醜は凡庸に優る 萩原朔太郎
僕はこのアフォリズムを偏愛する。何故かって? 「衛生週間の詩人たち」って、何だかとっても素敵な毒があって好きな台詞だしさ……何より……ここに並んでる作家たちが悉く皆、僕の好きな人々だからさ……
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醜は凡庸に優る
ソクラテスの如き人物は、その醜貌の故にさへも、希臘人たる資格がないと、デカダン嫌ひのニイチエが言つてる。なぜなら醜貌は――ニイチエの思想によると――デカダンの肉體的表象であるからである。實際ニイチエの生きてゐた十九世紀は、時代の徴候であるデカダンスが、詩人の何倍にまで痛ましく表象されてゐた。酒精中毒と先天的の遺傳によつて、怪獸のやうに鼻の曲つたヹルレーヌ。阿片の常習と腦梅毒とによつて、畸型に顏の歪んだボードレエル。賭博と、癲癇と、ヒステリイと、あらゆる病的素因の變質者を代表した、あの幽鬼のやうな顏をしたドストイエフスキイ。十九世紀的なすべてのものは、まことにソクラテスと共に醜怪だつた。
ところで現代は? 二十世紀の明朗性は、すべてのデカダン的のものを淸掃した。アメリカ・クリスチャンの病院的衞生思想は、すべての暗鬱な部屋を改造して、日當りの好いサナトリユームにし、黴臭い古雅な壁紙を引つぱがして、一面の白ペンキで塗つてしまつた。そして酒と阿片が禁じられ、戸外のスポーツやハイキングが獎勵された。アメリカ文化の二十世紀は、まことに世界の「衞生週間」を勵行した。そこで現代の詩人と文學者は、その容貌からして變つて來た。あのニイチエが身震ひした、ソクラテス的畸型の醜怪や、ヹルレーヌ的デカダンの表象は、もはや我々の地球に居なくなつた。二十世紀の詩人たちは、何れも輪廓が整つて居り、多少皆スポーツマン的の顏をして居る。でなければ、ジイドやヴアレリイのやうに、篤實な學者のやうな顏をしてゐる。しかしながらどこにもまた、ハイネやバイロンのやうな美貌の所有者――それの貴族的な上品さと優雅さとを、最高のギリシア的美貌で表象して居るやうな詩人――は現代にない。この衞生週間の詩人たちは、病院の模範看護人と同じやうに、-つの範疇的な顏をしてゐる。それは「美貌」でもなければ「醜貌」でもないところの、一つの「凡庸なもの」に過ぎない。如何に? ニイチエがそれを願つたらうか? 彼がもし生きてゐたら、むしろソクラテスの醜貌にさへも、希臘人の反語された美意識を認識したらう。即ちかう言ふだらう。デカダンさへも、尚現代よりはましであつた。醜は凡庸に遠く優ると。
[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十二番目、先に示した「文學者の悲哀」の直後に配されたものである。]