耳嚢 巻之六 領主と姓名を同ふする者の事
領主と姓名を同ふする者の事
上總國玉崎(たまさき)明神の神主を加納遠江(かなふとほたふみ)と云(いひ)て、不葺合(ふきあへず)の尊(みこと)より統等(とうなど)永く侍りし由。當時右村は加納遠江守領分の由、人の咄(はなし)ける故、領主と姓名を同(おなじ)ふすべき謂(いは)れなし、疑敷(うたがはしき)もの語りなりとなじりけるに、いやとよ、神主も代々右の通り名乘(なのり)、領主にても許容ありて其通り濟來(すみきた)る由申(まうし)ぬ。折あらば、加納家に尋問(たづねとは)んと思ひぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:前話の報告者は「上總出生の者」とあり、同一ソースの可能性が高く、連関すると言える。
・「上總國玉崎明神」現在の千葉県長生(ちょうせい)郡一宮町一宮にある上総一宮玉前(たまさき)神社。ウィキの「玉前神社」によれば、現在、祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)で、彼女は海からこの地に上がって、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)に託された鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を養育したが、後に二人は婚姻、初代の神武天皇らを産んだとされる、とあり、更に「延喜式神名帳」を始めとする文献上では『祭神は一座とされているが、古社記には鵜茅葺不合命の名が併記されている』とある。底本の鈴木氏注に、三村竹清氏の注を引いて、『三代実録に授位の事を記せば某旧社たる知るべしとなり、八月十三日大祭にて神輿渡御し、来賽者群集すといふ。』とその参詣の盛況を記す(但し、同神社の公式サイトの記載によれば、現在の例祭は九月十三日に行われている(恐らく新暦を旧暦に読み替えたものであろう)。「上総十二社祭り」または「上総裸祭り」といわれる裸祭りで千葉県の無形民俗文化財に指定されている)。
・「加納遠江」同神社の公式サイトの神職紹介には、現在、「加納」姓や「遠江」の名の方はおられない。
・「不葺合の尊」火火出見尊(ひこほほひでのみこと:山幸彦。)と海神の娘である豊玉姫の子。「古事記」では天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、「日本書紀」では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と表記される。参照したウィキの「ウガヤフキアエズ」には、海神という『異類の者と結婚し、何かをするのを見るなとタブーを課し、そのタブーを破られて本来の姿を見られて別れるという話は世界各地に見られる。日本神話でも同様の説話があり(神産みの黄泉訪問説話など)、民話でも鶴の恩返しなどがある。また、この類の説話では、異類の者との間の子の子孫が王朝・氏族の始祖とされることが多い』とし、『天皇につながる神は皆「稲」に関する名を持つが、日子波限建鵜草葺不合命だけが稲穂と無関係であり、この理由には諸説がある。ウガヤフキアエズの事績の記述はほとんどないため、山と海の力が合わさったこの神により、天皇が山から海まで支配する力を表そうとの意図で、後世に作られた神であるとする説もある。ウガ(ウカ)を穀物とする説もある』とある。
・「加納遠江守」加納久周(ひさのり 宝暦元(一七五一)年~文化八(一八一一)年)。天明六(一七八六)年に養父久堅が死去したため、家督を相続して伊勢八田藩第三代藩主となったが、当時の陸奥白河藩主松平定信の信任が厚く、翌年に定信が老中首座となると、側衆となって定信を補佐して寛政の改革の推進に貢献した。同天明七年、大番頭を兼務し、遠江守に転任、上総一宮藩加納家三代となった。伏見奉行などを務めた。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月、彼の没年までは余り時間がない(根岸の逝去は文化一二(一八一五)年十二月四日)。果たして根岸はこの真否を彼に尋ね得たのであろうか?……はい?……そんなつまらないことが気になりますんでね。僕の悪い癖です……
■やぶちゃん現代語訳
領主と姓名を同じゅうする者の事
上総国玉崎(たまさき)明神の神主を、
――加納遠江(かのうとおとうみ)
と言うて、不葺合尊(ふきあえずのみこと)の代より、正当な神職名として、これ、永く名乗っておる由。
当時、この神社の建つ村は、上総一宮藩にて、
――加納遠江守久周(ひさのり)殿
の御領分で御座った。
さる人物が以上の話を致いたゆえ、
「……領主と、これ、姓名官位ともに同じゅうしてよいという謂われは、あるまい。……幾ら何でも、それはまた、疑わしき話しじゃが……」
と批難したところが、
「いやいや! 神主もこれ、代々、右の通り名乗り、御領主からも正式な許容の御座って、その通り、今までも、何のお咎めものう、済みおいて御座ること、これ、間違い、御座らぬ。」
と申した。
さても、折りあらば何時か、加納家の方に尋ね問うてみようとは、思うて御座る。