時計 萩原朔太郎 (初出形及び決定稿「定本靑猫」版)
時計
古いさびしい空家の中で
椅子が茫然として居るではないか。
その上に腰をかけて
編物をしてゐる娘もなく
暖爐に坐る黑猫の姿も見えない。
白いがらんどうの家の中で
私は物悲しい夢を見ながら
古風な柱時計のほどけて行く
錆びたぜんまいの響を聽いた。
じぼあん・じやん! じぼあん・じやん!
古いさびしい空家の中で
昔の戀人の寫眞を見てゐた。
どこにも思ひ出す記憶がなく
洋燈(らんぷ)の黃色い光の影で
かなしい情傷だけがたゞつてゐた。
私は椅子の上にまどろみながら
遠い人氣のない廊下の向うを
幽靈のやうにほごれてくる
柱時計の錆びついた響を聽いた。
じぼあん・じやん! じぼあん・じやん!
[やぶちゃん注:底本は筑摩版全集初版に拠った。『若草』第四巻第十二号(昭和三(一九二八)年十二月号)所載。後の「新潮社版 現代詩人全集 萩原朔太郎集」の所収され、「定本靑猫」の決定稿で知られる「時計」の初出形である。下線部「ぜんまい」は底本では傍点「ヽ」。「ほごれてくる」は、縺れたり、固まったりしたものが溶けて離れてくること。「解(ほど)ける」と同義。なお、「新潮社版 現代詩人全集 萩原朔太郎集」では、「白いがらんどうの家の中で」が「白いがらんどう家の中で」となっているが、単なる脱字であろう。]
時計
古いさびしい空家の中で
椅子が茫然として居るではないか。
その上に腰をかけて
編物をしてゐる娘もなく
煖爐に坐る黑猫の姿も見えない
白いがらんどうの家の中で
私は物悲しい夢を見ながら
古風な柱時計のほどけて行く
錆びたぜんまいの響を聽いた。
じぼ・あん・じやん! じぼ・あん・じやん!
古いさびしい空家の中で
昔の戀人の寫眞を見てゐた。
どこにも思ひ出す記憶がなく
洋燈(らんぷ)の黃色い光の影で
かなしい情熱だけが漂つてゐた。
私は椅子の上にまどろみながら
遠い人氣(ひとけ)のない廊下の向うを
幽靈のやうにほごれてくる
柱時計の錆びついた響を聽いた。
じぼ・あん・じやん! じぼ・あん・じやん!
[やぶちゃん注:「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)所収のもの。私は生理的に初出を断然、支持したい。――何故かって? 私にとっては、忘れられた柱時計の音は決して「じぼ・あん・じやん!」――ではなく――「じぼあん・じやん!」であるからだ――]