北條九代記 吾妻四郎靑鷺を射て勘氣を許さる
○吾妻四郎靑鷺を射て勘氣を許さる
同八月十七日、鶴ヶ岡八幡宮の放生會(はうしやうゑ)あり。將軍家、御出あるべしとて、先(まづ)御供の隨兵(ずゐひやう)を定めらる。其中に吾妻(あづまの)四郎助光、故なくして參らざりければ、工藤小次郎行光を以て仰せられけるやう、「助光は、させる大名にあらずといへども、累代の勇士(ようし)たるを以て隨兵の員(かず)に召(めし)加へらる。頗(すこぶる)家の面目なりと存すべき所に、その期(ご)に臨みて、參らざる條、子細を言上すべし」とあり。助光、畏りて申しけるは、「將軍家、此御調事に御出ある事は晴(はれ)の儀たるを以て、態(わざ)と用意致せし所の鎧を、鼠の爲に損ぜられ、是に度(ど)を失ひ、俄(にはか)に申(まうし)障り候なり。別心を以て、まかり出ざるにては候はず」と陳じけり。重ねて仰せありけるは、「晴の儀たるに用意致しけるとは新造の鎧の事歟。甚(はなはだ)以て然るべからず。隨兵はその行粧(かうさう)を飾るべきにあらず。只警衛(けいゑい)の爲なり。是によつて、右大將家の御時、譜代の武土、綺麗を調ふる事を停止(ちやうじ)せらる。然れば往當(そのかみ)、故賴朝卿、御用の事有て筑後權守俊兼を召しけるに、此男、本より花美(きわび)を好み、殊に行粧を刷(かいつく)らふて小袖十餘領(りやう)を著(ちやく)し、褄(つま)の重(かさね)色々を飾りて、御前に出たり。賴朝卿、御覽じて、俊兼が帶する所の刀を召して、重ねたる小袖の褄を切せられて、後、仰せられけるやう、汝は才漢(さいかん)有て、家富みたり。何ぞ倹約を存ぜざるや。千葉常胤、土肥實平なんどは、所領は俊兼に雙(なら)ぶべからず。されども衣裳は麁品(そひん)を用ひ、鎧以下、更に美麗を好まず、其家富裕にして、數輩の郎從を扶持せしめ、たゞ勳功の忠義を存ず。今、汝は財産の費(つひえ)を知(しら)ず、過分の奢(おごり)を極むる條、大事に臨まば、定(さだめ)て家子(いへのこ)郎從を扶持するに叶はず、軍陣の時は獨身(ひとりみ)たるべし、と誡(いまし)め給へば、俊兼、面(おもて)を垂れて敬屈(けいくつ)し、向後、花美を停止すべき由、御請(うけ)を申しけると聞しめし傳へたり。されば當時武勇の輩、豫てより、鎧一領を持たぬ者やあるべき。何ぞ重代の兵具を差(さし)置きて、新造の鎧を用ひられば、累祖重代の鎧等は相傳の詮(せん)なきに似たり。その上、放生會は恆例の神事なり。度毎(たびごと)に新造せば倹約の義に背く者歟。向後、諸人この儀を守るべし。助光は先(まづ)出仕を止(やめ)らるゝ所なり」と仰せ出されければ、助光、暫く籠居致す。同十二月三日、相州大官令以下、御所に伺候あり。嵐、烈しく、松の梢に渡り、自(おのづから)、琴(きん)の調(しらべ)に通ふらん。雲、吹(ふき)閉ぢて、雪、降(ふり)出で、木々の枝々、時ならず花咲くかと怪まれければ、將軍實朝卿、興ぜさせ給ひて、御酒宴を始めらる。その間に靑鷺(あをさぎ)一羽、進物所(しんもつどころ)に入て、ふためきつゝ、寢殿の上に留(とゞま)りたり。野鳥、室に入るは不祥の兆(きざし)なり、と將軍家、御心に掛り思(おぼし)召し、「誰かある、あの鳥、射止めよ」と仰(おほせ)出ださる。折節、然るべき射手、御所中に候(こう)せず。相州、申されけるは、「吾妻四郎助光、御氣色を蒙りて、是を愁へ申さんために、近邊に居て候。召出されて射させらるべきか」とあり。御使を下され、助光、軈(やが)て參上し、蟇目(ひきめ)を挾(さしはさ)み、階隱(はしがくし)の蔭より狙寄(ねらひよつ)て、ひようと發(はな)つ。鳥には中(あた)らざるやうに見えて、鷺は庭上に落ちたり。助光、進覽致しける。左の目より血の少(すこし)出たる計(ばかり)にて死すべき疵(きず)にはあらざりけり。鷹の羽(は)にて矯(は)ぎたる矢なるが、鳥の目を曳(ひ)きて融(とほ)る。