芸術には上達がない 萩原朔太郎
●芸術には上達がない
すべての技術は、練習によつて上達する。ところで練習とは、筋肉または思惟の法則が、腦髓の中に溝(みぞ)をつくることである。例へば熟練したピアニストは、一つの鍵盤を叩いた指で、同時に百の鍵盤の上を走らせて行く。それは長い間の練習が、彼等の腦髓皮質に一定の溝(みぞ)をつくつたことから、動作が意識的でなく、習慣から型にはまつて、敏速に行はれる爲に他ならない。
かくすべての技藝や技術やは、その道の練習――即ち習慣をつくること――で上達する。然るに藝術が意義するところの、創作の本意は何だらうか? 創作の眞の本意は、すべての習慣に反對し、習慣上の型を破つて、普段に新しき世界を創るにある。藝術家がもし、彼の思想で固定し、テクニツクの習慣になれ、いつも同一の型を反復するならば、彼自身の古さの故に葬られる。この故に藝術家は、絶えず彼自身に革命し、彼自身の古き型を破るべく、いつでも自我の習慣と戰つてゐる。偉大なる善き藝術家は、それによつていつも新しく、生涯を若やぎに溢れてゐる。
されば藝術家の修養は、技術家の勉強とは正反對である。後者にあつては、練習が上達の祕訣であるのに、前者にあつては、むしろ練習しないことが、平常の善き心掛けに屬してゐる。(それ故に善き作家等は、常に多作を警めてゐる。)これが藝術家の修養と、學校の作文科目の反對である。學校での作文は、常に多作の練習が要求される。なぜなら學校教育が教課しようとするものは、人が實生活で必要とするところの、社交上や實用上の書簡文、もしくはその種類の、用務を辨ずるための文章だから。そしてこの種類の文面では、一定の類型的な事務の仕方で、できるだけ習慣的に、したがつてできるだけ敏速に書くことが必要だから。そしてこの教育の目的は、もちろん藝術の目的と別個である。
それ故に藝術は、それが單なる技藝――ヴアイオリンを巧みに彈くことなど――でなく、本當の意味の藝術ならば、藝術は練習すべきものでない。したがつて藝術家には、言葉の正しき意味に於ける、上達といふ事實は有り得ない。然り! 藝術には上達がない。ただ不斷に新しいものを創造して行く、勉強への意思があるにすぎないのである。
[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の「藝術に就いて」より。下線部は底本では傍点「●」。]