一言芳談 一〇三
一〇三
賀古(かこ)の教信(けうしん)は、西には垣もせず、極樂と中をあけ、あはせて、本尊をも安ぜず、聖教(しやうげう)をも持せず、僧にもあらず、俗にもあらぬ形にて、つねに西に向ひて、念佛して、其餘は忘れたるがごとし、云々。
〇賀古の教信、賀古は播磨の郡の名なり。教信の事は保胤(やすたね)の往生記、十韻などに見えたり。
〇賀古の教信、まことの隱者にて、道のほとりに、竹の柱、わらの床、とりあへぬありさまにて、年月を我からおくり、終におはられしと也。(句解)
〇本尊をも安ぜず、安は安置なり。
〇僧にもあらず、妻子あるあがゆゑに。
〇俗にもあらず、剃染(ていぜん)の形なればなり。
[やぶちゃん注:「賀古」は「風土記」にこの漢字表記で載せられた播磨国の古い郡名。現在は兵庫県加古郡二町・加古川市の加古川東詰側・高砂市・明石市の一部(ウィキの「加古郡」に拠った)。
「教信」(天応元(七八一)年?~貞観八(八六六)年)。称名念仏の創始者。阿彌陀丸・沙弥教信と称せられた。大橋氏の注には、『はじめ興福寺の学僧であったが、教団の現状にあきたらず、諸国を行脚したのち、承和三年(八三六)秋還俗結婚』、賀古駅(かこのうまや)の北(現在の加古川市野口町野口)『に草庵を結び、雇夫となり生産に従事しながら念仏に没頭したという。貞観八年(八六六)八月に没したときは室内に異香が薫じた伝えている』と記す。参照させて戴いた北摂みのお氏のHP「北摂みのおの春夏秋冬」の「沙弥教信」によれば(生年はこちらの記載に随った)、「今昔物語集」や宝暦一二(一七六二)年頃に成立したとされる平野庸脩(ようさい)の地誌「播磨鑑」、古いものでは慶滋保胤の「日本往生極楽記」(成立は寛和年間(九八五年~九八七年)頃)、三善為康の「後拾遺往生伝」(同人の「拾遺往生伝」の完成後に引き続いてその遺漏を集めたもので為康の死亡する保延五(一一三九)年まで増補され書き継がれた)、永観の「往生拾因」(康和五(一一〇三)年頃成立)などに彼についての記載があり、それらによれば、彼が賀古の地へ来た頃の『加古川の本流は、現在の別府川であるので、野口は駅家の里であった。彼は、旅人の荷物を運ぶ仕事で生計を立て、妻を娶り子供も一人生まれる。村人と共に、道作りや川堤の修理などにも従ったと』いい、『いつも西方浄土を念じて念仏を唱えているので、人々は彼を「阿弥陀丸」と呼んだ。彼は僧にもあらず俗でもないので(非僧非俗)後の人は彼を沙弥教信と』も称したという。入滅に際しては、『自分は生前、生き物を食べているいるので、せめて死んだ後の体は鳥獣に供養したいと遺言したので、家人は遺体を裏の林に捨て、遺骸は鳥獣の食い荒らすところとなる。しかし、不思議にも頭部だけは全く汚されていなかったと』伝わる。天応元(七八一)年生とすれば享年八十六歳で後に示す奇瑞を受けた勝如(証如)と同い年である。
ここで、実際に「今昔物語集巻第十五」の二十六話を見よう(底本は池上洵一編岩波文庫版を用いたが、恣意的に正字化し、読みを歴史的仮名遣に変更、更に一部の読みについては送り仮名に出してルビを省略、一部に句読点を追加、直接話法部分を改行し、一部記号を変更した)。後に底本脚注を参考に簡単な注を附した。
幡磨(はりま)の國の賀古の驛(うまや)の教信、往生せる語(こと)第二十六
今昔、攝津國の島の下の郡に勝尾寺(かちおでら)と云ふ寺有り。其の寺に勝如(しようによ)聖人と云ふ僧、住しけり。道心深くして、別に草の菴を造りて、其の中に籠り居て、十餘年の間、六道の衆生の爲に無言(むごん)して懃(ねんご)ろに行ひけり。弟子童子を見る事そら、尚(なほ)し希れ也。况んや、他人を見る事は無し。
