一言芳談 一〇六
一〇六
聖光(しやうくわう)上人、學問を不受(うけず)して云、日來(ひごろ)學し給へる人々だにも、捨てゝこそ念佛をば申されけれ。さばかり惜しきいとまに、念佛をば申さずして學問をする事、無益なり。念佛を申していとまのひまには、さもありなん。
〇受けずして、修行をこのまずして、いたづらに學問のみこのむ事をいましめて、同心し給はぬなり。
〇念佛を申して、此言葉をよく見るべし。一向に學問をいましめ給ふにはあらず。
[やぶちゃん注:「聖光上人」再録する。浄土宗鎮西派(現在の浄土宗)の祖弁長(べんちょう 応保二(一一六二)年~嘉禎四(一二三八)年)のことである。字は弁阿(べんな)、房号は聖光房。筑前国香月(現在の福岡県北九州市八幡西区)生。現在の浄土宗では第二祖とされる。仁安三(一一六八)年に出家、安元元(一一七五)年に観世音寺戒壇で受戒、天台僧となって比叡山観叡、後に証真に師事した。建久元(一一九〇)年に帰郷して鎮西の聖地油山(あぶらやま)の学頭(一山の統率者)となったが、建久四(一一九三)年に異母弟三明房の死に臨んで深く無常を感じ、浄土教に強く惹かれる。寺務のために上洛した建久八(一一九七)年、法然を訪ねて即日、弟子となった。後に故郷筑前に戻ると筑後国・肥後国を中心として念仏の教えを弘め、筑後国山本に善導寺を建立、九州に於ける念仏の根本道場と成した。弟子に三祖然阿良忠を始めとして宗円・入阿など多数がある(以上はウィキの「弁長」に拠った)。……さて……この大物の学僧の謂いに対する湛澄の註は、これ、発言者の「作家論的分析」や「宗教史的解析」からは正しいであろう。……しかし「一言芳談」という魔界に投げ入れられた時……このような如何にもな「弁解」は、それこそ如何にもな凡愚の所産としか見えなくなる――ということは、私のみならず、ここまで私と同行されてきた読者諸士にとっても素直な感懐であると私は思うている。――そもそも「念佛を申していとまのひまには、さもありなん」(念仏を十全に申し上げていながら、それでも更に時間的ゆとりがあるというのであれば、その暇に学問をするというはよかろう)という謂いは、「念佛を申していとまのひま」あるなどという輩の申し上げておる念仏は、心からの念仏とは言えぬ、寧ろ、暇をつくる「ためにする」念仏である、と聖光は自身の生涯を追想して慚愧の中で断じているのだ――と私は読みたいのである。寧ろ、私は湛澄とは反対に、冒頭のきっぱりとした「學問を不受して」(教理経論の凡愚の学問を拒絶して)の謂いをこそ「此言葉をよく見るべし」と註したい。そうして、それに続けて、正しい呼応の副詞「一向に」の用法を以って、「一向に學問を受けず、いましめ給ふなり。」と続けたいのである。私は即ち、ここには、
〇學問を不受して、此言葉をよく見るべし。一向に學問を受けず、いましめ給ふなり。
と註したいのである。――この私の見解に就いては、これ、識者の意見を乞うものではない、とあらかじめ断っておきたい。]

