中島敦漢詩全集 二
二
韶光已遍柳絲長
四月庭除氣正爽
紅紫好薰風信子
朱黄奪目鬱金香
花英絢爛如濃抹
嫩綠蒼々似淡妝
誰謂此家無一物
萬金芬郁滿茅堂
〇やぶちゃんの訓読
韶光(せうくわう) 已に遍(あまね)くして 柳絲(りうし)長く
四月の庭除(ていじよ) 氣 正に爽(さう)たり
紅紫 薰(くん)好(よ)し 風信子
朱黄 目を奪ふ 鬱金香(うつこんかう)
花英 絢爛として 濃抹(のうまつ)のごとく
嫩綠(どんりよく) 蒼々として 淡粧(たんしやう)に似たり
誰(た)が謂ふ 此の家(や) 一物(いちもつ)も無しと
万金(ばんきん) 芬郁(ふんいく)として茅堂(ばうだう)に滿つ
〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「韶光」美しい時節、季節。麗しい春の光を指すことが通常である。「韶」は麗しいという意。晩唐の温庭筠の「春洲曲」に景観美を美女の顔色に擬えた次の句がある。
*
韶光染色如蛾翠
綠濕紅鮮水容媚
韶光の染色 蛾翠のごとく
綠濕 紅鮮 水容 媚たり
*
・「遍」あまねく。全面的な。
・「柳絲」柳の枝。枝垂れ柳の枝。
・「庭除」庭前の段、若しくは庭園。
・「氣」ここでは自然界の寒暖や天候などのこと、若しくはその現象を指す。
・「爽」明るく澄んだ、軽い、爽やかな、さっぱりした、心地良いなどの字義があるが、ここでは心地よいというニュアンスが強い。
・「紅紫」紅紫色。古代中国では青・赤・白・黒・黄が原色または基本色とされ、紅紫色は中間色であるため一段格の低い色とされた。このほか、紅と紫、または紅の花と紫の花を指す場合がある。本詩ではこのそれぞれの色の花の意で用いられていると思われる。そもそも「紅」と「紫」の二字は相性が良く、現代中国でも「千紅万紫」といえば子供でも口にする基本単語で、様々な花が咲き乱れる様子を言う。
・「薫」草花の薫り。
・「風信子」ヒヤシンス。名はギリシャ神話の美青年ヒュアキントスに由来するという。中国名もその音に由来するものと推測される。中国で栽培が始まったのは十九世紀末で、現代中国では子供でも必ず知っている名詞であるが、伝来が新しいため、古典詩歌での用例を見出すことは出来なかった。
・「朱黄」ここでは前句の「紅紫」と対をなして、単に朱や黄という意で用いられているものと思われるが、「朱黄」とは本来、中国で書籍の校注を行う際に用いられた、朱と黄の二種類の顔料であり、そのイメージが推敲され完成された詩文の如き彫琢の美、というニュアンスをも匂わせているのかもしれない。
・「奪目」文字通り目を奪うこと。
・「鬱金香」チューリップ。「風信子」と同様、現代中国では子供でも必ず知っている名詞。但し、用例は古く、唐代にまで遡ることが出来る。前句の「風信子」と対を成す。
・「花英」花、花の芽、蕾。この場合は花そのものを指すのであろう。
・「絢爛」色彩の美しさが人の目を奪うこと。
・「濃抹」厚化粧。蘇軾の有名な七絶「飮湖上初晴後雨」(湖上に飮み初め晴るるも後に雨ふる)に、
*
欲把西湖比西子
淡粧濃抹總相宜
西湖を把(も)ちて 西子と比せんと欲せば
淡粧 濃抹 總(すべ)て相ひ宜(よろ)し
[やぶちゃん訳:
西湖を以って西施と比せんとしようとならば
薄化粧にても濃いそれにても――
即ち、晴れようが雨降ろうが――
これ、何れもなかなかに相応しい――]
*
とある。この「淡粧濃抹」はそのまま(「妝」は「粧」の正字)対としてこの詩に現れる。この蘇軾の詩を受けたものと考えて間違いない。
・「嫩綠」出たばかりの木の芽のような浅緑色。黄緑。前句の「花英」と対を成す。「嫩」は若い、みずみずしく柔らかいという意味で、現代中国でも常用語である。
・「蒼々」白みがかった灰色なさま。広々として果てしないさま。
・「淡妝」薄化粧。「妝」は「粧」の正字。前句の「濃抹」と対を成す語。「濃抹」の項を参照のこと。
・「無一物」物が何もないこと。用例は古くに遡ることが出来る。晩唐の杜牧の「冬至日寄小侄阿宜詩」(冬至の日、小侄の阿宜に寄する詩)に次の句がある。
*
第中無一物
萬卷書滿堂
