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2013/03/14

夢 萩原朔太郎 (アフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭に配された「1 夢」 全)

ここで、部分的に示してきたそれを、前半部も含めてソリッドに固めて示す。



       夢と人生

 

 夢が虛妄に思はれるのは、個々の事件が斷片であり、記憶の連續がないからである。昨日私は、夢の中で借金し、夢の中で怪我をした。しかし朝になつて見れば、借金を返す義務もなく、負傷の跡方さへもないのである。そして今夜の夢は、それと全く別なことを經驗する。だがもしさうでなく、夢が夜毎に連續したらどうであらうか。昨日の夢で怪我をした私は、今夜の夢で病院へ入院し、醫師の治療を受けねばならぬ。そして昨日の夢で借りた金を、今夜の夢で催促され、工面しなければならないのである。

 この場合にあつて、夢はまさしく現實である。即ち人々は、晝間の生活と、睡眠中の生活と、二部の倂存した人生を生きねばならぬ。神がもし慈悲深く、衆生の人間に對して平等だつたら、おそらくこの二つの生活は、互に反對のものになるであらう。即ち晝間の生活で幸福であり、樂しく滿悦してゐるところの人々は、夢の中で苦惱多く、不幸な人生を經驗し、その反對の人々は、晝間の生活の代償として、夢の中で幸福な世を送る。そしてすべての人々は、神の公平な攝理の下に、エコヒイキなく平等になる。だがどんな場合にあつても、神は決して公平でない。なぜなら夢は、その人の先天的氣質や體質や、特に健康狀態によつて決定されるからである。たとへば神經質の人や、内氣で非社交的な人々や、不健康で病弱の人々や、即ち一口で言へば、生存競爭の劣敗者たる素質を持つた人々は、概して皆苦しい夢、恐ろしい夢、人から苛められるやうな夢ばかり見る。反對に樂天的で陽氣な人々や、社交的で元氣がよく、健康のすぐれた強壯の人々や、即ち素質的に生存競爭の優勝者たる人々は、概して皆樂しい夢、明るい輝いた夢ばかり見る。「富める者は、その持たざる物をも與へられ、貧しき者は、その持つ物をも奪はる」と耶蘇が言つた聖書の言葉は、人生のどんな場合にも眞實である。幸運の星の下に生れた人は、夜の夢の中でも幸福であり、惡しき星の下に生れた人は、夢の中でさへも、二重にまた不幸である。夢がその一夜限りの斷片であり、記憶の連續をもたないこと、その故にまた虛妄であるといふことは、せめてもの恩寵として、神に感謝すべきことであるかも知れない。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の冒頭に配されいる。]

 

 

 

       夢を支配する自由

 

 阿片やモルヒネの麻醉が、人を樂しく恍惚とさせるのは、それが半醒半夢の狀態を喚起させ、夢を自由に幻想することができるからである。眞に深く眠つてしまへば、人はもはや意識を失ひ、或る超自我の生命支配者がするところの、勝手な法則に夢を委ねなければならなくなる。しかもその夢は、たいてい願はしくないこと、思ひがけないこと、厭な樂しくもないことばかりである。しかも覺醒している間は、意識が現實の刺激に對して、一々の決定された法則によつて反應するため、一も眞の自由が得られず、人間の精神生活そのものが、物理的法則の支配下に屬してしまふ。精神の眞の自由――自分の意志によつて、自分の意識を支配することの自由――は、ただ夢と現實の境、半醒半夢の狀態にだけある。阿片の醉夢の中では、人はその心に畫いてゐるところの、どんなヴイジヨンをも幻想し得る。だがさうした毒物の麻醉を借りずに、もつと自然的(ノーマル)な仕方によつて、夢を自由にコントロールすることができるならば、人生はずつと幸福なものに變るであらう。その時人々は、現實に充たされない多くの欲望を、夢で自由に充たすことができる上に、意識をその決定する因果の法則から、自由に解放することによつて、あらゆる放縱不覊なイメージや美的意匠を、夢で藝術することができるのである。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の二番目に配されている。「ノーマル」は底本では「自然的」のルビである。ここで朔太郎が、フロイトの『超自我』の用語を用い、その検閲説をも肯定しているのが興味深い。フロイトの「夢判断」は一九〇〇年に書かれた。朔太郎が英訳版などを管見していた可能性は高いが、邦訳でも昭和四(一九二九)年末から殆んど同時に二つの邦訳フロイト全集の刊行が始まっていた。一つはアルス刊の「フロイト精神分析大系」全十二巻(安田徳太郎・丸井清泰・関良三他訳)、今一つは春陽堂書店刊の「フロイト精神分析全集」全十巻(大槻憲二他訳)である。]

