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2013/03/11

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 丸山稻荷 新宮六木杉

   丸山稻荷 新宮六木杉

 

十二院は鶴が岡の西の方(かた)にあり。社僧(しやそう)なり。古へは二十五院ありしとなり。この内(うち)、莊嚴院(しやうごんいん)の後ろの山を狻踞峯(さんきよほう)といふ。山亭(さんてい)あり、この處(ところ)より見わたし、風景、いたつてよし。この邊りに丸山稻荷の宮(みや)あり。これも景致(けいち)なり。

〽狂 みな人へ

りせうを

 てらし玉ふ

     とて

月のまる山

 いなり

  たうとき

「儂(わし)は腹がへつてこたへられぬが、晝食(ちうじき)の握り飯を、さつき、何處(どこ)へかおとしてしまつた。ひもじくてならぬ。なんと、貴樣の握り飯を俺(おれ)に一つ、くれぬか。なに、もふ、皆、くつてしまつてない、といふか、噓(うそ)をつくの、貴樣は、しわい男だ。まだあることを俺がしつてゐるから、いふのだ。いよいよ、ないか。なくば、仕方がないから、俺がかくしてあるのを出してくひませう。人の腹のへつたのはこらへられるものだが、わが腹のへつたのは、どうも、こらへられぬ。」

新宮(しんぐう)の社(やしろ)は、坊中(ぼうちう)、我覺院(がゝくいん)の社より左の方(かた)へ二丁ばかりにあり、今宮(いまみや)といふ。社の後ろは谷ふかく、一本のふるき杉(すぎ)あり。大木(ぼく)にして根元(ねもと)より六本(ほん)にわかれ、そのたかきこと、十餘丈、径(わたり)三尺の老木(らうぼく)なり。

〽狂 見とれては

 うてうてんぐの

すみかともしらずに

 杉(すぎ)の古木(こぼく)なが

               むる

「この六本杉には、天狗(てんぐ)がすんでゐるときいたが、なるほど、見なさい、あれあれ、天狗の雛(ひよこ)が見へる。しかし、鳶(とんび)かしらぬ。天狗にしては鼻がひくいやうだ。」

「それはまだ、子どもだからのことさ。だんだん、成人(せいじん)するにしたがつて、あの鼻も大きくなるであらう。てうど、儂が鼻も、始めは唐辛子(とうがらし)の樣(やう)であつたが、だんだんとそれが、薩摩芋(さつまいも)の樣になつて、後(のち)には練馬(ねりま)大根(こん)のやうになつたが、今では、また、皺(しわ)がよつて、干(ほし)大根の樣になつたからはじまらない。」

[やぶちゃん注:「丸山稻荷」は鶴岡八幡宮境内の末社。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。現在の本殿西側の小さな丘の上に鎮座する。社伝によれば、建久二(一一九一)年の本宮造営の際に、現在の本宮の敷地内にあったものを、場所を譲って現在地に遷ったもので、古来からの地主神であるとする。本宮は山腹をかなり大きく切り崩して創建されたものであるが、この丘はこの地主神の神座(かみくら)として残ったものと思われる(以上は白井永二編「鎌倉事典」の「丸山稲荷社」の項を参考にした)。

「新宮六本杉」は「しんぐうろくほんすぎ」と読みを振る。この杉は現存しない。「新宮」は鶴岡八幡宮後方の雪下東谷にある境内外末社の今宮のことで、祭神は後鳥羽・土御門・順徳の三天皇。当初は承久三(一二二一)年の承久の乱で隠岐に流されて配流のまま没した後鳥羽院の怨霊を鎮めるために宝治元(一二四七)年に創建されたもの。「今宮」という名称には「新しい宮」という意味があることから「新宮」とも称した。室町時代にかけて別当職が置かれ、神領を有していた。この社の後ろにかつて一つの根から六本に分かれた六本杉と呼ばれた大木があったが、本笑話にも出る通り(本話は珍しく笑談の中で名所が巧みに解説されている)、この六本杉には天狗が住みついていたと言い伝えられていた(以上も白井永二編「鎌倉事典」の「今宮」の項を参考にした)。

「十二院」「古へは二十五院」雪ノ下に鎌倉時代から江戸時代まで存在した寺院、鶴岡二十五坊のこと。治承四(一一八〇)年十二月四日に鎌倉入りしたばかりの頼朝が僧定兼阿闍梨を上総国より召して最初の鶴岡供僧職に任じたのを濫觴とし、二十五坊が揃ったのは建久八(一一九七)年頃と推定されている。その後、室町になって鎌倉公方足利持氏が没した永享一一(一四三九)年頃より衰退し始め、成氏が古河へ去った後にいよいよ衰微し、天文初年(一五七三年)頃には七ヶ院にまで減じた。以下に二十五院を示すが、その内で頭に「〇」を附したものが、徳川家康によって文禄年間(一五九二年~一五九六年)に徳川家康が五坊を再興して十二坊となった。これが明治初年の廃仏毀釈まで存続した十二院である。

〇善松坊(香象院)・〇林東坊(荘厳院)・〇仏乗坊(浄国院)・〇安楽坊(安楽院)・ 座心坊(朝宝院)・〇千南坊(正覚院)・〇文恵坊(恵光院)・〇頓覚坊(相承院)・〇密乗坊(我覚院)・〇静慮坊(最勝院)・〇南禅坊(等覚院)・永乗坊(普賢院)・悉覚坊(如是院)・智覚坊(花薗院)・円乗坊(宝瓶院)・永厳坊(紹隆院)・実円坊(金勝院)・〇宝蔵坊(海光院)・南蔵坊(吉祥院)・慈月坊(慈薗院)・蓮華坊(蓮華院)・〇寂静坊(増福院)・華光坊(大通院)・真智坊(宝光院)・乗蓮坊(如意院)

鶴岡二十五坊については新編鎌倉志一」の「鶴岡八幡宮」の最後の方の十二箇院についての私の注で詳述してあるので参照されたい。また、廃仏毀釈時の様子などはウィキの「鶴岡二十五坊がよく解説しているのでお読み頂きたい。

「莊嚴院」林東坊。これは最も東谷の最も奥まった位置にあった。新編鎌倉志一」の私の注にあるs_minaga 氏の「相模鶴岡八幡宮大塔」から拝借した「鎌倉八幡宮社僧十二院図」と同氏の航空写真による幾つかの院の同定画像を参照されたい。

「狻踞峯」位置は何となくわかるが、現在、この呼称は失われているように思われる。ここが相応の観光地であったことが分かるが、まさに廃仏毀釈によって、今や全くの夢の跡となってしまったのであった。

「景致」「致」は趣きの意で、景色の有り様、山水風物の趣き(のよい)こと。景勝地。

「りせう」利生。「衆生利益(しゅじょうりやく)」の意。仏・菩薩が衆生に利益を与えること。また、その利益。

「十餘丈」三十メートルを遙かに越える高さ。]

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