北條九代記 和田義盛上總國司職を望む
○和田義盛上總國司職を望む
承元三年五月十二日、和田左衞門尉義盛、内々望み申す事あり。往當(そのかみ)、故右大將家の御時に、抜群の忠功を勵(はげま)し、平氏没落して、四海靜謐に歸し、勲功の賞、行はれて、諸侍の位次(ゐじ)を定めらる。義盛は諸司(しよしの)別當に補(ふ)せられしに、梶原景時羨みて、假初(かりそめ)にこの職を借(かり)て永く返さず。景時没落の後、義盛、二度、還補(げんふ)したりけるが、此比上總國司職を望み申しけるを、將軍家、即ち、尼御臺政子の御方へ申合されたり。尼御臺、仰せられけるやう、故右大將家の御時より、侍(さぶらひ)の受領は停止(ちやうじ)せられたり、今更、成例(じやうれい)を始めらるべからず、女性(によしやう)なんどの口入(こうじゆ)には足らざるの旨、御返事有てその事打止(うちや)めらる。義盛、歎狀(たんじやう)を大官令に付けて、一生の望(のぞみ)、この一事にある由、述懷申しければ、「如何にも御計(はからひ)あるべし。左右を待つべし」とぞ仰出(おほせいだ)されける。同十二月十五日、近國の守護補任の御下文(くだしぶみ)を進ず。その中に千葉介成胤(なりたね)は、先祖千葉〔の〕大夫、元永より後、當莊の檢非違使所(けんびゐしどころ)たるの間(あひだ)、右大將家の御時、常胤、下總一國の守護職に補(ふ)せらるゝの由を申す。三浦兵衞尉義村は、祖父(おほじ)義明(よしあきら)、天治より以來(このかた)、相摸國の雑事(ざふじ)相交(まじは)るに依て、同じき御時檢斷の事、同じく沙汰致すべきの旨、義澄、是を承るの由を申す。小山左衞門尉朝政(ともまさ)は、本(もと)より御下文を帶せず。先租下野〔の〕少掾(じよう)豐澤(とよざは)、當國の押領使(あうりやうし)として、檢斷のこと、一向に執行(しゆぎやう)致す。秀郷朝臣(ひでさとのあそん)、天慶三年に官符を賜るの後、十三代數百歳奉行するの間、更に中絶の例(れい)なし。但し、右大將家の御時は建久年中に、亡父政光入道、この職を朝政に讓與(ゆづりあた)ふるに就いて、安堵の御下文を賜る計(ばかり)なり。敢て新恩の職にあらずと申す。その外國々皆右大將家の御下文を帶す。向後愈(いよいよ)政道怠るべからずと、仰せ含めらる。惣じて大名諸侍、其(その)先祖の武功を衒(てら)ひ、私(わたくし)の述懷を以て上を怨み奉る事は不忠の者たるべし。足る事を知るを勇士(ようし)の心とし、國家を守り奉るを忠勤の侍とす。只深く身を謹(つつしみ)て家を治むと名付くと、賞祿に厭(あ)かざる輩を誡仰出(いまいめおほせいだ)されけり。和田義盛、上總國司の事、所望を止(とど)め候、今は執心も無く候へば、擎(さゝ)げ奉る所の歎狀を返し給はるべき由を申す。既に御前に進覽せしめ、暫く御左右を待つべき旨、仰を承はりながら、今この訴訟、偏(ひとへ)に上を輕(かろし)め計(はから)ふ事、甚だ御意に叶はずとぞ、御氣色(ごきしよく)ありけり。子息四郎義直、五郎義重等(ら)、深く心に含みて、世を謀(はか)る志出來たり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十九の承元三(一二〇九)年十一月二十七日、十二月十五日、及び巻十六の正治二(一二〇〇)年二月五日の条(義盛の侍所別当還補)に基づく(「和田義盛侍所の別當に還補す」の注に既出)。前の二条を纏めて抜粋して示す。
○原文
(十一月大)廿七日丁巳。和田左衞門尉義盛上総國司所望事。内々有御計事。暫可奉待左右之由蒙仰。殊抃悦云々。
