沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 7
あけゆけば海道をふるに袖も引ちぎらず、上り下り人しるしらず打すぎ打すぎゆく人、いづれか世に殘りとゞまるベき。夢にあひ夢に別る、いづれをうつゝぞや。行とまるべき終のやどりをしる人やある。本覺の都とやらんも名にはきゝつらん、覺つかなし。
東往西還見幾人 人々相遇孰相親
親疎不問草頭露 露脆風前夢裡身
[やぶちゃん注:書き下す。
東往 西還 幾人をか見る
人々 相ひ遇ひ 孰(いづ)れか相ひ親しむ
親疎問はず 草頭の露
露は風前に脆く 夢裡の身
底本では「相」に送り仮名を振らない。]
西行法師、
いつくよりいつくにかよふ道なれは この世をかりの宿といふらん
とかゝる事を聞ても、身のゆくへおもふ人ぞまれなる。
とまる身もゆくも此世を旅なれは 終のやとりはいつちならまし
と口のうちにつぶやきながら行に、かしこの里のこなたより左に付て行末こそ金澤へ入道なれといふ。そこの里の名をとへばかたびらの里と聞て、
地白なる霜のあしたははたさむし 夏そきてみむかたひらの里
と俳諧して谷相の道をへてゆく。やうやうにしてたかき所にのぼれば、ふるき寺など見付て、山路のうれたき心もやぶれぬ。魂傷山峽深愁破崖寺古と杜工部がつくりけむ詩をおもひ出ぬ。又一坂をのぼれば一本の松あり。おひのぼりたるまさきのかづら靑つゞら、くる人もまれなるに、山男ひとり爪木とるが、是にとへば能化堂の松これ也といふに、立よりて金澤を見おろせば詞もなくて、實にや此入海はいにしへよりもろこしの西湖ともてなしけるときくも僞ならじ。追門の明神とて入海にさし出たる山あり。古木くろみ麓に橋あり。橋の下よりしほさし入ぬれば、はるばるとをき山のいりまで湖水となり、しほ引ぬれば水鳥も陸にまどふにこそ。水陸の景氣もあした夕にかはり、金岡も筆およばざりしと也。來て見る今は冬枯の野島が崎とをしふるは、秋の千種の色もなし。水むすびつゝすゞみける折にふれてや名付けん、名は夏島に夏もなし。島根に海士の小屋みえて網をほしたる夕附日、漁村のてらし是也。そめてかはらぬ筆の跡、硯の海のうるひかや、雨にきてまし笠島は、人の國なる瀟湘のよるの心もしられけり。目路とほけれど富士の根を心によせてまだふらぬ江天の雪と打ながむ。浪たちかへる市の聲、風まち出る沖つ舟、烟寺の鐘もひゞきゝぬ。洞庭とてもよそならず、月の秋こそしのばるれ。水のそこなる影を見て、臂をやのぶる猿島は、身のおろかなるなげ木より、おとしてけりな烏帽子島、海士の子どものかり殘す、沖のかぢめか鎚の音、荒磯浪に釘うたせ、あさ夕しほやさしぬらん。箱崎也とをしふるは、松さへしげり、あひにあふ、しるしの箱をおさめつゝ、西を守ると聞つるに、東の海のそこふかき、神の心ぞたふとかりける。
島々やいく浦かけて山と歌 いかになかめん三十一文字
[やぶちゃん注:「いつくよりいつくにかよふ道なれは この世をかりの宿といふらん」この一首、西行の和歌に見出し得ない。識者の御教授を乞う。
「かたびらの里」帷子の里。かむいさんの個人ブログ「横浜の街紹介」の「帷子の里」に、帷子の地名は、「古(いにしへ)よりありし所なりと、されどその名の起りし故は傳へず」として「新編武蔵風土記稿巻文六十九 橘樹郡之十二 神奈川領編」に、道興准后の巡歴集「廻国雑記」(文明一八(一四八六)年成立)と伝太田道灌「平安記行」(室町中期成立)に、「帷子の里」と載る旨の紹介があるとする。「廻国雑記」には、
新羽を立ちて鎌倉に到る道すがら、さまざまの名所ども、委しく記すに及び侍らず。かたひらの宿といへる所にて、
いつ来てか、旅の衣をかへてまし、風うら寒きかたひらの里
