金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 最明寺舊跡 亀の井
最明寺舊跡 亀の井
最明寺(さいめうじ)の舊跡は、山の内にあり。福源山禪興寺(ふくげんざんぜんこうじ)といふ關東禪院十刹(さつ)のその一なり。本願は、平時賴にて、昔は七堂伽藍大寺(てら)なりしといふ。明月院は最明寺の東にあり。上杉憲方(のりかた)の建立也。亀の井は、明月院の後ろにあり。鎌倉十井のその一つなり。
〽狂 せんしうの
めいげつ
いんの
うしろには
これ
ばん
ぜいのかめの
井もあり
「なんと、上(かみ)さん、こゝは田舍でも江戸がちかいから、よい男もおりおりは見なさるであらうが、私(わたし)のやうな色男はめつたにはあるまいの。」
「とんだことをいひなさる。なに、お前がよい男なものか。昨日(きのふ)も妾(わたし)の裏の掃溜(はきだめ)を掃除(そうぢ)したら、お前のやうな男が幾らも、ぞろぞろと出てうるさいから、皆、一つにかためて、川へながしてしまひました。お前も、そこにいつまでもゐなさると、川へながしてしまひますぞ。」
「そんなら、よもや、私独りをながす氣ではあるまい。お前、一緒にながされる氣か。どうだ。」
「妾(わたし)ではない。お前と一緒にながす物があります。私の所のしんだ婆(ばあ)さまが、ひさしく腰拔けでいましたが、その時つくった御厠(おかは)があるから、お前と、その御厠と一緒にながします。」
「さては。その『おかは』といふ女は、よい女か。何處(どこ)の者だ。なんにしろ、女ときいては、なんでも、かまはぬ。しからば、その『おかは』と我らが二人、その川へ浮き名をながすのか、これは、うれしい、うれしい。」
「やれやれ、この團子(だんご)には消炭(けしずみ)の火がくつついて、口の端を大きに火傷(やけど)をした。」
「あつやの。あつやの。」
「上さん、この邊に後家の質屋(しちや)はあるまいかの。どうぞ、儂(わし)を質にとつてもらいたい。利(り)もくふが、飯(めい)も大喰(ぐら)ひだ。」
「團子でもあがりませぬか。妾(わたし)が、この垢だらけな手でまるめたのでござります。」
[やぶちゃん注:「最明寺舊跡」本文にある通り、当時は禪興寺となっていた。最明寺は北条時頼が出家の準備として建立した、極めて個人的な持仏堂乃至は禅定室のようなものであって住持がいた形跡がなく、時頼の死後、すぐに廃絶してしまったと考えられている。但し、その比定位置は現在は、ここに記されたような、また従来説の名月谷奥の狭い範囲ではなく、名月谷入口から東慶寺門前に及ぶ山ノ内街道北側のかなり広範囲な一帯に寺域を保持していたと考えられている。その後、ほぼ同地域に北条時宗を開基、蘭渓道隆を開山として最明寺廃絶数年内の文永五(一二六八)年か翌年辺りに開創されたものが禅興寺である。禅興寺はその後、一旦廃絶したが、永正九(一五八一)年に再興され、その後は天正九(一五八一)年頃までは続いたと推定されている。その後に再び衰微し、貞亨二(一六八五)年に完成した「新編鎌倉志卷三」には、『昔は七堂伽藍ありしと也。源の氏滿建立の時の堂塔幷に地圖、今明月院にあり。甚だ廣大なり。今は佛殿ばかりあり。明月院の持分なり』という状態で、明治初期に廃絶して、塔頭であった明月院のみが残った。
「上杉憲方」「長壽寺 明月院」に既注。
「亀の井」「亀」は原本絵図上の標題の表記。但し、「甕の井」が正しい。知られた十井の呼称では「瓶(つるべ)の井」の方が人口に膾炙している。現在の明月院境内にあり、岩盤を垂直に掘り抜いて作られたものみられるが、掘削時期は江戸期と推定されている。特に伝承は伝わらないが、鎌倉十井の中でも現在でも使用出来る数少ない井戸の一つである。
「御厠」簡易便器である「おまる」のこと。この少し抜けたチャラ男、女中のきっぷのいい尻まくりの剛毅なやり返しに対し、「おかは」を「お川」と言った女性名と聞き違えて、なおも文字通り、糞をまるような洒落でチャラチャラしまくるところが、なかなか面白いではないか。
「あついの、あついの」の台詞は、右の絵の犬の前にある。火傷をしたとぼやくボケが縁台の団子を持った男であろうから、この台詞は、犬の鳴き声をオノマトペイアしているように私は感ずる。]