一言芳談 一一五
一一五
禪勝房、又、生あるものゝ必ず死するがごとく、往生におきては、決定なりと申されけるが、殊縁の往生をとげられたり。此(この)兩三人は、同(おなじき)上人面授(しやうにんめんじゆ)の人々にて、彼の御教訓なり。然れば、決定往生の思ひをなすべきなり。〔此、慈心上人問、行仙上人答也。〕。
〇此兩三人、小藏入道に、蓮生房、禪勝房の事なり。
[やぶちゃん注:この発語部分の特異性や叙述内容から見て、この条に関しては独立させるよりも、前の「一一四」に続けてある方が自然である。なお、「〔此、慈心上人問、行仙上人答也。〕」は珍しい本文割注である。訓読すれば、「此れ、慈心上人が問ひの、行仙上人が答へなり。」か。
「生あるものゝ必ず死するがごとく、往生におきては、決定なり」生あるもが必ず死ぬように、一切の衆生の極楽往生も、これ、既に決定している、というこの禅勝房の驚くべきパラドキシャルな比喩は、私には何かひどく新鮮な気がした。
「同上人面授の人々」法然上人から直々に教えを受けた高弟たち。
「然れば、決定往生の思ひをなすべきなり」だから、一切衆生極楽往生は既に決定(けつじょう)しているという絶対の信心を以って安心して念仏を称えるのがよいのである。
「慈心上人」正三位民部卿藤原長房(嘉応二(一一七〇)年~寛元元(一二四三)年)の法名。後鳥羽院の近臣で参議藤原光長と同参議藤原俊経の娘との子。元久元(一二〇四)年参議、同二年には後鳥羽上皇の皇女煕子内親王の乳父となって皇女を引き取っており、後鳥羽中宮宜秋門院任子にも仕えた。承元四(一二一〇)年、後鳥羽の幕府打倒の意向を諫めかねてとも、法相宗を大成した貞慶の徳を慕ってとも言われるが、突如、出家、その後は奈良に移居して貞慶の門人となった。海住山民部卿入道とも号した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

