて掛るわけではなく、敵が來ればこれを刺さずには居られぬ性質を生まれながら具て居るからである。かやうな次第で、各個體は自身の役目だけを務める天性を持つて生まれ、相集つて團體を造つて居るのであるから、その務以外のことは特に禁ぜずとも行ふことはない。隨つて禁ぜられても少しも束縛とは感ぜぬ。恰も胃が呼吸を禁ぜられ肺が消化を禁ぜられても束縛とは名づけられぬのと同樣である。
かやうに論じて見ると、團體生活のために個體の行動を束縛せられるのは、たゞ同一の目的のために力を協せて働く群集、もしくは低度の社會だけである。單獨生活を營む動物は何の束縛をも受けぬ。尤も魚が水より出られぬとか、蛙が海を渡れぬとかいふ如き、天然の束縛はむろんあるが、その他の束縛は少しもない。珊瑚や苔蟲の如き群體をなす動物では個體の身體が皆互に連絡し、全群體が恰も一疋の如くに生活して、各個體はたゞその一部分として働くから、これまた特に束縛と名づくべきことは起らぬ。また蟻や蜂の社會では、各個體の神經系がたゞ團體生活にのみ適するやうに發達し、身體は相離れて居ても生活上には各社會が全く完結して、恰も一個體の如くに働くから、大なる束縛が行はれて居ながら、何らの束縛ともならぬ。たゞ多くの鳥類・獸類の群集の如き場合には、各個體には個體を標準とした生存競爭に勝つべき性質が發達し、これが相集まつて力を協せんと務めて居るのであるから、各個體には自分を中心とした慾があり、他と力を協すには多少この慾を抑へねばならぬ。團體をなして生活するために各個體が行動を束縛せられるのはこのような類に限ることである。
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