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2013/03/17

沢庵宗彭「鎌倉巡礼記」 1 (昨日公開分は破棄して注を大々的に施した) 始動

 

鎌倉巡禮記   澤庵宗彭

 

 

 

[やぶちゃん注:本書は有名な臨済僧沢庵宗彭(たくあんそうほう 天正元(一五七三)年~正保二(一六四六)年)の記した鎌倉紀行である。その簡単な行程は以下の通りである。

 

寛永一〇(一六三三)年十一月

 

一日 江戸を出立。

 

二日 金沢称名寺の零落の跡を見る。

 

三日 夕刻に入鎌して雪の下に宿をとったが、折柄、十一月初卯の祭日で、夜には鶴岡八幡宮の祭儀を見る。

 

四日 極楽寺などを経て、腰越から船で江の島を参詣。

 

五日 この日以降、旅の目的であった五山の巡礼を順次行っている。

 

なお、この前後からの沢庵についての事蹟をウィキの「沢庵宗彭」より引いておきたい。江戸幕府成立に伴い、寺院法度などによって寺社への締め付けが厳しくなったいたが、特に、沢庵が住持を直前に勤めていた大徳寺のような『有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられた。これらの法度には、従来、天皇の詔で決まっていた大徳寺の住持職を幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められた。』寛永四(一六二七)年、『幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り、前住職の宗珀(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝(たんでん)、東源(とうげん)らとともに、反対運動を行った』。寛永六(一六二九)年、『幕府は、沢庵を出羽国上山に、また宗珀を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪とした(紫衣事件)。上山藩主の土岐頼行は、流されてきた名僧沢庵の権力に与しない生き方と、「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、歌人でもあった沢庵に草庵を寄進した。沢庵はここを春雨庵と名づけこよなく愛したといわれている。頼行は藩政への助言を仰ぐなどして沢庵を厚遇した』。寛永九(一六三二)年、『大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され』、沢庵の人となりに引かれていた天海や柳生宗矩、春日局の補佐役で家光に仕えた『祖心尼の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。宗矩は姉が石田三成の名臣島左近の妻であり、祖心尼は娘が三成の外孫にあたる岡吉右衛門の妻であり(その間に生まれたのが家光の最初の側室自証院で、自証院は祖心尼の孫娘であると同時に三成の曾孫でもある)、また祖心尼が前夫に離縁されて妙心寺にいた時に帰依したのが前述した三成の長男の宗亨であることから、沢庵が赦免された理由や、後に家光の要請を受け入れた理由は、石田家を通じて彼らと沢庵が互いの人物を知っていたためと考えられる(白川亨「石田三成とその子孫」)。 沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた「不動智神妙録」は、「剣禅一味」を説き、禅で武道の極意を説いた最初の書物である。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、同年冬より駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ』、寛永一一(一六三四)年の『夏までここに留まった』。

 

 まさにこの時期に、本「鎌倉巡礼記」に記された鎌倉行脚があったのである。

 

その後、『宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、将軍・徳川家光が上洛し、天海や柳生宗矩・堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は家光に謁見した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになった。同年、郷里出石に戻ったが、翌年に家光に懇願されて再び江戸に下った。沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった』。寛永一六(一六三九)年、『家光は萬松山東海寺を創建し沢庵を住職とする。家光は政事に関する相談もたびたび行ったが、これは家光による懐柔工作であると考えられている。それは逆に言えば沢庵の影響力がいかに強かったかを示している。正保元』(一六四四)年には『土岐頼行が東海寺に上山の春雨庵を模した塔中を、沢庵のために建立した。晩年の沢庵が多くの諸侯の招きを拒絶しながら家光の要請を受け入れたのは、前述の経歴から見て、彼が終生にわたって』旧友であった故石田『三成を慕い、三成ゆかりの人間が周辺に多かった家光に好意を持ったためと考えられる。沢庵は最終的に紫衣事件において幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らへ紫衣を完全に奪還し、無住状態の大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯を揺らぎないものにしたのである』正保二年十二月十一日、『沢庵は江戸で没した。「墓碑は建ててはならぬ」の遺誡を残しているが、円覚山宗鏡寺 (兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺(東京都品川区)に墓がある』とある。

 

 底本は吉川弘文館昭和六〇(一九八五)年刊の「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」所収のもの(これ自体は沢庵自筆本を底本としたとされる「国文東方仏教叢書」所収本を底本としている)を用いたが、私のポリシーに則り、恣意的に正字化した。各形式段落の後に私が必要と判断した注を附した。漢詩文については白文で示した後に注を入れて底本の訓点に従って書き下したものを示した。藪野直史【ブログ始動:二〇一三年三月十六日】]

