一言芳談 一〇七
一〇七
下津村(しもつむら)、慈阿彌陀佛云、行基云、常作他伴(つねにたのともとなつて)、自莫爲主(みづからしゆとなることなかれ)云々。人のわきに入りたるが、心のやすき事にてあるなり。
〇行基曰、いふ心はあやしき柴の庵に住めども、主となるときはおごる心あり。又、何事も身にかゝりてむつかしきなり。たとへば、樹に鳥のたはむれて梢をからすがごとし。たゞ、いつも人にしたがはんにはしかじ。空也上人の、徒衆をかへりみて、物さはがしとのたまへるは、げにもとぞおぼゆる。
[やぶちゃん注:Ⅰは「伴」を「はん」、「自莫爲主」を「みづからしゆとなるなかれ」と訓じているが、Ⅱ・Ⅲに拠った。ここまでの「一言芳談」の流れの中では何かよく分からないけれども、私は違和感を感ずる。但し、行基の実際のプラグマティクな言行と対比しながら単独で読めむと含蓄がある言葉ではある。実はこれはⅠでは「師友」の冒頭(凡そⅠの初項から未だ二十番目ほど)に配されており、Ⅰの初読時には全く問題なく自然に読めたように記憶する。これは、恐らく原典の順序で読むが故に生ずる違和感であるように思われる。法然以前の法語を「一言芳談」の中に投げ込めば、そこまでの仮象された「一言芳談」という魔界(敢えてかく呼ぶが、私はこれに否定的意味を実は全く込めていないことを断っておく)との齟齬を生ずるのは当然である。しかし、この「一言芳談」という魔界は軽々と過去へ遡及し、その定常世界をも鮮やかに浸食するという事実に於いても驚愕の書なのである。
「下津村」Ⅱの大橋氏の脚注に、『下津村とあるが、永仁六年(一二八九)付高野山文書中に「浜中南庄惣田数柱状」に「下津浦堂」の名が見えるので、下津浦が正しいのではあるまいか』とある。これは現在の和歌山県海南市下津町にある天台宗を慶徳山長保寺(ちょうほうじ)のことと思われる。長保寺は長保二(一〇〇〇)年に一条天皇の勅願によって円仁の弟子の性空(しょうくう)によって創建、年号をそのままに取って号したという。参照したウィキの「長保寺」には、同地の歴史的な地名は紀伊国海部郡浜中荘上村で『長保寺の塔頭・吉祥院は、仁和寺が荘園領家である浜中荘(濱中荘)の荘務を委任されていたことから』、『浜中荘はこの長保寺を中心にして平安時代末から室町時代にかけて栄えていた』とある。]