北條九代記 實朝讀書始 付 勢州の一揆對治
○實朝讀書始 付 勢州の一揆對治
建仁四年改元ありて元久元年とぞ號しける。將軍實朝、從五位下右近衞少將に任ぜらる。正月十二日、讀書始め。先(まづ)孝經を讀ましめ給ふ。相摸守中原仲業(なかなり)、侍讀(じどく)たり。この人はさせる文才(もんさい)の譽(ほまれ)なしといへども、諸史(しよし)百家の書を集め、粗(ほぼ)九流(きうりう)の義に通ぜし故なり。その日、砂金(しやきん)五十兩、劍(けん)一腰(こし)を賜ひけり。同四月、平氏の餘黨雅樂助(うたのすけ)平維基(これもと)が子孫等(ら)、伊賀國に起り、中宮(ちうぐうの)長司度光(のりみつ)が子息等、伊勢國に起り、一族郎從、諸方より集(あつま)る。兩國の守護山内首藤(すどう)刑部丞經俊、子細を尋(たづね)んと擬(ぎ)する所に、合戰を企つる。經俊、無勢にて叶(かなひ)難く、館(たち)を開(あ)けて逃亡す。凶徒、二ヶ國を掠(かす)め、鈴鹿の關を切塞(きりふさ)ぎ、勢州に六ヶ所の城郭を構へ、これより隣國に打出んとす。京都の守護武蔵守源朝雅(ともまさ)、軍兵を催し、美濃國より廻りて、進士三郎基度(もとのり)が朝明郡(あさけのこほり)富田(とみだ)の館(たて)に押寄(おしよせ)て、一時の間に攻(せめ)ほし、三郎基度、同舍弟松本三郎盛光、同四郎、同じき九郎、其外雜兵(ざふひやう)二百餘人を討取て安濃郡(あののこほり)に打越え、岡(おかの)八郎貞重父子、郎從八十餘人を討取(うちと)り、其より多氣(たきの)郡に討入りて、莊田(しやうだの)三郎佐房(すけふさ)、同嫡子師持(もろもち)以下が首を切(きり)掛け、河田刑部太夫を生捕りたり。朝雅が猛威、此所(ここ)に於て盛なり、一揆の張本若菜(わかなの)五郎が城郭、勢州日永(ひなが)、若松、南村、高角(たかど)、關(せき)、小野(をの)に籠(こめ)置きたる軍兵等、朝雅が武勇におそれて、皆、落失せたりければ、兩國、幾程(いくほど)なく平(たひら)ぎけり。朝雅に勸賞(けんじやう)行はれ、伊勢國の守護職に補(ふ)せられ、首藤經俊は本職を改補(かいふ)せらる。武蔵守朝雅は北條時政の婿なり。其妻は牧御方(まきのおんかた)が腹の娘なりければ、殊更に權威を振ふ事、誰(たれ)か是に勝(まさ)るべき。
[やぶちゃん注:実朝の読書始は「吾妻鏡」巻十八の元久元・建仁四(一二〇四)年一月十二日の条に、伊勢国と伊賀国で平家の残党が蜂起した三日平氏の乱(建仁三(一二〇三)年十二月に伊勢平氏の若菜盛高らが蜂起し、討伐に向かった鎌倉幕府軍の平賀朝雅が建仁四年(一二〇四)年四月十日から十二日の間に反乱軍を鎮圧した事件)と、彼が戦後の論功行賞で伊勢守護職となる下りは同年三月九日、四月二十一日、五月六日及び十日の条に基づく。
・「相摸守中原仲業」先の梶原景時弾劾事件で景時に遺恨を抱く者の内で文筆に秀でる故に訴状の執筆が依頼された人物として既出の、政所の役人(発給文書の執筆や地方巡検使節などを務め、頼家の政所始には吉書を清書、実朝期には問注所寄人も兼ねていた)であるが、これは、後に実朝と一緒に命を落とす源仲章(なかあきら、?~建保七(一二一九)年一月二十七日)の誤りである。以下の「吾妻鏡」の建仁四年一月十二日の条で、
〇原文
十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始。相摸權守爲御侍讀。此儒依無殊文章。雖無才名之譽。好集書籍。詳通百家九流云々。御讀合之後。賜砂金五十兩。御劔一腰於中章。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日丙子。晴る。將軍家、御讀書始〔孝經。〕。相摸權守、御侍讀(じどく)たり。此の儒、殊なる文章無きに依つて、才名の譽れ無しと雖も、好みて書籍を集め、詳らかに百家九流に通ずと云々。
