耳嚢 巻之六 幻僧奇藥を教る事
幻僧奇藥を教る事
小石川寂圓寺の住僧の坊守の里なる、くらやみ坂の由、寺僧等の名も聞(きき)しが忘れたり。※症にて言舌不分(わからず)[やぶちゃん字注:「※」=「疒」+「中」。]、手足痒(やま)へてなやみ、五年ほど以前なりしが、百計醫藥すれども其驗(しるし)なし。或夜眠(ねむり)さめしに、雨戸少しあきし所より、丈(たけ)六尺斗(ばかり)の僧立入(たちいり)て、汝が病ひ難儀なるべし、是を治(ぢ)せんと思はゞ、千葉の賣藥を用ひば快氣するべしといひしが、右は小兒の藥なれば、中症(ちうしやう)にしるしあるべしとも思わざるに、(彼(かの)僧は元の處より出行(いでゆき)、心にも不止(とどめず)一兩夜過(すぎ)しに、又ある夜)彼僧來りて、汝わが申(まうす)處を疑ふや、呉々(くれぐれ)も千葉藥(ちばがくすり)を調へ飮(のむ)べしと憤り叱りしゆゑ、心得しと答へぬれば、又元の所より立出(たちいで)しが、跡をしたひて見ければ、庭の内に少しの石垣ありし所にてかたちを見失ひぬ。さて捨置(すておく)べきにあらざれば、人して千葉が鄽(みせ)へ至り藥を需(もと)め、此藥は小兒のみの藥やと尋けれは、小兒のみならず老人などは用ひて功ありと云へるゆゑ、害もあらざらんと彼藥を用ひしに、果して其功を得、物言ひも追々相(あひ)分り、歩行も一里斗りの所は杖によりて行(ゆき)通ふ樣になりし由。文化元子年四(ぶんかがんねんねの)五月は、また煩付(わづらひつき)て、此度はとても活間敷(いくまじき)と、彼寂圓寺の旦緣(だんえん)なる人語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。天狗のような妖僧に纏わる都市伝説の類いであるが、実際に市販されている薬物を用いている点が特異で、これは一種の宣伝効果を狙ったその薬種屋がちゃっかりでっち上げた、小児薬が老人性疾患にも効果があるという噂(但し、実際に効いた可能性もプラシーボ効果を含めて否定は出来ない)なのかも知れない。各種の薬物・健康食品・サプリメントの流行る現代にあっては、我々はこの話を荒唐無稽と笑い飛ばすことは、これ、出来ぬ。
・「教る」は「をしふる」と訓ずる。
・「寂圓寺」東京都文京区白山に現存する浄土真宗東本願寺派法輪山寂圓寺(現在も「圓」と書く)。寛永一二(一六三五)年に将軍家光の代に三河の武家衆の檀信徒によって神田緒弓町組屋敷内に開基されたが、貞享五(一六八八)年に幕命により小石川原町の現在位置に移転した。万延元(一八六〇)年には町衆も合わせて檀信徒は三百人に達した(以上は「寂圓寺」公式HPに拠った)。
・「寂圓寺の住僧の坊守の里なる、くらやみ坂の由」底本には左に傍注して、『(專經關本「寂圓寺の僧くらやみ坂のよし」)』とある。「坊守」は坊主と同じであろう(岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『坊主』である)。「くらやみ坂」は寂圓寺直近では文京区白山五丁目の暗闇坂であるが、「坊主の里なる」が必ずしもここに同定出来ない微妙なところではある。岩波版長谷川氏注には「江戸の坂東京の坂」『に別称を入れて十二箇所をあげる』とある。しかし、ここは文脈から寂圓寺の位置を述べたともとれないことはない。現代語訳はそう採った。
・「※」(=「疒」+「中」)は「廣漢和辭典」にも所収せず、不詳。文字面と後文にある「中症」及び言語障害や四肢の運動機能障害(但し、これは末梢神経障害と私は見る)からは中風若しくは中風様の症状を指すかと思われる。
・「千葉の賣藥」底本の鈴木氏注は、『中橋の千葉家で売った婦人血の道の実母散のこと。千葉ぐすり』とあるが、岩波版長谷川氏注は、『四谷塩町の千葉の小児丸。小児五疳の薬』とされる。どう考えても長谷川氏に軍配が挙がる。
・「痒へて」「痒」は「やむ」(病む)と訓ずることが出来る。
