耳嚢 巻之六 犬の堂の事
犬の堂の事
烏丸(からすまる)光廣卿の狂歌とて、人のかたりけるは、
はるばるといぬの堂より見渡せば霞か船の帆へかゝるなり
といへるが、犬の堂といへるは、何所なりや不知過(しらずすぎ)にしに、予がしれる何某(なにがし)、大和廻りして物語りに、丹後の成合(なりあひ)の最寄(もより)に、犬の堂といへるあり、彼(かの)所に飼(かひ)置ける犬、主人の病氣重き節、觀音へ日々參りて主人の病は愈(いえ)ぬ、依之(これによつて)彼家にて、右犬を愛養して、斃(たふれ)し後のち)右の處に埋(うづ)め、堂抔たてゝ、いつとなく犬の堂と唱へしが、年を經、今も犬の堂とて、海上を見渡し絶景の場所のよし。彼是考合(かれこれかんがへあは)すれば、光廣卿の歌も、此犬の堂を詠(よめ)る興歌(きようか)なるべしと、しられたり。
□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせないが、二つ前の「有馬家蓄犬奇説の事」と犬譚で連関。狂歌シリーズ。根岸殿はかなり狂歌がお好きと見える。彼自身の詠んだものもきっとあったに違いないのだが。
・「犬の堂」現存しない。現在の京都府宮津市杉末(すぎのすえ)にあった。戒岩寺(げんざいの呼称はこれであるが、岩波版長谷川氏注には『海岸寺』とあり、Kiichi Saito氏のHP「丹後の地名・資料編」の「杉末(すぎのすえ) 宮津市」に引用する「宮津府志」の引用では確かに『海岸寺』とある。)個人のHP「犬の伝説を訪ねて」の「犬の堂」に、見やすい画像があり、その宮津市教育委員会の解説プレートには(「杉末(すぎのすえ) 宮津市」に引用されてあるものを、「犬の伝説を訪ねて」の「犬の堂」の画像で視認して校訂した)、
《引用開始》
ここに建つ一基の碑は延宝六年(一六七八)時の宮津城主永井尚長(なおなが)によって建てられたもので、碑文は江戸の林 春斎(羅山の子)の作である。
昔、波路(はじ)村戒岩寺が九世戸文殊堂を兼管していた頃、一匹の賢い犬が毎日両寺の間を往来して寺用をたしていた。ところが年老いてその犬が死んでしまったので、僧は犬を憐れんでここに堂を建てて弔い、犬の堂と呼んだ。以来年が経って堂も壊れたので修復して、同時にこの碑を建てたという次第である。
この小丘は虎が鼻といい、宮津から文殊などへ行く道はこの山の尾の上を通っていた。碑も丘の上にあった。かつてはここは天橋立の眺望の場所でもあった。犬の堂という呼称は近世初頭には既にあって、細川時代(一五八〇~一六〇〇)の記録類にも散見する。「細川家記」によれば細川幽斎がここに小亭をいとなみ、犬の堂と名づけて
犬堂の 海渺々と ながむれば
かすみは舟の 帆へかかるなり
と詠んだといい、その子忠興は慶長五年(一六〇〇)十二月九州へ移封の途次、宮津を去るに際し、ここを通る時
立別れ まつに名残は をしけれど
思ひきれとの 天の橋立
と詠んだという。
宮津市教育委員会
《引用終了》
とある。この戦国大名で歌人としても知られた細川幽斎(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)の和歌、本歌に酷似する。烏丸光広は幽斎の和歌の弟子であり、以上の教育委員会の記載から見ても、この歌は実は幽斎が真の作者であろう。
「烏丸光廣」(天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)は安土桃山から江戸初期の公卿で歌人。権大納言。細川幽斎に和歌を学び、古今を伝授されて二条家流歌学を究めた。歌集に「黄葉和歌集」。俵屋宗達・本阿弥光悦などの文化人や徳川家康・家光と交流があった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「はるばるといぬの堂より見渡せば霞か船の帆へかゝるなり」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
はるばるといぬの堂より見渡せば霞は船の帆へかゝるなり
と載る。「帆(ほ)へかゝる」は犬が「吠えかかる」に掛ける。
・「成合」現在の宮津市成相寺。天橋立を南方直下に見下ろす成相山の中腹には西国三十三所第二十八番札所の真言宗成相山成相寺(なりあいじ)が建つが、ここの本尊は聖観世音菩薩である。本文、直線距離では五キロメートルほどであるものの、海を挟んだ対岸であり、今の感覚では「最寄」という謂いはややおかしく感じられる。しかし、そんなことはどうでもよい。実はどうも、この犬が日参したという「觀音」とは、この成相寺の本尊聖観世音菩薩であるように読めるのがいい。日々、天橋立を一匹の犬が主人の病平癒のために往復する姿をイメージすると、何だか、涙腺が緩んでくるではないか。
・「海上を見渡し絶景の場所」犬の堂は天の橋立から南東へ約二キロメートル強離れた宮津湾湾奥の東方の海岸に位置する。
■やぶちゃん現代語訳
犬の堂の事
烏丸光廣(からすまるみつひろ)卿の狂歌とのことで、人の語って御座った歌に、
はるばるといぬの堂より見渡せば霞か船の帆へかゝるなり
というものが御座ったが、この「犬の堂」というは一体、何処(いずこ)にある如何なるものであろうか、訝りつつも、ついつい調べずに済まして御座ったが、この度、私の知人の何某(なにがし)なる者、大和廻りを致いて、その帰府後の物語りに、
「……丹後の成合(なりあい)の最寄りに、『犬の堂』と申す御堂(みどう)が御座っての。……これは何でも、その辺りの者の家に飼いならいておった犬が、主人の病気の重き折柄、畜生の分際ながら、観音へと日参致いたと申す。……さても、主人の病、これ、愈えたによって、かの家にては、その犬を愛(いつく)しみ養のうて、その後(のち)に、犬が亡くなった後(あと)、かの――日々犬が渡って行った天の橋立と、参ったところの成相山(なりあいやま)の見ゆる所に埋葬の上、堂などをも建立致いたと申す。……そうして何時とはなく、これを『犬の堂』と唱うるようになって御座ったとのことで御座った。……年を経ても、なお今も『犬の堂』と称し、これ、海上遙かに天の橋立と成相山を見渡して、まっこと、絶景の場所にて御座った。……」
とのこと。
以上を考え合わすると、光廣卿のこの歌も、この「犬の堂」を詠んだところの、少し軽く興に乗ってお作りになられた和歌ででもあったのであろうと、推察致すもので御座る。