(十二月小)十五日乙亥。近國守護補任御下文等備進之。其中。千葉介成胤者。先祖千葉大夫元永以後爲當庄檢非違所之間。右大將家御時。以常胤被補下総一國守護職之由申之。三浦兵衞尉義村者。祖父義明天治以來依相交相摸國雜事。同御時。檢斷事同可致沙汰之旨。義澄承之訖之由申之。小山左衞門尉朝政申云。不帶本御下文。曩祖下野少掾豊澤爲當國押領使。如檢斷之事。一向執行之。秀郷朝臣天慶三年更賜官符之後。十三代數百歳。奉行之間。無片時中絶之例。但右大將家御時者。建久年中。亡父政光入道。就讓與此職於朝政。賜安堵御下文許也。敢非新恩之職。稱可散御不審。進覽彼官符以下狀等云々。其外國々又帶右大將家御下文訖。縱雖犯小過。輙難被改補之趣。有其沙汰。向後殊不可存懈緩之由。面々被仰含。廣元奉行之。
○やぶちゃんの書き下し文
(十一月大)廿七日丁巳。和田左衞門尉義盛、上総國司所望の事、内々に御計(おんはから)ひの事有り。暫く左右(さう)を待ち奉るべきの由、仰せを蒙り、殊に抃悦(べんえつ)と云々。
(十二月小)十五日乙亥。近國の守護、補任の御下文等之を備進(びしん)す。其の中に、千葉介成胤は、先祖千葉大夫、元永より以後、當庄檢非違所(けびゐどころ)たるの間、右大將家の御時、常胤を以つて下総一國の守護職を補(ふ)せらるるの由、之を申す。三浦兵衞尉義村は、祖父義明(よしあき)、天治より以來(このかた)、相摸國の雜事(ざふじ)に相ひ交はるに依つて、同じき御時、檢斷の事、同じく沙汰致すべきの旨、義澄、之を承り訖んぬるの由、之を申す。小山左衞門尉朝政(ともまさ)、申して云はく、本の御下文を帶せず。曩祖(なうそ)下野少掾豊澤(しもつけのしやうじやうとよさは)、當國の押領使(あふりやうし)として、檢斷のごときの事、一向に之を執り行ふ。秀郷朝臣、天慶三年、更に官符を賜はるの後、十三代數百歳奉行するの間、片時(へんし)も中絶の例(ためし)無し。但し、右大將家の御時は、建久年中、亡父政光入道、此の職を朝政に讓り與ふるに就き、安堵の御下文を賜はる許りなり。敢へて新恩の職に非ず。御不審を散ずべしと稱し、彼の官符以下の狀等を進覽すと云々。
其の外の國々、又、右大將家の御下文を帶び訖んぬ。縱ひ小過を犯すと雖も、輙(たやす)く改補せられ難きの趣き、其の沙汰有りて、向後、殊に懈緩(けくわん)を存ずべからざるの由、面々に仰せ含めらる。廣元、之を奉行す。
「上總國」は親王任国(しんのうにんごく:親王が国守に任じられた常陸国・上総国・上野国の三国。親王任国の守である親王は太守といい、国府の実質的長官は「介」と称した)であるので、その国司は上総介。
「受領」国司。なお、鎌倉時代は寧ろ、幕府によって各地に配置された地頭が、荘園や国司の管理していた国衙領へ侵出し、徐々に国司の支配権を奪っていった時代でもあった。
「歎狀」嘆願書。
「大官令」大江広元。
「下文」鎌倉幕府の場合は、政所から管轄諸官庁に下した公文書。
「進ず」将軍決裁を受けるための上申。
「千葉介成胤」(久寿二(一一五五)年~建保六(一二一八)年)は、治承四(一一八〇)年に石橋山の戦いに敗れた頼朝が安房国に逃れた際、祖父常胤や父胤正と共に頼朝の軍に参加、平家の総帥清盛の姉婿藤原親政を生虜にするという快挙を成し遂げて治承・寿永の乱を制する原動力となった。「吾妻鏡」によると、叔父東胤頼が安房国に逃れた頼朝への加勢と下総目代を誅することを主張、祖父常胤もこれを認めて、頼朝の軍に合流する事を決定し、叔父東胤頼と成胤は千葉荘を後にするに際し、下総目代を襲い、攻め滅ぼしている(治承四年九月十三日の条)。そのため、下総国千田荘領家で皇嘉門院判官代の藤原親政が千余騎を率いて千葉荘に侵入、千葉荘に戻った成胤と合戦になった。わずか七騎で迎え撃った成胤は、忽ち絶体絶命の窮地に陥ったが、それでも奮戦し遂に親政を生虜にしたという(同年九月十四日の条)。親政を生虜にしたことで様子見をしていた上総広常など坂東の武士団が挙って頼朝の軍に合流、関東における頼朝の軍事力は平家方の勢力を大きく上回る事になった。文治五(一一八九)年の奥州合戦にも加わって功を挙げ、建仁三(一二〇三)年の父の死により、家督を継いで当主となった。この後の建暦三(一二一三)年の泉親衡の乱を未然に防ぎ、続く和田合戦でも義時側に与して武功を挙げている(ウィキの「千葉成胤」に拠った)。
