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2013/03/13

耳嚢 巻之六 陰德子孫に及びしやの事

 陰德子孫に及びしやの事

 泉州堺にて和泉屋喜兵衞といへる、延享の頃專ら富饒(ぶねう)にて、慈悲ある商人なりしが、日々鳥屋より雀一羽づゝ調へ放しけるが、其心正しきもの故、彌(いよいよ)家富榮(とみさかへ)けり。其子喜兵衞は親に似ず放蕩ものにして、遊興に金銀を失ひて、あまつさへ娘計(ばかり)にて男子もなかりしに、或日表を浪人の乞食、謠ひをうたひしを聞(きく)に、其音聲(おんじやう)はさらなり、なかなか一通りの諷(うたひ)にあらずと感心して、今一番諷(うた)ふべしと望しかば、其需(もとめ)に應じて諷ひけるを、彌(いよいよ)感心して、爾は生れながらの乞食にはあるまじ、昔は相應のものなるべしと尋ければ、答へて云(いへ)るは、成程親々は相應にくらしけるが、遊興に身を持崩しかゝる身分に成(なり)しとかたりし故、喜兵衞いへるは、我に男子なければ、聟にいたすべき間、親元を名乘(なのり)候樣申けるが、親を名乘り候事は幾重にもゆるし給へとて、せちに尋けれどかたらず。是を聞(きき)て、家内手代など以(もつて)の外の事なり、穢多非人かもしれずと諫めあらそいしが、彼喜兵衞、生得滅法界者(しやうとくめつぱうかいもの)にや曾て不用(もちゐず)。引留(ひきとめ)て手前に養ひしが、家事の取斗(とりはから)ひ、商ひの道は申(まうす)に不及(およばず)、老親への孝行、聊か申分(まうしぶん)なく、或日手代召連(めしつれ)て大阪へ下りしに、江州(がうしう)彦根布屋といへるものゝ手代、彼聟を見て、若旦那いづ方に居給ふや、近國其外を此(この)程搜し尋る也、少しも早く歸り給へ、親旦那も大病にて、日毎に戀ひ慕ひ給ふ事をと申(まうし)ける故、やがて其譯養父の喜兵衞へ願ひて江州へまかりしを、附添(つきそふ)手代抔、彼(かの)江州彦根にいたり見けるに、布屋といえるは彦根第一の豪家にて、中々和泉屋抔は似るべくもなし。取戻しの儀を彦根より度々申けれど、喜兵衞儀何分得心(とくしん)なく、しかれども布屋も外に子供なければ、是非々々とこひ願ひし故、然らば喜兵衞方より養子に遣すべしとて、漸(やうやく)事治(をさま)りしが、喜兵衞は素よりの放蕩者故、身上(しんしやう)もしだいにをとろへしが、彌(いよいよ)金錢は湯水と遣ひしが、彦根より年々金子等贈り、今は相應になりしと。彼(かの)喜兵衞は當時可參(まゐるべし)と申、七十歳餘になりて、彼(かの)養子、喜兵衞と名乘(なのり)、兩家をたもち、目出度(めでたく)さかふる由。文化元年の夏、大和廻(めぐ)りして歸りけるものゝかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:根岸知音の大和廻りでの見聞譚連関。
・「和泉屋喜兵衛」不詳。高村光雲の「幕末維新懐古談」の中の「年季あけ前後のはなし」の中に江戸の知られた札差として『天王橋の和泉屋喜兵衞』という同屋号同名の人物が記されるが、全く別人であろう。
・「延享の頃」西暦一七四四年~一七四七年。
・「生得滅法界者」生まれつきの極め付きの無茶な輩。「滅法」の道理に外れるさま、常識を超えているさまに、一切の現象の本質的な姿である真如(しんにょ)・実相の謂いの「法界」を滅するを掛けた。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、大当たりとなった先立つ天明三(一七八四)年初演の七五三助(しめすけ)作の歌舞伎喜劇「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」で知られる、主人公破戒僧法界坊辺りからの流行語ででもあったのかも知れない。
・「江州彦根布屋」不詳。屋号から見て絹商人か呉服商人かと思われる。
・「可參と申」よく分からない。「參るべしと申し」の「參る」は卑語としての「死ぬ」の意で、そろそろお迎えが来そうな感じで、という謂いか? 一応、それで訳しておいたが、とんでもない誤訳かも知れぬ。識者の御教授を乞うものである。

