一言芳談 一〇二
一〇二
顕性房云、我は遁世の始よりして、疾(と)く死なばやと云ふ事を習ひしなり。さればこそ、三十餘年が間ならひし故に、今は片時(へんじ)も忘れず。とく死にたければ、すこしも延びたる樣なれば、むねがつぶれてわびしきなり。さればこそ符(ふ)、籠(かご)一つもよくてもたむとする事をば制すれ。生死を厭ふ事を大事とおもはざらんや、云々。
〇顕性房、善惠上人弟子、住長門(ながとにすむ)。
〇生死を厭ふ事を大事、無始より生を愛していとはざりし故に、今まで流轉(るてん)を經たるなり。
[やぶちゃん注:……へそ曲がりである私は(以前にも念死を主張する条はあったが)、ここまではっきり豪語されると、自死を禁じていない古形の仏教において(これは釈迦自身の行跡が示している。「九十一」を見よ。捨身飼虎だ。釈迦の前生であった薩捶王子は飢えた親子の虎に我が身を与えるために崖上から虚空に身を翻らせて墜死し餓虎の餌食となったではないか)、何故、あなたはさっさと浄土へ生まれるために自死しないのか、と顕性房に問いたくなる。……彼はどう答えるのか(その機縁に至っていないとか言うのか)、答え得るのか(その機縁なるものが弁解でないことを立証し得るのか)……私が納得出来る顕性房の答えを、どなたか、御教授下さると嬉しい。……
「顕性房」註にかくあるが(但し、これはⅠにでは除外されてなく、Ⅱの脚注にあるものを復元したもの)、Ⅱの大橋氏では、「一遍上人語録」巻下『に「常に長門顕性房を称美して云、三心所廃の法門はよく立てられたり。されば往生を遂られたり」とある顕性房』(即ちこの「善惠上人弟子」という人物)ということになるが、『恐らく同名異人で、明遍の弟子であろう』とされている。同じ大橋氏校注になる同書岩波文庫版の下巻「門人伝説」の「四」の注に、この当該人物でない顕性房の方は『長門の人で、始め西山証空の弟子となったが、のち覚入の弟子となった顕性房が浄土源流章(凝然)に見えている』とある。因みに「三心」は「さんじん」と読み(同大橋氏校注岩波文庫版による)、浄土に生まれるために必要な三種の心を指す。「観無量寿経」には至誠心(しじょうしん)・深心(じんしん)・回向発願心(えこうほつがんしん)、「無量寿経」には至心・信楽(しんぎょう)・欲生(よくしょう)とある。「三心所廃」は同大橋氏校注岩波文庫版の注によれば、『本願を信ずる心の三心が、そのまま口にでると念仏になり、』そうした境地に至ると実は外見上、『三心はしばらく隠れるという教え』とある。なお、「善惠上人」は一遍の大橋注にある「西山証空」のこと。証空(治承元(一一七七)年~宝治元(一二四七)年)は法然の高弟で西山浄土宗・浄土宗西山禅林寺派・浄土宗西山深草派の祖。……しかし、こういうメタなパラドックスを謂われてしまうと、ここでもへそ曲がりである私は、即座にかく問い返したくなる。……「こういう真偽は、では、どこで見分けられるのでしょう? 一遍さん?」……その問いが愚智だと言われれば、私はこう切り返そう。……「では、私にそう感じさせた『三心所廃』という考え方を示した一遍も、それ有り難がって私を指弾するあなたの智も、やはり、愚智という訳です。」……と……。
「符籠」ⅠもⅡも「符籠」と一語で採っている。読点は私が附した。Ⅱはこれを「かご」と訳すのみで、如何なる籠、背負籠(しょいこ)なのか、もっと小さな日常的に用いる入れ物としての籠なのか分からない。ただ私が言いたいのは「符」には単に籠を意味するような意は含まれていないということである。そこで私は「符・籠」と読み、「符」は修行者が身に着けるところの神仏の守り札である御札・護符の類いと採り、行脚するための籠、背負籠と採って、読点を配した。大方の御批判を乞うものである。]