「先祖千葉の大夫」平安期の武士で千葉氏の祖(千葉成胤の五代前)平常長(万寿元(一〇二四)年~嘉承三(一一〇八)年)のこと。前九年の役と後三年の役では源頼義・義家父子に従って戦功を立てたとされ、戦後、上総国大椎に館を構え、更には下総国千葉郷に進出して、千葉大夫と号したとされる。常長には多くの息子がおり、その息子たちで房総平氏の諸氏が形成されるが、この内、次男の常兼が千葉氏、五男の常晴が上総氏の祖となって勢力を誇示することとなった(ウィキの「平常長」に拠った)。
「元永」西暦一一一八年~一一二〇年。千葉氏の初代当主平常兼(常長の子で下総国千葉郷に因んで千葉大介と号したとされる)の時代。
「檢非違使所」諸国に置かれた検非違使(犯罪・風俗の取締りなどの警察業務及び訴訟・裁判を掌る職)の事務を扱う所。
「常胤」成胤の祖父で幕府重臣千葉常胤(元永元(一一一八)年~建仁元(一二〇一)年)。彼の代に広大な相馬御厨(そうまみくりや:現在の茨城県取手市・守谷市及び千葉県柏市・流山市・我孫子市の辺りにあった伊勢神宮の荘園)を千葉氏は掌握することとなった。
「守護職」鎌倉時代以後、一国ごとに設置された武家による治安維持・軍事的統制を掌る行政官。守護人・守護奉行職・守護奉行人とも呼ばれる。近年の研究では平安中期以降諸国において、有力在庁官人となった大武士が「国の兵(つわもの)」と呼ばれる群小武士を随時統率する形の軍制が形成されてくることが明らかになっており、近年では、この軍制が平安末期には全体として主従制的性格の濃いものとなり、その統率者が国(くに)守護人と呼ばれ始めた可能性の高いことが指摘されている(主に平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「祖父義明」三浦義明(寛治六(一〇九二)年~治承四(一一八〇)年)は三浦荘(現在の神奈川県横須賀市)の在庁官人。桓武平氏平良文を祖とする三浦氏の一族。相模介三浦義継の子で三浦義村の祖父。頼朝が挙兵すると、一族挙げてこれに合流しようと居城の衣笠城を出撃したが、途中、石橋山の戦いの敗戦を聞き、引き返して籠城、程無くして敵方に参加していた畠山重忠率いる軍勢と合戦となり(衣笠城合戦)、一族郎党を率いて奮戦するも刀折れ矢尽き、義澄以下一族を安房に逃した後、独り城を守って戦死した。享年八十九(ウィキの「三浦義明」に拠った)。
「天治」西暦一一二四年~一一二六年。三浦義明は世襲の官である三浦介を号して、この天治年間に国務に参画、三浦半島一帯に勢力を扶植した(ウィキの「三浦義明」に拠る)。
「雑事相交る」種々雑多な政務に従事する。
「檢斷」検断職(けんだんしき)。刑事上の事件を審理評決する権限を有した職。中世に於いて侍所・六波羅探題・守護・地頭等に与えられていた。
「小山左衞門尉朝政」(保元三(一一五八)年?~嘉禎四(一二三八)年)頼朝直参の家臣。既出の奥州合戦でも活躍している。
「下野の少掾豐澤」藤原豊沢。藤原秀郷の祖父。
「押領使」基本的には国司や郡司の中でも武芸に長けた者が兼任し、主として現代でいう地方警察のような一国内の治安の維持に当たった。中には、一国に限らず、一郡を兼務していた者や、一時は東海道・東山道といった道という広範囲に亙っての軍事を担当した者もある。いずれにしても、地元密着型の職務であることから、押領使には土地の豪族を任命することが主流となり、彼らが現地において所有する私的武力がその軍事力の中心となった。天慶の乱に於いて下野国押領使として平将門を滅ぼした藤原秀郷は、まさにその代表格である(ウィキの「押領使」に拠った)。
「一向に執行致す」独占的にずっと執り行って参った。
「秀郷朝臣」藤原秀郷。