第中(だいちう) 一物(いちもつ)無く
萬卷の書 堂に滿つ
[やぶちゃん訳:
我が家の中(うち)には、まあ、これといった物は御座らぬが、
そうさな、万巻の書だけは、これ、書庫を埋めつくして御座るよ。]
*
また蘇軾の「涵虚亭」には次の句がある。
*
惟有此亭無一物
坐観萬景得天全
惟だ此の亭有りて 一物(いちもつ)無し
坐して観る 萬景 天全を得るを
[やぶちゃん訳:
(「虚を涵(ひた)す」という名のこの涵虚亭は)
見るところ、ただの一亭あるのみにして、他には一物もない。
ただ座して観る――
この天下の総ての景観と――
その遍(あまね)き風情を――]
*
・「萬金」多くの金銭。若しくは、この上ない価値がある、非常に得がたい、という意。ここでは勿論、後者。
・「芬郁」「芬」は香り、「郁」は濃い様子を表わす。即ち、香りが濃いさま。因みに、「郁」は「鬱」と通じる字であり、ここでは代用が可能である。両字とも同じ発音を持ち、盛んに濃く繁るさまを表わしている。
・「茅堂」草葺、茅葺の建物。自邸を卑下した表現。
○T.S.君による現代日本語訳
麗しい春の光は世界に満ちあふれ、柳の枝もさし出ずる。
四月の庭の心地良さよ……
紅 紫 朱 黄 ――
風信子(ヒヤシンス) ――
鬱金香(チューリップ) ――
花の色の絢爛は、まるで麗人のあでやかな化粧。
木の芽の浅緑は、さながら佳人の控えめな薄化粧。
この家に何もないなどとは、もう誰にも言わせぬ。
値(あたい)千金の花 ――
濃厚な香 ――
ほら! もう息苦しいほどだ!
〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
またしても規則を忠実に守った謹厳な七律。「長chang2」「爽shuang3」「香xiang1」「妝zhuang1」「堂tang2」 が脚韻を踏み、第二聯、第三聯がそれぞれ明らかな対句によって構成されている。
詩情や詩意の推移で見ても、詩人が羽目をはずすことはない。第一聯から第三聯に向かい、少しずつ情緒が高揚していく。しかし詩人は最後までマナーを失わない。漢学を専門に修めた彼の、漢詩に対する当然且つ最低限の作法を、私はここに感じる。内心は恐らく大いに高揚していると推測される第三聯でも、落ち着き払ったまま、蘇軾を踏まえた対句を披露する。そして最終聯では、気分は高揚したまま、しかし声を張り上げることもなく、反語を用いた伝統的かつ堅実な手法で総括を行う。
しかしこの詩の生命は、以下の仕掛けによって窺える、一種どうしようもない詩人内面の衝動にある。
まず、色彩である。様々な色彩の盛り付けと彩度の高さも印象的だ。「光」「爽」という字を先陣に背景画を準備したその直後、「紅」「紫」「朱」「黄」と立て続けに繰り出し、その上「金」まで貼りつける。それだけではない。ここまででさえ目くるめく原色の洪水に驚く読者に対して、これでもかと言わんばかりに、さらに「緑」や「蒼」まで惜しげもなく見せつける。こんな大胆なことをしていいのだろうか。私は戸惑ってしまう。
次に、音である。中国語で朗誦してまず気づくことは、音としての明るさや躍動感だ。全編の中国語発音を記して見よう。
韶光已遍柳絲長 shao2guang1yi3bian4liu3si1chang2
四月庭除氣正爽 si4yue4ting2chu2qi4zheng4shuang3
紅紫好薰風信子 hong2zi3hao3xun1feng1xin4zi3
朱黄奪目鬱金香 zhu1huang2duo2mu4yu4jin1xiang1
花英絢爛如濃抹 hua1ying1xuan4lan4ru2nong2mo3
嫩綠蒼々似淡妝 nen4lv4cang1cang1si4dan4zhuang1
誰謂此家無一物 shui2wei4ci3jia1mu2yi2wu4
萬金芬郁滿茅堂 wan4jin1fen1yu4man3mao2tang2
