一言芳談 一一三
一一三
心戒上人、四国修行のあひだ、或百姓の家の壁に書付けて云、念佛者ならで、念佛申(まう)して、往生をとぐべし、云々。
〇心戒上人、俗名は宗親。阿州の人也。年たけて世をのがれ、紀の高野にすみ、後、重源房と海をまたげて、宋にゆき、歸朝の後は居所つねなく、あとは風雲によす。(句解)
〇念佛者ならで、人目たゝず、名利をもとめぬなり。是が至誠心(しじやうしん)の念佛にて、外のさはりもなきなり。
[やぶちゃん注:私は三十代の頃から、四国遍路を夢見ていた。しかし、これはどうももう、叶わぬ気がしている。少し、残念な気がしている。
「心戒上人」「朝日日本歴史人物事典」の五味文彦の記載では平宗親(たいらのむねちか 生没年不詳)とする。鎌倉初期の聖で源有仁の流れを引き、平宗盛の養子となって阿波守となるが、文治元(一一八五)年平氏の滅亡とともに遁世、心戒房と称して重源の伝をたどって宋に渡る。帰国後は居所も定めず諸国を流浪、その行動と言談は聖の典型として「一言芳談」に載る、と記す。
「四国修行」現在の四国遍路の原形。ウィキの「四国八十八箇所」によれば、『古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生れた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代がたつにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海』『の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。また、西行の白峰御陵(白峰寺)の参拝、弘法大師遺蹟巡礼や、一遍の影響もあるといわれている。室町時代には僧侶の遍路が盛んにな』った。江戸初期には「四国遍路」という言葉と概念が成立したとされ、この頃には僧侶だけでなく、現在のような民衆による遍歴が始まっている。十七世紀には『真念という僧によって『四国遍路道指南』(しこくへんろみちしるべ)という今日でいうガイドブックが書かれている。手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めたと言われる。修行僧や信仰目的の巡礼者以外にも、ハンセン病患者などの、故郷を追われた、もしくは捨てざるをえなかった者たちが四国遍路を終生行う』職業遍路も『存在した。また、犯罪やそれに類する行為で故郷を追われた者も同様に居たといわれている。もっともこれらの者たちも、信仰によって病気が治るのではないかという期待や、信仰による贖罪であったので、信仰が目的であったともいえる。また、信仰によって病気や身体の機能不全が治るのではないかと一縷の望みをかけ、現代でいう視聴覚障害者や身体障害者が巡礼することも始まった。その後、地区によっては一種の通過儀礼として村内の若衆が遍路に出るといったこともあったとされる』とある。]

