一言芳談 一一九
一一九
又云、十聲(とこゑ)・一聲等(ひとこゑとう)の釋は、念佛を信ずる要(えう)、念々不捨者等(すてざるものとう)は、念佛を行ずる要なり。
〇十聲一聲等の釋、禮賛云、上盡一形、下至十聲一聲等、以佛願力易得往生。
〇念々不捨者、散善義云、行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼佛願故。
[やぶちゃん注:Ⅰでは「十聲一聲(じつしやういつしやう)]と中黒点を配さずに振るが、「とこゑ」はⅡ・Ⅲを採り、「ひとこゑ」は私が附した(但し、後に見るように浄土教学では「じつしょういっしょう」が正しいらしい)。次の「等」を「とう」と読むのはⅢに従い、後の「等」の「とう」の訓は私が附した。まず、二つの標註の漢文を私流に訓読しておく。
「禮賛」に云はく、『上(じやう)は一形(いちぎやう)を盡して、下は十聲一聲(じつしやういつしやう)等(など)に至るまで、佛願力を以つて往生を得るに易し。』と。
「散善義」に云はく、『行住坐臥は、時節の久近(くごん)を問はず、念々捨ざる者は、是れを正定の業と名づく、彼の佛願に順ずるが故に。』と。
ここで言う「十聲・一聲等の釋」とは善導の著「往生礼讃偈」に於ける念仏の解釈で、「安心(あんじん)」の章で、往生の肝要として掲げる「深心(じんしん)」の解に現われる(底本はウィキ・アーカイブ「往生礼讃 (七祖) 」を用いたが恣意的に正字化、句読点及び鍵括弧を追加、記号の一部を変更してある)。
問ひていはく、「いま人を勸めて往生せしめんと欲せば、いまだ知らず、いかんが、安心・起行・作業して、さだめて、かの國土に往生することを得るや。」。
答へていはく、「かならず、かの國土に生ぜんと欲せば、『觀經』に説きたまふがごときは、三心を具してかならず往生を得。なんらをか三となす。一には至誠心。いはゆる、身業に、かの佛を禮拜し、口業に、かの佛を讚歎稱揚し、意業に、かの佛を專念觀察す。おほよそ、三業を起さば、かならず、すべからく眞實なるべし。ゆゑに至誠心と名づく。二には深心。すなはちこれ、眞實の信心なり。自身はこれ、煩惱を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流轉して火宅を出でずと信知し、いま、彌陀の本弘誓願は、名號を稱すること、下十聲・一聲等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。三には囘向發願心。所作の一切の善根、ことごとくみな囘して往生を願ず。ゆゑに囘向發願心と名づく。この三心を具すれば、かならず生ずることを得。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。「觀經」につぶさに説くがごとし、知るべし。」。
即ち、善導の謂いの「一形を盡」すとは一生涯の不断念仏を指すから、「十聲一聲等の釋」とは、念仏はその回数を問題が問題なのではない、という結論を指している。一方の「念々不捨者」は、同じく善導の「散善義」の「深心釈」の「第七深信」に現われる。やや長くなるが少し前から引用する(底本はウィキ・アーカイブの「観経疏 散善義 (七祖)」を用いたが恣意的に正字化、句読点及び鍵括弧を追加、一部の記号を変更・省略した)。
すなはち「彌陀經」のなかに説きたまふ。釋迦極樂の種々の莊嚴を讚歎し、また「一切の凡夫、一日七日、一心にもつぱら彌陀の名號を念ずれば、さだめて往生を得。」と勸めたまひ、次下の文に、「十方におのおの恆河沙等の諸佛ましまして、同じく釋迦よく五濁惡時・惡世界・惡衆生・惡見・惡煩惱・惡邪・無信の盛りなる時において、彌陀の名號を指讚して、『衆生稱念すればかならず往生を得。』と勸勵したまふを讚じたまふ。」とのたまふは、すなはちその證なり。
また十方の佛等、衆生の釋迦一佛の所説を信ぜざることを恐畏れて、すなはちともに同心同時に、おのおの舌相を出してあまねく三千世界に覆ひて、誠實の言を説きたまふ。「なんぢら衆生、みな、この釋迦の所説・所讚・所證を信ずべし。一切の凡夫・罪福の多少・時節の久近を問はず、ただよく、上百年を盡し、下一日七日に至るまで、一心に、もつぱら彌陀の名號を念ずれば、さだめて往生を得ること、かならず疑なし。」と。このゆゑに一佛の所説は、すなはち一切佛、同じくその事を證誠したまふ。これを人に就きて信を立つと名づく。
次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。
一には正行、二には雜行なり。
正行といふは、もつぱら徃生經の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。何者かこれなるや。一心に、もつぱらこの「觀經」・「彌陀經」・「無量壽經」等を讀誦し、一心に專注してかの國の二報莊嚴を思想し觀察し憶念し、もし禮するには、すなはち、一心にもつぱらかの佛を禮し、もし口に稱するにはすなはち一心に、もつぱらかの佛を稱し、もし讚歎供養するには、すなはち一心に、もつぱら讚歎供養す、これを名づけて正となす。
また、この正のなかにつきて、また、二種あり。
一には、一心に、もつぱら彌陀の名號を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず、念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの佛の願に順ずるがゆゑなり。もし、禮誦等によるを、すなはち名づけて助業となす。この正助二行を除きて以外の自餘の諸善は、ことごとく雜行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心つねに親近して憶念斷えず、名づけて無間となす。もし後の雜行を行ずれば、すなはち心つねに間斷す、囘向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雜の行と名づく。ゆゑに深心と名づく。
以上から「念々不捨者」は、本来ならば「念々に捨てざるは」と読むのが正しいことが分かる。そうしてその意は、先に提示された称名念仏の回数を問題としないという要諦を踏まえた上で、「不断に心に弥陀への至高の思いを致して決して捨てぬこと」であることも分かる(と私は勝手に思っている)。]