 

 

 

鎌倉巡禮記

 

 

 

 宮柱ふとしき立てゝ萬代に今ぞさかえむ鎌倉の里ときこえしは、そのかみ三浦の一黨賴朝におもひ付申て、北條より此里へむかへいれ奉りてより、威光めでとふして、天下を掌のうちに治め給ひけるとか。鳩峯とをく鶴岡にうつります神垣も、宮柱いやましに立そひ國よろづ代の祝歌なるべし。本より神と佛は水波のへだて一躰異名なれば、本地をあらはせば西方の化主、日の本にあとをたれ給ふ。神佛如々なれば瑞垣もへだてなく、神の宮寺には東方の化主醫王善逝を安置し、ゆふべあかつきの鐘のひゞき無常の夢をおどろかし、四方かためとて里の四隅に四箇の律寺を創め國泰民安の祈をつとめ、佛の威儀をあらはし衆生を利益し給ふ。わが禪法流布の時や至けむ、後鳥羽院の建久二年に明庵榮西禪師大宋より歸り、土御門の建仁には洛陽河東に禪寺を立、顯密を兼おかる。順德院の建保三年に鎌倉に實朝の時壽福寺をたてらる。是、五山のその一也。惣じて上をうやまひ、下をめぐみ、現當をかねつとめられけれ共、夙因のつむ所やうすかりけむ、現在の果報家にみじかくして、獅子身中の蟲とかや、身のうちにて身をやぶる事と成、實朝はやく公曉のために失はれ給ひて家たじろぎぬれど、萬代のちかひや里に殘けむ、後の九代鎌倉殿とかしづかれ、天下は一人の天下にあらず、道有て代をしづめ給ふ人の天下なれば、家は平にかわれども洪基をひらき給ふは源也、中垣の隔をいふは人の情なり。

 

[やぶちゃん注:「宮柱ふとしき立てゝ萬代に今ぞさかえむ鎌倉の里」「金槐和歌集」雑之部に載る源実朝の歌。「続古今和歌集」に入集。

 

「三浦の一黨賴朝におもひ付申て、北條より此里へむかへいれ奉りてより」頼朝の父義朝は鎌倉に館を持ち、逗子の沼浜にも別邸があって三浦氏(当時の当主は三浦義明)との関係も深く(三浦義明娘は義朝の側室となったとされる)、配流中の伊豆の頼朝をも陰ながら援助していたから、入鎌を最も歓迎したのは三浦氏であったことは確かであるが、実際に鎌倉への入城を強く慫慂したのは下総国の在庁官人であった千葉常胤やその従兄弟に当たる上総介平広常(鎌倉に居館を持っていた)らであったと思われる。「吾妻鏡」の治承四(一一八〇)年九月九日の条に使者として遣わしていた側近安達盛長が帰参し、頼朝に告げた内容の中に、

 

〇原文

 

常胤云。心中領狀更無異儀。令興源家中絶跡給之條。感涙遮眼。非言語之所覃也者。其後有盃酒次。當時御居所非指要害地。又非御曩跡。速可令出相摸國鎌倉給。常胤相率門客等。爲御迎可參向之由申之。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

 

常胤云はく、「心中の領狀(りやうじやう)、更に異儀無し。源家中絶の跡を興さしめ給ふの條、感涙、眼(まなこ)に遮(さいぎ)り、言語の覃(およ)ぶ所に非ざるなり。」てへり。其の後、盃酒有る次いでに、「當時の御居所は指せる要害の地に非ず、又、御曩跡(なうせき)に非ず。速やかに相摸國の鎌倉に出で令め給ふべし。」

 

とある。「曩跡」とは曩祖(父祖)伝来の地の意。

 

「鳩峯」分社された鶴岡八幡宮の本体である石清水八幡宮のこと。男山(別名鳩ヶ峰)山上に鎮座することからの別称。

 

「神垣」一応、私は「かみがき」と訓じておくが、他にも音で「しんゑん」、当て読みで「たまがき」「みずがき」とも読める(但し、後で「瑞垣」とあるの、「みずがき」とは読んでいないと思われる)。

 

「水波のへだて一躰異名」「神と仏は水波の隔て」神と仏とは丁度、水と波との如く、ただ形が違うだけで元来は同体のものである、という謂い。

 

「化主」教化(きょうけ)の主の意で、仏のこと。

 

「如々」真如(しんにょ)のこと。ありのままの姿。万物の本体としての永久不変の真理。宇宙万有に遍在する根元的実体。法性(ほっしょう)、実相とも言う。

 