御讀み合はせの後、砂金五十兩・御劔一腰(ぎよけんひとこし)を中章(なかあきら)に賜はる。
とあり、「相摸權守」が「中章」(仲章)であることが分かる。源仲章は貴族出身(宇多源氏で後白河法皇の側近であった源光遠の子)の儒学者。参照したウィキの「源仲章」によれば、院近臣の家に生まれて後鳥羽上皇に仕えたが、早くから鎌倉幕府にも通じて在京のまま御家人としての資格を得る。京都では正治二(一二〇〇)年頃から在京御家人としての活躍が記録され、盗賊の追捕や幕府との連絡係を務めた。その後、鎌倉に下って将軍となった源実朝の侍読(御進講役。貴人に学問を教授する学者。また、その職。後世は侍講という。「じとう」とも読む)となった。『京都においては学者としての実績に格別なものは無かったが、博学ぶりにはそれなりの評価があったらしく、学問に優れた人材に乏しい鎌倉においては幼少の将軍の教育係に適した人物とされた。実朝から気に入られた仲章は将軍の御所の近くに邸宅を賜った。その一方で、朝廷の官吏としての地位も保持して、時折上洛しては後鳥羽上皇に奉仕して幕府内部の情報を伝えるなど、今日で言うところの二重スパイの役目を果たした』。『それでも、鎌倉幕府初期の人材不足のためか』、建保四(一二一六)年には政所別当に任ぜられ(当時は二人制で大江広元とともに職務を分担)、一方、官位も相模守から大学頭を経て、建保六(一二一八)年『には幕府の推薦という名目で従四位下文章博士と順徳天皇の侍読を兼務して昇殿を許されるに至った。これは当時の幕府・朝廷双方にとって彼の存在価値が決して低くはなかった事の反映であったと言えるだろう』とある。『だが、実朝の右大臣就任の祝賀の拝賀の日、鶴岡八幡宮において実朝の甥の公暁によって実朝とともに殺害された。一般には執権北条義時と間違えられたからとも言われているが、仲章が持つ二重スパイ的な立場から、彼自身が初めから襲撃の目標に含まれていたのではという説もある』とする。なお、引用元では正式な侍読になった時期を建永元(一二〇六)年頃とする。
「砂金五十兩」しばしばお世話になっている「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注ではこれを現在の金額にして凡そ四百五十万円強と換算しておられる。
「雅樂助平維基」平重盛の嫡男で平清盛の嫡孫である平維盛の子とされる。「雅樂助」は元来は雅楽寮の次官で、正六位下に相当する。
「中宮長司度光」桓武天皇の末裔平良文の子忠光(ただみち)の子。因みに良文・忠光父子は今、私がこれを書きながら背を向けている二伝寺裏山の頂上に眠っている。
「首藤刑部丞經俊」「瀧口三郎經俊斬罪を宥めらる」に既出。事蹟はそちらを参照のこと。
「子細を尋んと擬する所に……」以下、ウィキの「三日平氏の乱」(鎌倉時代)から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『鎌倉幕府は初代将軍源頼朝の死後に内紛が続き、正治二年(一二〇〇年)正月に梶原景時の変を受けて京において建仁の乱が起こるなど、その影響は都にも及んだ。建仁三年(一二〇三年)九月の比企能員の変・二代将軍源頼家の追放によって十二歳の三代将軍源実朝が擁立され、北条時政が実権を握った幕府は十月三日に時政の娘婿平賀朝雅を京都守護として京に派遣し、朝雅は西国に領地を持つ武蔵国の御家人を率いて上洛した』。『一方、伊勢・伊賀地域は治承・寿永の乱で滅亡した平家の本拠地であり、元暦元年(一一八四年)の三日平氏の乱(平安時代)で平家残党の蜂起が鎮圧された後も根絶された訳ではなく、隠然たる勢力があった』(同じ呼称で呼ばれる先行する元暦元(一一八四)年七月から八月にかけて前年の平氏都落ち後に同じく伊賀・伊勢に潜伏していた平氏残党が蜂起した別事件についてはウィキの「三日平氏の乱(平安時代)」を参照されたい)。