薄暮の部屋 萩原朔太郎 (「青猫」版)
薄暮の部屋
つかれた心臟は夜(よる)をよく眠る
私はよく眠る
ふらんねるをきたさびしい心臟の所有者だ
なにものか そこをしづかに動いてゐる夢の中なるちのみ兒
寒さにかじかまる蠅のなきごゑ
ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。
私はかなしむ この白つぽけた室内の光線を
私はさびしむ この力のない生命の韻動を。
戀びとよ
お前はそこに坐つてゐる 私の寢臺のまくらべに
戀びとよ お前はそこに坐つてゐる。
お前のほつそりした頸すぢ
お前のながくのばした髮の毛
ねえ やさしい戀びとよ
私のみじめな運命をさすつておくれ
私はかなしむ
私は眺める
そこに苦しげなるひとつの感情
病みてひろがる風景の憂鬱を
ああ さめざめたる部屋の隅から つかれて床をさまよふ蠅の幽靈
ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。
戀びとよ
私の部屋のまくらべに坐るをとめよ
お前はそこになにを見るのか
わたしについてなにを見るのか
この私のやつれたからだ 思想の過去に殘した影を見てゐるのか
戀びとよ
すえた菊のにほひを嗅ぐやうに
私は嗅ぐ お前のあやしい情熱を その靑ざめた信仰を
よし二人からだをひとつにし
このあたたかみあるものの上にしも お前の白い手をあてて 手をあてて。
戀びとよ
この閑寂な室内の光線はうす紅く
そこにもまた力のない蠅のうたごゑ
ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。
戀びとよ
わたしのいぢらしい心臟は お前の手や胸にかじかまる子供のやうだ
戀びとよ
戀びとよ。
[やぶちゃん注:詩集「青猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)の「幻の寢臺」の巻頭を飾る「薄暮の部屋」。初出の擬宗教性に富んだある意味、理知の勝った、観念的景観がホリゾントのずっと彼方まで後退し、逆に恋人と詩人に死の饐えた甘い香りを振り撒く蠅の幽霊と、そのオノマトペイアが、ミューズの生贄として祭壇の上に美しくアップされる。――しかし、この詩の朗読は、難しい――。]
« 夕暮室内にありて靜かにうたへる歌 萩原朔太郎 (「薄暮の部屋」初出形) | トップページ | 耳嚢 巻之六 酒量を鰹によりて增事 »