・「(彼僧は元の處より出行、心にも不止一兩夜過しに、又ある夜)」底本には左に『(尊經閣本)』からの補填である旨の傍注がある。
・「庭の内に少しの石垣ありし所にてかたちを見失ひぬ」の部分、その石垣をアップにして仔細を語らないのが惜しい。そこにこの妖しい僧の正体を説く鍵があったかも知れないのに。残念至極! その方が都市伝説としては面白くなること請け合いであるから、この辺りにこそ逆に、本話が単なる都市伝説なのではなく、まさに「千葉の小児丸」の販売促進策の一環であった疑いを濃厚に感じさせるのである。
・「文化元子年四(ぶんかがんねんねの)五月」読みは私の勝手な推測である。文化元年甲子(かのえね)は西暦一八〇四年で、二月十一日に享和四年から改元した。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、またしても二ヶ月前の出来たてほやほやのアーバン・レジェンドということになる。
■やぶちゃん現代語訳
妖しい僧が奇薬を教えた事
小石川――かの暗闇坂近くの――寂圓寺の住僧の体験したことと申す(その寺僧などの名も聞いて御座ったが、残念ながら失念致いた)。
この僧、中風の症状が出でて、その言語も不明瞭、手足も病んで不自由となって御座った。
その発症は五年ほど以前に遡る。あらゆる施術・療治・投薬を試みてはみたものの、その効果は全く見られなんだと申す。
ところが、ある夜のこと、かの僧、ふと眠りより醒めたかと思うたところが、僧坊の雨戸が少し開いており、そこから身の丈け、これ、六尺ばかりもあろうかという、一人の奇怪な僧が僧内へと立ち入って参り、
「……汝が病いはこれ、難儀なることであろう――これを治癒せんと思はば――これ、千葉の売薬を用いたならば――瞬く間に快気するであろうぞ。……」
と告げて、元の狭(せば)っこい雨戸の隙から出でて行ってしもうた――と思うた――ところで本当に目(めえ)が醒めた、と申す。
[根岸補注:後に僧は、この時、内心にてはその告げられた薬が知られた小児の万能薬であってどう考えてみても中風に効こうとは思われなかった、と述懐したと言う。]
僧は、
「……おかしな夢じゃ。」
と心にも止めず、一両日が過ぎた。
が、またしてもある夜、かの僧が来たって、
「……汝、我が申す謂いを、これ、疑うかッ!――くれぐれも! 千葉が薬を買い調えて飲まずばならずッ!!」
と、これ、ひどく憤って叱りつけたによって、
「……こ、心得まして御座るッ!……」
と、平身低頭致いて肯んじたと申す。
妖僧はまたしても、例の雨戸の隙まより立ち出でて去(いん)だが、かの僧、こっそりとその跡をつけて見たと申す。
ところが、庭内――ちょっとした石垣が御座ったが、そこ――で姿を見失(うしの)うてしもうたと申す。
さても、かくなっては捨て置くわけにも参らずなったによって、足も不自由なれば、人に頼んで千葉の薬種屋へと行って貰い、かの「小児丸」を買い求めたが、その際、使いの者が、
「この薬は小児にのみ薬効のあるものか?」
と訊ねたところが、番頭の曰く、
「商標と致しまして『小児丸』と名打っては御座いまするが、これ、小児のみならず、老人などが用いましても十分に効が御座います。」
と請けがったゆえ、それを又聞き致いたかの僧も、
「……まあ、小児の薬なれば、害もあるまいて。」
と、かの薬を服用致いたと申す。
すると、果して、自分でも吃驚するほどの効果が得られ、かつては発声の不明瞭さゆえに、ようわからなんだ、その物言いも、これ、おいおい、誰にもよう解るように相い成なって参り、また、歩行の方も、これ、一里ばかりの所ならば杖を用いて行き通えるほどになったと申す。
[根岸補注:但し、文化子(ね)の元年の四、五月頃からは、また患いついて、今度ばかりは、残念ながら救命は難しかろう、との話であった。]
以上は、私根岸の補注情報も含めて、寂圓寺の檀家で御座る御仁の直談で御座る。