「天慶三年」西暦九四〇年。ウィキの「藤原秀郷」によれば、この前年、天慶二(九三九)年に平将門が兵を挙げて関東八か国を征圧すると(天慶の乱)、平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶三(九四〇)年二月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察しており、この功により同年三月、従四位下に叙され、十一月に下野守に任じられた。さらに武蔵守・鎮守府将軍も兼任するようになった、とある。
「官符」太政官符(だいじょうかんぷ)。太政官から八省や諸国に命令を下した公文書。
「建久年中」西暦一一九〇年~一一九八年。
「政光入道」小山氏の祖であ小山政光(生没年未詳)。武蔵国の在庁官人で藤原秀郷の直系子孫とされる太田行政の子(または孫)である。元の名は太田政光で、平安末期の久安六(一一五〇)年頃に下野国に移住し、小山荘に住して小山氏の祖となった。後妻で三男朝光の母である寒河尼は源頼朝の乳母である。下野国の国府周辺に広大な所領を有し、下野最大の武士団を率いていた(小山政光の部分はウィキの「小山政光」に拠る)。
「敢て新恩の職にあらず」全く以って(どこぞの新興勢力が受けたような)新たな恩賞として頂戴した職ではそもそもない。
「その外國々皆右大將家の御下文を帶す」この部分、増淵氏は実朝の言として、以下の「向後愈政道怠るべからず」と繋げて、『貴公ら以外の国でも皆右大将頼朝卿の御下文を所持して(それで満足して)いるのである。(それを守って)今後ますます職務を怠ってはならない』と訳しておられるが、如何か? 「吾妻鏡」を見る限り、「その外國々皆右大將家の御下文を帶す」は地の文で、『其の外の國々、又、右大將家の御下文を帶び訖んぬ。縱ひ小過を犯すと雖も、輙く改補せられ難きの趣き、其の沙汰有りて、向後、殊に懈緩(けくわん)を存ずべからざるの由、面々に仰せ含めらる』で、「その外の国々もまた、同じように頼朝卿の御下文をただ今まで所持し続けているのである。されば、ここは、
――実朝卿は『たとえ多少の罪過を犯すと雖も、(それなりの由緒があり、尚且つ、何よりも右大将御自身が公的に定められたものなれば)簡単にはその職を改変されるべきではあるまい』という趣旨の御決裁があり、加えて(そのように有り難き伝家の褒美なればこそ)『向後、特に、懈怠することなく、精を込めて幕府に仕えるよう、心懸けずんばらなず。』という趣旨の言を、それぞれの申し出た武将たちに伝えさせた。――
という謂いであろうと私は判断する。
「惣じて大名諸侍、其先祖の武功を衒ひ、私の述懷を以て上を怨み奉る事は不忠の者たるべし。足る事を知るを勇士の心とし、國家を守り奉るを忠勤の侍とす。只深く身を謹て家を治むと名付く」これは筆者の創作部分である。
「和田義盛、上總國司の事……甚だ御意に叶はずとぞ、御氣色ありけり」これも「吾妻鏡」になく、やはり筆者の創作か?
「子息四郎義直、五郎義重等、深く心に含みて、世を謀る志出來たり」義盛のこの一連の出来事によって、彼の子息である義直と義重が深く遺恨を残して、将軍家に対し、謀叛を企てんとする悪しき心が芽生えた、というのは、この次の次で語られる「和田義盛叛逆滅亡」の端緒となる、建暦三(一二一三)年の泉親衡の乱(信濃源氏の泉親衡が頼家の遺児千寿を将軍に擁立し、北条氏を打倒する陰謀が未然に発覚した事件)で、事件に関与したとして、この義直と義重二人の息子と甥の胤長が逮捕されたことに繫げる叙述である(義直・義重は義盛の多年の勲功に免じて赦免されたが、胤長は赦免を求めに来ていた義盛以下の和田一族の面前で、事件の張本人と断定されて縄で縛りあげた姿を引き立てられるという大きな屈辱を受け、流罪と決した。この胤長の処分を決めた執権北条義時への義盛の深い恨みが和田義盛の乱の大きな要因の一つとなった。]
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