而る間、夜半に人來て、柴の戸を叩く。勝如、此を聞くと云へども、無言なるに依りて問ふ事不能(あたは)ずして、咳(しはぶき)の音(こゑ)を以つて叩く人に令知(しらしむ)るに、叩く人の云く、
「我れは此の幡磨の國、賀古の郡の、賀古の驛(うまや)の北の邊(ほと)りに住みつる沙弥教信也。年來、彌陀の念佛を唱へて、極樂に往生せむと願ひつる間、今日、既に、極樂往生す。聖人、亦、某年某月某日、極樂の迎へを可得給(えたまふべ)し。然れば、此の事を告げ申さむが爲に來れる也。」
と云ひて、去りぬ。
勝如、此れを聞きて驚き怪しむで、明くる朝に、忽ちに無言を止めて、弟子勝鑒(しやうかん)と云ふ僧を呼びて語らひて云く、
「我れ、今夜、然々(しかじか)告(つげ)有り。汝ぢ、速かに、彼の幡磨の國、賀古の郡、賀古の驛の邊りに行きて、『教信と云ふ僧有や』と尋ねて可返來(かへりきたるべ
し。」
勝鑒、師の教へに随ひて、彼の國に行きて、其の所を尋ね見るに、彼の驛の北の方に小さき奄(いほり)有り。其の奄の前に一の死人有り。狗(いぬ)・烏、集りて、其の身を競ひ噉(くら)ふ。奄の内に、一人の嫗(をうな)・一人の童有り、共に泣き悲む事無限(がりりな)し。
勝鑒、此れを見て、奄の口に立ち寄りて、
「此(こ)は何(いか)なる人の、何なる事有りて泣くぞ。」
と問ふに、嫗、答へて云く、
「彼の死人は此れ、我が年來の夫也、名をば沙彌教信と云ふ。一生の間、彌陀の念佛を唱へて、晝夜寤寐(ごび)に怠る事無かりつ。然れば、隣り里の人、皆、教信を名付けて阿彌陀丸(あみだまろ)と呼びつ。而るに、今夜、既に死にぬ。嫗、年老いて年來の夫に、今、別れて、泣き悲む也。亦、此の侍る童は教信が子也。」
と。
勝鑒、此れを聞きて、返り至りて、勝如聖人に此の事を委しく語る。勝如聖人、此れを聞きて、涙を流して悲び貴(たふと)むで、忽ちに教信が所に行きて、泣々(なくなく)念佛を唱へてぞ本の奄に返りにける。
其の後、勝如、弥(いよい)よ心を至(いた)して、日夜に念佛を唱へて怠る事無し。而る間、彼の教信が告げし年の月日に至りて、遂に終はり貴(たふと)くして失せにけり。此れを聞く人、皆、
「必ず極樂に往生せる人也。」
と知りて貴びけり。彼の教信、妻子を具したりと云へども、年來(としごろ)、念佛を唱へて往生する也。
然れば、往生は偏へに念佛の力也となむ語り傳へたるとや。
●「幡磨」播磨の通用字。
●「勝尾寺」大阪府箕面市にある高野山真言宗寺院。寺名は「かつおうじ」「かちおじ」などとも読まれる。光仁天皇の皇子(桓武天皇の異母兄)である開成が宝亀八(七七七)年に創建した弥勒寺が前身(以上はウィキの「勝尾寺」に拠った)。
●「勝如」(天応元(七八一)年~貞観九(八六七)年)は摂津豊島郡(現在の大阪府)弥勒寺の証道に師事して顕密二教を学ぶ。摂津豊島郡生で俗姓は時原。法名は証如とも書く。享年八七歳。
●「無言して懃ろに行ひけり」自ら会話を禁じる厳しい無言の行を修していた。
●「見る事そら」「そら」は副助詞で「すら」と同義。
●「夜半に人來て」底本注に、『往生伝、縁起集等は、貞観八年(八六六)八月十五日のこととする』とある。
●「咳」咳払い。
●「賀古の驛」現在の兵庫県加古川市野口町附近にあった山陽道の宿駅。
●「沙彌」仏門に入って髪をそって十戒を受けた初心の修行未熟な男子僧。僧伽(そうが:出家教団。)に入るための具足戒を受けておらず、未だ正式な僧ではない段階の呼称である。
