耳嚢 巻之六 物を尋るに心を盡すべき事
物を尋るに心を盡すべき事
二條御城内に、久敷(ひさしく)封を不切(きらざる)御藏ありて、いつの頃、何ものか申出しけん、此藏をひらくものは、亂心なすとて、彌(いよいよ)恐れおのゝきて數年打過(うちすぎ)しが、俊明院樣御賀の時、先格(せんかく)の日記、御城内にあるべきとて、番頭より糺有(ただしあり)し故、普(あまね)く搜し求れども其舊記さらになし。せん方なければ、其譯申答(まうしこたへ)んと評儀ありしに、石川左近將監(さこんのしやうげん)、大番士たりし時、彼(かの)平日不明(あけざる)御藏内をも不改(あらためず)しては決(けつし)て無之(これなし)とも難申(まうしがたし)と言(いひ)しを、誰ありて申(まうし)傳への偶言に怖れて、明(あく)べきといふものなし。されど右を搜し殘して、なきとも難申(まうしがた)ければ、衆評の上、戸前(とまへ)を明(あ)け燈(ともしび)など入(いれ)て搜しけれど何もなし。二階を可見(みるべし)とて、濕(しめ)りも籠りたる處故(ところゆゑ)、提燈(ちやうちん)など入れしに兩度迄消へければ、彌(いよいよ)濕氣の籠れるを悟りて、彌(いよいよ)燈火を增して、不消(きえざる)に至りて上りて見しに、御長持二棹(さほ)並べありし故、右御長持を開き改めしに、御代々の御賀の記、顯然ありしかば、やがて其御用を辨ぜりと、左近將監かたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。
・「尋る」標題のそれは「たづぬる」と訓じていよう。
・「俊明院樣御賀」「俊明院」は第十代将軍徳川家治(元文二(一七三七)年~天明六(一七八六)年)。岩波版長谷川氏注に『天明六年三月七日に五十の賀』とある(但し、ウィキの「徳川家治」によれば、家治の実際の誕生日は天明六年八月二十五日とする。この齟齬の意味は私には不詳)。
・「先格」前例となる格式。前からのしきたりや以前からの決まり、先例、前例の謂いであるから、家治以前の、家治の父第九代将軍家重に限定せず、それよりも前の歴代将軍家の五十の賀の儀に関わる日記・記録の謂いであろう。
・「石川左近將監」石川忠房(宝暦五(一七五六)年~天保七(一八三六)年)。本巻の「英雄の人神威ある事」に既出であるが、再掲する。石川忠房は遠山景晋・中川忠英と共に文政年間の能吏として称えられた旗本。安永二(一七七三)年大番、天明八(一七八八)年大番組頭、寛政三(一七九一)年に目付に就任、寛政五(一七九三)年には通商を求めて来たロシア使節ラクスマンとの交渉役となり、幕府は彼に対して同じく目付の村上義礼とともに「宣諭使」という役職を与え、根室で滞在していたラクスマンを松前に呼び寄せて会談を行い、忠房は鎖国の国是の為、長崎以外では交易しないことを穏便に話して長崎入港の信牌(しんぱい:長崎への入港許可証。)を渡し、ロシアに漂流していた大黒屋光太夫と磯吉の身柄を引き受けている。寛政七(一七九五)年作事奉行となり、同年十二月に従五位下左近将監に叙任された。その後も勘定奉行・道中奉行・蝦夷地御用掛・西丸留守居役・小普請支配・勘定奉行・本丸御留守居役を歴任した辣腕である(以上はウィキの「石川忠房」を参照したが、一部の漢字の誤りを正した)。「將監」はもと、近衛府の判官(じょう)の職名。彼はウィキの記載によれば、明和元(一七六四)年八月に家督を継ぎ、安永二(一七七三)年十二月に大番、天明八(一七八八)年には大番組頭となっているから、天明六年当時の大番は正しい。但し、岩波版長谷川氏注に、『左近将監を称するのは寛政七』(一七九五)年から、とある。根岸より十九歳、年若である。【2014年7月15日追記】最近、フェイスブックで知り合った方が彼の子孫であられ、「勘定奉行石川左近将監忠房のブログ」というブログを書いておられる。彼の事蹟や日常が髣髴としてくる内容で、必見!
■やぶちゃん現代語訳
物を尋ねる際には心を尽くすべき事
京都二条城の内に、久しく封を致いて御座って、所謂、「入らず御蔵」なるものが御座って――
――これ、何時の頃よりか――さても、何者が言い出したものか
『――この蔵を開く者は、乱心致す――』
とて、いよいよ、人々の恐れ戦き、数年、そのままにうち過ぎて御座ったと申す。
ところが、俊明院家治樣の五十の御賀(おんが)の折り、先代将軍家の儀式に関わった日記などが、御城内にあるはずと、大番番頭(おおばんばんがしら)より糺しが御座ったによって、あまねく搜し求めてはみたものの、これ、そうした旧記、一向、見つからず御座ったと申す。
仕方なく、
「……不明の由、お返事するしかあるまい。」
との評儀で一決して御座ったが、当時、大番役で御座った石川左近将監忠房殿は、
「……かの、普段『開かずの間』と称して御座る御蔵の内をも改めずしては、これ、『御座らぬ』とも申し難きことで御座ろう。」
と申された。
誰(たれ)とは申さず……かねてより言い伝えて御座ったところの……たまさかの開扉……これ……乱心……との噂に怖れ……開けましょう……と申す者は、これ、一人として御座らなんだと申す。
されど、忠房殿、
「……かの蔵を搜し残しおいて――『御座らぬ』――とは申し難きことで御座る。」
と如何にも正しき疑義を申されたによって、再度、衆議の上、かの『開かずの蔵』の戸を開いて、燈(ともしび)なんども入れて、搜して御座ったと申す。
……されど、これ、扉内の部屋には、それらしきもの、何(なんに)も御座らなんだ。
しかし、梯子段を見た忠房殿、
「――二階をも、これ、検分致いてみるべきで御座ろう。」
と申されたによって、蔵の二階をも探索致すこととなった。
……ところが、その二階、これ、取り分けて、ひどう、湿気の籠って御座って……提燈などを入れても……何度も――
――ふっ
と、消てしまう。……
されど、
「――これはただ、余程に湿気が籠っておるゆえに違いない。」
と、忠房殿、これ、さらに多くの燈火なんどを、追加なさった。
「……もう、消えずなりましたが……」
と、配下の者が言うたによって、御自身、上って検分なさった……ところが――
――長持二棹(おんながもちふたさお)
これ、並べて御座ったによって、その長持を開き改められたところ……その内に――
――先代将軍家御代々の御賀(おんが)の記録
――これ
――確かに御座った由。……
「――されば、そのまま、当将軍家御用を完遂致すこと、これ、出来申した。」
とは、左近将監殿御自身、語られた話しで御座った。

