恐ろしく憂鬱なる 萩原朔太郎 (「青猫」版)
恐ろしく憂鬱なる
こんもりとした森の木立のなかで
いちめんに白い蝶類が飛んでゐる
むらがる むらがりて飛びめぐる
てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ
みどりの葉のあつぼつたい隙間から
ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼(つばさ)
いつぱいに群がつてとびめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ
ああ これはなんといふ憂鬱な幻だ
このおもたい手足 おもたい心臟
かぎりなくなやましい物質と物質との重なり
ああ これはなんといふ美しい病氣だらう
つかれはてたる神經のなまめかしいたそがれどきに
私はみる ここに女たちの投げ出したおもたい手足を
つかれはてた股や乳房のなまめかしい重たさを
その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに
私の靑ざめた屍體のくちびるに
額に 髮に 髮の毛に 股に 胯に 腋の下に 足くびに 足のうらに
みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ
むらがりむらがる 物質と物質との淫猥なるかたまり
ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろの集團
ああこの恐ろしい地上の陰影
このなまめかしいまぼろしの森の中に
しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる
その私の心はばたばたと羽ばたきして
小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ
ああこのたへがたく惱ましい性の感覺
あまりに恐ろしく憂鬱なる。
註。「てふ」「てふ」はチヨーチヨーと讀むべ
からず。蝶の原音は「て・ふ」である。蝶の
翼の空氣をうつ感覺を音韻に寫したものであ
る。
[やぶちゃん注:詩集「青猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)の「幻の寢臺」の掉尾に配された「恐ろしく憂鬱なる」。この微細な各所の推敲は、恐らくは初出を何度も朗誦する中で決定されたものであろう。他者がどう感じるか分からぬが、私には頗る興味深い推敲である。]
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