沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 4
第三龜谷山壽福寺は實朝の時に建立し、代も先なりけれど十別の位にてありし。後に五山に任ぜられける故に鎌倉五山の第三に列なれり。千光國師開山租たり。塔を逍遙庵といふ。第四山淨智寺は龜山院の文應元年に來朝ありし徑山無準の法嗣兀庵禪師開山租たり。師檀の緣やあさかりけむ、後四年に時賴既に薨じ給ふ。其後禪師は志ありて宋に歸給ふ。附法の弟子心翁禪師南洲宏海和尚歳わかきをもつて、大宋徑山石溪和尚の法嗣佛源禪師大休正念和尚に言を殘し給ふ。故に心翁・佛源兩師を開山に定む。兀庵を開山とせざる事は故ありとぞ。
[やぶちゃん注:「壽福寺は實朝の時に建立」寿福寺は源頼朝が没した翌年の正治二(一二〇〇)年に、妻の政子が夫の追善のために葉上房栄西千光国師を開山に招いて創建した。
「文應元年」西暦一二六〇年。
「後四年に時賴既に薨じ給ふ」時頼の没年は弘長三(一二六三)年。数えで「後四年」と呼称している。ここに記された浄智寺の開山の経緯は複雑を極める。浄智寺は第五代執権時頼三男北条宗政の菩提を弔うために弘安六(一二八三)年に創建、開基は第十代執権北条師時とされるが、当時の師時は未だ八歳であり、実際には宗政夫人と兄北条時宗の創建になる。以下の開山についても本文にある通り特異で、当初は日本人僧南洲宏海が招聘されるも任が重いとして、自らは准開山となり、自身の師であった宋からの渡来僧大休正念(文永六(一二六九)年来日)を迎えて入仏供養を実施、更に正念に先行した名僧で宏海の尊敬する師兀菴普寧(ごったんふねい)を開山としたことから、兀菴・大休・南洲の三名が開山に名を連ねることとなった。但し、やはり宋からの渡来僧であったこの兀菴普寧は、パトロンであった時頼の死後に支持者を失って文永二(一二六五)年には帰国しており、更に実は浄智寺開山の七年前の一二七六年に没している。沢庵が「兀庵を開山とせざる事は故ありとぞ」には、そうした背景を押さえた叙述である。]
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