一言芳談 一一八
一一八
又云、あの阿波介(あはのすけ)が念佛も、源空が念佛も、またくもて同じ念佛なり。助け給へ阿彌陀佛、と思ふ外は、別の念を發(おこ)さざる也。
〇阿波介が念佛、此の男、もとは陰陽師(おんみやうじ)なりしが、上人に歸依して弟子となる。きはめておろかなりしものなり。念佛に申しやうなし。智者の申(まうす)も、愚者の申も、おなじ事なり。
[やぶちゃん注:Ⅱの大橋氏注に、「法然上人行状絵図」(第十九)や「決答授手印疑問鈔」(巻上)にも見える、とある。後者は正嘉元(一二五七)年良忠撰。
「阿波介」浄土宗公式ウェブサイトの「あらゆる階層の帰依者たち 阿波の介」によれば、生没年未詳で、『法然上人に帰依した信者。京都伏見に住した元陰陽師』であったが、七人の妻を持ち、酒色に溺れて『悪業をなすことをつねとしていた貪欲非道の人』であったが、その後、法然に出会って感化を受け、蓄えた財産を七人の妻に分け与えて出家した。播磨国への行脚の途次、道に迷った際、『現世の旅路ですら先達(せんだつ)が必要である。まして後生浄土の道には善知識が必要である』と悟って法然の弟子となった。以後、法然に常に従って念仏を称えたが、彼は常に百八つの念珠二連を持ち、一連で念仏をし、もう一連で数を採ったとされる。ある時、法然が『「私と阿波の介の念仏のどちらが勝っているか」と弟子の聖光房に尋ねると「同じはずがありません」と聖光房。すると「日ごろ何を学んでいるのか。助けたまえと申す念仏に勝劣があるわけがない」と語った』とあり、本話柄の原形がこれであることが知れる。晩年は『平泉金色堂に行き端座合掌し念仏を唱えながら往生したと伝えられてい』る、とある。]