生ながら射留むる事、御感殊に甚しく、御赦免を蒙り、剩(あまつさ)へ御劍を賜(たまは)る。武藝に達せし故に依(よつ)て、時の面目を施しける手柄の程こそ雄々(ゆゝ)しけれと、皆(みな)人、感じ給ひけり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十八の建永二(一二〇七)年八月十五日及び十七日の吾妻助光の不祥事に、巻三の元暦元(一一八四)年十一月二十一日の父頼朝の同様の勘気の事蹟を添え、巻十八の承元元年十二月三日の不吉な靑鷺の侵入と、助光の名射と勘気赦免の大団円とする、劇的な面白さを狙ったいい話柄である。但し、書き方に誤りがある。放生会は実は八月十七日ではなく、その二日前の八月十五日に行われた。その十五日の条に、
〇原文
十五日戊午。小雨。鶴岳宮放生會。將軍家既欲有御參宮之處。随兵已下臨期有申障之輩。被召別人之程。數尅被扣御出。尤爲神事違亂。是則御出等事。無奉行人之故也。仍召民部大夫行光。向後供奉人散狀已下。御所中可然事。於時無闕如之樣。可計沙汰之旨。被仰含之云々。及申尅。御出之間。舞樂等入夜。取松明有其儀。未事終還御。
〇やぶちゃんの書き下し文
十五日戊午。小雨。鶴岳宮の放生會。將軍家、既に御參宮有らんと欲するの處、随兵已下、期(ご)に臨みて障り申すの輩(ともがら)有り。別人を召さるるの程、數尅、御出を扣(ひか)へらる。尤も神事に違亂たり。是れ、則ち御出等の事に奉行人無きが故なり。仍つて民部大夫行光を召し、向後、供奉人の散狀(さんじやう)已下、御所中の然るべき事は、時に於いて闕如(けつじよ)無きの樣、計らひ沙汰すべきの旨、之を仰せ含めらると云々。
申の尅に及びて、御出の間、舞樂等、夜に入り、松明(たいまつ)を取り、其の儀有り、未だ事、終らざるに還御す。
・「尤も神事に違亂たり」神事という尤も不具合があってはならない儀式での、とんでもない不祥事である。
・「散狀」諸役の勤番を明記して事前に回覧した文書。回状。
ここでは特に、最後の部分で、この不祥事によって儀式が大幅に遅れ、深夜に及んでしまったことが述べられ、満十四歳の育ちざかりの実朝、恐らく腹も減らして、大いに不快であったに違いないことは窺えるが、ここで気づくべきは、どうも、この随兵不参加によるごたごた、「北條九代記」は吾妻助光一人が不参加であったように読めるのであるが、それならこうはならなかったなかったことであろう。「輩有り」はどうも複数に読める。以下、十七日の記事でそれが明らかになるのである。
その二日後。
〇原文
十七日庚申。晴。放生會御出之時申障之輩事。相州。武州。廣元朝臣。善信。行光等參會。有其沙汰之處。或輕服。或病痾云々。而随兵之中。吾妻四郎助光無其故不參之間。以行光被仰云。助光雖非指大名。常爲累家之勇士。被召加之訖。不存面目乎。臨其期不參。所存如何者。助光謝申云。依爲晴儀。所用意之鎧。爲鼠被損之間。失度申障云々。重仰云。依晴儀稱用意者。若新造鎧歟。太不可然。隨兵者非可飾行粧。只爲警衛也。因茲。右大將軍御時。譜代武士可必候此役之由。所被定也。武勇之輩。兼爭不帶鎧一領焉。世上狼唳者不圖而出來。何閣重代兵具。可用輕色新物哉。且累祖之鎧等似無相傳之詮。就中恒例神事也。毎度於令新造者。背儉約儀者歟。向後諸人可守此儀者。助光者所被止出仕也。
〇やぶちゃんの書き下し文
十七日庚申。晴る。放生會御出の時、障り申すの輩の事、相州・武州・廣元朝臣・善信・行光等參會して、其の沙汰有るの處、或ひは輕服(きやうぶく)、或ひは病痾(びやうあ)と云々。
而るに随兵の中に、吾妻四郎助光、其の故無く不參するの間、行光を以つて仰せられて云はく、
「助光、指(さ)せる大名に非ずと雖も、常に累家之の勇士として、之を召加へられ訖んぬ。面目を存ぜざるか。其の期(ご)に臨んでの不參、如何なる所存か。」