 

 

 

       夢と情緒

 

 夢の中で見る事件や物象は、概して皆灰色に薄ぼんやりして、現實のやうにレアルでない。だがその反對に、夢の中で感ずる情緒は、現實のそれと比較にならないほど、ひどく生々(なまなま)としてレアリスチツクに強烈である。特に惡夢などで經驗する、恐怖の情緒の物凄さは、到底普通の言葉で語られないほど、生々(なまなま)として血まみれに深刻である。(多くの物凄い怪談は、たいてい夢の恐怖を素材にしてゐる)現實の世界に於ては、たとへどんなに恐ろしい事件、死に直面するやうな事件に遭遇しても、決して夢のそれのやうには恐ろしくない。悲哀の情緒もまた、夢の中では特別に辛烈である。夢で愛人と別れたり、兩親と死別したり、それから特に、自分の避けがたい死や不運やを見たりする時ほど、眞に斷腸の悲しみといふ言葉を、文字通りに感じて噓唏することはない。夢で慈母を喪つた悲しみは、むしろ現實のそれに數倍して哀切である。現實の情緒は、悲哀にまれ、恐怖にまれ、理智の常識する白晝(まひる)の太陽に照らされて、夢の闇の中で見るやうに強烈でなく、晝間の殘月のやうにぼんやりしてゐる。情緒の眞のレアリチイは、夢の中にのみ實在してゐる。そしてこのことは、夢が何億萬年の古い人類の歴史を、我々の記憶の中に再現することを實證する。おそらく我々は、原始に類人猿の一族から發生した時、未だ理智の悟性が芽生えなかつた。その時人間は、鳥類や獸類と同じやうに、純粹に情緒ばかりで行動して居た。そして鳥類や獸類やは、今でも尚依然として、我々が夢の中で感ずるやうに、世界を「現實(レアル)」に經驗して居るのである。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の三番目に配されている。ここでは後半部で俄然、ユングの原初的無意識説が語られ始める。「噓唏」は「きよき(きょき)」と読み、ためいきをつく、嘆息をする、啜り泣くで、「歔欷」と同じい。]

 

 

 

       夢と動物愛

 

 動物の情緒(悲哀や、喜悦や、恐怖やの感情)が、いかに生々(なまなま)しく強烈なものだといふことを、夢の經驗によつて推測するところの人々は、彼等の畜類に對して、自然に同情と理解をもつようになり、基督教的の倫理觀から、動物愛護主義者になる。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の四番目に配されている。このアフォリズムは面白く、個人的に考えるところがある。皮肉な意味で、である。]

 

 

 

       夢の起源

 

