沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 3
瑞鹿山圓覺寺は時賴弘長三年に薨じ給ふ、そのさき大覺禪師時賴遊山の次、禪師のいはく、此地は叢林相應の所也、建立あるべしと。時賴時節をうつすべからずとて、折節田かへし居たる耕夫の鋤を取て、時賴一下し給ふ。同く大覺鋤を取て一下し給ひ、その所に草を結びそめたまふ。其後弘安元年に大覺も入滅ありて、同五年癸丑のとしに時宗公立おさめらる。時に詮藏主・英典座を兩僧使として大宋へ渡され、住持を請ぜらる、其狀にいはく、
[やぶちゃん注:「瑞鹿山圓覺寺は時賴弘長三年に薨じ給ふ」意味が通じない。底本にも「圓覺寺は」と「時賴」の右に『(脱文カ)』と傍注する。
「同五年癸丑」円覚寺落慶法要であるが干支は誤り。弘安五(一二八二)年は癸丑(みづのとうし)ではなく、壬午(みずのえうま)。]
「詮藏主・英典座」蘭渓道隆の法嗣であった無及徳詮と傑翁宗英(そうえい)。「藏主」は経蔵の管理責任者、「典座」は「てんぞ/てんざ」と読み、禅宗寺院の六知事の一つで、大衆の斎飯などの食事を司った厨房長で、傑翁も同義。
「不宣」は「ふせん」で「不一」「不悉」と同じく、自分の言うべきことを語り尽くすことが出来ていない甚だ拙文にて、という意の卑小を示す手紙の結語。]
[やぶちゃん注:以下の召請状は底本では全体が二字下げ。]
時宗留意宗乘積有年序、建營梵苑安止緇流、但時宗毎憶樹有其根水有其源、是以欲請宋朝名勝助行此道煩詮英兄、莫憚鯨波險阻誘引俊傑禪伯歸來本國爲望而已。不宣、
弘安元年戊申十二月廿三日 時宗和南
詮藏主禪師
英典座禪師
[やぶちゃん注:以下に底本の訓点を参考に私なりに書き下したものを示す。
時宗、意を宗乘に留むること、積むに年序有り。梵苑を建營し、緇流を安止す。但し、時宗、毎に憶ふ、樹に其の根有り、水に其の源有り。是れを以つて、宋朝の名勝を請じて、此の道を助行せんと欲し、詮・英兄を煩はし、鯨波の險阻を憚ること莫く、俊傑の禪伯を誘引して、本國に歸り來たらんことを望みと爲るのみ。不宣、
弘安元年戊申十二月廿三日 時宗和南
詮藏主禪師
英典座禪師
「新編鎌倉志卷之三」に「平時宗の書」として載るが、ここでも沢庵は干支を誤写している。弘安元年は戊申(つちのえさる)ではなく、戊寅(つちのえとら)である。]
兩僧これによつて宋に入、同二年の夏佛光禪師請を受て來朝し給ふ。即圓覺寺の開山祖是也。圓滿常照國師と號す。諱は祖元、字は子元、みづから無學と號せられる。
[やぶちゃん注:「同二年」弘安二(一二七九)年。]
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