耳嚢 巻之六 未熟の狸被切事
未熟の狸被切事
石谷某(なにがし)の一族の下屋敷に妖怪出ると聞(きき)、其主人或夜泊りけるに、丑みつの頃、月影にて、障子にうつる怪敷(あやしき)影ありしゆえ、密(ひそか)に立(たち)て俄(にはか)に右障子をひらきしに、白髮の老姥(らうぼ)あり。何者也やと聲を懸しに、彼姥(かのうば)答へけるは、某(それが)しは此屋敷の先主の妾(そばめ)なりしが、なさけなく命を召れしゆえ、今以浮(いまもつてうか)む事なし、哀れ跡ねんごろに弔ひ、此屋敷にひとつの塚堂をもきづき給はらん事を賴(たのま)んと思ひけれど、恐れて聞請(ききうく)る人なしといゝければ、あるじのいわく、妾ならば嬋娟(せんけん)と年も若くあるべきに、白髮の老姥、何とも合點ゆかずと尋しに、年久敷(ひさしき)事なればむかしの姿なしと答(こたへ)ける故、死しても年はよるものやと、拔打(ぬきうち)に切り付ければ、きやつと云ふて影を失(うせ)ぬ。夜明てのりをしたひ尋(たづね)しに、山陰の眞の内へ血ひきて、穴ありければ切(きり)崩して見けるに、年を經し狸なり。堂塚を建させ、供物抔貪(むさぼら)んと巧(たくみ)しが、未練なる趣向故、きられけるならんかと、語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:珍しくも怪談三連発だが、あんまり怖くない。
・「未熟の狸被切事」「みじゆくのたぬききらるること」と読む。
・「石谷某」底本の鈴木氏注に、『イシガヤ。四家ある。同氏で最もよく知られたのは、天草の乱に板倉重昌の副官として征討軍を率いて出陣した貞清』とある。ウィキの「石谷氏」には遠江石谷氏の知られた人物として以下の人物を挙げている。
《引用開始》
石谷政清
遠江石谷氏の祖。通称は十郎右衛門。今川義元・氏真・徳川家康に仕える。
石谷貞清
政清の孫で徳川家旗本。島原の乱や慶安の変で活躍した。江戸北町奉行を勤める。石谷十蔵の氏神という石ヶ谷明神が掛川市にある。
石谷清昌
佐渡奉行、勘定奉行、長崎奉行などを歴任し、田沼意次の行政に深く関与したとされる。石谷穆清
石谷貞清の末裔で幕末の徳川家旗本。江戸北町奉行を勤める。安政の大獄に関与したとされ、大老・井伊直弼の片腕的存在と言われる。
《引用終了》
最後の穆清は「あつきよ」と読むが、本記載の「石谷某」とは、まさに石谷清昌とこの穆清の間にいた人物であった可能性が高いか。ただ、岩波版では長谷川氏は注しておらず、鈴木氏や私が、この遠江石谷氏であると思い込んでいるだけ、同定は論理的ではあるまい。そもそもこれを「いしがい」と読めば、土岐石谷氏となり、「いしや」と読めば、また異なるらしい。一応、「いしがい」と現代語訳では読んでおく。
・「妾」一応、「そばめ」と読んだが「めかけ」かも知れぬ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「妻」とあって問題がない。
・「嬋娟」容姿の艶(あで)やかで美しいさま。
・「のり」血糊。
■やぶちゃん現代語訳
未熟の狸の切らるる事
石谷某の一族の話であると申す。
石谷(いしがい)家下屋敷に妖怪が出るとの噂が立って御座ったゆえ、ある夜のこと、かの主人石谷殿御自身、直々にお泊りになった。
丑三つの頃、月光皓々たる中、御寝所の障子に映る、怪しき影のあったによって、石谷殿、そっと立つと、さっと! その障子を開けた――
――と
――そこに
――白髪の老婆が
――これ、佇んで御座った。
「――何者じゃッ?」
と、石谷殿が厳しく誰何(すいか)致すと、その老嫗(ろうおう)、
「……それがしは……この屋敷の先主(せんしゅ)の妾(そばめ)であったが……その主人……非情にも……それがしの命を召され……今……以って……浮かばれようがない……ああっ!……どうか!……それがしが……跡を……これ……懇ろに弔い……この屋敷内(うち)に……一つの塚堂をも……これ……築いて下されんことを頼まんと……ずっと先(せん)より……思うてまいったれど……それがしの姿を恐れて……誰(たれ)一人……聞きいれて呉るる人……これ……なし……」
と答えて御座った。しかし、石谷殿、
「……そなたの話柄を推し量るれば――妾(そばめ)とならば――これ、嬋娟(せんけん)として、年も若(わこ)うあるべきに――白髪の老嫗とは――これ、何とも合点がゆかぬ!」
ときつく糺いたところ、
「……いや……そ、その……年久しきことなれば……その……昔の面影は……これ、のうなったればこそ……」
と、何やらん、しどろもどろに答えたによって、石谷殿、すかさず!
「――死にても! これ! 歳は取るものやッ?!」
という一喝とともに、抜き打ちに斬りつけたところ!
――キヤッツ!
と、人ならざる声を挙げて――姿は、これ、消えて御座った。
夜明けて、庭先から点々と続く……血糊(ちのり)の跡を……これ……ずうっと……辿ってみたところが……
……屋敷近くの小高き山の……その陰の……藪の中(なか)へと……血(ちい)は……引き垂れて御座って……
……そうして……その血(ちい)……一つの……斜面の穴の中へと……続いておった……
さればそこを掘り崩して見たところが――
――歳経た狸の死骸が一つ
――転がり出た……と申す……
「……堂塚なんどをも建てさせ、捧ぐるところの供物なんぞを貪(むさぼ)らんと企(たくら)んだものにても御座ろうが……如何にも未熟なる化け様(よう)なれば、他愛ものう、斬られてしもうたものででも……御座ろうかの……」
とは、この話を聴いた私の感想で御座った。