沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 8
かくて爰に日をくらしなんもいかならんとて、山をくだり里に入ぬれば、朔日比の山のはに纖月かすかにして鐘のひゞき海岸のそこにこたへ、岡のやかたはなみにうつり、龍の都に入ぬるやと覺つかなし。
[やぶちゃん注:「朔日比」冒頭注で示した通り、彼が相州金沢に着いたのは寛永一〇(一六三三)年十一月一日の夜のことであった。
「纖月」「せんげつ」で繊月、繊維のように細い月。新月から二日月三日月の異名。]
海士のいさりをたよりに宿とひて、ひと夜を明し、まづ寺に詣けるに本堂一宇あり。諸堂皆跡ばかり也。五重の塔も一重殘りぬ。此金澤山稱名寺はいつの年にか龜山院の細願所と號せらる。この所は一切在家をまじへず。今の在家は皆當時界内なり。殺生禁斷の浦なりし。漁人など申者一人もなし。時うつり國一度みだれ、寺廢亡して再いにしへにかへらず、庄園悉落て武家押領の地と成、房跡は漁人の栖家と成、院々は跡なく海士の小屋數そひ、當寺界外下郎どもは武家の手につき、門外に有ながらかへつてかれらが顏色をうかゞふあり樣、おもひやるべし。佛前の燈もほそく朝夕のけぶりもたえがち也と老僧達三人かたられけるに袖をうるほしつ。
[やぶちゃん注:称名寺の完膚なきまでの哀れな衰亡の様が語られる。当時の現状が具体に語られており、特に開幕後に移入してきた武士階級が横暴を極めている様子など、「佛前の」「ほそ」き「燈」の前の瘦せ枯れた「老僧達三人」の画像が慄然とするほどのリアルではないか。]
昔舟つかはして一切經をも異國より取わたし、其外俗書外典ども世に類すくなき本ども、金澤文庫と書付あるは、當寺より紛失したる也とかたらる。經藏もこぼれぬれば本堂に一切經をばとめをくと也。寺の致境を見めぐらしぬれば、山かこみ古木そびえ立て、松杉の色、ことに秋よりけなる紅葉のほのめきて、靑地なる錦をはりたらんはかゝるべきかなどゝいひあへり。
何となく空に時雨のふり分て そむるかへ手にましる松杉
[やぶちゃん注:金沢文庫もすっかり毀れている。
「金澤文庫と書付ある」は「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「金澤文庫舊跡」を参照。蔵書印の影印画像がある。これは鎌倉時代とも、後の室町時代に称名寺が蔵書点検を行った際に押されたとも言われる蔵書印で、日本最古の蔵書印である。同条に『儒書には黑印、佛書には朱印を押たるといえども、今希に世に有ものは、皆黑印にてぞ有ける。又黑印も、大小のたがひも有けるといふ』とし、沢庵の時代にまだあった一切経も、この「鎌倉攬勝考」の書かれた幕末文政十二(一八二九)年頃には、書籍が移譲された足利『學校も隨て頽廢し、書籍も悉く散逸しける事なるべし。今稱名寺にも、むかし文庫の書籍の内、一冊も見えず。一切經の殘册の破たるもの、彌勒堂に僅にあれども、定かならず』という惨憺たる状況に陥っていた。
「秋よりけなる紅葉」は、(秋の頃の美しさに)心が寄せられるの意の「寄る」に、そんな感じがする、の意の形容動詞化する接尾辞「気なり」が附いたか、若しくは、羨ましい、の謂いの、口語形容詞「けなりい」が附いたものが、誤って形容動詞化したものであろうか。国語学は苦手である。識者の御教授を乞う。]