 夢が性慾の潛在意識だといふフロイドの説は、それのドグマによる彼の夢判斷と共に、私の考へるところでは誤つて居る。おそらく夢の起源は、人間にも動物にも共通して、祖先の古い生活經驗を遺傳してゐるところの、先驗的記憶の再現である。夜、夢の中で遠吠えする犬の聲が、それ自ら狼の鳴聲と同じであるといふことは、疑ひもなく犬の夢が、祖先の狼であつた時の、古い記憶を表象してゐるのである。人間の夢の中に、蛇や蜥蜴やの爬蟲類が、最も普通にしばしば現はれるのは、フロイドの言ふ如く性慾の表象でなく、おそらく人類の發生期に於て、それらの巨怪な爬蟲類が地球上に繁盛し、憐れな賴りない弱者であつた我等の先祖を、絶えず脅かしてゐた爲であらう。人類の先祖は、一億萬年もの長い間、非力な賴りない動物として、酷烈な自然と鬪ひながら、不斷に他の強大な動物から脅かされ、生命の危險におびえわなないて居た。人間がその發育した理智によつて、自然の苛虐から自衞策を講じ、次第に他の強敵を征服して、自らの文化と歴史とを作つたのは、極めて最近の事蹟であり、人類進化の悠遠な史上に於ては、殆んど言ふに足らない短日月の歴史にすぎない。我等の意識内容にある記憶の主座は、過去に最もながく人類の經驗した、樣々の恐ろしいこと、氣味の惡いこと、怯え戰つてることばかりである。人は夜の夢の中で、樹人や火人であつた頃の、先祖の古い記憶を再現し、いつも我等の生命を脅かして居たところの、妖怪變化の恐ろしい姿や、得體の解らぬ怪獸やの、魑魅魍魎(ちみまうりやう)の大群に取り圍まれて魘されてゐる。人が本能的に闇黑を恐れるのも、それが敵から襲撃されるところの、最も恐ろしく氣味の惡い時であつたからだ。夢の中では、人間も萬物の靈長ではなく、馬や牛や動物と變りがない。或はもつとそれよりも、悲しく頼りない生物であるかも知れない。人間の夢の中に理智が現はれ、文化人としての記憶が表象されるのは、おそらく數千萬年の將來に屬するだらう。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の五番目に配されている。この一連の夢論の中でフロイドの名の初出である。朔太郎の謂いはユングの原初的無意識に近い考え方であるが、『人類の發生期に於て、それらの巨怪な爬蟲類が地球上に繁盛し、憐れな賴りない弱者であつた我等の先祖を、絶えず脅かしてゐた爲であらう』という謂いの誤り(これはジュラ紀をイメージしており科学的には誤りである。哺乳類の祖先とされる白亜紀の哺乳綱獣亜綱後獣下綱デルタテリディウム目デルタテリディウム科デルタテリディウム属 Deltatheridium を『人類の發生期』とは言い難い。また、その前の『祖先の古い生活經驗を遺傳してゐるところの、先驗的記憶の再現』という主張は、それこそ私が好きでしばしば授業した阿部公房が「日常性の壁」で批判している誤謬と全く以って同じで、後天的経験記憶の安易な遺伝説という点で非科学的、「日常性の壁」で樹上生活しているうちはヒトではなく、未だサルであったという目から鱗の論駁とまたまた同じく、朔太郎は『樹人』という誤った概念を提示している。彼の謂いは、それこそ日本では極めて幅をきかせて人気も依然として高いユング派精神分析学というちょっとアブナイ科学の無批判でロマンティックな信仰者の主張であるとも言えよう。因みに、私はかつてフロイトに私淑し、ユングを耽読してきたし、大学では精神分析を主体とした心理学を学びたいと思った(が心理学科は総て不合格で国文科へ入ったが)が、今は彼らの学問は理系的な精神医学には属さないのではないか、況や、実験心理学や動物行動学等が保持しているところの実証的科学性すらないと感じている。但し、文系的な一つの思想としては今でも面白いとは思っている。]

 

 

 

       心理學者の誤謬

 

 夢の解釋について、多くの心理學者に共通する誤謬は、覺醒時に於ける半醒半夢の狀態から、眞の昏睡時の夢を類推することである。夢が性慾の潛在意識であるといふフロイドの學説も、おそらくその同じ誤謬から出發してゐる。覺醒時に於ては、既に半ば意識が働き、夢を夢と意識することから、人は或る程度まで、夢を自分の意志によつて、自由にコントロールすることができるのである。そこでフロイドの説の如く、人はその日常生活で抑壓され、ふだんに内攻してゐる性の欲求を、おのづから夢の中に變貌して表象する。多くの人々にあつて「まだ醒めやらぬ明方の夢」が樂しいのは、つまり言つてこの事實を説明してゐる。なぜならフロイドの説によれば、夢は原則として「樂しいもの」であり、性の解放による饗宴でなければならないからだ。だが眞の昏睡時の夢は、概してあまり樂しいものではなく、むしろ性の解放とは關係がないところの、恐ろしいことや悲しいことが多いのである。