「醫王善逝」「善逝」は仏、如来の意で、薬師仏、薬師如来のこと。新編鎌倉一」の鶴岡八幡宮の「上宮」の条に、

 

上宮(かみのみや) 此即ち上(かみ)の地、本社應神天皇なり。此の地を元松岡(もとまつがをか)と云。上の山を大臣(たいしん)山と云。【鶴岡八幡宮記】に、上宮(かみのみや)三所は、中は應神天皇、東は氣長足妃(をきながたらしひめ)、應神の御母(はは)神功皇后也。西は妃(ひめ)大神、應神の御姊(あね)也。然(しかれ)ば應神の御父(ちち)仲哀天皇は、何れの處に坐し給へる乎(や)。曰く、神宮寺に、本社垂跡合體にて坐し給ふ也。上の宮三所は、阿彌陀の三尊の義に依る也。仲哀天皇は、本地は藥師なる故に之を除きて奉るなりとあり。本殿は、竪(たて)九間、横三間、幣殿(へいでん)は四間に三間、拜殿は、四間に二間なり。

 

とある。

 

「四方かためとて里の四隅に四箇の律寺を創め」「創め」は「つくらしめ」か「はじめ」と訓じていよう。「四箇の律寺」不詳。有力な真言律宗の寺となると、極楽寺・金沢の称名寺・新清涼寺釈迦堂(江戸時代に廃寺(時期不詳)。海蔵寺の東の谷戸名として清涼寺ヶ谷と残る。宗旨は不詳ながら、弘長二(一二六二)年に鎌倉に下向してきた西大寺流律宗の叡尊が滞在している)・多宝寺(廃寺。浄光明寺の東の谷戸名として多宝寺ヶ谷と残る)などがあるが、最後の二つは近接しており、東南の隅の寺が見当たらない。識者の御教授を乞う。

 

「建久二年」西暦一一九一年。

 

「土御門の建仁には洛陽河東に禪寺を立、顯密を兼おかる」「兼」は「かね」と訓ずる。建仁二(一二〇二)年に栄西が源頼家の外護によって京都東山に建仁寺を建立したことを指す。創建当時の建仁寺は天台・真言・禅の三宗並立であった。これは当時の京都では真言・天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にあるが、創建から半世紀以上経た正元元(一二五九)年には宋僧蘭渓道隆が十一世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となった(建仁寺の記載部分はウィキ建仁寺に拠った)。

 

「順德院の建保三年に鎌倉に實朝の時壽福寺をたてらる」「建保三年」は西暦一二一五年であるが、この記述は誤りである。寿福寺は源頼朝が没した翌年の正治二(一二〇〇)年に北条政子が栄西を開山に招いて創建している。これは栄西が建保三年に享年七十五歳で寿福寺で病没したことと誤認したものと思われる(但し、終焉の地を京都とする説もある)。

 

「現當」「げんたう(げんとう)」と読み、現世と来世のこと。現未。「げとう」とも読む。

 

「夙」「つとに」と読む副詞。早い時期から。以前から。その初めから。実朝の命運のことを指している。

 

「家たじろぎぬれど」源家の嫡流は絶えてしまったが。

 

「後の九代」私の北條九代記」の冒頭注で示したように、北条時政から高時に至る鎌倉幕府を実質支配した北条得宗家九代(時政①・義時②・泰時③・時氏・経時④・時頼⑤・時宗⑧・貞時⑨・高時⑭。名前の後の数字は執権次第で時氏は二十八歳で早世しており執権になっていない)のことを指す。

 

「家は平にかわれども」北条氏は平氏である。

 

「洪基」「鴻基」とも書く。大きな事業の基礎。大業の基い。

 

「中垣の隔をいふは人の情なり」「中垣の隔(へだて)」人との仲を隔てるものの譬えで、『まあ、源家の嫡流が三代で途絶え、結局、平氏である北条が実権を握ったのだから、鎌倉幕府と言ったって内実は悪しく変質しているではないか、とちゃちゃを入れたくなるのは、これ、ありがちな人の情ではある』といった意であろう。]

 

 然るに此家も數代かさぬれば、上をうやまひ下をめぐむ心うすらぎ、侈に家かたぶきて、其後尊氏公天下の武將として、一統の代となりて、都には長男義詮皇圖を守護し給へば、關東をば二男基氏にあづけ給うてこの里はとこしなへにさかえけらし。

 

[やぶちゃん注:「侈に」「ほしいままに」と訓じていよう。

 

「皇圖」「くわうと(こうと)」で、天子の領土。]

 

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