『平家残党は二十年の雌伏を経て、将軍後継問題で揺れる幕府の動揺に乗じて建仁三年(一二〇三年)十二月、若菜五郎盛高(三日平氏の乱(平安時代)を起こした藤原忠清の次男・平忠光の子)が軍勢を率いて伊勢国の守護である山内首藤経俊の舘を襲撃し、再び反乱の兵を挙げた』。『山内首藤経俊はこの襲撃事件を平氏反乱の兆しとは気づかず、十二月二十五日に侍所別当和田義盛が幕府に事件の張本を伊勢国員弁郡の郡司進士行綱と報告し、翌元久元年(一二〇四年)二月、行綱は召し捕られ囚人とされた。しかし同二月、伊賀で平維基(維盛の子とされる)の子孫らが、伊勢で平度光(忠光の子、盛高と兄弟か)の子息らが蜂起し、両国の守護の経俊が赴いたが問答無用で襲撃され、無勢の経俊は逃亡した。伊勢・伊賀は制圧され、反乱軍は鈴鹿関や八峰山(現在の根の平峠)等を通る道路を固めた』。『この報告を受けた幕府は元久元年(一二〇四年)三月十日、ついで三月二十九日に京都守護の平賀朝雅に京畿の御家人達を率いて伊勢・伊賀両国へ出陣することを命じた』。『京都では反乱軍の勢力は千余人に及ぶとの風聞があり、三月二十一日、後鳥羽院の御所で議定があり、伊賀国を朝雅の知行国と定め、追討の便宜を図った。翌二十二日、朝雅は軍勢は二百騎を率いて出陣した。反旗は伊賀国に翻ったものの、反乱の中心地は伊勢北部の朝明郡、三重郡、鈴鹿郡、安濃郡、河曲郡の諸国および中心の多気郡であった。追討軍は三月二十三日、都を出て征途に上った。反乱軍が鈴鹿関を塞いでいるため、近江国からは入れないので美濃国を経由し、二十七日に伊勢国に入った。作戦を練った上で四月十日から合戦に及び、まず富田基度(曾孫に平親真)が拠る朝明郡の富田舘(四日市市東富田町)を襲い、数時間合戦を続け、富田基度・松本盛光兄弟、安濃郡の岡八郎貞重とその子息・親族等を撃破した。さらに多気郡に進んで庄田三郎佐房とその子師房と戦い、六箇山の平盛時、そして関の小野(亀岡市)に拠る張本の若菜五郎を破った。同十二日、反乱はほぼ三日間で鎮圧され、その後伊賀国の残党も追討された』。『幕府では五月十日に論功行賞が行われ、山内首藤経俊は伊賀・伊勢の守護を剥奪され、朝雅が兼務することとなり、謀反人の所領は朝雅に与えられた。加藤光員も恩賞を受けた』。『平賀朝雅は上北面武士として後鳥羽院の殿上人に加えられ、京都守護、伊勢守護、伊賀知行国主となって御家人としては異例の権勢を強めた』(以下、続くが後の話と重複するので省略する)。なお歴史学者『岡野友彦は平氏側の拠点となった伊賀国六箇山の領家が平光盛(頼盛の子)であった事実と杉橋隆夫が唱えた牧宗親・池禅尼兄弟説(すなわち平賀朝雅の義母牧の方と平頼盛を従兄弟とする)を採用して、この事件を平賀朝雅と平光盛ら池家一族が自己の勢力拡大のために平氏残党を唆して仕組んだ「自作自演」の可能性を指摘している』ともある。
「進士三郎基度」前注の富田基度(とみだもとのり)。「進士」は律令制の官吏登用試験の進士科の合格者である文章生(もんじょうしょう)を言う。
「攻(せめ)ほし」「攻め干す」で、攻め滅ぼすの謂いか。単に「攻滅ぼし」の脱字と誤字かも知れない。
「勢州日永、若松、南村、高角、關、小野」「日永」は現在の四日市市日永で、以下「若松」は鈴鹿市若松、「南村」は四日市市内、「高角」は四日市市高角町、「關」は亀山市関町、「小野」は亀山市小野町に相当する(以上は「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注を参照した)。]