と載る。かむいさんのブログでは更に、『かたひらの里は現在の「橘樹神社」「神明社」あたりから元町(後の古町橋)にかけての』里名で、『新羽から「下の道」で芝生(現在の浅間町)の「追分」より元町→神明社の裏山を通り→かなざわかまくら道→岩井原の「北向き地蔵」→弘明寺→上大岡に至り「もちゐ坂」へ向かう』と、同定されておられる。この橘樹(たちばな)神社とは横浜市保土ヶ谷区天王町にあり、そばに現在も帷子川(かたびらがわ)と称する川が流れている。一説に、この天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、昔「かたひら」と呼称されたことに由来するという(この部分はウィキの「帷子川」に拠る)。この「かたびらの里」で「以下にこなたより左に付て行末こそ金澤へ入道なれ」とあるから、この歌は、現在の西横浜辺りで詠まれたと考えられる。
「うれたき」「慨し」、元「心痛(うらいた)し」で、腹立たしい、うらめしい、いまいましい。「谷相」、谷間(たにあい)の景色の開けぬ中を延々と歩いて鬱屈していた。そこへ、景観が開けて解放された思いがしたのである。
「魂傷山峽深愁破崖寺古と杜工部がつくりけむ詩」底本の訓点は納得がいかないので、私の自己流で訓読すると、
魂(こん) 山峽の深きに傷みしが
愁(うれひ) 崖寺(がいじ)の古きに破らる
杜甫の五言古詩「法鏡寺」の第三・四句目であるが、字に異同がある。
身危適他州
勉強終勞苦
神傷山行深
愁破崖寺古
嬋娟碧蘚淨
蕭槭寒籜聚
回回山根水
冉冉松上雨
洩雲蒙淸晨
初日翳複吐
朱甍半光炯
戸牖粲可數
拄策忘前期
出蘿已亭午
冥冥子規叫
微徑不複取
身危適他州
勉強終勞苦
愁破崖寺古原文も参考にさせて頂いた紀頌之氏の「杜詩100」によれば、前半の紀頌之氏の訳は(訳の部分を連続させて引用)、
《引用開始》
身の危険を覚悟の上で他の州の方へゆくのであるが、苦を厭わないことに努めようとはするが、結構きつい旅である。
自分の精神は山道を余りに深く入るのでしんぱいになってくる、愁いのこころがうち破られたのは突然に崖のところに古寺がみえてきたのだ。
みれば寺前に青ごけがしきつめてあるのであでやかで美しい感じになっている、こちらでは竹の皮が寒風に吹きよせられてさびしい様子である。
山の下をながれる水は回りうねって音をたてて流れる、そうしていると松の上からはぽつりぽつり次第に雨がふりそそいでくる。
《引用終了》
これだと、
神(しん) 山行の深きに傷みしが
愁 崖寺の古きに破らる
か。第一句・第二句はもとより、次のシーンの松も対応しており、沢庵が本詩を想起したことが如何にも、と共感される。本詩の後半部は正しく、紀頌之氏のところで御鑑賞戴きたい。
「能化堂の松」「能化堂」は能見堂のこと。「新編鎌倉志卷之八」及び「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「能見堂」の巨勢金岡(こせのかなおか)筆捨松の条々を参照されたい(絵図もある)。
「追門の明神」瀬戸明神のこと。「新編鎌倉志卷之八」の「瀨戸明神」に、『瀨戸〔或作迫門(或は迫門に作る)。〕』と割注する。
「人の國なる瀟湘のよるの心もしられけり」水戸藩主徳川光圀が招いた明の禅僧東皐心越(とうこうしんえつ)が撰したものが金沢八景の由来であるが、その元となった中国で画題として知られる湖南省の瀟湘八景(瀟水が湘江に合流、他の水系も加わって洞庭湖を形成する一帯)の内、「瀟湘夜雨」(瀟水と湘水の合流する川面に降る夜の雨)の風情を受けた謂い。この前後、描き出す景観といい、韻律と言い、私は非常に美しく上手いと思う。下らぬ私の注など、不要という気さえしてくるのである。
「箱崎」現在の横須賀市箱崎町。吾妻島。現在は全島が米海軍吾妻倉庫地区に属しているために一般人は原則立ち入ることが出来ない。元は岬(箱崎半島)であったが、明治二二(一八八九)年に基部に水路が開削されて島となった(以上はウィキの「吾妻島」に拠った)。
「あひにあふ」とは「箱崎」という名称から身と蓋を連想したものか。また、その彼方の海が走水の海であり、倭建命(やまとたけるのみこと)のために我が身を海神に捧げた后弟橘媛(おとたちばなひめ)の二柱一体の幻影が沢庵を捉えたのかも知れない。識者の御教授を乞うものである。]
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