一言芳談 一〇〇
残すところは、後、45章である。
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一〇〇
解脱上人云、出離に三障(しやう)あり。一には所持の愛物(あひもつ)、本尊持經(ほんぞんじけう)等(とう)まで。二には身命(しんみやう)を惜しむ。三には善知識の教(をしへ)に從はざる。
〇本尊持經、心をこめて見るべし。
〇善知識、博學辯口によらず、後世心(ごせしん)のある人を善知識といふ。
[やぶちゃん注:「愛物」「あいぶつ」とも読む。愛し好むもの、また、生き物。気に入りの人。
「善知識」一般には、人々を仏の道へ誘い導く人、特に高徳の僧のことを指す(浄土真宗では門弟が念仏の教えを勧める人としての最高位に位置する法主(ほっす)を、禅宗では参学の者が師家(しけ)を言う際に用いる)が、私はここは、この本来の語の意を採りたい。即ち、サンスクリット語の“kalyaaNa-mitra”「カリヤアーナ・ミトラ」である。“kalyaaNa”は「美しい」「善い」の意味の形容詞又は中性名詞として「善」「徳」の意味で、“mitra”は「友人」であるから、「善き友」「真の友人」の謂いとなる(「善友」とも漢訳される)。勿論、それが仏語として、仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人を指していう語と異ならないと言われれば言われようが、私はここまでの「一言芳談」の一貫したコンセプトからは、例えば「標注」の「博學辯口によらず、後世心のある人」なんどという、困って焦った調子の弁解口調は好まぬのである。「一言芳談」が多様な欣求浄土の複数の格言集であれば、それぞれの齟齬や相異は勿論、免れぬとは言えようが、とは言え、前言の核心のコンセプトを否定する併置はあるべきではない。善知識が後の高位の権力者であったり、形式的な師匠の意を含んでいてはおかしいことは誰にも分かるが、そもそも立派であろうが形ばかりであろうが、これを真の仏法の「指導者」「教授者」の謂いで採ること自体が、「一言芳談」という命題の中に在っては誤謬であると私は思うのである。さすれば、原義に還るに若くはない。「教」も「戒め」の意でよい。私は解脱上人は、シンプルに「良き友の伝えてくれる教訓に従わぬこと」と訳したいのである。
――いや――
――でなければ――
――辞書的な一般的な意味での「善知識」の意に拘るとすれば――
――この部分、私は、
〈否定文ではなく肯定文であるべきではないか〉
とさえ初読時に疑っているのである。即ち、ここは、
「三には善知識の教に從ふ。」
である。私の初読時の誤読は以下の通りである。
――解脱の境地に至るには、三つの障害がある。
――第一に――所持するところのあらゆる愛するもの――それは――日々拝む本尊や常に所持するところの経典に至るまでをも含む――
――第二に――身や命を惜しむこと――
……そうして
――第三に――教導者の教えに盲目的に従うこと――
そもそもが直接話法の中にあっては、
「出離を妨げて〈出来ず〉さするところの三つの障りを示すと」
と語り出して、その最後の三つ目禁忌を言う末尾に於いて、
「~をしないことによって障りを完遂〈出来る〉のである」
と述べる慣用的な誤用表現を私はしばしば他者から聴くからである。
――何れにせよ、私はこの部分を――例えばⅡの大橋氏のように、『善き導きての教えに耳を傾けないこと』と、高校の受験参考書の模範訳のように、逐語的に正しく文字通りに解釈することは――残念ながら出来ない捻くれ者であるということだけは表明しておきたい。というより――かの「十二」のシークエンスに登場した解脱上人ならば、きっとかく言うはずである――と私は信じてやまぬのである。――]