耳嚢 巻之六 尖拔奇藥の事
尖拔奇藥の事
紀州家の健士、或時魚肉を食し、與風(ふと)咽※(のどぶえ)へ尖(とげ)たち百計すれど不拔(ぬけず)[やぶちゃん字注:「※」は「吭」の最後の七・八画目がそのまま上の(なべぶた)に接合した字体。]。其儘に二三日過(すぎ)しが、後は湯水食事等にも痛(いたみ)ありて甚(はなはだ)難儀せしが、尾陽家の健士と出會(であふ)事ありて右難儀を物語りせしに、某(それがし)奇藥あり、用ひ給ふべしと、懷中の黑燒を與へける故、悦びて早速用(もちゐ)しが、其翌日朝うがひ手水(てうず)せしに、前夜までに事替りて聊(いささか)其尖の憂(うれひ)を不覺(おぼえず)。夫より食事の節、其外にも一向憂なく、一夜の中に拔失(ぬけう)せしとなり。不思議の奇藥と紀州公へも申上(まうしあげ)、其藥施(ほどこ)せし人に尋(たづね)問ふに、尾陽公御法の由。依之(これによつて)御傳(ごでん)を御乞(おんこひ)求めありしに、芭蕉の卷葉(まきば)を黑燒にして用(もちゐ)る由。尤(もつとも)外に加劑(くわざい)もなく、唯(ただ)一味の由。依之予も其法を以(もつて)、黑燒を申付(まうしつけ)し也。
□やぶちゃん注
○前項連関:二つ前の「二尾檢校針術名譽の事」の紀州公連関。先に数多あった民間医薬シリーズ。製剤が簡単だったことと、副作用がなさそうに思えたからか、ここでは珍しく根岸も実際に製したと言っているのが面白い。ただ、その実際に根岸が使用した際の効果が記されていないのは惜しいところ。
・「尖拔」は「とげぬき」。
・「尖(とげ)」は底本のルビ。
・「尾陽家」尾張徳川家。
・「芭蕉」単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ
Musa basjoo。田辺食品株式会社公式サイトの「健康と青汁」第二〇四号の医学博士遠藤仁郎氏の記載に以下のようにある。
《引用開始》
効能は、一般の青汁と同様だろうが、皇漢名医和漢薬処方には、
「森立之曰く、邪熱、百方效無き時、
芭蕉の自然汁を服し效ありと聴きて試むに、毎に奇效あり」
(温知医談)。
「水腫去り難き時、芭蕉の自然汁常に奇效あり」
(同)。
また、民間薬(富士川游著)には、
「腹痛 芭蕉の葉をつき爛らし、
その汁をとりて白湯にて用ふべし」
(妙薬手引大成)。
「胸痛 心痛たへかぬるに芭蕉葉のしぼり汁、生酒にて用ふ」
(経験千方)。
などとあって、解熱・利尿・鎮痛の効があるわけだし、トゲや骨のささったものには黒焼がよいらしい。
「簽刺(竹木刺、針刺)芭蕉の若葉を黒焼にして、酒にて服す」
(此君堂薬方)。
「咽喉に骨のたちたるに、
芭蕉の巻葉を黒焼にし、白湯か濁酒にてのめば、
鯛の骨なりとも、一夜の間にぬけること妙なり」
(懐中妙薬集)。
また、中山太郎著、日本民族学辞典には、
「昔は、長病の患者に床ずれが出来ると、芭蕉葉を敷き、
その上に臥かすと癒るとて用ゐた。
また、本願寺の法王が死ぬと、その屍体を芭蕉葉に包んだ。
これは防腐の效験があるので、こうして、遠方から来る門徒に最後の対面を許したという」
(中山聞書。)
《引用終了》
と、確かに刺抜きの効能が記されてある。
■やぶちゃん現代語訳
刺抜きの奇薬の事
紀州家の家士が、ある時、魚肉を食し、ふとした弾みで喉笛(のどぶえ)へ刺(とげ)を立たせてしまい、種々の方を尽くしてみたが、これがいっかな、抜けぬ。
そのままに二、三日ほど過ぎたが、その頃には水を飲むにも食事を致すにも、疼くような痛みがあって、甚だ難儀に陥って御座った。
そんな折り、ちょうど、尾張徳川家の家士と面談致すことが御座ったが、その談話の中で、かの刺の難儀を物語って御座ったところ、
「某(それがし)に奇薬が、これ、御座る。一つ、用いてみらるるがよかろう。」
と、懐中より何やらん黒焼きに致いた常備薬を取り出だいて呉れた。
悦んで、屋敷に戻るや、早速に服用致いた。
その翌日の朝のこと、いつもの通り、嗽・洗面など致いところが――前夜までとは、こと変わって――聊かも――これ、かの刺の痛みも喉(のんど)のゴロゴロも――これ――御座らぬ。……
それより、食事其の外、これ、一向に不具合、御座らずなった。
まさに一夜の中(うち)に――かの執拗(しゅうね)き刺――これ、美事、抜け失せて御座った。
「……ともかくも、不思議なる奇薬で御座いまする。」
と紀州公へも申し上げ、その薬を施して呉れた御仁にも尋ね問うたところ、
「――これ、尾陽公の御法(ごほう)にて御座る。」
との由にてあれば、かの紀州家家士、
「――どうか一つ、御製法方、お教え下さらぬか?」
と乞い求めたと申す。
されば、あっさりと製法が、これ、明かされて御座った。それは、と申すに――
――芭蕉の若き巻葉(まきば)を黒焼きにして用いる
とのこと。
――外に加える生薬なし
――唯だ一味
の由。
……されば、私もその法を以って――芭蕉巻葉の黒焼き――これ、申し付へて常備致いて御座る。