てへれば、助光、謝り申して云はく、
「晴れの儀たるに依つて、用意する所の鎧、鼠の爲、損ぜらるるの間、度を失ひ、障りを申すと云々。
重ねて仰せて云はく、
「晴れの儀に依つて用意すると稱すは、若しや、新造の鎧か。太だ然るべからず。隨兵は行粧(ぎやうさう)を飾るべきに非ず。只だ、警衛の爲なり。茲(こ)れに因つて、右大將軍の御時、譜代の武士、必ず此の役に候ずべきの由、定め被らるる所なり。武勇(ぶやう)の輩(ともがら)、兼ねて爭(いか)でか鎧一領を帶せざらん。世上の狼唳(らうれい)は圖らずして出で來たる。何ぞ重代の兵具を閣(さしお)きて、輕色(きやうしよく)の新物を用ふべけんや。且つは累祖の鎧等、相傳の詮(せん)無きに似たり。就中(なかんづく)、恒例の神事なり。毎度、新造せしむに於いては、儉約の儀に背く者か。向後、諸人此の儀を守るべし。」
てへれば、助光は出仕を止めらるる所なり。
・「輕服」遠縁の者の死去による軽い服喪をいう。反対語は重服(じゅうぶく)。
・「吾妻助光」(生没年不詳)「吾妻鏡」では建仁四(一二〇四)年一月十日の弓始めの儀での射手六名の最後、三番方の二番目に名があるのが初出、この出来事以降では翌々年の承元三(一二〇九)年一月六日の条に的始の射手に召されたのを最後として記載がない。
・「助光は出仕を止めらるる」叙述からは形式上は実朝が出仕を禁じたことになるが、記載から見ると、義時・時房(武州)以下の合議決裁で二階堂行光から出勤停止処分が通行されたものであろう。満十四歳の実朝自身の意志とは思われない。
「然れば往當、故賴朝卿、御用の事有て筑後權守俊兼を召しけるに……」以下では、頼朝の事蹟が語られるのであるが、それが「吾妻鏡」の二十三年前に遡るところの巻三の元暦元(一一八四)年十一月二十一日の条を元にした筆者の創作部分である。
〇原文
月大廿一日丙午。今朝。武衞有御要。召筑後權守俊兼。々々參進御前。而本自爲事花美者也。只今殊刷行粧。著小袖十餘領。其袖妻重色之。武衞覽之。召俊兼之刀。即進之。自取彼刀。令切俊兼之小袖妻給後。被仰曰。汝冨才翰也。盍存儉約哉。如常胤。實平者。不分淸濁之武士也。謂所領者。又不可雙俊兼。而各衣服已下用麁品。不好美麗。故其家有冨有之聞。令扶持數輩郎從。欲勵勳功。汝不知産財之所費。太過分也云々。俊兼無所于述申。垂面敬敬※[やぶちゃん注:「※」=「口」+「屈」。]。武衞向後被仰可停止花美否之由。俊兼申可停止之旨。廣元。邦通折節候傍。皆銷魂云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿一日丙午。今朝、武衞御要(ごえう)有りて、筑後權守俊兼を召す。俊兼、御前に參進す。而るに本より花美を事と爲す者なり。只今、殊に行粧(ぎやうさう)を刷(かいつくろ)ひ、小袖十餘領を著け、其の袖妻、之に色を重ぬ。武衞、之を覽て、俊兼が刀を召す。即ち、之を進ず。自(みづか)ら彼(か)の刀を取り、俊兼が小袖の妻を切らしめ給ひて後、仰せられて曰く、
「汝。才翰(さいかん)に冨むなり。盍(なん)ぞ儉約を存ぜぬや。常胤・實平のごときは、淸濁を分たざるの武士なれど、謂はば所領は、又、俊兼に雙ぶべからず。而るに各々、衣服已下、麁品(そひん)を用ゐて、美麗を好まず。故に其の家、冨有の聞え有りて、數輩の郎從を扶持せしめ、勳功を勵まんと欲す。汝、産財の費(つい)ゆる所を知らず。太はだ過分なり。」
と云々。俊兼、述べ申すに所無く、面を垂れて敬※(けいくつ)す。[やぶちゃん注:「※」=「口」+「屈」。武衞、
「向後、花美を停止べくか否か。」
の由を仰せらる。俊兼、
「停止すべし。」
の旨を申す。廣元・邦通、折節、傍に候ず。皆魂を銷(け)すと云々。