脚韻字に共通な発音、すなわち口を大きく開けた“ang” (アン)という開放的な音の効果は大きい。脚韻だけではなく、所々に配されたa音も効果的だ。朗誦する者は、冒頭のaoとuangのa音に始まり、その後色とりどりの母音を辿る。そして折に触れて何度か基調音aに帰り、その都度明るい陽射しを確かめることになる。まるで詩意にある様々な色彩を、音で奏でているようだ。
詩意と音がなぜここまで同期するのだろうか。詩人が念入りに仕組んだのだろうか。いや、そうではなかろう。彼は中国語音にはそれほど通じていなかっただろうから。ではなぜだろう。私は思う、数千年という長い時間をかけて発酵し蒸留された漢語は、その義と音が、実にたくみにブレンドされているからなのだ、と。
それにしても強烈な詩である。詩人は只管一途に絢爛な世界を追い求めている。息をついて涼しい風の音にじっと耳を傾ける長閑な余裕はない。原色の絵の具をキャンバス上のそこかしこに置いただけのような、息詰まる豪華な色の饗宴。明らかに詩人は意識して創っている。門外漢乍ら、今までの伝統的な漢詩の世界に、こんな光彩の幻暈が果たしてあっただろうか。
ただひとつ気になることがある。豪華な春は確かに、ある。しかし、錯覚だろうか。私は、どこか詩人が、自分で自分を駆り立てているような気がするのである。そしてそこに、微かだが、ある種の傷ましさを感じてしまうのである。
具体的に申し上げよう。第三聯の末尾まで来ると、あなたはどことなく息切れを感じはしまいか? 花の香りや草いきれに、ほんの少し息が詰まるような気がし始めはしないか? あまりの色彩の洪水に目がチカチカと痛むような錯覚が起こらないか? そうして、自然体の花園には必ず現れるはずの「陰影」が、ここには、全く見られないことに違和感は覚えないか?
詩人は思い切り自らの豊穣を、幸福を、輝きを、自分のためだけに、前のめりになって謳っている……。
ご覧……
赤や黄色や紫や
ヒヤシンスにチューリップ
――春がきたぞ! 春まっさかりだ!
あでやかな花も、可憐な新芽も
私の内に! ほらこんなに豊かに!
――春がきたぞ! 春まっさかりだ!
最後に。近代中国における建築家にして詩人の林徽因(りんきいん Lín Huīyīn リン・フイイン 一九〇四年~一九五五年)の非常に有名な詩を、蛇足を承知で敢えてここにご紹介したい。それは、「四月」、「花」、「嫩」など共通の言葉に敏感に反応してしまったからだけではない。四月の豊穣と充足を詠んだ詩境として、本詩と比較してみたいからである。もちろん男性と女性の感性の違いはある。歌う対象が異なるということもあろう(彼女が本詩で詠んだ対象(モチーフ)は、花ではなくて恋人であるとも、或いは自らの嬰児であるとも推測されている)。しかし私は、詩境の差異に、自分からアクセルを踏む中島敦をどうしても感じてしまうのである。もしも仮に、中島敦が自己防衛と自己再評価のために本詩をものしたのであれば、私はなおのこと、この林徽因の詩を、中国女性からの優しさ溢れる「返歌」として、冥界の彼に読んでもらいたいと思うのである。
你是人間的四月天
―― 一句愛的賛頌
林徽因
我説你是人間的四月天
笑響点亮了四面風;軽霊
在春的光艶中交舞着変。
你是四月早天裡的雲煙、
黄昏吹着風的軟、星子在
無意中閃、細雨点洒在花前。
那軽、那娉婷、你是、鮮妍
百花的冠冕你戴着、你是
天真、荘厳、你是夜夜的月圓。
雪化後那片鵞黄、你像;新鮮
初放芽的緑、你是;柔嫩喜悦
水光浮動着你夢期待中白蓮。
你是一樹一樹的花開、是燕
在梁間呢喃、――你是愛、是暖、
是希望、你是人間的四月天!
§
あなたは麗しい四月の空
――愛への賛歌
林徽因 T.S.日本語訳
ああ、あなたは麗しい四月の空
あなたの笑い声は精霊を目覚ませ
春の柔らかな光にステップを踏ませる
あなたは四月の空に浮かぶ雲
黄昏の柔らかい風を吹かせ
星を瞬かせ
軽い雨を花に注ぐ
すらりとした身軽なあなたは、
あでやかな花の冠を戴く
あなたは無邪気で厳かで
夜毎に浮かぶまあるい月
あなたは、まるで雪が解けたあとのクリーム色
あなたは若芽の緑色
あなたは柔らかな悦び
きらめく水の上に揺れる夢の白蓮の花
あなたは木に咲く花
梁の上にさえずる燕の子
――愛、あたたかさ、希望
そう、あなたは麗しい四月の空!
§