■やぶちゃん現代語訳

 陰徳が子孫に及んだのかもしれぬとも思わする事

 かの泉州堺に和泉屋喜兵衛と申す、延享の頃、甚だ裕福にて、慈悲に富んだ商人(あきんど)が御座った。
 毎日、鳥屋より雀を一羽ずつ買い調へては放っては放生(ほうじょう)の陰徳を積んで御座ったと申す。
 その心、正しきものゆえ、いよいよ彼が代に和泉屋は大いに富み栄えて御座ったと申す。
 ところが、その子の代の喜兵衞儀は、これ親にも似ず、甚だ放蕩者にして、遊興に金銀を失(うしの)うて、家業も瞬く間に衰え、あまつさえ、子は娘ばかりにて、一人の男子も御座らんだと申す。
 さて、ある日のこと、喜兵衛、しょぼくれてしもうた己が和泉屋の表を、浪人体(てい)の乞食が一人、謠(うた)いを口ずさみつつ行くを聴くに、その音聲(おんじょう)は言うまでもなく、なかなかに一通りの謠いっぷりには、これ、あらざるものと、いたく感心致いて、
「今一番、謠(うと)うて給(た)べ。」
と請うたところ、その求めに応じて再び謠(うと)うたを聴けば、これ、いよいよ感心致す代物なればこそ、
「……汝は生れながらの乞食にては、これ、あるまい。……昔は、そうさ、相応の身分の者であったものと存ずるがのぅ。……」
と水を向けたところ、答えて申すことには、
「……如何にも……親どもは相応に暮して御座いましたが……我ら……お定まりの通り……遊興に身を持ち崩し、かかる身分に堕ち申して御座いまする。……」
と語ったによって、喜兵衞、
「……我らには男子、これ、なきによって……一つ、そなたを聟(むこ)にとりとう存ずる。……によって、まずは、親元を名乗っては下さるまいか?」
申したところが、
「……親の名を名乗りますることは……これ、どうか……幾重にも、お許し下されませ……」
と否み、切に質(ただ)いたれど、決して語ろうとは致さなんだ。
 ところが、この一部始終を店内にて聴いて御座った、家内の者や手代なんどが、慌てふためいて中に割って入り、
「……も、以っての外のことにて御座います!……見たところ……これ、穢多・非人の類いやも知れず……」
と頻りに諌めたによって、果ては主人と激しき言い争いにまでなったが、かの喜兵衞――これ、当世流行の言葉を用いたならば、所謂――生得滅法界者(しょうとくめっぽうほうかいもの)――ででも御座ったものか、いっかな、聴こうともせず、遂にはこの男を家内に引き留め、喜兵衛の手元に侍らせて、身内として養(やしの)うことと相い成って御座ったと申す。
 ところが、この男――家事の取り計らい方や商いの道は、これ申すに及ばず――老いたる義父喜兵衛とその妻たる義母への孝行なんどにも、聊かの申し分もこれない――目覚ましき働きを見せて御座ったと申す。
 さて、ある日のこと、この聟、手代を召し連れて、商売のために大阪へ下ったところ、たまたま行き逢(お)うた、近江彦根の布屋とか申す商人(あきんど)の手代とか申す者が、かの聟を一目見るなり、
「……わ、わ、若旦那さま! い、一体、どこにおられたので御座います! 近国はもとより、方々(ほうぼう)を、ずっと先(せん)よりこの方、捜し尋ねあぐんでござんしたものを! 少しでも早うに! どうか! ご実家へとお戻り下さいませ!……大(おお)旦那さまも大病を患い、日に日に若さまを恋い慕(しと)うていらっしゃいまするぞッ!……」
と、泣きすがらんばかりに申したてた。
 されば――この聟も、流石に実父の病み臥せっておると聞きては、このままに捨ておくことも出来ず――やがて、商用済んで堺へ立ち戻ると、喜兵衞へ、己が隠して御座った出自のことと、この度の出来事を語って、切に願い出でて、ともかくもと、江州へと向かって御座ったと申す。
 さても喜兵衛は和泉屋の聟なればこそ、江州行きには手代なんどをもしっかり附き添えさせて御座ったのだが――かの近江彦根に辿りついて――その手代が見たものは――
――布屋と申すは――
――これ、彦根第一の豪商にて――
……なかなかクソ和泉屋なんどとは比べものにならぬ、遙かに棟高き商家で御座った。
 聟は暫く致いて戻っては参ったものの、何やらん、里のことが気になる風情。
 そこへまた、実子取り戻しの儀につき、彦根よりたびたび願い上げが御座った。
 されど、頑ななる喜兵衞儀なれば、こればかりは何分にも得心致すこと、相い出来申さずと断り続けて御座った。
 されど――布屋もこの男以外には跡継ぎの子どもがあらなんだによって――是非に是非にと――これまた何度も何度も――切に切に、請い願って参ったゆえ、喜兵衛も流石に我を折らざるを得ずなって、
「……然らば! 我ら喜兵衞方より! えぇい! 養子として遣すわい!……」
とて、ようやっと、このごたごたも取り敢えず収まって御座ったとは申す。
 されど喜兵衞、これ、もとより――生得滅法界者の――放蕩者で御座ったゆえ、堅実な聟がおらんようになるや、またしても身上(しんしょう)、次第に衰え、にもかかわらず、喜兵衛、これまた、いよいよ金銭を湯水の如、使うに使うという体たらく。
 されど、それと察すればこそ――彦根の元の聟方、今の養子の方と相い成った布屋より――年々(としどし)に十分な金子なんどが贈られて参り――その堅実な恩義に感じたものか――はたまた流石に老耄なれば遊びにも疲れたもので御座ったか――喜兵衛の放蕩もややおさまって――今は、和泉屋も相応の暮らし向きと相い成ってなって御座る由。
 かの喜兵衛はもう、近時――そろそろお迎えがあってもよさそうな感じで御座ったと申すが――それでも七十余歳で存命にて――かたや、かの元聟の今の養子の男は、これ、自ら養父の名を継いで「喜兵衛」と名乗り――しかも――和泉屋と布屋の双方の家産を篤実着実に守り抜いて――今もめでたく栄えさせて御座るとの由。
 これは、文化元年の夏、大和廻(めぐ)りして帰参致いた、例の、私の知音の男の旅の土産話の一つで御座った。

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