 ベルグソンの夢の説も、ひとしくまた同じ點で誤つてゐる。ベルグソンによれば、夢は身體の内外に於ける知覺の刺激――戸外の物音や、胃腸の重壓感や――によつて動因的に表象されるといふのである。彼はその例證として、戸外で吠える犬の聲から、大砲の音を表象し、それによつて戰爭の夢を見たと言つてる。覺醒時に於て、知覺が半ば目を醒ましてゐる時には、疑ひもなくその通りである。しかし意識が全く昏睡してゐる夢の中では、ベルグソンの説明が意味をなさない。おそらく夢の解説は、もつと不思議で解きがたく、謎の深い神祕の闇に低迷してゐる。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の六番目、前掲の「夢の起源」の次に配されている。この内容は頗る共感出来る。これ、凡そ日本の昭和初期の一介の詩人の書き散らしたもののとは思われない。古い夢分析についての精神分析学の学術論文の一節と偽っても、誰もが信ずるであろう。]

 

 

 

       幼兒の夢

 

 幼兒は絶えず夜泣きをし、何事かの夢に魘されておびえ泣いてる。母の胎體を出たばかりの小さな肉塊。人間といふよりは、むしろ生命の神祕な原型質といふべき彼等は、夢の中に何物の表象を見るのであらうか。性慾の芽生えもなく、人生に就いて何の經驗もない彼等は、おそらくその夢の中で、過去に何萬代の先祖から遺傳されたところの、人類の純粹記憶を表象してゐるのであらう。夢に魘えて夜泣きをする幼兒の聲ほど、生命の或る神祕的な恐怖と戰慄とを、哀切に氣味わるく感じさせるものはない。たしかに彼等の幼兒は、夢の中で魑魅魍魎に取り圍まれ、人類の遠い先祖が經驗した、言説しがたく恐ろしいこと、危險なことを體驗し、生命の脅かされたスリルを味はつてゐるのである。夢を性慾の表象とし、それによつて夢判斷をするフロイド流の心理學者は、すくなくともその同じ原理によつて、赤兒の夢を判斷し得ない。夢の起源は、彼等の學者が思惟するよりは、もつとミステリアスな詩人の表象と關聯してゐる。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の七番目、前掲の「夢の誤謬」の次に配されている。下線部は底本では傍点「ヽ」。最後のフロイト批判は頗る説得力があるように私には思われる。なお、ユングの人類共通の原初的な集合的無意識という元型仮説は、一九二一年の代表作「心理学的類型」(「タイプ論」「元型論」とも訳される)で公にされている。]

 

 

 

       「思ひ出」と幼年心理

 

 雪の降る夜の願人坊や、黑ン坊の子供や、生膽取りの幻想やによつて、絶えず物におびえ泣いてゐる幼兒の心理を、官能的でイマヂナチヴな言葉によつて、美しくもリリカルな詩に表現した北原白秋の「思ひ出」は、おそらくこの種の詩集として、世界に稀有な文獻であると共に、兒童文學の研究者にとつて、最も貴重な參考書であるだらう。なぜなら詩人の直覺する眞理は、學者の抽象的な推理以上に、心の内奥する祕密の本質を直視してるから、いかなる學者にもまさつて、白秋は兒童心理學の大家であつた。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の「個人と社會」の冒頭にある「1 夢」の八番目、前掲の「幼兒の夢」の次に配されている。下線部は底本では傍点「ヽ」。「個人と社會」の、底本の独立標題ページの下には、確かに「1 夢」とあるのだが、これは実は本文にはない。従ってどこでこの「1 夢」のパートがどこで終わるのかは、実は示されていないのであるが、次の「2 女性――家庭――結婚――sex」という標題内容と、この『「思ひ出」と幼年心理』の次のアフォリズム「女の悲しさ」を読む限りに於いて、間違いなく「1 夢」はこの『「思ひ出」と幼年心理』を以って終了していることが分かる。]

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