一言芳談 一二九
一二九
同(おなじく)上人云、聖光上人は、談義の最中にも、日中(につちゆう)の時きたれる時は、一文一句をも誦(じゆ)しさして、やがて阿彌陀經をはじめ、禮讃(らいさん)念佛を行じましましき。同聞(どうもん)の聽衆も、心ならず、格別に禮讃をしき云々。
〇談義の最中にも、是を以て知るべし。學問は末(すゑ)にして行法は本(もと)なる事を。誠に後學の模範とするに足れり。學問を好みて、寢食をわするゝ人はあれども、行法を詮として、學問をさしおく人はなし。
[やぶちゃん注:本話は人によっては前話との論理矛盾を云々されるかも知れない。例えば、
――然阿良忠は「一二八」で「六時禮讃の次の念佛」をこそ誠心としたのではないか? それなのにここでは、公的行事としての教学法筵の真っ最中であっても、六時礼讃に決められらた時刻が来ると、聖光上人弁長は、突然それを中断なさって、「阿彌陀經を」誦経し「はじめ」、それが終わると心をこめて「念佛を行じましまし」て御座った――と良忠が六時礼讃に厳格に従った弁長を、如何にも心打たれる懐古しているがいるのは矛盾しているのではないか?――
といった批判である。しかし、そもそもが「六時礼讃」の「日中の時」とは「一二八」に示した通り、午~から未の刻(現在の午前十一時から午後三時頃)という幅の広い時間帯を示す。さすれば弁長は時間を厳格に守ったのではあるまい。それが自分に課したところの絶対的な「日中時の礼讃時間」であったとすれば、厳格を旨とする人間は、そこに他事を決して予定として入れないからである。寧ろ、この講義中断による、突然の高らかな「阿彌陀經」の誦経とそれに続く称名念仏は、弁長自身の内的欲求によって発露された、偶々に「日中時」の「談議の最中」の念仏である、と解する方が遙かに自然である。標註はこれを、既に語り尽くした感のある学問と行法の関係にスライドさせているが、少なくとも私はそのような比喩としてこの条を読まない。誠心の人の法悦(エクスタシー)は、そのまま直にその声を聴く人々の法悦になるというイコン画として読む方が遙かに本条の価値を高めるようにおもうのであるが、如何であろう?
「談義」仏法の因果の道理を説く法談、講筵。
「同聞の聽衆」法筵の場に教えを乞いに参っていた聴衆。
「心ならず」この場合は、不本意の意を含まない、意識しない、我知らず、の謂い。
「格別に禮讃をしき」格別なるまことの念仏を致いたの(と同じこと)である。]