●「教信」底本で池上氏は詳細注を附しておられ、本話が創造された伝承であり、『妻帯沙弥の念仏信仰が大僧の修行を凌駕したことを語ったものであり、親鸞が「我はこれ賀古の教信の定なり」(改邪鈔)と讃仰したのも、それ故である』と記されておられる。
●「某年某月某日」実際には具体的な年月日を予言したものの意識的伏字。勝如の入滅は貞観九年八月十五日で、即ち、一年後の今月今夜という謂いになる。
●「彼の驛の北の方に小さき奄有り」加古川市野口町には、ズバリ、教信寺という時宗の寺が現存する。公式HPによれば、この寺はまさしくこの教信所縁の寺である。
●「其の奄の前に一の死人有り。狗・烏、集りて、其の身を競ひ噉ふ」死体を遺棄しているのではなく、風葬であることを言う。
●「寤寐」目覚めていることと眠っていること。寝ても醒めても、の謂い。
●「悲しび」心打たれて。
北摂みのお氏の記載をもう少し引用させて戴くと、『このようにして、沙弥教信は口誦念仏、称名念仏の創始者となる。すなわち、従来でも、無量寿経や阿弥陀経などの浄土教典が読まれ、阿弥陀如来への信仰も、それなりにあったが、「南無阿弥陀仏」の六字名号を常に口誦すると云うのは彼が初めてであった』。
なお、以上の「今昔物語集」が元としたと考えられる、最も古い「日本往生極楽記」に載る「攝津國島下郡勝尾寺の住僧勝如」も、私の所持する原典岩波書店一九七四刊「続・日本仏教の思想――1 往生伝 法華験記」所収版で示す(恣意的に正字化した)。後に底本脚注を参考に簡単な注を附した。
攝津國島下(しまのしもの)郡勝尾(かちを)寺の住僧勝如(しようによ)は、別に草庵を起(つく)りて、その中に蟄居せり。十餘年の間言語を禁斷す。弟子童子、相見ること稀なり。夜中に人あり、來りて柴の戸を叩きぬ。勝如言語を忌むをもて、問ふことを得ず。ただ咳の聲をもて、人ありと知らしむ。戸外にて陳べて云はく、我はこれ播磨國賀古(かこの)郡賀古驛(のむまや)の北の邊(ほとり)に居住せる沙彌教信(けうしん)なり。今日極樂に往生せむと欲す。上人年月ありて、その迎へを得べし。この由を告げむがために、故(ことさら)にもて來れるなりといふ。言訖りて去りぬ。
勝如驚き怪びて、明旦(みやうたん)弟子の僧勝鑑(しようかん)を遣し、かの處を尋ねしめ眞僞を撿(み)せむと欲せり。勝鑑還り來りて日く、驛の家の北に竹の廬(いほり)あり。廬の前に死人あり。群がれる狗(いぬ)競(きほ)ひ食(じき)せり。廬の内に一の老嫗(おうな)・一の童子あり。相共に哀哭せり。勝鑑便ち悲べる情(こころ)を問ふに、嫗の曰く、死人はこれ我が夫(をふと)沙彌教信なり。一生の間、彌陀の號(な)を稱へて、晝夜休まず、もて己の業となせり。隣里の雇ひ用ゐるの人、呼びて阿彌陀丸(あみだまろ)となす。今嫗老いて後に相別れぬ。これをもて哭(な)くなり。この童子は即ち教信の兒なりといへり。勝如この言を聞きて自ら謂(おも)へらく、我の言語なきは、教信の念佛に如(し)かずとおもへり。故(かるがゆゑ)に聚落に往き詣(いた)りて自他念佛す。期の月に及びて、急(たちま)ちにもて入滅せり。
底本の頭注には「聚落に往き詣りて……」の部分に注して『勝如は教信との邂逅によって悟るところあり、隠居黙語をやめて世俗の聚落に入っていき、化他を専らとすることになった』とある。「化他」は「けた」と読み、他者を教化することを言う。]
« 北條九代記 將軍賴家卿御病惱 付 比企判官討たる 竝 比企四郎一幡公を抱きて火中に入りて死す | トップページ | 羊皮をきた召使 大手拓次 »