・「筑後權守俊兼」藤原俊兼(生没年未詳)は頼朝の初期の右筆。「吾妻鏡」での初出は養和二(一一八二)年一月二十八日の条で、俊兼は簀子(すのこ)に控えて、伊勢神宮に奉献される神馬十匹の毛付(馬を識別するための毛色の記録。原典では当該の馬を曳いて頼朝に進上した人物が割注で附されている)を記している。元暦元(一一八四)年四月二十三日には下河辺政義が俊兼を通じて訴え出て、頼朝の命により、俊兼が常陸国目代に御書を代書している。これ以降、同じ右筆として藤原邦通(引用した「吾妻鏡」の最後に登場している)と入れ替わるようによく登場し、逆に邦通は右筆としても影が薄くなる傾向がある。同十月二十日の条では頼朝御亭東面の廂を問注所とし、三善康信を筆頭に藤原俊兼、平盛時が諸人訴論対決の事を沙汰することになった、とある。本件を挟んで、文治二(一一八六)年三月六日の条では義経の行方について静御前の尋問を行う。同年八月十五日の条では西行の語る流鏑馬の奥義を頼朝が俊兼に書き取らせたとする。同じ京の文官である大江広元・三善康信・二階堂行政らと比べれば行政実務のトップクラスということではなかったが、奉行人・右筆として常に頼朝の側に居た様子が覗える(以上はウィキの「藤原俊兼」に拠った)。
そうして青鷺事件が起こる。承元元(一二〇七)年十二月三日の条。
〇原文
三日甲辰。冴陰。白雪飛散。今日御所御酒宴。相州。大官令等被候。其間。靑鷺一羽入進物所。次集于寢殿之上。良久將軍家依恠思食。可射留件鳥之由。被仰出之處。折節可然射手不候御所中。相州被申云。吾妻四郎助光爲愁申蒙御氣色事。當時在御所近邊歟。可被召之云々。仍被遣御使之間。助光顚衣參上。挾引目。自階隱之蔭窺寄兮發矢。彼矢不中于鳥之樣雖見之。鷺忽騷墜于庭上。助光進覽之。左眼血聊出。但非可死之疵。此箭羽〔鷹羽極強云々。〕曳鳥之目兮融云々。助光兼以所相計無違也云々。乍生射留之。御感殊甚。如元可奉昵近之由。匪被仰出。所下給御釼也。
〇やぶちゃんの書き下し文
三日甲辰。冴え陰る。白雪飛散す。今日、御所の御酒宴。相州、大官令等、候ぜらる。其の間、靑鷺一羽、進物所に入る。次に寢殿の上に集まる。良(やや)久しうして將軍家、恠(あや)しみ思し食(め)すに依つて、件(くだん)の鳥を射留むべきの由、仰せ出ださるるの處、折節、然るべき射手、御所中に候ぜず。相州、申されて云はく、
「吾妻四郎助光、御氣色を蒙る事を愁へ申さんが爲、當時、御所の近邊に在らんか。之を召さるるべし。」
と云々。
仍つて御使を遣はさるるの間、助光、衣(ころも)を顚(さかしま)にして參上す。引目(ひけめ)を挾(さしはさ)み、階隱(はしがくし)の蔭より窺ひ寄つて、矢を發(はな)つ。彼(か)の矢、鳥に中(あた)らざる樣に之れ見えゆると雖も、鷺、忽ち庭上に騷ぎ墜つ。助光、之を進覽す。左の眼に血、聊か出づ。但し、死すべきの疵に非ず。此の箭(や)の羽〔鷹羽で極めて強しと云々。〕鳥の目を曳きて融(とほ)ると云々。
助光、
「兼ねて以つて相ひ計る所、違(たが)ふ無きなり。」
と云々。
生きながら之を射留むること、御感、殊に甚だし。元のごとく昵近(ぢつきん)奉るべきの由、仰せ出ださるのみに匪ず、御釼を下し給ふ所なり。
・「大官令」大江広元。
・「衣を顚にして」すわっ! と慌てふためいて。
・「引目」既出。射る対象を傷つけないように鏃を使わず、鏑に穴をあけたものを装着した矢のこと。通常は邪気を払うためにも、音を発して放たれるが、ここでは敏感な鳥を射ている以上、恐らくは穴を塞いで無音の鈍体にしたものと思われる。しかも、尖端ではなく、尾羽の鷹羽の背だけを青鷺の眼の部分に掠めさせて、そのショックで落下させるという超難度の技であった。
・「階隱」階隠間(はしがくしのま)。寝殿造で南廂の階の上にあたる中央の一間を指す。
・「兼ねて以つて相ひ計る所、違ふ無きなり」ここは助光本人の言葉で、「前以って狙っておりました射技と、全く外れるとこと、これ、御座いませなんだ。」というのだが、「北條九代記」の作者がこの自慢げな言を外したのは正解である。]